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なら法律事務所
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2025年
6月
05日
木
2025年5月の放射線量と体組成とランニングについて書く。
まず、奈良県橿原市の環境放射線量(ガンマ線)から。
2025年5月の平均値はつぎのとおり。
室内1メートル 0.0445μ㏜/h
室内0メートル 0.0468μ㏜/h
室外1メートル 0.0605μ㏜/h
室外0メートル 0.0736μ㏜/h
室外が高い。
つぎに、朝守の身体について。
2025年5月31日の数値はつぎのとおり。
体重 73.55㎏
BMI 23.2
体脂肪率 17.7%
筋肉量 57.40㎏
推定骨量 3.1㎏
内臓脂肪 13.0
基礎代謝量 1657㎉/日
体内年齢 50才
体水分率 57.4%
あまり変わらない。
最後に、2025年5月のランニングの結果。
走行時間 19時間07分25秒
走行距離 150.31㎞
累積上昇 2441m
まずまずかな。
2025年
6月
04日
水
「日本型コミューン主義」というのは、サイズの異なる「社稷=コミューン」が列島に並立し、それを天皇が象徴的にゆるやかに統合するという統治モデルのことです。
2025年5月13日の内田樹さんの論考「月刊日本インタビュー「権藤成卿論を書いて」(その2)」をご紹介する。
どおぞ。
―― 「帝国の再編」において、日本はどういう立場になりますか。
内田 日本の選択肢はとりあえず「アメリカの属国であることを続ける」「中国の属国になる」「独立する」という三つです。日本の支配層は第一の選択肢しか頭にありません。「日米同盟基軸」以外の国家戦略を考えたことがないのだから、仕方がない。ですから当面は「トランプ皇帝」の恣意的な命令に従って防衛費を積み上げて米国製の兵器を爆買いし、在日米軍基地のための「おもいやり予算」を増額し、憲法9条を廃止して自衛隊を米軍の「二軍」として差し出す......というふうにひたすらアメリカのご機嫌を伺って、実質的に国を切り売りするという以外に自分たちの政権を維持する道筋を思いつかないと思います。
しかし、今の自民党なら第二の選択肢も案外あっさり受け入れるかも知れません。日本は華夷秩序の中で「高度の自治を許された東夷の属領」でした。「親魏倭王」の官命を下賜された卑弥呼から「日本国王」を名乗った足利将軍、「日本大君」を名乗った徳川将軍まで1600年間、明治維新まで日本の為政者は形式的には久しく辺境自治区の「王」でした。日本が華夷秩序から離脱してまだ150年しか経っていないのです。そもそも「日本」という国名そのものが「中国から見て東」という意味なんです。それを嬉々として国名にしている。幕末には「日本」という国名を廃するところからしか国の独立は始まらないと主張した矯激な志士もいました。論理的にはその通りなのです。でも、それに同意して「日本というような屈辱的な国名を廃せ」という志士は後に続かなかった。それほど深く華夷秩序のコスモロジーは日本人に内面化しているということです。ですから、習近平が「天皇制と民主政には手を付けない」と約束してくれたら、日本人は割とあっさりと中華人民共和国の辺境として、中国に「朝貢」して生きるという道を選ぶかも知れない。
最も望ましくそして最も難しいのは第三の選択肢です。
かつてサミュエル・ハンチントンは『文明の衝突』で、日本は中華文明にも西欧文明にも属さない独自の文明圏であるとみなしました。ハンチントンが本を書いた1990年代には日本にはそれくらいの潜在的な国力があると思われていたのです。でも、現在の日本はアメリカの属国であることに慣れ切って、もう単立の帝国を打ち立てるだけの気概も実力もありません。
それでも日本がどの帝国にも帰属せず、独立を全うしようと願うなら、固有の地政学的ポジションを生かすしかありません。アメリカ帝国の「西の辺境」、中華帝国の「東の辺境」というあいまいな位置を活かして、「帝国の隙間」をニッチとして生き延びるチャンスもあります。
この点では韓国も同じです。日韓両国は地政学的には運命を共にしています。それゆえ独立をめざすなら「日韓同盟」が ベストの選択だと僕は思います。日韓を足すと人口1億8000万人、GDP6兆ドル(世界3位)という巨大な経済圏ができ上がります。軍事力でも今は韓国が世界5位、日本が8位ですから米中二大帝国の隙間に埋没することはありません。そして、米中と等距離外交を展開して中立地帯を形作る。帝国との同盟という「連衡」策ではなく、中規模国家同士の「合従」策を採るのです。
それに「列強の支配に抗して日韓両国が手を結ぶ」という物語に日本人なら聞き覚えがあるはずです。かつて権藤成卿、内田良平、鈴木天眼、樽井藤吉、宮崎滔天らは朝鮮の全琫準や金玉均らと共に日韓同盟を策しました。結果的に日本のアジア主義者たちは「日韓同盟」の素志を失って、列強を真似て朝鮮を「併合」するという愚策に堕してしまった。でも、初発の動機には純粋なものがあった。
ですから、再び「日韓同盟」の可能性をめざすには、明治20年まで立ち戻り、そこからやり直す。僕が『日本型コミューン主義の擁護と顕彰』を書いたのは、権藤成卿を手がかりに「日韓同盟」構想をその原点から吟味するためです。
―― 帝国の再編に伴い、日本国家も解体に向かう恐れがあるのではありませんか。
内田 日本も経済格差が拡大し、地縁・血縁共同体が崩壊して個人が原子化し、「公共」が痩せ細り、国家的統合を失いつつあります。国民的統合を再建するためには、もう一度公共を豊かなものにすること、「コモンの再生」が不可欠です。
権藤成卿は「聖王と良民」が中間的権力装置を排除して直接結びつく「君民共治」「社稷自治」という日本型コミューン主義のうちに日本再生の道を求めました。僕はこのアイディアは基本的には正しいと思います。もちろん、一切の中間権力装置を廃した「君民共治」という政体は過去に一度も実現したことがないし、これからも実現することはないでしょう。でも、実現不能であっても、それを理想としてめざすことはできる。というか、実現不能の理想を持つことなしに、現実を変えてゆくことはできない。
困難な理想を掲げる人を「非現実的だ」と嗤う人がいますけれども、何の理想も持たず、ただ現実を追認するだけの人間は決して現実を変えることはできません。「後手に回る」人間は必ず敗ける。当たり前のことです。
政治において「先手を取る」というのは、実現困難であっても誰もが同意できる理想を掲げることです。それに向かう道を愚直に歩むことです。それなら道なかばで倒れても少しも悔いることはない。
「日本型コミューン主義」というのは、サイズの異なる「社稷=コミューン」が列島に並立し、それを天皇が象徴的にゆるやかに統合するという統治モデルのことです。太古的な起源を持つ天皇制と近代的な立憲デモクラシーを両立させることです。これは困難な課題です。過去にこんな事例が存在しないからです。だから、どこかにできあいの「正解」があって、それを適用すれば成るというものではない。世界の誰も僕たちに代わって「こうすればいいよ」と教えてくれたりはしない。日本人が自分で考えるしかない。
でも、「氷炭相容れざる」二つの統治原理を両立させるために葛藤することで政治単位として生きるというのは別に珍しいことではありません。アメリカがそうです。「自由」と「平等」は原理的に両立しない。でも、それを何とか折り合わせようとする努力を通じてアメリカはその国力を増大させてきました。今アメリカが没落しているのは「自由と平等は両立しない(だからどちらかを諦めよう)」という単純な統治原理に人々がすがり始めたせいです。
人は葛藤を通じて成熟する。それは集団も同じです。葛藤するのは嫌だ、単一原理で統治したいと思ったら国は衰退する。ハミルトンやマディソンの『ザ・フェデラリスト・ペーパーズ』とピーター・ティールの『ゼロ・トゥ・ワン』を読み比べると、「自由と平等の葛藤」をまっすぐに受け止めた建国の父たちの政治的見識の深さと、現在アメリカを支配している単純な超自由主義(勝った者が総取りし、負けた者は路傍で野垂れ死にすることで社会は加速的に変化してゆく)の幼児性の対比に驚嘆するはずです。
僕たちが権藤の社稷の思想を前に進めるためには、「コミューンを統合する機能は果たすけれども、決して中間権力化しない統治機構」を構想しなければなりません。この時に僕はハミルトンたちフェデラリストの政治思想は参照すべき足場になると思います。
独立宣言の後、合衆国憲法が制定されるまで11年の歳月を要したのは、独立13州の州政府にもともと有していた政治的実力を委ねるか、それとも連邦政府に常備軍を含む巨大な権限を委託するか、それについて国民的合意が得られなかったからです。フェデラリスト(連邦派)は連邦政府に大きな権限を託すことを求めましたが、多くの国民は自分たちの身近にある州が政治的実力を維持し、連邦はあくまでその形式的な連合にとどまることを望みました。
ハミルトンはその時に連邦派を代表して、仮にヴァージニア州に英軍が侵攻した時に、コネティカット州が「よその国(state)を守るためにわれわれが金を出し、血を流す義理はない」と言い出したらどうやって合衆国の独立は守れるのかと問いました。これは空想的な仮定ではなく、日本の幕末には実際に起きたことです。長州を四カ国の軍が攻めた時も、英国が薩摩を攻めた時も、他の藩は「対岸の火事」だと傍観した。いくつもの政治単位を統合する政府(連邦政府/明治政府)がなければ国は保てないのです。
