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2023年

6月

02日

内田樹さんの「食と農と資本主義」 ☆ あさもりのりひこ No.1358

食文化の基本は飢餓の回避である。だから、人類は「主食をずらす」という工夫をしてきた。

 

 

2023年4月1日の内田樹さんの論考「食と農と資本主義」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 新刊『ルポ食が壊れる』(文春新書)を出した堤未果さんと先日対談した。食と農を語る言説がビジネスとテクノロジーと国際政治の専門用語で埋め尽くされる現実を活写した怖い本である。GAFAMやアグリビジネスはすでにこの分野に深く広く参入している。ビル・ゲイツがこれまでに買い占めた農地が香港と同面積と聞けば、農業が資本主義にとっての次の「ブルーオーシャン」らしいことは知れる。

 だが、食と農が命にかかわる大事である以上、それは決して市場に従属すべきではない。

 食文化の基本は飢餓の回避である。だから、人類は「主食をずらす」という工夫をしてきた。米、小麦、イモ、豆、トウモロコシなどなど。環境に強いられた選択であると同時にそれは安全保障でもあった。主食が同じなら欲望が同一物に集中する。不作になれば奪い合いが始まる。主食が集団ごとに違っていれば、とりあえず希少性に起因する戦いは抑制できる。病虫害などである主食植物が絶滅しても、違う植物を主食とする集団は生き延びて、人類全体としてはリスクヘッジできる。

 多くの集団では主食の穀物の上に発酵させた調味料をかける。それはしばしば他の集団の人には「腐臭」としか思われない異臭を放つ。他人に「あんな腐敗したものは食べられない」と思わせることが食の確保のためには実は最も効果的だからである。

 何より食文化は「不可食物の可食化」の努力の結晶である。焼く、煮る、干す、蒸す、晒す、燻す...無数の調理法を試みて、人類は手が届く限りの自然物を可食化しようとしてきた。その発明の才が人類のここまでの繁殖をもたらしたのである。

 だが、食をビジネスの枠組みで考えた場合には、全員が同一のレシピで調理された、同一の食物を食べ続けるときに製造コストは最少化し、企業利益は最大化する。だから、企業に食と農を委ねた場合、企業は必ず地上の80億人の食文化を平準化することをめざす。単一作物を大規模栽培し、似たような食物を人類的な規模で消費することを願うようになる。

 そしておそらく不可食物の可食化は、調理法の工夫によってよりはむしろ遺伝子操作で達成しようとするだろう。

 それはいずれも人類の飢餓耐性が弱まることを意味している。

 だが、食と農をビジネスの言葉で語る人たちは誰もそのことに言及しない。それが恐ろしいという話を堤さんとした。

 

AERA3月8日)

2023年

6月

01日

FUJIサポート その3 ☆ あさもりのりひこ No.1357

2023年4月23日午前8時46分、フィニッシュ。

タイムは、42時間01分27秒。

妻は、ウルトラトレイル・マウントフジを完走した。

 

ウルトラトレイル・マウントフジをサポートして感じたことを書いておく。

1 天候

  2019年は寒かった。

  降雪のためにレースは途中で中止になった。

  2022年は暑かった。

  最高気温は25℃で、寒暖の差が厳しかった。

  今年は、暑すぎず、寒すぎず、で絶好のコンディションであった。

  ランナーにとっては天の恵みである。

2 サポートバッグ

 今回は大会本部から専用のサポートバッグが配布された。

 オレンジ色の四角い大きな鞄である。

 サポートエリア内には、このサポートバッグしか持って入れない。

 サコッシュもダメである。

 朝守はサコッシュをサポートバッグの中に入れて持って入った。

 サポートバッグはかなりデカイ。

 しかし、折り畳み椅子、折り畳みマット、着替え、食糧、水、保冷バッグなどを入れるとパンパンになった。

 いろいろ詰め込むとズシリと重いし、チャックが壊れそうになる。

 サポートエリアに持ち込むものは厳選した方がいい。

3 パーソナル・サポート・エリア

  F2麓

   電波の入りが悪いのか応援naviが正確に作動しない。

  F4富士河口湖町精進湖

   スタートして73.1㎞なので、ランナーもサポーターも多い。

   駐車場が狭いので、駐車するのに待たなければならない。

   待機時間を考えて、早めに現地に着く方がいい。

  F5富士急ハイランド

   富士山パーキングは駐車料金が有料になった(事前に申し込んでおく必要がある)。

   富士山パーキングからサポートエリアまで少し歩かなければならない。

F7山中湖きらら

   スタートして124.7㎞、ランナーもばらけている(リタイヤしたランナーもいる)のでサポートエリアは空いている。

   駐車場の入口がわかりにくいので要注意。

4 「道の駅なるさわ」と「スーパーオギノ」

  現地での買い物は「道の駅なるさわ」がオススメである。

  新鮮な果物が手に入る。

  冷凍だが地元で採れたブルーベリーも大変良かった。

  もう一つのオススメは「スーパーオギノ」である。

  地元富士山で採れたミネラルウォーターが豊富に揃っている。

  よつ葉乳業のヨーグルトも置いてある。

  糠漬けもある。

  ただし、糠漬けは、漬け物コーナーではなく、惣菜コーナーに置いてあるので要注意。

5 いちご、トマト、りんご、ブルーベリー、ヨーグルト

  ランナーの補給食としてフルーツヨーグルトは欠かせない。

  ヨーグルトは栄養満点の完全食品である。

  「道の駅なるさわ」では新鮮な果物が手に入る。

  冷凍の果物よりも生の果物をランナーに食べさせたい。

  ブルーベリーだけは季節が早いので冷凍のものを使った。

  しかし、山梨県南都留郡鳴沢村のブルーベリーは大粒で大変おいしかった。

  果物とヨーグルトを持ち運ぶので、保冷剤と保冷袋は必要である。

  保冷剤と冷凍ブルーベリーは、紅富士荘の冷凍庫を使わせていただいた。

いちご、トマト、りんご、ヨーグルトは、紅富士荘の冷蔵庫に保管しておいて、その都度1回分だけ持ち出した。

6 自宅から持って行った食糧

ライ麦パン(プンパーニッケル(ペーマ)、フォルコンブロート(ペーマ))

リトアニアのオーガニックスープ(ミネストローネ、トマト)

発芽玄米豆乳きのこリゾット、梅醤発芽玄米番茶粥(オーサワジャパン)

コーンポタージュ、クリームスープ(秋川牧園)

どれも垂涎の逸品である。

そして、疲れたときは、これ!

レバコールα(日邦薬品工業)でござる!!

7 紅富士荘の位置

  紅富士荘を西に進むとF2麓、F4富士河口湖町精進湖があり、東に進むとF5富士急ハイランド、F7山中湖きららがある。

  一番遠いF2麓まで40~50分、一番近いF5富士急ハイランドまで10~15分で行くことができる。

  4つのサポート地点をそれぞれ往復するので、紅富士荘は絶好の位置にあるといえる。

8 鈴鶏舎

  山梨県南都留郡富士河口湖町小立4400に「鈴鶏舎」(すずけいしゃ)がある。

  「鈴鶏舎」では、シャモ(軍鶏)を平飼いしていて、シャモの卵で作ったプリンを売っている。

  「鈴鶏舎」の前の山道はウルトラトレイル・マウントフジのコースである。

  妻がレース中に「鈴鶏舎」を見つけたので、レース終了後に行ってみた。

  プリンは、スタンダードとプレミアムの2種類がある。

シャモの卵を使ったパウンドケーキもある。

プレミアムプリンを食した。

濃厚で美味しかった。

9 レンタカー

  レンタカーは、トヨタレンタカー富士河口湖店でプリウスを借りた。

  トヨタレンタカー富士河口湖店の入口の近くに柱がある。

その柱のコンクリートの基礎部分にバンクシーの絵が描いてある。

バンクシーの絵は、去年は1つだった。

  今年は、2つに増えていた。

  バンクシーの絵は本物のように見えた。

10 今回、サポートしたのは、4月21日(金)午後8時から4月22日(土)午後8時までの24時間。

  妻が走りきった42時間の約6割である。

  24時間の中で、4か所のエリアでサポートしたことになる。

  サポートの鉄則は、ランナーよりも早くサポートエリアに着くことである。

  ランナーがサポートエリアに着いているのに、サポーターが来ていないという場面は絶対に避けなければならない。

  応援naviが不正確であることからヒヤッとしたが、今回もランナーよりも到着が遅れることはなかった。

 

  そして、完走できたんだから、言うことないよね。

2023年

5月

31日

内田樹さんの「ある共産党員への手紙」 ☆ あさもりのりひこ No.1356

政治組織というのは、その政党が政権を取ったあとの未来社会を先駆的・萌芽的に表現するものだ

 

 

2023年3月28日の内田樹さんの論考「ある共産党員への手紙」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

共産党員で、私の本の愛読者でもあるというSさんという方から手紙を頂いた。松竹伸幸さんの「共産党党首公選」をめぐる論争で私が松竹さんの行動を支持していることについてである。共産党の党規約はよくできていて、党運営も民主的であるのだから、松竹さんは「意見があるなら、党内でドンドン発言しなさい」という『しんぶん赤旗』の読者投書を引いて、私の行動をやんわりと批判するものだった。それに対してこんな返信をした。

 

 Sさま

 はじめまして、内田樹です。

 お手紙と投書拝見しました。ご指摘ありがとうございます。

 松竹さんの件については、実は僕も困惑しています。

 僕は非党員ですから、共産党の党規約というものがどんなものだか知りません。共産党の党内民主主義の実相についても存じ上げません。

 松竹さんは現役の共産党員であり、長く党中枢にいた人で、僕が実際に存じ上げて、人間を信頼している方ですので、その方から「党首や党幹部の選出方法がブラックボックス化している」と伺ったので、そうなのだろうと思っていました。

