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なら法律事務所

 

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2019年

6月

18日

姿勢に気をつけましょう@事務局より

皆さんこんにちは。今日は事務局担当日です。

 

先日の日曜は,吹田で発生した事件の関係で,朝から地域の放送で

不要不急の外出は避けるようにとアナウンスが流れました。

 

しかしながら,隣の区の放送と重なって聞こえるため,

正直何のアナウンスなのか全く分かりませんでした(-_-;)

 

事件の詳細は,その後点けたテレビのニュースで知りました。

 

犯人は無事逮捕されたのでひとまず安心しましたが,情報の発信方法について

自治体には今後もっとわかりやすく知らせる方法を考えていただきたいなと

思います(^^;) 

さて,今年は,家族や自身のことで病院へ行くことが度々あるのですが,

先週末,どうにもこうにも腰が痛くなりまして・・・。

 

とりあえず湿布で様子を見ることにしたのですが。

 

 

・・・・・。

翌朝起きると,

 

腰も痛いけれど片方の足の筋肉がつって肉離れのような状態が続き,

椅子に座ると痛みが電気のように走って長くは座っていられず,

立ってみても体重がかかると,再び足がつりかける状態に。

 

何をしても,足を動かそうとすると痛みが走るため,

我が家の96才の祖母よりも歩けない情けない状態に・・・(>_<)

 

 

週明け月曜,なんとか近くの整形外科へ駆け込み診察を受けたところ,

おそらく,「椎間板ヘルニア」ではないかとのことでした。

 

 

「椎間板ヘルニア」とは,

背骨の腰部の椎骨と椎骨の間でクッションの役割を果たしている椎間板が変性し,一部が飛び出して付近の神経を圧迫している状態を言い,腰や足に痛みやしびれなどの症状をおこします。

 

 

 

発症の原因は,姿勢や動作,遺伝要因そして加齢などにも関係があるそうです。

 

よほどの重症でなければ,手術はしないで薬を使いながら自然治癒を待つ

保存療法が多いそうで,とりあえず痛み止めの薬と湿布をもらってきました。

 

確かに,薬が効いてくると,腰の痛みは楽になります。

しかし,夜になり薬が切れると痛みが走り,

まるで油が切れたブリキの人形のような状態に・・・(苦笑)

 

就寝時や朝の起床時は,特に足の痛みがひどいため,毎日どの態勢で寝ると

痛みが少ないかどうか四苦八苦です。

温めると痛みがマシになる気がするため,密かに季節外れのカイロが必需品です。

 

今までは,仕事中つい猫背になっていたり,下にある物を取るときに横着して

中腰の姿勢になったり取りがちでした。

病院の先生からは中腰(の姿勢)は特にアカンから気をつけて!と言われたため,仕事中も1時間過ぎればちょっと席を立ってみたり,物を取るときも先に腰を

落とすよう,できるかぎり注意しています。

 

皆さんも,仕事中猫背になっていないか,周りの人に一度確認してもらうと

いいですよ。

 

2019年

6月

17日

憲法について(その9) ☆ あさもりのりひこ No.678

それを認めるというのは、言い方は厳しいけれど「護憲派は間抜けだった」と認めるということです。それはきっとみんな厭なんだと思います。でも、僕は認めます。僕は間抜けだった。だから、歴史修正主義者や改憲派がこれほど力を持つようになるまで、ぼんやり拱手傍観していた。憲法はもっと堅牢なものだとイノセントに信じていたから。でも、改憲して、日本をもう一度戦争ができる国にしたいと思っている人がこれだけ多く存在するということは、僕たちの失敗なわけです。それは認めなければいけない。

 

 

2019年3月31日の内田樹さんの論考「憲法について(その9)」をご紹介する。

どおぞ。

  

 

それと似たことが日本でもあった。それは戦中派の「大人たち」の僕たち戦後世代に対する気づかいというかたちで現れた。憲法は自分たちで制定したものではない。日本国民なるものは空語であるということを彼らは知っていた。でも、自分たちに与えられた憲法は望外に「よきもの」であった。だったら、黙ってそれを受け容れたらよい。それを「日本国民が制定した」という物語に仕立て上げたいというのなら、あえて異論を立てるに及ばない。それは戦後世代の子どもたちに「親たちや先生たちがこの憲法を制定したのだ」というはなはだしい「誤解」を扶植することだったわけですけれども、彼らはそのような誤解をあえて解こうとはしなかった。

 

小津安二郎の映画『秋刀魚の味』には、駆逐艦の艦長だった平山(笠智衆)が、かつての乗組員であった部下坂本(加東大介)と語り合う場面があります。坂本が酔余の勢いで、「けど、艦長。これでもし日本が勝っていたらどうなっていたでしょうね?」と言い出します。平山はそれを制して「けど、負けてよかったじゃないか」とつぶやきます。意外な答えに一瞬戸惑った後、坂本も「そうですかね。うん。そうかも知れねえな。馬鹿な野郎が威張らなくなっただけでもね」と同意する。

この「負けてよかったじゃないか」という言葉を僕も父の口から聴いた記憶があります。会社の部下たちが家に来て、酒を飲んでいる席で、なぜか話題が戦中のことになった。その時に父親が話を打ち切るように、「敗けて良かったじゃないか」と言ったことがあります。今となると、そこには「子どもたちの前で戦争の話をするな」というニュアンスがあったようでした。

「敗けて良かったじゃないか(だから、戦争の時に自分たちが何をしたのか、何を見たのかについて話すのはもう止めよう)」という戦争について語ることへの抑圧は1950年代から60年代にかけて多くの日本の戦中派が口にした言葉ではないかと思います。戦争は敗けたけれど、負けたせいで、こういう「良い社会」になったのだ。結果オーライじゃないか。自分たちがどれほど罪深いことをしたのか、どれほど理不尽な目に遭ったのかというようなことについては口を閉じて、黙って墓場まで持ってゆけばいい。

小津安二郎の『秋刀魚の味』は1962年の映画です、戦争が終わって17年目です。小津の映画には戦争の話が始まると誰かがぴしゃりと話の腰を折るという場面がいくつかあります。『早春』でも、『彼岸花』でも、誰かが戦争の時の話を始めると、「その話はもういいじゃないか」と誰かが制して、話はそこで終わる。おそらく、これと同じ情景が60年頃までは日本のあちこちで実際にあったのではないかと思います。

そして、この戦中派の節度と、僕たち戦後世代に対する気づかいが、その後の歴史修正主義者や改憲派の登場の素地を作ってしまった。僕たち戦後世代が憲法に対して、それをあたかも「自然物」のように見なして、イノセントな信頼を寄せていたのは、この憲法を日本人が持つに至った歴史的過程については子どもたちにはできるだけ何も言わずにおこうとした先行世代の黙契の力だったということです。憲法に力があったわけではなく、この憲法は素晴らしいものだと信じていた人たちの思いに力があった。彼らの生身が憲法の堅牢性を担保していたのです。ですから、その人たちが死んでいなくなってしまったとたんに、僕たちの手元には、保証人を失った一片の契約書のごときものとして日本国憲法が残された。

 

これが改憲派が強くて、護憲派が弱いという現実を生み出した歴史的背景だと思うんです。この事実がなかなか前景化しなかったのは、それが「起きなかったこと」だからです。戦争における無数の加害事実・非人間的事実について明らかにする、憲法制定過程についてその全容を明らかにするということを怠ったという「不作為」が歴史修正主義者や改憲派が今こうして政治的勢いを有している理由なわけです。「何かをしなかったこと」「何かが起きなかったこと」が原因で現実が変わったわけです。歴史家は「起きたこと」「現実化したこと」を組み立てて、その因果関係について仮説を立てて歴史的事象を説明するのが仕事ですけれど、「起きなかったこと」を歴史的事象の「原因」として論じるということはふつうしません。

それはフランスでもたぶん事情は同じで、もし戦後、対独協力者の徹底的な告発を行って、国民の相当数を「非国民」「裏切者」として処断した場合、その後のフランスの国民的統合はあり得なかったでしょう。対独協力したけれど、それを「恥じて、黙っていた」市民については、それ以上の追求を手控えたことで、フランスは国民的な和解を手にした。でも、それが歴史修正主義者の登場や、国民連合のような極右勢力の伸長に対して無防備な社会を創り出してしまった。もっと非寛容であるべきだったのか、と問われると僕にも答えようがありません。僕がその時代に生きていたら、レイモン・アロンやアルベール・カミュのような「大人の対応」に賛同の一票を投じたと思います。そして、今のフランスの排外主義や人種主義のありさまを見て、深く悔いるということをしたのではないかと思います。でも、それ以外にどうしようがあったのか。

それは日本の戦中派も事情は同じだと思います。彼らが自分自身を含めて戦争責任を徹底追及し、憲法の空語性をきびしく難じて、「日本国民などというものは存在しない」と宣言した場合、戦後の日本はどうなったのか。たぶん僕たちの世代は国そのものと親たちの世代に対する嫌悪と軽蔑を扶植されることになったでしょう。子どもでも厳しく理不尽な現実を見つめて育った方がよいのだというタフな育児戦略を信じる人もいるかも知れませんけれど、僕は戦中派の「常識」に与します。それ以外にどうしようがあったのか。

 

護憲派はこの常識と抑制の産物なわけです。だから、激しい感情や露悪趣味に対して弱い。ですから、護憲運動を1950年代60年代と同じように進めることはできないと思うのです。だって、当時の護憲運動の主体は戦中派だったわけですから。彼らはリアルな生身を持っていた。「空語としての憲法」に自分たちの願望と子どもたちの未来を託すというはっきりした自覚を持って護憲運動をやっていた。でも、僕らは違う。僕らは「自然物としての憲法」をぼんやりと豊かに享受しているうちに、ある日「お前たちが信じているものは人工物だ」と言われて仰天している「年取った子ども」に過ぎません。

となると、これから僕らが進めるべき護憲運動とはどういうものになるのかというと、これはとにかく「護憲運動の劣勢」という痛苦な現実を受け入れるところから始めるしかない。現実を認めるしかない。われわれの憲法は脆弱である、と。根本的な脆弱性を孕んでいる、と。それを認めるしかない。そして、その上で、どのような宣言であっても、憲法であっても、法律であっても、そのリアリティーは最終的に生身の人間がその実存を賭けて担保する以外にないのだと腹をくくる。憲法条文がどんなに整合的であっても、どんなに綱領的に正しいものであっても、そのことだけでは憲法というのは自立できません。正しいだけでは自存できない。絶えず憲法に自分の生身で「信用供与」をする主体の関与がなければ、死文に過ぎない。

死文に命を与えるのはわれわれの涙と血と汗です。そういう「ヴァイタルなもの」によって不断にエネルギーを備給していかなければ、憲法は生き続けられない。でも、そのことを語らないんです、護憲派は。憲法はそれ自体では空語だということを認めたがらない。憲法に実質をあらしめようと望むなら、身銭を切って憲法に生命を吹き込まなければならない。そうしないと、憲法はいずれ枯死し、倒れてしまうという切迫した危機感を僕は護憲派にあまり感じることができないのです。危機を感じるためには、この憲法は本質的には空語なのだということを認めなければならない。戦中派はこの憲法が空語であることを知っていたけれど、口にはしなかった。でも、知っていた。僕たちは、この憲法が空語だということを知らずに来た。そして、身銭を切って、この憲法のリアリティーを債務保証してくれていた人たちがいなくなってはじめて、そのことを知らされた

それを認めるというのは、言い方は厳しいけれど「護憲派は間抜けだった」と認めるということです。それはきっとみんな厭なんだと思います。でも、僕は認めます。僕は間抜けだった。だから、歴史修正主義者や改憲派がこれほど力を持つようになるまで、ぼんやり拱手傍観していた。憲法はもっと堅牢なものだとイノセントに信じていたから。でも、改憲して、日本をもう一度戦争ができる国にしたいと思っている人がこれだけ多く存在するということは、僕たちの失敗なわけです。それは認めなければいけない。

 

だから、もう一度戦中派の常識と抑制が始まったところまで時計の針を戻して、護憲の運動をはじめから作り直さなければならない。戦中派がしたように、今度は僕たちが憲法の「債務保証」をしなければならない。これが護憲についての僕の基本的なスタンスです。なんだか護憲運動にとってあまり希望のない話になってしまって済みませんでした。長時間ご清聴ありがとうございました。

2019年

6月

14日

憲法について(その8) ☆ あさもりのりひこ No.677

「大人」たちは愛国者ですから、勝敗の帰趨が決まった後になって、敗者をいたぶるようなことはしない。それよりは同胞として改めて迎え入れようとした。人間的にはみごとなふるまいだと思いますけれど、実際には「大人」たちのこの雅量が歴史修正主義の温床となった。

 

 

2019年3月31日の内田樹さんの論考「憲法について(その8)」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

