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内田樹さんの「『複雑化の教育論』文庫版のためのあとがき」(前編) ☆ あさもりのりひこ No.1847

「この世に存在しないもの」をめざす時に人間は自分の限界を超えた、高いパフォーマンスを示して、現実を変えることができる

 

 

2026年3月13日の内田樹さんの論考「『複雑化の教育論』文庫版のためのあとがき」(前編)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 みなさん、こんにちは。内田樹です。

 最後までお読みくださって、ありがとうございます。

 本書は4年前に出た『複雑化の教育論』の文庫化です。文庫化に際して「ボーナストラック」として本が出た後に受けたインタビューが付いています。

 「あとがき」として、少しだけ最近思っていることを書いておきたいと思います。

 

 教育論は時事性があまりありません。速報性とは関係がないから。扱っている事象がかなり古い話でも、だからと言って読む意味がなくなるということはありません。ですから、毎回同じ話をしても、そのつど「ううむ、そうかもしれない」と頷いてくれる読者がいてくれる。

 というわけで、僕は教育論の本をたくさん書いていますけれど、絶版になったものはごくわずかです。20年以上前に書いた『下流志向』や『先生はえらい』は今も重版されています。別に自慢しているわけじゃなくて、教育問題の本質は時代が変わっても変わらないということの例示です。

 でも、それは必ずしも「いいこと」ではありません。それは教育をめぐる問題はこの間少しも解決されていないということを意味してもいるからです。

 なぜ人はいつまでも教育論を語り続けるのか。それは教育論には正解がないからです。いつまでもずっと「問題」であり続ける。誰か賢い人が登場してきて「こうすれば問題はすべて解決するよ」と言って、それで世界中の教育問題が解決する、というようなことは絶対に起こりません。これは「絶対に」と断言してよいと思います。

 では、どうして教育論には正解がないのか。それは教育に人々がまったく異なるものを求めているからです。相容れない目標が同時に教育現場には押し付けられている。だから、解決しようがないのです。

 学校教育の目標の一つは「子どもの成熟を支援する」というものです。もう一つは「子どもを未熟のままにとどめおく」というものです。まったくめざす方向が違う。そして、皆さんも感じていると思いますが、今の日本の学校教育は子どもの成熟には特段の関心がありません。むしろ子どもたちに対しては「ものごとを深く考えるな」「世の中の不正義や不条理について語るな」「いいから黙って『上の人』の言うことを聞け」という無言の圧力を加えている。その圧力は学校現場に身を置いている人たちならみな感じているはずです。

 文部科学省は先日、全国の公立学校で昨年の4月1日時点で教員が4300人不足と発表しました。産休や離職で生じた欠員を補充できなかったのです。前回調査より1700人の増加です。教員になりたいという人が激減しているのです。

 それは当然だと思います。安い給与、長時間労働、そして部活、保護者対応、いじめ・不登校、特別支援学級・小学校からの英語教育・ICT教育などなど...業務はひたすら増えてゆくばかりです。そんな苦しい職場に来たいという若者が減るのは当然です。

 このまま教員不足が続けば、いずれ子どもたちにタブレット画面に出てくる教師の画像を見せて、それを以て授業に替えるということになるでしょう。このままならそうなると僕は思います。そして、別にそれを困ったことだと思っていない人たちがたくさんいる。「子どもにはタブレットでも渡しておけばいいじゃないか」と思っている人たちがいる。いるどころじゃなくて、日本では多数派に近づいているのかも知れません。

 この人たちは子どもたちの市民的成熟のために学校があるとは考えていません。子どもに社会人として必要な基礎学力を与えたら、後はできるだけ早めに将来の専門職を決めて、必要な知識と技能を集中的に詰め込む。それが一番効率的な教育だと考えている。この社会のシステムにぴったりはまる「歯車」を工場で作るように作ればいいと考えている。そういう人たちが、今の日本では教育制度の設計、教育政策の起案に強い影響力を持っています。

 僕はその人たちとは違う考え方をします。学校は子どもたちの市民的成熟のためにあると僕は考えているからです。集団が生き延びるためには、集団を担うだけの力を持つ未来の世代を創り出さなければならない。それこそが学校教育の責務だと思っています。学校は「歯車」を作る工場ではありません。