日本型コミューン主義でも、列島に広がるいくつものコミューンを統合する統治機構が必要です。いわば「インター・コミューン・ガバメント」(共同体をとりまとめる政府)です。「君」と「民」の間に、「決して権力化することのない官」という逆説的な政治機能を立ち上げなければならない。「君民共治」を実現するためにはそのような「官」がどうしても必要なのです。では、それはどのようなものであるべきか。
これについてもハミルトンは深い洞察を語っています。州政府は同質性の高い州民たちによって構成されています。気質も宗教も生活文化も近い人たちが集まっている。州は共感と同質性に基づく血の通った共同体なのです。一方、連邦政府は観念的な工作物です。独立戦争という急場をしのぐために暫定的に作った仕組みです。ですから、もし、連邦政府と州政府の間で意見の対立があった場合に、ほとんどの州民は「ことの理非にかかわらず」、州政府の側に立って、銃を執って連邦政府と戦うはずです。
だからこそ州に軍事力を与えてはいけないとハミルトンは説きます。「権力は人々が心を許せる者の掌中にあるより人々が猜疑の眼を以て見守る者の掌中にある方が無難だからである」(第二十五編)。
これは政治的に成熟した人にしか語れない知見だと思います。コミューンの上位にあって、それを統合する権限を委ねられた政府を人々はつねに「猜疑の眼を以て見守る」必要がある。つまり、統治機構は「共感と同質性」ではなく、「社会契約」という「観念的なつくりもの」の上に置かれなければならないということです。
この理路はそのまま「君民共治」における「官」にも当てはめることができると思います。人民にとってコミューンは「心を許せるもの」です。でも、インター・コミューン・ガバメントは「猜疑の眼を以て見守る」べきシステムです。あるいは、コミューン=社稷は自然発生的な有機的共同体だが、インター・コミューン・ガバメントは社会契約に基づく擬制であると言い換えてもよい。
権藤成卿は「私はただ綺麗なものがほしいのです」という言葉を残しています。彼にとって「君」と「民」は「綺麗なもの」でしたが、「官」は「汚いもの」でした。しかし、僕たちが「君民共治」の理想を目指すならば、中間権力機構という「汚いもの」について、その「汚さ」を最少化する有効な手立てを思量し続けなければなりません。この作業に終わりはないと僕は思います。
2025年
6月
03日
火
本日、6月3日は事務局が担当です。
今日は、あいにくの雨模様で、終日やまない予報です。
多くの方は、この様な天気の日は、うっとうしく、好む方は少ないと思います。
私も、傘をさすことが嫌いで、多少の雨で、傘をさす距離が短ければ、ささずに小走りで、行ってしまいます。
そんな、私がこの時期の、この様な天気の日に楽しみにしていることの一つが、紫陽花(アジサイ)を観ることです。
今、私の周りの紫陽花は、殆どが開花し、これからが見頃です。
それに紫陽花は、なんと言っても雨に濡れている様子が輝いて美しいと思います。
そして、紫陽花の楽しみ方の一つは、花の色が、これから変化していくことです。
別名「七変化(しちへんげ)」とも言われ、古くから俳句や和菓子などでよく使われているようです。
この花の色は、土壌の酸性度によって変化するそうです。
我が家でも、頂いた紫陽花がまもなく開花します。
年に1度か2度剪定するくらいで、殆ど手間無く毎年花がさきます。
また紫陽花の花は、「お花が集まっている」ことに着目して、花言葉として、日本では「家族団欒」「団結」「平和」「友情」など前向きな言葉が多いようです。
皆さんも雨の日など、憂鬱な時は、紫陽花を観て、変化を楽しみ、元気をもらって、前向きな気持ちを得てください。
2025年
6月
03日
火
権藤成卿の政治思想はたしかに理説としての精度は高くはありませんし、現実の政策に展開するにはあまりも観念的です。でも、間違いなく日本の土から生まれた思想です。国難的危機に際会したときに、巨大な政治的エネルギーを呼び覚ますことができるのは権藤のような土着の思想だと僕は思います。
2025年5月13日の内田樹さんの論考「月刊日本インタビュー「権藤成卿論を書いて」(その1)」をご紹介する。
どおぞ。
―― 内田さんは新著『日本型コミューン主義の擁護と顕彰 権藤成卿の人と思想』(弊社刊)で、戦前のアジア主義・農本主義の代表的思想家である権藤成卿の思想を再評価しています。
内田 権藤成卿は「聖王と良民」が中間的権力装置を排除して直接結びつく「君民共治」「社稷自治」を理想とする政治思想を唱えました。政治思想としての完成度は決して高くありませんが、これが日本人が外来の思想に頼ることなく自力で生み出したオリジナルな政治思想であることは間違いありません。
どのような国民集団も自分たちの存在理由、存在根拠についての固有の「物語」を持っています。現実の政策がその物語に合致していれば、それは強い現実変成力を持ち、物語に合わない政策は、表面的には合理的なものに見えても、現実を変えるだけの力を持たない。
現在、日本はシリアスな、国難的危機に直面しています。これに対処するためには、区々たる政治的立場の違いや階級の違いを超えて、国民的規模でひとつにまとまる政治思想が必要です。そして、それは日本固有の、土着のものでなければならない。どこかから「出来合いの正解」を持ち込んできても使い物になりません。僕はそう思っています。
権藤成卿の政治思想はたしかに理説としての精度は高くはありませんし、現実の政策に展開するにはあまりも観念的です。でも、間違いなく日本の土から生まれた思想です。国難的危機に際会したときに、巨大な政治的エネルギーを呼び覚ますことができるのは権藤のような土着の思想だと僕は思います。
―― 内田さんは現在の危機をどう見ていますか。
内田 世界は間違いなくカオス化しています。でも、まったくランダムに秩序が崩れているわけではない。一つの方向性はあります。
明かなのはアメリカが超覇権国家としてのグローバル・リーダーシップを失うということです。トランプ政権は「アメリカファースト」を掲げて国連を中心とする戦後の国際秩序から撤退しようとしています。
アメリカの戦後80年のリーダーシップはかなり欺瞞的なものでしたけれども、「民主主義の宣布、人権の擁護、科学技術の進歩」という「建て前」だけはなんとか手離さずに来た。本音は「アメリカさえよければ、それでいい」であっても、建て前では「世界、人類のためにアメリカは汗をかいています」という「痩せ我慢」をしてきた。しかし、トランプはその「偽善」を笑い飛ばしました。世界中の国が自国益の最大化をめざして好きに行動している時に、どうしてアメリカだけが「世界のために」金を出し、血を流さなくてはいけないのか。どうしてアメリカは「ならずもの国家」になってはいけないのか。きれいごとの建前を放棄すれば、アメリカは間違いなく「世界最強のならずもの国家」になれる。グローバル・リーダーよりもその方がオレはいい。トランプが言っているのは要するにそういうことです。その粗暴な本音をアメリカの有権者の過半が支持した。
ホッブズやロックやルソーの近代市民社会論が説いたのは、「万人の万人に対する戦い」の世界では、どれほど強い個体も安定的に自己利益を確保することができない。だから、ほんとうに人間が利己的にふるまうなら、あえて私権の一部を譲渡し、私財の一部を供託することで「公共」を立ち上げるはずである、という理路でした。国連やさまざまの国際機関はこのアイディアを国際社会に適用したものです。「万国の万国に対する戦い」を停止するには、「公共」を立ち上げねばならない。そう考えて国連や国連軍は創設された。でも、ご承知のように、このアイディアは市民社会のようには現実化しませんでした。
第一次世界大戦後の国際連盟、第二次世界大戦後の国際連合、二つの国際協調主義が試されたましたけれど、いずれも機能不全に陥った。近代市民社会モデルを国際政治に適用することはどうも難しいようだということを人類は学んだ。そこで、20世紀以前の「帝国による世界秩序」に回帰することにした。「歴史の引き出し」をどれだけかき回してみても、国際社会がそれなりに秩序を保っていたスキームとしては、それしか見つからないからです。
帝国が瓦解して、国民国家に分割されたのは、19世紀の間に起きたことですが、帝国解体の最大の理由は「帝国モデルでは国民国家に戦争では勝てない」ということをナポレオン戦争が証明したからです。帝国モデルでは「総力戦」が戦えない。政府と軍隊だけでなく、財界も学界もジャーナリズムも銃後の市民も全員を戦争に動員できるモデルは国民国家しかなかった。だから、ヨーロッパの人々は争って帝国を解体して、国民国家に仕立て直した。
日本で明治維新が起きたのも、それぞれの藩の利益を最優先に考える276の政治単位が並立するという「帝国モデル」の幕藩体制のままでは、戦争に負けて、列強の植民地になるというリアルな危機感に迫られたからです。それは単立の藩である長州が英仏米蘭の四カ国軍と戦争して負け、薩摩が英国と戦争して負けたことで証明されました。
確かに国民国家になった日本は戦争には強かった。列強による植民地化に抗うことはできた。けれども、国民国家モデルでは、国同士の戦いが起きた時にそれを調停し、仲裁し、理非を決する「上位審級」を創り出すことはできません。そのことが国連の機能不全でよくわかった。そこで人々は(無意識のうちに)国民国家モデルがうまくゆかないなら、国民国家以前のスキームに戻ればいい・・・・というふうに考え始めている。というの僕の推理です。