アルベール・カミュの逡巡もその適例です。カミュは地下出版の 『戦闘(コンバ)』の主筆としてレジスタンスの戦いを牽引しました。ナチス占領下のフランスの知性的・倫理的な尊厳を保ったという点で、カミュの貢献は卓越したものでした。ですから、戦後対独協力者の処刑が始まった時、カミュは最初は当然のようにそれを支持しました。彼の仲間たちが彼らとの戦いの中で何人も殺されたわけですし、カミュ自身ゲシュタポに逮捕されたら処刑されていた。ですから、彼には対独協力者を許すロジックはありません。でも、筋金入りの対独協力者だったロベール・ブラジャックの助命嘆願署名を求められた時、カミュは悩んだ末にそれに署名します。ブラジャックの非行はたしかに許し難い。けれども、もうナチスもヴィシーも倒れた。今の彼らは無力だ。彼らはもうカミュを殺すことができない。自分を殺すことができない者に権力の手を借りて報復することに自分は賛同できない。カミュはそう考えました。このロジックはわかり易いものではありません。対独協力者の処刑を望むことが政治的には正しいのですけれども、カミュはそこに「いやな感じ」を覚えた。どうして「いやな感じ」がするのか、それを理論的に語ることはできないけれど、「いやなものはいやだ」というのがカミュの言い分でした。

身体的な違和感に基づいて人は政治的な判断を下すことは許されるのかというのは、後に『反抗的人間』の主題となるわけですけれど、アルベール・カミュとレイモン・アロンは期せずして、「正義が正義であり過ぎることは人間的ではない」という分かりにくい主張をなしたわけです。

歴史的事実が開示されないことで苦しんだという点でカミュは人後に落ちません。というのは、戦後における歴史修正主義の最初のかたちは「レジスタンスについての詐称」だったからです。

レジスタンスは初期の時点では、ほんとうにわずかなフランス人しか参加していなかった。地下活動という性格上、どこで誰が何をしたのかについて詳細な文書が残っているはずがないのですが、概数で1942年時点でレジスタンスの活動家は二千人と言われています。それが、パリ解放の時には何十万人にも膨れ上がっていた。44年の6月に連合軍がノルマンディーに上陸して、戦争の帰趨が決してから、それまでヴィシー政府の周りにたむろしていたナショナリストたちが雪崩打つようにレジスタンスの隊列に駆け込んできたからです。その「にわか」レジスタンたちが戦後大きな顔をして「私は祖国のためにドイツと戦った」と言い出した。そのことをカミュは苦々しい筆致で回想しています。最もよく戦った者はおのれの功績を誇ることもなく、無言のまま死に、あるいは市民生活に戻って行った。

『ペスト』にはカミュのその屈託が書き込まれています。医師リウーとその友人のタルーはペストと戦うために「保健隊」というものを組織します。この保健隊は明らかにレジスタンスの比喩です。でも、隊員たちは命がけのこの任務を市民としての当然の義務として、さりげなく、粛々として果たす。別に英雄的なことをしているという気負いがないのです。保健隊のメンバーの一人であるグランはペストの災禍が過ぎ去ると、再び、以前と変わらない平凡な小役人としての日常生活に戻り、ペストの話も保健隊の話ももう口にしなくなります。カミュはこの凡庸な人物のうちにレジスタンス闘士の理想のかたちを見出したようです。

フランスにおける歴史の修正はすでに1944年から始まりました。それはヴィシーの対独協力政策を支持していた人々が、ドイツの敗色が濃厚になってからレジスタンスに合流して、「愛国者」として戦後を迎えるという「経歴ロンダリング」というかたちで始まったのでした。でも、それを正面切って批判するということをカミュは自制しました。彼自身の地下活動での功績を誇ることを自制するのと同じ節度を以て、他人の功績の詐称を咎めることも自制した。他人を「えせレジスタンス」と批判するためには、自分が「真正のレジスタンス」であることをことさらに言い立てて、彼我の差別化を図らなければならない。それはカミュの倫理観にまったくなじまないふるまいでした。ですから、ナチス占領下のフランスで、ヴィシー政府にかかわったフランス人たちがどれほど卑劣なふるまいをしたのかというようなことをことさらに言挙げすることを戦後は控えた。カミュは「大人」ですから。

 

でも、各国で歴史修正主義がそれから後に跳梁跋扈するようになったのは、一つにはこの「大人たち」の罪でもあったと僕は思います。彼らがおのれの功績を誇らず、他人の非行を咎めなかったことがいくぶんかは与っている。「大人」たちは、歴史的な事実をすべて詳らかにするには及ばないというふうに考えたのです。誇るべき過去であっても、恥ずべき過去であっても、そのすべてを開示するには及ばない。誇るべきことは自尊心というかたちで心の中にしまっておけばいいし、恥ずべき過去は一人で深く恥じ入ればいい。ことさらにあげつらって、屈辱を与えるには及ばない。そう考えるようになったのには対独協力者たちへの暴力的で節度を欠いた「粛清」に対する嫌悪感もかかわっていたと思います。「大人」たちは愛国者ですから、勝敗の帰趨が決まった後になって、敗者をいたぶるようなことはしない。それよりは同胞として改めて迎え入れようとした。人間的にはみごとなふるまいだと思いますけれど、実際には「大人」たちのこの雅量が歴史修正主義の温床となった。僕にはそんなふうに思えるのです。

2019年

6月

13日

第11回大阪リレーマラソン 単独走30㎞ ☆ あさもりのりひこ No.676

6月2日(日)、大泉緑地公園で「第11回大阪リレーマラソン」が開催された。

リレーマラソンとはいうものの、単独走30㎞というカテゴリーがある。

朝守は「単独走30㎞」にエントリーした。

 

地下鉄御堂筋線「新金岡」駅に午前9時30分に着く。

地下鉄の改札を出てから、緑地公園内の受付までが長い。

30分くらいかかった。

 

天気は曇りで、それほど暑くない。

受付を済ませて、ゼッケンをシャツに付けて、荷物を預ける。

ウォーミングアップする。

 

リレーマラソンが午前11時にスタートして、単独走10㎞が午前11時02分にスタート。

単独走30㎞は午前11時04分にスタートした。

 

コースは1周2㎞の周回コースで、15周する。

緑の木々を見ながら走る。

途中にヒツジを飼っているスペースがある。

1㎞6分15秒のペースを8㎞までは維持して快調であった。

 

8㎞を過ぎて、ペースが落ち始める。

それでも、16㎞までは、1㎞6分台を維持する。

ポツポツと雨が降り始めた。

 

16㎞を過ぎて、1㎞7分台にペースが落ち、19㎞を過ぎると1㎞8分台までペースが落ちてしまった。

22㎞から24㎞は1㎞9分台と一番苦しかった。

 

最後は左のふくらはぎが攣りかけたが、なんとかゴールした。

タイムは3時間38分02秒。

3時間10分を目標にしていたので、無念である。

ロング走の練習ができていなかったのが原因だと思う。

 

つぎのレースは、7月28日(日)に服部緑地でハーフマラソンである。

 

レース後、大阪府堺市から奈良市に移動して「ならまち飲茶バル」でスッポン鍋を食して疲労を癒やした。

 

 

2019年

6月

12日

憲法について(その7) ☆ あさもりのりひこ No.675

歴史修正主義が出てくる文脈は世界中どこでも同じです。戦争経験者がしだいに高齢化し、鬼籍に入るようになると、ぞろぞろと出てくる。現実を知っている人間が生きている間は「修正」のしようがないのです。

 

 

2019年3月31日の内田樹さんの論考「憲法について(その7)」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

日本国憲法だってそうです。これもまた圧倒的な政治的実力を持つ超憲法的主体によって制定された。それが誰であり、どういう歴史的経緯があって、そのような特権をふるうに至ったのかという「前段」は、憲法のどこにも書かれていない。「上諭」にも書かれていない。でも、知っている人は知っている。そして、日本国憲法の場合は、「知っている人」たちがそれについて久しく口を噤んでいたということです。憲法が「ろくでもないもの」だと思っていたら、制定過程についての「裏情報」はもっと流布していただろうと思います。でも、戦中派はそう思わなかった。すばらしい憲法だと思った。だから、制定過程について何も語らないことにした。

戦中派はそれを善意で行ったのだとおもいます。戦後の日本社会を1945815日以前と完全に切り離したものとして、戦前と繋がる回路を遮断した無菌状態のものとして立ち上げようとした。だから、戦争の時に何があったのか、自分たちが何をして来たかについて口を噤んだ。憲法制定過程についても、黙して語らなかった。語るためには、日本には、主権者である「日本国民」のさらに上に日本国民に主権者の地位を「下賜」した超憲法的主体としてのアメリカがいる。それは自分たちが戦争をして、負けたせいだという真実を語らなければならない。それもまた戦後世代の子どもたちに言って聞かせるにはあまりにつらい事実だった

戦争経験について、とりわけ加害経験について語らないこと、憲法制定過程について、日本は国家主権を失い、憲法制定の主体たり得なかったということを語らないこと。この二種類の「戦中派の沈黙」が戦後日本に修正することの難しい「ねじれ」を呼びこんでしまった。僕はそう思います。でも、僕はそのことについて戦中派を責めるつもりはないのです。彼らは善意だったと思うから。僕たち戦後世代が戦争と無縁な、戦時における人間の醜さや邪悪さとも、敗戦の屈辱とも無縁な者として育つことを望んでいたからそうしたと思うからです。

だから、彼らの沈黙には独特の重みがあった。実存的な凄みがあった。「その話はいいだろう」といって低い声で遮られたら、もうその先を聞けないような迫力があった。だから、彼らが生きているあいだは歴史修正主義というようなものの出る幕はなかったのです。仮に「南京虐殺はなかった」というようなことを言い出す人間がいても、「俺はそこにいた」という人が現にいた。そういう人たちがいれば、具体的に何があったかについて詳らかに証言しないまでも、「何もなかった」というような妄言を黙らせることはできた。

歴史修正主義が出てくる文脈は世界中どこでも同じです。戦争経験者がしだいに高齢化し、鬼籍に入るようになると、ぞろぞろと出てくる。現実を知っている人間が生きている間は「修正」のしようがないのです。それは、ドイツでもフランスでもそうです。今日は日仏会館での講演ですから、フランスのことに詳しい方もおられるでしょう。

 

フランス人も自国の戦中の経験に関しては記憶がきわめて選択的です。レジスタンスのことはいくらでも語りますけれど、ヴィシー政府のこと、対独協力のことは口にしたがらない。フランスでヴィシーについての本格的な研究が出て来たのは、1980年代以降です。それまではタブーだった。それはその時期を生きてきた人たちがまだ存命していたからです。自分自身がヴィシーに加担していた人もいたし、背に腹は代えられず対独協力をして、必死で占領下を生き延びた人もいた。彼らがそれぞれの個人的な葛藤や悔いを抱えながら、戦後フランスを生きていることを周りの人は知っていました。そして、それを居丈高に責めることに抵抗があった。

ベルナール=アンリ・レヴィが『フランス・イデオロギー』という本を書いています。僕が訳したんですけれども 、ドイツの占領下でフランス人がどのようにナチに加担したのかを赤裸々に暴露した本です。レヴィは戦後生まれで、ユダヤ人ですから、戦時中のフランスの行為については何の責任もない。完全に「手が白い」立場からヴィシー派と対独協力者たちを批判した。でも、これが出版当時大論争を引き起こしました。

少なからぬ戦中派の人々がレヴィの不寛容に対して嫌悪感を示しました。レイモン・アロンもレヴィを批判して、「ようやく傷がふさがったところなのに、傷口を開いて塩を擦り込むような不人情なことをするな」というようなことを書いていました。せっかく忘れかけているトラウマ的過去なのに、それをまた思い出させるようなことをすべきではない、と。

アロンの言っていることは筋の通らない話なんです。でも、「大人の言葉」だとは思いました。「もう、その話はいいじゃないか」というアロンの言い分は政治的にはまったく正しくありません。でも、その時代を生きてきた人にしか言えない独特の迫力があった。アロン自身はユダヤ人ですし、自由フランス軍で戦ったわけですから、ヴィシーや対独協力者をかばう義理はないんです。だからこそ、彼がかつての敵について「済んだことはいいじゃないか。掘り返さなくても」と言った言葉には重みがあった。

 

80年代からしばらくはヴィシー時代のフランスについてのそれまで表に出なかった歴史的資料が続々と出てきて、何冊も本が書かれました。でも、ヴィシーの当事者たちは沈黙を守った。秘密の多くを彼らは墓場に持っていってしまった。人間は弱いものですから、自分の犯した過ちについて黙秘したことは人情としては理解できますけれど、結果的にヴィシーの時代にフランス人が何をしたのかを隠蔽したせいで、そのあとに歴史修正主義者が登場して来て「ガス室はなかった」というようなことを言い出すようになった。そのあたりの事情は実は日本とそれほど変わらないのです。

2019年

6月

11日

近鉄八木駅前の花便りとひと休みスポット

本日、6月11日は事務局が担当です。まもなく近畿も梅雨入りしそうですが、あいにく今日の天気はうす曇りで、午後からは雨になる天気予報の近鉄八木駅前です。以前から時折お伝えしてきていますが、近鉄八木駅前付近には、何カ所か見応えのある花が咲く場所があります。

