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EU諸国はだいぶ前から「アメリカ抜きのヨーロッパ」のあり方について思考実験を始めている。何もしていないのは日本だけである。「日米同盟基軸」と呪文のように唱えて、日米安保以外の安全保障構想について何一つ考えないままに80年間を便々と過ごしてきた後に、トランプから「日米安保条約解消するぞ」という脅しを受けて驚嘆している。
2025年3月31日の内田樹さんの論考「日本の現状と危機について」(その3)をご紹介する。
どおぞ。
冒頭に記したように、歴史はダッチロールするけれども、決して無目的に進んでいるわけではないし、ひたすら地獄に向かって転落しているわけでもない。それなりに「よい方向」に向かってはいるのだが、その歩みがひどく遅いというだけである。「三歩進んで、二歩半下がる」くらいのペースである。それでも、人類は少しずつ「まとも」になっていると私は思う。
そう言うと「そんなことはない。人類はどんどん劣化している」と虚無的なことを言う人がいるが、そうでもない。今、奴隷制や人種差別や拷問を合法としている国連加盟国はない。もちろん、実際にはそれに類することがアンダーグラウンドでは行われているのだが、政府が公然と行うことはなくなった。
アメリカ軍はキューバのグァンタナモ基地でイラク戦争の捕虜に残虐な拷問を行っていたが、これはグァンタナモ基地が米国の法律もキューバの法律も及ばない法律的な真空地帯だからできたことである。一応拷問する側にも「これは法律違反だ」という疚しさ(のようなもの)はあるのだ。ウクライナやガザでは非道な国際法違反が行われているけれど、違反の当事者たちは「国際法違反をしているのは私たちではなく敵の方だ」と強弁している。「国際法を犯すことはよくないことだ」という建前だけはしぶしぶであれ認めているのである。その辺りが100年前とはだいぶ違う。「半歩くらいは前進している」と私が言うのはそのことである。
今トランプのアメリカでは「政治的正しさ」に対するすさまじいバックラッシュが始まっている。でも、民主主義や政治的寛容や多様性・公正性への配慮や少数者の社会的包摂に対して、これほど激しい、常軌を逸したまでの攻撃がなされるのは、近代市民社会が少しずつ育ててきたこれらの価値が、大統領が議会に諮らずに大統領令を乱発しなければ否定できないところまでアメリカ社会の中に根づいたということを意味しているというふうに(楽観的に)解釈することもできる。そういう民主的な価値観がそれなりに根づいているからこそ、MAGAの帽子をかぶっている人たちはあれほどむきになるのである。
ある若い友人は「今の日本は1930年代の日本とほとんど変わらない」と慨嘆するけれども、私はだいぶ違うと思う。1930年代の日本には治安維持法があり、特高や憲兵隊があり、何より政府の上に統帥権に護られた軍隊という実力装置があった。その時代に生きていたら、私はたぶんだいぶ前に執筆の場を失っており、場合によっては反政府的な言動を咎められて逮捕投獄されていただろう。それに比べると、今ははるかに「よい時代」である。私が政府をどれほど批判しても、あるいは反社会的カルト集団について厳しい言葉を連ねても、家までやってきて私に向かって「発言をやめろ」と実力行使をする人は(今のところ)いない。私は名前も住所もメールアドレスも公開しているから、本気で私に暴力をふるって黙らせようと思ったら、(私に物理的に激しく抵抗されるリスクを除くと)それほど難しいことはない。だが、さいわいにも今のところ誰も来ない。SNSで私の発言が「炎上」しているということは時々知り合いが知らせてくれるが、私は自分について書かれたものを読まないので、どんな罵詈雑言を浴びせられても、何の実害もない。総合的に考えると「言論の自由」は戦前よりはるかに確実に保護されていると私は感じる。
それだけ豊かに「言論の自由」を享受していながら、言論が戦前より萎縮しているということがあるとしたら、それは体制の問題ではなく、人間の資質の問題である。勇気がないとか、矜持がないとかいうのは、制度ではなく、生き方の問題である。
では、どうすればいいのか。「制度は変えられるが、人間は変えられない」という考え方もあるし、「制度を変えるのは手間がかかるが人間は(時には)わずか一言で変わることもある」という考え方もある。どちらも一理ある。変えられるものなら制度を変えればいいし、人間は変わるということに希望を託してもいい。別に二者択一ではない。両方試みればいい。私は言論人なので、「情理を尽くした言葉を以てすれば人を変えることができる」ということを愚直に信じている。それを信じるのを止めたら、私は筆を折るしかない。だから、さらに駄弁を弄する。
この原稿が載るのは4月25日発行の号だそうである。その頃、世界と日本がどうなっているか私には予測が立たない。まだ第三次世界大戦が始まっていないこと、まだ南海トラフ地震が日本列島を襲っていないことを願うばかりである。
最も劇的に変化しているのはアメリカだろう。ドナルド・トランプとイーロン・マスクによる連邦政府の再編(というより破壊)はどこまで進んでいるか。どこかで司法のブレーキがかかっているか。あるいは共和党内部から「支持者たちが急激に離反している。これでは中間選挙で惨敗する」という泣訴がホワイトハウスに届いて、トランプの暴走が止っているかも知れない。トランプのすることは誰にも予測できない。