 たしかに、市民的に未熟で、あまり深くものを考えず、与えられた仕事を黙ってこなすような国民ばかりなら、「統治コスト」はずいぶん安く上がるでしょう。どれほど税金を取り立てても、人権を制約しても、何も言わない羊のような国民たちばかりなら、支配層の人たちは高笑いできるかも知れません。でも、そんな集団は長くは生き延びられません。だって、そんな集団からは「新しいもの」は何も生まれないからです。

 管理と創造はゼロサムの関係にあります。

 すみずみまで管理が行き届いて、「暗がり」も「ミステリーゾーン」も「バグ」もない社会からは何も「新しいもの」は生まれません。「新しいもの」というのは、いつでも「思いがけないところ」から「思いがけない人」によって「思いがけないしかた」でもたらされるものだからです。

 でも、あちこちに「隙間」がある制度を喜ぶ人は日本ではほんとうにわずかしかいません。それより、すみずみまで管理が行き届いた社会の方がいいという人たちの方が圧倒的多数派です。

 僕はそういう考えかたには反対です。本書でも繰り返し述べてきたように、学校は子どもたちの「市民的成熟を支援する」ための制度だと僕は考えているからです。深くものを考えずに、与えられた仕事を黙ってこなし、上位者に逆らわないような人間を量産するような仕事にはかかわりたくありません。

 「じゃあ、どんな学校制度がいいのか。代案を出してみせろよ」と急に言われたら、「はい、これです」と言って理想の学校をすぐにはお見せすることは僕にもできません。

 でも、長く教壇に立ってきましたし、長く道場で合気道の門人も育ててきましたので、経験的に確信できることはいくつかあります。その中から僕がとてもたいせつだと思うことを一つだけ挙げます。

 それは「この世に存在しないもの」をめざす時に人間は自分の限界を超えた、高いパフォーマンスを示して、現実を変えることができるということです。現実に存在しないものをめざすとき人間の現実変成力は最大化する。そういう命題に言い換えてもいいです。

 変な話を始めたとお思いでしょう。そうなんです。これから話すのはかなり変な話ですので、覚悟して読んでくださいね。

 

 具体的な例から始めます。先日、友だちが「今のAIは『内田樹みたいな文章を書け』と指示すると、内田そっくりの文章を出力するよ」と教えてくれました。ほんとかよと思っていたら、彼が実際にパソコンを叩いて、400字くらいのエッセイを出力してくれました。読んでみると、たしかに「僕が書いたみたい」な文章です。言い回しも似ているし、論理の運びも似ている。でも、一読して「これは僕が書いたのではない」とわかりました。何が違うのか。しばらく考えたらわかりました。「隙間」がないんです。「行間」と言ってもいい。

 「そこに書かれていること」の背後には、その何十倍、何百倍、あるいは何億倍もの「そこに書かれていないこと」があります。その「書かれていないこと」から押し出されるようにしてテクストは書かれるのです。でも、AIが書いたエッセイには「そこに書かれていないこと」が切迫してくる感じがまったくしなかったんです。

 でも、こんな説明じゃわかりませんよね。ああ、難しいなあ。なんて言ったらいいんだろう・・・と今僕は思っているわけですけれども、その「ああ、難しいなあ。なんて言ったらいいだろう」と書き手がじたばたしている感じって、今読んでいる皆さんにも伝わりますよね。「喉元まで出かかっているのだけれど、思いがうまく言葉にならない」という感じや「意あまって言葉足らず」という感じは誰でも経験したことがあるはずです。その「思い」や「意」が言葉を押し出して、記号化し、外形化して、現実のものにする。

 でも、この現実になった言葉の背後には、言葉にならなかった、現実にならなかった「思い」や「意」がわだかまっている。「わだかまっている」どころじゃない。「底知れぬ淵」をなしている。その「底知れぬ淵」から、時々何かのきっかけで泡が立つように言葉が生まれてきて、それがテクストになって、読者の前に差し出される。

 すべての言語表現の背後には、「底知れぬ淵」があります。でも、AIの書いた文章にはそれが感じられなかった。「言葉にならなかった思い」が言葉の向こう側でじたばたしている感じがしなかった。だから、一読してこれは「生きた人間が書いた文章ではない」と感じました。生きている人間が発する言葉の向こう側には「まだ言葉になっていないもの」が積層しており、そこから言葉が生まれてくる。