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敬意というのは距離感のことである。簡単に近づいて来ないという安心感のことである。
2025年6月13日の内田樹さんの論考「教育論と組織論」(その2)をご紹介する。
どおぞ。
だから、教師に求められる条件は、「教師自身が成熟した市民になろうと日々努力していること」だけでいいと私は思っている。そういう教師は決して子どもたちに権力的に臨むことはないだろう。きびしい査定をすることもしないだろう。子どもたちの成長を穏やかに、忍耐強く、そして楽観的に見守るはずである。
私が教育について言いたいことは、ほぼそれに尽くされる。教師が「親切で、寛容」であれば、子どもたちはそれをロールモデルにして成長する。教師が意地悪で、非寛容であれば、子どもたちもそれを標準に採るようになる。教師が貧しい語彙で子どもたちを罵倒するなら、子どもたちもその口ぶりを真似するようになる。そういうことである。
私は長く教師をしてきたけれども、ある時から「教育する」という他動詞で学生たちに接することを止めた。学生たちは自力で成長する。そのための環境を整備するのが教師の仕事である。
彼らが何か新しいアイディアを思いついて、それを口に出そうとしたときには、黙って耳を傾ける。学生たちが言葉に詰まっても、じっと続きを待つ。学生たちの話の腰を折らない。学生たちの「言いたいこと」を要約しない(「要するに君はこう言いたいわけだね」と言わない)。学生たちに「言いたいことはわかった」と言わない(それは「わかったからもう黙れ」という意味だから)。
なんだ、それなら教師の仕事なんてほとんど「何もしない」ことじゃないか、そう口を尖らせる人がいるかも知れない。まさにその通りである。教師はただそこにいて、「子どもたちの成長を暖かく見守る」だけでいい。
でも、これが結構難しい。「結構」どころか本格的に難しい。
子どもたちに「この先生には心を開いても大丈夫だ」と思ってもらわなければ、「暖かく見守る」ことなんかできないからだ。まず「信じてもらう」ところから始めなければならない。「信じてもらう」と口で言うのは簡単だけれど、大変な仕事である。「オレを信じろ」と命令しても子どもは大人の言うことを信じてはくれない。
でも、子どもにもすぐに伝わることがある。それは「敬意」である。他人が自分に対して「敬意」を持っているということは子どもにもわかる。
敬意というのは距離感のことである。簡単に近づいて来ないという安心感のことである。すぐに人の心の中に踏み込んで来ない。すぐに人を理解した気にならない。そういうふるまいの意味なら子どもにもわかる。
『論語』に「鬼神は敬して之を遠ざく 知と謂うべし」という言葉がある。鬼神のような人外の存在でさえ人間の敬意は伝わるのである。だからこそ遠ざけることもできるのだ。子どもは鬼神の類ではない。人間である。必ず敬意は伝わる。
愛は伝わらないことがある。どれほど人を愛していても、まったくこちらの気持ちが相手に伝わらないということはよくある。こんなに愛しているのに振り向いてくれないというので、愛が殺意に変わるということだってある。愛は取り扱い注意の感情である。だから、教育の場にはあまり持ち込まない方がいい。私はそう考えている。
愛は必ずしも伝わらないが、敬意は必ず伝わる。愛はときに愛されている対象を傷つけることがあるが、敬意は決して相手を傷つけない。
教育について言いたいことはだいたいこんな感じである。とりとめのない話になって申し訳ない。
次は「人材育成」の話。これも教育と通じる話だけれども、こちらは「組織論」である。
どうやって集団のパフォーマンスを向上させるか。これも答えは簡単で「オーバーアチーブしてもらう」である。
over-achiever という単語は日本の経営書や組織論の本にはまず出てこないけれども、これは集団が成長するためには必須の存在である。
「オーバーアチーバー」というのは「給料以上の仕事をしてくれる人、ジョブ・デスクリプションに書かれていないジョブも勝手にやってくれる人」のことである。この人たちが集団を牽引し、次々とイノベーションを展開し、士気を高め、収益をもたらす。だから、組織マネジメントの要諦は「いかにしてオーバーアチーバーに気分よく仕事をしてもらうか」に尽くされる。
でも、今の組織論でそんなことを言う人はいない。凡庸な「組織マネジメント原理主義者」がするのは、それとは反対のことである。つまり「アンダーアチーバー」あるいは「フリーライダー」を探し出して、叱責したり、処罰したりすることを「組織マネジメント」だと思い込んでいる。
だが、給料分の仕事をしない人間や、他の人間の貢献にぶら下がっている人間というのは、どんな組織でも必ず一定数は発生するのである(だいたい成員の20%がそうである)。これは減らすことができない(勤務考課が最低の20%を解雇すれば、残り80%のうちの20%がまたそのポジションに移行するだけである)。「働きのないやつ」を探し出して、いじめることはいかなる価値も生み出さない純粋な消耗である。そんなことにリソースを割くべきではない。そんな余裕があるなら、オーバーアチーバーたちが思い切り仕事ができる環境を整備するところにリソースを投じた方がいい。
オーバーアチーバーたちは別にそれほど過大な要求はしない。彼らが求めるのは「好きにやらせてくれ」ということだけである。「管理しないでくれ。査定しないでくれ。がたがた文句を言わないでくれ」ということだけである。管理と創造は食い合わせが悪い。組織を創造的なものにしたいと思ったら、管理にコストをかけないことである。管理すれば、組織は秩序立つけれども、生産性は下がる。当たり前である。
軍隊には「督戦隊」というものがある。前線で戦っている兵士が、戦況が悪化して前線から退却してきたときに、「前線に戻って戦え」と銃を向けて脅かす役である。兵士たちは仕方なく前線に戻って戦う。「督戦隊」が全体の半分を占める軍隊があったとする(ないが)、その軍隊は軍律は行き届いているだろうが、戦争にはめっぽう弱い(だって、兵士の半分は前線に立っていないんだから)。
凡庸な組織マネジメント原理主義者がトップにいる組織はだいたい管理部門が肥大化して、そこに権限も予算も情報も集約される。「督戦隊」に軍事的リソースの大半を注ぎ込む軍隊に似ている。だから、管理が行き届くほど、弱くなる。価値あるものを生み出す力が衰える。そういうものなのである。
オーバーアチーバーは管理を嫌う。だから、管理が好きな人間はオーバーアチーバーを疎んじる。場合によっては「業務命令に従わない」という理由で懲戒したりする。でも、それは「金の卵を産む鵞鳥」を殺すことである。