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2021年

12月

03日

内田樹さんの「憲法の話(長いです)」(その7) ☆ あさもりのりひこ No.1087

死文に命を与えるのはわれわれの涙と血と汗である。

 

 

2021年11月3日の内田樹さんの論考「憲法の話(長いです)」(その7)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 改憲派が強くて、護憲派が弱いという現実を生み出した歴史的背景はこのためだと思う。この事実がなかなか前景化しなかったのは、それが「起きなかったこと」だからだ。戦争における無数の加害事実・非人間的事実について明らかにする、憲法制定過程についてその全容を明らかにするということを怠ったという「不作為」が歴史修正主義者や改憲派が今こうして政治的勢いを有している理由なのである。「何かをしなかったこと」「何かが起きなかったこと」が原因で現実が変わった。歴史家は「起きたこと」「現実化したこと」を組み立てて、その因果関係について仮説を立てて歴史的事象を説明するのが仕事であるが、「起きなかったこと」を歴史的事象の「原因」として論じるということはふつうしない。

 でも、もし戦中派が戦争責任をきびしく追及し、彼らの加害事実を告白し、さらに憲法が勝者から「下賜」されたものであることを認めた上で「日本国民などというものは今ここには存在しない。これから創り出すのだ」と宣言した場合、戦後の日本社会はどのようなものになっていただろうか。戦中派の人たちはそのタスクの重さに、ずいぶん苦しんだだろう。そして、私たちの世代は、そのような親たちの世代に対して、嫌悪や軽蔑を感じたかも知れない。戦中派は人間はそれほどきびしい苦役に長くは耐えられないという常識的な人間理解に基づいて、「子どもたちには何も言わない」道を選んだ。

 

 護憲派はこの常識と抑制の産物である。だから、非常識と激情に弱い。

 護憲運動を1950年代や60年代と同じように進めることはもうできないと思う。当時の護憲運動の主体は戦中派だったからだ。彼らはリアルな生身を持っていた。「空語としての憲法」に自分たちの願望と子どもたちの未来を託すというはっきりした自覚を持っていた。でも、私たちは違う。私たちは「自然物としての憲法」をぼんやりと豊かに享受し、それに敬意を示すこともなくさんざん利用し尽くしたのちに、ある日「お前たちが信じているものは人工物だ」と言われて仰天している「年取った子ども」に過ぎない。

 これから私たちが進めるべき護憲運動とはどういうものになるのか。これはとにかく「護憲運動の劣勢」という痛苦な現実を受け入れるところから始めるしかない。われわれの憲法は脆弱であることを認めるしかない。そして、その上で、どのような宣言であっても、憲法であっても、法律であっても、そのリアリティーは最終的に生身の人間がその実存を賭けて担保する以外にないのだと腹をくくる。憲法条文がどんなに整合的であっても、どんなに綱領的に正しいものであっても、そのことだけでは憲法というのは自立できない。正しいだけでは自存できない。絶えずその文言に自分の生身で「信用供与」をする主体の関与がなければ、どんな憲法も宣言も死文に過ぎない。

 死文に命を与えるのはわれわれの涙と血と汗である。そういう「ヴァイタルなもの」によって不断にエネルギーを備給していかなければ、憲法は生き続けられない。でも、護憲派はそういう言葉づかいでは語らない。護憲派は、憲法はそれ自体では空語だということを認めようとしない。でも、憲法に実質をあらしめようと望むなら、身銭を切って憲法に生命を吹き込まなければならない。そうしないと、憲法はいずれ枯死する。私はその危機を感じる。だから、護憲の運動にリアリティーをもたらすためには、この憲法は本質的には空語なのだということを認めなければならないと思う。戦中派はこの憲法が空語であることを知っていた。けれども、口にはしなかった。でも、知っていた。私たちは、この憲法が空語だということを知らずにきた。そして、身銭を切って、この憲法のリアリティーを債務保証してくれていた人たちがいなくなってはじめて、そのことを知らされた。

 

 それを認めることはつらいと思う。でも、私は認める。歴史修正主義者や改憲派がこれほど力を持つようになるまで、私はぼんやり拱手傍観していた。憲法はもっと堅牢なものだとナイーブにも信じていた。でも、改憲して、日本をもう一度戦争ができる国にしたいと思っている人がこれだけ多く存在するということは、私たちの失敗である。それを認めなければいけない。だから、もう一度戦中派の常識と抑制が始まったところまで時計の針を戻して、護憲の運動をはじめから作り直さなければならないと思う。戦中派がしたように、今度は私たちが身銭を切って憲法の「債務保証」をしなければならない。これが護憲についての私の基本的なスタンスである。

