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そこに存在しないものを希求する動きはしばしば大きな現実変成力を持つ。
2026年3月13日の内田樹さんの論考「『複雑化の教育論』文庫版のためのあとがき」(後編)をご紹介する。
どおぞ。
以上はAIが書いた文章についての話。これは一つの例示です。何を証明するための例示であるかは、この先を読むとわかります。
二つ目の例示は僕が合気道の指導で実験している仮説です。そこに存在しないものを操作する動きは予測もできないし制止することもできないという仮説です。これも具体的な話をします。
相手がつかんできたり、抑えてきたり、斬ってきたり、突いてきたりする。それをさばいて技をかけるというのが武道の稽古の基本です。これはどんな武道でも同じ設定です。相手が攻撃してきて、適切な反撃をしないと殺傷されるという、心理的には非常にストレスフルな状況を設定しておいて、その上で恐怖や緊張で心身のパフォーマンスが著しく低下する状況でも適切な所作ができるように稽古をする。
僕は半世紀武道の修行をしてきましたけれど、経験的にわかったのは、こういう状況で最も効果的なのは「そこに存在しないものを操作する」動きだということです。
僕は「剣を抜く」という動作をよく使います。合気道は徒手の技ですから、もちろん剣なんか持っていません。でも、腰間に二尺五寸くらいの剣を差していると想像する。それを抜く。相手が斬りかかってくる時に、ふと刀が抜きたくなる。柄を握る、鯉口を切る。指が柄巻に絡む。白刃が横を通るときに頬がひやりとする。切っ先が鞘を離れる瞬間のエネルギーの発動を感じる...。そういう抜刀の動作の細部を想像して動く。すると、この動きを相手は予測できないし、制止することができないのです。ほんとに。剣という「そこに存在しないもの」を操作している僕の動きだけを外から見ると、鼠径部を搔いているようにも見えるし、鼻をこすっているようにも見えるし、前髪をかきあげているようにも見える。何をしているのかわからない。だから誰にも予測できないし、制止することもできない。
他の動作でももちろん構わないんです。筆を手にして空中に大きく文字を書く動きでもいいし、赤ちゃんを抱いて、ベビーベッドに寝かせる動きでもいいし、針の穴に糸を通す動きでもいい。何でもいい。
いや、何でもよくはないです。今例に挙げた動作には共通点があります。それは精密な動作を要求するということです。
筆で文字を書くとき、筆先は身体の正中線上になければならない。赤ちゃんを抱くときは絶対に落としちゃいけませんから、必ず赤ちゃんの重心が正中線上にくるように動く。針の穴に糸を通すときもそうですよね。正中線から外れたところで糸なんか絶対に通せません。包丁で葱を刻むときだって、箸でお蕎麦をつまみ上げるときだって一緒です。日常生活で精密な動作を行うとき、人間は必ず正中線上の、それも上丹田(眉間)の正面でそれを行う。そして、武道が要求するのは、まさにそういう動作なんです。たとえ白刃が斬り下ろされてくるような状況でも、筆で字を書くように、赤ちゃんを抱くように、普段している通りの動きをする。これが武道的にはきわめて有効なんです。不思議なことに。
そこに存在しないものをリアルに感じて、それを精密に操作する動きは心身の集中を要求します。死活的にストレスフルな状況に置かれたときに、相手の攻撃をどうよけるか、どうさばくか、どう反撃するか、ということを考えることを武道では「居着き」といいます。相手に固着することです。相手が次にどう来るのか予測し、それを阻止しようとすることを「後手に回る」と言います。後手に回ると必ず敗ける。相手がいつ何をするのかについての決定権を持っているからです。
「後手に回る」と、相手が「問題」を出して、こちらが「最適解」で応じる。そういう関係になります。出題者と受験生の関係ですから受験生に原理的に勝ち目はありません。どんなにがんばっても、「はい、何点」というスコアをつけるのは相手なんですから。どういう基準でその点がついたのかも開示されないし、「じゃ、次の問題」と言われたら、あわてて鉛筆をつかむしかない。これが「後手に回る」ということです。
武道では、居着いてはならない、後手に回ってはならないと教えます。でも、状況設定そのものが「相手が斬ってきた」とか「相手がつかんできた」というものですから、構造的にすでに「後手に回っている」。
「最適解」を要求する受験生的状況からどうやって抜け出すか。これが武道家にとっての永遠の技術的課題なわけです。僕のこの課題に対する暫定的な仮説は「そこにないものを想定すると後手に回らない」というものです(「暫定的」ということは、この後、僕の術理の理解が変化すれば、この仮説は放棄されて、せいぜい「より包括的な仮説の一部」になるということです)。
これが二つ目の例示です。最初の例示との共通点がわかりましたか。それは「存在しないもの」こそが現実を劇的に変成させるということです。
