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内田樹さんの「『日本型コミューン主義の擁護と顕彰 権藤成卿の人と思想』はじめに」(前編) ☆ あさもりのりひこ No.1686

幕末から近代に至るまで、すべての革命的な思想は、中間的な権力構造の媒介物を経ずに、国民の意思と国家意思が直結する「一君万民」の政体を夢見てきた。

 

 

2025年4月15日の内田樹さんの論考「『日本型コミューン主義の擁護と顕彰 権藤成卿の人と思想』はじめに」(前編)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

『月刊日本』から、権藤成卿の『君民共治論』が復刻されることになったので、その「解説」を書いて欲しいという不思議なオファーを受けた。「不思議」だと思った理由は二つあって、「どうして今ごろになって権藤成卿を復刻するのか?」ということと、「どうして私にそんな仕事を頼むのか?」ということであった。

 後の方の理由は何となくわかった。おそらく担当編集者の杉原悠人君が何度か私の書斎を訪れているうちに、書架に権藤成卿や頭山満や内田良平や北一輝や大川周明の本や研究書が並んでいるのを見て、日本の右翼思想に興味がある人だと思ったのだろう。この推理は正しい。

 私はこれまで日本の右翼思想についてまとまったものを書いたことがない。だから、ふつうの人は私の興味がそこにあることを知らない。でも、書斎を訪れた人は本の背表紙を見て、私の興味の布置を窺い知ることができる。明治の思想家たちについての書物は私の書架の一番近く、手がすぐに届くところに配架されている(私の専門であるはずのフランス文学や哲学の方がずっと奥に追いやられている)。

 その配架はたぶんに無意識的なものだと思う。どうして、そんな本を私は手元に置いておきたがるのか。それは、おそらくこの思想家・活動家たちのことを決して忘れてはならないと久しく自分に言い聞かせてきたからだと思う。彼らのことを決して忘れてはならない。彼らのことを忘れたときに、私は必ずや「日本的情況に足をすくわれる」だろう。そのことについては深い確信があった。

 権藤成卿の思想の今日的な意義にたどりつくために、いささか長い迂回になるけれども、まず少しその話をしたい。

 

 私は全共闘運動の世代に属する。十代の終わりごろのことだから、その時代に取り憑いていた熱狂をよく覚えている。そして、その時にすでにその政治運動がある古い政治思想の何度かの甦り、ある種の「先祖返り」であることに気づいていた。

 1968年の米空母エンタープライズ号の佐世保寄港の時、私たちははじめて三派系全学連という人々の組織的な闘争の画像を見ることができた。寄港阻止闘争に結集した学生たちは、党派名を大書したヘルメットをかぶり、ゲバ棒と称された六尺ほどの棒を手に、赤や黒の巨大な自治会旗を掲げていた。そして、世界最大の米空母に向かって、ほとんど徒手空拳で「打ち払い」を果たそうとしていた。

 私はその映像をテレビのニュースで見たときに胸を衝かれた。その時の震えるような感動を私はまだ覚えている。ヘルメットは「兜」で、ゲバ棒は「槍」で、自治会旗は「旗指物」に見立てられていたからだ。学生たちがそのようなビジュアルを選択したのはむろん無意識的なことである。だが、それは「黒船来航」の報を聴いて浦賀に駆けつけた侍たちの姿を連想させずにはおかなかった。

 マルクスは『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』にこう書いている。

 

「人間は自分自身の歴史をつくるが、自分が選んだ状況下で思うように歴史をつくるのではなく、手近にある、与えられ、過去から伝えられた状況下でそうするのである。死滅したすべての世代の伝統が、生きている者たちの脳髄に夢魔のようにのしかかっているのである。そして、生きている者たちは、ちょうど自分自身と事態を変革し、いまだなかったものを創り出すことに専念しているように見える時に、まさにそのような革命的危機の時期に、不安げに過去の亡霊たちを呼び出して助けを求め、その名前や闘いのスローガンや衣装を借用し、そうした由緒ある扮装、そうした借りものの言葉で新しい世界史の場面を演じるのである。」(カール・マルクス、『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』、横張誠訳、筑摩書房、2005年、4頁)

 

 この文章をマルクス主義者を自認していたはずの三派系全学連の活動家たちはおそらく何度も目にしていたはずである。繰り返し読み、読書会では片言隻語の語義をめぐってはげしい議論を交わしてきたはずなのに、彼らはいま自分たちがまさに「過去の亡霊たちを呼び出して助けを求め、その名前や闘いのスローガンや衣装を借用」しつつ「新しい世界史の場面」を演じていることにはまったく無自覚だったのである。彼らはまさか自分たちが「吉田松陰の115年後のアヴァター」を演じていたとは思いもよらなかったであろう。だが、まさに「過去の亡霊を呼び出して助けを求め」たからこそ、彼らの運動はそれから三年間にわたって、日本列島を混乱のうちに叩き込むだけの政治的実力を発揮し得たのだと私は思っている。

 

 その翌年、三島由紀夫は東大全共闘に招かれて、駒場の900番教室に姿を現し、1000人の学生を前にして、全共闘運動と彼の個人的な政治的テロリズムの「親和性」について熱弁をふるった。三島はこう言ったのである。

 

「これはまじめに言うんだけれども、たとえば安田講堂で全学連の諸君がたてこもった時に、天皇という言葉を一言彼等が言えば、私は喜んで一緒にとじこもったであろうし、喜んで一緒にやったと思う。(笑)これは私はふざけて言っているんじゃない。常々言っていることである。なぜなら、終戦前の昭和初年における天皇親政というものと、現在いわれている直接民主主義というものにはほとんど政治概念上の区別がないのです。これは非常に空疎な政治概念だが、その中には一つの共通要素がある。その共通要素とは何かというと、国民の意思が中間的な権力構造の媒介物を経ないで国家意思と直結するということを夢見ている。この夢みていることは一度もかなえられなかったから、戦前のクーデターはみな失敗した。しかしながら、これには天皇という二字が戦前はついていた。それがいまはつかないのは、つけてもしようがないと諸君は思っているだけで、これがついて、日本の底辺の民衆にどういう影響を与えるかということを一度でも考えたことがあるか。これは、本当に諸君が心の底から考えれば、くっついてこなければならぬと私は信じている。」(三島由紀夫・東大全学共闘会議駒場共闘焚祭委員会、『討論 三島由紀夫vs.東大全共闘』、新潮社、1969年、64-5頁、強調は内田)

 

 

 ここで三島は日本の近代政治史において革命の契機となるべき「キーワード」が何であるかを実に正確に言い当てている。それは「国民の意思が中間的な権力構造の媒介物を経ないで国家意思と直結する」という夢である。幕末から近代に至るまで、すべての革命的な思想は、中間的な権力構造の媒介物を経ずに、国民の意思と国家意思が直結する「一君万民」の政体を夢見てきた。これに例外はない。