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トップダウンの組織が機能的で生産的であるのは、トップが「賢い人」である場合に限られる
2025年3月31日の内田樹さんの論考「日本の現状と危機について」(その2)をご紹介する。
どおぞ。
「組織マネジメント原理主義」という言葉を先ほどから使っているが、見慣れない単語だと思う。私の造語だから、みなさんがご存じなくても当然である。組織が「何を創り出すために存在するのか」には副次的な関心しかなく、その組織が「どのように中枢的に管理されているか」を主たる関心とする考え方のことである。1990年代の半ばから日本社会に浸透してきて、2010年代に支配的なイデオロギーになった。
私が記憶している限り、組織マネジメント原理主義が日本社会に「大きな一歩」を刻んだ決定的な日付は公立校の教職員に君が代の起立斉唱を義務づける全国初の条例案が大阪府議会で成立した2011年である。
この条例は橋下徹知事が率いる「大阪維新の会」が提出した。府内の公立校の学校行事で君が代を斉唱する際、「教職員は起立により斉唱を行うものとする」としたのである。
それまでも、都道府県教委は学校に対し国旗・国歌法や学習指導要領などを根拠に、「君が代」斉唱時の起立斉唱を指示し、起立を拒む教職員は処分してきた。でも、大きな違いがあった。それまでの国歌斉唱の指示が「愛国心の高揚」という政治目的をあきらかに第一義的にめざしてきたのに対して、この条例が「公務員の規律の厳格化」を第一義に掲げたことである。
起立斉唱を拒んだ教員を処分した際の記者会見で、橋本知事はこれが政治的イシューではないという点を強調した。これは言論の自由の問題でも、良心の問題でもない、純粋にビジネスライクな就業規則違反問題である。校長の業務命令に違反したので当該教員を処罰する。政治問題ではなく、組織マネジメントの問題である。そう言明したのである。
私はこの時の記者会見の映像をテレビニュースで見ていたが、この時の「国歌斉唱を拒んだ教員の処罰は組織マネジメントの問題である」という言い分に、記者たちが一人も反論しなかったことに強い衝撃を受けた。「おい、君らは『組織マネジメントの問題だ』と言われたら、誰一人反論できないのかよ」と思ったのである。組織マネジメントなんてどうだっていいじゃないか。それよりは国歌国旗に対してどういう態度をとるべきかについて市民ひとりひとりが熟慮する機会を保証することの方が国民国家にとってははるかに重要じゃないか、と。
国民国家というのは一つの政治的擬制である。17世紀にウェストファリア条約とともに誕生した比較的新しい政治単位である。「国境」線で画定された「国土」の中に人種、言語、宗教、生活文化において同質性の高い「国民」(nation)が集住して、国家(state)を形成するというモデルである。それ以前の基本的政治単位は多人種、多言語、多宗教が混在する「帝国モデル」であった。帝国が解体することになったのは、宗教戦争があまりに大きな災禍をもたらしたので、「同一宗教の人たちだけで集まって国を作り、隣国の人が何を信じていようと気にしないことにしよう」ということになったからである。窮余の一策である。でも、それが世界標準になったのは、フランス革命以後である。
この時のフランス軍は義勇兵たちで構成されていた。彼らはフランス革命の大義を全ヨーロッパに宣布するために進んで銃を執った。それまでの戦争は多くは王侯貴族が領土や王位継承をめぐって傭兵を使って行うものだった。プロの兵士たちが戦っている横で、農民は土地を耕し、商人は商売をしていた。戦争は戦争、生活は生活と切り分けられていた。でも、フランス革命軍は違った。彼らは傭兵ではなく、ふつうの市民だった。彼らの戦いを経済人たちも、メディアも、教師も、芸術家も、銃後の家族たちも全力で応援した。「総力戦」というものがこの時初めて歴史に登場したのである。だから、フランス軍はとてつもなく強かった。前線で負傷して片足切断の手術を受けたフランス軍の将校がそのまま騎乗して前線に駆け戻ったという逸話があるけれど、こういう気の狂ったような戦い方を傭兵はしない。ふつう戦闘では損耗率が30%に達すると組織的戦闘がもうできなくなるので、白旗を掲げて降伏するというのが古来の決まりであったけれども、ナポレオン軍は違った。近衛兵にニコラ・ショーヴァンという兵士がいた。敵兵に囲まれて衆寡敵せず白旗を掲げようということになったときに、「ナポレオン軍の兵士に降伏という選択肢はない」と言って、単騎敵陣に突っ込み、全軍が後に続いた(と言われているが、おそらく後世の作り話だろう)。でも、これが「狂信的愛国主義(ショーヴィニズムchauvinism)」という政治概念の語源になった。それまではそんな「変なこと」をする兵士はいなかったのである。