これから世界は旧中華帝国、旧ロシア帝国、旧神聖ローマ帝国(EU)、旧ムガール帝国(インド)、旧オスマン帝国(中近東)、新アメリカ帝国という6つの帝国圏に再編されてゆくと僕は考えています。アメリカ帝国が没落途上である今、単独で世界を支配できるだけの力を持つ帝国は存在しません。ですから、帝国は互いの国内秩序には干渉せず、それぞれの勢力圏を決めて「棲み分け」をする。それで暫定的には「今よりまし」な世界秩序がもたらされる。たぶんそういう見通しを多くの人が持つようになっているのだと思います。
帝国の勢力圏が確定するまでの過渡期には小規模の戦争や紛争は続くでしょう。ウクライナ戦争はEU帝国とロシア帝国の勢力圏確定をめぐる衝突ですし、台湾有事が起きるとしたら、それはアメリカ帝国と中華帝国の勢力圏確定をめぐる衝突として起きる。
2025年
5月
30日
金
「インセル」というのはInvoluntary Celibate 。「不本意独身者」。心ならずもパートナーを得られない人のことである。
2025年5月2日の内田樹さんの論考「インセル男性と嫉妬」をご紹介する。
どおぞ。
英国政府はこれから過激なミソジニー(女性嫌悪)をイスラム原理主義や極右運動と同じ「過激主義」の一形態とみなすと発表した。その記事の中に「インセル犯罪」という文字列があった。「インセル」というのはInvoluntary Celibate 。「不本意独身者」。心ならずもパートナーを得られない人のことである。
過激なミソジニーの担い手はこのインセル男性である。米国では女性を無差別に攻撃し、殺害する事件が繰り返し起きている。彼らはフェミニズムが自分たちから進学や就業の機会を奪ったという「物語」によっておのれの不運を説明し、罰を与えるために女性を殺し、自分も死ぬ。救いがない。
こういう話を聞くと、「男は弱い」とつくづく思う。私には娘が一人いる。未婚である。どうして結婚しないのかと前に訊いたら「男のエゴを撫でて過ごすほど私の人生は長くないから」という答えだった。「なるほど」と言う他なかった。
たぶん男たちは誰かからの敬意と承認を絶えず受け続けていないと「もたない」存在なのだろう。だから、男たちは権力や財貨や威信を追い求め、敬意を強要し、人に屈辱感を与える機会を逃さない。
時々見知らぬ人から激烈な罵倒メールが送られてくる。たぶん彼らは「自分がいるべき地位を内田が不当に占めている。そこから出て行け(俺に返せ)」と言いたいのだろう。
この世界の罪の多くは十分な敬意と承認を得ることができなかった男たちの嫉妬心が生み出している。たぶんそうだと思う。だが、嫉妬ほど不毛な感情はない。そこからは「よきもの」が何一つ生まれない。しかし、相対的な優位を目指す競争を通じて初めて男たちはその潜在能力を発揮するという有害な物語は今も宣布され続けている。インセル犯罪は、勝者がすべてを取り、敗者には何も与えないのが「社会的フェアネス」だと教えてきたことの論理的帰結である。もうそういう考えを捨てる時期だと思う。
(信濃毎日新聞 4月4日)
2025年
5月
29日
木
5月23日(金)早朝、全力・ジョギング・全力、39分47秒、6.18㎞、平均ペース6分26秒/㎞、総上昇量76m、消費カロリー427㎉。
1 7分14秒(580m)
2 5分45秒
3 5分52秒
4 7分56秒
5 7分39秒(550m)
6 5分24秒
7 6分06秒
8 6分26秒(60m)
5月24日(土)、休足。
5月25日(日)午前、ジョギング、1時間36分14秒、12.52㎞、平均ペース7分41秒/㎞、総上昇量199m、消費カロリー864㎉。
1 7分13秒
2 7分17秒
3 9分18秒
4 7分49秒
5 6分58秒
6 6分35秒
7 7分22秒
8 7分04秒
9 7分39秒
10 10分55秒
11 8分21秒
12 6分36秒
13 5分58秒(520m)
5月26日(月)早朝、ビルドアップ走、37分50秒、6.19㎞、平均ペース6分07秒/㎞、総上昇量92m、消費カロリー428㎉。
1 6分42秒
2 6分22秒
3 5分52秒
4 6分06秒
5 5分53秒
6 5分51秒
7 5分40秒(190m)
後半が、上がらなかった。
5月27日(火)早朝、インターバル走、38分29秒、6.2㎞、平均ペース6分13秒/㎞、総上昇量96m、消費カロリー431㎉。
6分45秒(210m)
1 5分39秒、9分35秒(180m)
2 5分42秒、8分14秒(240m)
3 5分58秒、7分39秒(450m)
4 5分44秒、8分15秒(90m)
5 5分59秒、5分25秒(20m)
5月28日(水)早朝、室内トレーニング。
夜、トレッドミル、30分、4.15㎞、傾斜3.0%、時速8.4㎞(7分00秒/㎞)、消費カロリー396㎉、手首に重り1㎏×2。
5月29日(木)早朝、安藤大さんのアントレ、足首に重り約0.5㎏×2。
2025年
5月
28日
水
人間は自分の身体をモデルにして機械や制度を作る。
人間のややこしいところは、こうやって創り出した機械や制度に呪縛されて、機械や制度に合わせて身体を使うようになることである。
2025年5月2日の内田樹さんの論考「身体の外部化」をご紹介する。
どおぞ。
人間は自分の身体をモデルにして機械や制度を作る。たぶんそうだと思う。建物は上階に偉い人がいて命令を出す。階が下がるほど身分が下がり、地下には駐車場やボイラー室がある。どんな独創的な建築家もこの逆の構造体(地下に社長室があって、最上階に倉庫がある建物)を提案したことはないと思う(しても施主が一瞬で却下する)。それは、これが脳とそれ以外の部位の関係を外部化したものだからだ。社会制度も同じである。上に「頭」がいて、下に「手足」や「股肱」が配される。
人間のややこしいところは、こうやって創り出した機械や制度に呪縛されて、機械や制度に合わせて身体を使うようになることである。これは稽古を見ているとわかる。社会的地位の高い中高年男性には「脳が運動を中枢的に支配する」システムに居着く人が多い。「現場に権限移譲する」ことに強い心理的抵抗が働くのだろう。
脳支配が過剰だと手の操作にリソースが優先的に分配される。手が気になるので、手が視野の中にないと落ち着かない。実際には手の可動域は視野の外にまで広がるのだが、手を視野内に収めたいので、動きが小さくなる。「ほう・れん・そう」とかうるさく部下に指示して、自分の目の届かないところで「手足」が勝手に動くことを許さない中間管理職みたいなものである。
社会制度を身体に取り込み、身体を機械のように操作する人たちの思い込みを解除して、そもそも制度や機械は身体内部で起きていることを外形化したものに過ぎない、身体にはもっと豊かな可能性があると理解させることも稽古の大切な目標である。
でも、「自分で作り出したものに呪縛されることをマルクスは『疎外』と呼びました。脳の支配から身体を解放しなければなりません」と説明しているうちに、このような言葉づかいそのものが「階級闘争」という外部の事象を身体に取り込んで説明しようとしているのだということに気がついて愕然とするのである。
(月刊武道 3月20日)
2025年
5月
27日
火
みなさん、こんにちわ。本日は事務局担当日です。
最近週末になるとお天気がぐずつくことが多いですね。
先々週のお天気によかった週末に、夫と信貴山の朝護孫子寺に行って参りました🐯
トシオンナの私、今年は神様パワーを頂くために巳にまつわるお参りに関心が惹かれております。
朝護孫子寺は、世界一大きな振り子の寅があることで有名ですが、
今から約1400年前、
物部守屋との戦いに苦戦した聖徳太子が信貴山に勝利のお祈りしたところ、
「寅の年、寅の日、寅の刻」聖徳太子の前に毘沙門天が現れ、そのご加護で聖徳太子が勝利。
聖徳太子によって「信ずべき、尊ぶべき、山」=「信貴山」と名付けられ、お寺(朝護孫子寺)を建立し、寅にゆかりのお寺になったそうです。
その朝護孫子寺の成福院(融通さん)。その横手にある三福神堂で12年に一度(巳年・巳の月)の財宝運と技芸運を司る信貴弁財天様が御開帳される、ということを偶然知り、これもご縁、とお参りしてきました🙂
私は、朝9時前に着いたので、まだどなたもいらっしゃいませんでしたが、
お昼頃にはたくさんの方がお参りに並ばれていました😲
↓ 左から3枚目の左下に移っているのが三福神堂です。弁財天様は撮影禁止です
さらに、信貴山頂のお堂「 空鉢護法堂」には
毘沙門天の眷属である八大龍王の上首・難陀竜王(なんだりゅうおう)を祀られ、(信仰篤き者には)一願成就のご利益を得られる、とのことです。
巳の石像がお祀りされているとのこと、これは是非お参りせねば!!
境内の案内には「600メートル」とあるので、まぁ、大丈夫でしょう!と登り始めましたが・・・・
九十九折りの山道。ゆるやかといえど、これがなかなかしんどい!あと○○メートル、とも書かれていないので、
いつまで続くのか・・・・
道すがらおびただしい数の朱塗りの千本鳥居をくぐり、ひぃひぃしながら森の澄んだ空気の中を登ること20分・・・
難陀竜王のお堂(空鉢護法堂)とそれを取り囲むようにたくさんの龍神様の祠が!
そして、山頂からは、二上山、大和葛城山、金剛山や大阪平野が一望でき、
絶景が広がっていました😄
頑張って登ってよかった~!!
