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2022年

10月

04日

だるまさんがころんだ!

弁護士 橿原市
だーるーまーさんが・・・

みなさん、こんにちわ。

本日は事務局担当日です。

 

残暑が続きますが、風が爽やかなので過ごしやすいですね(・∀・)

キンモクセイの香りもただよい、秋の到来を感じます。

 

 

先日、新聞を見ていたら、王寺町でおもしろいイベントが開催される案内を見つけました。

その名も

 

全国だるまさんがころんだ選手権大会

通称だるころ選手権

 

 

弁護士 大和八木
画像は王寺町ホームページからお借りしました

昨年、第1回が開催されたものの、コロナ禍ということで奈良県在住者しかエントリーができなかったそうです。(← 全国大会・・・)

 

王寺町には、「達磨寺」というお寺があるのですが、このお寺は『日本書紀』に記される片岡飢人伝説を由緒にして創建されました。

 

ある日、聖徳太子が道のほとりに臥せった飢人(きじん/後に達磨大師の化身と考えられるようになった)を助けたのですが、甲斐無く亡くなってしまいました。

聖徳太子がお墓を作ったのですが、数日後、埋葬したはずの遺体が消えてしまったということです。

そのお墓の跡が達磨寺の起源となりました。

達磨寺のホームページには、漫画「片岡山飢人伝説」も載っていますので、そちらもご覧下さい♪

 

聖徳太子没後1400年である令和3年、太子の「和の精神」と達磨の「七転八起」に基づき、コロナ禍に苦しむ人々が助け合い、再び立ち上がるために、日本で初めて達磨さんが“転んだ”場所と言える達磨寺で「全国だるころ選手権大会」が開催される運びとなったそうです。

 

新聞で案内をみつけたときは、エントリー受付中だったので、

子どもに一緒にでようよ~!!とせがんだのですが、

冷たくあしらわれてしまいました😟

 

今年は、もうエントリーが締め切られてしまいましたが、

11月5日(土)に予選、11月6日(日)に決勝トーナメントが行われます。

5人1チームでエントリーできるので、興味のある方、来年は一緒にでませんか😆

選手と同時に鬼の募集もしていたので、こっちも楽しそうですよね♪

2022年

10月

03日

内田樹さんの「アメリカにおける自由と統制」(その3) ☆ あさもりのりひこ No.1238

正解のない問いにまっすぐ向き合うことは、教えられた単一の正解を暗誦してみせるよりは、市民の政治的成熟にとってはるかに有用である。

 

 

2022年8月19日の内田樹さんの論考「アメリカにおける自由と統制」(その3)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 独立直後の合衆国は英国、スペイン、フランス、さらには国内のネイティヴ・アメリカンとの軍事的衝突のリスクを抱えていた。仮にある邦がこれらの国と戦闘状態に入ったときに、戦闘の主体は誰になるのか?邦政府が軍事的独立を望むのなら、邦政府はとりあえずは単独で外敵に対処しなければならない。

「もし、一政府が攻撃された場合、他の政府はその救援に馳せ参じ、その防衛のためにみずからの血を流しみずからの金を投ずるであろうか?」(同書、329頁)。

 ずいぶんと生々しい話である。私たちはいまのアメリカしか知らないから、例えばヴァージニア州が外国軍に攻撃されたときにコネチカット州が「隣邦の地位が低下するのをむしろよしとして」傍観するというような事態を想像することができない。あるいは「アメリカが三ないし四の独立した、おそらくは相互に対立する共和国ないし連合体に分裂し、一つはイギリスに、他はフランスに、第三のものはスペインに傾くということになり」(同書、330頁)、大陸で代理戦争が始まったらどうするというようなことを想像することができない。しかし、ものごとを根源的に考えるというのは、その生成状態にまで立ち戻って考えるということである。いまのようなアメリカになる前の、これから先何が起きるかまだ見通せないでいる時点に立ち戻って、そこで自由と連邦の歴史的意味を吟味しなければならない。

 外敵の侵略リスクを想定して、その場合に自由を守るためには、邦政府に軍事的フリーハンドを与えるべきか、それとも連邦政府に軍事を委ねるべきか、いずれが適切なのか。それがジェイの提示した問いであった。

 連邦政府に軍事を委ねるというのは常備軍を置くということである。だが、地方分権派は常備軍というアイディアそのものにはげしいアレルギーを示した。世界最大の軍事力を持ついまのアメリカを知っている私たちにはにわかには信じにくいことだが、合衆国憲法をめぐる最大の論争は実は「常備軍を置くか、置かないか」をめぐるものだったのである。

 地方分権派が常備軍にはげしいアレルギーを示したのは、常備軍は簡単に権力者の私兵となって市民に銃口を向けるという歴史的経験があったからである。これは独立戦争を戦った人々にとっては、恐怖と苦痛をともなって回想されるトラウマ的記憶であった。たしかに英国軍は国王の意を体して、植民地人民に銃を向けた。それに対して、自らの意志で銃を執って立ち上がった「武装した市民(militia)」たちが最終的に独立戦争を勝利に導いた。だから、戦争をするのは職業軍人ではなく、武装した市民でなければならない。これはアメリカ建国の正統性と神話性を維持し続けるためには譲ることのできない要件だった。現に、独立宣言にははっきりとこう明記してあった。

「われわれは万人は平等に創造され、創造主によっていくつかの譲渡不能の権利、すなわち生命、自由、幸福追求の権利を付与されていることを自明の真理とみなす。(...)いかなる形態の政府であろうと、この目的を害するときには、これを改変あるいは廃絶し、新しい政府を創建することは人民の権利である(it is the Right of the People to alter or to abolish it, and to institute new Government)

 独立宣言は人民の武装権・抵抗権・革命権を認めている。独立戦争を正当化するためにはそれを認めることが論理的に必須だったからである。だから、独立戦争直後に制定されたペンシルヴェニアとノース・カロライナの邦憲法には「平時における常備軍は、自由にとって危険であるので、維持されるべきではない」と明記されている。ニュー・ハンプシャー、マサチューセッツ、デラウェア、メリーランドの邦憲法はいくぶん控えめに「常備軍は自由にとって危険であるので、議会の承認なしに募集され、あるいは維持されるべきではない」としている。

「常備軍は自由にとって危険である」というのは建国時のアメリカ市民の「気分」ではなく、「成文法」だったのである。そのことを忘れてはならない。

 それに対して、フェデラリストたちは外敵の侵入リスクをより重く見た。ことは「国家存亡の危機」にかかわるのである。ハミルトンは「国防軍の創設、統帥、維持に必要ないっさいのことがらに関しては、制約があってはならない」 と主張した。

 強大な国防軍を創設すべきか、常備軍は最低限のもの、暫定的なものにとどめておくべきか。この原理的な対立は結局、憲法制定までには解決を見なかった。合衆国憲法は常備軍反対論に配慮して、常備軍の保持は憲法違反であると読めるような条項を持つことになったからである。連邦議会の権限を定めた憲法8条12項にはこうある。

「連邦議会は陸軍を召集し、支援する権限を有する。ただし、このための歳出は二年を越えてはならない。」

 常備軍はどの国でもふつう行政府に属する。しかし、合衆国憲法は陸軍の召集と維持を立法府に委ねた。さらも二年以上にわたって軍隊の維持費として継続的な支出をすることを禁じた。「これは、よくみると、明らかな必要性がないかぎり軍隊を維持することに反対する重要にして現実的な保障とも思われる配慮なのである」 とハミルトンは8条12項について書いている。

 

 アメリカが常備軍を禁じた憲法を持っていることを知っている日本人は少ない。改憲派は、憲法第九条二項と自衛隊の「矛盾」を指摘して、「憲法と現実の間に齟齬があるときは、現実に合わせて改憲すべきである」と主張するが、彼らが常備軍規定について合衆国憲法と現実の間には深刻な齟齬があるので改憲すべきであると米国政府に献策したという話を私は寡聞にして知らない。私はむしろ憲法条項と現実の間に齟齬があることがアメリカの民主制に活力と豊穣性を吹き込んでいると理解している。アメリカ市民は憲法8条12項を読むたびに、「建国者たちは何のためにこのような条項を書き入れたのか?」という建国時における統治理念の根源的な対立について思量することを余儀なくされるからである。正解のない問いにまっすぐ向き合うことは、教えられた単一の正解を暗誦してみせるよりは、市民の政治的成熟にとってはるかに有用である。

2022年

9月

30日

内田樹さんの「アメリカにおける自由と統制」(その2) ☆ あさもりのりひこ No.1237

ある問題に取り組むときに生産的な知見をもたらすのは、多くの場合、その問題を解決した(と思っている)人よりも、現にその問題で苦しんでいる人である。

 

 

2022年8月19日の内田樹さんの論考「アメリカにおける自由と統制」(その2)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 自由は端的に自由として、あたかも自然物のようにそこにあるわけではない。それは近代市民社会においては、「どの程度までなら制限してよいものか」という問いを通じて、欠性的にその輪郭を示してゆく。市民的自由と社会的統制はどこかで衝突する。私的自由と公共の福祉はどこかで衝突する。自由と平等はどこかで衝突する。そのときに、どのあたりが適切な「落としどころ」になるかは原理的には決することができない。汎通的な「ものさし」は存在しない。「適度」なところを皮膚感覚や嗅覚で探り当てなければならない。そして、そういう精密な操作ができるためには、どうしても一度は自分の手で「なまものとしての自由」を取り扱ってみなければならない。そして、私たちにはその経験がない。

 私が本稿で建国期のアメリカの事例を検討するのは、その時代のアメリカ人はまことに誠実に「統制と自由」の問題で悩んだと思うからである。ある問題に取り組むときに生産的な知見をもたらすのは、多くの場合、その問題を解決した(と思っている)人よりも、現にその問題で苦しんでいる人である。

 

 独立宣言(1776年)から合衆国憲法の制定(1787年)までには11年間のタイムラグがある。それは新しく創り出す国のかたちについての国民の合意形成が困難だったということを意味している。一方に連邦政府にできるだけ大きな権限を委ねようとする「中央集権派(フェデラリスト)」がおり、他方に単一政府の下に統轄されることを嫌い、州政府の独立性を重く見る「地方分権派」がいた(Stateを「州」と訳すことが適切なのかどうか私にはわからない。以下に引く『ザ・フェデラリスト』の訳文では「州」と「邦」が混用されている)。

 

 中央政府に必要な権限を付与するために人民はみずからの自然権の一部を譲渡しなければならない。これはホッブズ、ロック以来の近代市民社会論の常識である。この原理に異を唱える市民は近代市民社会にはいないはずである。だから、問題は、どの機関に、どの程度の私権を譲渡するかなのである。ことは原理の問題ではなく、程度の問題なのである。原理の問題なら正否の決着がつくということがあるが、程度の問題に「最終的解決」はない。それは必ずオープン・クエスチョンとして残される。アメリカ合衆国がその後世界最強国になったのは、彼らが統治の根本原理を採択するとき、統制か自由かのいずれを優先させるかをついに決しかねたことの手柄だと私は思っている。人間は葛藤のうちに成熟する。国も同じである。解決のつかない、根源的難問を抱え込んでいる国は、単一の無矛盾的な統治原理に統制された社会よりも生き延びる力が強い。

 

『ザ・フェデラリスト』は合衆国憲法制定直前に、世論を連邦派に導くためにジョン・ジェイ、ジェイムズ・マディソン、アレグザンダー・ハミルトンの三人によって書かれた。直接の理由はジェイの記すところによれば、「一つの連邦の中にわれわれの安全と幸福を求めるかわりに、各邦をいくつかの連合に、あるいはいくつかの国家に分割することにこそ、われわれの安全と幸福を求めるべきであると主張する政治屋たちが現われだした」からである。

