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内田樹さんの「月刊日本インタビュー「権藤成卿論を書いて」(その3)」 ☆ あさもりのりひこ No.1701

権藤成卿の思想にはいくつもの破綻がありますが、それにもかかわらず強い喚起力を持っています。それはこれが日本固有の土着思想に根ざし、日本の思想的土壌から生まれたものだからです。

 

 

2025年5月13日の内田樹さんの論考「月刊日本インタビュー「権藤成卿論を書いて」(その3)」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

――コミューンは世界中にありますけれども、日本型コミューンはどのようなモデルなのでしょうか。

 

内田 「家父長制」です。E・トッドは、「家族関係が政治的関係のモデルとして機能し、個人の権威に対する関係を規定する」「このメカニズムは自動的に働き、倫理以前のところで機能するのである」と述べています。家族=国家モデルのメカニズムは「倫理以前のところで機能する」ので、意識的にこれを書き換えることはできない。

 日本の場合は「直系家族」(長兄が家督を相続し、他の子どもたちは資源分配から排除される)で、そのメカニズムから家父長制が成立します。戦後日本において家父長制は「廃絶すべき陋習」と見なされてきました。でも、どれだけ家父長制を理論的に批判しても、国家モデルを書き換えることはできません。それに代わる国家モデルを日本人は一度も構想したことがないからです。

 家父長制が諸悪の根源という理説を語る人がいますけれども、そもそも「この世界にはすべてをマニピュレイトする強大な〈父〉がいて、われわれの運命はその干渉によって左右される」という発想そのもののうちに家父長制的思考は深く浸み込んでいる。〈父〉に抗うのか、〈父〉に屈するのか、という二者択一で考えるという発想そのものが家父長制を再生産しているのです。真に「脱ー家父長制」的な思考があるとすれば、それは家族の誰ひとりとして他の家族に対して家族の「あるべきかたち」を指示したり、他の家族成員の生き方についてその適否を決定したりすることのない家族でしょうけれども、そのような家族がどのようなものか僕たちは解像度の高いイメージを持つことができません。そんなの当然であって、僕たちはそんな家族のことを文学でも映画でもマンガでもテレビドラマでも、一度も見たことがないからです。そのようなものがないことを欠如として感じたことさえない。僕たちが知っているのは世の中にはさまざまな家父長がいるけれども、どの家父長も「家族成員ひとりひとりについて、その〈欲望のありか〉を熟知しているということは絶対にない」ということだけです。でも、「自分は家族の〈欲望のありか〉を知らない」ということを知っている家父長と、そのことを知らない家父長の間の「程度の差」は歴然として存在する。

 自分の無知無力を自覚し、自分の主務を「家族の扶養と保護、その市民的成熟の支援」に限定し、それ以上深く家族の内面に踏み込まない節度を持つ家父長は「わりとましな家父長」です。逆に、自分を家族に対する権力者とみなし、家族を支配し、管理し、その能力を査定し、その生き方にうるさく干渉し、期待に沿わない家族には処罰を与えるのは「ろくでもない家父長」です。同じ家父長でも、この程度の差は家族にとってかなり決定的なものです。

 日本の集団はいずれにせよ家父長制モデルにならざるを得ない。そうである以上日本型コミューンもどこかで家父長制と折り合いをつけなければならない。

 それは家父長の第一の役割を「長兄」として独占的に相続した資源を原資にして、他の家族を庇護することであると定めることです。「長兄」は他の家族について扶養義務を負っている。長兄の仕事は家族を格付けして、資源を傾斜配分することではありません。仮に一族内にまったく生産性のない「フリーライダー」がいても、当然それについても等しく扶養義務を負う。メンバー全員を「みんなまとめて面倒みよう」というのが家父長のマインドセットです。

 それゆえ、家父長制の基本構造はそのまま「師弟関係」にも転写されます。師は弟子に自分が先人から受け継いだ知識や技術を「贈与」する。代価を求めないし、弟子についてその相対的な優劣を論じることもない。学ぶものすべてに等しくリソースを分け与える。

 家父長の本分はあくまでも「贈与」です。もし家父長の本旨を、弟妹に対して屈辱感を与える権利であったり、彼らの自由を制限する権利であったり、彼らから収奪する権利であると考える人がいたら、それは直系家族の家父長ではありません。別のもっと卑しい何かです。

 だから、家父長は強い必要はありません。小津安二郎の映画『小早川家の秋』には、放蕩三昧の父親が亡くなった後、家族で経営していた造り酒屋がたちまち立ちいかなくなり、残された家族が「頼りないお父ちゃんやと思ていたけど、やっぱりお父ちゃんが小早川家を支えてくれていたんや」とつぶやく場面があります。小津は家父長の一つの理想をそこに見ていたように思います。

 家父長は弱くてもいい。親切でさえあればいい。西郷隆盛は日本型コミューン主義者の原型ですけれど、西郷の本質は「弟妹」を守るために持てる自分の命を含めてすべてを惜しみなく捧げた点にあります。家父長は他のメンバーよりも多くの倫理的責任を負っている。頭山満や権藤成卿にとって自己造形のモデルは西郷でした。頼って来る者たちを差別することなく歓待する「親切な家父長」である役割を彼らは自らに課しましたが、それは西郷がそうしていたから、それを真似たのです。そのことの政治的な深い意味については、残念ながら彼らも十分に吟味した形跡はありません。