お参りが無事終わったあとは・・・・お約束のおいしいもの巡りです😏
「曽我乃家本店」で寅まんじゅうをほおばりながら、
最近できた「むかでのたまご」というなんとも面白いネーミングの
ドーナツを頂き、最後は「アベノ日本一」でラーメンを頂き、
心もおなかもいっぱいになりました♪
2025年
5月
26日
月
この流れに掉さす人たちが選好するメタファーが「レッド・ピル」である。『マトリックス』でモーフィアスがネオに選択を迫る錠剤のことだ。青い錠剤を飲めばマトリックスが紡ぐ夢の中に戻れる。赤い錠剤を飲めば冷厳な現実に目覚める。
2025年5月2日の内田樹さんの論考「『テクノ封建制』と中世への退行」をご紹介する。
どおぞ。
ヤニス・バルファキスの『テクノ封建制』(集英社)の書評を頼まれた。書評と言ってもオンラインで行われた編集者、ライターとの対談を文字起こしするだけである。でも、とても興味深い本だったので、1時間ほど話した。
バルファキスは2015年のギリシャ経済危機の時に財務大臣に招かれて経済の立て直しに尽力した経済学者である。現場を熟知している人ならではの分析には説得力があった。
バルファキスによれば、ネット上のプラットフォームを独占的に所有している企業(アップル、グーグル、アマゾンなどなど)が今や「資本主義から抜け出してまったく新しい支配階級」を形成している。彼らはもう質が高く安価な製品を市場に提供して、競合他社を制してシェアを増やすという在来のビジネスモデルを採用しない。そうではなくて、誰も競争相手のいない「ブルーオーシャン」に乗り出して、一気に市場を独占するのである。そして、その「封土」にやってくるユーザーたちから「地代」を徴収する。
バルファキスはこの経済システムを「テクノ封建制」と呼ぶ。「資本主義が変異して最終的に行き着いた姿」である。これまでは資本家がプロレタリアートの労働力から剰余価値を収奪していたが今は違う。支配者は「クラウド領主」というものになった。彼らの封土は地上ではなく、雲の上にある。中世の封建制のときのように領主たちはユーザーすなわち「クラウド農奴」たちから「地代(レント)」を徴収する。
このモデルの創始者はスティーブ・ジョズ。彼はiPhoneによって世界最初の「クラウド領主」というものになった。アップルの資源を社外のエンジニアに無料で利用させて彼らが作ったアプリを「ストア」で販売したのである。グーグルはアップルを追って同じやり方で「封土」を二分することになったが、他のメーカー(ノキアやソニー)は「自社ストア」を持つというアイディアを思いつかず、「クラウド領主」たちが何億というユーザーすなわち「クラウド農奴」から「デジタル地代」を徴収しているのを横目で見ながら製品を作り続ける「クラウド封臣」という身分に甘んじることになった。以来、全世界のネットユーザーたちは携帯を見るたびに「クラウド領主」たちに「クラウド・レント」を払い続けているのである。
利潤に代わって地代が経済活動を駆動する経済システムはもう資本主義ではない。「テクノ封建制」と呼ぶのが適切だろうとバルファキスは書く。そうかも知れない。
このあとクラウド領主たちはますます富裕になり、クラウド封臣たちはモノづくりにいそしみ、クラウド農奴たちはひたすら収奪されるという気鬱な未来をバルファキスは予測している。
確かに、ドナルド・トランプやイーロン・マスクの「王様気取り」を見ていると世界は近代から中世に退行しているような気がしてきた。
この流れに掉さす人たちが選好するメタファーが「レッド・ピル」である。『マトリックス』でモーフィアスがネオに選択を迫る錠剤のことだ。青い錠剤を飲めばマトリックスが紡ぐ夢の中に戻れる。赤い錠剤を飲めば冷厳な現実に目覚める。ピル一個で適切な現実認識が得られるという比喩には「人間は経験を通じて成熟する」という発想が欠如している。錠剤の選択一つで一瞬のうちに世界の実相が開示されるというのは、キリスト教における「回心」に近い。
東アジアにおいては、伝統的に自己陶冶というのは「修行を通じて連続的に自己刷新を遂げること」であり、「錠剤一つで別人になれる」という発想とは無縁である。
そういえば新反動主義の「聖典」とされるピーター・ティールの『Zero to One』もタイトルから知れるように「0か1か」の二者択一であり、「その間」は存在することを許されない。
青か赤か、0か1かを突き付けて、その「踏み絵」で人間を二種類に類別して、片方を「捨てる」という発想のうちに私は「クラウド封建制」を囃し立てる人たちの知的・倫理的退廃の徴を見るのだが、これは杞憂だろうか。
(山形新聞3月19日)
2025年
5月
23日
金
もう一つの道は日韓同盟である。米軍が撤収した日本と韓国が同盟するのである。
2025年5月1日の内田樹さんの論考「世界が帝国に分割される日」をご紹介する。
どおぞ。
政治学者の白井聡さんと久しぶりに対談した。彼も私も「大風呂敷を拡げる」のが好きでたまらないタイプなので、幕末の遊説家もかくやとばかり治国平天下を論じることになった。談論風発、まことに痛快だった。
白井さんのような言論人は少ない。政治学者たちはすでに起きたことを解説する時には雄弁だが、未来予測については抑制的である。まして集団的な幻想や物語の現実変成力についてはほとんど言及しない。だが、人間の脳内ではしばしば幻想が現実より現実的である。私は骨の髄まで実用本位の人間なので、つねに「現実的なもの」に焦点を合わせる。幻想が現実的なら幻想をじっくり吟味する。
今の米大統領がめざしているのは米国の「国益」を最大化することではなく、(彼がそれを「国威」だと信じている)「他国に屈辱感を与える権利」の最大化であると私は考えている。
米国人が今国民的規模で罹患している政治的幻想があるなら、それはミサイルや艦船の数やGDPの数値やAIテクノロジーの進歩と同じくらいに「現実的なもの」として扱わなければならないと私は思う。
白井さんとは、これから世界はいくつかの「帝国」に分割されるという未来予測で意見が一致した。近代の発明である「国民国家」を政治単位とする統治モデルでは国際社会の安定が保持できなくなったので、人々は「あの懐かしい帝国モデル」に回帰しようとしている。
サミュエル・ハンティントンは『文明の衝突』で、世界は9の文明圏に分割可能だという仮説を提示した。文明圏はそのまま中華帝国、ロシア帝国、ムガール帝国(インド)、オスマン帝国(トルコ)、神聖ローマ帝国(EU)と新興のアメリカ帝国に分割されるだろう。アフリカ、中南米、日本がそれぞれ単立の文明圏=帝国を形成するというハンティントンの1996年時点での予測はたぶん外れる。少なくとも日本にはそれだけの国力がもうない。
世界がいくつかの帝国に分割される流れの中で日本の生き延びる道はどこにあるのか。白井さんとはそれについても話したのだけれど、紙数が尽きたので、続きは次回。
これまでの国際政治は地球を「一つの村」に見立てていた。193の国連加盟国が「村人」、国連が「村議会」、国連軍が「村の警察」というモデルである。近代市民社会を世界規模に拡大したのである。人間の想像力には限界がある。自分が知っている身近な政治のサイズを拡大することでしか国際政治を構想できなかったのである。
1945年時点では「次の戦争」は核戦争になり、その時人類は破滅するという未来予測はリアルなものだった。国民国家同士がそれぞれの国益の最大化のために戦えばそれは「万国の万国に対する戦い」になる。力のある国は力のない国を支配し収奪し滅ぼすこともできる。「力の支配」をめざす国が核兵器を用いれば人類は滅亡する。その恐怖を今の若い人はもう想像することができないだろう。
私たちの子どもの頃、1950年代から60年代初めにかけて「世界終末時計」はずっと11時58分(世界の終わりまで残り2分)を指していた。原水爆実験を米ソ英仏が繰り返し、子どもたちは「放射能の雨」にさらされて学校に通っていた(雨に当たると毛が抜けるという都市伝説を子どもたちは半ば信じていた)。「世界はもうすぐ終わる」ことは言挙げされないまでも自明のことと思われた。
その時「法の支配」に基づいて世界に秩序をもたらす道筋としては「村議会」が「村人」同士のいさかいについて理非を明らかにし、非のある「村人」を「村の警察」が黙らせるというモデル以外のものを人々は思いつかなかった。日本国憲法九条二項はそのような「村」の一村人が「私は貧しいけれども道義的な生き方をめざす」と宣言したものだった。残念ながら国際政治は予想通りには推移しなかった。世界は80年後に再び「力の支配」を原理とする前近代に退行し始めたからである。
日本はこれからどうしたらよいのか。どこかの帝国の属国として宗主国に頤使され収奪される身分に甘んじるのか、それとも単立の「国民国家」として生き延びる道を探すのか。
今回もまた紙数が尽きたので、続きは次回。
世界が帝国に分割された時、日本はどう生きるかという話をしていた。今回はその結び。
選択肢はいくつかある。一つは米中いずれかの帝国の辺境の属国として宗主国に「朝貢」して生き延びる道である。
日本は戦後80年米国の属国として生きてきたから属国民マインドは日本の政治家たち外交官たちに深く内面化している。だから、米帝国の西の辺境として生きるのを止めて、中華帝国の東の辺境となる道を選ぶことに日本人はそれほどシリアスな心理的抵抗を感じないだろうと私は思う。「親魏倭王」に任ぜられた卑弥呼から「日本国王」足利将軍、「日本国大君」徳川将軍に至るまで、日本の支配者たちは中華皇帝から形式的には官位を冊封されていたのである。だから、もし「中華皇帝」が属国日本に天皇制と民主主義政体の継続を許可すれば(しないと思うが)、日本人の多くは「宗主国」を米国から中国に替えることにそれほどの心理的抵抗を覚えないと私は思う。日本の支配層は「強者に従属することが自己利益を最大化する」と心の底から信じているから、これまで親米派だった人たちは今度は争って中国共産党に入党するだろう(これは自信をもって断言できる)。
