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内田樹さんの「教育論と組織論」(その3) ☆ あさもりのりひこ No.1715

管理が行き届いているから強いのではない。指示されなくても、「やる必要があることはやる」という人がいるから強いのである。

 

 

2025年6月13日の内田樹さんの論考「教育論と組織論」(その3)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 もう一つあまり知られていないことだが、オーバーアチーブには「自分のジョブではない仕事を片付ける」ということも含まれる。

 会社経営をしたことのある人なら知っていることだけれど、チャンスというのは「ジョブとジョブの隙間」に発生する。危機もまた「ジョブとジョブの隙間」に発生する。

 それは誰の仕事でもない。だから、ふつうの人はそれに気が付いても、「オレの仕事じゃないから」と放置する。そこに何か「大化け」しそうなものがあっても無視する。それでビジネスチャンスを見逃しても、それは誰の失敗でもないし、誰の責任でもない。逆に、「誰のジョブでもないところ」に生じたトラブルが原因でシステムが瓦解しても、それは誰の失敗でもないし、誰の責任でもない。

 オーバーアチーバーはこの「ジョブとジョブの隙間」に平気で手を突っ込む。気になるから。自分のジョブだろうが何だろうが関係ない。気になるから手を出す。

 そうやって思いがけない発明発見をすることもあるし、放置しておいたら組織的危機に至ったような「バグ」を初期の段階で補正することもある。

 放置しておいたら組織的危機に至るような「バグ」を補正する人のことを「歌われざる英雄(unsung hero)」と呼ぶ。その人のちょっとした気遣いでシステムの瓦解が阻止されたのだが、そのことを誰も知らない。本人も知らない(だって、ちょっと気になったから、直しておいただけなのだ)。機械のノイズに気づいてちょっとねじを締めておいたとか、堤防の穴から水がしみ出ているのが気になってちょっと小石を詰めておいたとか、そういう「ちょっとした余計な動作」のせいで、システムが壊滅的なリスクを回避したということはよくある。でも、誰もそんなことがあったことを知らない。

「アンサング・ヒーロー」を多数擁している集団は強い。当たり前である。管理が行き届いているから強いのではない。指示されなくても、「やる必要があることはやる」という人がいるから強いのである。システムがいつどうやって補正されたのか誰も知らないけれど、ちゃんと補正されたから強いのである。

 もうお分かりだろうけれど、「オーバーアチーバー」と「アンサング・ヒーロー」は同一カテゴリーに属する。このカテゴリーの人材をどう養成するか、それが組織論の要諦である。

「養成する」と書いたけれど、別に「養成する」というほど他動詞的なふるまいは要らない。「そういう人がたくさんいるといいな」と心で思っていれば、それだけで十分である。そう心で思っていれば、組織マネジメントも勤務考課も中期目標も「ほとんど意味がない」ということはわかる。

組織のトップが「親切で、寛容で、好奇心旺盛」であれば組織マネジメントとしては十分なのである。

 なんだ、組織のトップというのは「管理」業務をしなくていいのか。そんな話があるものか、と口を尖らせる人がいると思う。その通り、管理なんかしなくていいのである。

 私は大学という組織で管理職を長くやってきたし、今は数百人の構成員を抱える道場の主宰者でもある。書生5人に月々給料を払っているから、ちょっとした小企業の経営者のようなものである。

 道場運営についての私の基本方針は「管理しない」ということである。みんなに親切にする。できるだけ「自治」に委ねる。門人たちが何か新しいことを始めたいと言い出したら、資金面でも場所の提供でも、できるだけ応援する。

 それは大学の管理職だったときも同じである。部下が何か提案を持ってきたら、「ああ、いいよ。やりなさい。失敗したらオレが責任とるから」と答えた。一度も失敗したことはなかった(だから一度も責任を取ったことがない)。逆に「やりたければやってもいいけれど、オレは責任とらないからね」と言ったら、たぶん失敗の確率はもっと高かっただろう。そういうものである。エンカレッジすれば、しないより成功の確率は上がる。

 私の主宰する凱風館はある種の「コモン(共有地)」である。私が土地を買い、建物を建て、そして「みんな」に使ってもらう。コモンの立ち上げは私の「持ち出し」である。私は多田宏先生という偉大な武道家から合気道についての貴重な知識と技術を教わった。それを次世代に伝えるのは私の義務であるから、身銭を切って道場を建てた。これは「私の割り前」である。誰かに「ちょっと肩代わりしてくれよ」と言うようなものではない。

 

 組織論についてもう一言だけ追加すると、組織の自己刷新には成員の多様性が必要である。これは「絶対に」必要である。組織には能力主義・成果主義の「ものさし」では考量できないけれども、集団のパフォーマンスを上げることのできるメンバーが必要である。

 黒澤明の『七人の侍』は組織論の教科書のような映画である。だが、七人の侍のうち三人、菊千代(三船敏郎)、勝四郎(木村功)、平八(千秋実)は今の営利企業ではまずリクルートされないだろう。でも、彼ら三人抜きでは七人の侍はあのレベルの戦闘はできなかったのである。

 勝四郎は柔弱な若者であるけれども、「次世代」を担う人物である。だから、彼を生き残らせることはあとの六人の「大人」たちの義務である。そして、勝四郎に生き延びて欲しいと「大人」たちが願うのは、この若者が生き延びて死せる侍たちの勇戦の記憶を後世に伝えて「供養する」仕事を引き受けてくれるはずだと信じているからである。

 平八は「腕はまず中の下」であり戦闘力は低い。でも、リクルーターの五郎兵衛(稲葉義男)は平八と話していると気持ちが明るくなると報告する。「長いくさでは重宝する男だ」。自分たちは何のために戦っているのかがきちんと腹に収まっていないと人は「長いくさ」に耐えることはできない。平八は「自分たちのミッションをわかりやすく理解させる才能」がある。これはなまじの個人的戦闘力とは比較できないほど集団のパフォーマンス向上に貢献する。

 菊千代の才能は複雑すぎるので、ここではもう論及しない。ただ、今の日本の組織はこの三人のような「未熟な若者」「集団の結束を強める人」「破格の人」を集団に必須の成分であると考える習慣を失ってしまって久しいと言うにとどめておく。

 日本社会は能力を個人単位で考量するだけで、その人が集団に加わった時にどのような「化学変化」をもたらすかについて思量する習慣を失ってしまった。能力主義・成果主義のピットフォールはそこにある。個人の能力や業績を単に算術的に加算しても、そこからはその集団がどのようなパフォーマンスを示すかは予測できない。集団を見るときには、集団を一つの「生き物」として、「多細胞生物」として、その機能やふるまいを見なければならない。人間はいつどこで誰とコラボレートするかによって、まったく別のふるまいをする。そんな当たり前のことを日本人はずいぶん前に忘れてしまった。今日の日本の集団の劣化の理由の多くはそこにある。

 

 

 以上、教育論と組織論について、卑見を述べた。とりとめのない話になってほんとうに申し訳ない。(6月12日)