 アメリカは一体でなければならない。「この国土を、非友好的で嫉妬反目するいくつかの独立国に分割すべきではない」というのがフェデラリストたちの立場であった。

 さて、このとき連邦に統合されることに反対した人々が掲げたのが「自由」の原理だったのである。連邦政府に強大な権限を付与することは、州政府の自由を損ない、さらには市民の自由を損なうことだ、と。だから、まことにわかりにくい話になるが、このとき「自由」の対立概念は「連邦」だったのである。明らかなカテゴリーミステイクのように思われるが、「自由」と「連邦」はゼロサムの関係にあるという考え方がその時点ではリアリティを持っていたのである。そのことは次のジェイの文章から知れる。

「同じ祖先より生まれ、同じ言葉を語り、同じ宗教を信じ、同じ政治原理を奉じ、(...)一体となって協議し、武装し、努力し、長期にわたる血なまぐさい戦争を肩を並べて戦い抜」いたアメリカ人は独立戦争のあと「13州連合(the Confederation)」を形成した。しかし、この政体は戦火の下で急ごしらえされたものであったので、「大きな欠陥」があった。

「自由を熱愛すると同様、また連邦にも愛着をもちつづけていた彼らは、直接には連邦(ユニオン)を、間接には自由を危殆ならしめるような危険性があることを認めたのである。そして、連邦と自由とを二つながら十分に保障するものとしては、もっとも賢明に構成された全国的(ナショナル)政府(ガバメント)しかないことを悟り(...)憲法会議を召集したのである。」(318-9頁)

 よく注意して読まないと読み飛ばしそうなところだが、ここでジェイは連邦と自由を両立させるのは簡単な仕事ではないということを認めているのである。自由だけを追求すれば、連邦は存立できない。連邦が存立できなければ、自由は失われる。だから、自由と連邦を「二つながら十分に保障する」工夫が必要なのだ。そのとき、連邦がなければ自由が危機に瀕することの論拠にジェイが選んだのは、「侵略者があったときに誰が戦争をするのか?」という仮定だった。

 

 

2022年

9月

29日

ベルリンマラソン2022 ☆ あさもりのりひこ No.1236

2022年9月25日、ドイツでベルリンマラソン2022が開催された。

男子は、エリウド・キプチョゲ(ケニア)が2時間01分09秒で優勝し、女子はアセファ・ティギスト(エチオピア)が2時間15分37秒で優勝した。

 

【男子】

これまでの世界記録は、2018年にベルリンマラソンでキプチョゲが記録した2時間1分39秒だった。

今回、キプチョゲは、自己ベストを更新して、世界新記録を樹立した。

この世界最高のレベルで30秒も更新するとは、まさに驚異的である。

2位との差は4分49秒。

圧勝である。

42.195㎞を2時間01分09秒で走ったということは、1㎞の平均ペースは約2分52秒である。

凄まじく速い。

 

世界歴代2位は、エチオピアのケネニサ・ベケレが2019年にベルリンで記録した2時間01分41秒である。

現在の男子マラソン世界歴代ベスト50を見ると、ケニアが23人、エチオピアが24人とこの2つの国で47人、94%を占めている。

ケニアとエチオピアの強さが際立っている。

そして、その中でも、エリウド・キプチョゲの強さが際立っているのである。

 

鈴木健吾の日本記録2時間04分56秒は世界72位である。

世界記録との差は3分47秒に広がった。

 

ちなみに、エリウド・キプチョゲは1984年11月5日生まれの37才、もうすぐ38才である。

誕生日が朝守と同じである。

 

【女子】

現在の世界記録は、2019年にシカゴマラソンでブリジット・コスゲイ(ケニア)が記録した2時間14分04秒である。

2位は、2003年にロンドンマラソンでポーラ・ラドクリフ(イギリス)が出した2時間15分25秒である。

今回、アセファ・ティギスト(エチオピア)が記録した2時間15分37秒は世界3位の記録である。

アセファは、2時間16分を切った3人目の女子ランナーということになる。

 

現在の女子マラソン世界歴代ベスト50を見ると、ケニアが17人、エチオピアが22人とこの2つの国で39人、78%を占めている。

女子でもケニアとエチオピアの強さが際立っている。

 

女子マラソン世界歴代ベスト50の中に日本人が3人いる。

33位 野口みずき 2時間19分12秒 2005年

44位 渋井陽子 2時間19分41秒 2004年

47位 高橋尚子 2時間19分46秒 2001年

この3人のタイムはいずれもベルリンマラソンで記録されたものである。

世界記録との差は5分08秒もある。

 

日本の現役トップの一山麻緒の2時間20分29秒は65位である。

女子の日本記録2時間19分12秒は17年間破られていない。

そして、日本の女子ランナーは2時間20分すら切ることができないのである。

 

 

2022年

9月

28日

内田樹さんの「アメリカにおける自由と統制」(その1) ☆ あさもりのりひこ No.1235

私たちはトクヴィルやハミルトンやミルが生きた18~19世紀の欧米市民社会よりもはるかに民主制の成熟度の低い社会にいまも暮らしているのである。

 

 

2022年8月19日の内田樹さんの論考「アメリカにおける自由と統制」(その1)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

「自由論」という論集に寄稿を依頼された。こんなことを書いた。 

 

 まずアメリカの話をしようと思う。自由を論じるときにどうしてアメリカの話をするのかと言うと、私たち日本人には「自由は取り扱いのむずかしいものだ」という実感に乏しいように思われるからである。私たちは独立戦争や市民革命を経由して市民的自由を獲得したという歴史的経験を持っていない。自由を求めて戦い、多くの犠牲を払って自由を手に入れ、そのあとに、自由がきわめて扱いにくいものであること、うっかりすると得た以上に多くのものを失うかも知れないことに気づいて慄然とするという経験を私たちは集団的にはしたことがない。「自由」はfreedom/Liberté/Freiheitの訳語として、パッケージ済みの概念として近代日本に輸入された。やまとことばのうちには「自由」に相当するものはない。ということは、自由は土着の観念ではないということである。

 ややもすると私たちは「自由というのはすばらしいものである」「全力を尽くして守らなければならないものである」ということを不可疑の前提にして、そこから議論を出発させる。けれども、そうすると、自由に制限を加えようとする政治的立場が理解できなくなる。自由を恐れるという発想が理解できなくなる。自由を制限しようとする者はただひたすらに「邪悪な権力者」にしか見えない。だから、市民が語る自由論は「どうやって権力者の干渉を排して、自由を奪還するか」という戦術論に居着いてしまう。私たちの社会で自由についての思索が深まらないのはこの固定的なスキームから出ることができないせいではないか。

 

 JS・ミルの『自由論』(1855年)はアメリカ合衆国建国の歴史的実験を間近に観察した上でなされた考察である。私たちがまず驚くのは、ミルの最初の主題が「社会が個人に対して当然行使してよい権力の性質と限界」 だということである。どこまで市民的自由を制限することが許されるのか。ミルはそう問題を立てているのである。

 私たちの国では、そういう問いから自由について語り始めるという習慣はない。私たちの社会では、市民は「個人が行使できる自由の拡大」について語り、統治者は「政府が行使できる権力の拡大」について語る。話はまったく交差しない。

 統治機構はどこまで市民的自由を制限できるのか、制限すべきなのか、それがミルの自由論の一つの論点である。こういう問いは市民革命を経験し、政府を倒し、統治機構を手作りした経験のある市民にしか立てることができない。

 市民革命以前の人民にとって、支配者は「民衆とつねに利害が相反」する存在であった。だから、人民は支配者の権力の制限についてだけ考えていればよかった。しかし、民主制を市民が打ち立てた後、理論上は人民の代表が社会を支配することになった。支配者の利害と意志は、国民の意志と利害と一致するという話になった。政府の権力は「集中化され行使しやすい形にされた国民自身の権力にほかならないのだ」 ということになった。民主制以前だったら、空想的にならそう語ることもできただろう。けれども、実際に市民革命を行って、民主制を実現してしまったら、話はそれほど簡単ではないことがわかった。「権力を行使する『民衆』は、権力を行使される民衆と必ずしも同一ではない」 からである。代議制民主制のふたを開いてみたら、そこで「民衆の意志」と呼ばれているものは「実際には、民衆の中でもっとも活動的な部分の意志、すなわち多数者あるいは自分たちを多数者として認めさせることに成功する人々の意志」 だったからである。「民衆がその成員の一部を圧迫しようとすることがありうるのである。」

 これは市民革命をした経験のある者にしか語れない知見だと思う。支配者対人民という二項対立で話が済むうちは簡単だった。だが、近代民主制のアポリアはその先にあった。市民革命を通じて民主制を実現してみたら、予想もしていなかったことが起きた。最も活動的な民衆の一部がそれほど活動的でない他の民衆の自由を制約しようとし始めたのである。「民衆による民衆の支配」という予想していなかったことが起きた。さて、どのようにして民主制の名においてそのような事態を制御することができるのか? 社会が個人に対して行使してよい権力の性質と限界はいかなるものか? これが170年ほど前にミルによって定式化され、いまに至るまで決定的な解を見出すことができずにいる自由をめぐる最大の論件である。

 

 繰り返すが、私たちの国では、そのような問いが優先的に気づかわれるまでに市民社会が成熟していない。現に、「多数者の専制」が「社会が警戒することが必要な害悪の一つ」 であるという認識は日本国民の間では常識としては登録されていない。だから、「選挙に勝ったということは、民意の負託を受けたということだ」「選挙に勝って、禊が済んだ」というような言葉を政治家たちが不用意に口にし、メディアがそのまま無批判に垂れ流すということが起きる。ミルはそういう考え方が民主制に致命傷を与えるということをつとに170年前に指摘していたのである。

 

 ミルの書物は明治初年に日本に翻訳されて、ずいぶん広く読まれたはずである。しかし、読まれたということと血肉化したということはまったく別の話だ。私たちはトクヴィルやハミルトンやミルが生きた18~19世紀の欧米市民社会よりもはるかに民主制の成熟度の低い社会にいまも暮らしているのである。そのことをまず認めよう。

2022年

9月

27日

田舎へ帰省@事務局より

皆さんこんにちは。今日は事務局担当日です。

 

さて、今年も、秋のお彼岸に田舎へ帰って墓参りを済ませてきました。

 

毎年、家族の「晴れ女」パワーでお天気には恵まれているのですが、

今年は、田舎へ向かう途中で忘れ物に気付いて引き返したり、道を間違えて

遠回りしているうちに、霧が出てきてあっという間に土砂降りの雨になり、

前方の視界は真っ白、対向車線のライトを気にしながら夜道を運転することに(^_^;)

 

家に到着してもまだ土砂降りだったので、車から祖母を降ろして荷物を運ぶまでの

数分ですっかり頭からずぶ濡れになりました☔

 

ハプニング続きで幸先が不安でしたが、翌日、お墓掃除に向かう頃には雨も止み、

汗だくになりながらも墓掃除をすませ、今年もなんとかお墓参りを無事すませる

ことができました。

 

田舎へ帰った際には、道の駅で、野菜🍅やすだちなど、お手頃価格で買って帰るのも

楽しみの一つになっていたのですが、今年は台風や害虫などの被害もあったのか、

お店の棚にはほとんど並んでいない状態で、商品がスッカラカン。

かろうじて見つけても、普段の2~4倍の値段が付いているものもあり驚きました。

 

田舎では、先日、数え年で100才になった祖母に、大阪市から賞状と記念品の

銀杯が届いたので、久々に集まった親戚と一緒に食事をして記念写真を撮り、

少し足を延ばして高知の桂浜へ行ったり、近くの日帰り温泉で体のメンテナンスも。

 

短い滞在期間でしたが、自宅に帰ってきた時には体はぐったり😓

 

ただ、祖母にはいい思い出になっただろうと思い、

「今年は大勢で墓参り行けて良かったやん」と声をかけると、

「今年はお墓参ったかな。行ってへんのちゃうかな?」との一言。

 

・・・・・今日もお墓寄ってから帰ってきたやん・・・(-_-;)

 

10代の頃や若い時の話はいくらでも覚えているのに、

最近のことになると忘れやすくなった祖母には、何より証拠写真が必須です(^_^;)

 

2022年

9月

26日

内田樹さんの「共感にあらがえ」(その6) ☆ あさもりのりひこ No.1234

毎日こつこつと継続できる仕事がいつの間にか最も遠くまで僕たちをつれていってくれるんです。

 

 

2022年8月14日の内田樹さんの論考「共感にあらがえ」(その6)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

永井:コントラクトで合意を形成し、個人というよりは集団で考えていきましょう、ということですよね。私はもともと、集団内での合意形成って「共感しない自由」がある以上は、法的な枠組みの中でやるしかないんじゃないかって思っていました。たとえば「人権は権利として定められているので、義務的にみんなちゃんと尊重しましょう」ですとか。

 だけどやっぱり、程度の問題なのかなとも思います。であれば、市民のあいだでボトムアップで合意形成をするやり方の方がいいのだろうか、でもどんなやり方がよいのだろうか......というふうに迷ってしまっています。ボトムアップで合意形成をするための鍵って、何かあったりするんですか?