 党外の人間にはそれをどうこうしろという資格はありませんが、党内の人がそう思うなら、それは十分議論するに値する論件だろうと思いました。彼が本を出して問題提起をしたいというので、それに賛成しました。

 それは何よりも、このような問題を共産党がどういう手際で扱うのか、そのプロセスに興味があったからです。この問題提起は、共産党に対する国民的注目を集めるチャンスになると思ったからです。「共産党はどういう政党なのか、その意思決定プロセスはどういうものなのか」がひろくメディアの話題になり、人々の関心事になることは党外の共産党支持者の拡大に資するだろうと思ったからです。

 ご存じの通り、僕は共産党の支持者です。今回の統一地方選でも、大阪の辰巳コータローさん、地元の県議の木田ゆいさん、市議の西ただすさんの推薦人になっています。

 僕が松竹さんの企画に賛成したのは、松竹さんの問題提起をめぐって活発な議論がなされることで共産党の支持者が増え、国政、地方議会での議席が増えるという「政治的判断」をしたからです。

 ですから、共産党がこの「世間の耳目を集める好機」を松竹さんの除名というかたちで終わらせようとしたことは「政治的判断」としては適切ではなかったと今でも思っています。

 党規約をすぐに変更する必要なんか別になかったのです。今の規約が適切だと思っていたら、それが適切である所以を論理的に説明すればよい。まずなすべきは、党員からの異議申し立てついて、どれくらい「鷹揚な」対応をできる「練れた」政党であるかを世間に知らせることだったということです。最終的に党規約を変えなくてもよかったのです。「そのような異議申し立てが行われたことを重く受け止め、党首選定のあり方について一石を投じてくれたことを奇貨として、これから熟議してゆきたい」と(リップサービスでも)言うだけで十分だと僕は思っていました。それだけでも確実に党のイメージアップにつながるから。

 

 Sさんはどう思われるか知りませんが、僕は政治組織というのは、その政党が政権を取ったあとの未来社会を先駆的・萌芽的に表現するものだと考えています。

 現在その政治組織が一人の独裁的指導者によってトップダウン的に組織されているなら、その政治組織が実現する未来社会は「一人の独裁的指導者によってトップダウン的に組織される社会」になる。その政治組織が理想社会を実現するためには陰謀や暴力を用いてもよいという立場なら、それが実現する未来社会は「理想的な国家を実現するためには、政府が市民に対して陰謀や暴力を用いることが許される社会」になる。

 これは経験的にそう信じています。これまでさまざまな革命闘争がなされ、いくつかは成功しました。その結果できた政府は、革命を主導した党派の組織原理をそのまま引き継いだ。革命闘争を成功に導いた党派の組織原理なんですから、変える必要なんかない。それが最も効率的であることは、革命闘争に勝利したという現実が証明している。そうやって世界の各地で、革命闘争勝利の後に、市民への苛烈な弾圧を「非とする」ロジックを持たない強権的な政府ができました。そのことは、ソ連や中国を見ればわかります。

 僕がかつて左翼の学生運動にかかわった時に、「これはダメだ」と思って離れたのは、どの党派を見ても、その今の学生組織が未来社会の萌芽形態であるのだとしたら、「こんな社会には住みたくない」と思ったからです。

 共産党についても同じことを思います。「党規約に基づいて、適法的に異議申し立てをなさない党員は除名する」という原則主義的な態度は、その政党がめざす未来社会は「政府への異議申し立てを、法律に基づいて適法的に行わず、それ以外の手段で行った国民は国籍を剥奪されることを是とする社会」になる。

 残念ながら、「これを非とする」というロジックは今回の共産党の決定からは出てきません。論理的に無理筋なんです。

 僕の立場は「これを非とする」ものです。というのは、「それ以外の手段」にはデモや、ストライキや、地下出版、レジスタンスなどが含まれているからです。「それらの政府批判が適法的になされていない場合、実行した人間は処罰されて当然である」ということを是とするなら、これまでの日本共産党の活動の相当部分は(例えば治安維持法下の活動)は「法律違反だから処罰されて当然」ということになります。

 

 公的なものである法律と一政党の党規約を同一視するのは論理の飛躍だというご批判がきっとあると思います。共産党を除名されても、別に明日からの生活に支障があるわけではない。国籍と任意加盟の政党の党員資格はまったく次元の違うものだというのはその通りです。でも、僕が問題にしているのは、政府に適法的でない異議申し立てをする国民の国籍を剥奪するのと、党中央に適法的でない異議申し立てをする党員を除名するのは「同じロジック」によるということです。問題はロジックなんです。

「異議申し立て」にもいろいろあります。「異議申し立て」というのはアナログな連続体ですから一律には扱えない。中には傾聴に値するものもあるでしょうし、まるで箸にも棒にもかからないくだらないものもあるでしょう。異議申し立てなんて、玉石混淆が当たり前です。ですから、あるものは取り上げ、あるものは無視するということでよい。ろくでもない異議申し立てに貴重なリソースを割く義理はない。それが常識的な判断です。

 でも、今回の松竹さんの申し立ては、「傾聴に値する」ものだったと僕は思います。これを「ろくでもない異議申し立て」にカテゴライズして、一蹴することは常識的ではない。

 

 松竹さんの行動が党規約に照らして違法であるから取り上げるに値しないという判断は「十分に政治的ではない」と僕は思います。ある行動がどういうふうに現実に影響を及ぼすかについて思量することの方が、その行動が合法的か違法かを議論することに優先するというのが「政治的」ということの一つのかたちだと思うからです。

 松竹さんは共産党の党勢が衰退してゆくことにつよい危機感を持ち、党勢を回復させるためには、通常の党内での意見具申とは違うかたちで、党内外をまきこんだ議論を起こすことが必要だという「政治的判断」を下しました。松竹さんはそういう意味ではすぐれて「政治的な人」だと僕は思っています(それは彼の「自衛隊を活かす」という発想からも知られると思います)。

 最初にボールを投げたのは松竹さんですが、それが結果的に右派メディアを含む「共産党叩き」を呼び出すことになった。これはまことに残念なことだと思います。僕が先に「困惑している」と書いたのはこのことです。もし、そこまでの展開を読めなかったとすれば、この点については松竹さんの「政治的判断」が不適切であったという批判は正しいと思います。

 問題はロジックの水準と、「政治」の水準の両方にかかわっています。

 松竹さんは政治的にふるまい、日本共産党も政治的にふるまった。その結果、共産党は多くメディアから手厳しい批判を受け、その結果無党派層の支持をいくぶんか失った。僕はそのことを残念に思うのです。

 共産党は「どんな難問でも一刀両断できる、政治的に正しい政党」ではなく、「難問に遭遇すると、困惑して、葛藤する常識的な政党」であって欲しいと僕は思っています。あるいは、実際にはそうでなくても、そのような政党であるかのようにふるまって欲しいと思っています。それはこれまでも書いてきた通りです。そういう政党なら、その政党が政権をとったあとに実現する未来社会は「どんな難問でも一刀両断できる、原則主義的な政府」ではなく「難問に遭遇すると、困惑して、葛藤する常識的な政府」を持つことになるはずだからです。

 僕はそういう「常識的な政府」の下で暮らしたい。そういうふうに考えています。

 

 長くなってすみませんでした。言いたいことがご理解頂けたらいいんですけど。

2023年

5月

30日

はまりごと

弁護士 大和八木

みなさん、こんにちわ。本日は事務局担当日です。

台風接近に伴い、今週はずっと足元が悪そうですね。

ゲリラ豪雨ではなく、しとしと雨でもずっと降り続けば土砂災害の恐れがありますので、どうぞお気を付け下さい。

 

はまりごとその①

突然ですが、最近わたくし、お風呂ダイエットを実行しております。

もともと長湯派で、お風呂で30分つかって本を読むのが好きなのですが(お水持ち込みします)

42度のお風呂に30分つかると300キロカロリーを消費する(諸説あり)らしいとGoogle先生に伺ってから、実践しています。

 

が、30分連続はなかなか目が回るくらいしんどいので、

15分→洗髪(冷水シャワー)→15分→一回あがる。

時間があるときは、1時間くらいおいてから追加で15分。

つかっている間、本を読みながら、手はあいているので、足や腕、首もとなどのリンパマッサージ。

ずっと全身浴はさすがにしんどいので、体調を見ながら、途中からは半身浴に。

入浴前と入浴中に水分をとりながらでも、入浴後は1キロくらい減っています(水分が抜けただけなので、体重はすぐに元に戻ります)。

足のむくみもとれ、結構爽快(フラフラ)になります😁

 

なかなか体力を使うので、今日はしんどいな、というときは

10分で切り上げたりもしますが、お風呂上がり、10分くらいはずっと発汗しています。

代謝アップしてるんだ!!という希望を込めて、

ほんでもってこれで痩せたかどうだかわかりませんが、

300キロカロリー消費してるんだ!!という希望を込めて実行しています。

はまりごとその②

わたくし、何年かサイクルで、炭酸水(無糖)にはまるのですが、

高温入浴後のシュワシュワがたまらん!!(ここでビールに手を出したいところですが本末転倒なので自粛😢)ということで、

ここ最近、毎日1リットルくらい消費しています。

 

炭酸水を飲むと血中の二酸化炭素濃度が上がるので、より多くの酸素を運ぶために血行が良くなります。そこで①疲労回復②肩こり解消が期待されます。

また③腸内環境改善(胃腸活性化する)④ダイエット効果(食前に飲むことで満腹中枢を刺激する/炭酸の刺激が交感神経を刺激して代謝があがる)とも言われています。

食前に少量飲むと逆に食欲が刺激されますので、お気を付けあそばして下さいませ(ブッフェなどには有効かも😏)

 

