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武道修行を通じて身につくのは、超越的なものに対する畏怖の念と、同種の個体と同期できる能力です。
2025年6月18日の内田樹さんの論考「武道的思考(KOTOBA収録)(その4)」をご紹介する。
どおぞ。
武道はストレスフリーである
僕は七十過ぎて膝に人工関節を入れ、去年はすい臓がんを切りましたが、抗がん剤治療中でも稽古は休みませんでした。稽古は決して裏切らない。稽古すれば必ず上達する。それは愚直に五十年稽古を積んできた人間として確信を込めて言えます。
入門して最初のうちは術理なんかわかりませんから、ただ投げて投げられて「いい汗かいた」というだけでいい。受け身をとるだけでおもしろいから、それでいいんです。そのうちに少しずつ術理がわかってくる。いきなり「すべてがわかった」というようなことは起きません。一枚一枚薄皮をはぐように変わっていく。だからおもしろいんです。昨日「わかった」と膝を打ったことが翌日になると「いや、違う」と打ち消される。毎日が発見なんです。それがおもしろい。
スポーツでは「プラトー(高原)状態」というのがありますね。技術が「高止まり」することです。武道にはそういう「スランプ」というものがありません。それはすべての技は「謎」として提示されているからです。「できない」ことが前提なのです。術理がわからない、技ができないということがデフォルトなので、できないことがストレスにならない。「ああ、できないなあ」と思うたびに、技が蔵している謎の深さに驚嘆するだけです。
それと同じく、師に対する弟子の立ち位置というのがものを習う上では最も効率的だと僕は思います。師が説くことは初心者のうちはほとんどわかりません。でも、それは師匠が弟子の理解をはるかに超えるほど偉大だからであるので、「わからない」ことを弟子がストレスに感じる必要はないんです。
学校体育では「みんなができること」を「他の人よりうまくやる」ことを競います。武道は違います。「誰もできないこと」を稽古している。だから、相対的に「誰よりうまい」とか「誰より強い」とか査定すること自体ができないんです。
畏怖と同調にむかう道
学力という言葉を僕は「学ぶ力」と解しています。知識や情報の量のことではありません。自分がなにを知らないか、なにができないかを知ること、それが学びの原点です。おのれの無知や無能を自覚することから学びが起動する。ですから、無知無能は全く恥じることではない。
学ぶ力の第二段階は「師に就く力」です。僕は合気道は多田宏先生、哲学はエマニュエル・レヴィナス先生を師と仰いでいます。多田先生は御年95歳になられましたが、今も元気に道場に立っておられます。一人の師に僕は50年就いて修行できました。これは例外的な幸運だったと思います。レヴィナス先生は1995年に亡くなりました。今の若い研究者でレヴィナス先生に直接会った方はもうおられないと思います。僕はさいわいお会いして、「弟子にしてください」と頼み込むことができました。先生からは「お好きにどうぞ」と言っていただけました。
僕はこれまでにレヴィナス先生についての本を三冊書いています。でも、これは「レヴィナス研究」ではありません。僕がレヴィナス先生の本を読んで「わからなかったこと」について書いているからです。こんなことは「研究者」には許されません。研究者は「わかったこと」しか論文に書けない。でも、僕は弟子ですから「わからないこと」がほとんどつねに関心の大半を占めている。だから、それについて書く。大事なのは「師の教えのうち、僕にはまだわからないこと」です。それについて「わからない、わからない」とうれしそうに頭を抱えているというありさまは哲学研究でも、武道の修行でも同じなんです。
もちろん独学でもすぐれた業績を上げている人はいます。でも、独学者のつらさは自分が「わかったこと」「知っていること」「できること」を足場にしないといけないということです。弟子にはその必要がありません。弟子は「偉大な師に就いて学んでいる」というだけで身元保証としては十分だからです。自分には何ができるかを証明する必要がない。「あんた、どれくらいできるの?」って訊かれても「さあ、僕にはわからないです。先生に聞いてください」と答えるしかない。
弟子という立ち位置のアドバンテージは自分の弟子たちに向かって「自分ができないことを教えられる」「自分が知らないことを教えられる」ということです。師の教えを縮減しないで済む。
多田先生は「学者には学者の合気道がある。芸術家には芸術家の合気道がある」とつねづねおっしゃいます。道場で学んだことを実生活で展開できないようでは本物の合気道ではない。開祖はそう言われたそうです。
ですから、僕が稽古しているのは「学者としての合気道」であり「物書きとしての合気道」だということになります。本はずいぶん書きましたけれど、これだけ書けたのも弟子という立ち位置にいたからだと思います。自分が学統の創始者であれば、自分が知っていることしか書けない。でも、僕は弟子ですから、師から受けたパスをどんなにへたくそなプレーであっても次の世代に伝える義務がある。「述べて作らず 信じて古を好む」です。だから、自分が知らないことでも、「これは僕にはついにわかりませんでした。僕がどんな苦労をしたのかだけ書き残しておきますから、あとはよろしく」と伝えることができる。
武道修行を通じて身につくのは、超越的なものに対する畏怖の念と、同種の個体と同期できる能力です。その二つが身に具わっていれば、たぶんどんな集団にいても、どんな仕事をしても、愉快に過ごせると思います。
(2025年6月18日)