 

今一番の見頃は、かしはらナビプラザ南側に植えられている紫陽花(あじさい)です。

 

私は、雨上がりの紫陽花が活き活きしていて、とても好きです。

 

なら法律事務所のあるセレーノビルにも紫陽花はあるのですが、

まだつぼみが堅そうです。

 

それから、今の時期で、近鉄八木駅前でひと休みに最適な場所をご紹介します。

但し、利用には条件があり、そこには屋根が無いので雨降り時と雨上がりはベンチが濡れていて使えません。

その場所は、先程の紫陽花と正反対場所になるナビプラザの北側です。

このスペースは、午前10時位から午後3時位迄はナビプラザの建物の日陰になり、適当にベンチもあり、今のまだ暑さがほどほどの時期は意外とひと休みには最適な場所です。

 

今、写真のとおり、ヒペリカム(金糸梅)と言う花だと思うのですが、満開に近い状況です。

ヒペリカムの花言葉は「悲しみは続かない」だそうです。

 

それは、花が散ってもすぐに赤やピンクのかわいらしい実をつけるからだといわれているそうです。

私達の仕事で、相談に来られた方に前向きになっていただきたく伝えたい言葉です。

この時期、近鉄八木駅前に来られたらこれらの花を是非ご覧下さい。

2019年

6月

10日

憲法について(その6) ☆ あさもりのりひこ No.674

憲法を制定するのは「憲法条文内部的に主権者と認定された主体」ではありません。憲法を制定するのは、歴史上ほとんどの場合、戦争や革命や反乱によって前の政治体制を覆した政治的強者です。

 

 

2019年3月31日の内田樹さんの論考「憲法について(その6)」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

世界中どこでも、国のあるべきかたちを定めた文章は起草された時点では「絵に描いた餅」だったわけです。宣言を起草した主体が「われわれは」と一人称複数で書いている場合だって、その「われわれ」全員と合議して、承認を取り付けたわけじゃない。そうではなくて、このような宣言の起草主体の一人だという自覚を持つような「われわれ」をこれから創り出すために宣言というものは発令されたわけです。それでいいんです。日本国憲法を確定した「日本国民」なんてものは現実には存在しない。でも、そこで掲げられた理念が善きものであると人々が思うようになるのなら、「憲法を起草してくれ」と誰かに頼まれたら、すらすらとこれと同じ憲法を起草することができるなら、その時「日本国民」は空語ではなく、実体を持ったことになる。

この憲法を自力で書き上げられるような国民に自己造型してゆくこと、それが憲法制定以後の実践的課題でなければならなかったはずなんです。ただし、その努力を行うためには、日本国民が「われわれは『日本国民』にまだなっていない。われわれは自力でこの憲法を起草できるような主体にまだなっていない」ということを自覚しなければならない。

護憲論の弱さはそこにあります。護憲派はそういうふうには問題を立てなかったからです。そうではなくて、「日本国民は存在する」というところから話を始めてしまった。僕はそれが最初のボタンの掛け違えだったと思います。「日本国民」が集まって、熟議を凝らした末に、衆知を集めてこの憲法を制定したというふうに、たしかに憲法前文は読める。しかし、そういう事実はない。

だから、護憲派は「そういう事実はない」ということを隠蔽した。僕はそれがいけなかったのだと思うのです。いいじゃないですか、「そういう事実」がなくても。歴史上のどんなすばらしい宣言だって、憲法だって、多かれ少なかれ「そういうもの」なんですから。たしかに日本国民が衆知を集めて憲法を制定したという事実は実際にはないのだけれども、仮にもう一度憲法制定のチャンスを与えられたら自発的にこれと同じ憲法を自力で書けるような日本国民を創り出してゆくという遂行的な責務は現に目の前にある。そういうふうに考えるべきだったんじゃないかと、後知恵ですけれども、僕は思います。戦中派の人たちが憲法制定過程における日本国民の関与の薄さということを僕たちに向かって率直に開示して、「でも、自力でこれを書けるようになろう」というかたちで戦後の市民意識の成熟の課題を掲げてくれたのであれば、それから何十年もして改憲派に足をすくわれるようなことは起きなかったと思います。

改憲派の護憲派に対するアドバンテージというのは、まさにその一点に尽きるわけです。憲法制定過程に日本国民は関与していない、これはGHQの作文だ、これはアメリカが日本を弱体化させるため仕掛けた戦略的なトラップだ、というのが改憲論を基礎づけるロジックですけれど、ここには一片の真実があることは認めざるを得ない。一片の真実があるからこそ、改憲論はこれだけの政治的影響力を持ち得ているわけです。

憲法制定過程に「超憲法的主体」であるGHQが深く関与したことが憲法の正当性を傷つけていると改憲派は言いますし、護憲派もGHQの関与については語りたがらない。でも、そんなのすらすら認めていっこうに構わないじゃないかと僕は思うのです。憲法を制定するのは「憲法条文内部的に主権者と認定された主体」ではありません。憲法を制定するのは、歴史上ほとんどの場合、戦争や革命や反乱によって前の政治体制を覆した政治的強者です。それは大日本帝国憲法だって同じです。大日本帝国憲法において主権者は天皇でした。たしかに「大日本帝国ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と第一条に記してある。そして、その条項を起草したのも天皇自身であるということになっている。現に、大日本帝国憲法の「上諭」には「朕」は「朕カ祖宗ニ承クルノ大権ニ依リ現在及将来ノ臣民ニ対シ此ノ不磨ノ大典を宣布ス」と明記してあります。でも、別に憲法制定の「大権」が歴代天皇には認められていたなどということはありません。勅諭や綸旨ならいくらでも出したことがあるけれど、憲法という概念自身が近代の産物なんですから、憲法制定大権なる概念を明治天皇が「祖宗」に「承クル」はずがない。実際に明治憲法を書いたのは伊藤博文ら元勲です。明治維新で徳川幕府を倒し、維新後の権力闘争に勝ち残った政治家たちがその「超憲法的実力」を恃んでこの憲法を制定した。

 

憲法というのは「そういうもの」なんです。圧倒的な政治的実力を持つ「超憲法的主体」がそれを制定するのだけれど、それが誰であり、どういう歴史的経緯があって、そのような特権をふるうに至ったのかという「前段」については、憲法のどこにも書かれていない。でも、書かれてなくても、知っている人は知っている。明治時代の人たちだって、憲法を起草したのが元勲たちで、それが近代国家としての「体面」を繕い、国際社会にフルメンバーとして加わり、欧米との不平等条約を改定するために必要だからということも知っていた。薩長のエリートたちによる支配を正当化し、恒久化するための政治的装置だということも知っていた。

2019年

6月

07日

憲法について(その5) ☆ あさもりのりひこ No.673

憲法前文には、「主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」と書いてありますけれど、そもそも「日本国民」というもの自体が擬制なわけです。憲法が公布された1946年の113日の段階では、事実上も権利上も、「日本国民」などというものは存在していないわけですから。

 

 

2019年3月31日の内田樹さんの論考「憲法について(その5)」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

僕が子どもの頃、内田家では、お正月には毎年日の丸を立てていました。どの家もそうでした。お正月や祝日には必ず日の丸を揚げた。黒と黄色に塗り分けられた旗竿の上に金のガラス玉を入れて、ぺらぺらの日の丸の旗を張って揚げた。僕は子どもでしたから、その儀式が大好きでした。だから、年末になると父が日の丸のセットを押し入れから出して、飾りつけをする手伝いをするのを楽しみにしていました。でも、ある年、僕が小学校の低学年の頃でしたけれど、お正月だから「お父さん、日の丸出そうよ」と言ったら、父親がふっと「もういいだろう」って言ったんです。

もう日の丸を揚げる義理もなくなった、そういう感じでした。1958年か59年くらいのことだったと思います。その頃、たしかにまわりの家もだんだん日の丸を揚げなくなってしまった。こういうのってほんとに不思議なもので、別に「日の丸を揚げるのをやめましょう」なんていう運動があったわけじゃない。でも、申し合わせたように、揚げなくなった。その時の国旗掲揚を止める時の理由が「もういいだろう」だった。

あとから思うと、1958年って大日本帝国の十三回忌なんですね。帝国臣民たちは帝国が死んでから13年くらいまでは死せる大日本帝国に対して弔意を抱いていた。当然ですよね、彼らは生まれてからずっと「神国不敗」「天壌無窮」の大日本帝国臣民だったわけですから。でも、もういつまでも消えた帝国を懐かしんでいてもしかたがない、と。親が死んでだいたい十三回忌になると親族が集まった法事の席で、喪主に当たる老人が言い出すことがありますよね。「いや、お疲れ様。これでなんとか亡き親の十三回忌まで営みました。でも、みんなも年を取ってきて、集まるのも大変になってきた。もう、この辺でいいんじゃないか」というようなことを。もう十分に悼んだから、このへんでいいだろう、と。1958年頃に、日の丸が一斉に東京の街角から消えていったのは、あれは大日本帝国の十三回忌も営んだし、もう昔のことは忘れようという暗黙の国民的な合意だったんじゃないか。

そういうのって、やっている本人だって、自分が何をしているのかよくわかっていないんだと思います。口に出さないけれど、何となく、そんな気分になる。無意識的にやっているわけです。でも、僕はそういう暗黙の、無意識の集団的な行動が、結局はある時代のイデオロギー的な大気圧をかたちづくっていて、その時代を生きている人間たちの思考や感受性を深く規定していたんじゃないかという気がするのです。

 

ですから、ずっと後年になって、安倍晋三が登場してきて「みっともない憲法だ」と言った時にほんとうに驚いたのです。海とか山のような自然物に向かって「みっともない」というような形容はふつうしませんから。

でも、そう言われて初めて、憲法を自然物のように思いなすというのは、僕たちの世代的な「偏り」であって、戦中派の薫陶を受けていない世代は憲法を僕たちと同じようにはとらえていないのだということを知ったのです。

だから、護憲論が空疎になるのです。護憲論を批判するのはほんとうに簡単なんです。こんなものただの空語じゃないか、「絵に描いた餅」じゃないか、国民のどこに主権があるのか、「平和を愛する諸国民の公正と信義」なんか誰が信じているのか、国際社会が「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている」なんて白々しい嘘をよく言えるな。そう言われると、まさにその通りなんです。

憲法前文には、「主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」と書いてありますけれど、そもそも「日本国民」というもの自体が擬制なわけです。憲法が公布された1946年の113日の段階では、事実上も権利上も、「日本国民」などというものは存在していないわけですから。だって、公布前日の112日までは、列島に存在したのは大日本帝国だったわけですから。そこにいたのは「大日本帝国臣民」であって、「日本国国民」なんていうものはどこにもいない。どこにもいないものが憲法制定の主語になっている。「この主語の日本国民というのは、誰だ」と言われたら、答えようがない。

日本国憲法を制定した主体は存在しない。存在しない「日本国国民」が制定した憲法であるというのが日本国憲法の根源的な脆弱性なわけです。

と言っておいてすぐに前言撤回するのもどうかと思いますけれど、実は世の中の宣言というのは、多かれ少なかれ「そういうもの」なんです。宣言に込められている内容はおおかたが非現実なんです。宣言している当の主体自体だって、どれほど現実的なものであるか疑わしい。

例えばアメリカの独立宣言(177674日公布)では「法の下で万民が平等である」と謳っていますけれど、実際にはそれから後も奴隷制度はずっと続いていました。奴隷解放宣言の発令は1862年です。独立宣言から100年近いタイムラグがある。奴隷解放宣言で人種差別が終わったわけじゃありません。人種差別を公的に禁じた公民権法が制定されたのは1964年。独立宣言から200年経っている。そして、もちろん今のアメリカに人種差別がなくなったわけじゃありません。厳然として存在している。独立宣言の内容と現状の間には乖離がある。

でも、「独立宣言に書いてあることとアメリカの現状が違うから、現実に合わせて独立宣言を書き換えよう」というようなことを言うアメリカ人はいません。社会のあるべき姿を掲げた宣言と現実との間に乖離がある場合は、宣言を優先させる。それが世界標準なんです。でも、日本だけがそうではない。宣言と現実が乖離している場合は、現実に合わせて宣言を書き換えろということを堂々と言い立てる人たちが政権の座にいる。

 

 

2019年

6月

06日

2回目のカイゼン ☆ あさもりのりひこ No.672

5月25日(土)、安藤大さんの「カイゼン」を受けた。

1月2日(水)以来、2回目である。

 

今回は公園の外周を走るので、荷物は全部リュックに入れる。

午後3時20分、服部緑地公園の噴水前に着く。

股関節と肩甲骨の可動域を拡げるストレッチをする。

 

午後3時30分、安藤さんが現れる。

この日、すでに2人のランナーを指導して、朝守が3人目である。

疲れておられるのだろうが、表には出さず、安藤さんは爽やかである。

 

まず、動画を撮影する。

ゆっくり走るところと、はやく走るところをそれぞれ撮影する。

動画を見てランニングフォームをチェックする。

 