週末は、地元の安いスーパーに炭酸水の買い付けに。

重たくて肩こるやん!ってことで、また炭酸水のまなくちゃ笑

2023年

5月

29日

内田樹さんの「トルコから見た日本マンガ」 ☆ あさもりのりひこ No.1355

日本マンガでは、主人公は師に就いての修行を通じて連続的に自己変容する。「ほんとうの自分」を見出すのではなく、修行を通じて「別人」になるのである。

 

 

2023年3月27日の内田樹さんの論考「トルコから見た日本マンガ」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

トルコの大学で日本文化を教えている山本直輝さんから日本マンガ論が送られてきた。世界中にマンガの類は存在するが、なぜ日本の少年マンガだけが他を圧する人気を得ているのか、その理由を論じたものである。山本さんの仮説は「師弟関係が主題だから」というものであった。これには私も満腔の同意を表したい。

 むろん西欧にも師弟関係をめぐる説話は存在する。だが、映画でもコミックでも、弟子が師から長い時間をかけて知恵や技能を教わるという「修行」プロセスには十分な紙数が割かれない。弟子は多くの場合、たちまち驚異的な能力を会得して、以後ヒーローとして活躍する。

 映画『スターウォーズ』は師弟関係を扱った物語の代表作だが、師ヨーダの下で修行を始めたルークは未熟なまま「私用」で修行を止めてしまう。でも、次作冒頭では堂々たるジェダイの騎士として登場する。「生まれつき高いフォースを備えていたから」でこの不整合は説明される。最新作の主人公レイにはもう師がいないし、修行もしない。生まれつき『スターウォーズ』史上最強のジェダイの騎士なのである。「ほんとうの自分」を見出せば(修行プロセスをパスしても)人は最強になり得るという信念が欧米の説話の際立った特徴のようである。

 翻って、日本マンガでは、主人公は師に就いての修行を通じて連続的に自己変容する。「ほんとうの自分」を見出すのではなく、修行を通じて「別人」になるのである。

 このような非―西欧的説話に世界の読者が熱狂する理由を山本さんこう説明する。「日本の少年マンガは世界に残された唯一のビルドゥグス・ロマンなのである。そこにはアイデンティティ・ポリティクスもなければ、国民国家や政府の望む勝利の歴史もない。マンガは人間社会はどこまでも複雑であることを若者に教えようとしている。」

 

 まことにその通りだと思う。

2023年

5月

26日

内田樹さんの「3・11から学ぶこと」 ☆ あさもりのりひこ No.1354

こういう致命的な計算違いをした人間は、仮に法的な処罰を逃れ得たとしても、以後社会人としては「まるで使い物にならない」というスティグマを刻印されることを甘受すべきだろう。彼らはそれほど邪悪な人間ではなかったかも知れないが、犯罪的なまでに無能な人間ではあったのだから。

 

 

2023年3月9日の内田樹さんの論考「3・11から学ぶこと」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 3.11の時、東京電力福島第一原発では炉心溶融、建屋爆発が連続発生し、事故はチェルノブイリ原発事故と同レベルの過酷事故と認定された。以後再稼働することなく廃炉作業が続けられている。廃炉作業にどれほどの歳月と費用が必要なのかもまだわからない。経産省は2016年に22兆円と計算したが、2019年には民間シンクタンクが最高81兆円の試算を示した。政府のこの種の試算はだいたい後になって大幅に上方修正されるのが通例であるから、いずれ81兆円を超えても私は驚かない。

 日本列島は、全世界のマグニチュード6以上の地震の20%が周辺で発生する世界有数の地震多発地帯である。世界標準を超えるレベルの安全基準を採用するのが当然だと私は思うが、原発を建てた人たちはそうは思わなかったらしい。

 東電の旧経営陣3人が業務上過失致死傷で起訴された裁判で、東京高裁は「巨大津波の襲来を予測することはできず、事故を回避するために原発の運転を停止するほどの義務があったとはいえない」と判断して、一審に続いて全員に無罪を言い渡した。

「想定外」だったからどれほどシリアスな事故を起こしてもとがめることはできないというのは法理としては通るかも知れないが、常識では通らない。万一事故が起きたら広範囲の土地が半永久的に居住不能になるほどのリスクのあるテクノロジーを扱うときに、「想定外のことが起きたのだから自分には責任がない」という言い訳をすらっと口にできるような人間はそもそもそのような危険なシステムの管理者になるべきではない。そのような危険なテクノロジーを扱う技術者に最も求められる知的資質は「起こる可能性のある最悪の事態」についての想像力だからである。

 たしかに「最悪の事態」に備えて安全性を配慮すれば、その分だけコストは高くなる。けれども、こう言ってよければ、それはたかが銭金の問題である。リスクを低く見積もったせいで失われるものと、リスクを高く見積もったせいで失われるものは桁が違う。ほとんど天文学的に違う。

 私はこういう致命的な計算違いを犯す人間を「リアリスト」と呼ぶことに同意できない。こういう致命的な計算違いをした人間は、仮に法的な処罰を逃れ得たとしても、以後社会人としては「まるで使い物にならない」というスティグマを刻印されることを甘受すべきだろう。彼らはそれほど邪悪な人間ではなかったかも知れないが、犯罪的なまでに無能な人間ではあったのだから。

 福島の事故が過酷事故になった主因としては、津波に対する施設防護が脆弱であったこと、電源を高台に確保しておかなかったこと、全電源を失った場合の注水手段が確保されていなかったことなどが指摘されている。防潮壁も電源の分散も注水システムの整備もどれもそれなりのコストさえかければ整備できるものである。技術的に難しいものではないし、事故以前にもそういう安全設備の配慮をすべきだと主張した人もたくさんいた。

 2006年には過去の海外の原発での電源喪失の事例を挙げて、そのリスクを重く見るように訴えた質問書が内閣に出されたが、当時の安倍晋三首相はわが国ではそのような事例の「前例がない」ことを根拠に全電源喪失のリスクはないという木で鼻をくくったような答弁で応じた。だが、「これまで起こらなかったことはこれからも起こらない」というのは推論として間違っている。

 この時の答弁の中で「原子炉の冷却ができない事態が生じないように安全の確保に万全を期している」という定型句を政府答弁は5回繰り返した。実際には「原子炉の冷却ができない事態」が生じた。だが、その点を衝かれても、政府は「万全を期す」というのは「万全であればいいな」という主観的願望のことであって、「万全である」という客観的な保証のことではないと言い逃れるつもりだろう。

 福島の原発事故は半ば「人災」だと私は思う。天変地異は自然現象であるから、人間には制御できない。でも、自然現象のリスクを予測して、それがもたらす被害を最小化することはできる。

「起こり得る最悪の事態を想定してそれに備える」ということが日本人はほんとうに苦手である。それよりは「目論見がすべて成功して、巨大な利益が転がり込む」という皮算用で盛り上がることを喜ぶ。五輪も、万博も、カジノも、リニアもどれもそうである。それが失敗した時に何が起きるかについては誰も何も考えない。

 たしかに、「最悪の事態」というのは、それを事前に想定すれば防げ、想定しなければ到来するというほど簡単なものではない。最悪の事態を事前に想定しても、最悪の事態が到来することはある。でも、被害を最小化する努力をしておけば、被害はその分だけは抑制される。当たり前の話である。

 

 私たちが3.11から学ぶことがあるとすれば、その教えに尽くされると思う。だが、日本人はそれさえ学んでいない。

2023年

5月

25日

FUJIサポート その2 ☆ あさもりのりひこ No.1353

最初のサポートはF2麓である。

午後8時ころ、出動する前に、応援naviで妻の位置を確かめる。

画面を見て息をのんだ。

妻は、F2麓のすぐ近くまで来ている。

紅富士荘からF2麓まで40~50分かかる。

とても間に合わない。

心臓が縮む。

いや、早すぎる、予定よりこんなに早く進むことはないはず、去年も麓では応援naviがフリーズした、これはバグだろう・・・

はやる気持ちを抑えて、準備を整えて出発する。

国道を外れて、山中の近道を走る。

鹿の群れが道路を渡っている。

速度を落として鹿と衝突しないようにする。

鹿たちは、悠々と道路を横断していった。

 

F2麓に着いて、応援naviを見ると、妻の位置は変わっていない。

やはりバグだ。

しかし、応援naviがフリーズしているので、妻の現在位置がわからない。

いつ、着くかわからないので、サポートエリアの入口で立って待つ。

同じ位置で2時間立ちっぱなし。

2時間立ち続けるよりも、2時間走り続ける方が楽だ。

妻は4月21日(金)の夜中の12時まえにF2麓に着いた。

予定より少し早い。

妻に食べ物を食べさせて、水を補充する。

 

妻は、F4富士河口湖町精進湖に早朝の午前5時半過ぎ、F5富士急ハイランドに午前11時過ぎに到着した。

いずれも予定より少し早めに通過している。

この後は、F6忍野を通って、F7山中湖きららである。

過去2回、妻は忍野を越えることができなかった。

 

夕方、F7山中湖きららに着いて妻を待つ。

スタートから124.7㎞、27時間以上経過している。

妻は、午後6時過ぎにF7山中湖きららに着いた。

妻は、食べ物を食べ、仮眠して、元気に出発していった。

最後のサポートを終えた。

これで、ゴールまで朝守にできることはない。

 

4月23日(日)午前6時過ぎにゴール地点の富士急ハイランドに着く。

レース中、サポーターがコースに入ることは禁じられている。

しかし、最後の50mはコースに入ってランナーと一緒に走ることが許される。

午前8時40分過ぎ、妻の姿が見えた。

元気に走っている。

最後の50mは、妻と一緒にゴールまで走った。

2023年4月23日午前8時46分、フィニッシュ。

タイムは、42時間01分27秒。

 

