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問題は「ポスト民主主義」の世界がどのような様態のものであるかについて、解像度の高いヴィジョンを提示できている人がどこにも(加速主義者たちの中にも)いないということである。
2026年2月27日の内田樹さんの論考「資本主義末期の国民国家のかたち」(その2)をご紹介する。
どおぞ。
もしこの時に英国の資本家たちが「工場法」や労働時間規制を鼻で笑い、自分たちの欲望のままに非人間的な労働環境の中で労働者を喰い尽くす道を選んでいたらどうなっていただろう。革命が起きていたかも知れないし、英国社会自体が道義的な退化によって自壊していたかも知れない。分からない。起こらなかったことについては、なぜそれが起こらなかったのかは分からない。とにかく資本主義は「人間の顔」をまとうことによってさらに150年生き延びることになった。
だから、加速主義者たちの言うように、「社会福祉とか健康保険とか人権擁護とか、そういうよけいなことをするから資本主義がいつまでも生き延びるんだ。そういうものを全部とっぱずして、資本主義の醜悪さを剥き出しにして、一気に息の根を止めよう」というアイディアもそれなりに筋は通っているのである。でも、個人的には、こんなことを言い募っているシリコンバレーのビリオネイアたちには「おお、そりゃ元気なこった。そんなら兄ちゃん、いっぺんマンチェスターのマッチ工場で1年ほど働いてみっか」と言ってやりたい気もする。
加速主義者たちは資本主義から偽善的な要素をすべてとっぱらって、資本主義を暴走させて、その死期を早め、一気に「ポスト民主主義」のフェーズに抜け出すことを提案している。「大洪水」をなんとか食い止めて来た堤防だの水門だのを全部壊して、すべてを洗い流したら、さぞやすっきりするだろうという考え方にはたしかに心惹かれるものがある。まして映画を倍速で観る若い人たちが「できたらオレの眼の黒いうちに民主主義が終わるのを見たい」と思っても不思議はない。
問題は「ポスト民主主義」の世界がどのような様態のものであるかについて、解像度の高いヴィジョンを提示できている人がどこにも(加速主義者たちの中にも)いないということである。「民主主義にたいするオルタナティブは本当に存在しないのだろうか」と自問したニック・ランドはその『暗黒の啓蒙書』という挑発的な書物の中で次のように書いている。
「ポスト民主主義の時代でも「国家はいまあるままに留まりつづける」。それは「手放すにはあまり惜しい」ものだからだ。ポスト民主主義の社会でも、主権が集中している場所は要る。ただ、そこから民主主義は完全に除去されなければならない。」
カーティス・ヤーヴィンはこれを「新官房学(Neo-cameralism)」と呼ぶ。国家の運営は「一つの国を所有するというビジネス(Gov-Corp)」である。国家の所有権は株式として分割・売買される。株主が国家を実質的に所有し、住民は「顧客」であり、国家は彼らのために効率的で高品質なサービス(治安維持、社会的インフラ、教育、医療など)を提供する。顧客満足度が低ければ、国民たちは他国へ「移住」する。国民は(株を持っていないので)国政を議す権利がないが、代わりに「出てゆく自由」はある。(No Voice, Free Exit)。
新官房学的な国家は、民主主義に対してたしかにいくつかのアドバンテージを持っている。
民主主義は容易に単なる多数決政治に堕す。ベンジャミン・フランクリンの卓抜な比喩を借りれば、民主主義的な政策決定とは「二匹の狼と一匹の羊が、昼食に何を食べるかについて投票する」ようなものである。だから、しばしば「51%の者たちによって残り49%の権利が奪い去られる」(トマス・ジェファーソン)。
でも、別に「羊」や「49%」に同情する必要はない。そんな国民たちも国家を滅亡させるような政策に嬉々として同意することがあるからだ。「ある」どころの騒ぎではなく、そちらの方がむしろ常態である。仮にまともな方向に舵取りがなされていても、民主主義的な政策実行はきわめて非効率であるし、責任の所在が明らかでないし、政策の数値的な達成目標が示されないのでその政策が成功したのか失敗したのかさえ分らない。何より、口では「民主主義」と言いながら、実際には自分を多数派に見せることに成功した集団が「寡頭支配(oligarchy)」を行っている(この支配集団のことをヤーヴィンは「大聖堂(cathedral)」と呼ぶ)。
話の運びはいささか過激だけれど、J・S・ミルの『自由論』の理路とそれほど違うことを言っているわけではない。ミルはこう書いている。
「人民の意志というのは、じっさいには人民のもっとも多数の部分の意志、あるいは、もっともアクティブな部分の意志を意味する。多数派とは、自分たちを多数派として認めさせることに成功したひとびとである。それ故に、人民は人民の一部を抑圧したいと欲するかもしれないので、それに対する警戒が、ほかのあらゆる権力乱用への警戒と同様に、やはり必要なのである。」(強調はミル)
ミルが加速主義者と違うのは、力を持つ民衆への警戒が必要であるとは書いたが、それを「大聖堂」とか「闇の政府」とかいうように、民衆から分離して、民衆を支配する組織として実体化することを自制した点にある。問題はあくまで「民衆による民衆の自由の制御」、「民衆による民衆の権力行使の抑制」なのである。そして、ミルは、これは容易に解決することのない難問であるとしてアンダーラインを引くにとどめて、解決策を示さなかった。「オレの眼の黒いうちに最終的解決を」と前のめりになる加速主義者とはそのあたりのタイムスパンの広がりが違う。
気の短い加速主義者たちが、さしあたり新官房学の実践例として挙げるのは、シンガポール、ドバイ、サウジアラビアなどである(たぶん北朝鮮やロシアも入ると思う)。彼らの眼には、それが「株式会社に一番近い国家」に見えるからだ。