もう一つの道は日韓同盟である。米軍が撤収した日本と韓国が同盟するのである。人口1億8千万、GDP6兆ドル、ドイツを抜いて世界第三位の経済圏になる。軍事力は日韓を合わせるとインドを抜いて世界4位。
この日韓同盟は米中二帝国と等距離外交を展開する。米軍がグアムまで引き、中国が海洋進出に抑制的になれば、西太平洋に日韓を結ぶ広大な中立地帯ができる。東アジアの地政学的安定を国際社会は歓迎するだろう。
第三の道は九条二項を高く掲げて「東洋のスイス」のような永世中立国になることである。日本は間違いなく医療と教育と観光・エンターテインメントでは世界のトップレベルにある。そうやって全世界に「できるなら日本で暮らしたい」という人々を創り出すのである。それが日本の安全保障のための「アセット」になってくれる。スイスの銀行に個人口座を持っている人たちが(テロリストを含めて)「スイス侵攻」に反対するのと理屈は同じである。
日本人は果たしてどの道を選ぶことになるのだろう。
(AERA 3月18日~4月16日)
2025年
5月
22日
木
5月16日(金)早朝、坂道ダッシュ400m×3本、49分15秒、6.87㎞、平均ペース7分10秒/㎞、総上昇量131m、消費カロリー489㎉。
6分52秒、6分54秒、7分20秒(570m)
2分34秒9(6分27秒/㎞)
2分33秒4(6分23秒/㎞)
2分34秒5(6分29秒/㎞)
7分59秒、6分25秒、6分14秒(150m)
5月17日(土)早朝、雨で西園美彌さんの魔女トレ。
5月18日(日)午前、ジョギング、2時間23分43秒、16.9㎞、平均ペース8分30秒/㎞、総上昇量234m、消費カロリー1156㎉。
1 7分08秒
2 7分44秒
3 8分25秒
4 7分08秒
5 6分39秒
6 6分38秒
7 6分53秒
8 7分47秒
9 8分44秒
10 7分27秒
11 7分23秒
12 8分11秒
13 10分13秒
14 10分53秒
15 11分28秒
16 10分49秒
17 11分18秒(900m)
5月19日(月)早朝、階段1045段、51分27秒、6.19㎞、平均ペース8分19秒/㎞、総上昇量87m、消費カロリー484㎉。
7分56秒、8分52秒、8分05秒
8分29秒、9分04秒、7分52秒
6分02秒(190m)
5月20日(火)早朝、室内トレーニング。
夜、トレッドミル、30分、4.15㎞、傾斜3.0%、時速8.4㎞(7分00秒/㎞)、消費カロリー396㎉、手首に重り1㎏×2。
5月21日(水)早朝、安藤大さんのアントレ、足首に重り約0.5×2。
5月22日(木)、休足。
2025年
5月
21日
水
米国の「州」を「都道府県」のような行政単位だと思っている人がいるけれども、それは違う。「州」はある種の「主権国家」なのである。
2025年4月29日の内田樹さんの論考「米国の没落」をご紹介する。
どおぞ。
米国はこれからどうなるのか、あちこちで訊かれる。私は国際政治の専門家ではないので間違うことを気にしないで、思いついたことをそのまま口にする。私の予測は「米国は不可逆的な没落のプロセスに入った」というものである。
20世紀に入ってから久しく米国が掲げて来た「道義的な民主主義国家」という建前をトランプは棄てた。理由は「道義的な民主主義国家であることのコスト」が過重になったからである。グローバル・リーダーシップを執るためにはある程度「きれいごと」を言い続け、そのためには「持ち出し」を覚悟しなければならないのだが、経済力も軍事力も衰えた米国にもうそんな「痩せ我慢」をする余力はない。「米国さえよければ、それでいい。世界がどうなろうと知ったことか」というのがトランプの政治姿勢であり、それを米国市民の過半が支持した。この事実は重い。このあとトランプに投票したことを悔いる人や、もう一度政治的正しさや多様性や公平性や寛容を説く人たちからの反撃があるはずだけれど、米国は道義的な国であるべきだと考える人たちと米国が「世界最強のならず者国家」であって何が悪いと思う人たちの間の和解はたぶん成立しない。そして、「ルールを守る人間」と「ルールを守らない人間」が戦った場合には短期的には必ず後者が勝つ。
第一期トランプの時、カリフォルニア州での世論調査では「合衆国からの独立」を支持すると回答した人が32%にのぼった。今調査をしたらおそらく50%に近づいているだろう。テキサスでも「テキサスはテキサス人によって統治されるべきだ」とするテキサス・ナショナリスト運動が一定の影響力を行使している。
カリフォルニアは人口4千万人、GDPは日本を超えて世界五位の「大国」である。テキサスは人口3千万人、GDP世界8位。カリフォルニア州は1846年建国のカリフォルニア共和国、テキサス州は1836年建国のテキサス共和国がのちに合衆国に加盟した政治単位である。厳密に言えば、いずれももとは「別の国」である。
合衆国憲法には加盟についての規定はあるが(第4条第3節)、脱盟についての規定はない。「合衆国からの脱盟は可能か」をめぐっては南北戦争後の1869年に「テキサス対ホワイト」裁判というものがあり、連邦最高裁はいかなる州も合衆国から脱盟できないという判決を下した。合衆国は「共通の起源」から生まれた一種の有機体であり、「相互の共感と共通の原理」で分かちがたく結びつけられているから州の連邦からの脱盟は「革命によるか他州の同意よる」しかないと判決文には書かれていた。
このあとトランプの圧政が続けば「道義的で民主的な米国」を護ろうとする人たちが政治的なカードとして「州の独立」を言い出す可能性は十分にある。映画『シビル・ウォー』が描いたような連邦軍と州軍の間で内戦が起きるとは思わないが、民主党が強い州が集まって「反トランプ州連合」を結成して、連邦内にとどまりつつも、トランプの暴走を抑止しようとすることはあっても不思議ではない。
米国の「州」を「都道府県」のような行政単位だと思っている人がいるけれども、それは違う。「州」はある種の「主権国家」なのである。(中日新聞、4月27日)
2025年
5月
20日
火
皆さんこんにちは。今日は事務局担当です。
今日は30度超えの真夏日ですが、週末は最高気温が21度くらいまで下がる予報が
出ており、気温差が激しいため寒暖差アレルギーで体調を崩す方が多いようです。
皆様もお気をつけ下さいね😓
さて、今日は前々から気になっていた、近鉄新ノ口駅から徒歩10分、
運転免許センターの近くにある美味しいかつ丼のお店をご紹介します♪
「だし処 七福」
住 所 奈良県橿原市葛本町146-7
近鉄新ノ口駅から徒歩10分
営業時間 11:00 - 15:00 (L.O.14:00)
18:00 - 21:30 (L.O.20:30)
定休日 夜のみ火・水
電話番号 0744-48-0303
人づてに、他ではないとっても分厚いとんかつが食べられると聞いて、
以前から気になっていたお店で、いつも行列待ちでなかなか入れずに諦めていましたが、
今回はテイクアウトのお弁当があるとのことで、念願のとんかつをいざ注文!
予約をした時間に伺ってみると、お店の道向かいの駐車場は既に満車。
平日のお昼でも、店内は満席、外にも順番待ちのお客さんが数組いらっしゃいました。
今回は、お店の看板メニューでもある、とじないカツ丼(並)と、とんかつ弁当を
テイクアウト注文させていただきました。
早速いただいたとんかつは、写真では分かりづらいかもですが、
本当に一切れ一切れのお肉のボリュームが凄い!
普段食べるとんかつの2倍近くの厚さがあります。
これで並なら、噂の極厚は一体どんだけ分厚いかつが出てくるのかな?😶
分厚くても、お肉は柔らかくとってもジューシーで豚の旨みが口の中に広がります。
同僚が頂いたおすすめカツ丼も、下にひかれた卵にしっかりと出汁が効いていて
美味しかったそうです。
美味しいのでお箸は止まらず完食しましたが、お腹いっぱいで動けない・・・😓
今度からはご飯少なめでお願いしようっと・・・。
なお、お店のインスタを拝見したところ、ランチ時間は、来店しなくても順番が取れる
システムが導入されているようなので、もし店内でランチを頂く際には事前に確認して
おくとよいかもしれません。
テイクアウトは、Uber Eatsも最近始められたようですよ。
気になる方はぜひ一度ご賞味ください(^_^)b
2025年
5月
19日
月
ポピュリスト政治家にとって最優先するのは国力の増大ではなく、自身の権力の増大なのである。
2025年4月18日の内田樹さんの論考「トランプとフェデラリスト」をご紹介する。
どおぞ。
トランプ大統領の連邦政府攻撃と関税外交で米国は深い混乱のうちにある。どうして大統領自身が行政府の弱体化を目指すのか、意味がわからないという人が多い。わからないと思う。ふつう独裁をめざす政治家は行政府の権限を強大化するものだからである。でも、トランプは逆に連邦政府機関の弱体化を進めている。なぜか。トランプを建国時点での反連邦派(アンチ・フェデラリスト)の何度目かのアヴァターだと見立てると、少し理解が進むと思う。
13州が同盟して英国からの独立戦争を戦った時、暫定的な「同盟」はあったが、連邦政府はまだなかった。独立宣言から合衆国憲法制定まで11年かかったのは、連邦政府にどれくらい権限を付与するかについて国民の間で合意が成り立たなかったからである。
「州(ステイト)」にはそれぞれ政府があり、議会があり、憲法があった。連邦政府はそれらの「ステイト」のゆるやかな連合体なのか、それとも「ステイト」の上位に位置する強力な統治機構なのか、この問いをめぐって激しい論争があった。その経緯はハミルトン、マディソンらの『フェデラリスト』に詳しい。
論点の一つは常備軍だった。「フェデラリスト(連邦派)」はそれまでの「有事に際して市民が銃を執る」というやり方では外敵からの侵入に対して効果的に対応できないことを指摘して連邦政府指揮下の常備軍の創設を求めた。反連邦派は常備軍が連邦政府の「私兵」と化して、「ステイト」を攻撃するリスクを挙げてこれに反対した。しかし、州にしか軍事力がない場合のリスクをフェデラリストは鋭く指摘した。