これが恥ずかしい。

自分が走る姿を見ると格好悪い。

しかし、安藤さんは、朝守のフォームはいい、とおっしゃる。

やさしい人やね。

 

フォームをチェックすると、腰が上下している。

蹴り上げた脚の引きつけが足りない。

蹴り出した脚がすぐに地面に着かないで、前に出てから着地している。

 

「膝の切り替え」が本日のメインテーマになる。

トレーニング、水分補給、メモ、トレーニング、水分補給、メモの繰り返し。

だいぶ身体を使った。

 

ふたたび、動画を撮影する。

ゆっくり走るところと、はやく走るところを撮影した。

再生してフォームをチェックすると、腰の上下動が少なくなっている。

踏み出した脚も早く着地している。

ランニングフォームが「改善」されたのだ。

 

いよいよ、外周のランニングである。

朝守はランニングウォッチを忘れたので、自分でペースや距離を確認することができない。

さあ、行きましょう!と言って、安藤さんが軽快に走り始める。

朝守は安藤さんの背中(のリュック)を見ながらついていく。

緑地公園の中を走っていると、乗馬クラブがある。

馬を見ると嬉しくなる。

教わったことを意識してフォームを崩さないように走る。

.4㎞を休憩を挟んで2回走った。

1回目は1㎞5分40秒、2回目は1㎞5分50秒のペース。

直前のトレーニングで体力を使っているので、2回目はキツかった。

一人で走るよりも、安藤さんについていく方が、速く楽に走れることがわかった。

 

汗を拭いて、上着を着替える。

朝守は、ランニングシャツの下にドライレイヤーとしてファイントラックのスキンメッシュを着ていた。

安藤さんから、夏場はパーワーメッシュの方がいいと教えてもらう。

 

安藤さんと緑地公園駅まで歩き、改札口で別れる。

日ごろのトレーニングの課題が鮮明になった。

 

3回目の「カイゼン」が楽しみである。

2019年

6月

05日

憲法について(その4) ☆ あさもりのりひこ No.671

憲法の個々の条項については、その適否についていろいろな意見があっても構わないと思います。でも、その憲法がどういう歴史的な過程で、どういう議論を経て制定されていったのかという歴史的事実についてだけは国民的合意があるべきだと思うんです。

 

 

2019年3月31日の内田樹さんの論考「憲法について(その4)」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

戦争経験についての世代的な沈黙というのと対になるかたちで憲法制定過程についての沈黙があります。これも僕は子どもの頃から聞いたことがないのです、その世代からは。学校の教師も、親たちも、近所の大人たちも、憲法制定過程について、どういう制定過程でこの憲法が出来たのかという話を聞いたことがなかった。話題にされているのをかたわらで聴いた記憶さえない。憲法制定は親たち、教師たちの年齢でしたら、リアルタイムで、目の前で起きたことです。1945年から46年にかけて、大人たちは何が起きているか、新聞を読めばだいたいのことは分かったはずです。おそらく、かなりの人が憲法制定過程に関してさまざまな「裏情報」を聴き知っていた。でも、子どもたちには一切伝えなかった。子どもたちはテキストとしての日本国憲法をポンと与えられていて、どういう過程でこれが制定されたのかに関しては何も教えられなかった。

改憲派が随分あとになってから「押し付け憲法」ということを言い出した時には実はびっくりした。子どもの時はそんなこと考えたこともなかったから。憲法が日本人が書いたのか、アメリカ人が書いたのかについて、あれこれの説が憲法制定時点から飛び交っていたということを知ったのは、恥ずかしながらずいぶん大人になってからです。

最初に結婚した女の人のお父さんが平野三郎という当時岐阜県知事だった人でしたけれど、彼は長く衆議院の議員をやっていました。その岳父が、当時はもう70歳を過ぎていましたけれども、酔うと僕を呼んで日本国憲法制定秘話を語るわけです。僕が個人的に、日本国憲法の制定にはみんなが知らない秘密があるという話を聴いたのは彼からが最初です。25歳を過ぎてからです。岳父は議員時代に幣原喜重郎の秘書のような仕事をしていたので、死の床で幣原喜重郎が語ったことを、後に国会の憲法調査会で証言しているんです。九条二項を思いついてマッカーサーに進言したのは幣原さんだと岳父は主張するんです。憲法九条二項は日本人が自分で考えたんだ。押し付けられたものじゃない、と。彼は自民党の代議士ですよ。大野伴睦の派閥に属していたベタな自民党議員でした。その彼が憲法九条二項を書いたのは幣原さんだと切々と訴えるわけです。誰も信じてくれないけれども、と。ほとんど声涙共に落つという感じで。

そういう話を聞いて、どうしてこういう事実がもっとオープンに議論されないのか不思議に思いました。憲法制定過程については、実にいろいろな説が語られているわけです。「藪の中」なんです。でも、憲法というのは国のかたちの根幹を決定するものじゃないですか。その制定過程に関して諸説があるというのはまずいでしょう。歴史的事実として確定しないと。国民全体として共有できる歴史的な事実を確定して、それ以上真偽について議論する必要はない、と。そうじゃないとまずいと思うんです。でも、現代日本では、憲法制定過程に関して、これだけは国民が事実関係に関しては争わないということで共有できるベースがない。

なんでこんなことが起きたのか。それはリアルタイムで憲法制定過程を見ていたはずの世代の人たちが、それについて集団的に証言してくれなかったからです。知っていることを言わないまま、沈黙したまま死んでしまった。

戦中派より上の世代、敗戦の時に40歳、50歳という人たちは銃後にいただけでさきの戦争には行っていません。実際に戦争に行ったのは明治末年から大正年間、昭和初年に生まれた世代です。この戦争を現場で経験したこの人たちが、戦争の現実についての証言を避けた。復員してきた後、結婚して、家庭を作って、市民として生活を始めた。当然、これからの日本はどうなるんだろうということを興味をもってみつめていた。日本の行く末がどうなるか心から案じていた。ですから、国のかたちを決める憲法については、その制定過程だって、日々どうなっているんだろうと目を広げて、日々話し合っていたはずなんです。でも、その過程で「では、憲法はこういうふうに制定されたという『話』を国民的合意として採用しよう」ということがなかった。

日本国憲法には前文の前に「上諭」というものが付いていますが、僕はそれをずっと知りませんでした。上諭の主語が「朕」だということも知らなかった。でも、日本国憲法は「朕」が「公布」しているんです。天皇陛下が「枢密顧問の諮詢」と「帝国憲法73条による帝国議会の議決を経て」日本国憲法を公布している。日本国憲法を公布した主体は天皇なんです。ちゃんと「御名御璽」が付いている。でも、僕らが憲法について教えられた時には、その上諭が削除されたかたちで与えられた。どういう法理に基づいてこの憲法が制定されたかという「額縁」が外されて、テキストだけが与えられた。

憲法の個々の条項については、その適否についていろいろな意見があっても構わないと思います。でも、その憲法がどういう歴史的な過程で、どういう議論を経て制定されていったのかという歴史的事実についてだけは国民的合意があるべきだと思うんです。その合意がなければ、憲法の個別的条項についての議論を始めることはできない。でも、日本人にはその合意がない。憲法制定の歴史的過程は集団的な黙契によって隠蔽されている。

憲法についての試案があったとか、マッカーサー三原則があったとか、GHQの民生局が草案を作って、11日間で草案を作ったとか、いろんな説があって、それについていちいちそれは違うという反論がある。どれかが真実なのか、部分的な真実が諸説のうちに散乱しているのかわかりませんけれど、「これが出発すべき歴史的事実」として国民的に共有されているものがない。

憲法ってわれわれの国の最高法規ですよね。最高法規の制定過程がどういうものだったのかについて国民的な合意が存在しない。マグナカルタでも、人権宣言でも、独立宣言でも、どういう歴史的状況の中で、何を実現しようとして、誰が起草したのか、どういう議論があったのか、どういう風に公布されたかということは歴史的な事実として開示されている。それが当然です。でも、日本国憲法については、それがない。制定過程が隠蔽されたしかたで僕たち戦後世代に憲法は与えられた。それをなんの疑いもなく、天から降ってきた厳然たる自然物のように受け止めて来たのが今や70にならんとしている僕らの世代の人間なんです。ですから、改憲派の人たちに、「こんなもの押し付けられた憲法だ」、「こんなものはGHQの作文だ」と言われるとびっくりしてしまうわけですよ。自然物だと思っていたものがこれは「張りぼて」だと、これは舞台の書き割りのようなものだと言われたわけですから。

 

 でも、この舞台の書き割りを自然物のように見せていたのは、先行世代の作為だったわけです。戦中派世代の悲願だったわけです。「張りぼて」の日本国憲法を、あたかも自然物であるかのように絶対的なリアリティーをもつものとして僕らに提示した。その戦中派の想いを僕は「可憐」だと思うんです。僕には彼らの気持ちがわかる気がする。もうみんな死んでしまいました。父も岳父も亡くなった。大事なことを言い残したまま死んでしまった。だから、僕らはそれに関しては想像力で補うしかない。 

2019年

6月

04日

久々の映画鑑賞その3

みなさん、こんにちわ。

本日は、事務局担当日です。

 

ついこの間まで桜が咲いていた気がしましたが、あっという間に6月になりましたね。

 

さて。

月に2回も映画に行けば「久々の」でもなんでもない気が致しますが。

 

運動会の代休日に子どもと再び映画鑑賞へ行ってきました。

 

私は「キングダム」推し。

子どもは「アベンジャーズ」推し。

映画鑑賞権を賭け、運命のジャンケン3本勝負!

あっさりストレート負けをし、「アベンジャーズ エンドゲーム」に決定(T_T)

ああ、キングダム・・・。

現在上映している映画は、アベンジャーズのシリーズ4作目です。

ということは、予習が必要!というわけで、

1と2は鑑賞済なので、運動会が終わってから大急ぎで3のDVDをみました。

 

といっても、この映画、アメリカのマーベルコミックスのヒーローたちが勢揃いする映画です。

主役級だけでアイアンマン、キャプテン・アメリカ、ハルク、スパイダーマン、

マイティーソー、ホークアイにキャプテン・マーベル、アントマン、ドクターストレンジetc.etc.まだまだいっぱい(-_-;)

関連映画が山ほどありますが、

この4月までどれひとつとして観たことがありませんでした(゚д゚)

 

今年4月に初めて2012年公開のアベンジャーズ(シリーズ1)を観たのですが、

その時点で、アイアンマン1・2やキャプテン・アメリカを観ていないと「・・・?」な点がたくさんあるので、

基本に立ち戻って2008年公開のアイアンマン1を鑑賞。

なかなか面白かったので、そのままアイアンマン2へ。

ガーディアンズオブギャラクシーも観ておかないと、意味不明。

そのあとはとりあえずアベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン(シリーズ2作目)を。

そして、マイティーソーも観なければ、とDVDをレンタル。

それからのアベンジャーズインフィニティウォー(シリーズ3作目)です。

4月から1ヶ月の間、よく頑張りました!(もっと他に頑張ることあるよね・・・)

 

よくよく調べると2008年公開のアイアンマンから

2019年公開アベンジャーズ エンドゲームまで関連作品計22本。

 

あと15本頑張るぞ~!!