 

内田:それができたら人類は完成の域に達しますよね。なかなかそこまですぐにはいかないと思います。ただ、「合意形成はできた方がいい」ということについての合意形成は取れたほうがいい。対話できないよりは対話できたほうがいい。

それぞれに立場があるけれど、合意したり対話したりするためには、いったん自分の立場を離れてみる。「集団全体としては何が一番いいのか」ということに関して、みんなで知恵を出し合う。そういう合意形成の訓練はもっと小さい頃からした方がいいと思います。

 勘違いしている人が多いんですけど、合意形成って「誰かが正しい意見を言って、周りの人間を説得してその意見に従わせる」というものではないんです。そうではなく、「みんなが同じくらいに不満足な解を出す」ってことなんです。全員が同程度に不満というのが「落としどころ」なんです。それを勘違いして、合意形成というのを「全員の意見が一致すること」だと思っている。「Win-Win」なんて無理なんですよ。そんな奇跡的な解はふつうはまずありません。合意形成でとりあえず目指すのは「みんなの不満の度合いを揃える」ということなんです。誰かが正解を述べているので、説得するなり、多数決で抑え込むなりして、その正解に従わせるということではない。そうじゃなくて、全員が「俺の言ってることも変だけど、みんなも変」というところから出発して、誰かが際立って損をするようなことがない解を探り当てる。それが合意形成なんですね。

法社会学者の川島武宜が『日本人の法意識』という面白い本を書いているんですけど、そこで日本の伝統的な合意形成の方法の一つが紹介されています。歌舞伎に『三人吉三廓初買』という演目があります。お嬢吉三という悪者が夜鷹を殺して百両を手に入れる。それを見ていたお坊吉三という悪者が「それをよこせ」と言ってワルモノ同士の殺し合いが始まる。そこに和尚吉三が仲裁に入る。この時にどうやってトラブルを収めるかというと、「百両を二つに割って五十両ずつ納めてくれ。それでは足りないだろうから、その代わり俺の両腕を切って、一本ずつ受け取り、それで気持ちを鎮めてくれないか」と言うわけです。この提案に感動して、三人は義兄弟の契りを結ぶ、という話です。

こういう話って、昔からあるんです。合意形成に持ち込むためには、全員が同じ程度に不満足である解を見つけなければならない。そして、合意とりまとめを主導する人間には一番たくさん「持ち出し」をする覚悟が要る。『三方一両損』で大岡越前が出す一両も、『三人吉三』で和尚吉三が出す両腕も、本来ならば彼らにはそんなものを出す義理はないんです。でも、それを「持ち出す」覚悟を示すことで合意形成を主導できる。そういうものなんです。

 現代人はそういった合意形成の要諦をもう忘れていて、「一番正しい意見にみんな従うべきだ」と思っている。合意形成は「Lose-Lose-Lose」の「三方一両損」なんです。だから、「しようがねえなあ。じゃあ、これで手を打つか」という舌打ちとともに終われば上等で、最後にみんなで万歳というようなことは期待しちゃいけない。

 

永井:とても納得できます。意見の優劣を競うというわけではないわけですね。それどころかプラスを消してマイナスを平等にするという。

 

内田:優劣を問うても仕方ないんですよ。現に意見が対立している以上は、そこにはそういう意見を持つに至った個人の歴史があり、そこに至る切ない事情があるわけです。それはある程度認めざるを得ない。みんながお互いの抜き差しならない事情を認め合うことでしか調停というものはできない。永井くんも紛争調停の仕事をしているわけですから、そのあたりのことは経験的にわかると思います。

 

永井:今日のお話で、「個人の感情の器には限りがあるけれど、全員が同じようにパワーアップするのではなく、社会全体でパワーアップしていればいい」というのはたしかになと思いました。

 

内田:一人でやっているだけではつねに無力感に打ちひしがれてしまうでしょう。自分一人でできることは限られているから。一人だけで何とかしようとしたら、絶望的な気分になる。それで当然なんです。だから、つながればいい。でも、それは「共感」とか「絆」とか「ワンチーム」とかいうものではない。「それぞれの場所で、自分に割り当てられた仕事を果たす」ということなんです。

 暗闇の中でたった一人で敵陣に向かって銃を撃っているときに、遠くで誰かが同じように敵陣に向かって撃っている銃火が見える。「戦っているのはオレ一人じゃないんだ」と思えると戦い続ける元気が出てくる。それは共感ではないし、相互理解でもないし、同志的連帯というほどのものでもない。「オレも頑張っているけど、あそこでも誰か頑張っている人がいる」というだけのことです。でも、それだけでも、人間ってずいぶんと強くなれる。

 もちろん、自分一人で問題を解決できるほどに強くなれれば、それに越したことはありません。しかし、原理主義的にあらゆる人間に向かって「おばあさんに席を譲れ!」とか言えないですよね。中学生だったら注意できるけれど、ヤクザだったら二の足を踏む。それは仕方がないことです。そういう時は、「もうちょっと強くなりたい」と思う。その方向に向かってそれからこつこつと努力する。それでいいんです。

 

永井:原理主義的に考えすぎず、もう少し気楽にというか、懐深く構えようと。

 

内田:そうです。「人間としてあるべき条件」を吊り上げるのは決してよいことじゃない。「人間の条件」を満たす人を減らすだけの話だから。

 

永井:私も、御子柴善之先生とお話したときに言われたのが、「頭ではわかるんだけど、体が動かないというのは、何もおかしい話じゃないんですよ」と。でも、「人間としての責任を......」みたいなことを語ってしまいたくなってしまう。同じ人間だから、とするからこそ、時に排他的にもなるし攻撃的にもなりえることもわかりつつなんですけどね。

 

内田:長く仕事を続けたいと思ったら、呼吸をするようにできる仕事をすることです。自分の能力をはるかに超えたような目標は掲げない。三度のご飯を食べて、お風呂に入って、8時間眠って、家族を持って、生計を立てて、時々は息抜きをして遊んで...ということをしながらでも十分にできる仕事をする。毎日こつこつと継続できる仕事がいつの間にか最も遠くまで僕たちをつれていってくれるんです。

 

 

2022年

9月

22日

奈良マラソン2022への道 その7 ☆ あさもりのりひこ No.1233

9月16日(金)早朝、ジョギングの後、ウインドスプリント200m×10本。

45分46秒、6.788㎞、平均ペース6分44秒/㎞、累積上昇95m、消費カロリー405㎉。

ジョギング27分01秒

ウインドスプリントのペース/㎞はつぎのとおり。

4分54秒、4分31秒

4分41秒、4分22秒

4分34秒、4分16秒

4分48秒、4分08秒

4分42秒、4分00秒

往復の「往」は3本目が一番早かった。

往復の「復」は1本毎にペースが順調に上がっていった。

5本目が4分00秒/㎞。

あと一息で3分台だ。

 

9月17日(土)早朝、坂道ダッシュ400m×3本、49分16秒、6.874㎞、平均ペース7分10秒/㎞、累積上昇142m、消費カロリー431㎉。

【ジョギング】

6分58秒、6分56秒、6分51秒(600m

【坂道ダッシュ】

2分12秒(5分41秒/㎞) 4分05秒(8分19秒/㎞)

2分11秒(5分35秒/㎞) 4分51秒(10分05秒/㎞)

2分10秒(5分35秒/㎞)

【ジョギング】

8分11秒、6分45秒、6分05秒(100m

坂道ダッシュはいい感じでまとめられた。

つぎは2分10秒を切れそうだ。

 

9月18日(日)早朝、ジョギング、1時間14分20秒、10.92㎞、平均ペース6分48秒/㎞、総上昇量171m、消費カロリー758㎉。

6分51秒、6分36秒、6分35秒、6分40秒、6分55秒、6分51秒、6分58秒、7分04秒、7分13秒、6分30秒、6分40秒(920m)。

1㎞から4㎞までが速すぎたな。

奈良マラソン2022まであと12週間

 

9月19日(月・祝)早朝、ジョギング、1時間16分01秒、10.9㎞、平均ペース6分59秒/㎞、総上昇量175m、消費カロリー776㎉。

7分03秒、7分16秒、6分47秒、6分46秒、6分41秒、7分13秒、7分08秒、6分55秒、7分18秒、6分48秒、6分48秒(900m)。

4㎞から5㎞までが少し速かったが、いいペースを維持できた。

 

9月20日(火)早朝、西園美彌さんの魔女トレ。

夜、トレッドミルでジョギング、傾斜2%、30分、4.15㎞、時速8.4㎞(7分00秒/㎞)。

アルトラのエスカランテ3を初めて履いた。

1㎞7分00秒のペースを維持するのに、トレッドミルは適している。

1㎞7分00秒のペースを「ダブル・オー・セブン」と呼ぼう(007)。

 

9月21日(水)早朝、安藤大さんのトレーニング(アントレ)。

 

9月22日(木)早朝、テンポ走、37分53秒、6.21㎞、平均ペース6分06秒/㎞、総上昇量86m、消費カロリー412㎉。

6分48秒(ジョギング)

6分44秒(ジョギング)

5分46秒

6分16秒(折り返し)

5分48秒(下り)

5分24秒

5分22秒(210m

 

 

 

2022年

9月

21日

内田樹さんの「共感にあらがえ」(その5) ☆ あさもりのりひこ No.1232

共感や理解をベースにして人間関係を構築するのは危険だ

 

 

2022年8月14日の内田樹さんの論考「共感にあらがえ」(その5)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

永井:改めて、「共感」と「惻隠の情」の違いを考えたいです。たとえば数年前にトルコの海岸で、3歳のシリア難民の男の子の死体が流れ着いたということがありました。それで全世界が衝撃を受けたのですが、あれは惻隠の情だったんでしょうか?

 

内田:ある程度はそうでしょう。小さな子どもだったから。あれがヒゲの生えたおじさんだったらたぶんそこまでの反響はなかったと思います。哺乳類としての我々の本能には「同種の幼生を見たら支援しろ」ということが刻み込まれています。ライオンだって猫の幼獣が来たらおっぱいをあげたりするでしょ。赤ちゃんってすごい可愛いけれど、あれは可愛くしないと生きていけないからなんですよね。可愛いいから周囲に支援される。赤ちゃんを見てみんなが「何とかしてあげたい」と思うのは本能的なものなんですよ。「惻隠の情」って、相手が猫でも犬でも発動するんです。その点が「共感」とは違う。

 

永井:共感というものには「意識」みたいなものが入ってるってことなんですか? 本能とか反射ではなく。

 

内田:そうだと思います。共感は本能や反射ではない。だって「この人と共感してる」というのは本人がそう思っているだけじゃないですか。本当に他者と心が通じ合ってるかどうかなんて、自分にも相手にも、誰にも確証できない。だから、共感や理解をベースにして人間関係を構築するのは危険だと僕は言っているんです。それよりは、「共感も理解もできないけど、目の前に困ってる人がいたらとにかく助ける」というルールの方が汎用性が高いし、間違いが少ないと思うんです。

でも、人間は本能だけで生きてるわけではない。公正な社会、暴力に屈したり、屈辱感を味わったりしないで生きられる社会を作ろうと思ったら、たしかに「惻隠の情」だけでは足りないんです。それは始まりに過ぎないわけです。孟子も「惻隠の心は仁の端なり」と言っているわけで、そこが出発点なんです。そこで終わっちゃいけない。「赤ちゃんみたいに可愛くない」他者を支援することは本能だけには頼れない。もっと理論的なもの、制度的なもので補強して、足場を作らないと。

 

永井:足場を作って行っていろんなもので補強するにしても、一番根底にあるのは......