「もし、一政府が攻撃された場合、他の政府はその救援に馳せ参じ、その防衛のためにみずからの血を流しみずからの金を投ずるであろうか?(...)しかもおそらく彼らはその隣邦とは嫉視反目し、隣邦の地位が低下するのをむしろよしとしているのである」。
建国当時の米国は英国、フランス、スペイン、ネイティブ・アメリカンという「敵」に囲まれていたからこの想定はリアルなものだった。
トランプが進めているのは、それとは逆のプロセス、すなわち連邦を解体して再び「ステイト」を基本的政治単位に戻すこと、つまり合衆国「建国以前」に戻すことのように私には見える。
というのは、連邦政府は社会契約に基づく擬制だからである。連邦政府は観念的な構築物であって、身体性がない。一方、「ステイト」は共感と同質性に基づくリアルな集団である。
トランプが目指しているのは米国を再びいくつもの「共感と同質性に基づく共同体」「隣邦と嫉視反目するステイト」に分解することだと私は思う。もちろん、そんなことをすれば米国の国力は衰える。だが、ポピュリスト政治家にとって最優先するのは国力の増大ではなく、自身の権力の増大なのである。そして、社会契約に基づく「冷たい共同体」より、共感と同質性に基づく「熱い共同体」の方が容易に専制政治に転換する。フェデラリストの一人ハミルトンは250年前に今日あることを予見しているかのようにこう書いていた。
「歴史の教えるところでは、人民の友といった仮面のほうが、強力な政府権力よりも、はるかに専制主義を導入するに確実な道程だったのである。事実、共和国の自由を転覆するにいたった連中の大多数のものは、その政治的経歴を人民へのこびへつらいから始めている。すなわち、煽動者たることから始まり、専制者として終わっているのだ。」(週刊金曜日 4月16日)
2025年
5月
16日
金
トランプのアメリカには「退行」だけがあって、未来がない
2025年4月18日の内田樹さんの論考「トランプのロールモデル」をご紹介する。
どおぞ。
トランプの世界戦略は何かをよく訊かれる。果たして「戦略」と呼べるようなスケールの構想が彼の脳裏に存在するのかどうか、私には分からない。ただ、トランプがMake America Great Again と呼号していたときの「再帰する先」がどこかは見当がついた。ウィリアム・マッキンリーとセオドア・ルーズベルトが大統領をしていた時代、すなわち1897年から1909年までの米国である。
マッキンリーは米西戦争でスペインの植民地だったプエルトリコ、グアム、フィリピンを併合し、キューバを保護国化し、ハワイ共和国を併合した。米国が露骨な帝国主義的な領土拡大をした時期の大統領である。そして、保護貿易主義を掲げ、外国製品に対して57%という史上最高の関税率をかけたことで歴史に名を遺した。ルーズベルトは「穏やかに話し、大きな棒を担ぐ」「棍棒外交」で知られているが、日露戦争を調停したこと(この功績でルーズベルトはノーベル平和賞を受賞した)とパナマ運河の完成で歴史に名を遺した。
トランプはアラスカにある北米最高峰の名称をそれまでのデナリからマッキンリーに戻し、メキシコ湾をアメリカ湾に改称し、グリーンランドの領土化、パナマ運河の「奪還」を求め、ウクライナ戦争の調停役を名乗り出て、高率関税による保護貿易を目指した点から推して、彼がこの二人の大統領をロールモデルにしていることは確実だろう。
過去の成功体験を模倣すればすべてはうまくゆくというのがドナルド・トランプの政治思想の「すべて」である。申し訳ないけど。
マルクスが言うように世界史的な出来事の渦中に投じられた時、人は「過去の亡霊たちを呼び出して助けを求め、その名前や闘いのスローガンや衣装を借用する」ものなのだ(『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』)。だからトランプのアメリカには「退行」だけがあって、未来がないという診立ては間違っていないと私は思う。(信濃毎日新聞 4月11日)
2025年
5月
15日
木
5月9日(金)早朝、丘の階段641段、50分34秒、7.19㎞、平均ペース7分02秒/㎞、総上昇量159m、消費カロリー528㎉。
1 6分42秒
2 6分44秒
3 7分21秒
4 8分30秒(階段)
5 8分33秒
6 5分49秒
7 5分49秒
8 5分37秒(190m)
5月10日(土)早朝、ウインドスプリント300m×10本、53分11秒、7.65㎞、平均ペース6分57秒/㎞、総上昇量63m、消費カロリー560㎉。
7分03秒、7分20秒、6分54秒(80m)
1分20秒7(5分04秒)、1分24秒3(5分21秒)
1分13秒5(4分43秒)、1分17秒5(4分49秒)
1分11秒7(4分37秒)、1分20秒2(5分02秒)
1分12秒4(4分40秒)、1分19秒0(4分57秒)
1分09秒2(4分22秒)、1分15秒6(4分47秒)
7分12秒、7分07秒、6分26秒(90m)
5月11日(日)午前、ジョギング、1時間48分11秒、12.95㎞、平均ペース8分21秒/㎞、総上昇量263m、消費カロリー892㎉。
1 7分30秒
2 7分31秒
3 8分54秒(階段)
4 8分45秒
5 7分20秒
6 6分49秒
7 7分18秒
8 7分24秒
9 8分00秒
10 12分57秒(階段)
11 10分05秒(上り坂)
12 8分01秒
13 7分58秒(950m)
5月12日(月)早朝、西園美彌さんの魔女トレ。
5月13日(火)早朝、室内トレーニング。
夜、トレッドミル、30分、4.15㎞、傾斜3.0%、時速8.4㎞(7分00秒/㎞)、消費カロリー396㎉、手首に重り1㎏×2。
5月14日(水)早朝、安藤大さんのアントレ、足首に重り約0.5㎏×2。
5月15日(木)早朝、テンポ走、40分00秒、6.22㎞、平均ペース6分26秒/㎞、総上昇量93m、消費カロリー436㎉。
1 6分48秒
2 7分06秒
3 5分59秒
4 6分39秒
5 5分48秒
6 6分19秒
7 6分10秒(220m)
2025年
5月
14日
水
明治初期から二・二六事件まで、反権力の戦いは久しく「有司専制を廃す」「君側の奸を除く」という定型句の下に行われたが、それはこの「定型」だけが民衆の政治的エネルギーを解発するということ彼らが知っていたからである。
2025年4月15日の内田樹さんの論考「『日本型コミューン主義の擁護と顕彰 権藤成卿の人と思想』はじめに」(後編)をご紹介する。
どおぞ。
明治維新のあと、まだ新政府がこれからどういう統治形態を採るべきか明確な意思を示し得なかった時点において、あるべき日本の姿を先駆的に実現した短期的な政体が存在した史実を橋川文三が伝えている。「隠岐コンミューン」と名づけられたものである。
慶応四年三月、隠岐島民およそ三千人が武力によって松江藩郡代を追放し、これからは「中間的な権力構造の媒介物を経ず」に、島民と天皇が直接つながる政体を創り上げると宣言したのである。隠岐ははじめ徳川氏の支配下にあり、のち松江藩のお預かりとなった。島民たちはこの「媒介物」によって「恐れながら天皇の御仁沢を戴き奉るということを知らず」過ごしてきたことを深く恥じるという水戸学的メンタリティーを幕末にはすでに深く内面化していた。それゆえ「宣言」はこう続く。
「かたじけなくも祖先以来父母妻子にいたるまで養育せしめ、ひとしく年月を送り、あるいは富み栄えて鼓腹歓楽にいたるまで、ことごとく天恩を蒙り奉り候、然れば自己の身命に至るまで皆天皇の御物にして、毛頭我がものにはあらず、ここを以て鄙賤をかえりみず、身命をなげうって尽力いたし、皇国の民たる名分を尽くさずんばあるべからず。」 (橋川文三、『ナショナリズム その神話と論理』、ちくま学芸文庫、2015年、142頁)
このとき隠岐島民たちは「幕藩権力の出先機関を追放し、直接に天皇の『愛民』たることを宣言した」わけである。
「彼らは、天皇の心に直接結びついた平等な人間の組織体として自覚し、その間に介在する中間的権力を否定することによって、自治的な政治共同体を樹立することになった。」(同書、145頁)
橋川はこの自治共同体の企てをそう評価した上で、このような夢想を語る。
「たとえば、もしこの隠岐のコンミューンに似たものが全国各地に凡そ百くらいも次々と出現し、中間的権力機構をそれぞれに排除して全国的にゆるやかなコンミューン連合ができたとしたなら、その後の日本国家はどうなっていたろうか。」 (同書、146頁)
残念ながらこの天皇と島民が「直結」することを夢見た「隠岐コンミューン」は松江藩によってただちに鎮圧されて、姿を消した。それでも、日本における政治的ユートピアのモデルが「国民と天皇が無媒介的に結びつく統治システム」、渡辺京二が「日本的コミューン主義」と呼ぶものであるという確信はそのあともずっと生き続けた。明治初期から二・二六事件まで、反権力の戦いは久しく「有司専制を廃す」「君側の奸を除く」という定型句の下に行われたが、それはこの「定型」だけが民衆の政治的エネルギーを解発するということ彼らが知っていたからである。
私は三島友紀夫が東大全共闘に向けて語った言葉をその時点では理解できなかった。なぜ「天皇と一言言えば」、極右である三島と極左である過激派学生たちが共闘できるのか。その理路が十八歳の私にはまったくわからなかった。しかし、それが理解できるようにならない限り日本における政治革命の可能性について語ることはできないということはわかった。だから、私は三島の言葉を私に課せられた一種の「宿題」として引き受けることにした。
私がそう考えるようになったのには、同じ頃に読んだ、吉本隆明の転向論にも大きく影響されていた。
