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内田樹さんの「師と歩んできた14年」(後編) ☆ あさもりのりひこ No.1755

最初の動機が何であれ、それを続けるうちに動機そのものが消え去り、新たな目的や意味が内側から次々と生まれてきます。他者に勝つためではなく、自分自身が変容していくプロセスそのものが目的となります。

 

 

2025年8月15日の内田樹さんの論考「師と歩んできた14年」(後編)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

「修行」という名の、終わらない旅

 内田樹先生が韓国社会に見出すもう一つの「渇き」。それは「武道的思考」の欠如です。そして、その核心にあるのが「修行」という、あまりにも現代的でない、しかし人間にとって根源的な概念です。

 内田樹先生の語る「修行」とは、目的地もゴールも知らされず、ただ師の背中だけを見つめて黙々と歩き続ける旅路のようなものです。合気道であれ、哲学であれ、その本質は変わらないと内田樹先生は言います。始めた動機はいつしか忘れ、終わりは見えず、他者との比較で達成が測られることもありません。

 これは、成果主義、勝敗至上主義、スピードと効率が神とされる現代韓国社会(いや、日本も同様でしょう)から見れば、狂気の沙汰か、非効率の極みのように聞こえるかもしれません。「で、それをやって何になるんですか?」「費用対効果は?」という声が四方八方から飛んできそうです。

 しかし、内田樹先生はここにこそ人間の自己形成の王道があると説きます。武道の最終目標が「天下無敵」であるように、修行の果てには「大悟覚醒」や「解脱」といった、いわば「無限の消失点」へと至る道が開けます。ですが、その道を歩き始めたばかりの初心者には、自分がなぜこの道を歩いているのかさえ分かりません。少なくとも10年は続けないと、その入り口にすら立てないのです。ここに「修行のパラドックス」があります。

 最初の動機が何であれ、それを続けるうちに動機そのものが消え去り、新たな目的や意味が内側から次々と生まれてきます。他者に勝つためではなく、自分自身が変容していくプロセスそのものが目的となります。この「過程」の価値こそ、先生が武道哲学を通して我々に示してくれる、現代社会への最も痛烈なカウンターパンチなのです。

 

研究者ではなく、弟子になれ ― 「無知の知」ならぬ「無知の喜び」

 今年の講演で、通訳の私の心を最も強く揺さぶったのは、内田樹先生が哲学者エマニュエル・レヴィナスと出会った時の告白でした。

「初めて読んだ時、全く理解できませんでした。一文字も。でも、この人の弟子になりたいと直感的に思ったのです」

 そして内田樹先生は続けました。「理解できなかったのは、知識が足りなかったからではありません。人間として未熟だったからです」。これは、知識の深さを測る尺度が、人間的な成熟度であるという先生の哲学を、これ以上なく明確に示すエピソードでした。

 ここで内田樹先生は、「研究者」と「弟子」の違いを鮮やかに切り分けます。研究者とは、自分が既に持っている知識のフレーム(箱)に、対象となる思想を押し込めて分析する人間です。一方、弟子とは、自分の知識や情報がいかに無力であるかを認め、その箱を自ら叩き壊すことから始める人間です。自分のフレームを破壊し、未知なる他者の世界へ、無防備に飛び込んでいきます。

「知らないことを発見して喜べる人」。それが弟子なのだと内田樹先生は言います。我々の社会は「知らないと不安になる人」で溢れかえっています。しかし、真の学びとは、その逆のベクトルを持ちます。「知らないことがある、なんと素晴らしいことか!」と歓喜する姿勢。それが弟子の特権であり、喜びなのです。

 この文脈で語られた「書斎」の定義もまた、痛快でした。書斎に本を並べるのは、自分がどれだけ物知りであるかを誇示するためではありません。むしろ、「自分はこれだけの本を読んでいない。世界について、人間について、これほどまでに何も知らないのだ」という己の無知と器の小ささを「可視化」するための装置なのです、と。

 無知を恐れるな。無知を喜べ。なんと自由で、解放的な思想でしょうか。競争社会の王道が「敵を打ち負かし、頂点に立つこと」であるならば、内田樹先生の示す自己形成の王道は「競争に背を向けた修行」です。武道が本来、強弱や勝敗、相対的な優劣を問わないように。なぜなら、勝利は時として人間をその場に留まらせ、成長を止めてしまうからです。

 真の修業とは、勝敗に一喜一憂せず、ただひたすらに自分を磨き、内面を深く探求していくプロセスです。他者を打ち負かすことで「私」を作るのではなく、他者と共に歩くことで「私」を育んでいきます。それこそが、先生が韓国社会に、そして私たち一人ひとりに差し出す、もう一つの生き方なのです。

 

新しい日韓連携の誕生 ― 弟子が架ける橋

 私はこれまで、相当な数の内田樹先生の著作を韓国に紹介してきました。中には、韓国で先に企画・出版され、後に日本語版が出たという、出版業界では極めて珍しい本も二冊あります。私が先生に「書いてください」とお願いし、韓国語版が先に出る。いわば、日本から思想を「輸入」するのではなく、韓国から「発注」したのです。二冊の本が、まるで乾いた大地に降り注いだ恵みの雨のように、あっという間に多くの読者の心を潤したのです。これは本当に嬉しいニュースでした。この二冊のおかげで、先生の他の著作にも好奇心の触手を伸ばす読者が増えたのですから、まさに旱天の慈雨!

 内田先生は冗談めかして、私にこうおっしゃいます。「君こそ、日韓交流のために本当に尽力している。両国から勲章をもらってもおかしくない人物だ」と。もちろん恐縮するばかりですが、この言葉には、私たちの関係性を象徴する真実が隠されているように思います。

 韓国の一研究者が、日本の偉大な研究者(そして今や師となった)と出会い、その薫陶を受けて成長していく。その成長の過程で、ごく自然発生的に、両国の学術と文化の交流が生まれます。一人でも多くの韓国の読者に、先生の生きた思想を届けたいという弟子の切なる願い。そして、内田樹先生の著作をまず韓国語版で読み、それをきっかけに先生の思想に触れたという、日本の韓国語学習者たちの存在。彼らは、いわば「逆輸入」の形で、韓国語を通して内田樹先生と出会ったのです。

 これは、国家や政治が主導する交流とは全く違う、もっと人間的で、血の通った、新しい「日韓連携」の誕生ではないでしょうか。

 内田樹先生は講演の最後にこう結論づけました。自分は何か目新しい「外来の文物」を韓国に伝えているのではない。むしろ、「本来、韓国にあったはずの物語」を、その深い場所から掘り起こし、光を当てる役割なのです、と。

 私たちのアーカイブの中で眠っていた思考の感覚を、もう一度揺り動かし、目覚めさせること。それこそが、今、内田樹先生が韓国で必要とされる理由であり、私たちが目指すべき「修行の哲学」なのだと思います。

 解読不能な時代に道を見失った読者たちへ、先生は「歩く哲学」を提示します。成果や効率だけを崇拝する社会の中で、本当に大切なのは、終わりのない学びへとただ歩み続ける姿勢そのものである、と。

 講演会が終わり、会場を後にします。先生の眼差しと表情が、私の心に深い残像を結びます。それは、老年のそれではなく、未知なるものへの好奇心に満ちた「青春の瞳」でした。

 この14年間のドラマは、まだ終わりません。きっと来年も、再来年も、予測不能な新しい章が私たちを待っているでしょう。その道を、私は一人の弟子として、これからも師の背中を追いかけながら、歩き続けていきたいと思います。