 

あ。肝心の映画「アベンジャーズ エンドゲーム」ですが、3時間という長さを感じさせず、とっておも面白かったです(・∀・)

是非予習のうえ、鑑賞を♪

2019年

6月

03日

憲法について(その3) ☆ あさもりのりひこ No.670

何かの時に「先生は戦争行ったことある?」と聞いたら、ちょっと緊張して、「ああ」と先生が答えた。で、僕がさらに重ねて「先生、人殺したことある?」って聞いたら、先生は顔面蒼白になったことがあった。

 

 

2019年3月31日の内田樹さんの論考「憲法について(その3)」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

戦中派は二つのことがらについて沈黙していたと僕は考えています。一つは戦争中における彼ら自身の加害経験についての沈黙。戦争の時の被害経験に関してはずいぶん語られてきましたけれど、加害者として、特に中国大陸や南方において自分たちが何をしたのかについては口を噤んでいた。どういう風に略奪したのか、強姦したのか、拷問したのか、人を殺したのか、そういうことについてはほぼ完全な沈黙を守った。

それは戦争経験文学の欠如というかたちでも現れていると思います。敗戦直後の45年、46年にはほとんど見るべき文学的達成はありません。戦争から帰ってきた男たちが戦争と軍隊について書き出すのはその後です。

最も早いのが吉田満の『戦艦大和ノ最期』で、46年には書き上げられていました。大岡昇平の『俘虜記』が48年。50年代になってからは、野間宏の『真空地帯』、五味川純平の『人間の条件』、大西巨人の『神聖喜劇』といった「戦争文学」の代表作が次々と出てきますけれど、加害経験について詳細にわたって記述した作品は僕の世代は少年時代についに見ることがありませんでした。ただ、僕は戦中派の人たちのこの沈黙を倫理的に断罪することにはためらいがあるのです。かれらの沈黙が善意に基づいたものであることが分かるからです。

ひどい時代だった。ついこの間まで、ほんとうにひどいことがあった。たくさんの人が殺したり、殺されたりした。でも、それはもう終わった。今さら、戦争の時に自分たちがどんなことをしたのかを子どもたちに教えることはない。あえて、そんなことを告白して、子どもたちに憎まれたり、軽蔑されたりするのでは、戦争で苦しめられたことと引き比べて、「間尺に合わない」、彼らはたぶんそう考えたのだと思います。子どもたちには戦争の詳細を語る必要はない。子どもたちに人間性の暗部をわざわざ教えることはない。ただ「二度と戦争をしてはいけない」ということだけを繰り返し教えればいい。戦後生まれの子どもたちは戦争犯罪について何の責任もないのだから、無垢なまま育てればいい。戦争の醜い部分は自分たちだけの心の中に封印して、黙って墓場まで持って行けばいい。それが戦後生まれの子どもたちに対する先行世代からの「贈り物」だ、と。たぶんそういうふうに考えていたのではないかと思います。戦争の罪も穢れも、自分たちの世代だけで引き受けて、その有罪性を次世代に先送りするのは止めよう1945815日以降に生まれた子どもたちは、新しい憲法の下で、市民的な権利を豊かに享受して、戦争の責任から完全に免罪された存在として生きればいい。その無垢な世代に日本の希望を託そう。そういうふうに戦争を経験した世代は思っていたのではないか。そうでなければ、戦中派の戦争の加害体験についての、あの組織的な沈黙と、憲法に対する手放しの信頼は説明が難しい。

例えば僕の父親がどういう人間であるか、僕はよく知っているつもりでいます。筋目の通った人だったし、倫理的にもきちんとした人でした。だから、彼が戦争中にそれほどひどいことをしたとは思わないんです。でも、父は十代の終わりから三十代の半ばまで大陸に十数年いたわけです。でも、戦争中に中国で何をしていたのかは家族にさえ一言も言わなかった。北京の冬が寒かったとか、家のレコードコレクションにクラシックのSPが何千枚あったかとかいう戦争とは無関係な個人的回想も、ある時期から後はぱたりと口にしなくなりました。戦争経験についての黙秘というのは、あの世代の人たちの暗黙の同意事項だったんじゃないかという気がします。

村上春樹がイスラエルでの講演の時に自分の父親の話をしています 。彼の父も京都大学の院生だった時に招集されて中国大陸に行っている。その父が毎朝仏壇に向かって読経をしている。「何してるの」と訊くと、「死んだ人たちのために祈っている。敵も味方もない、戦争で死んだすべての人たちのために祈っている」と答える。けれども、彼自身が中国大陸で何を経験したかに関してはついに死ぬまで一言も言わなかったそうです。

そういう戦争経験についての沈黙というのが世代的な合意としてあったのだと思います。自分たちの戦争犯罪を隠蔽するとか、あるいは戦争責任を回避するといった利己的な動機もあったかもしれません。でも、もっと強い動機は、戦後世代をイノセントな状態で育ててあげたいということだったと僕は思います。そういう「穢れ」から隔離された、清らかな、戦後民主主義の恩恵をゆたかに享受する資格のある市民として子どもたちを育てる。それこそが日本の再生なのだ。この子たちが日本の未来を担っていくのだ。そういう希望を託されてきたという感覚が僕にはあります。それは僕と同年代の人は多分同意してくれると思うのです。

僕が小学校五年の時の担任の先生がその頃で35歳ぐらいでした。もちろん戦争経験がある。その先生が大好きだったので、いつもまつわりついていました。何かの時に「先生は戦争行ったことある?」と聞いたら、ちょっと緊張して、「ああ」と先生が答えた。で、僕がさらに重ねて「先生、人殺したことある?」って聞いたら、先生は顔面蒼白になったことがあった。聞いてはいけないことを聞いてしまったということは子どもにもわかりました。その時の先生の青ざめた顔色を今でも覚えています。大人たちにはうかつに戦争のことを聞いてはいけないという壁のようなものを感じました。

 

 

2019年

5月

31日

憲法について(その2) ☆ あさもりのりひこ No.669

憲法は素晴らしいものである。でも、突っこまれて一番厳しいところは、日本国憲法は日本人が人権を求める戦いを通じて自力で獲得したものではない、ということです。戦争に負けて、日本を占領したアメリカの軍人たちが「こういう憲法がよろしかろう」と判断して、下賜された。日本人が戦い取ったものではない。負けたせいで手に入ったものです。

 

 

2019年3月31日の内田樹さんの論考「憲法について(その2)」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

僕は1950年生まれです。僕にとって日本国憲法はリアルです。それを「空疎」だと思ったことがない。憲法は僕にとって山や海のような自然物と同じようなものだからです。生まれた時からそこにあった。良いも悪いもありません。自然物についてその良否を語らないのと同じです。「憲法を護ろう」というのは、僕たちの世代にとっては、当たり前のことなわけです。それは「大気を守ろう」とか「海洋を守ろう」とかいうのとほとんど変わらないくらい自然な主張に思えていました。

でも、これはあくまで世代の問題なんです。だから、護憲派の人たちに六十代、七十代の人が多い。それが当然なんです。この世代にとっては、憲法は自然物としてのリアリティーがあるからです。でも、若い人は憲法にそのようなリアリティーを感じない。同じ文言であるにもかかわらず、育った年齢によって、その文言のリアリティーにこれほどの差がある。この差はどうして生まれたのか。この差を決定づけたのは戦中派の人たちが身近にいたか、いなかったのかという先行世代との関わりだと僕は思います。

戦中派というと、われわれの世代では、親であったり、教師であったりした人たちです。この人たちの憲法観が僕たちの世代の憲法への考え方を決定づけた。戦中派の憲法理解が、戦後日本人の憲法への関わりを決定的に規定したというが、僕の仮説です。

僕自身は、戦中派であるところの両親や教師たちやから、「とにかく日本国憲法は素晴らしいものだ」ということを繰り返し聞かされてきました。そして、「この憲法は素晴らしいものだ」と言う時に彼らが語る言葉は本当に重々しかったのです。声涙ともに落つという感じで。こんなよい憲法の下で育つことができて、お前たちはほんとうに幸せだ、と深い確信をこめて彼らは語った。その言葉に彼らはほとんどその実存を賭けていた。子どもにもそれは分かります。だから、「この憲法のどこが素晴らしいの?」というような質問は思いもつかなかった。大人たちがこれだけはっきりと、全身全霊をかけて言っている言葉に疑義を差し挟むことなんか、子どもにはできません。  

僕らの子どもの頃、天皇制を批判する人は結構いたんです。学校の先生にもいました。天皇制について、はっきり反対だと言い切る先生はふつうの公立の小学校や中学校に何人もいました。「天ちゃん」というような侮蔑的な言葉遣いで天皇を呼ぶ人もいた。それを咎める人もいなかった。

でも、憲法について批判的なことを言う大人は、僕が子どもの頃には、周りにまったくいなかった。僕自身の個人的な経験から言うと、一人もいなかった。

僕の世代には名前に「憲(のり)」っていう字が入っている男子がたくさんいます。今はもうほとんどいないと思うんですが、1946年の憲法公布から10年間ぐらいは、「憲男」とか「憲子」という名前はそれほど珍しくなかった。この時期だけに特徴的な命名だったと思います。それだけ親の世代が憲法に関して多くのものを期待していた。だから、自分の子どもには憲法の憲の字を背負って一生生きてもらいたいという強い願望をこめた。

ですから、改憲論というものを僕はずいぶん後年になるまで聞いたことがなかったんです。自民党は党是として結党時から自主憲法制定を掲げていたようですが 、憲法を改正することが国家的急務であるというような言説がメディアを賑わせたことなんか、小学生から大学生時代に至るまで、僕はまったく記憶にありません。とくに1960年代末から70年にかけて、僕が高校生大学生の頃は、全共闘運動の時代ですから、改憲論なんて話題にもなりませんでした。活動家たちはブルジョワ民主制を打倒して革命をしようというような話をしている訳ですから、そもそもブルジョワ憲法の良否が政治的議論のテーマとなるはずもない。憲法を護持すべき、あるいは改正すべきだと真剣に語る学生なんか僕はその時代には見たことがないです 。

ところが、ある時期から改憲論が声高に語られるようになって来た。そして、改憲論のほうが護憲論よりもリアリティーを持つようになってきた。若い世代において顕著だったと思います。ある時期から、護憲論を聞いてもそんな空疎な議論は聞きたくないという冷たい目を向けてくるようになった。そう言われると、確かに空疎な気がするんですね、護憲論というのは。

憲法は素晴らしいものである。でも、突っこまれて一番厳しいところは、日本国憲法は日本人が人権を求める戦いを通じて自力で獲得したものではない、ということです。戦争に負けて、日本を占領したアメリカの軍人たちが「こういう憲法がよろしかろう」と判断して、下賜された。日本人が戦い取ったものではない。負けたせいで手に入ったものです。

 

ところが、僕自身はそんなふうに思ったことがなかったのです。だって、生まれた時からあったわけですからね、憲法は。自然物として、あった。それが日本国民の闘いを通じて獲得されたものではないということは、歴史的事実としては知っていました。にもかかわらず、それを実感したことはなかったんです。なぜかというと、戦中派世代の人たちが、憲法の制定過程に関してほぼ完全に沈黙していたからです。日本側とGHQとの間で、どういう駆け引きがあって、どういうプロセスでこのような文言に定まったのか、僕たちには何も説明がなかった。

2019年

5月

30日

UTMFサポート(番外編) ☆ あさもりのりひこ No.668

2019年4月27日(土)午後3時、UTMF(ウルトラトレイル・マウントフジ)は終了した。

 

A6忍野(114㎞)でサポートするランナーを「回収」した。

彼女は「温泉に入りたい」という。

途中見かけた「紅富士の湯」という温泉施設に向かう。

10連休の初日で混雑してる。

ゆっくり湯に浸かって、ランナーもサポーターも疲れを癒やす。

UTMFのランナーと覚しき人々を何人か見かけた。

 

宿に帰って、ゆっくりと夕飯をいただく。

とりあえず、ぐっすり眠る。

 

翌28日(金)午前9時30分から大池公園で閉会式がある。

宿を出て、歩いて大池公園に向かう。

実行委員長の鏑木毅さんから、中止になった状況について報告がある。

レースは中止になったが、A5勝山以降は、辿り着いたエイドまでの完走を認める、という。

つまり、サポートしたランナーは、A6忍野までの114㎞のレースを完走した、ということである。

 

閉会式のあと、宿に戻って、プリウスαを返しに行く。

宿のご主人と奥様に「ほうとう」がおいしい店を尋ねる。

「甲州ほうとう 小作」がいい、と言う。

「甲州ほうとう 小作」まで歩く。

歩く間に、右腕が痛くなってくる。

サポートしている間は痛みを忘れていたが、サポートが終わって気が緩むと痛みが戻ってきた。

「甲州ほうとう 小作」は混んでいる。

「ロキソニン」を1錠持っていたので、待ち時間に飲んで痛みを止める。

本当は飲みたくないのだが、痛くて我慢できないので、やむを得ない。

「ほうとう」は大きく切った野菜がたっぷり入った鍋で、太いうどんが特徴である(写真のとおり)。

おいしかった。

 

昼食後、河口湖美術館まで歩いて行き、富士山の絵をたくさん観る。

 

翌朝、朝飯をいただいて、宿のご主人にJR河口湖駅まで車で送っていただく。

宿のご主人と奥さんにはたいへんお世話になった。

感謝である。

富士急バスでJR河口湖駅からJR三島駅まで移動する。

右腕が傷むので、彼女の息子に「バファリン」を買って来てもらって、飲む。

こだまの車内で、レース中にエイドで食べなかった補給食を昼飯に喰う。

京都駅で近鉄特急に乗り換えて、大和八木駅で降りる。

なんとか右腕が動くので、アルファードを運転して帰宅した。

荷物を置いて、右腕が痛むので、接骨院に行った。

 

初めてサポートを経験して、改良点がいくつもある。

補給食の量は半分でいい。

補給食は、すぐに食べることができる状態で用意すべきである。

バスタオルは3、4枚必要だ。

大きめの折り畳み椅子があったほうがいい。

その他、いろいろ・・・

 

 UTMF(ウルトラトレイル・マウントフジ)の運営に関しては、参加人数が問題である。

2400人ものランナーが出場したので、初っ端から「大渋滞」が発生した。

「大渋滞」で進めないことから、3時間もロスした。

そのために、ランナーは、途中で仮眠を取る時間を奪われた。

必要以上の眠気と戦いながら、心理的には制限時間に追われる状態で、レース後半に望まざるを得ないという過酷な状況に追い込まれたのである。

 

UTMFは制限時間が46時間であり、100マイルレースとしては制限時間が長い。

これは、一部のトップランナーだけでなく、より多くのトレイルランナーが100マイルレースを経験(完走)できるように配慮した結果だと聞いている。

しかし、2400人もの出場を認めたことから、大部分のランナーに「大渋滞」による精神的にも肉体的にも過酷なレースを強いる結果になってしまった。

ろくに仮眠も取れないで走り続けなければならないのでは、46時間が、完走できる時間ではなくて、苦痛が長く続くだけの時間になりかねない。

 

では、どうすべきか?