妻は、ウルトラトレイル・マウントフジを完走した。

2023年

5月

24日

内田樹さんの「アメリカに取り憑いた病(『ソフト/クワイエット』パンフレット)」(後篇) ☆ あさもりのりひこ No.1352

そもそも合衆国憲法には「平等の実現」は政府の目標としては掲げられていない。

 

 

2023年3月7日の内田樹さんの論考「アメリカに取り憑いた病(『ソフト/クワイエット』パンフレット)」(後篇)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 アメリカは自由の国である。これについてはどなたも異論がないと思う。でも、言葉を付け加えるなら「アメリカは自由に病的に高い価値が付与されている国である」ということになる。

 アメリカは独立戦争を戦って英国の植民地から主権国家になった。だから、市民には不当な政府の支配を実力を以て否定する権利があるというのはアメリカ建国の基本的なアイディアである。独立宣言には、政府が市民たちの権利を損なうふるまいをした場合には、「人民には政府を改革し、あるいは廃絶し、新しい政府を立ち上げる権利がある」と明記してある。

 独立宣言の11年後に制定された合衆国憲法では、さすがに市民の抵抗権・革命権は明記されていない。それを補うように、憲法修正第1条と第2条に「自由を保障する」という文言が書き込まれている。

 憲法修正第1条は「信教の自由、言論出版の自由、人民が政府に請願する権利」を保証している。「請願(petition)」というのは「抵抗権」「革命権」の希釈された表現である。市民は政府に対して「もろもろの不都合の除去のために」、「平和裏に集会をする」権利があると修正第一条にはある。「除去(redress)」とは具体的にどういう手立てのことを指すのか、それは市民一人一人の判断に委ねられている。そのために市民が結集することは許されているが、「平和裏に(peaceably)」という限定がなされている。

「平和裏に」という限定を加えることで、憲法修正第2条には「武装権」が残された。

 独立戦争における戦闘の主力は「武装した市民(ミリシア)」であった。武装した市民がアメリカにおける軍事的実力の本態なのである。だから、合衆国憲法では常備軍の保持が禁じられている(ほとんどの人は知らないと思うが、合衆国憲法8条12項に明記されている)。

 2020年1月6日の連邦議会への乱入事件は私たち日本人には「暴徒の乱入」としか見えないけれど、叛徒たちは、主観的には、独立宣言に明記された市民の自由を抑圧する政府を「改革・廃絶する権利」を行使したのである。あれを「もろもろの不都合の除去」のための「請願」であると考える市民にとっては、あれが違法とされることはおおいに心外であっただろう。

 アメリカは市民的自由を重く見る社会である。病的なほど重く見ると言ってよいと思う。だから平等がこれほど激しく忌避されるのである。というのは、自由と平等は原理的には両立しがたいからである。

 考えればわかると思うが、全国民が等しく豊かで、健康で、文化的な生活を送れる社会を実現しようと思ったら、とりあえず富裕な人から税金を多めに取り、弱者差別を法律で禁止し、弱者を守り、養う仕組みを作らなければならない。言論の自由をある程度規制し(レイシスト、セクシスト的発言は抑制の対象になる)、私財の一部を公共に供託させるシステムなしに平等は実現できない。公権力が市民の生活に介入して、市民的自由の一部を制限することなしに、平等は達成され得ない。

 でも、それだけは絶対に許せないという人たちがアメリカにはたくさんいる。驚くほどたくさんいる。彼らは「社会的公正」とか「平等」を端的に悪であると見なす。そんなものは近代西欧が生み出した「イデオロギー」に過ぎない。生得的な差異や能力差によってヒエラルキーが形成されることのどこが悪いのかと言い切って、「政治的正しさ」を一蹴し、民主主義より個人の自由を優先する過激なリバタリアン(今では「新反動主義者」とか「加速主義者」と呼称されるらしい)が今アメリカには簇生している。

 でも、こういう確信犯的な差別主義者がアメリカで大量発生するのは、ある意味で当然なのである。それはアメリカでは「自由は平等に優先する」ということが国是のうちに埋め込まれているからである。あまりそういうことを言う人がいないので、私が代わって説明する。

 そもそも合衆国憲法には「平等の実現」は政府の目標としては掲げられていない。

 独立宣言にはこう書かれている。「万人は平等なものとして創造されており、万人は創造主から奪うことのできないいくつかの権利―生命、自由、幸福追求の権利―を賦与されている。」

 つまり、合衆国建国に先立って、すでに万人は神によって「平等なものとして」創造されているのである。すでに創造主によって平等は達成されているのである。

「生命・自由・幸福追求の権利」は政府が保証し、これを守らなくてはならない。それはアメリカの立国の根本原理である。だから、それを怠った政府は「改変・廃絶」されるリスクを負う。だが、「平等を実現せよ」とは独立宣言にも、憲法にも書かれていない。だから、平等の実現を怠った政府は「改変・廃絶」されるリスクを負わない。

 平等の実現は政府の義務でも市民の義務でもないのである。万人は平等なものとして創造されているのだから、そのあとの自由な競争によってどれほど強弱貧富の差が生まれたとしても、それは自己責任なのである。

 そういう思想がアメリカの場合は建国以来ずっと生き続けている。生き続けているどころではない。それはむしろ強化されている。自由を享受できる人々、平等を忌避する人々は強者であり、勝者であり、社会のルールを決め、政策を決定することができる人たちである。だから、アメリカでは「社会的公正や社会正義の実現より私の自由の方がたいせつだ」と断言することは少しも疚しいことではないし、恥ずべきことでもないのである。

 

 この映画の監督ベス・デ・アラウージョは母親が中国系、父親がブラジル人という女性である。彼女にとってどういう社会が「まとも」に見えるのか、個人的基準を私は知らないけれども、映画を観る限り、マイノリティの側にいる彼女はアメリカを「かなり異常な社会」と見なしていることはわかる。

 映画の冒頭で、「アーリア人団結のための娘たち」の一人は同僚のマイノリティが自分より早くマネージャーに登用されたことを「アファーマティブ・アクション」だとして言葉激しく批判する。われわれは平等に創造されたものとして自由な競争をしているのだ。たまたまアメリカ社会においてマイノリティである者が、それを理由に過剰なアドバンテージを享受するのは「アンフェア」だという彼女の反平等主義の演説は「娘たち」全員の喝采を浴びる。おそらくこの喝采に唱和する人がアメリカには数千万人いるのだと思う。

「娘たち」がすさまじい暴行を加える中国人姉妹は彼女たちより富裕であり、彼女たちよりもよい家に住んでいる。この中国人姉妹は「娘たち」の眼には彼女たちよりも社会的に成功しているように見える。それが憎しみを倍加する。貧富の差は能力差の帰結だという自由競争ルールを奉じているはずの「娘たち」は、なぜかマイノリティについては、その成功や富裕が自由競争での努力のトロフィーだということを決して受け容れない。それは「平等」主義的な権力の干渉によって得た「不当利益」なのだ。

 マイノリティが自分たちより劣位にあれば「自由」の名において侮り、自分たちより上位にあれば「平等」の恩恵だと言って罵る。ここには出口がない。「娘たち」のこの心理造形には、おそらくマイノリティであるデ・アウラージョ監督自身の実体験が濃厚に反映しているのだと思う。

 でも、これを何らかの政治的主張を語る映画(pièce à these)だとは私は思わない。これは間違いなく、ヒッチコックの『ロープ』を本歌取りしたワンショット・リアルタイムの実験作品である。そして、観客サービスの行き届いたホラー映画でもある。「人間はモンスターより怖い」という(太古から知られた教訓を語る)恐怖譚である。

 

 映画は「死んだはずのもの」が湖水から浮かび上がるという『13日の金曜日』的な場面で終わる。「死んだはずのものの再訪」をフランス語ではrevenant(幽霊)と言う。「娘たち」のマイノリティへの憎しみは決して終わることなく、この後も繰り返しさまざまな症状として「再帰」してくるだろう。それがアメリカに取り憑いた幽霊なのだ。アメリカがこの幽霊と縁を切れる日が来るだろうか。たぶんいつかは来るのだろうけれど、まだずいぶん先のことだろうと私は思う。

2023年

5月

23日

百寿祝い@事務局より

皆さんこんにちは。今日は事務局担当です。

 

 

先日、祖母の百寿祝いに久しぶりに親戚が集まり、食事会に行ってきました。

 

コロナ禍もあって、数年ぶりに会う顔ぶれに、

 

相手の名前が出てこない、まるでコントのようなやりとりもありつつ、

 

祖母も2才下の98才の弟と久しぶりに会えて、楽しそうに話していました(・∀・)

 

 

 

当初は、食事会を含んで3時間以上外出するのに、

 

祖母の体力がもつのか心配していましたが、なんとか無事に終わり皆で一安心(^^;)

 

お店でいただいた食事も美味しかったし、当初は大雨になるとの天気予報も、

 

お店を出る頃に少し雨がパラパラ降ったくらいで、祖母の晴れ女☀パワーは未だ健在。

 

駐車場まで、お店の男の子が番傘をさしのべて歩いてくれたのも、よきよき(*^-^*)

 

 

 

100才を超えると次の祝いは茶寿(ちゃじゅ)、108才になるそうです。

 

次もこうした祝い事で会えるよう頑張って長生きしてね☆

 

 

 

ちなみに、お祝いに頂いたお花を持ち帰ったまでは良かったのですが、

 

祖母はたくさん部屋に飾られたお花を喜び、

 

私は、ムズムズ、咳やらくしゃみが止まりません・・・ぶえっくしょんっ😫

 

2023年

5月

22日

内田樹さんの「アメリカに取り憑いた病(『ソフト/クワイエット』パンフレット)」(前編) ☆ あさもりのりひこ No.1351

私たちは奴隷解放宣言のあと、緩慢にではあるが、アメリカにおける人種差別は段階的に解消されたのだろうと考えてしまうが、それは違う。

 

 

