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「そういう人と一緒に暮らすと、自分自身が楽になる人」に自分がなればいい。市民的成熟とはそのことである。倫理的に生きるとはそのことである。
2025年6月13日の内田樹さんの論考「教育論と組織論」(その1)をご紹介する。
どおぞ。
ある媒体に長いものを寄稿した。かなり特殊な媒体なので目に届かないだろうから、ここに転載する。
「現代教育や技術者および人材育成の問題点・改善点」についての寄稿を求められた。
長く教壇に立ち、自分の道場で門人を育成してきた立場から「教育」については経験的に言えることがある。大学と道場では「管理者」という立場にあったので、「組織論」についてもいささかの私見はある。ただ、教育論も組織論も私が語ってきたのは「かなり変な話」である。私としては経験に裏づけられた知見のつもりでいるけれども、残念ながらどちらについても今の日本社会には同意してくれる人が少ない。だから、以下の文章を読まれる方は、それが少数意見であって、日本社会の常識には登録されていないものであるということをあらかじめご了承願いたい。
学校教育についてまず申し上げたいのは、学校というのは「子どもたちの市民的成熟を支援するための制度」であって、どのような教育上の試みも、そのつど「これは子どもたちの市民的成熟に資するものか?」という問いによる吟味をまず受けるべきだということである。
「市民的成熟」というのもこなれない語だけれど、私はよく用いる。一言でいえば、「公と私」の間で葛藤する作法を身につけることである。
「葛藤する作法」などとさらにこなれない語を使ってしまったが、意味は何となくわかってもらえると思う。
「公と私」の間にはしばしば対立があり、矛盾があり、利益の相反がある。それも当然である。公共というのは、ホッブズが『リヴァイアサン』で書いたように、「万人の万人に対する戦い」を止めるために、全員が私権の一部、私財の一部を供託して立ち上げる工作物のことである。身銭を切って、自分の割り前を差し出して、はじめて共同体や自治体や政府や国家といった「公共」が成り立つ。それが成員たちの間にいさかいがあった時に理非の裁定を下し、富めるものから供出させた財貨を貧しいものに再分配する。
公的機関は自然物のようにこの世界にもともと自存しているわけではない。「万人の万人に対する戦い」に疲れた市民たちがちょっとずつ手持ちの権利や財貨を供出して「創った」のである。
ほんとうに「万人の万人に対する戦い」というような歴史的事実があったのかどうかは知らない(歴史学の最近の学説では「そんな世界はなかった」と教えている)。でも、近代市民社会を基礎づけるためには、そういう「お話」が必要だったし、実際にこの「お話」はうまく機能した。おかげで私たちはとりあえず近代市民社会の中で、誰かにいきなり生命財産自由を奪われることを心配せずに暮らしていられる。
でも、この「公」は市民にあれこれと要求をする。法律やルールを守れとか税金を払えとか徴兵に応じろとかゴミを捨てるなとか、いろいろ。これが「私」にとっての「持ち出し」に相当する。これを供出しないと「公」は成り立たない。
問題はこの「持ち出し」における「自分の割り前」をどう算定するかである。どれくらい私物を供出したらいいのか。自分の適正な「割り前」はいかほどなのか。これが「わかる」のが成熟した市民である。子どもたちをそのような市民に育てることが学校教育の使命である。私はそういうふうに理解している。
未熟な市民はそもそも「公共のために自分の割り前を供出する」ということの意味がわからない。しぶしぶ出すようになっても、「オレの割り前が多すぎる」と文句を言う。「法律を守っていないのに処罰されないでいるやつがいるのに、どうしてオレだけ守らなければいけないのか」とか「脱税している奴がいるのに、どうしてオレだけが律儀に申告しなければいけないのか」とか「他人が捨てていったゴミをどうしてオレが拾わなくちゃいけないんだ」とか。
この未熟な人たちをある程度まで市民的に成熟させないと、市民社会はもたない。彼らにも「公の顔も立て、私の顔も立てる落としどころ」を見つけてもらわなければならない。
公私のどちらにも偏らない危ういバランスをとることだから、それなりの見識と技術がいる。一番簡単な基準は「この社会が自分みたいな人間ばかりだったら」というSF的想定をすることである。
法律を守らない、税金を払わない、他人のものでも隙があれば盗む、他人に屈辱感を与える機会が提供されたらすぐに利用する...そういう人は自分のことを「つねに自己利益の最大化をめざしている利己的な人間」だと思うかも知れない。たしかに、「法律を守らない、税金を払わない・・・」のが「オレ一人」で、あとの全員は「法律を守り、税金を払う・・・」善良な市民である時に、この「オレ」の利益は最大化する。これは事実である。
例えば、交通渋滞の時に、高速道路の路肩を走るドライバーは、あとの全員が道交法を守って路肩を空けている時に利益が最大化し、みんなが我先に路肩を走り出したら利益は失われる。だから、「路肩を走るのはオレ一人」であることを切望するようになる。
でも、「オレみたいな人間はこの世にできるだけ少ない方がいい」と思うのは、よく考えればわかるが、自分に対する一種の「呪い」として機能する。その呪いは弱い毒のように、少しずつ「オレ」の心身を蝕むことになる。だって、「オレみたいな人間はこの世にいない方がいい」と本人が日々切望しているからである。
だから、「市民的に成熟する」というのは、別に字面ほどに抽象的なことではないのである。ただ、想像力を少し働かせればいい。「自分みたいな人間」ばかりで構成された社会に住みたいかどうか、それを自問すればよい。できることなら、ほとんどの市民が遵法的で、親切で、異物にも寛容な社会に暮らしたい、ふつうはそう思うはずである。みんなで公共を立ち上げる時に、「オレの割り前は多すぎる。フリーライダーは誰だ。オレたちの集団に紛れ込んでいる異物は誰だ。集団の純血を穢しているのは誰だ」と目を血走らせる人たちとともに共同体を構成したいとは誰も思わないだろう。
だったら、「そういう人と一緒に暮らすと、自分自身が楽になる人」に自分がなればいい。市民的成熟とはそのことである。倫理的に生きるとはそのことである。親切で、寛容で、想像力が豊かで、共感力が高く、自分に理解できないことに遭遇しても慌てず、落ち着いて、それを包摂しようと笑顔で努力する人に囲まれていたら、ずいぶん生きるのは楽になるはずである。できることなら「そんな人ばかりで構成されている社会」に住みたいと思うはずである。そう思うなら、自分が「そんな人」になるように努めればよい。世界中に「自分みたいな人間」がたくさんいる方が安心して気分よく暮らせると思う人は、そう思うことで自分を祝福しているのである。「自分みたいな人間がたくさんいる世界に住みたい」と思うことほどの自己肯定はない。
でも、この理路は子どもにはなかなか伝わらない。難しい話だから。それを教えるにはそれなりの手間暇がかかる。そのために教育はある。