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成果志向でなく、また合理と効率だけを崇拝する現代社会においてまさに大切なことは、ただ終わりのない学びに向かって精進する姿勢に他ならない
2025年6月21日の内田樹さんの論考「韓国社会にむけての内田樹の提案」(後編)をご紹介する。
どおぞ。
「修行」という思惟の根 ― 武道的哲学が求められる社会
内田は韓国社会のもう一つの欠如として「武道の哲学」に言及した。興味深いのは、韓国社会がこの欠落を自覚できていないにもかかわらず、無意識にそれを渇望しているという彼の洞察だった。彼はこの欠如が「修行」という概念に集約されていると見ている。
彼が言う修行とは、目的も終着点も分からないまま、ひたすら師の背中を見ながら黙々と歩む旅を意味する。 修行は決してたどりつかない目的地めざして歩くだけのことである。行程表もないし、タイムを計る人もいないし、競争相手もいない。
合気道でも哲学でも、修行の過程という点で違いはないと彼は力説した。始まりの動機は曖昧で、終わりは見えず、成果が比較の対象ではないこのような精進は、成果中心の社会、勝敗に敏感なシステム、速度と効率が美徳とされる韓国社会ではあまりにも馴染みの薄い話だ。
それにもかかわらず彼は楽観論を語った。韓国社会が内田を通じて読みたがっているのは、もしかすると忘れていた「武道的思考」と「自己形成」の古い感覚を取り戻そうとする無意識の動きなのかもしれないと。彼は武道の最終目標である「天下無敵」こそ、「大悟覚醒」または「解脱」を経て「無限消失点」に向かう修行の本質だと説明した。
初心者は自分がなぜこの道を歩むのか分からないが、少なくとも10年以上コツコツと精進してようやく一歩を踏み出せるということ。修行の逆説はまさにここにあるというのだ。
どんな動機で始めたとしても、その最初の理由は消え、新たな目標と動機が絶えず生成されながら自ら成長していく過程が修行の本質だという彼の言葉は、成果や効率を重んじる現代社会において「過程」そのものの価値と、持続的な努力が持つ力を意味している。
レヴィナス哲学との出会いで照らす望ましい修行の態度と姿勢
今回の講演で特に印象的だった題目は、哲学者エマニュエル・レヴィナスを初めて読んだとき「全く理解できなかったが弟子になりたいと思った」という告白だった。さらにエマニュエル・レヴィナス哲学との出会いを通じて直面した「修行」の姿勢についてさらに深く語った。知識が足りなかったのではなく、人間的に未熟だったから理解できなかったと語ったのだ。これは、知識の深さを測る尺度が「人間的成熟」であるという彼の哲学的立場を如実に表している話でもある。
ここで彼は「研究者」と「弟子」の違いを明確に区別した。彼によれば、研究者とは自分がすでに知っているフレームに思想をはめて扱う人ならば、弟子とは自らの知識と情報が役に立たないと認め、捨てることから始める人、すなわち自らのフレームを壊して他者の世界に入ろうとする人だ。知らないことを発見して喜ぶ人、それを喜んで学ぼうとする人。それが弟子であり、その道は常に不完全さを認め受け入れる、生きる姿勢を伴う。
これは単に哲学に対する態度だけでなく、全ての関係や学習、人生に対する態度に対する深い省察とも直結している。私たちの社会は「知らないことが不安な人々」で溢れているが、内田はその反対の存在として「知らないことを喜ぶ人」を提示する。これは絶えず学び成長しようとする真の学問の姿勢を見せてくれ、知っていることより知らないことの方が遥かに多いという「無知の自覚」が学びの始まりであると強調した。
無知の自覚と私たちが目指すべき哲学的姿勢
そうした点で内田樹は図書館の役割を、単に知識を誇示する空間ではなく、自分の無知を常に自覚する場所と定義すると力説した。本を並べて置くのは、自分がどれだけ多くの情報を獲得したかを誇示するためではなく、自分がいかに物事を知らず無知な存在なのか、いかに器の小さな人間であるかを「可視化してくれる」役割だというのだ。無知をさらけ出すことを恐れない姿勢、これが真の読書の姿勢であり哲学の態度だと彼は強調した。
彼は競争社会の王道が「敵を倒して上に立つこと」と思われがちだが、真の自己形成の王道は「競争に反対する修行」だと断言した。武道は強弱を問わず、勝敗を問わず、相対的優劣を論じない。勝てば勝つことに居付いて止まり成長を阻害するからだと、彼は勝利の内在的属性に言及した。よって真の武道とは「自由自在」を得る過程であり、相対的優劣にとらわれず自らの内面を深く探求する過程だ。これは勝敗に縛られず、ひたすら自らを磨き続ける過程の重要性を意味している。
競争は他者に勝とうとすることで自己を作るが、修行は他者と共に歩むことで自己を作る。そしてその歩みは勝つためではなく、自身の成熟のための行為と同じことだ。勝敗を問わず優劣をつけず、ただ歩くこと――これこそ今日の韓国社会が失った武道家の哲学であり、内田が示す代替的思惟方法だという点で彼の講演の意義を推し量ることができた。
結局、韓国社会が内田樹を通して読み取ろうとしているもの
「なぜ韓国の人々は私の話を必要とするのでしょうか?」
内田樹は、韓国社会が自分を必要とする理由を「武道的思考」、すなわち勝敗にとらわれず相対的優劣を問わぬ人生に対する憧れからきていると言う。彼は自分が新しい何かを韓国に伝えているのではなく、「もともと韓国にあったはずの話」を思い出させる役割をしていると結論付けた。韓国社会が本来持っていたものを深いところから引っ張り上げる人、それが自分の役割だと。
彼はマルクス思想を自らの言葉で血肉化し、武道的思考のような深い面を掘り下げる若い研究者たち、すなわち新たなマルクシアンたちが韓国にも間もなく現れると信じており、そうした新たな精神と流れが韓国社会に新たな活力を呼び込むだろうと期待している。
彼が「外来文物」として自身の哲学ではなく「すでに潜在している哲学」を語る理由もここにある。私たちのアーカイブの中、眠っていた思惟の感覚を再び揺さぶり起こすこと。それこそが内田が今、韓国に必要とされる理由であり、私たちが目指すべき「修行の哲学」ではないだろうか。
内田樹はこう言った。「時代を変える新しいアイディアはしばしば『初めて聴くけれど懐かしい』ものです。自分たちの文化の深層に潜んでいたものを発見した(という幻想)が必要なんです。外来のブランニューな思想は切れ味が良いほど社会的分断を生み出すリスクがあります。」
私たちの多くが自覚する社会の空白を埋め、より良い社会へ進むために、私は彼の哲学が緊要であることに共感する。読み取れない時代、道に迷った読者、一方向的に成功を追い求める人々に内田は、「歩く哲学」を提示する。成果志向でなく、また合理と効率だけを崇拝する現代社会においてまさに大切なことは、ただ終わりのない学びに向かって精進する姿勢に他ならないという彼の哲学は、哲学と武道の出会いであり、哲学と人生をつなぐ架け橋のようだ。