2023年3月7日の内田樹さんの論考「アメリカに取り憑いた病(『ソフト/クワイエット』パンフレット)」(前編)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 世界中どこでもヘイトクライムは存在するけれども、アメリカにおける「差別」と「暴力」の突出ぶりは「病的」と形容してよいだろう。

 リンカーン大統領が奴隷解放宣言を発令したのは南北戦争中の1863年のことである。でも、人種差別はなくならなかった。南北戦争後の一時期は、南部諸州でも黒人の政治家が次々と登場し、黒人議員が州議会の過半を占める州さえあったが、その後にすさまじいバックラッシュが来た。北軍の撤兵と同時に、南部諸州では、公立学校における人種分離、公園、レストラン、ホテルなど公共施設の使用禁止・制限、識字能力試験を課すことにより投票権を制限するなど、黒人を排除するためのさまざまな州法が制定された(「ジム・クロウ法」と総称される)。

 私たちは奴隷解放宣言のあと、緩慢にではあるが、アメリカにおける人種差別は段階的に解消されたのだろうと考えてしまうが、それは違う。いったん黒人たちは奴隷身分から解放されたのだが、南部諸州では、彼らを事実上の被差別身分に落とすことがもう一度合法化されたのである。

 それが19世紀末のことである。1964年の公民権法で、黒人と白人が同じ人間として基本的な人権を享受できることが史上初めて確定するまでには、さらに100年を要した。それから半世紀を経たアメリカでBlack Lives Matter 運動が起きたことで、私たちは人種差別がいまだにアメリカ社会を深く蝕んでいることを知った。

 なぜ、人種差別の廃絶がアメリカでは遅々として進まないのか?

 マイノリティ差別はどこの国でもあることだ、アメリカだけではない。人間とは所詮「そういうものだ」としてシニカルに思考停止する人がいるかもしれない。でも、それは半分正しくて半分間違っている。人間はしばしば非道で残虐であるが、それにしても程度の差というものがある。店舗やレストランでマイノリティを差別的に扱うことと、マイノリティであるという理由で殺すことの間には決定的な差がある。相手の人格を攻撃することと、相手の身体を破壊することの間には、ふつうの人間にとっては越えることの非常に困難な心理的な壁があるはずである。そもそも法治国家であれば、それは重罪人として残る人生を獄中で送るという「割に合わない」代償を支払わなければならない。

 けれども、アメリカではその壁が低い。非常に低い。だから、もののはずみで人はこの壁を越えてしまう。

 本作は、差別意識がいささか過剰だけれども、ふつうに市民生活を送っている人が、もののはずみで殺人を犯す話である。その日常から異常へのあまりに容易な切り替えがこの映画が観客にもたらすショックと恐怖の根幹部分をかたちづくっている。

 ヨーロッパにも人種差別暴力を挿話的に描いた映画はいくつもある。レイシストやセクシストが汚い言葉を吐き散らす場面を私はさまざまな映画で観てきた。でも、そういうことをするのはたいてい「ふつうの人」ではない。スキンヘッドとか、ジャンキーとか、浮浪者とか「ふつうじゃないスティグマ」を背負った人たちである。そういう人たちの差別的なマインドがどうして生まれたのかは、理由がわかる。彼ら自身が「ふつうの人」たちから差別されてきたので、その怨恨を「彼らよりさらに社会的に周縁的で、反撃する実力のない人」に向けるのである。仕組みは分かり易い。だから、社会福祉制度が整備されたり、細やかな気づかいを示してくれる人が身近にいたりすれば、このタイプの被差別意識はかなり緩解するはずだと私たちは信じることができる。

 でも、怖いのは、別に誰からも差別されていないし、その人種属性によって社会的不利益をこうむってもいない「ふつうの人」の中に育つ差別意識とマイノリティへの憎悪である。彼らは何か具体的な被害をこうむっているわけではない。その差別意識と憎悪は幻想的なものである。

 現実的根拠を持つ偏見なら現実的政策によって矯正可能である。だが、幻想に養われた偏見は現実をどれほどいじっても矯正できない。この映画の怖さはそこにある。

 なぜアメリカではそのような幻想的な差別意識が「ふつうの人」の心理の深層に根を張っているのか。それについて個人的な説明を試みたい。

 

 

2023年

5月

19日

内田樹さんの「品が良いとは悪いとは」 ☆ あさもりのりひこ No.1350

いかなる時代にあっても、下品なものは断固として退けられねばならないし、上品なものは擁護され顕彰されねばならない。

 

 

2023年3月7日の内田樹さんの論考「品が良いとは悪いとは」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 というお題を頂いた。よく考えると不思議な論題である。そんなの「わかりきったことじゃないか」と思ったからである。でも、これをあえて主題的に論じて欲しいと求められたのは、「品のよしあし」が「わかりきったこと」ではもうなくなったという現実を映し出しているのだと思う。たぶん編集者のどなたかが、誰かの言動について「品が悪いなあ」という印象を述べた時に、「あなたいま『品が悪い』と言われたが、それはいったいどのような客観的根拠に基づく言明なのですかな。『品が良い/悪い』の判定ができるというなら、その基準をただちに開示せよ」というようなことを言い立てられて、気鬱になったというようなことがあったのであろう。

 最近はそういうことが多い。いちいち「個人の感想ですが」とか「写真はイメージです」とかお断りを入れないとうるさく絡んで来る人がいる。

 これは「ポストモダン」固有の知的荒廃の現れではないかということをアメリカの文芸評論家ミチコ・カクタニが指摘していた。ポストモダンは「客観的現実」という語を軽々しく口にできなくなった時代である。われわれが見ている世界は、それぞれの人種、国籍、性別、階級、信教、イデオロギーなどのバイアスによって歪められている。それ自体はそれほど目新しい知見ではない。自分が見ているものの客観性を過大評価してはならないというのは、プラトンの「洞窟の比喩」以来ずっと言われてきたことである。だが、ポストモダン期にはその知的自制が過激化した。

「自制が過激化する」というのは変な言い方だが、そういうこともある。プラトンの場合なら、振り返れば洞窟の外には客観的現実があるわけだけれど、ポストモダンが過激化した現代では「振り返って現実を見る」ということ自体がもう人間にはできないと宣告されたのである。客観的現実について語るのは虚しいからもう止めようということになったのである。なんと。

「世界の見え方は人によって違う」ということ自体は常識的な言明である。だが、そこから「万人が共有できるような客観的現実は存在しない」というところまでゆくと、これは「非常識」と言わざるを得ない。2017年1月22日、ホワイトハウス報道官がドナルド・トランプの大統領就任式に「過去最大の人々が集まった」と虚偽の言明をしたことについて問われた大統領顧問ケリーアン・コンウェイが、報道官の言明は「代替的事実(alternative facts)」を伝えたものだと述べたのが、この「非常識」の起点標識をなす。

 日本のメディアはこの言明を「もう一つの事実」と訳したが、コンウェイはこのときfacts と複数形を使っていたのである。一つどころではなく、無数の代替的事実が等権利的に併存している新しい世界の始まりがこの日に宣言されたのである。

 真実性の証明は誰にもできないとなった以上、発声機会の多い人間、声のでかい人間の勝ちである。それがポスト・ポスト・モダンの知的退廃の実相である。知的節度が過激化したせいで、知的無法状態が現出したのである。

 客観的現実さえもが懐疑される時代に「品が良い/悪い」などという判断に普遍性が求められるはずもない。もちろん、それで話を終わりにするわけにはゆかない。

「この世に品が良い悪いなどという判断を下すことのできる者はいない」と冷笑してことが決するようならこの世は闇である。いかなる時代にあっても、下品なものは断固として退けられねばならないし、上品なものは擁護され顕彰されねばならない。世の中には「オルタナティブ」を認めてもよいものもあり、認めてはならないものもある。そして、品位(decency)は決してオルタナティブを認めてはならないものである。

 なぜなら、品位はその本質からして「集団内部的なもの」「内輪の決まり」ではないからである。それは「外部」から到来するもの、われわれと共通の論理や価値観や美意識を共有しないもの、すなわち「他者」と向き合うときの作法のことだからである。

他者に向き合う作法とは、一言で言えば、「敬意を示すこと」である。

「敬」は白川静によれば、「もとは神事祝祷に関する字。神につかえるときの心意」を表わす。最もよく知られた用例は『論語』にある「鬼神は敬して之を遠ざく。知と謂うべし」である。

 敬とは距離を取ることである。熱いフライパンをつかむときに「なべつかみ」を用いるのと変わらない。

 世の中には「鬼神」に類するものがいる。うかつに手で触れると失命するかも知れないものがあまた存在する。それに対する畏怖の現れが「敬」である。ポストモダン的なバケツの底が抜けた「すべては等しく主観的幻想にすぎない」という命題に致命的に欠けているのは他者の他者性に対するこの畏怖の思いである。(『學鐙』2023年春号)

 

 

2023年

5月

18日

FUJIサポート その1 ☆ あさもりのりひこ No.1349

2023年4月21日(金)から23日(日)まで、静岡県と山梨県で、ウルトラトレイル・マウントフジが開催された。

去年までは「UTMF」と呼ばれていたが、ことしから「FUJI」に改称された。

走行距離164.7㎞、制限時間45時間、累積標高+6451m-6493m。

富士山こどもの国(静岡県富士市)をスタートして、富士急ハイランド(山梨県富士吉田市)でゴールする。

2023年4月21日(金)午後2時30分にスタート(ウェーブ)、23日(日)午前11時30分が制限時刻。

 

エイドは9か所。

F1 富士宮

F2 麓

F3 見延町本栖湖

F4 富士河口湖町精進湖

F5 富士急ハイランド

F6 忍野

F7 山中湖きらら

F8 二十曲峠

F9 富士吉田

このうち、パーソナルサポートを受けることができるのは4か所

F2 麓

F4 富士河口湖町精進湖

F5 富士急ハイランド

F7 山中湖きらら

 