2021年

12月

02日

11月の放射線量、体組成、ランニング ☆ あさもりのりひこ No.1086

11月の放射線量と体組成とランニングについて書く。

 

まず、奈良県橿原市の環境放射線量(ガンマ線)から。

2021年11月の平均値はつぎのとおり。

室内1メートル 0.0441μ㏜/h

室内0メートル 0.04583μ㏜/h

室外1メートル 0.05776μ㏜/h

室外0メートル 0.07153μ㏜/h

室内0メートルの数値が、今年で一番高かった。

 

つぎに、朝守の身体について。

11月27日の数値はつぎのとおり。

体重 71.45㎏

BMI 22.

体脂肪率 16.7%

筋肉量 56.45㎏

推定骨量 3.1㎏

内臓脂肪 12

基礎代謝量 1626/

体内年齢 47才

体水分率 57.8%

 あまり変わらない。

 誕生日が来たので、体内年齢が1才増えた。

 

最後に、11月のランニングの結果。

走行時間 17時間41分33秒

走行距離 144.512㎞

 

 

奈良マラソン2021まであと10日。

2021年

12月

01日

内田樹さんの「憲法の話(長いです)」(その6) ☆ あさもりのりひこ No.1085

だから、彼らの沈黙には独特の重みがあった。実存的な凄みがあった。「その話はいいだろう」といって低い声で遮られたら、もうその先を聞けないような迫力があった。だから、彼らが生きているあいだは歴史修正主義というようなものの出る幕はなかったのだ。仮に「南京虐殺はなかった」というようなことを言い出す人間がいても、「俺はそこにいた」という人が現にいた。そういう人たちがいれば、具体的に何があったかについて詳らかに証言しないまでも、「何もなかった」というような妄言を黙らせることはできた。

 

 

2021年11月3日の内田樹さんの論考「憲法の話(長いです)」(その6)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 戦争経験について、とりわけ加害経験について語らないこと、憲法制定過程について、日本は国家主権を失い、憲法制定の主体たり得なかったということを語らないこと。この二種類の「戦中派の沈黙」が戦後日本に修正することの難しい「ねじれ」を呼びこんでしまったのだと私は思っている。でも、私はそのことについて戦中派を責めるつもりはない。私たち戦後世代が戦争と無縁な、戦時における人間の醜さや邪悪さとも、敗戦の屈辱とも無縁な者として育つことを望んでいたからそうしたと思うからだ。

 だから、彼らの沈黙には独特の重みがあった。実存的な凄みがあった。「その話はいいだろう」といって低い声で遮られたら、もうその先を聞けないような迫力があった。だから、彼らが生きているあいだは歴史修正主義というようなものの出る幕はなかったのだ。仮に「南京虐殺はなかった」というようなことを言い出す人間がいても、「俺はそこにいた」という人が現にいた。そういう人たちがいれば、具体的に何があったかについて詳らかに証言しないまでも、「何もなかった」というような妄言を黙らせることはできた。

 歴史修正主義が出てくる文脈は世界中どこでも同じだ。戦争経験者がしだいに高齢化し、鬼籍に入るようになると、ぞろぞろと出てくる。現実を知っている人間が生きている間は「修正」のしようがない。それは、ドイツでもフランスでも同じだ。

 フランス人も自国の戦中の経験に関しては記憶がきわめて選択的だ。レジスタンスのことはいくらでも語るが、ヴィシー政府のこと、対独協力のことは口にしたがらない。フランスでヴィシーについての本格的な研究が出てきたのは、1980年代以降。それまではタブーだった。その時期を生きてきた人たちがまだ存命していたからだ。自分自身がヴィシーに加担していた人もいたし、背に腹は代えられず対独協力をして、必死で占領下を生き延びた人もいた。彼らがそれぞれの個人的な葛藤や悔いを抱えながら、戦後フランスを生きていることを周りの人は知っていた。そして、それを頭ごなしに責めることには抵抗があった。

 ベルナール=アンリ・レヴィが『フランス・イデオロギー』という本を書いている。ドイツの占領下でフランス人がどのようにナチに加担したのかを赤裸々に暴露した本だ。レヴィは戦後生まれのユダヤ人なので、戦時中のフランスの行為については何の責任もない。完全に「手が白い」立場からヴィシー派と対独協力者たちを批判した。しかし、出版当時、大論争を引き起こした。

