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内田樹さんの「武道的思考(KOTOBA収録)(その1)」 ☆ あさもりのりひこ No.1717

武道の稽古では修行者同士の間での、勝敗や強弱や遅速や巧拙を競うということをしません。

 

 

2025年6月18日の内田樹さんの論考「武道的思考(KOTOBA収録)(その1)」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

KOTOBAという雑誌に武道的思考について寄稿した。それを再録。

 

修行は競争ではない

 

 武道の修行というのは「天下無敵」という、どれほど努力しても絶対に到達できない無限消失点のような目標をめざし、先達に従って、ただ淡々と稽古を重ねるという生き方のことです。

「天下無敵」という無限に遠い目標をめざす旅程においては、修行者は誰も「五十歩百歩」です。無限の旅程の中で、自分が他の修行者より何キロ先まで行ったとか、単位時間内にどれだけ走破したとか、そんな相対的な優劣を競うことには何の意味もありません。ですから、武道の稽古では修行者同士の間での、勝敗や強弱や遅速や巧拙を競うということをしません。

 オリンピック種目にあるような競技武道では勝敗を競います。ですから、あれは「スポーツ」であって、日本の伝統的な「武道」とは違うものです。もちろん「スポーツ」は人間の心身の可能性を高めるすばらしいメソッドですけれども、相対的優劣を競うことを主眼とする限り、「修行」とは違う。

 

 うちの道場に来て武道の稽古を始めた人がいちばん驚くのは、この「相対的優劣を論じない」という点です。現代人は生まれてからずっと学校でも職場でも、能力や成果を査定され、評点をつけられ、格付けされ、その格付けに基づく資源分配に与ることが「社会的フェアネス」だと教えこまれてきました。あるルールの枠内で高いスコアをとれば、競争相手よりたくさんの資源配分に与ることができる、そう信じてきました。

 でも、学校体育で考量できる身体能力は、走る速さとか飛べる高さとかゴールする精度とか、人間の持つ能力のうちのごく一部でしかありません。人間が埋蔵している心身の能力は数えきれないほど多様であり、その多くは学校体育的な基準では計測不能です。

 例えば、わずかな気の変化を感知できる感受性、「邪悪なもの」が接近してきたときに強い違和感を覚える能力などは武道的には非常に貴重な能力ですが、そのような能力は学校体育ではまず評点がつきません。むしろ、そのような能力は「学校に来ない」とか「体育の授業に出たがらない」というかたちで発現する場合さえある。

 その結果、学校体育で低い評点をつけられた子どもの中には「自分は身体能力が低い」と思い、ともすれば自分の身体を恥じたり、憎んだりするようになってしまう人がいます。これはあまりにもったいないことだと思います。

 子どもが学校体育で学ぶべきことがあるとすれば、いちばん大切なのは、自分の身体が埋蔵している豊かな資源を信じて、それを発掘してゆくことです。自分の身体に対して敬意と好奇心を持つことです。人間の身体がいかに深く複雑なものかに驚き、自分の身体に対して畏怖の念を抱くことです。

 

 稽古で生じる身体の変化は、神経のネットワークが精密化するとか、呼吸が深くなるとか、臓器や関節の働きが最適化するといったレベルで起きることなので、モーションキャプチャーのような最新の計測技術によってもうまくとらえることはできません。丹田、体幹、正中線といった用語を稽古中にわれわれは頻用するわけですけれども、どれも解剖学的実体ではありません。計測機器で考量することもできないし、AIでも分析できない。修行というのは機械的には計測しがたいそういう微小な変化を感知できる心身を作ることです。

 新自由主義は、個人の能力や特性を確定して、それを数値的に格付けした上で、資源を傾斜配分するという考え方ですが、これは人間の成長を妨げるものだと僕は考えています。修行というのは連続的な自己刷新のことですから、修行者にとって「アイデンティティー」ということには何の意味もありません。「ほんとうの自分」なるものを見出して、それにしがみつくというのは単なる「我執」「居着き」であり、修行の妨げでしかない。宗教でも武道でも、修行の目的は「我執を去る」ことです。ですから、欧米的な「アイデンティティー・ポリティックス」と修行は食い合わせが悪いんです。