UTMB(ウルトラトレイル・デュ・モンブラン)を範とするのであれば、STYを復活して、STY800人、UTMF800人で、日を別にして開催すべきである。

余計なストレスのない大会にしてほしい。

 

UTMFが名実ともに世界的なウルトラトレイルランニングの大会となることを心から願う。

2019年

5月

29日

憲法について(その1) ☆ あさもりのりひこ No.667

憲法は書かれたらそれで完成するものではありません。憲法を完成させるのは、国民の長期にわたる、エンドレスの努力です。そして、その努力が十分でなかったために、日本国憲法はまだ「受肉」していると呼ぶにはほど遠い。

 

 

2019年3月31日の内田樹さんの論考「憲法について(その1)」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

2018年の5月に日仏会館で憲法についての講演を行った。

護憲派はなぜ「弱い」のかという問題について考察した。この日は憲法学の泰斗である樋口陽一先生も客席にいて、ずいぶん緊張した。さいわい、講演後の打ち上げでビールを酌み交わしながら、「おもしろいお話でした」と言って頂いて、ほっとした。

 

今晩は。ご紹介いただきました内田です。

錚々たる憲法学者の方たちが例年憲法講演会をされているところで、私のような何の専門家かわからない人間が登壇するというのは、まことに申し訳ないことです。

時々改めて「あなた、何の専門家なの」って訊かれると、いつも返答に窮します。専門がないんです。いろんな分野に手を出して、いろいろな論点について一知半解のコメントをしているだけなので、ちょっと専門家に突っこまれると、すぐにしどろもどろになってしまう。

でも、せっかく手を拡げている以上、どのトピックについても「その分野の専門家が誰も言っていそうもないことを言う」ということを原則にしています。他の人がすでに言っていること、その領域では「常識」として共有されていることを僕が繰り返しても意味がありませんから。せっかく発言の機会を頂いたら、どんな分野のことでも、「まだ誰も仰っていないこと」を言う。そういう方針でおります。

ですから、憲法についても、「誰も言わないこと」を選択的に語ってきたのですけれども、最近は同じような意見を言って下さる方がだんだん増えてきました。僕が言わなくても言ってくださるのでしたら、わざわざ僕が出てくる必要はありません。白井聡さんなんかの書かれたものを読んでいると、「そう、その通りだ」と膝を叩いてしまいます。僕よりもはるかに見事に現状を分析しているので、こういう仕事はそういうできる人に任せて、僕はもっと違う分野に移動する時期かなとも思っております。それでもまだ僕や白井さんのような立場は圧倒的に少数意見ですので、当面は共同戦線を張って戦ってゆくつもりでいます。

 

僕が憲法に関して言いたいことはたいへんシンプルです。それは現代日本において日本国憲法というのは「空語」であるということです。だから、この空語を充たさなければいけない、ということです。

日本国憲の掲げたさまざまな理想は単なる概念です。「絵に描いた餅」です。この空疎な概念を、日本国民であるわれわれが「受肉」させ、生命を吹き込んでゆく、そういう働きかけをしていかなければいけないということです。

憲法は書かれたらそれで完成するものではありません。憲法を完成させるのは、国民の長期にわたる、エンドレスの努力です。そして、その努力が十分でなかったために、日本国憲法はまだ「受肉」していると呼ぶにはほど遠い。というのが僕の考えです。

もう一つ長期的な国民的課題があります。それは国家主権の回復ということです。

日本はアメリカの属国であって国家主権を持っていない。その国家主権を回復するというのはわれわれの喫緊の国家目標です。これはおそらく百年がかりの事業となるでしょう。これもまた日本国民が引き受けなければならない重い課題です。

そして、国家主権の回復という国民的事業を一歩ずつでも前に進めるためには、「日本国民は今のところ完全な国家主権を持っていない」という痛ましい事実を認めるところから始めなければいけません。

日本はアメリカの属国です。安全保障であれ、エネルギーであれ、食糧であれ、重要な国家戦略についてわれわれは自己決定権を有していない。この事実をまず国民的に認識するところから始めなければいけません。けれども、現在の政権を含めて、日本のエスタブリッシュメントはそれを認めていない。日本はすでに完全な国家主権を有しているという「嘘」を信じているか、信じているふりをしている。すでに国家主権を有しているなら、アメリカの属国身分から脱却するための努力の必要性そのものが否定される。この重篤な病から日本人が目覚めるまで、どれくらいの時間が要るのか、僕には予測できません。恐ろしく長い時間がかかることは間違いありません。

 

最初に「憲法は空語である」という考え方について、少しご説明を申し上げておきます。

憲法集会では、いろいろな団体に呼ばれます。もちろん、呼んでくれるのはどこも護憲派の方たちです。今日はちょっと違うようですが、護憲派の集会へ行くと、客席の年齢層が高いんです。ほとんどがお年寄りです。平均年齢はたぶん七十歳くらい。若い人はまず見かけることがありません。日頃から、駅頭でビラを撒いているの方たちもそうです。地域の市民たちが文字通り「老骨に鞭打つ」という感じで情宣活動をしたり、護憲派集会の会場設営の力仕事をされている。若い人が来ないんです。どうしてこんな老人ばっかりなんだろう。どうして日本の護憲派の運動は若い人に広がらないのか。

それはどうやら、若い人たちはむしろ改憲派の言説の方にある種のリアリティーを感じているかららしい。改憲派の言葉の方に生々しさを感じる。そして、護憲派の言説は「空疎」だという印象を持っている。どうして護憲派の言説にはリアリティーがないのか。

 

 

2019年

5月

28日

あいにくの雨ですが@事務局より

皆さんこんにちは。今日は事務局担当日です。

 

5月も終わりに近づき,大和八木駅付近のツバメもずいぶん成長し,

巣立ちの時も近づいています。

気象庁が発表した3ヶ月予報では,6月は例年よりも暑くなる予想です。

まだ暑さに身体が慣れていない状態なので,熱中症には気をつけて下さいね。 

さて,今日は朝からあいにくの雨模様です。

いつもなら,なんとなく憂鬱な気持ちで出勤するのですが今朝は少し違います。

 

通勤電車の車中で,検札に回ってきた車掌さんが,座っていた席の横の通路で

突然しゃがみこみました。

 

何か落ちていたのかなと思っていたら,通路に何かの液体がこぼれている事に

気付き確認していたようです。

私や通路の反対側のお客さんに足元が汚れていないか確認した上で,

ささっとおしぼりを使って床を拭き始めました。

 

私は言われてから通路が濡れていたことに気が付いたのですが,

今日は雨だし,次に乗車するお客さんの傘などですぐ足元が濡れるだろうに,

そのままにしておかないこの車掌さんに心の中で拍手!

 

相手を思いやるおもてなしの心。

 

時間にしたらほんの2,3分のことですが,気遣いが嬉しいですよね。

今朝は朝から少しほっこりいい気分♡で出勤できました(*^_^*)

 

近鉄さん,ありがとうございます♪

 

2019年

5月

27日

「日本人にとって聖地とは何か」あとがき ☆ あさもりのりひこ No.666

「聖地」には強い力があります。だからこそ、人間はそれに惹きつけられる。

でも、「超越的なもの」は当然ながら人間的射程を絶している。その霊的な法外さを人間に対応できる枠内にとどめるために人間たちが思いついたのが「俗化」という手立てだった

 

 

2019年3月28日の内田樹さんの論考「「日本人にとって聖地とは何か」あとがき」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

みなさん、こんにちは。内田樹です。

「聖地巡礼」シリーズも四作を重ねました。タイトルも「ビギニング」「ライジング」「リターンズ」そして、「コンティニュード」って、ほとんど『バットマン』ですね。

ただ、これは釈先生や僕や巡礼部の諸君の趣味ではなくて、東京書籍の方で撰したタイトルですので、「どういう順番で出たのかわかんないよ」というご不満をお持ちの読者のかたもいると思いますけれど、どうかご海容ください。

本書はいつもの「聖地巡礼」ではありません。茂木健一郎、高島幸次、植島啓司という脳科学、歴史学、宗教学の碩学諸兄に凱風館においで頂き、釈先生と僕と巡礼部の諸君とで、ご高説を伺い、その話に触発されて、談論風発、話頭は転々奇を究め・・・という愉しい結構のものであります。読者のみなさんも、その場を領していた暖かくて、わくわくした雰囲気を感じ取ってくださったらうれしいです。

「あとがき」に代えて、聖地巡礼というプロジェクトについて、最近思うことを書いておきたいと思います。

このプロジェクトが本格的に始動したのは2011年の東日本大震災と原発事故のあとだったと思います。

震災の災禍を前に言葉を失った日本人の多くは「これまでのような浮ついた生き方を改めて、もっと地に足の着いた生き方をしないといけない」と感じた。そして、以後、さまざまな人たちによって、さまざまなかたちで、「地に足の着いた生き方」の探求が始まりました。僕はそんなふうに「ポスト3・11」直後の時代の気分を記憶しています(残念ながら、その「気分」はそれほど長くは続きませんでしたが)。

この聖地巡礼も、そのときの「地に足の着いた生き方」の探求・再発見という、国民的規模での企ての一つの露頭ではないかと思います。事実、「聖地巡礼」やそれに類するタイトルの書籍はAmazonのカタログでは数十冊を数えることができますが、そのほぼすべてが2011年以降のものです。

「聖地」も「巡礼」も普通名詞です。新造語でもないし、特殊なテクニカルタームでもありません。でも、その言葉がある時期から強いインパクトを持って流通するようになった。

僕たちの聖地巡礼が書籍シリーズ化したのも、おそらく日本全体を巻き込んだこの集団心理的な転向の中での出来事だったと思います。

でも、実際にはそれよりだいぶ前に、釈先生と僕はややフライング気味に聖地巡礼をスタートさせていました。

釈先生をお招きして、神戸女学院大学で「現代霊性論」という共同講義をしたのは2005年度の学期のことです。半年間、ふたりで掛け合い漫才のようにさまざまな宗教的トピックを論じた後、学期終了後に釈先生のご提案で、バスを仕立てて、京都を訪れました。(東寺の立体曼荼羅と三十三間堂の千手観音を拝観して、南禅寺で湯豆腐を頂くという愉快な遠足でした)。

その遠足がとても楽しかったので、「これ、定期的にやりましょう」ということに話が決まり、さらに2011年秋に凱風館が竣工して、門人たちが「巡礼部」を結成したことで、「巡礼」気分が一気に盛り上がり、数十人規模での聖地巡礼が定例化し、気がつけば書籍化されていた・・・という流れになりました。

釈先生も僕もそれぞれの仕方で「霊的なものの切迫」については専門家です(釈先生は僧侶かつ宗教学者として、僕は武道家かつレヴィナスの「弟子」として)。ですから、久しく「霊的感受性の涵養」のたいせつさについて説いてきました。でも、そういう理説に耳を傾けてくれる人は、知識人の中にはなかなか見出し難かった。そういう書物を求める読者たちも少数にとどまっていました。

でも、ある時点から、潮目が変わりました。

「聖地巡礼」がいきなり一種の流行になったのです。

それはたしかに日本人の集団心理の「転向」の徴候であり、その限りではていねいな分析を要請していると思います。けれども、気をつけないといけないのは、こういうものはほんとうにたちまちのうちに「俗化」「陳腐化」するんです。おそらく、もうすでに読者たちの中には「聖地巡礼か・・なんか、その手のものにはもう飽食したわ」というような感触を持ち出した人もいるんじゃないかと思います。

それがいけないと言っているわけじゃないんです。そういうものなんです。というか、それでいいんだと思います。

かつて大瀧詠一さんは「聖地はスラム化する」という名言を残されましたが、ほんとにそうなんだと思います。前に華厳の滝に行ったときに、滝そのものの恐るべき霊的迫力と、それを囲む土産物屋のこれまた恐るべき俗悪さの対比に驚いたことがあります。でも、しばらく考えて、それは「超越的なもの」を慰撫するために、人間たちが創り出した巧妙な仕掛だということに気がつきました。

「聖地」には強い力があります。だからこそ、人間はそれに惹きつけられる。

でも、「超越的なもの」は当然ながら人間的射程を絶している。その霊的な法外さを人間に対応できる枠内にとどめるために人間たちが思いついたのが「俗化」という手立てだった、と。僕はそんなふうに考えるようになりました。

僕たちが訪れる先が「聖地」と呼ばれるにふさわしいものであるなら、本来なら人間の賢しらをもって容易に接近し、理解し、制御することを許さない場所であるはずです。聖地である以上、そうでなければ困る。

でも、それでもなお「聖地」からわれわれを霊的に賦活する力を引き出そうと願うなら、「聖地を慰撫する人間的な仕掛け」というものが必要になります。華厳の滝におけるお土産物屋の群れのようなものが必要になる。