 少なからぬ戦中派の人々がレヴィの不寛容に対して嫌悪感を示した。レイモン・アロンもレヴィを批判して、「ようやく傷がふさがったところなのに、傷口を開いて塩を擦り込むような不人情なことをするな」というようなことを書いた。私はそれを読んで、アロンの言うことは筋が通らないが、「大人の言葉」だと思った。「もう、その話はいいじゃないか」というアロンの言い分は政治的にはまったく正しくない。しかし、その時代を生きてきた人にしか言えない独特の迫力があった。アロン自身はユダヤ人で、自由フランス軍で戦ったのであるから、ヴィシーや対独協力者をかばう義理はない。だからこそ、彼がかつての敵について「済んだことはいいじゃないか。掘り返さなくても」と言った言葉には重みがあった。

 80年代からしばらくはヴィシー時代のフランスについてのそれまで表に出なかった歴史的資料が続々と出てきて、何冊も本が書かれた。しかし、ヴィシーの当事者たちは最後まで沈黙を守った。秘密の多くを彼らは墓場に持っていってしまった。人間は弱いものだから、自分の犯した過ちについて黙秘したことは人情としては理解できるが、結果的にヴィシーの時代にフランス人が何をしたのかが隠蔽され、歴史修正主義者が登場してくる足場を作った。戦争経験者の多くが死んだ後に、歴史修正主義者たちが現れて、平然と「アウシュヴィッツにガス室はなかった」というようなことを言い出した。そのあたりの事情は実は日本とそれほど変わらない。

 アルベール・カミュの逡巡もその適例である。カミュは地下出版の 『戦闘』の主筆としてレジスタンスの戦いを牽引した。ナチス占領下のフランスの知性的・倫理的な尊厳を保ったという点で、カミュの貢献は卓越したものだった。だから、戦後対独協力者の処刑が始まった時、カミュも当然のようにそれを支持した。彼の仲間たちがレジスタンスの戦いの中で何人も殺されたし、カミュ自身も、ゲシュタポに逮捕されたらすぐに処刑されるような危険な任務を遂行していたのである。カミュには対独協力者を許すロジックはない。しかし、筋金入りの対独協力者だったロベール・ブラジャックの助命嘆願署名を求められた時、カミュは悩んだ末に助命嘆願書に署名する。ブラジャックの非行はたしかに許し難い。けれども、もうナチスもヴィシーも倒れた。今の彼らは無力だ。彼らはもうカミュを殺すことができない。自分を殺すことができない者に権力の手を借りて報復することに自分は賛同できない。カミュはそう考えた。

 このロジックはわかり易いものではない。対独協力者の処刑を望むことの方が政治的には正しいのだ。だが、カミュはそこに「いやな感じ」を覚えた。どうして「いやな感じ」がするのか、それを理論的に語ることはできないが、「いやなものはいやだ」というのがカミュの言い分だった。

 身体的な違和感に基づいて人は政治的な判断を下すことは許されるのかというのは、のちに『反抗的人間』の主題となるが、アルベール・カミュとレイモン・アロンは期せずして、「正義が正義であり過ぎることは人間的ではない」という分かりにくい主張をなしたのである。

 レジスタンスは初期の時点では、ほんとうにわずかなフランス人しか参加していなかった。地下活動という性格上、どこで誰が何をしたのかについて詳細な文書が残っていないが、1942年時点でレジスタンスの活動家は数千人だったと言われている。それが、パリ解放の時には何十万人にも膨れ上がっていた。44年の6月に連合軍がノルマンディーに上陸して、戦争の帰趨が決してから、それまでヴィシー政府の周りにたむろしていたナショナリストたちが雪崩打つようにレジスタンスの隊列に駆け込んできたからだ。その「にわか」レジスタンスたちが戦後大きな顔をして「私は祖国のためにドイツと戦った」と言い出した。そのことをカミュは苦々しい筆致で回想している。最もよく戦った者はおのれの功績を誇ることもなく、無言のまま死に、あるいは市民生活に戻っていった、と。

『ペスト』にはカミュのその屈託が書き込まれている。医師リウーとその友人のタルーはペストと戦うために「保健隊」というものを組織する。この保健隊は明らかにレジスタンスの比喩である。隊員たちは命がけのこの任務を市民としての当然の義務として、さりげなく、粛々として果たす。英雄的なことをしているという気負いはないのだ。保健隊のメンバーの一人であるグランはペストの災禍が過ぎ去ると、再び、以前と変わらない平凡な小役人としての日常生活に戻り、ペストの話も保健隊の話ももう口にしなくなる。カミュはこの凡庸な人物のうちにレジスタンス闘士の理想のかたちを見出したようだ。