 

内田:惻隠の情ですね。

 

永井:ということですよね。私が思うに、機能的な点で言えば、情動的な「共感」というのは、「かわいそう、涙ちょちょぎれるぜ」というところで止まりがち。内田先生の言っている「惻隠の情」は、アクションまで含んでいるように思えます。

 

内田:そうです。集団は「弱い者」を支えて、助けるという仕組みの時に最も高い機能を発揮するものなんです。実際に、強者だけの連合を作って、弱者を切り捨ててゆけばわかります。そんな集団はすぐに消滅する。誰だってたまには病気になるし、怪我もするし、いずれ年を取って、他人の介助がないと生きられないようになる。そういう人を「足手まとい」だとして片っ端から排除したら、集団はどんどん痩せ細って、最後はゼロになる。集団でも個人でも、弱者を支援する仕組みをビルトインしていないと存続できないんです。弱者を支援する仕組みをきちんと整備してある集団の方が、そうでない集団よりも強いんです。

 

永井:原理として「惻隠の情」が機能していることを理解して、そこから積み上げていくしかないのかもしれないですね。

 

内田:そうです。自分の身内だけにしか共感を持てない状態から、同じ地域のメンバーであったり、国民国家の成員であったり、「同胞」の範囲をだんだん大きくしてゆく。時間をかけてそれを少しずつ広げてゆけばいい。最終的には「生きとし生けるものすべてがわが同胞である」というところまで行けば、宗教的な悟りを得たことになるんでしょうけれども、そこまではなかなか行けません。でも、目標はそこですよね。それをめざして歩み続けて、途中で息絶えても別にそれでいいじゃないですか。

 

永井:内田先生に聞いてみたいんですが、私たちは「共感」なるものをもっとうまく使えないのでしょうか?惻隠の情は今日初めて知ったのですが、共感は結構社会でキーワードになっていると思います。

 

内田:僕は「共感」という言葉には警戒心を抱いています。今の日本社会って、「共感過剰」な社会になっているような気がします。共感できる人間だけで固まって、同質的な、集合的共感のようなものを作って、外部の人とのコミュニケーションができなくなってきている。

 

永井:いわゆる「エコーチェンバー」とか「フィルターバブル」と言われている現象ですね。私も全く同感で、すごく気持ち悪いなとも思っています。「共感にあらがえ」の連載を書くに至った一つの問題意識でもありました。

 

内田:共感を強制するせいで、むしろ個人が原子化していっているように見えます。前に大学で学生にレポートを書いてもらったら、二三人が「私、コミュ障なんです」と書いてきました。「コミュ障」というのは若い世代でよく使われる言葉みたいですけれど、要するに他の学生にあまり高度な共感を感じることができないということらしい。

学生たちって、すぐに「キャー! そうそう!」って、激しく頷いて、ジャンプしてハイタッチしたりしますよね。服がかわいいとか、どこかのケーキが美味しいとかいう程度のことで。過剰に共感しているふりをする。どうも、この自称「コミュ障」学生たちは、それができないことを自分の社会的能力の欠如だと思っているらしい。あんな高度な共感は自分にはできない。あの共感の輪に入っていけない。つまり、あのキャーとぴょんぴょんを「共感している状態」だと思っているわけです。でも、あの作為的な共感の輪の中にいる学生たちも、一人ひとりはかなり孤独なんじゃないかと思いますよ。ああいう演技をしていないと仲間として受け入れられないのだとしたら。

僕の友人が大学で「誰にも言えない私の秘密」というテーマで学生に匿名でアンケートを取ったところ、100人中15人くらいが、「今付き合っている友達が嫌いだ」と回答したそうです。なんだか、わかる気がします。小さな集団のなかで「演技的な共感」を強制されて、どんな話題でも「そうそう」と頷いて、100%の共感と理解を示さなければ仲間ではいられないとしたら、それは心理的にはきわめてストレスフルだと思う。

 そういうことは別に女子学生に限られない。おじさんたちだって、おばさんたちだってやっていることは同じじゃないかな。内心は軽蔑したり、嫌っていながら、表面的には過剰な共感を演じてみせないと、仲間でいられないという状況はかなり危険なことだと思います。それよりは、時々は「すいません、何言ってるかわかんないんですけど......」とか「もうちょっと具体的な例を挙げていただけますか?」とか言っても許されるという方がコミュニケーションとしては健全じゃないですか。別にすべてについて同意しなくてもいいじゃないですか。重要な点がだいたい一致するなら、それで十分に一緒に仕事はできるんだから。

理解も共感もできないけれど、この人は約束は守るし、決めたルールには従うというなら、一緒にチームを作れるし、結構大きな仕事だってできる。100%共感できないと何もできないというより、さっぱり共感できないけれど、一緒に安心して仕事ができるという方が僕はいいと思う。「こういうルールでやりましょう」というコントラクト(契約)を取り決めたら、それをきちんと守るという社会性の方が、べたついた共感よりも、集団で生きてゆく上ではずっと大切だと思います。共感や理解は他者と協動するための絶対条件じゃないありませんよ。

 

 結婚だってそうですよ。結婚が100%の共感と理解の上に築かれるべきだということになったら大変ですよ。一度ささいなゆき違いがあって、「あ、オレたち気持ちが通じていない」と思ったら、すぐに離婚しなければいけないんですから。そんなことできるはずがないじゃないですか! 僕は、夫婦間で取り決めた約束を守ることは配偶者に求めますが、妻に「全面的な共感」なんて求めてませんよ。僕みたいな変な男のことを「理解してくれ」なんて言ったら申し訳ないもの(笑)。

2022年

9月

20日

今日は、バスの日

本日9月20日は事務局が担当です。

今朝は、台風14号が昨晩通過して、空気感がすっかり秋となり、涼しい近鉄八木駅前です。

今は、台風一過の様なさわやかな青空が観られ、コロナウィルス感染の第7波も収まってきました。

今朝の通勤途中では、彼岸花も咲き始めていました。

先週末からの連休は、台風14号の影響があり、気温も高かったですが、この先の天気予報では、さすがに30度を超える日は無さそうです。

そうなると、少し出かけたくなる気分になりますよね。

そして、今日はなんと「バスの日」です。

今から119年前の1903年9月20日に京都市内で初めてバス事業を開業した日だそうです。

バスと言えば、近鉄八木駅前は、高速道路を使わない路線では、日本一の走行距離を誇る路線バス「八木新宮特急バス」の始発地です。

近鉄八木駅を出発する「八木新宮特急バス」
近鉄八木駅を出発する「八木新宮特急バス」

近鉄八木駅と新宮駅間、走行距離は169.8キロ、停留所の数は168で、所要時間は6時間32~50分程で、1日3本走っています。

今年の10月1日からの土日祝日は「観光特急やまかぜ」という名で、1日1往復だけ、途中の停車するバス停を減らして、所要時間を短縮するそうです。

「八木新宮特急バス」の後面
「八木新宮特急バス」の後面

長時間ですので、途中で3回休憩があり、上野地というバス停での休憩では、直ぐ近くにかつては日本一だった「谷瀬の吊り橋」があり、高所恐怖のスリリングな体験ができ、十津川温泉の休憩では、足湯の利用ができます。

また、この路線のバスは、八木新宮特急バス専用車両で、近鉄八木駅周辺を走るバスとは違って、無料Wi-Fiサービス付きで、座席は、リクライニングはありませんが、やや長時間向きです。

更に詳しくは、奈良交通のホームページをご覧下さい。

https://www.narakotsu.co.jp/rosen/yagi-shingu/index.html

それと、十津川温泉位まで乗車される方は、途中で食事がとれないと思われるので、飲み物と、近鉄八木駅構内もしくは駅の北側で販売している「柿の葉寿司」を購入して乗車されることをお奨めします。

これからの季節、山々が色づいて行く様をゆっくり観ながら十津川郷の温泉に浸かる1泊2日のバスの旅はどうでしょう。

2022年

9月

16日

内田樹さんの「共感にあらがえ」(その4) ☆ あさもりのりひこ No.1231

これはソクラテスが言っていることなんですけれど、僕たちはその解法が分かっているものは「問題」としては意識しない。逆に、解法がまったく思いつかないものも「問題」としては意識されない。僕たちが「問題」だと思うのは、その解法がまだ分からないのだけれど、これから時間をかけて取り組んでゆくといずれ解法がわかりそうな気がするものだけなんです。

 

 

2022年8月14日の内田樹さんの論考「共感にあらがえ」(その4)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

永井:たしかに、私も「葛藤している方が真摯なんじゃないか」ということは、なんとなくわかりますし思ってもいます。でも、自分がいくら葛藤したところで問題はずっとそこにあり続ける。その問題を、私はどう捉えればいいんだろうと考えざるを得ません。物事が良くなるには百年、千年かかる。「一歩ずつよくなってればいいじゃないですか」ということを言われたりもします。それはとてもよくわかる反面、社会が良くなるためにも千年かかりますってときに、その問題に対して「仕方ないよね」で片付けるのも納得がいかないというか、それでいいんでしたっけ?と素直に思います。

 

内田:いやいや、片付けちゃいけないんですよ。葛藤するというのは、納得がゆかないということなんですから。

 

永井:でも、いくら葛藤しても実際にその問題を解決できなければ意味がないのでは、とも考えるわけです。今ここで、その問題の解決を考えているわけですし。

 

内田:これはソクラテスが言っていることなんですけれど、僕たちはその解法が分かっているものは「問題」としては意識しない。逆に、解法がまったく思いつかないものも「問題」としては意識されない。僕たちが「問題」だと思うのは、その解法がまだ分からないのだけれど、これから時間をかけて取り組んでゆくといずれ解法がわかりそうな気がするものだけなんです。だから、永井くんがあることを「問題だ」と考えているということは、指先が解法に手が届いているという実感があるからなんだと思う。どうやって解けるかはまだわからない。でも、時間をかけて、経験を積んでゆけば、わかりそうな気がする。そういう状態にいるんだと思います。

 永井くんがホームレスを見て葛藤するのは「自分の力の範囲内でこの状況をなんとかできるかもしれない」と思っているからなんですよ。解決する手立てがどこかにある「ような気がする」。解決の可能性を直感している。まったく自分の手には負えないと思っていたら、そもそも視野に入ってこない。まったく無力な人間は自分のことを「無力」だとさえ思わない。「自分には力が足りない」と思うのは実は多少は力があるからなんです。

 永井くんがこれから力を付けてゆくと、いずれなんとかなるかも知れないということを直感的には確信しているんです。今は「どういう力を身に着けたらこの問題は解決できるのか」を考えてゆけばいい。そんなに急がなくていいんですよ。

 

永井:ソマリアは当時、「比類なき人類の悲劇」だと言われていたんですが、同時に「地球で一番危険な場所」とも言われていました。なので特に日本なんかではほとんどの大人たちがソマリアなんて無理となっていて、「英語話せるようになれ、専門知識つけろ、10年は経験積め」なんてことを話を聞きに行った大人たちに言われていたんです。それはたしかにそうなのかもしれない。でも、じゃあ「自分はその10年間どの面下げてソマリアを見ていればいいんだ」と思った。そもそもそれらを持ってる大人たちが危険だの金がおりないだのでやらないわけですし。なので、結局問われているのは姿勢だなと考えるに至りました。

 

内田:個人としての限界があるから、そこのところは折り合いをつけるしかないと思いますよ。死んだら身も蓋もないから。永井くんがもし、この世に少しでも善を積みたいと思っているなら、「長生きする」ってこともけっこう大事な仕事ですよ。

 

永井:葛藤しつつ、とかく瞬間瞬間ベストを尽くすということなのかもしれません。問題解決への文字通りのベスト。とはいえ実際にはなんだかなあと思うのですが、「じゃあ今この瞬間に世界にあるすべての人権侵害と紛争をなくしてみろよ」と言われても、恥ずかしながらできないのも事実ではあります。だからこそ、恥ずかしいと思いながらも、少しばかり先のことも見据えて、ベストを尽くす必要があるのかもしれないと思いました。

少し話が戻るのですが、内田先生のおっしゃる「感情の器」って、「人を見る目」「ものを見る目」でもあるとのことでしたけど、それって理性ともまた違うんですか?