スタートからF2麓まで51㎞、F2麓からF7山中湖きららまで73.7㎞、F7山中湖きららからゴールまで40㎞である。

サポートできる区間は全体の約45%なので、ランナーは半分以上を独力で凌がなければいけない。

 

妻はウルトラトレイル・マウントフジ3回目の出場である。

2019年 忍野まで来たが、降雪のためにレースは中止

2020年 新型コロナウイルス感染症のために中止

2021年 新型コロナウイルス感染症のために中止

2022年 忍野でリタイア(股関節捻挫)

朝守も3回目のサポートである。

 

河口湖の南にある民宿紅富士荘を拠点として、F2麓、F4富士河口湖町精進湖、F5富士急ハイランド、F7山中湖きららの4か所をレンタカーで往復する(これは去年と同じ)。

応援naviでランナーのおおよその位置を把握できる。

 

4月21日(金)午前10時すぎ、妻を富士急ハイランドまでレンタカーで送っていく。

午前11時、妻は富士急ハイランドからバスに乗ってスタート会場へ移動した。

妻は、第2ウェーヴで午後2時45分にスタートする。

F2麓でサポートするのは夜中である。

スーパーオギノでミネラルウォーターを買う。

昼食は、甲州ほうとう「小作」河口湖店で『かぼちゃほうとう』(1300円)を食う。

うまい。

山梨県南都留郡鳴沢村にある「道の駅なるさわ」へ買い出しに行く。

いちご、りんご、ブルーベリー(冷凍)などを買った。

 

最初のサポートはF2麓である。

午後8時ころ、出動する前に、応援naviで妻の位置を確かめる。

画面を見て息をのんだ。

妻は、F2麓のすぐ近くまで来ている。

紅富士荘からF2麓まで40~50分かかる。

 

とても間に合わない。

2023年

5月

17日

内田樹さんの「韓国の地方移住者たちに話したこと」 ☆ あさもりのりひこ No.1348

人口減はもうこれからも止まらない。

地球環境がこれ以上の人口増負荷に耐えられない以上、これは文明史的必然である。

 

2023年3月3日の内田樹さんの論考「韓国の地方移住者たちに話したこと」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

韓国から地方移住者たちの団体が凱風館を訪れた。人口減社会における地方の生き残りについて話を聞きたいという。韓国は合計特殊出生率0.78という超少子化に加えて、全人口の半分近くがソウル近郊に住むという人口一極集中が進行している。地方では人口減のせいで経済活動が低迷し、学校や病院の統廃合が始まっている。韓国政府は効果的な対策を講じていない。

 その逆風の中で地方の再生をめざす活動家たちは、直感に導かれて選択した地方移住という生き方にどのような歴史的必然性や道理があるのか、その根拠を求めて、遠く日本までやってきたのである。

 彼らをお迎えして、奈良県東吉野村に移住して、そこに私設図書館を開いて、地方からの文化発信の拠点作りをめざしている青木真兵君と、兵庫県神河町に移住して、江戸時代から続く茶園を継承した野村俊介君が自分たちの実践について報告し、私が「地方移住の歴史的意義」いついて話をした。

 人口減はもうこれからも止まらない。

 地球環境がこれ以上の人口増負荷に耐えられない以上、これは文明史的必然である。でも、選択肢は二つある。資源の地方分散か都市への一極集中か、いずれかである。

 だが、資本主義の延命のためには後者しかない。地方を過疎化し、都市を過密化すればしばらくの間資本主義は生き残ることができる。19世紀英国で行われた「囲い込み」を人口減局面で行うという離れ業である。成功するかどうか誰も知らない。でも、資本主義はそれを要請し、現代の経済システムで受益している人たちはそれに従うだろう。

 あなたたちはそれを非とする人たちである。だから、政官財もメディアも誰もその活動を本気で支援してはくれないだろう。でも、あなたたちは戦うべきだという話をした。

 

 韓国の地方では、行政、医療、教育の統廃合が進み、それが過疎化を加速させている。病院がなくなれば、基礎疾患のある人や高齢者を抱える家族は暮らせない。学校がなくなれば、学齢期の子どもを抱える家族は暮らせない。「過疎地の住民には行政コストはかけられない。まともな市民生活が送りたければ都市部に引っ越せばいい」というロジックを行政側が操り、メディアがそれに唱和する。そして、しばしば都市の市民たちも「地方に住むのは費用対効果の悪い生き方だから」という理由で、そのような生き方を非とする。事情は日韓同じである。

 けれども、医療や教育は本来弱者のための制度ではないのか。疾病や障害のある人のために医療はあり、生活できるだけの知識や技術をまだ会得していない人のために教育はある。そして行政も弱者のための制度である。

 権力者や富裕者は行政サービスを別に求めてはいない。彼らはむしろ彼らの旺盛な活動に干渉しない「夜警国家」を望ましいものだと思っている。彼らの自由な活動を妨害するものから彼らの権利と富を守る以上の業務を彼らは行政に期待しない。

 米国のリバタリアンたち、そのさらに過激化した「新反動主義者たち」は現に堂々とそう主張している。彼らに言わせると、福祉制度は富を富者から貧者に移転させることであり、財産権の侵害であるからただちに廃止されなければならない。極論だが、「強者はきめこまかい行政サービスなど必要としない」ということは彼らの言う通りである。

 行政は本来弱者のためのものであると言うと目を剥く人がいるかも知れない。けれども、防災も防犯も公衆衛生も社会福祉もどれも発生的には自分ひとりでは身の安全を保てない人たちのものである。私が子ども頃、防災や防犯は町内の仕事だった。冬の夜に父親たちは「火の用心」と拍子木を打ちながら町内を回った。日曜は町内総出で「どぶさらい」をして感染症を予防した。市町村の行政が整備されていない時期は「共同」で弱者たちは身を護ったのである。その「共同で身を護る」仕事を制度化したものが行政である。

 だから、その根本の趣旨から言えば、共同で身を護るための相互扶助ネットワークに帰属していない人こそがまず行政による支援の対象でなければならないはずである。医療が癒しを求めている人の救難信号を聴き取るところから始まるように、教育が学びの機会を求めている人の救難信号を聴き取るところから始まるように、行政は共同体からの支援を求めている人の救難信号を聴き取るところから始まるはずである。

 そうであるならば、共同体の相互支援を十分には期待できずに、取り残された人たちの「小さな声」を汲み上げることこそ他のいかなる公的機関も代替することのできぬ行政の仕事ではないのか。過疎地に居住している人々は、少数者であるがゆえに行政サービスを諦めねばならないというのは行政の趣旨として間違ってはいないか。

 もちろん、世の中そうそう道理が通らないことは私も承知している。行政のリソースが有限である以上、費用対効果ということも当然配慮しなければならないことはよくわかる。それでも、過疎地の行政機関を統廃合するときには「小さな声」を聴き取る機会を逸することへの「疚しさ」が行政側にあって然るべきだろうと私は思う。しかし、現実に行政の側にも、メディアの論調にも、そのような「疚しさ」を感じることはほとんどない。

 たしかに「住民が少ないので、行政・医療・教育機関を置くだけの余裕がない」ということは十分な理がある。だが、実際には行政・医療・教育機関がなくなると、人はそこに暮らせなくなるのである。だから、これは暗黙のうちに「地方にはもう人は住むべきではない」という遂行的なメッセージを発信しているのである。そして、それはコロラリーとして「社会的弱者は公的支援を期待すべきではない」という「強者のイデオロギー」に帰着することになる。

 

 みなさんのような地方移住者はその圧倒的趨勢に抗って「人間性を守るための戦い」を戦っているのである。屈せずに戦い続けてください。韓国からの来訪者たちをそう言って励ました。

2023年

5月

16日

近鉄八木駅は旅立ちの駅

今日は、昨日とは打って変わって雲一つ無い快晴です。

昼間は暑くなりそうですが、今朝は、何処かに出かけたくなる気分になる天候です。

そして、今日516日は、「旅の日」だそうです。

そのゆえんは、旧暦327日、新暦では516日が、松尾芭蕉が「奥の細道」へ旅立ち、最初の句を詠んだ日だそうです。

先日、関東の大学に通う息子の下宿先へ行く際に乗る列車が、地下から地上に出て、直ぐに隅田川を渡ります。

その時にチラッと松尾芭蕉が旅に出て最初に句を詠んだ千住の地が観れることを思い出し、旅の楽しさを思い出しました。

旅の車窓は、見たことの無い色々な風景を観て、楽しくさせてくれますよね。

コロナ禍が収束をみせ、ゴールデーンウィー前頃から出かける人が増えてきました。

 

楽しそうに出かける人を見ていると、見ている私自身も楽しくなります。

近鉄八木駅
近鉄八木駅

近鉄八木駅前も荷物を持ち出かける人をよく見かけ、また例年より少し遅いように思いますが、今年も南から長い旅を経てツバメが子育てに八木駅の昔から在る巣にやってきて賑わってきています。

八木駅にやってくるツバメにとっては、八木駅は故郷でもあり、南方へ越冬に旅立つ地でもあるのです。

しかし、先に述べた松尾芭蕉やツバメの旅は楽しいだけの旅では無く、人生のように変化にとんでいたと思われます。

 

なら法律事務所に来られる方の中には、人生の転機を得て、新たな旅、新たな境地に向かわれる方もおられますが、より楽しい人生をおくっていただける為に役立てたらと、日々仕事をしています。

2023年

5月

15日

内田樹さんの「70年後のテレビ」 ☆ あさもりのりひこ No.1347

NHKはもうしばらくは「国営放送」(政権の広報媒体)として延命できるかも知れないが、民放はある時点でビジネスモデルとしては成立しなくなると思う。

 

 

2023年2月22日の内田樹さんの論考「70年後のテレビ」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