ウェストファリア条約の時に「戦争を終わらせる」ために発明された国民国家は、ナポレオン戦争の時に「戦争に勝つ」装置として異常な性能の高さを発揮した。「国民国家は戦争に強い。」それはナポレオンに蹂躙された全ヨーロッパの実感であった。こうして19世紀に全ヨーロッパは国民国家に再編された。国民国家でなければ総力戦が戦えないということがよくわかったからである。ドイツもイタリアも日本もほぼ同時期に、それまでいくつもの王国や藩に分断されていた地域が一つの国民国家になったけれど、要するに「国民国家にならなければ、他国に侵略される」と人々が信じるようになったからそうなったのである。水戸学の人たちが幕末に書いたもの(例えば会沢正志斎の『新論』)からはその焦燥と不安がありありと伝わってくる。
国民国家というのはそういう歴史的条件の下で形成された政治単位である。だから、歴史的条件が変わればまた変質する。場合によってはなくなるかも知れない。その地殻変動的遷移にきちんとモニターしていなければ、国力は衰微するし、悪くすると滅びる。
だから、「国民国家とは何か。それに市民たちはどう向き合うべきなのか。市民は国民国家に何を求め、何を提供すべきなのか」について熟慮することは国民国家全員の義務であり、権利なのである。「いいから黙って国旗に礼をして、国歌を斉唱しろ。これは単なる業務命令だ」というのは、国民に向かって「国民国家とは何か」を問うことを止めろということである。市民的成熟をするなと命じることである。そんなことを受け入れられるはずがない。国民の権利と義務を業務命令とそれに対する諾否の問題に矮小化することを、私は一人の「愛国者」として決して許すことができない。
でも、その頃、私のように考える人は日本社会にはほとんどいなかった(今もたぶんほとんどいない)。私はその時に「いずれ組織マネジメント原理主義が日本を滅ぼすだろう」と思った。そして、その予想通りに事態は進行している。
いいから黙って上の言うことを聞け。命令の適否について判断する権利は下僚にはない。現場で何が起きても自己判断で何かしてはならない。必ず上位者に報告して、その指示を仰げ(それまではフリーズしていろ)。これがある時期からすべての業界でのルールになった。そうすれば組織はきわめて効率的に機能するはずだと「組織マネジメント原理主義者」は信じているが、こんな「信仰」には実は何の現実的根拠もない。
トップが指示を出しても、途中で「こんな理不尽な指示には従えません」とか「こんなくだらない命令出したバカは誰だ」というような「抵抗」に遭遇すると、トップの意向はなかなか物質化しない。そういうことがあると面倒なので、小うるさいことを言う部下を全部排除して、イエスマンだけで組織を固めれば、トップの指示はただちに現場で物質化するだろう。そうすれば最高に効率的な組織ができるはずだった。
でも、そうならなかった。当たり前である。トップダウンの組織が機能的で生産的であるのは、トップが「賢い人」である場合に限られるからである。
しかし、ご案内の通り、トップダウン組織の運営ルールに「この組織内で最も賢い人をトップに据える」という項目は存在しない。「賢い人」をトップに導くためのプロモーションシステムがトップダウン組織にはビルトインされていないのである。
最初にトップダウン組織を創り上げた人物はそれなりの手腕があっただろうと思う。かなりの力量がなければ、そんな無理な組織作りはできない。けれども、その人が去った後にトップに座るのはたいていが創業者のかたわらにいて「おべんちゃら」技術に長けたイエスマンである。彼らは「トップの命令にはその適否にかかわらずなんでも従う」ことでその地位を得た「組織マネジメント原理主義者」である。
そういう人たちが何代か続いて組織の頂点にいると、「この組織はそもそも何のためにあるのか」という根本のことを誰も問わなくなる。そして、「組織がどうマネージされているか」ばかりが優先的に問われる創造性も生産性も何もない組織が出来上がる。日本のGDPが急坂を転げ落ちるように低下するのも当たり前である。
愚痴を言っても始まらないが、こういう歴史的遷移は50年くらいにわたって日本人の組織作りを観察していないとわからない。「どうしてバカばかり選択的に出世する仕組みができたのか」の答えは経営書には書かれていない。実際に自分の属する組織がそういうものに改変されられた経験を持つ人間(あるいは私のように自分が実際にそういうトップダウン組織を作ろうとして、あとから激しく後悔した人間)にしかわからない。
でも、どこかでこのような趨勢も「底を打つ」だろうと私は思っている。いくら何でも「ばかばかしいこと」をひたすら続けられるほど人間は愚かではない。どこかで補正の動きが行われる。