 

内田:理性とは違いますね。やっぱり「感情の器」って、あくまでも個人的な身体条件のようなものだから。

 

永井:「感情の器」を大きくするのって、「外付け」や家風以外でできたりしないんですか?というのも、外付けが嫌だったり合わない人もいれば、家が崩壊している人もいるでしょうし。

 

内田:「とにかくこの人は器が大きい」と思う人のそばに行って、弟子入りしたり、友達になればいいんじゃないかな。自分の器をちょっとでも大きくしたいと思ったら、実際に器の大きい人に親しむしかないと思います。「器の大きい人ってこうやって息するんだ」とか「こうやって鼻かむんだ」とか。身近で、その人の所作や物言いを身近に感じて、それを模倣する。それは書物では学べないことですね。

 

永井:たとえば内田先生は、どうされたんでしょう。

 

内田:合気道の師匠の多田宏先生と哲学上の師匠のエマニュエル・レヴィナス先生に就いて学んだのだと思います。二人ともほんとうにスケールの大きい師でした。

 

永井:となると、集団的な知性を高めるためには、たとえばどんなことをすればいいのでしょうか。

 

内田:普通にしてればいいんじゃないですか(笑)。世の中には感情の器が大きい人がいるということを永井くんを通じて見せるのが一番早道なんじゃないかな。そういう人を見ると、「自分ももしかしたらそうなのかも」って思うから。見たことないと、そうは思わない。

陸上競技でも100メートル9秒台って人間には無理だと思われていたんだけど、一人が9秒台を出すと、走れる人がどんどん出て来たでしょう。高いパフォーマンスを持っている人ができる最良のことは「人間ってここまでのことができるんだ」ということを見せられるということです。それを見て、「じゃあ、自分も」と思う人が出て来る。

 

永井くんがやっていることもそうだと思う。永井くんを見て、これからアフリカやアジアに支援に入っていく若い人がどんどん出てくると思う。それは永井くんが「できる」ということを見せたから。「こういうことをやってもいいんだ。やればできるんだ」ということがわかると、フォロワーが出てくる。

2022年

9月

15日

奈良マラソン2022への道 その6 ☆ あさもりのりひこ No.1230

9月9日(金)早朝、雨で走れないので西園美彌さんの魔女トレ。

股関節のストレッチは、Twitterの動画を参考にした。

 

9月10日(土)早朝、ビルドアップ走、37分26秒、6.21㎞、平均ペース6分02秒/㎞、総上昇量77m、消費カロリー425㎉。

6分44秒

6分25秒

6分18秒

6分00秒

5分35秒

5分22秒

5分04秒(210m

着実に速度を上げることができた。

この行程は5回目だが、今までで一番速く走ることができた。

木曜日と金曜日は雨で走らなかったので、いい休養になったようだ。

 

9月11日(日)早朝、ジョギング、1時間14分10秒、10.91㎞、平均ペース6分48秒/㎞、総上昇量124m、消費カロリー751㎉。

6分55秒

7分01秒(上り)

6分38秒

 6分38秒

 6分47秒

 6分47秒

 6分53秒

 6分57秒

 6分56秒

 6分33秒(下り)

 6分43秒(910m

 2~4㎞が制御できていない。

 6分33秒から7分01秒までの間に収まった。

 つぎは6分50秒より速くならないように走ろう。

 

奈良マラソン2022まであと13週間。

 奈良マラソン2022は、1㎞7分00秒のペースで走る。

 そうすると、10㎞で1時間10分、20㎞で2時間20分、30㎞で3時間30分、40㎞で4時間40分、最後は4時間54分でゴールすることになる。

 

9月12日(月)早朝、インターバル走(緩急走)、35分50秒、6.19㎞、平均ペース5分47秒/㎞、累積上昇87m、消費カロリー378㎉。

6分53秒、5分22秒

8分20秒、5分12秒

8分05秒、5分27秒

8分20秒、5分06秒(下り)

7分32秒、5分18秒

「緩急」の「急」の方は、5分06秒から5分27秒までに収まったのでまずまずだ。

「緩急」の「緩」の方は、8分00秒/㎞を切りたいところだな。

 

9月13日(火)早朝、西園美彌さんの魔女トレ。

夕方、妻を医療機関に連れて行ったので、トレッドミルはお休み。

 

9月14日(水)早朝、安藤大さんのトレーニング(アントレ)。

最後の縄跳びは、脚がロープに引っかからないで300回連続で跳べた。

左の脇腹が張っている。

 

9月15日(木)早朝、ジョギングと丘の階段641段、52分48秒、7.24㎞、平均ペース7分18秒/㎞、総上昇量150m、消費カロリー544㎉。

1㎞ごとのペースはつぎのとおり。

左は今朝、右は前回(51分18秒)。

7分12秒  6分51秒

7分13秒  6分47秒

7分30秒  7分35秒

8分17秒  8分26秒 (階段)

8分12秒  8分12秒

6分18秒  6分08秒

6分33秒  6分19秒

6分24秒  5分43秒

(240m) (180m

階段駆け上がりは前回より今回の方が速かった。

階段を駆け上がると息は切れたが、身体の力は消耗しなかった。

 

好調なときは、階段部分が短く感じられ、早く頂上に着く感じがする。

2022年

9月

14日

内田樹さんの「共感にあらがえ」(その3) ☆ あさもりのりひこ No.1229

社会的公正の実現は政府に全面的委ねてはならない

 

 

2022年8月14日の内田樹さんの論考「共感にあらがえ」(その3)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

永井:私がもともと思っていたのは、全人類に「人権の侵害はどんなケースであっても抑止しなければいけない」ということを改めて周知し、どうにかそれが実現できるように公も含めるしかないんじゃないか? ということでした。人権教育というとなんだか大変浅いですが、外のものをガチャッと装着するケースとして「人権教育的なものをしっかりしていく」というのは、例としてありえるんでしょうか?

 

内田:いま永井くんが「教育」と言っているのは「学校」を想定していると思うんだけど、僕は人の生き方は学校では教えられないと思う。人権教育は学校で教えてくれと思っている親がいるかも知れませんけれど、それは無理筋だと思う。「人としてどうふるまうべきか」を子どもに刷り込むのは「家風」なんですよ。子どもたちは親の背中を見て、人間としての生き方を学ぶ。それは教科書で教えることじゃない。

 前に、元SEALDsの奥田愛基くんに会って話した時に、半分ぐらいがお父さんの話だった。彼のお父さんは奥田知志さんという牧師で、長くホームレス支援をしてきた人なんです。父親が家の中に知らないおじさんを連れてきて、「この人、あそこの公園にいたホームレスの人だけれど、今日からうちに泊まるから」というようなのが日常という家で彼は育った。だから、困っている人を支援するのが当たり前で、それをするために何らかの理論的な基礎づけや、イデオロギーを動員する必要がない。永井くんも家風の成果なんじゃないですか?

 

永井:家風ですか...。いや、私は逆に、子どもの頃はよく母親に殴られたり色々と物を捨てられたりされていて、そのときに「この家では力を持った奴は殴ったり物を捨てたりしていいんだな」と思ってしまったんです。そして中学生になって殴られたときに「よく見たら小さいし別に喧嘩が強いわけでもないな」ということに気が付きまして。それでそこからは自分が母親のことを殴りまくるようになりました。ひどい時はアザだらけでしたよね。父親も単身赴任でしたし。

 

内田:全然、人権派じゃないね(笑)。

 

永井:父親が単身赴任先から帰ってきたら母親があることないこと全部盛って言って、そのレポートをもとに父親が怒るわけです。もちろん私もそれに対して反抗します。「こういう大人になったら終わりだな」と思って、まあ反面教師ですよね。「誰の金で飯食ってるんだ!」とか言われ続けてましたし。もちろん私も問題児では確実にありましたけど。

 

内田:「誰に食わせてもらっているんだ」というのは親が絶対に言っちゃいけないやつですね。僕自身はほとんど親と喧嘩したことがないんです。なんだかこの人たちと考え方、生き方が違うかも知れないと感じたところで早々と家を出てしまったので。相手を説得できるとも思わなかったし、説得されるとも思わなかった。だから、ぶつかって、傷つけ合っても仕方がないから、すっと離れた。

 倫理を身に着けるとしたら、実際に、その規範に従って自然に生きている人を見て、その謦咳に接するということを通じてしかないのかも知れないですね。

 今度、学校教育で「道徳」が教科化されましたけど、教える先生自身が道徳的な人であって、その立ち居ふるまいから「人のあるべき姿」が滲み出て来るというのであれば、道徳教育も成り立つでしょうけれど、教える先生自身が特段道徳的な人ではないという場合には、教科書を使って道徳を教えることは不可能でしょう。

 

永井:つまり「マザーテレサはこんな人でした!」ということを教えるだけでは、道徳や倫理は教えることができないわけですよね。たしかにどれだけマザーテレサマニアだったとしても道徳的の程度には大して関係ない気はします。

 

内田:何の影響もないと思います。まあ、なかにはそれを読んでスイッチが入っちゃう人もいるかもしれないけどね。人倫って、やっぱり生きている人を見て、それに感化されるものですから。

 

永井:それで言うと、私は本当に「人権」というものを外付けしたタイプだと思います。大学1、2年の頃、大学で平和学の授業を取ってたりしたのですが、そのときに、何が幸福なのか、他人が何を考えているのかなんてわからないと思ったんです。そして陳腐ですが、みんな正義も正しさも違うよねともやはり思いました。

 じゃあ何を拠り所にしたらいいのだろうと考えた結果、「そうかそうか、人権というものがあるのか、みんな賛同してるし普遍性高いじゃん」となりました。普遍性が高いなら、「人権が著しく侵害されているのであれば、これは問題だ!」と堂々とみんなに言うことができる。そうして私は良くも悪くも人権というか権利しか見ない人になっていったわけですが、それは本当に「外付け」だったと思います。

 

内田:人権原理主義になってしまったんですね。

 

永井:だからホームレスの方が実際に目の前で苦しそうにされているときに、「一時的なケアだけでいいのか」と思ってしまうし、「長期的なケアをするのであれば、でも500人とかホームレスがいるから、どうするべきか......」ということを考えてしまって、結局そそくさとその場を立ち去ってしまう。で、そのことが恥ずかしいわけです。なんなんだ自分は、と。

 

内田:そういう場合に「ホームレスを支援するのは行政の仕事でしょう。そのために税金払ってるんだから」って言って平気で通り過ぎることのできる人もいるだろうし、「参ったなあ。本当は自分が何とかしてあげなくちゃいけないんだけれど、でも急いでるし......」といって内心に葛藤を抱える人もいるでしょう。僕はそれでいいと思うんです。立ち止まって支援することはできなかったけれど、ほんとうは仕事を放り出しても支援すべきじゃなかったのか...と葛藤するというのは人として自然なことであって、人間はそうやって倫理的に成熟してゆくんですから。