「70年後のテレビ」

 

 という不思議なお題を頂戴した。NHKがテレビ放送を開始したのが70年前なので、70年後はどうなるかを予測して欲しいということである。おそらくアンケート回答者の過半は「70年後にテレビは存在しない」と予測するだろうと思う。問題はいつごろテレビは消えるかということである。5年後なのか、10年後なのか、それとももう少し生き延びるのか。どちらにしても「程度の差」である。もちろん、業界内部にいる人たちにとっては死活的に重要な「程度の差」だが、遠からずテレビが主要メディアの一角から脱落することは間違いない。

 私自身はテレビを見るという習慣を失って久しい。過去数年を振り返っても、目当ての番組を見るためにテレビをつけるという動作をしたのは国政選挙の開票速報の時だけである。今はそれも放送開始と同時に「当確」が打たれて、大勢が決してしまうので、そこで見るのを止めてしまう。

 今もリビングにいるときは50インチの受像機の前が私の指定席だけれど、それはNetflixPrime Videoやケーブルテレビで配信されるドラマや映画やスポーツ中継を見るためであって、テレビを見るためではない。たまに間違ってテレビをつけてしまうことがあるが、見たことのない人が大声を出しているか、知らない商品のCMかどちらかなので、すぐに切ってしまう。私にとってテレビは情報を得るためであれ、娯楽番組を見るためであれ、もう日常的に利用するメディアではなくなった。私の周りでもテレビ番組のことが話頭に上ることはもう絶えてない。韓流ドラマの話はよく話題にのぼるが、どれも有料配信のものについてである。この趨勢はもう止まらないだろう。

 NHKはもうしばらくは「国営放送」(政権の広報媒体)として延命できるかも知れないが、民放はある時点でビジネスモデルとしては成立しなくなると思う。民放というビジネスモデルは、スポンサーがテレビCMに投じる出稿料(その相当部分を代理店が抜く)が、CMの効果による収益増を上回ったと判定された時点で終わる。その計算はそれほど難しいものではない。

 このあと日本では急激な人口減が始まり、経済活動の低迷が続く。庶民の消費活動が鈍化し、湯水のようにお金を使えるのは一握りの富裕層だけということになると、テレビCMによって商品売り上げが激増するというような事態はもう起きない。タワーマンションのペントハウスに暮らす富裕層たちの欲望はそもそもテレビCMによって喚起されるようなレベルにはないからだ。

 この逆風に抗って民放モデルを維持しようとしても、テレビ制作側にできることはもうあまりない。できるのは、コンテンツの制作コストを削ることと、CM出稿料を切り下げて「どんな企業でもテレビCMが打てます」という状態にすることくらいしかない。でも、そんなことを続ければいずれテレビは見るに堪えないものになるだろう。

 

 コマーシャルを流す代わりにコンテンツを無償で配信するという「民放というビジネスモデル」そのものは非常によくできたものだったと思う。これを思いついた人は天才である。でも、それは右肩上がりの経済成長が続き、消費者が新奇な商品に対する情報に「飢えている」世界を前提にしたビジネスモデルである。

 若い人には信じられないだろうけれど、テレビの全盛期に私たちはCMに対して番組そのものと同じくらいの集中力を向けていた。1950~60年代に「テレビっ子」だっ頃、CMの時間を我慢してやり過ごしたという記憶が私にはない。

 子どもたちはCMソングをテレビに合わせて唱和した。『月光仮面』は「タケダタケダタケダ~」という武田薬品のCMと「込み」の番組であったし、「わ、わ、わ~、輪が三つ」というミツワ石鹸のCMは『名犬ラッシー』の「序曲」であった。

 CMはコンテンツの重要な構成要素であり、番組の魅力とCMの訴求力は混然一体となっていた。提供される番組を私たちは「太っ腹なスポンサーからの贈り物」として受け取っていた。だから、その感謝の気持ちを(自腹で商品を買うだけの財力はなかったので)、学校の行き帰りにCMソングを高唱したり、母親が買い物をする時にいくつかの選択肢があれば「私の好きな番組のスポンサーの商品」を買うように懇請することで表現したのである。

 フレドリック・ブラウンのSF短編に『スポンサーから一言』という作品がある。番組放送に際して、もし「スポンサーから一言」という要請があれば、テレビ局も視聴者も黙ってそれを拝聴しなければならないという黙契が1950年代のアメリカには存在した。ブラウンの短編では、全視聴者はこのスポンサーからの謎めいた一言をどう解釈するか知恵を絞る(おかげで人類は破局から救われる)。

 

 スポンサーが享受していたこの例外的な威信は今のテレビにはもう望むべくもない。コンテンツはコンテンツ、広告は広告、その間にはもう特段の情緒的なつながりは存在しない。だから、自分が定期的に視聴している番組についてさえ、そのスポンサーに「こんなすばらしい番組を提供してくれてありがとう」という感謝の気持ちを抱く視聴者はほとんどいないと思う。番組への愛着がスポンサーが販売する商品にある種の「オーラ」を与えていたという牧歌的な時代はもうだいぶ前に終わった。「テレビの魔術」はその時に消えたのだと思う。

2023年

5月

12日

内田樹さんの「パワークラシーの国で」 ☆ あさもりのりひこ No.1346

知者が統治する国なら、人々は自分を知者のように見せようとするだろう。有徳の人が統治する国なら、人々は自分もまた有徳者であるように見せようとするだろう。同じ理屈で、権力的にふるまう者が統治する国では、上昇志向に駆られた人々はそれを真似ようとする。

 

 

2023年2月22日の内田樹さんの論考「パワークラシーの国で」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

若い経済学者が高齢社会対策として高齢者の「集団自決」を求めた発言がニューヨークタイムズに大きく報じられた。

「炎上」発言をしたイエール大学助教の成田悠輔氏について、記事は「米国の学界ではほとんど無名だが、日本のSNSでは、その極端な見解のせいで、老人支配で割りを食っていると思っている不満な若者たちを中心に数十万のフォロワーを獲得し」、「社会的禁忌を嬉々として破ることで熱狂的な視聴者を獲得してきた日本の扇動者の一人」と紹介していた。

 記事を読んでいささか考え込んでしまった。日本社会を「老人支配(gerontocracy)」と呼ぶのは果たして適切であろうかと思ったのである。

 確かに日本社会には「権力を持つ老人たち」がはびこっていて、若い人たちのキャリア形成を阻んでいるのは事実である。だが、他方には圧倒的多数の「権力を持たない老人たち」がいる。彼らは支配され、収奪され、権利を軽んじられる側にとどまっている。このような社会を「老人支配」と呼ぶことが適切であろうか。

 では、どう呼べばいいのか、しばらく考えているうちに「権力者支配(powercracy)という言葉が思い浮かんだ。

 むろんそんな政治用語は存在しない(今私が思いついたのだから)。だが、「権力を持つ者が権力を持つ」「支配する者が支配する」という日本の政体の同語反復性を形容するには「パワークラシー」という語が適切なのではあるまいか。

 ふつうは王政であれ、貴族政であれ、寡頭政であれ、民主政であれ、主権者はその権利を正当化する根拠を示す。「神から授権された」とか「民意を負託された」とか、あるいは端的に「賢明だから」とか。「パワークラシー」は違う。権力者の正統性の根拠が「すでに権力を持っている」ということだからである。

「パワークラシー」の国では、権力者批判が許されない。権力者を批判できるのは、権力者だけだからである。選挙で相対少数になった野党には政権を「批判」する資格がない(できるのは「反発」だけである)。市民にも政治について不満を述べる権利はない。不満を口にすると「だったら、お前が国会議員になればいい」と言われる。メディア有名人を批判すると「だったら、お前が有名になって、メディアで自説を語ればいい」と言われる。

「パワークラシー」の国では、権力者が権力者であるのは、政治的に卓越しているからでも、知的に優れているからでも、倫理的に瑕疵がないからでもない。すでに権力を持っているからである。これが「パワークラシー」である。「パワークラシー」の社会では、「権力的にふるまうことができる」という事実そのものが「権力者であること」の正統性の根拠になるのである。なんと。

 先日、ある政治家が国会議員を引退するに際して息子を「跡目」に指名するということがあった。日本ではよくあることである。「跡目」を継ぐことになったその息子はさっそくホームページに自分の家系図を掲げて、近親者に三人の総理大臣を含む何人もの国会議員がいるという「毛並みのよさ」を誇示してみせた。自分が国会議員として適格であることの根拠として「国会議員を輩出している家系に属する」ことを掲げたのである。たぶん本人も、それを提案した周りの人間も、それが一番アピールすると信じたからそうしたのだろう。「すでに権力の側にいることが、今後とも権力の側にいるための最優先かつ必須の条件である」という「パワークラシー」信仰をこれほど無邪気に表明した事例はさすがに珍しい。

 わが国が「パワークラシー」の国だと考えると、当今の権力者たちの異常な言動が理解できるはずである。彼らの非論理性や非倫理性は、別に何らかの政治目的の達成のために採択された非情な手段ではないのである。権力者であるために必要なのは、卓越した政治的見識を持つことでも、雄弁の才に恵まれていることでも、人心掌握に長けているからでもなく、「現に権力的にふるまっている」という既成事実だったのである。

 だから、彼らは自分たちが「法の下の平等」から除外されていること、「非常識」という評言が自分たちには適用されないこと、他人に無用の屈辱感を与える権利があることを繰り返しアピールすることになる。

 まことに困ったことに、「パワークラシー」の国では、権力者だけでなく、権力を持たない一般市民までがその影響を受けて、「権力者であるような顔つき」を競うようになる。

 知者が統治する国なら、人々は自分を知者のように見せようとするだろう。有徳の人が統治する国なら、人々は自分もまた有徳者であるように見せようとするだろう。同じ理屈で、権力的にふるまう者が統治する国では、上昇志向に駆られた人々はそれを真似ようとする。

 

 どうも最近、非常識で、傲慢で、攻撃的な人が増えてきたなと思っていたが、あれは別に日本人の人格が劣化したわけではなく、彼らなりに社会的上昇めざして、「いやな野郎」になるべく努力していたのである。そう気づいて、腑に落ちた。

2023年

5月

11日

4月のラディ、タニタ、ガーミン&エプソン ☆ あさもりのりひこ No.1345

4月の放射線量と体組成とランニングについて書く。

 

まず、奈良県橿原市の環境放射線量(ガンマ線)から。

2023年4月の平均値はつぎのとおり。

室内1メートル 0.0426μ㏜/h

室内0メートル 0.0439μ㏜/h

室外1メートル 0.0586μ㏜/h

室外0メートル 0.0723μ㏜/h

この4か月間で、室内はいずれも一番低く、室外はいずれも一番高かった。

 

つぎに、朝守の身体について。

2023年4月29日の数値はつぎのとおり。

体重 72.75㎏

BMI 23.