戦前の共産党指導者だった佐野学、鍋山貞親は治安維持法で投獄された後に、日本の「國體」、国民思想、仏教思想に関する書籍を読み、その深遠さに「一驚を喫して」転向した。吉本はこの転向はおもに内発的な動機に基づくものであり、彼らを転向に追い込んだのは「大衆からの孤立(感)」と見立てた。
吉本がこだわったのは、転向した知識人が日本思想史や仏教史について「何ほどの知識も見解もなくて、共産主義運動の指導者だった」のか、という「情けない疑問」であった。
「こういう情けない疑問は、情けないにもかかわらず、佐野、鍋山が、わが後進インテリゲンチャ(例えば外国文学者)とおなじ水準で、西欧の政治思想や知識にとびつくにつれて、日本的小情況を侮り、モデルニスムスぶっている、田舎インテリゲンチャにすぎなかったのではないか、という普遍的な疑問につながるものである。これらの上昇型インテリゲンチャの意識は、後進社会の特産である。佐野、鍋山の転向とは、この田舎インテリが、ギリギリのところまで封建制から追いつめられ、孤立したとき、侮りつくし、離脱したとしんじた日本的な小情況から、ふたたび足をすくわれたということに外ならなかったのではないか。」 (吉本隆明、「転向論」、『吉本隆明全著作集13』、1969年、10頁)
「この種の上昇型インテリゲンチャが、見くびった日本的情況を(例えば天皇制を、家族制度を)、絶対に回避できない形で眼のまえにつきつけられたとき、何がおこるか。かつて離脱したと信じたその理に合わぬ現実が、いわば本格的な思考の対象として一度も対決されなかったことに気付くのである。」 (同書、17頁、強調は内田)
この手厳しい「インテリ」批判を私は自分に向けられたものとして読んだ。読んだ時はまだ大学生だったので、「インテリ」に類別されるレベルには達していなかったのだけれど、自分がいずれ「上昇型インテリゲンチャ」の一員になることはわかっていた。だから、この批判を「わがこと」として受け止めた。そして、「日本的情況にふたたび足をすくわれない」ためには、この「理に合わぬ現実」を「本格的な思考の対象」とすることを個人的責務として引き受けるしかないと思った。
でも、この「理に合わぬ」政治概念を縦横に論ずる思想家・活動家たち(権藤成卿はその一人である)の書物を実際に読むようになったのは、それからずいぶん経ってからである。それまでは「日本的情況に足をすくわれない」ための予備的な自己訓練のために時間を割いた。
まず私は武道の修行を始めた。二十代から合気道の稽古を始め、それから居合や杖道や剣術の稽古をするようになった。知命近くになってからそれに加えて能楽の稽古を始め、還暦を過ぎてからは禊祓いや滝行を修した。日本的な「由緒ある扮装」に順繰りに袖を通してみたのである。今は毎朝、道場で祝詞と般若心経を唱え、不動明王の真言で場を浄め、九字を切り、禊教の呼吸法を行うというお勤めをしないと一日が始まらない身体になった。遠回りのようだけれど、そういう人間になることの方が「いきなり本を読む」より適切だろうと私は思ったのである。
この直感は筋が悪くないと思う。たしかに言葉から入るのは危うい。誤読する可能性があるし、何よりもこちらの身体に準備がないままに本を読むと、「わかった気になる」リスクがある。
吉本は佐野・鍋山がろくに仏教書も読まずに知識人面していたのかと嘲ったけれど、それはたぶん違うと思う。彼らだってインテリである。本はちゃんと読んでいたのだ。でも、読んだけれど、「ぴんと来なかった」のだ。文字面の意味はわかったけれど、身に浸みなかった。そして、ずっと後になって、「大衆からの孤立」に苦しみ、「大衆がほんとうに求めているものは何か」を切実に知りたくなった時にもう一度それらの本を手にとってみたら、そこに書かれていたことが身に浸みてわかった。たぶんそういう順序だったのだと思う。
だから、この「理に合わない」思想と感情と「本格的に対決」するためには、まず本を読むよりは、そのような理屈や言葉が「腑に落ちる」身体や感情に親しんでおく方が遠回りだが確実だろうと私は考えたのである。それほど論理的な言葉づかいをしたわけではない。そう直感したのである。まず身体をつくり、感情を深める。本を手に取るのは後でよい。いずれある日、それらの書物にふと「手が伸びる」機会が訪れるだろう。その時に手元に本がないと始まらないので、とにかく本は手に入るだけ集める。そして、手がすぐ届くところに並べておく。そうして、半世紀近くが過ぎた後、ある日「権藤成卿について書いてください」というオファーが来たのである。なるほど、来るべきものが来たのか、そう思って解説の筆を執ることにした。
以上が、どうして私が解説を書くことになったのかの経緯である。ここまで書いたところで、「なぜ今権藤成卿が復刻されるのか」という第一の疑問についても、いくぶんか答えたことになるのではないかと思う。でも、結論を急ぐことはない。紙数はたっぷり頂いているので、「なぜ今権藤成卿が読まれなければならないのか」については読者が腑に落ちるまでゆっくり書いてゆくつもりである。
本書の構成について。当初の計画では、まず権藤成卿の伝記的事実を記し、それから彼の思想について書くつもりだった。しかし、いざ書き出してみたら、伝記的事実や交友関係と思想は切り離せないことがわかった。というわけで以下では伝記的事実を叙しつつ、そこに登場する人物や、そこで成卿がかかわることになった出来事の歴史的意義や文脈について説明するためにそのつど脇道にそれるという書き方をすることにした。学術論文の書き方としてはまず許されないものだが、この解説は「なぜ今権藤成卿を読む必要があるのか」という問いに答えるという限定的な目的のための文章であるので、読者はこの破格を諒とされたい。
なお、伝記的事実については、その多くを滝沢誠氏の『昭和維新運動の思想的源流 権藤成卿 その人と思想』(ぺりかん社、1996年)に拠った。この本が現在まで書かれた権藤成卿の伝記としては最も信頼性が高いものと思われるからである。
紀年法としては元号を主として、()内に西暦を入れることにした。「明治維新」「大正デモクラシー」「昭和維新」などの歴史的事件には、元号が変わるとそれに合わせて世情人心も変わるという幻想的な時間意識が濃密に浸み込んでいるからである。(2024年7月30日)
2025年
5月
13日
火
本日、5月13日は事務局が担当です。
今日は、快晴で、五月晴れと言っていい様な日ですね。
近鉄八木駅から、なら法律事務所への途中にある「かしはらナビプラザ」前の花壇のパンジーは4月から咲き誇っていて、朝観るととても元気をもらえます。
日中の気温は少し高めになりそうで、夏日となりそうです。
午後のお出かけ、屋外で待ち合わせ、時間待ちは少しつらいと思われます。
そんな時に近鉄八木駅前の待ち合わせや時間待ちに最適な場所をご紹介します。
当然、喫茶店やファストフードが何店もありますが、無料で気兼ねなく利用できる場所があります。
かなり前に、このブログで、かしはらナビプラザ北側にある屋外のベンチを照会しましたが、コロナ禍から撤去されて無くなりました。
その代わりと言っては何ですが、かしはらナビプラザ正面玄関を入って右側に在る1Fの案内所及び奈良交通の八木案内所前にベンチが2脚置かれました。
私が平日の昼間観る限りでは、意外と空いていて、朝7時から
夜7時迄利用できます。
冷暖房完備で、奥には災害時対応のドリンクの自動販売機もあり、清潔なトイレも同じ1Fに在ります。
更に、中南和の観光に関するパンフレット、地図や資料などが置いてあり、退屈することは無いと思います。
また、ここで奈良の再発見ができるかもしれませんよ。
ご存じで無い方は、是非一度お訪ねください。
2025年
5月
12日
月
幕末から近代に至るまで、すべての革命的な思想は、中間的な権力構造の媒介物を経ずに、国民の意思と国家意思が直結する「一君万民」の政体を夢見てきた。
2025年4月15日の内田樹さんの論考「『日本型コミューン主義の擁護と顕彰 権藤成卿の人と思想』はじめに」(前編)をご紹介する。
どおぞ。
『月刊日本』から、権藤成卿の『君民共治論』が復刻されることになったので、その「解説」を書いて欲しいという不思議なオファーを受けた。「不思議」だと思った理由は二つあって、「どうして今ごろになって権藤成卿を復刻するのか?」ということと、「どうして私にそんな仕事を頼むのか?」ということであった。
後の方の理由は何となくわかった。おそらく担当編集者の杉原悠人君が何度か私の書斎を訪れているうちに、書架に権藤成卿や頭山満や内田良平や北一輝や大川周明の本や研究書が並んでいるのを見て、日本の右翼思想に興味がある人だと思ったのだろう。この推理は正しい。
私はこれまで日本の右翼思想についてまとまったものを書いたことがない。だから、ふつうの人は私の興味がそこにあることを知らない。でも、書斎を訪れた人は本の背表紙を見て、私の興味の布置を窺い知ることができる。明治の思想家たちについての書物は私の書架の一番近く、手がすぐに届くところに配架されている(私の専門であるはずのフランス文学や哲学の方がずっと奥に追いやられている)。
その配架はたぶんに無意識的なものだと思う。どうして、そんな本を私は手元に置いておきたがるのか。それは、おそらくこの思想家・活動家たちのことを決して忘れてはならないと久しく自分に言い聞かせてきたからだと思う。彼らのことを決して忘れてはならない。彼らのことを忘れたときに、私は必ずや「日本的情況に足をすくわれる」だろう。そのことについては深い確信があった。
権藤成卿の思想の今日的な意義にたどりつくために、いささか長い迂回になるけれども、まず少しその話をしたい。
私は全共闘運動の世代に属する。十代の終わりごろのことだから、その時代に取り憑いていた熱狂をよく覚えている。そして、その時にすでにその政治運動がある古い政治思想の何度かの甦り、ある種の「先祖返り」であることに気づいていた。