 僕の哲学上の師匠はエマニュエル・レヴィナスという哲学者なんですけれど、レヴィナスは社会的公正の実現は政府に全面的委ねてはならないということを言っています。スターリン主義のソ連においては、社会正義を実現する責任と権限はすべて国家に与えられた。市民たち一人ひとりは社会正義を実現する義務を免除されたし、自己判断で社会正義を実現する権利も奪われた。だから、目の前で困っている人がいたら、行政に届け出て、「助けてあげてください」と言えばいい。自分の身銭を切ることがない。

 スターリン主義は善意から出発したけれど、倫理的に退廃したとレヴィナスは言うんです。正義や平等の実現を国家が担うシステム内では、市民たちは道徳的にふるまう必要がなくなる。

 それは神さまが完全に世界を支配している世界と同じです。神さまがすべてを見ていて、善い行いには褒賞を、悪い行いには処罰を間違いなく与えるというシステムだったら、人間は善行をしたり、悪行を咎めたりするインセンティヴがなくなる。飢えた人が目の前にいても「神さまがなんとかしてくれるからいい」となるし、目の前でどんな不正が行われていても、「悪人はすぐに神さまに罰せられるから、自分は何もしなくていい」となってしまうから。公的なものや超越的なものが個人に代わって正義と慈愛を実現してくれる社会では、人間はそれを自分の仕事だと思わなくなる。

 

 だから、人権が守られる社会を作ることはとても大切なんですけれど、公的機関によって人権が完全に守られる社会では、個人は他人の人権のことを配慮する義務を免除される。人権のことを考える必要もなくなる。その逆説も頭に入れておいた方がいいと思います。

2022年

9月

13日

監督と選手

離婚 大和八木
残暑ざんしょ~

みなさん、こんにちわ。

本日は事務局担当日です。

 

夜はだいぶ過ごしやすくなりましたね😀

 

最近、韓流にどっぷりつかっている子供が

韓国で流行っているらしいと教えてくれたのが

性格診断テスト「MBTI」マイヤーズ・ブリッグスタイプ指標)

 

BTSのメンバーが自身のSNSにあげたことで、爆発的に人気がでたようですが、

心理学者ユングのタイプ論を基に20年以上かけて発展し、

アメリカや韓国などでは一般的な性格診断として広く知られており、カウンセリングやキャリア教育、チームビルディングなど、様々な場面で使われているそうです。

たくさんの質問に感覚的に答えていくことで、

外向型・内向型、感覚型・直観型、思考型・感情型、判断型・認知型の4つに二分法を掛け合わせた16の性格類型に分類されます。

 

日本MBTI協会などが行うきちんとした検査もあるようですが、

インターネットの簡易版で私も試しにやってみたところ、

 

「ISFJ」(擁護者・保護者)

という診断がでました。

詳しい内容はGoogle先生にお任せするとして、

「あぁ、確かにそうだわ~」と感じるところが多かったです。

 

一方、子供は、

「ISFP」(冒険者)

 

相性診断のサイトも子供が見つけたのですが、

相性はいいそうです。よかったよかった。いや、最悪とか言われても・・・(゚д゚)

別のサイトを見ていると

この関係は監督と選手の関係と書かれていました。

 

最近、思春期に突入した子供に対しての関わり方に少し悩んでいた私は

その解説を読んで、すとん、と落ちるところがあり、

自分や子供を俯瞰して判断でき、客観的に自分を省みるよい機会となりました。

興味を持たれたら、一度、試してみて下さい♪

 

 

子供は、自分の「推し」との相性診断をして「最高やった~♡」と小躍りしておりました😅

2022年

9月

12日

内田樹さんの「共感にあらがえ」(その2) ☆ あさもりのりひこ No.1228

何も考えないうちに、支援を求めている他者の訴えに身体が自動的に反応してしまう。それが人の道の基本だと『孟子』には書いてある。

 

 

2022年8月14日の内田樹さんの論考「共感にあらがえ」(その2)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

内田:惻隠というのは、たとえば幼い子どもがよろよろと歩いていて井戸に落っこちそうになっている時に、思わず手を伸ばして助けてしまうということです。この子を助けたら、後から親に感謝されるだろうとか、助けなかったら周りのやつから後から「非人情だ」と罵られるかもしれないとか、そういう計算をするより先に思わず手が出てしまっていた、というのが惻隠なんです。何も考えないうちに、支援を求めている他者の訴えに身体が自動的に反応してしまう。それが人の道の基本だと『孟子』には書いてある。

 この時に、とっさに手が出るのは、相手が無力な子どもだからですね。これががっしりした身体の大人だったら、そんなに自然には手が出ないかも知れません。井戸に落ちるなんてバカなやつだな。おい、誰か手が空いているやつがいたら助けてやれよ、くらいのリアクションかも知れない。惻隠の情が発動するためにはそれなりの条件があるということです。

一つは、「自分から見て弱者である」ということです。もう一つは、「自分の力の範囲内で救うことができると思える」ということです。その条件が整えば惻隠の情は自動的に発動する。でも、相手が自分より強者であったり、とても自分の力では救えないような状態の場合には「思わず手が出る」ということは起きない。

 

永井:それは「本能的な反応」みたいなことなんですか?そうした瞬間では頭で考えるよりも前に体が動いたというのはたしかにありそうではあります。

 

内田:永井くんの場合だと、目の前の元テロリストの青年を見た時に、彼が「井戸に落ちかけた子ども」に見えてしまうんだと思います。だから、手を差し伸べる。でも、誰の眼にもそう見えるわけじゃない。ふつうの人にはそんなふうには見えないかも知れない。

 だから、目の前にいる人を支援する気になるかならないかは、多分に永井くんの個人的な能力の高さによって決まるんだと思います。ソマリアのギャングがいきなり手に銃を持って出てきたら、恐怖や嫌悪感が先立つでしょう。それが「井戸に落ちかけた子ども」に見えるというのは、かなり例外的なことだと思います。

 

永井:じゃあもし、教室の中でひとりぼっちで取り残された人が、自分から見て弱者ではないし、自分の力の範囲内で救うことができるとも思えないし、なんならついでにたとえば嘘ばかりついて、万引きもして、人殺しもしていて、誰も「共感」してくれない人だったら、「惻隠の情」は発動しえないということになるのでしょうか。逆に言えば、自分から見て弱者であり且つ自分の力の範囲内で救うことができるとどんどん思えるようになっていけば、惻隠の情をより多く発動させることができるということですか?

 

内田:それは「感情の器」の大きさによるんだと思います。誰かが一人でポツンといるのを見ても、何も気にならないという人もいるし、胸がいっぱいになる人もいる。胸がいっぱいになった人は功利的な計算抜きで、ふと「一緒に遊ばない?」とか「なんで君、いつも一人なの?」と話しかける。それは相手にすっと伝わると思います。作為がないから。一人ぼっちの人は、近づく人にわずかでも作為や計算を感じると心を閉じますから。でも、作為なしに手を差し伸べられると、ふっと虚を突かれてしまう。

 人の本質を見抜く人だと、どれほどごつい外見で、攻撃的な人間が来ても、その人の心の中に「ひ弱な赤ちゃん」がいるということが見えてしまう。だから、その「ひ弱な赤ちゃん」が怯えていたら、つい手を差し伸べてしまう。それが「人を見る目」ということなのだと思います。

 目の前にいる人の傷つきやすさ、壊れやすさが見えるというのは、人の感情の器の大きさによると思うんです。感情の豊かさは先天的なものです。眼が良いとか、背が高いとか、鼻が利くというのと同じで、先天的なものです。生まれつき感情の器が大きい人がいる。そして、そういう人がすっと手を差し伸べる時の心情というのは、いわゆる「共感」とは違うものだと思いますね。

 

永井:それは共感ではないとしたら......何と言ったらいいんでしょう?

 

内田:「感情の器が大きい」という言い方でいいんじゃないかな。努力してそうしているわけではないし、義務感からそうしているわけでもない。自分の感情の動きに素直に従っていたら、すっと手を差し伸べていたんですから。感情の器には大小があって、それはほぼ生まれつきなんです。感情の器の小さい人に対して「器を大きくしろ」って言っても無理だし、器の大きい人に「小さくしろ」って言っても無理です。一人ひとり、おのれの感情の器に従って、相応のことをすればいいと思う。

 

永井:となると、たとえば、大変そうなホームレスの方と遭遇した際のように道徳心を問われる状況に置かれたとき、自分がもし感情の器が小さければ、そこで即座に反応できずスルーしてしまうわけですよね。スルーしてしまう自分にちょっとモヤモヤするけど、実際の行動としての手助けはできない。この状況をどう理解すればいいんだろう、と思ってしまうんです。自分の感情の器が小さければ仕方ない、大きい人が何かやればいいんだ、ぐらいの気持ちでいればいいんでしょうか。生得的なものだから小さければしょうがないよねとなるのはそれはそれで引っかかる気もします。

 

内田:それはしかたがないと思います。自分の中から湧き出す内発的なものですから、頭で統御することはできない。頭で考えたことは「これこれのことをしなければならない」という文型を取りますけれど、感情の動きはそうじゃない。気がついたら、もう動いていた。そして、それは感情の器で決まる。それで人の倫理性の優劣を論じてもしかたがない。誰でも一人ひとり個人的な限界がある。その能力の範囲内で、できることをすればいいんです。

 でも、それはいやだ、どうしてもすぐに行動できるようになりたいというのだったら、「困っている人を見たら、すぐに人助けをしなければならない」という既製の倫理を外装するという手もあります。宗教であったり、政治イデオロギーであったり、そういう出来合いのものを外付けすることはできます。キリスト教徒になったり、人権派になったり、マルクス主義者になったり......「利他的な行為」を当為として掲げているそういう枠組みの中に身を投じる。そういう枠組みの中では、人を救うための理論や作法が決められている。それを根拠づける体系的な論理があって、具体的な作法がある。歴史的にも十分な成功事例の蓄積がある。それを外部装着することはできます。実際に、そうしている人はたくさんいるし、実際に有効なんです。

 ただ、「外付けされた惻隠の情」にはいろいろと無理がある。たとえば、キリスト教も弱者への愛から始まった宗教ですけれど、キリスト教の名においてこれまで多くの人が死んでいった。殉教した人もいるし、背教者・異教徒として殺された人もいる。その歴史的事実は否定できません。マルクス主義もそうです。被抑圧者に対する憐憫と共感から始まった政治思想ですけれど、マルクス主義の名の下でも多くの人が死んだ。

 

「万人を愛する」という倫理は個人が内発的に支え切れるものではありません。だから、「ありもの」を外付けするしかない。でも、外付けされた倫理はしばしば歯止めが利かなくなる。内発的な倫理は「人として」というしばりがあるけれども、外装された倫理は感情や身体による規制を受けつけずに暴走することがある。

2022年

9月

09日

内田樹さんの「共感にあらがえ」(その1) ☆ あさもりのりひこ No.1227

今の日本社会をみると、共感がすごくもてはやされていて、その状況に違和感を持っています。

 

 

2022年8月14日の内田樹さんの論考「共感にあらがえ」(その1)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

はじめて永井陽右君に会ったのは朝日新聞のデジタル版での対談だった。もう3、4年前だと思う。ひさしぶりに「青年」というものに出会った気がした。デジタル版だったので1時間半くらいの対談内容がそのまま掲載された。それを再録しておく。

 

永井:私は仕事としてテロ組織から降参した人のケアや社会復帰の支援などをやってきました。しかし、国際支援の分野での対象者や対象地に関する偏りがどうも気になっていて。難民だとか子どもだとかそういう問題になると情動的な共感が生まれるのに対して、「大人で元テロリストで人殺しちゃいました」とかだと、それがまるで真逆になる。抱えている問題が同じだとしても、「なんでそいつまだ生きてるんですか?」て話になってしまう。そこが問題意識としてもともとありました。

今の日本社会をみると、共感がすごくもてはやされていて、その状況に違和感を持っています。ただ同時に、「共感」の欠点を自分のなかで考えていくなかで、「そもそも共感するかしないかは自由だな」ということにも気が付きました。となると、「共感しない自由」をどう考えればいいんだろう、というのが私のなかで課題になってきました。