体脂肪率 16.4%

筋肉量 57.7㎏

推定骨量 3.1㎏

内臓脂肪 12.

基礎代謝量 1664/

体内年齢 48才

体水分率 58.9%

夕食後、お茶請けとして菓子を食べるのをやめた。

その結果、数値が少し良くなった。

 

最後に、2023年4月のランニングの結果。

走行時間 17時間51分21秒

走行距離 147.758㎞

  累積標高 2193m

 ウルトラトレイル・マウントフジ(FUJI)のサポートをしたので、5日間走らなかったが、4か月間で時間も距離も最長だった。

 

 

2023年

5月

10日

内田樹さんの「『君たちのための自由論』あとがき」(後篇) ☆ あさもりのりひこ No.1344

創造というのは「外からはまるで行き当たりばったりのように見えたのだけれども、ことが終わってから事後的に回顧するとまるで一本の矢が的を射抜くように必然的な行程をたどっていたことがわかる」というプロセスです。

 

 

2023年2月16日の内田樹さんの論考「『君たちのための自由論』あとがき」(後篇)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 いま学校教育現場で最も深刻な問題は「教師のなり手がいない」ということです。毎年、教員採用試験の受験者が減っている。倍率が低いので、新卒教員の学力が低下し、社会経験が乏しいせいでうまく学級をグリップできない教員が増えている。それを苦にして病欠したり、離職する教員も多い。こんなことは教員たちから権利を奪い、冷遇し、ことあるごとに屈辱感を与えてきたわけですから、当然予測された結果のはずです。でも、たぶん文科省も自治体の首長も決してそれを認めないでしょう。

 もう一度繰り返しますけれど、「管理」と「創造」は相性が悪いのです。

 創造というのは「ランダム」と「選択」が独特のブレンドでまじりあったプロセスです。平たく言えば「いきあたりばったり」でやっているように見えるのだけれど、実は「何かに導かれて動いている」プロセスのことです。やっていることは見た目は「いきあたりばったり」ですから「管理」する側から「何をやってんだ」と問い詰められてもうまく答えられない。やっている当人は自分がある目的地に向かって着実に進んでいることは直感されるのだけれど、それが「どういう目的地」なのか、全行程のどの辺りまで来たのかは、自分でもうまく言葉にできない。「このまま行けば、『すごいこと』になりそうな気がします」くらいしか言えない。そういうものなんです。完成品が何か、納期はいつか、それはどのような現世的利益をもたらすのかについて答えられないというのが「ものを創っている」ときの実感です。

「創造」は科学や芸術に限られたものではありません。例えば、食文化というのは本質的にきわめて「創造的なプロセス」だと僕は思います。

 食文化の目標は何よりもまず「飢餓を回避すること」です。ですから、「不可食物」の「可食化」がその主な活動になります。実際に人類は実に多様な工夫をしてきました。焼く、煮る、蒸す、燻す、水にさらす、日に干す、発酵させる...などなど。

 それまで不可食だと思われていた素材を使って最初に美味しい料理を創った人は人類に偉大な貢献を果たしたわけですけれども、こういう人たちはそれまで知られていたすべての調理法を試したわけではないと思うんです。よけいな迂回をしないで、割と一本道で目的地にたどりついたんじゃないかと思うんです。じっと食材を見ているうちにその人の脳裏に「これを食べられるものにするプロセス」がふと浮かんだ。まったく独創的な、これまで誰もしたことのない調理法を思いついた。試してみたら、いささか試行錯誤はあったけれど、「美味しいもの」ができた。

 このプロセスはまったくの偶然に支配されていたわけではないと僕は思うんです。創造的な調理人は「何となく、こうすれば、これ食えるようになるんじゃないか」という「当たり」をつけてから始めたはずです。でも、どうしてその「当たり」がついたのかは本人もうまく説明できない。「なんとなく、そうすればできそうな気がした」というだけで。

「だいたいの当たりをつけてから、そこに向かう」プロセスのことを「ストカスティック(stochastic)」なプロセスと呼びます。ギリシャ語の「的をめがけて射る」という動詞から派生した言葉です。創造というのは「ストカスティックなプロセス」であるというのは多くの創造的科学者たちが言っていることです。

 数学者のアンリ・ポワンカレによれば、数学的創造というのはそれまで知られていた数学的事実のうちから「これとあれを組み合わせたらどうなるかな」という組み合わせをふと思いつくということだそうです。その場合の「これ」と「あれ」はいずれも「長い間知られてはいたが、たがいに無関係であると考えられていた」事実です。誰も思いつかなかったその結びつきにふと気づいた者が創造者になる。

 創造的な調理人もそうだと思うんです。これまで不可食とされていた植物や動物は目の前にランダムに散乱している。調理法も経験的に有効なものがいくつかが知られている。ある日、ある調理人が「長い間知られていたが、たがいに無関係であると考えられていた」ある不可食物とある調理法の組み合わせを思いついた。それが新しい料理の発明につながり、人類を飢餓から救うためにいくらかの貢献を果たした。たぶん、そういうことだと思います。

 創造というのは「外からはまるで行き当たりばったりのように見えたのだけれども、ことが終わってから事後的に回顧するとまるで一本の矢が的を射抜くように必然的な行程をたどっていたことがわかる」というプロセスです。だから、「ストカスティック」なんです。

 多くの創造的な人たちは、学者でもアーティストでも、自分たちの創造の経験を似たような言葉で語るのではないかと思います。

 

 こう説明するとわかると思いますけれど、これはまったく「管理」になじまないプロセスです。僕やサコ先生の関心は、どうやってもう一度「創造」を活性化するかということだと思います。それについて二人ともずいぶん真剣に考えてきたし、いろいろ「実験」もしてきました。本書に出てくる、ソウルに焼肉を食べに行ったり、空港で学生たちとばったり会って旅行にでかけたり・・・というのは、どちらもそのときは「思いつき」ですけれども、あとから振り返ると、「それがあったから、次の展開があった」という重要な足場でした。でも、その時点では成算があったわけじゃないし、どういう効果が期待できるかもわからなかった。何となく「これは『当たり』じゃないかな」という気がしただけです。でも、サコ先生も僕もその直感を信じた。

 サコ先生も僕も「管理する側」から見たら、とても手に負えない人たちだと思います。でも、それは僕たちがただ反抗的であるとか、反権力的であるとかいうことではなく、「創造」ということにつよいこだわりを持っているからです。そのことをぜひこの本を通じてご理解頂きたいと思います。

 

 なんだかやたら長くなってしまいましたので、もう終わりにします。最後になりましたが、本書の成立にご尽力くださいました稲賀繁美先生、ラクレ編集部の黒田剛史さん、『大学ランキング』の小林哲夫さん、夕書房の高松夕佳さんにお礼を申し上げます。そしてつねに驚くべき話題で知的刺激を与え続けてくださったウスビ・サコ先生に感謝を申し上げます。みなさん、どうもありがとうございました。

2023年

5月

09日

ゴールデンウィーク

弁護士 大和八木

みなさん、こんにちわ。

本日は事務局担当日です。

 

ゴールデンウィーク、いかがお過ごしだったでしょうか。

私は、連日子どもの部活のインターハイ予選の観戦に行っておりました。

今年から声出し応援が可能になり、人数制限もなくなったので、保護者・卒業生・後輩がたくさん応援に駆けつけ、とっても華やかな大会になりました。

まさに「THE青春!!」です。

 

そして観戦の帰り道に絶対寄るんだぁ~!!と楽しみにしていた場所がこちら。

 

 

↑ 肉のカワイさんHPより

 

桜井市にある「肉のカワイ」さんです。

現在は店舗を改装され、ホームページの写真と違うガラス張りのお店になっています。

 

何年か前にこちらの「百福焼き」を手土産で頂いたのですが、

もう、もう、そりゃそりゃそりゃそりゃ涙がでるくらいおいしくて、

ずっと「また食べたいな~」と思っていました。

 

オンラインではしばらく購入することができず(最近再開されたようです)、

自宅からお店まではちょっと距離があるので

近くまで行ったら絶対買いに行くんだ~と思いつつ、なかなか機会がありませんでした。

が、今回、試合の帰り道に寄れないこともない、とにらんでいたところ、

試合の合間にちょうと往復できる時間ができたので、

びゅ~んと飛ばして行ってきました(多分法定速度です)ヽ(^。^)丿

 

お店の前は、精肉を買いに来られたお客さんが長蛇の列(゚д゚)

あ・・・これを並ぶ時間はない😭と思ったら、

百福焼きやコロッケ・串カツは別の列で、こちらは3人ほどだったので、無事ゲットできました😁😁😁

 

その後・・・早く帰って食べたくてうずうずしていた私でした😆

みなさんも機会があれば、是非召し上がって下さい!

ビールのご用意もお忘れなく♪