1968年の米空母エンタープライズ号の佐世保寄港の時、私たちははじめて三派系全学連という人々の組織的な闘争の画像を見ることができた。寄港阻止闘争に結集した学生たちは、党派名を大書したヘルメットをかぶり、ゲバ棒と称された六尺ほどの棒を手に、赤や黒の巨大な自治会旗を掲げていた。そして、世界最大の米空母に向かって、ほとんど徒手空拳で「打ち払い」を果たそうとしていた。
私はその映像をテレビのニュースで見たときに胸を衝かれた。その時の震えるような感動を私はまだ覚えている。ヘルメットは「兜」で、ゲバ棒は「槍」で、自治会旗は「旗指物」に見立てられていたからだ。学生たちがそのようなビジュアルを選択したのはむろん無意識的なことである。だが、それは「黒船来航」の報を聴いて浦賀に駆けつけた侍たちの姿を連想させずにはおかなかった。
マルクスは『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』にこう書いている。
「人間は自分自身の歴史をつくるが、自分が選んだ状況下で思うように歴史をつくるのではなく、手近にある、与えられ、過去から伝えられた状況下でそうするのである。死滅したすべての世代の伝統が、生きている者たちの脳髄に夢魔のようにのしかかっているのである。そして、生きている者たちは、ちょうど自分自身と事態を変革し、いまだなかったものを創り出すことに専念しているように見える時に、まさにそのような革命的危機の時期に、不安げに過去の亡霊たちを呼び出して助けを求め、その名前や闘いのスローガンや衣装を借用し、そうした由緒ある扮装、そうした借りものの言葉で新しい世界史の場面を演じるのである。」(カール・マルクス、『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』、横張誠訳、筑摩書房、2005年、4頁)
この文章をマルクス主義者を自認していたはずの三派系全学連の活動家たちはおそらく何度も目にしていたはずである。繰り返し読み、読書会では片言隻語の語義をめぐってはげしい議論を交わしてきたはずなのに、彼らはいま自分たちがまさに「過去の亡霊たちを呼び出して助けを求め、その名前や闘いのスローガンや衣装を借用」しつつ「新しい世界史の場面」を演じていることにはまったく無自覚だったのである。彼らはまさか自分たちが「吉田松陰の115年後のアヴァター」を演じていたとは思いもよらなかったであろう。だが、まさに「過去の亡霊を呼び出して助けを求め」たからこそ、彼らの運動はそれから三年間にわたって、日本列島を混乱のうちに叩き込むだけの政治的実力を発揮し得たのだと私は思っている。
その翌年、三島由紀夫は東大全共闘に招かれて、駒場の900番教室に姿を現し、1000人の学生を前にして、全共闘運動と彼の個人的な政治的テロリズムの「親和性」について熱弁をふるった。三島はこう言ったのである。
「これはまじめに言うんだけれども、たとえば安田講堂で全学連の諸君がたてこもった時に、天皇という言葉を一言彼等が言えば、私は喜んで一緒にとじこもったであろうし、喜んで一緒にやったと思う。(笑)これは私はふざけて言っているんじゃない。常々言っていることである。なぜなら、終戦前の昭和初年における天皇親政というものと、現在いわれている直接民主主義というものにはほとんど政治概念上の区別がないのです。これは非常に空疎な政治概念だが、その中には一つの共通要素がある。その共通要素とは何かというと、国民の意思が中間的な権力構造の媒介物を経ないで国家意思と直結するということを夢見ている。この夢みていることは一度もかなえられなかったから、戦前のクーデターはみな失敗した。しかしながら、これには天皇という二字が戦前はついていた。それがいまはつかないのは、つけてもしようがないと諸君は思っているだけで、これがついて、日本の底辺の民衆にどういう影響を与えるかということを一度でも考えたことがあるか。これは、本当に諸君が心の底から考えれば、くっついてこなければならぬと私は信じている。」(三島由紀夫・東大全学共闘会議駒場共闘焚祭委員会、『討論 三島由紀夫vs.東大全共闘』、新潮社、1969年、64-5頁、強調は内田)
ここで三島は日本の近代政治史において革命の契機となるべき「キーワード」が何であるかを実に正確に言い当てている。それは「国民の意思が中間的な権力構造の媒介物を経ないで国家意思と直結する」という夢である。幕末から近代に至るまで、すべての革命的な思想は、中間的な権力構造の媒介物を経ずに、国民の意思と国家意思が直結する「一君万民」の政体を夢見てきた。これに例外はない。
2025年
5月
09日
金
もし安保条約が廃棄されたら、日本は「隣国全部が敵」という地政学的にきわめてネガティヴな環境でハリネズミのように猜疑心で固まった大日本帝国の「劣化コピー」のような国家に帰着するだろう。つまり、「金のある北朝鮮」「国土の広いシンガポール」になるということである。
「え、それのどこが悪いの?」と言う人たちが今の日本人に相当数いる(もしかしたら多数派かも知れない)ことが私を気鬱にさせる。
2025年4月3日の内田樹さんの論考「トランプの世界戦略と日本」をご紹介する。
どおぞ。
「トランプの世界戦略と日本」という論題を頂いたけれど、そもそも「トランプの世界戦略」とは何かがわからない。「戦略」と呼べるようなものが果たしてトランプにあるのか。わかっているのは、アメリカの統治システムが急速に壊れ始め、国際社会における地位が低下していることである。いずれカウンターの動きがトランプの暴走を止めるだろうとは思うけれど、それが「いつ」で「誰」がその任を担うのか、今はわからない。
トランプは思いつき的で懲罰的な関税政策で世界の経済を混乱させている。各国で「アメリカ売り」が始まった。連邦機関のいくつかは廃止された。主要な省庁もトップにはトランプの側近たち(その多くはその職位にまったく不適切な人物)が送り込まれた。トランプの違法行為を捜査していたFBI捜査官や検察官は解雇された。学内で「イスラエル批判、パレスチナ支持」の運動をした学生を処罰しなかったという理由でコロンビア大学に対する政府助成金を止めるという恫喝をかけた(大学は屈服した)。トランプを批判した南ア大使は追放され、学会出席を予定していたフランス人研究者は携帯電話にトランプを批判するメッセージがあったという理由で入国を拒否された。すでにカナダやドイツや英国は何があるかわからないから米国への渡航をしばらく控えるように自国民にアナウンスを始めている。株価は下がり、外国為替市場ではドル売りが始まり、高関税のせいで国内では物価が高騰している。低所得者のための医療保険制度メディケイドへの助成も減額された。「ファースト」で優遇されるはずだった国民がトランプのおかげで失職したり医療を打ち切られたり物価高で苦しんでいる。一方、トランプ支持者の超富裕層はさまざまな優遇措置の恩恵に浴している。
これからはもうグローバル・リーダシップを執らない。アメリカだけが世界秩序の安定のために身銭を切らなければならないというのは不当である。アメリカはアメリカだけを守る。他の国は自分で自国を守れ、というのがトランプの「世界戦略」である(これを「世界戦略」と呼ぶことはためらわれるが)。
確かにアメリカ人はしばしば不適切な人物を大統領に選ぶ。アレクシス・ド・トクヴィルは第七代大統領アンドリュー・ジャクソンと面談した後に、「粗暴で凡庸で、その経歴のうちには自由な人民を治めるために必要な資質を証明するものは何もない」と酷評しているが、そのジャクソンをアメリカ人は二度大統領に選んだ。
不適切な統治者を選んでしまうのは「民主政のコスト」だからこれは仕方がない。ただ、トクヴィルは不適切な人物が統治者になっても、統治システムは簡単には壊れないアメリカの復元力は高く評価した。「公務員が権力を悪用するとしても、権力を持つ期間は一般に長くない」からである。でも、この復元力はトランプ政権にはたぶん適用できない。統治機構をイエスマンで埋め尽くした後、おそらく彼は「緊急事態」を宣言して、大統領選をしているような余裕はアメリカにはないと言い張って、その地位にとどまり続けると思う(退職後に無数の罪状で訴追されることは確実だからだ)。
アメリカは「民主主義指標(完全な民主主義がプラス10、完全な独裁制が-10の21段階で評価する)」で今すでにプラス5という「内戦ゾーン」に入っている。おそらく次の評価ではもっと低い評点がつくだろう。いくつかの州では連邦からの独立運動が始まっている。カリフォルニア州は連邦からの独立を支持する州民が今や32%に達している。独立すれば人口3900万人、GDP世界五位の「大国」になる。トランプの下にいるよりカリフォルニアの方が「アメリカらしい」と思う人たちは大挙して西へ向かうだろう。映画『シビル・ウォー』はカリフォルニアとテキサスを含む19州が連邦から脱盟して連邦政府と内戦するという話だが、もはやこれも荒唐無稽な話ではなくなった。
日本について書く字数がなくなってしまった。喫緊の問題はトランプが「日米安保条約の廃棄」というカードをちらつかせて、安保条約を廃棄して欲しくなければ、アメリカの兵器を大量購入すること、「思いやり予算」を増額すること、在日米軍基地を「アメリカ領土」とすること、自衛隊を米軍の統制下に置くことなどを要求してくるということである。自民党政権はトランプの要求を丸呑みするしかないだろう。戦後80年「日米同盟基軸」以外の安全保障政策について何も考えてこなかったのだから仕方がない。
それ以上に困るのは、トランプが「ディール」に飽きて、日米安保条約を本気で廃棄した場合である。日本人は自前の国防構想としては戦前の大日本帝国のものしか知らない。だから、もし安保条約が廃棄されたら、日本は「隣国全部が敵」という地政学的にきわめてネガティヴな環境でハリネズミのように猜疑心で固まった大日本帝国の「劣化コピー」のような国家に帰着するだろう。つまり、「金のある北朝鮮」「国土の広いシンガポール」になるということである。
「え、それのどこが悪いの?」と言う人たちが今の日本人に相当数いる(もしかしたら多数派かも知れない)ことが私を気鬱にさせる。
(4月1日)