 みんなが「共感しない自由」を行使することによって、「共感されない人」が生まれてしまうとしたら、そのときに生まれる問題を私たちはどう捉えればいいのか。

 私は「共感するかしないかではなく、誰しも人権はあるのだから、テロリストで殺人を犯した人でも支援される必要がある。そのことを理性を使って理解することが重要なんだ」と思っていました。しかしカント倫理学の御子柴善之先生とお話ししたときに、御子柴先生は「理性と、個々人の持つ倫理・道徳は別ですよね」とおっしゃっていたんです。その話にはなるほどな、と思うところもありました。

そのあとロバート・キャンベルさんともお話ししたのですが、「永井さんは『共感されない』ということを問題にしているけれど、逆に私のようなゲイであることを公言している人間に対して、当事者でもないのに『共感します』なんて言ってほしくもないし、そういった安易な共感自体も問題を生んでいます」と指摘されて、そこでもなるほどとなりました。

 そこで内田先生に、この「共感しない自由」をどう考えていけばいいのかを、内田先生に伺ってみたいなと思いまして。

 

内田:たいへん本質的な問いをされていると思います。永井くんのような若い方は、そういうふうに問題を立てて、悩んでしまうものだと思います。ことを原理の問題として考えてしまうんですよね。永井くんはこう考えているわけですよね。「理念上はすべての人たちを等しく支援をしなければいけない。しかし、現実には、『この人は支援するけれど、この人は支援しない』という選別をしている。どちらかが正しいのか?」と。

 結論から言うと、そのどちらでもないということになります。問題を解決するスキームを作るときに、僕たちはまず極端な原理を両側におきます。その場合に設定される原理というのはあくまで問題を解決するための操作概念であり、いわば思考のための装置なんです。

 実際に僕たちができることは、その両極端の理念の間にあります。人間一人が使うことのできる時間や体力やお金やネットワークにはおのずと限度があります。そして、その手持ちのリソース以外には使えるものがない。だから、どこにそれを向けるか、優先順位をつけるしかない。すべてに等しく分配することはできないんです。手持ち資源の分配の優先順位については、万人に妥当して、万人が納得するような客観的な基準は存在しません。だから、どんなふうに分配しても、必ず不満が残る。「やるべきことを、やるべき順序で行ったので、これでパーフェクト」ということは絶対に起きないんです。でも、僕はそれでいいと思う。地球上の70億の人に対して等しく敬意を抱いて、等しく支援するということはできません。手の届くところから支援するしかない。でも、「手の届くところから支援する」ことが正しいわけじゃない。もし「俺は好きな人しか助けない。嫌いな人のことは無視する」と公言する人がいたら、それはいくら何でも非常識だと思います。でも、その人に向かって、「君は間違っている」と非難することは僕にはできない。たしかに、非常識だし、人としてどうかとは思うけれど、「間違っている」とは言い切れない。それで仕方がないと思うんです。不人情とか狭量とかいうのはたしかに人として物足りないけれど、叱責や処罰の対象ではない。世界のすべての人を同時に支援するほどの力はないけれど、身近な人にしか支援が届かないのは悔いが残る。それでいいと思うんです。100%うまくいったということもないし、100%失敗だったということもない。僕たちはその両極端の中間のどこかにいる。両極端の間に拡がるグレーゾーンの中で、自分の力量に見合ったところで仕事をするしかない。

 

永井:うーん、なるほど。理性や人権という「原理」ではなく、「不人情」とか「常識」で考えたほうがいい、と。

 私が思うのは......たとえば学校の休み時間に、「よっしゃ遊びに行こうぜ!」って言っている人がいる一方で、「私たちはおしゃべりしましょうね」って言ってる人もいるとします。そのときは、みんなが自由意志に基づいて行動しているわけですよ。

 でも、その教室のなかでポツンとひとりぼっちになってしまう人がいた場合、それって誰の責任なんだろう? と思うんです。そのひとりぼっちの人が「一人は寂しい。寂しいけど誰にも言えない」と感じていたら、それは問題だと思うんです。じゃあその問題の解決って、誰がやるべきなんだろう?と考えてしまう。みんなが「共感しない自由」があるなかで、問題がぽつんと起きてしまったとき、どうすればいいのかな、と思って。

 

内田:その「ひとりぼっちの子」というのが、永井くんの場合だと、誰にもかわいそうと思ってもらえない、誰にも共感してもらえない元テロリストだったりするわけですよね。たしかに「テロリストには共感できない」というのは人情としては自然だと思うんです。それでも、ひとりぼっちで寂しい思いをしている人を見たら、つい手を差し伸べてしまうということもまた人情としては同じように自然だと思うんです。そして、僕はこの「つい手を差し伸べてしまう」ということが倫理の一番基本にあると思う。「惻隠(そくいん)の情」だと思うんです。

 

 

永井:惻隠の情、ですか。

2022年

9月

08日

奈良マラソン2022への道 その5 ☆ あさもりのりひこ No.1226

8月26日(金)早朝、ジョギング4㎞、ウインドスプリント200m×10本。

47分10秒、6.721㎞、累積上昇85m、消費カロリー429㎉。

【ジョギング】

7分13秒、7分22秒(上り)

6分44秒(下り)、6分52秒

【ウインドスプリント】

5分09秒、4分42秒

4分42秒、4分35秒

4分36秒、4分36秒

4分35秒、4分41秒

4分11秒、4分25秒

2本目から8本目までは安定している。

9本目と10本目が速かったな。

 

8月27日(土)早朝、坂道ダッシュ400m×3本。

49分01秒、6.925㎞、平均ペース7分04秒/㎞、累積上昇140m、消費カロリー443㎉。

【ジョギング】

6分56秒、6分46秒、6分32秒(600m

【坂道ダッシュ】

2分15秒(5分31秒/㎞)

2分13秒(5分37秒/㎞)

2分14秒(5分36秒/㎞)

【ジョギング】

8分15秒、6分25秒、6分17秒(200m

坂道ダッシュは3本とも2分20秒以内にまとめられた。

 

8月28日(日)早朝、ジョギング、1時間14分14秒、10.91㎞、平均ペース6分48秒/㎞、総上昇量91m、消費カロリー734㎉。

1㎞毎のベースは、7分01秒、6分58秒(上り)、6分39秒、6分40秒、6分42秒、7分02秒、7分01秒、6分59秒、7分04秒、6分25秒(下り)、6分20秒(910m)。

前半が少し速い。

後半は1㎞7分00秒の目標ペースで走れた。

奈良マラソン2022まであと15週間

 

8月29日(月)早朝、テンポ走、38分07秒、6.21㎞、平均ペース6分08秒/㎞、総上昇量76m、消費カロリー413㎉。

6分54秒、6分46秒(上り)

6分01秒、6分09秒、5分49秒、5分22秒(下り)、5分14秒(210m)。

ジョギングで2㎞走った後、1㎞6分00秒のペースを目標にしてテンポ走。

今朝は、涼しかった。

そのせいか、最後の1.2㎞は、自然と脚が前に出た。

 

8月30日(火)早朝、西園美彌さんの魔女トレ。

夜、トレッドミルでジョギング、傾斜2%、30分、4.15㎞、消費カロリー357㎉。

フルマラソンの10分の1にあたる。

逆に言うと、フルマラソンの場合、時間も距離も10倍走らなければならない。

 

8月31日(水)夜、眠っているときに、左脚の脹ら脛が攣った。

早朝、安藤大さんのトレーニング(アントレ)をする予定だったが、左脹ら脛が痛むので、西園美彌さんの魔女トレに切り替えた。

Amazonで注文したダンベル5㎏2こが届いた。

これで、ダンベルは、2㎏、3㎏、4㎏、5㎏の4種類になった。

 

9月1日(木)早朝、安藤大さんのトレーニング(アントレ)。

早速5㎏のダンベルを使ってみる。

左脹ら脛は大丈夫だ。

アントレを熟して、最後に縄跳びを300回しているときに雨が降り始めた。

 

 

 

9月2日(金)早朝、雨が降っていたので、走るのは諦めて、西園美彌さんの魔女トレをした。

 

9月3日(土)早朝、階段1045段、48分38秒、6.19㎞、平均ペース7分51秒/㎞、総上昇量86m、消費カロリー491㎉。

7分54秒、8分27秒、7分49秒

7分40秒、8分28秒、7分16秒

5分31秒(190m

 

9月4日(日)早朝、ジョギング、1時間15分20秒、10.9㎞、平均ペース6分54秒/㎞、総上昇量108m、消費カロリー757㎉。

6分52秒、6分50秒、6分37秒、6分51秒、6分46秒

7分02秒、7分12秒、7分16秒、7分07秒、6分38秒

6分50秒(900m

1㎞を7分00秒で走る練習である。

6分37秒~7分16秒というのは、まずまずの結果だ。

つぎは6分50秒~7分10秒で収めたい。

マイケル・クローリー「ランニング王国を生きる」を読み始める。

 

9月5日(月)早朝、全力・ジョグ・全力、36分41秒、6.173㎞、平均ペース5分56秒/㎞、累積上昇84m、消費カロリー371㎉。

7分12秒(200m

 5分23秒、5分38秒(上り)

 6分30秒、6分55秒(900m

 5分28秒(下り)、5分30秒

 6分36秒(100m

 今朝は、前半の全力疾走がペースアップできた。

 その後のジョギングも6分台に収まった。

 徐々に涼しくなってきたので走りやすい。

 

9月6日(火)早朝、西園美彌さんの魔女トレ。

夜、トレッドミル、傾斜2%、時速8.4㎞(7分00秒/㎞)、30分、4.15㎞、消費カロリー357㎉。

 

9月7日(水)早朝、安藤大さんのトレーニング(アントレ)をする予定だったが、雨でできないので、西園美彌さんの魔女トレ。

 

9月8日(木)早朝、安藤大さんのトレーニング(アントレ)。

ダンベルは5㎏を使って、上10回、横10回、後ろ10回。

 

アントレのメニューをみっちり熟す。

2022年

9月

07日

内田樹さんの「被査定マインドを解除する」 ☆ あさもりのりひこ No.1225

武道は勝敗強弱巧拙を競うものではない。

 

 

2022年8月13日の内田樹さんの論考「被査定マインドを解除する」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

合気道という武道を教えている。稽古を始めて半世紀、教えるようになってから30年経った。数百人の門人を育てて分かったことは、今の日本社会が「非武道的な人間」を量産するための仕組みだということである。分かりにくい話なので、少していねいに説明する。

 誤解している人が多いが、武道は勝敗強弱巧拙を競うものではない。ふつうの人は武道というのは、競技場にいて、ライバルと対峙し、勝敗を争ったり、技量を査定されるものだと思っている。たしかに、サッカーやボクシングやフィギュアスケートはそうである。でも、武道は本来はそういうものではない。というのは、「査定」されるというのは「後手に回る」ことだからである。「後手に回る」ということは武道的には「遅れる」ということであり、それは勝敗を競う以前に「すでに敗けている」ということである。

 わかりにくいと思うが、武道修業の最終目標は「天下無敵」である。具体的に言えば「場を主宰する」ことである。誰かが作問した難問に答えて、その適否について誰かに点数をつけられるという立場にある限り、私たちは「後手に回り」続け、永遠に「場を主宰する」ことができない。

 でも、私たちの社会では、人々は決して場を主宰することができないように育てられる。生まれてからずっと子どもたちは相対的な優劣を競い、査定されることに慣らされている。学校では成績をつけられ、部活では勝敗を競わされ、会社では勤務考課される。ずっとそうやって育ってきた。だから、問題に答えて、採点されて、その点数に基づいて資源の傾斜配分に与るという生き方以外の生き方がこの世にあることを知らない。ほとんどの人は「査定に基づく配分」を地球誕生以来の自然界のルールであるかのように信じ込んでいる。そんなことがあるものか。