エビデンスを出せとかデータはあるのかとかいうことをうるさく言い立てる人たちはあまり創造的な仕事ができないということは皆さんも日々感じていることだと思います。そういうものなんです。現実に居着いている人間は現実を変えることができない。そういう命題に言い換えてもいいです。そこに存在しないものを希求する動きはしばしば大きな現実変成力を持つ。これは長く生きてきて僕が確言できることです。「強く念じたことは必ず実現する」と言い換えることもできます。これは僕の合気道の師である多田宏先生から教えて頂いた言葉です。それを信じて50年間修行してきて、「その通りだ」としみじみ実感しているのですから、皆さんも僕の言葉を信じて大丈夫です。
学校教育はどうあるべきかという話をしているところで、だいぶ話が横に逸れてしまいましたけれど、僕が言いたいことは皆さんにもだいたい伝わっただろうと思います。
「そこに存在しないもの」について解像度の高いイメージを持つことができる人は現実を変えることができる。信仰がそうです。超越的なもの、神や仏は現実には存在しません。でも、その臨在を感じ、それを希求することで、人類はその生を豊かなものにしてきました。
武道もそうです。武道というのは「超越的なもの」を求め、それを自分の身体を通じて発動するための技法の体系です(という定義をする人はそれほど多くはないと思いますけれど、僕はそういう立場です)。ですから、僕の道場にはもちろん神棚があります。公立体育館の武道場には神棚がありません。「政教分離」の原則ですから仕方がありません。でも、「超越的境位への回路」を持たなければ武道の修行はできないと僕は思っています。ご本尊の置いてないお寺、ご神体のない神社、十字架のない教会を想像してみてください。そこで宗教的な成熟をめざすことができると思いますか。僕は思わない。
武道は「そこにないもの」との関わりを深める修行です。「柳生宗矩の書いた『兵法家伝書』に「機を見る」という言葉があります。機を見ることができない人は、いなくてもいい場所に行き、言わなくてもいいことを言い、しなくてもいいことをして失命することがある。でも「機」なんて目に見えるものじゃありません。エビデンスもデータもない。計測機器もないし、数値化することもできない。でも、それを「見る」ことができるようになるために僕たちは稽古している。
「場の気の流れに乗じて自在を得る。」そういう言葉を僕は道場で使います。でも、「場の気の流れ」なんて目には見えません。もちろん計測もできない。でも、稽古しているうちに確かにそれがわかるようになる。場を領する気の流れに身を委ねて動くという感じがわかるようになる。「私が動く」という主体的な感じが希薄化し、「何かが私の中を通り抜けて発動する」という感じになってくる。「我執を去る」というのはそういう感覚のことだと僕は思っています。その境位に達すれば、攻めるべき敵もなく、護るべき我もなくなる。それが「天下無敵」という理想です。
もちろん、僕程度の武道家はその理想からは遥か遠く、修行未熟ゆえにまだ現実に足を取られてじたばたしています。でも、目標が「そこ」だということははっきりわかっています。
そういうふうに「そこにないもの」に駆動され、あるいは「そこにないもの」を希求することで人間はより人間的に成熟してゆく。僕はそういう考え方をしてます。ですから、学校もそうであって欲しいと思う。「管理」というのは現実に居着くことです。「創造」というのは「そこにないもの」を希求することです。この二つはゼロサムの関係にあると先ほど書きました。でも、人間の棲む場所はその「中ほど」のところです。
ある程度の管理は集団が生きてゆくためにはどうしたって必要です。それはゲームのルールのようなものです。ボールゲームでは「フェア」と「ファウル」を隔てるラインがあり、プレイヤーの数やゲームの持続時間や点数の数え方をまず決めておきます。決めておかないとそもそもゲームが始まらない。でも、いったんゲームが始まったら、あとはどれほど「創造的」で、ファンタスティックなプレーをするかにプレイヤーたちは集中する。そういうものです。
どうやって管理と創造を折り合わせるか。折り合わせるということについては「これが正解」ということはありません。だから、先ほども「これさえやれば学校教育の諸問題は解決」というようなオールマイティはないと申し上げたのです。
なんだかまとまりのない話になってしまってすみません。もう指定の紙数を大幅に超えてしまったので、この辺で筆を擱くことにします。教育論に終わりはありません。このあとも僕は大学や道場で引き続き教育事業にかかわり続けることなりますので、考え方も少しずつ変わってゆくと思います。ですからこれからも教育論を書き続けることなる。次の本でまたお会いしましょう。
最後になりましたが、本書の単行本の時も、文庫化の時も、編集の刑部愛香さんにお世話になりました。ご尽力にお礼申し上げます。彼女がいなければこの本は存在していません。この本そのものが彼女の「強く念じた」力がもたらした現実の一例なんです。ほら、書いた通りでしょう。
2026年3月
内田樹