それにアメリカ外交は伝統的に「戦略的曖昧さ」をカードに使って来た。トランプは「カード」という比喩が好きなので、「次にどんなカードを切って来るか、予測が立たない」と他国の指導者に思わせることでゲームを支配しようとしている。トランプはこのスタイルを手放すことはないだろう。
「戦略的曖昧さ」をニクソン大統領の時はもっとひどい言い方で「マッドマン・セオリー」と言った。「大統領の気が狂って核ミサイルの発射ボタンを押すかもしれないと思うと、仮想敵国は行動が抑制的になるので、大統領は狂ったふりをする方が外交的優位に立てる」というとんでもないアイディアである。でも、「ニクソンは心理的危機にある」という風説が流布されている間に、ニクソンはドル金本位制を廃止し、中国との和解を実現し、ソ連との核戦争を回避した。マッドマンはそこそこ「いい仕事」をしたのである。トランプがこの「成功事例」を真似してはいけない理由はない。
起こり得るうち最も衝撃が大きいのは、アメリカのNATOからの脱盟(もっと衝撃が大きいのは「国連脱退」だが、たぶんこれはないと思う)、私たち日本人にとって最も衝撃的なカードは日米安保条約の解消である。
NATO諸国はすでに24年選挙での「トランプ優勢」が伝えられて以後「アメリカ抜きのヨーロッパ安全保障構想」について真剣に考え始めていた。マクロン仏大統領はアメリカに代わって仏の「核の傘」でヨーロッパを守るという構想を示した。中東和平のためにはトルコがアメリカに代わってキープレイヤーとしてプレゼンスを増すことになるだろう。NATOのもう一つの脱アメリカ戦略は中国との「中立」盟約だと私は思う。EU諸国が一番恐れているのはロシアの軍事力である。ウクライナ戦争の趨勢によってはポーランドとフィンランドがロシアの直接的な脅威にさらされる。ロシアもいきなり軍事侵攻することはないと思うが、「いつでもその気になれば軍事侵攻する」という恫喝は止めない。そんなロシアに抑制的にふるまうように要請する仕事ができるのはロシアの最大の支援国である中国だけだ。習近平もアメリカとは非妥協的に対立しているが、NATOとことを構える気はない。アメリカが市場の扉を閉じた場合に、EUは中国製品にとって最重要の市場になる。「一帯一路」構想にEUが全面的にコミットすると提案すれば中国は歓迎するだろう。中国がロシアの「止め役」を引き受けてくれるなら、NATOは対ロシアの安全保障経費をかなり削ることができる。フランスは伝統的に中国と宥和的なので、マクロンが習近平に談判に行くという展開もあるような気がする。英国が「ブレグジット」の失敗を糊塗するために「対ロ安全保障」を口実にEUに復帰するという可能性だってある。
というふうに、EU諸国はだいぶ前から「アメリカ抜きのヨーロッパ」のあり方について思考実験を始めている。何もしていないのは日本だけである。「日米同盟基軸」と呪文のように唱えて、日米安保以外の安全保障構想について何一つ考えないままに80年間を便々と過ごしてきた後に、トランプから「日米安保条約解消するぞ」という脅しを受けて驚嘆している。
もう何度も書いたことだが、以前ある高名な政治学者と対談した時に、「日米安保以外に日本にはどんな安全保障の仕組みがあり得るでしょうか」と質問したことがあった。素人の好奇心から、どんなシナリオがあり得るか専門家の知見を求めたのである。でも、この学者は絶句してしまった。その時に、日本の政治学者たちは「日米安保以外の日本の安全保障体制」を話題にする習慣がないらしいということを知った。今も事情は変わらないだろう。政治家も官僚も政治学者も誰も「日米安保以外の安全保障構想」について考えたことがないのだ。
だから、日本政府はトランプから何を要求されても、それこそ「在日米軍基地を米国領にする」と言われても受け入れるだろう(トランプがそれを思いつかないことを願うばかりである)。
だから、日本については残念だが、あまり希望の余地はない。できることがあるとすれば、まず政権交代して、第二次安倍政権以来のたまった「膿」を出すこと(「政治改革」などという悠長なことではなく、公人として不適切な政治家を国事にかからわせない)。中枢的な管理や統制が日本の生産性を低下させているという事実を認めること。教育と医療と農業への優先的に予算配分すること。この三つがとりあえず最も緊急性の高い政策課題だろう。
どうすれば実現できるのか、道筋は見えない。私たち一人一人は今自分にできることから始めるしかない。私は自分の道場共同体を「コモン」として機能させることを余生の課題にしている。私が主宰する共同体は今のところはせいぜい200人くらいしか収容できない。でも、ここに帰属していれば、何があっても相互支援のネットワークによって守られる。その保証ができる範囲は私の力ではそれくらいである。それを少しずつ広げてゆきたいと思っている。
「コモンの再生」は日本列島各地で、同時多発的に、サイズの異なるさまざまな相互扶助共同体の形成運動として進められている。この何百何千の「コモン」はこれからゆるやかなつながりを持つようになる。それは従来型の中央集権型の「ハブ&スポーク」ネットワークではなく、一つのコモンがいくつものコモンに繋がって、地下茎のように広がるという分散型ネットワークになるだろう。それが日本再生の手がかりになるということは想像がつく。でも、私が生きているうちにその成果を見る機会はないと思う。
(2025年3月17日)