 自由と平等は相容れない。それを折り合わせるためにフランス革命の指導者たちは「友愛」という第三の統治原理を書き加えました。でも、友愛がどうして必要なのかについてのつきつめた考察を民主政下の人々はしてこなかったと思います。たぶん自由と平等は必須だけれども、友愛は「おまけ」みたいなものだと軽んじてきたのでしょう。でも、違います。友愛なしには自由と平等の葛藤は維持できないのです。

「君民共治」の日本型コミューンにおいても課題は同じです。権力装置としての家父長制は不可避的に権力化する。これは避けられない。その「毒」を希釈するためには「友愛」という政治的価値が絶対に必要です。「君民共治」の安定的なモデルというものは存立しせん。そこに「家父長の家族へ向ける無制限な友愛」という感情的な資源が絶えず備給されなければ日本型コミューンは存立できない。「親切な家父長制」という言葉に僕が託しているのはそういう意味です。

 

――E・トッドは、日本は直系家族モデルで国際関係を見ているため、戦前はアジアの「長兄」として振る舞い、戦後はアメリカの「弟」として振る舞っているのではないかと指摘しています。

 

内田 家族=国家モデルは無意識的にそれぞれの国民国家の対外政策にも影響を与えています。先ほど述べたように、戦前の日本とアジアの関係は「連帯」から「支配」へシームレスに移行してしまいました。これはシステムの問題というよりも友愛という感情資源の重要性をアジア主義者たちが十分に理解していなかったことの帰結だと僕は考えています。

 家父長システムそのものは放置しておけば、必ず家父長の権力化をもたらす。「節度のある家父長」であるよりも「ろくでもない家父長」であることの方がはるかに容易だからです。人は容易に流れる。その自然な傾斜を止めて、「まともな家父長」たらしめるためには、友愛や有責性といった家父長サイドの「義務の過剰」がどうしても必要なのです。でも、「家父長は親切な人である政治的義務がある」という命題は必ずしもきちんとアナウンスされてこなかった。西郷隆盛とか頭山満とか内田良平とか宮崎滔天とか権藤成卿とかいう個人の「独特の個性」というレベルでしか理解されてこなかった。でも、友愛と有責性という支えがなければ家父長制モデルはたちまち抑圧的な権力装置になり果てる。

 日中戦争のスローガンは「暴支膺懲」でしたが、これを当時の日本人は「聞き分けのない弟を兄が殴って善導する」という意味で理解していたと思います。たしかに明治20年代まで、日本人は主観的にはアジアに家父長的な親愛の情を持っていましたが、それが「家庭内暴力」に簡単に転化するリスクについて、ほとんど無自覚だった。友愛と有責性の義務についての突き詰めた考察の欠落が日本のアジア侵略を正当化してしまったのだと僕は思います。

 

――「八紘一宇」のスローガンも「君民共治」の理想を世界に拡大したものではないかと思います。これから日本がアジア、特に韓国と連携する場合には同じ失敗を繰り返してはなりません。

 

内田 注目すべきは韓国の家族=国家モデルも日本と同じ「直系家族」だということです。韓国映画『国際市場で会いましょう』は、朝鮮戦争で父親と生き別れる時、幼くして父から「私が死んだら、今日からお前が家長だ」と家族の運命を託された主人公が生涯をかけて家族を守ろうとする物語です。これもよく考えると『小早川家の秋』と同じく「弱い家父長」の物語なんです。年老いた主人公が自分より若い父親の写真を胸に抱きながら「アボジ、もう疲れたよ......」と語りかけるシーンには涙を禁じ得ませんが、そう感じるのはもしかすると日本人と韓国人だけなのかもしれません。欧米の観客はなぜ長兄が自分の人生を犠牲にしてまで弟妹のために尽くすのか、その動機が理解できずに「変な男だ」と思うかも知れません。

 アジアの中でも日本と韓国は同じ「直系家族」です。そうであるなら無意識レベルで家族=国家モデルを共有することができるかも知れない。そこから日韓両国が国家モデルについて「同じ夢」を見ることができるならば、日韓関係は確かなものになり得る。僕が提唱する「日韓同盟」構想は「直系家族」という文化的基盤に基づくものであります。

 ただし、課題もあります。「直系家族」は長兄が家督を相続するので、日韓関係では「どちらが兄なのか」という兄弟喧嘩に発展するリスクが潜在しています。実際、戦後の日本と韓国は「アメリカの長女」の座をめぐって競ってきたところがあります。そこをどう調整して、同等の朋友として同盟関係をむすぶか、そのためには日韓両国民に政治的成熟が必要だと思います。

 

―日本が理想や国家目標を失って漂流している今、権藤成卿が夢見た理想は示唆に富んでいます。

 

 

内田 権藤成卿の思想にはいくつもの破綻がありますが、それにもかかわらず強い喚起力を持っています。それはこれが日本固有の土着思想に根ざし、日本の思想的土壌から生まれたものだからです。土着の思想は簡単には死にません。この本を読んだ若い読者の中から次世代の思想家が生まれ、新しい日本固有の政治思想が錬成されることを僕は願っています。(『月刊日本』4月14日、聞き手・杉原悠人)