 だから、合気道の稽古ではまずその「被査定マインド」を解除することから始める。これがまことに難しい。発想の根本的な切り替えを要求するからである。

 例えば、初心者は技をかける時に、相手の反応をつい気にしてしまう。「僕の技、効いてますか?」と相手に訊ねてしまう。「5段階評価でいったら何点ぐらいですか?」と相手に気前よく「査定者」の立場を譲り渡して、相手の「採点」を待ってしまう。相手が「試験官」で自分が「受験生」であるという決定的に不利な立場を当然のように自ら進んで採用してしまう。それほどまでに彼らは「査定されること」に慣らされているのである。

 実は「技がかかっているかどうか」なんてどうでもよいのである。目の前にドアがあるときに「私の動線を塞いでいる敵がいる」と考えて、壁の向こうにたどりつくためにどういう技を使えばいいかいろいろ思案する人間はいない。ただすたすた歩いてドアノブを回すだけである。稽古の時に「僕の技、ちゃんと効いていますか?」と相手の反応を窺う者は「ドアノブの回し方」の巧拙についてドアノブに向かって「今の回し方、何点ですか?」と訊いているようなものである。要は壁の向こう側に行けばよいのである。庭に出て回り込んでもいいし、壁を破ってもいいし、「壁抜け」の秘術を使ってもよい。好きにすればいい。それが「先手をとる/場を主宰する」ということである。そう説明しても、なかなか分かってもらえない。

 誰も君を査定しない。他の門人との相対的な強弱や巧拙を論うものはここにはいない。自分の身体が適切に機能しているかどうか判断できるのは君の身体だけである。訊くなら自分の身体に訊きなさい。私はそう教えるのだが、そういうことをほとんどの入門者は生まれてから一度も言われたことがないのである。病は深い。

 

 

2022年

9月

06日

コロナ療養後・・・@事務局より

皆さんこんにちは。今日は事務局担当日です。 

今日は朝から風も強く、蒸し暑い一日ですね😓

 

 

 

 

 

さて、コロナ療養を終えて約3週間がたちました。

 

これまでの第6波までは、幸い身近で感染した人はいませんでしたが、

今回の第7波では身内や知人などの中にもコロナに罹った人が多く,

感染力の強さを実感しました。

 

私の場合は、療養後も、倦怠感や頭痛、咳などが残っていて、

味覚も、何を食べても飲んでも塩辛かったり苦く感じる状態が続いて

食事に困っていました。

 

病院からも2週間ほど様子を見てと言われたので、

とりあえず塩分を控え、亜鉛のサプリなども服用して様子をみていたところ、

先週末からようやく症状がおさまり体力も戻ってきました。

 

ただ、どうやら喉が敏感になっているのは変わらないようで、

例えば入浴剤の炭酸ガスや、部屋の消臭剤、強めの香水や洗剤の臭いにむせて

咳が出てしまうため、電車内など人が多いところでは気をつかいます・・・😓

 

これから10月にかけて台風シーズンが続きますが、

雨が降って湿気が多いのは喉の負担的にはよいのですが、

体が冷えると腰が痛みやすい、私にとっては諸刃の剣💧

 

先週は、大雨でずぶ濡れになった後電車のクーラーで体が冷え散々でした😫

 

今年の冬には再びインフルエンザも流行するおそれがあるようですし、

まだまだ、感染対策には気を抜かずお気を付けください。

 

2022年

9月

05日

内田樹さんの論考「複雑な話は複雑なまま扱うことについて」 ☆ あさもりのりひこ No.1224

「陰謀論」というのは、何か「都合の悪いこと」が起きた時に、それを「邪悪なるものの干渉」として説明する態度のことである。

 

 

2022年8月13日の内田樹さんの論考「複雑な話は複雑なまま扱うことについて」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

「複雑な現実は複雑なまま扱い、焦って単純化しないこと」というのは私が経験的に学んだことの一つである。「その方が話が早い」からである。話は複雑にした方が話が早い。私がそう言うと、多くの人は怪訝な顔をする。でも、そうなのだ。いささか込み入った理路なので、その話をする。

 私は人も知る病的な「イラチ」である。「イラチ」というのは関西の言葉で「せっかち」のことである。どこかへ出かける時も、定時になったらメンバーが全員揃っていなくても置いてでかける。宴会でも時刻が来たら来賓が来ていなくても「じゃあ、乾杯の練習をしよう」と言ってみんなに唱和させる(来賓が着いたら「乾杯の儀に粗相があってはならないので、繰り返しリハーサルをしておきました」と言い訳する)。

 そういう前のめりの人間なので、当然ながら話をする時も最優先するのは「話を先に進めること」である。ぐずぐずと話が停滞することも、一度論じ終わったことを蒸し返されるのも大嫌いである。そういう人間が長く対話と合意形成の経験を積んできた結論が「話を複雑にした方が話は早い」ということであった。

 多くの人は「話を簡単にすること」と「話を早くすること」を同義だと考えているが、それは違う。話は簡単になったが、そのせいで現実はますます手に負えないものになるということはしばしば起こる。現実そのものが複雑な時に、無理に話を簡単にすると、話と現実の間の隔たりが広がるだけである。そこで語られる話がどれほどすっきりシンプルでも、現実との接点が失われるなら、その「簡単な話」にはほんとうの意味で現実を変成する力はない。

 

 そう書いておいてすぐに前言撤回するのも気が引けるが、実は「簡単な話」に基づいて現実を変成することは可能なのである。だからこそ人々は「簡単な話」に魅惑され、それに固着しもするのである。話を簡単にするというのは、単に知的負荷を軽減してくれるというだけでなく、たしかにある種の実効性はある。ただし、複雑な現実を簡単な話に還元することによって出現させられた「現実」はいわば力任せに、無理やりに創り出したものである。そういう「無理やり変えた現実」には「現実である」必然性が欠けている。だから、保持力がない。そのうちに「無理」が祟って、内側から壊れてゆく。そして、形状記憶合金のように、元の「複雑な現実」という本態に戻ってしまう。何一つ解決しないままに。

 ギリシャ神話にプロクルステスという盗賊が出てくる。彼は街道沿いで待ち構えて、通りがかりの旅人に彼の寝台で休息するように声をかける。そして、寝台に寝かせて、相手の体が寝台からはみ出したらその部分を切断し、逆に寝台の長さに足りなかったら足を無理やり寝台の長さにまで引き延ばした。

 複雑な現実を簡単な話に落とし込む人を見ていると、私はこのプロクルステスの故事を思い出す。当然のことながらそんなことをすると天罰が当たる。神話によれば、英雄テセウスがやってきて、プロクルステスを彼の寝台に寝かせてはみ出した頭と足を切断してしまった。「プロクルステスの寝台」というのは「無理やり出来合いのスキームに落とし込むこと」を意味する喩えとして今でも使われるが、そういう無理をするとかえって自分の頭と足を切られて絶命することになるのである。

 だから、現実を切り縮めることも、現実になかったことを書き加えることも、どちらも止めた方がいい。現実はできるだけ現実そのものの大きさと奥行きと不可解さを込みで扱う。たしかに手間はかかる。それに誰がやっても、多少は「切り縮めたり、書き加えたり」という作為は免れない。でも、それを当然のように行うか、疚しさを覚えつつ行うかの間には千里の径庭がある。

 

「話を簡単にする」方法の中で最も簡単なのは「問題を消す」ことである。問題があるのに、「そこには問題などない」と言い立てるのである。

 例えば、北方領土についての日ロの意見はずいぶんと食い違っているが、最大の食い違いは、ロシアが「北方領土はもともとロシア固有の領土であるので、日本との間に領土問題などは存在しない」と主張し始めたことである。「そこに問題がある」ということを当事者双方が認めているからこそ話し合いは始まるのだが、当事者の一方が「問題はない」と言い出したら、問題は未来永劫解決しない。

 ナチスは紀元前から続く「ユダヤ人問題」の「最終的解決(the final solution)」とはユダヤ人を「消す」ことだという天才的なアイディアを思いついた。問題の当事者がこの世からいなくなれば、問題もなくなる。

 第三帝国の宣伝相だったヨーゼフ・ゲッベルスは1941年に「ユダヤ人問題に関して、総統は問題を簡単にすることにした」と日誌に記しているが、これは「問題を簡単にする」というフレーズの最も印象的な用例として記憶しておいてよいと思う。しかし、歴史が教えてくれるのは「最終的解決」によって話を簡単にしようとしたせいで、ドイツ国民は永遠に解決できない問題を抱え込んでしまったということである。

 

 さすがにこれはかなり極端な事例だが、問題を簡単にするためにふつう「陰謀論」が採用される。これはたいへん使い勝手がよいので、あらゆる人々があらゆる政治的難問についてこれを準用する。

「陰謀論」というのは、何か「都合の悪いこと」が起きた時に、それを「邪悪なるものの干渉」として説明する態度のことである。その集団がかつて「本来の純良な状態」にあったときには、たいへん豊かで生産的で効率的だったのだけれど、外部から異物が混入してきて、集団を「汚染」したせいで、「本来の姿」を失ってしまった。だから、混入した異物を特定し、これを摘抉排除すれば、集団は原初の清浄と活力を回復するであろうというのが「陰謀論」の基本的な話型である。

 われわれの集団のどこかに「悪の張本人(author)」がいる。それを名指した時点で仕事はほとんど終わる。あとはみんなで総がかりでその「張本人」を迫害して、叩き出せばいい。「誰が張本人か」を探し出すまでは「犯人捜し」に多少は頭を使わなければいけないけれど、張本人の名指しが終わったあとは、力仕事だけで、知的負荷はゼロになる。だから、世界中の人がこの「簡単な話」に偏愛を示す。政治的カリスマはあるが、頭があまりよくない政治的指導者はほぼ100パーセントこの話型でその政策を実現しようとする。

 

 陰謀論は民衆の政治的熱狂を掻き立てるという点においては圧倒的な力を発揮する。それはナチスにおいてもスターリンにおいても毛沢東においてもイスラム原理主義においても実証済みである。

 破局的な大事件が起きた時に、陰謀論者は、それがいくつかの複合的な原因の帰結であるというふうに考えない。単一の「張本人」がすべてを計画し、差配していると考える。

例えば、フランス革命は巨大な政治的変動であったが、それを王政の機能不全、資本主義の発展、啓蒙思想の普及などの複合的な効果とは考えずに、フランスのすべてを裏から支配している「秘密組織」の計画の実現とみなすのが陰謀論である。

 この場合、「張本人」は必ず「秘密組織」でなければならない。というのは、革命が起きる直前まで、フランスの警察はこのような巨大な運動を一糸乱れぬ仕方で統制しうるほどの実力を持った「組織」が存在することを知らなかったからである。だから、「闇の組織」だということになる。とりあえず「秘密組織」が存在することは自明とされる。だとすれば、次の問題は「それは誰だ?」ということになる。フリーメイソン、イリュミナティ、聖堂騎士団、英国の海賊資本、プロテスタント・・・さまざまな候補が挙げられ、最終的に「ユダヤ人の世界政府」が「オーサー」だという話に落ち着いた。フランス革命後に、ユダヤ人が被差別身分から解放され、市民権を獲得し、政治経済メディアの各界にはなばなしく進出したという歴史的事実が目の前にあったからである。ドリュモンはこう書いた。「フランス革命の唯一の受益者はユダヤ人である。すべてはユダヤ人から始まる。だから、すべてはユダヤ人のものになるのである。」(『ユダヤ的フランス』)

 

 ある出来事の受益者がその出来事の「オーサー」であるという推論は論理的には成立しない。それは「風が吹けば桶屋が儲かる」という事実から桶屋は気象をコントロールできる謎の力を有していると推論するのと同程度に没論理的である。だが、この陰謀論にフランスの読者は飛びつき、『ユダヤ的フランス』は19世紀フランス最大のベストセラーになった。そして、ドレフュス事件はこの荒唐無稽な陰謀論が一人のユダヤ人将校を破滅させるほどの現実変成力を持っていることを世界に示したのである。