そう思って振り返ると、僕たちの「聖地巡礼」も、これまで「遠足」や「物見遊山」というスタイルを一貫して守り続けてきました。釈先生と僕との対話も、「真面目過ぎるもの」にならないようにしようという黙契があったように思います(釈先生も僕も真面目に話そうと思えば、かなり真面目な話ができる人間なんですよ、実は)。僕たちの「巡礼」の旅と、聖地をめぐる対話も、一種の「俗化」であり、「聖なるものの人間的サイズへの縮減」だったと思います。

でも、それを「俗だね」と鼻先で笑われても困るんです。

それを言ったら、聖像を作ることも、伽藍を建設することも、人間の言葉で祈ることも、ぜんぶ「俗」なものだと言うことになる。

あらゆる巡礼の旅は、巡礼者たちにとって「観光旅行」「物見遊山の旅」という裏面を持っている。それが聖地への旅の必然なのではないかと思います。聖地巡礼は必然的に物見遊山の旅になる。すべての霊的行為はそういう人間的頽落をこうむる宿命にある。むしろ、霊的な緊張と、人間的な弛緩が共存する経験のうちに「聖地巡礼」という複雑な営みの本質は存するのではないか。そんな気がするのです。

思えば、最初の聖地巡礼のときに、釈先生のような場数を踏んできた宗教者が「参詣のあとは南禅寺で湯豆腐で昼酒」という愉悦的なコースを構想されたことに深い必然性があったということにそのとき気づくべきでした(今ごろ気づいてもちょっと遅い)。

霊的な緊張を求める行為は、それを弛緩させる「人間的なもの」の介入と表裏一体をなしている。二つは対になってはじめて機能する。そこに宗教者たちの見識は示されるのではないか。僕には何となくそんな気がするのです。

僕が尊敬するイスラーム法学者の中田考先生はTwitterの「プロフィール」にこんな自己紹介を書いています。

「イスラーム学徒、放浪のグローバル無職ホームレス野良博士ラノベ作家、老年虚業家、『カワユイ(^◇^)金貨の伝道師』、『皆んなのカワユイ(^◇^)カリフ道』家元、プロレタリア革命戦士(労働英雄)、食品衛生管理責任者、TikToker、ネズミハウスの食客。イスラームの話は殆どしませんが、全てはイスラームの話です。」

中田先生は敬虔なイスラーム信者です。そして、その教えを厳密に守っておられる。でも、そのおのれの峻厳な宗教的実践を形容するときに選んだ語が「カワユイ(^◇^)」や「プロレタリア労働英雄」というような「俗な」語であることに僕はむしろ中田先生の宗教者としての成熟を感じるのです。おそらく中田先生が感知している「超越的なもの」の切迫は、人間的な「とりなし」抜きには、ある種の確信犯的な「俗化」抜きには、われわれに伝えることができない境位のものなのです。

「聖地はスラム化する」「超越的なものは俗化によってとりなされる」ということが釈先生とのこの「聖地巡礼」の経験を通じて、僕が見出したひとつの教訓です。

以上が「最近はこういうことを考えるようになった」という話です。「だから、どうした」というような話ですけれど、まあ、そういうことを考えていますということです。はい。

皆さんにはまた次の「聖地巡礼」でお会いしましょう。

最後になりましたが、遠路お運びの上、貴重なご講話を賜りました茂木健一郎、高島幸次、植島啓司のお三方に改めてお礼を申し上げます。

いつもご迷惑をかけてばかりの東京書籍の植草武士さんの雅量とご配慮にも伏して感謝申し上げます。

巡礼部の諸君、これからもどうぞ聖地巡礼の旅を盛り建ててくださいね。ご支援よろしくお願いします。

そして、釈徹宗先生、ひとえに先生の徳と法力に守られているおかげで「聖地巡礼」は成り立っています。心から感謝申し上げます。これからもどうぞわれわれをお導きください。よろしくお願い致します。

2019年2月

 

内田樹

2019年

5月

24日

比較敗戦論のために(その9) ☆ あさもりのりひこ No.665

ミッドウェー海戦で、帝国海軍は主力を失って、あとはもう組織的抵抗ができない状態でした。戦い続ければ、ただ死傷者を増やすだけしか選択肢がなかったのに、「攻むれば必ず取り、戦へば必ず勝ち」というような、まったく非科学的な軍事思想に駆動されていたせいで、停戦交渉という発想そのものが抑圧された。

 

 

2019年3月20日の内田樹さんの論考「比較敗戦論のために」(その9)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

国力とは国民たちが「自国は無謬であり、その文明的卓越性ゆえに世界中から畏敬されている」というセルフイメージを持つことで増大するというようなものではありません。逆です。国力とは、よけいな装飾をすべて削り落として言えば、復元力のことです。失敗したときに、どこで自分が間違ったのかをすぐに理解し、正しい解との分岐点にまで立ち戻れる力のことです。国力というのは、軍事力とか経済力とかいう数値で表示されるものではありません。失敗したときに補正できる力のことです。それは数値的には示すことができません。でも、アメリカの「成功」例から僕たちが学ぶことができるのは、しっかりしたカウンターカルチャーを持つ集団は復元力が強いという歴史的教訓です。僕はこの点については「アメリカに学べ」と言いたいのです。日本の左翼知識人には、あまりアメリカに学ぶ人はいません。親米派の学者たちも、よく見ると、まったくアメリカに学ぶ気はない。アメリカに存在する実定的な制度を模倣することには熱心ですけれど、なぜアメリカは強国たりえたのかについて根源的に考えるということには全く興味を示さない。アメリカの諸制度の導入にあれほど熱心な政治家も官僚も、アメリカにあって日本に欠けているものとしてまずカウンターカルチャーを挙げる人はいません。連邦制を挙げる人もいない。でも、アメリカの歴史的成功の理由はまさに「一枚岩になれないように制度を作り込んだ」という点にあるのです。でも、日本のアメリカ模倣者たちは、それだけは決して真似しようとしない。

ほかにもいろいろ言いたいことはありますけれど、すでに時間を大分超えてしまったので、この辺で終わります。ご静聴ありがとうございました。

 

【Q&A】

姜 今日のお話を聞いていて、どういう「物語」をつくるかということが最大のポリティクスになっている気がします。内田さんの比較敗戦論は、我々のパースペクティブを広げてくれました。韓国や中国では日本例外論、単純にドイツと日本を比較して日本はだめなんだ、だから我々は日本を半永久に批判していい、そういう理屈立てになりがちです。そのときに内田さんの比較敗戦論をもちいてみると、我々のブラインドスポットになっている部分がよく見えてくる。解放の物語の自己欺瞞みたいなところも見えてくる。ところが、安倍さんのような人が出てくると、逆に、かつて自分たちが植民地であった、侵略をされた国は、ますます解放の物語を検証することをやらなくて済んでしまいますね。

内田 イージーな物語に対してイージーな物語で対抗すれば、どちらもどんどんシンプルでイージーな話に落ち込んでしまう。実際の歴史的な事件は「善玉と悪玉が戦っている」というようなシンプルな話ではないんです。さまざまな人たちが複雑な利害関係の中でわかりにくい行動を取っている。うっかりすると、本人たち自身、自分たちがどういう動機で行動しているのか、いかなる歴史的な役割を果しているのか、わかっていないということだってある。それが歴史の実相だろうと思います。ですから、それをありのままに淡々と記述していく。軽々には評価を下さない。わかりやすいストーリーラインに落とし込むという誘惑にできる限り抵抗する。そういう歴史に対する自制心が非常に大事になると思います。

こういう仕事においては、歴史を叙述するときの語り口、ナラティブの力というのが大きいと思うんです。最近、読んだ本の中でフィリップ・ロスの小説『プロット・アゲンスト・アメリカ──もしもアメリカが...』(柴田元幸・訳、集英社、二〇一四年)がとても面白かった。これは一九四〇年の米大統領選挙でルーズベルトではなく、共和党から出馬した大西洋単独飛行の英雄チャールズ・リンドバーグ大佐がヨーロッパでの戦争への不干渉を掲げて勝利してしまうという近過去SFなんです。現実でも、リンドバーグは親独的立場で知られていて、ゲーリングから勲章を授与されてもいます。ロスの小説では、アメリカに親独派政権が誕生して、ドイツと米独不可侵条約を、日本とは日米不可侵条約を結ぶ。そして、アメリカ国内では激しいユダヤ人弾圧が起きる・・・という話です。

僕はナラティブというのは、こういうSF的想像力の使い方も含むと思います。もし、あのときにこうなっていたらというのは、ほんとうに大事な想像力の使い方だと思う。

フィリップ・K・ディックの『高い城の男』(浅倉久志・新訳 早川書房、原著一九六二年)というSFがあります。これは枢軸国が連合国に勝った世界の話です。日独がアメリカを占領している。東海岸がドイツ占領地で、ロッキー山脈から西側が日本の占領地。そういう場合に、日本人はアメリカをどういうふうに植民地的に統治するのか、それを考えるのは実は非常に大事な思考訓練なんです。実際に日本がアメリカ西部を安定的に統治しようとしたら、日本の価値観とか美意識とか規範意識を「よいものだ」と思って、自発的に「対日協力」をしようと思うアメリカ人を集団的に創り出すしかない。ドイツがフランスでやったのはそういうことでした。でも、日本の戦争指導部にそのようなアイディアがあったと僕は思いません。

アメリカの方は、日本に勝った後にどうやって占領するかの計画を早々と立案していた。日本人のものの考え方とか組織の作り方とかを戦時中に民族学者に委託して研究しています。卓越した日本人論として今も読み継がれている『菊と刀』はルーズベルトが設置した戦争情報局の日本班のチーフだったルース・ベネディクトが出した調査報告書です。日本社会を科学的に研究して、どういう占領政策が適切かを戦争が終わる前にもう策定していた。

果たして日本の大本営にアメリカに勝った後、どうやってアメリカを統治するか、何らかのプランがあったでしょうか。どうやって対日協力者のネットワークを政治家や学者やジャーナリストやビジネスマンの中に組織するかというようなことをまじめに研究していた部門なんか日本の軍部のどこにも存在しなかったと思います。戦争に勝ったらどうするのかについて何の計画もないままに戦争を始めたんです。そんな戦争に勝てるはずがない。

僕のSF的妄想は、一九四二年のミッドウェー海戦の敗北で、これはもう勝てないなと思い切って、停戦交渉を始めたらどうなったかというものです。史実でも、実際に、当時の木戸幸一内大臣と吉田茂たちは、すでに講和のための活動を始めています。近衛文麿をヨーロッパの中立国に送って、連合国との講和条件を話し合わせようという計画があった。もし、この工作が奏功して、四二年か四三年の段階で日本が連合国との休戦交渉に入っていれば、それからあとの日本の国のかたちはずいぶん違ったものになっただろうと思います。

ミッドウェー海戦で、帝国海軍は主力を失って、あとはもう組織的抵抗ができない状態でした。戦い続ければ、ただ死傷者を増やすだけしか選択肢がなかったのに、「攻むれば必ず取り、戦へば必ず勝ち」というような、まったく非科学的な軍事思想に駆動されていたせいで、停戦交渉という発想そのものが抑圧された。

この時点で戦争を止めていれば、本土空襲もなかったし、沖縄戦もなかったし、原爆投下もなかった。300万人の死者のうち、95%は死なずに済んだ。民間人の死傷者はほぼゼロで済んだはずです。ミッドウェーは日本軍の歴史的敗北でしたけれど、死者は3000人に過ぎません。ほとんどの戦死者(実際には戦病死者と餓死者でしたが)はその後の絶望的、自滅的な戦闘の中で死んだのです。

空襲が始まる前に停戦していれば、日本の古い街並みは、江戸時代からのものも、そのまま手つかずで今も残っていたでしょう。満州と朝鮮半島と台湾と南方諸島の植民地は失ったでしょうけれど、沖縄も北方四島も日本領土に残され、外国軍に占領されることもなかった。四二年時点で、日本国内に停戦を主導できる勢力が育っていれば、戦争には負けたでしょうけれど、日本人は自分の手で敗戦経験の総括を行うことができた。なぜこのような勝ち目のない戦争に突っ込んで行ったのか、どこに組織的瑕疵があったのか、どのような情報を入力し忘れていたのか、どのような状況判断ミスがあったのか、それを自力で検証することができた。戦争責任の徹底追及を占領軍によってではなく、日本人自身の手で行えた可能性はあった。日本人が自分たちの手で戦争責任の追及を行い、憲法を改定して、戦後の日本の統治システムを日本人が知恵を絞って作り上げることは可能だった。

 

「もしミッドウェーのあとに戦争が終わっていたら、その後の戦後日本はどんな国になったのか」というようなSF的想像はとてもたいせつなものだと僕は思います。これはフィクションの仕事です。小説や映画やマンガが担う仕事です。政治学者や歴史学者はそういう想像はしません。でも、「そうなったかもしれない日本」を想像することは、自分たちがどんな失敗を犯したのかを知るためには実はきわめて有用な手立てではないかと僕は思っています。「アメリカの属国になっていなかった日本」、それが僕たちがこれからあるべき日本の社会システムを構想するときに参照すべき最も有用なモデルだと思います。

2019年

5月

23日

UTMFサポート(後編) ☆ あさもりのりひこ No.664

2019年4月27日(土)、UTMF(ウルトラトレイル・マウントフジ)の2日目である。

 

宿からA4精進湖民宿村に向かってプリウスαを走らせる。

夜明け前で辺りは暗い。

道路の舗道に光が見える。

何だろうと思っていると、ランナーたちである。

みなヘッドライトを付けて走っているのだ。

真っ暗な上り坂をヘッドライトの灯りが延々と続いている。

一晩走り続けてきたのだ。

すごい!

