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理解も共感も絶した他者と共生し、協働して「よきもの」を創り出すことができるだけの市民的成熟を日本人がめざすことの方を私は選びたい。
2026年2月27日の内田樹さんの論考「資本主義末期の国民国家のかたち」(その3)をご紹介する。
どおぞ。
加速主義の紹介につい紙数を費やしてしまったが、「資本主義末期の国民国家」について今提示されている最もパワフルなヴィジョンが加速主義者のそれである以上、言及を避けるわけにはゆかなかったのである。
さて、紙数も残り少ないが、これに対抗し得るような国家モデルを私たちは提示し得るだろうか。率直に言って難しいと思う。現に日本のビジネスマンの中には「国家の理想はシンガポール」と言ってはばからない人がいくらもいる。
シンガポールはご存じの通り、リー一家が大株主であるところの「企業国家(Gov-Corp)」である。人民行動党による一党支配が70年続いており、反政府メディアは存在せず、反政府的な労働組合も学生運動も市民運動も存在しない。令状なしの逮捕長期拘禁が可能である。「明るい北朝鮮」とよく言われる。なぜ日本をそんなものにしたいのか、気持ちが私にはわからない。たぶん自分はつねに「弾圧する側」「拘禁する側」にいると信じているのだろう。
でも、日本をシンガポールのような独裁制に模様替えすることはできないと私は思う。天皇制があるからである。
平成、令和と二代「明君」が続いた。彼らが国際社会に向けて、日本国の道義性と文化的なクオリティを担保していることに異論のある人はいないだろう。そして、天皇は独裁者になる気がない。日本を独裁制にするためには、21世紀の「昭和維新」を企て、天皇を宮城の奥に閉じ込めて外部との連絡を断ち、「帷幄上奏権」を独占する軍人たちが「天皇の代弁者」として君臨するという胡散臭いシステムを採用するしかない。だが、あまりに既視感の強いこの独裁制モデルを「民主主義のオルタナティブ」として差し出しても拍手はまばらだろう。天皇を廃位して、独裁者が「新皇」の称号を名乗るという「平将門モデル」はさらに人気がないと思う。
そう考えると、日本では「民主主義のオルタナティブ」を構想することを天皇制の存在が阻んでいるということが分かる。日本の民主主義を守護しているのは天皇制なのである。
事実、戦後80年間、日本国憲法の下で、太古的起源を持つ天皇制と近代的な立憲デモクラシーは葛藤しつつも共存してきた。2016年の「おことば」は、天皇の「象徴的行為」とは何かについての踏み込んだ憲法解釈を天皇陛下ご自身がなされたという点で画期的なものだったと思う。
その「おことば」の中で陛下は「日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴である」という憲法第一条が具体的には何を意味するかについて、新しい解釈を下した。それは「かつての戦地に赴き、そこで死んだ人々の霊を鎮め、災害で苦しんでいる被災民のかたわらに膝をついて慰藉する」ことである。鎮魂と慰藉、それが「象徴的行為」であるというのが新しい憲法第一条解釈であった。
これを天皇が国事行為について自分で解釈を下すなど違憲であるといきりたつ人がいたが、私はそうは思わない。憲法第一条における「象徴」の意味を思量する仕事を国民が怠っていたので、天皇陛下が自分でその仕事を引き受けたのである。これは天皇陛下が国民に向けて投げた「ボール」である。これに国民は答える権利があり、義務がある。私はそう思っている。「おことば」発出の直後に「私は天皇陛下の解釈を支持します」というステートメントを私は出した。別にそれを天皇陛下が読むと思って書いたわけではない。この問題提起に返事をするのは国民の権利であり義務だと思ったからそうしたのである。
こういう「やりとり」が存立し得るというところに、日本において民主主義が生き延びるための一筋の道が通っている。私はそんなふうに考えている。
話が長くなったので、そろそろまとめに入る。主題は「資本主義末期における国民国家のかたち」である。私の答えは、これに一般解はないということである。「国民国家」というのはウェストファリア条約以後の政治概念であって、人種、宗教、言語などにおいて同質性の高い「国民(Nation)」が「国家(State)」を形成していると、いろいろ便利(特に戦争に強い)というだけの話である。国民国家というのは、昔からあったものではないし、いつまでもあるものでもない(日本だって国民国家になったのは明治維新の時である)。国民国家は暫定的な政治制度である。でも、今のところ私たちの手元にはこれしか使えるものがない。ならば、瑕疵のあるところを補正し、欠落を埋め、圭角を削ぐというby piece-mealな手直しを繰り返して使い延ばすしかない。
さしあたりの急務は、外国ルーツの住民が全人口の3%を占め、このまま増え続ける中で、どうやってNationという概念を上書きしてゆくかという問いである。「日本は単一民族」というような妄想に取り憑かれたまま、昔ながらのNation概念で突っ張ってゆけば、外国ルーツの人たちはみな「非日本人」だということになる。現に日常生活のさまざまな場面で遭遇し、協働している人々を「よそもの」として遠ざけ、その権利を制限する排外主義に私は人道的に反対である。それよりは、理解も共感も絶した他者と共生し、協働して「よきもの」を創り出すことができるだけの市民的成熟を日本人がめざすことの方を私は選びたい。その努力を通じてNationの概念はむしろ厚みと広がりを増すだろう。
紙数も尽きたので、ここで筆を擱く。まとまりのない話で申し訳ない。(Greenz, 2月26日)