 

A4精進湖民宿村は78㎞地点である。

小学校の跡地がサポートエリアになっている。

校舎の壁際にシートを敷いて、荷物を置く。

雨は上がった。

富士山が見える。

 

夜明けで身体が冷えているだろうから、暖かい粥を用意する。

サポートエリアによっては、火気の使用が許されているところがある。

A4精進湖民宿村は火気を使用できるので、カセットコンロや登山用の小さなコンロで食べ物や飲み物を温めているサポーターが散見される。

朝守は防災用品である加熱袋を用意していた。

厚手のビニール袋に、乾燥剤のような袋を入れ、食品を入れて、水を加えると暖まる、というものである。

乾燥剤のような薬剤を入れて、粥のパックを入れて、水を加えて、ビニール袋を綴じると、上部に穿たれた穴から勢いよく湯気が噴き出していくる。

けっこう湯気が吹き出るので、周りのサポーターの人々が「なんや?」という目でこっちを興味深げに見ている。

20分ほどで粥は熱々になった。

 

待つこと3時間、サポートするランナーが現れる。

まだ、元気そうである。

椅子に座らせて、バスタオルを肩に掛け、粥を渡す。

美味しそうに食べている。

宿で淹れた暖かい「柿の葉茶」を飲ませる。

ザックのゴミを捨て、飲み物をチェックする。

彼女は、粥をワンパック平らげてしまった。

電池を探したがバッグのどこに入れたのか見つからない。

すぐには必要ないので、見つけるか、買うか、することにする。

35分ほどで彼女は出発した。

後で聞いた話しによると、一晩寝ていないところに、暖かい粥をたっぷり食べたので、彼女はこの後、猛烈な「眠気」に襲われたそうである。

 

帰りにコンビニで朝飯の食糧を買う。

UTMFと書かれたチョッキを着たスタッフの女性が買い物をしている。

挨拶すると、一晩中、山に立ってコースの案内をしていたそうで、これからA5勝山に行くという。

 

一旦、宿に戻ると、朝食を用意してくれるという。

ありがたく朝食をいただく。

彼女の息子が、残ったご飯を「おにぎり」にする。

コンビニで買った食糧は昼飯にする。

荷物を全部、部屋に持って上がって、チェックして整理する。

電池はバッグの隅に見つかった。

 

午前9時30分くらいに宿を出て、A5勝山に向かう。

宿から一番近いエイドである。

10分ほどでA5勝山に着いたが、渋滞している。

え?

渋滞でほとんど車が動かない。

サポートするランナーから電話が入る。

「どこにいてんの!」

ヒェ~、ということで、彼女の息子が荷物を持ってサポートエリアに走る。

小学校の校庭が駐車場で、校庭の半分くらいに車が駐めてある。

しかし、小学校の周りを一周しても入り口がない!

しかたがないので、大会関係者用の駐車場の列に並ぶ。

あと1台で駐車できるところまできて、大会スタッフのおじさんから、サポーター用の駐車場に駐めるように促される。

小学校に駐めたいが入り口がないことを告げると、おじさんは小学校の方向へ走っていった。

おじさんは、ほどなく戻ってきて、入れるように言ってきた、という。

大会関係者用の駐車場を出て、小学校へ行くと、別のスタッフがいて、小学校の校庭は半分しか借りていないので、これ以上駐められない、という。

やれやれ。

仕方がないので、あてもなくソロソロと彷徨っていると、広い道路の脇に解体されたガソリンスタンドの跡地がある。

ロープも何も張っていない。

短時間駐車させてもらうことにする。

 歩いてサポートエリアまで行くと、彼女の息子がサポートを終えて、荷物をまとめて待っていた。

わがランナーは「おにぎり」をうまそうに食べて、出発したという。

少し弱気になっていたので、励まして送り出したそうな。

 

 A5勝山を午前11時30分ころに出て、A7山中湖きららに向かう。

午前12時すぎにはA7山中湖きららに着く。

どんよりと曇っている。

駐車場にプリウスαを駐めて、車内で昼飯を喰う。

 サポートするランナーが来るまで、まだだいぶ時間があるので、少し眠ることにする。

  

午後3時ころに目覚めると、フロントガラスに白いものが当たっている。

雪だ!

 ガラスが曇っているのでデフロスターをかけるが、曇りは取れない。

雪はやがて雨に変わった。

 車を出て、傘を差して、雨の降る中を、トイレを使うついでに、サポートエリアの様子を見に行く。

  

サポートエリアに近づくと誰かが拡声器で何かしゃべっている。

よく聞き取れないので、サポーターやスタッフがたむろしているところに行って様子を窺う。

「中止だって」

という言葉が耳に入る。

すぐに意味が理解できない。

天候が悪化して、A8二十曲峠から杓子山が積雪で危険なのでレースは中止された、ということらしい。

 

急いで車に戻ると、彼女の息子はレースの中止を知っていた。

 彼女から電話があり、レースが中止になって、A6忍野にいるので迎えに来てほしい、ということだ。

資料でA6忍野の場所を確認して、ナビに打ち込んで、A6忍野へ向かう。

 

午後4時ころ、A6忍野に着くが、ここは本来サポートが許可されていないエイドである。

サポーター用の駐車場は用意されていない。

大会関係者用の駐車場にプリウスαを駐める。

ここまで来たら、われわれも「大会関係者」である。

ほどなくサポートするランナーを見つけて「回収」する。

彼女は、午後3時16分にA6忍野に着いたところで、大会中止を知らされたらしい。

 

こうして、2019年のUTMF(ウルトラトレイル・マウントフジ)はA6忍野(114㎞)で終わった。

2019年

5月

22日

比較敗戦論のために(その8) ☆ あさもりのりひこ No.663

国民について物語が薄っぺらで、容量に乏しければ、「本当は何があったのか」という自国の歴史についての吟味ができなくなるということです。端的には、自分たちがかつてどれほど邪悪であり、愚鈍であり、軽率であったかについては「知らないふりをする」ということです。失敗事例をなかったことにすれば、失敗から学ぶことはできません。失敗から学ばない人間は同じ失敗を繰り返す。失敗を生み出した制度や心性は何の吟味もされずに、手つかずのまま残る。ならば、同じ失敗がまた繰り返されるに決まっている。

 

 

2019年3月20日の内田樹さんの論考「比較敗戦論のために」(その8)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

僕の父は山形県鶴岡の生まれです。ご存じでしょうか、庄内人たちは西郷隆盛が大好きです。庄内藩は戊辰戦争で最後まで官軍に抵抗して、力戦しました。そして、西郷の率いる薩摩兵の前に降伏した。けれども、西郷は敗軍の人たちを非常に丁重に扱った。死者を弔い、経済的な支援をした。一方、長州藩に屈服した会津藩では全く事情が違います。長州の兵は、会津の敗軍の人々を供養しなかった。事実、死者の埋葬さえ許さず、長い間、さらしものにしていた。

薩摩長州と庄内会津、どちらも同じ官軍・賊軍の関係だったのですが、庄内においては勝者が敗者に一掬の涙を注いだ。すると、恨みが消え、信頼と敬意が生まれた。庄内藩の若者たちの中には、のちに西南戦争の時に、西郷のために鹿児島で戦った者さえいますし、西郷隆盛の談話を録した『南洲遺訓』は庄内藩士が編纂したものです。一方、会津と長州の間には戊辰戦争から150年経った今もまだ深い溝が残ったままです。

靖国参拝問題が、あれだけもめる一因は靖国神社が官軍の兵士しか弔っていないからです。時の政府に従った死者しか祀られない。東北諸藩の侍たちも国のために戦った。近代日本国家を作り出す苦しみの中で死んでいった。そういう人々については、敵味方の区別なく、等しく供養するというのが日本人としては当然のことだろうと僕は思います。

僕の曽祖父は会津から庄内の内田家に養子に行った人です。曽祖父の親兄弟たちは会津に残って死にました。なぜ、彼らは「近代日本の礎を作るために血を流した人たち」に算入されないのか。供養というのは党派的なものではありません。生きている人間の都合を基準にした論功行賞でなされるべきものではありません。だから、僕は靖国神社というコンセプトそのものに異議があるのです。明治政府の最大の失敗は、戊辰戦争での敗軍の死者たちの供養を怠ったことにあると僕は思っています。反体制・反権力的な人々を含めて、死者たちに対してはその冥福を祈り、呪鎮の儀礼を行う。そのような心性が「タフな物語」を生み出し、統治システムの復元力を担保する。その考えからすれば、「お上」に逆らった者は「非国民」であり、死んでも供養に値しないとした明治政府の狭量から近代日本の蹉跌は始まったと僕は思っています。

「祟る」というのは別に幽霊が出てきて何かするという意味ではありません。国民について物語が薄っぺらで、容量に乏しければ、「本当は何があったのか」という自国の歴史についての吟味ができなくなるということです。端的には、自分たちがかつてどれほど邪悪であり、愚鈍であり、軽率であったかについては「知らないふりをする」ということです。失敗事例をなかったことにすれば、失敗から学ぶことはできません。失敗から学ばない人間は同じ失敗を繰り返す。失敗を生み出した制度や心性は何の吟味もされずに、手つかずのまま残る。ならば、同じ失敗がまた繰り返されるに決まっている。その失敗によって国力が弱まり、国益が失われる、そのことを僕は「祟る」と言っているのです。

「祟り」を回避するためには適切な供養を行うしかない。そして、最も本質的な供養の行為とは、死者たちがどのように死んだのか、それを仔細に物語ることです。細部にわたって、丁寧に物語ることです。それに尽くされる。

司馬遼太郎は「国民作家」と呼ばれますけれど、このような呼称を賦与された作家は多くありません。それは必ずしも名声ともセールスとも関係がない。司馬が「国民作家」と見なされるのは、近代日本が供養し損なった幕末以来の死者たちを、彼が独力で供養しようとしたからです。その壮図を僕たちは多とする。

司馬遼太郎は幕末動乱の中で死んだ若者たちの肖像をいくつも書きました。坂本龍馬や土方歳三については長編小説を書きました。もっとわずか短い数頁ほどの短編で横顔を描かれただけの死者たちもいます。それは別に何らかの司馬自身の政治的メッセージを伝えたり、歴史の解釈を説いたというより、端的に「肖像を描く」ことをめざしていたと思います。

司馬遼太郎の最終的な野心は、ノモンハン事件を書くことでした。でも、ついに書き上げることができなかった。一九三九年のノモンハン事件とは何だったのか、そこで人々はどのように死んだのか、それを仔細に書くことができれば、死者たちに対してはある程度の供養が果たせると思ったのでしょう。でも、この計画を司馬遼太郎は実現できませんでした。それはノモンハン事件にかかわった軍人たちの中に、一人として司馬が共感できる人物がいなかったからです。日露戦争を描いた『坂の上の雲』には秋山好古や児玉源太郎や大山巌など魅力的な登場人物が出て来ます。けれども、昭和初年の大日本帝国戦争指導部には司馬をしてその肖像を仔細に書きたく思わせるような人士がもう残っていなかった。これはほんとうに残念なことだったと思います。

ノモンハンを書こうとした作家がもう一人います。村上春樹です。『ねじまき鳥クロニクル』(新潮社 一九九四~九五年)で村上春樹はノモンハンについて書いています。でも、なぜノモンハンなのか。その問いに村上は答えていない。何だか分からないけれども、急に書きたくなったという感じです。でも、ノモンハンのことを書かないと日本人の作家の仕事は終わらないと直感したというところに、この人が世界作家になる理由があると僕は思います。日本人にとっての「タフな物語」の必要性を村上春樹も感じている。それが今の日本に緊急に必要なものであるということをよくわかっている。

 

「美しい日本」というような空疎な言葉を吐き散らして、自国の歴史を改竄して、厚化粧を施していると、「国民の物語」はどんどん薄っぺらで、ひ弱なものになる。それは個人の場合と同じです。「自分らしさ」についての薄っぺらなイメージを作り上げて、その自画像にうまく当てはまらないような過去の出来事はすべて「なかったこと」にしてしまった人は、現実対応能力を致命的に損なう。だって、会いたくない人が来たら目を合わせない、聴きたくない話には耳を塞ぐんですから。そんな視野狭窄的な人間が現実の変化に適切に対応できるはずがありません。集団の場合も同じです。