 フランスにおける歴史の修正はすでに1944年から始まった。それはヴィシーの対独協力政策を支持していた人々が、ドイツの敗色が濃厚になってからレジスタンスに合流して、「愛国者」として戦後を迎えるという「経歴ロンダリング」というかたちで始まった。それを正面切って批判するということをカミュは自制した。彼自身の地下活動での功績を誇ることを自制するのと同じ節度を以て、他人の功績の詐称を咎めることも自制した。他人を「えせレジスタンス」と批判するためには、自分が「真正のレジスタンス」であることをことさらに言い立てて、彼我の差別化を図らなければならない。それはカミュの倫理観にまったくなじまないふるまいだった。ナチス占領下のフランスで、ヴィシー政府にかかわったフランス人たちがどれほど卑劣なふるまいをしたのかというようなことをことさらに言挙げすることを戦後は控えた。カミュは「大人」であったから。

 各国で歴史修正主義がそれから後に跳梁跋扈するようになったのは、一つにはこの「大人たち」の罪でもあった。彼らがおのれの功績を誇らず、他人の非行を咎めなかったことが歴史修正主義の興隆にいくぶんかは与っている。「大人」たちは、歴史的な事実をすべて詳らかにするには及ばないというふうに考えた。誇るべき過去であっても、恥ずべき過去であっても、そのすべてを開示するには及ばない。誇るべきことは自尊心というかたちで心の中にしまっておけばいいし、恥ずべき過去は一人で深く恥じ入ればいい。ことさらにあげつらって、屈辱を与えるには及ばない。「大人」たちは、勝敗の帰趨が決まったあとに、敗者をいたぶるようなことはしない。対独協力者たちを同胞として改めて迎え入れようとした。人間的にはみごとなふるまいだと思うが、実際には「大人」たちのこの雅量が歴史修正主義の温床となった。私にはそんなふうに思える。

 

 似たことが日本でもあった。それは戦中派の「大人たち」の私たち戦後世代に対する気づかいというかたちで現れた。憲法は自分たちで制定したものではない。日本国民なるものは空語であるということを彼らは知っていた。でも、自分たちに与えられた憲法は望外に「よきもの」であった。だったら、黙ってそれを受け容れたらよい。それを「日本国民が制定した」という物語に仕立て上げたいというのなら、あえて異論を立てるに及ばない。それは戦後世代の子どもたちに「親たちや先生たちがこの憲法を制定したのだ」というはなはだしい誤解を扶植することだったけれども、彼らはそのような誤解をあえて解こうとはしなかった。

 

 彼らのこの生々しい願いが憲法の堅牢性を担保していた。そして、その人たちが死んでいなくなってしまったとたんに、私たちの手元には、保証人を失った一片の契約書のごときものとして日本国憲法が残された。

2021年

11月

30日

ちっさい秋

橿原市 弁護士

みなさん、こんにちわ。

本日は事務局担当日です。

 

秋、小さすぎて見えへんやん・・・

という感じで寒くなりましたが

体調など崩されていませんか?

 

朝、さぶい~ダウンコート必須!と思えば

昼はぽかぽかだったり、

なかなか体調管理が難しいですね

 

 

 

橿原市 弁護士 
ZZZZ・・・ぼくのゆめは、たべきれへんぐらいのおにくもらうこと

先日、こどもがぽつりと言いました。

 

将来の夢が見つからへんねん

 

 

学校で、進路の話やキャリア教育の授業があったのでしょうか。

あまりそんな話をしたことがないのに急に言い出してびっくりしました。

 

夢は、わざわざ見つけるんじゃなくて

勝手に見つかるもんちゃうかな?

 

たとえば、アメリカに住んでみたいとかそんな小さいことから

なりたいもの・やってみたいことがみつかるんじゃない?

小さい興味から勉強してみたいこともでてくるんじゃない?

 

なんて話をしてみました。

 

かくいう私は、高校の頃には外交官になって世界平和に貢献するんだ!なんて大それた夢を持っていました。

大学3年生くらいまで勉強していましたが。

 

いや~、、、、身の程知らず(笑)すぎて。

エベレスト登るほうが可能性ありそうなくらい(;^^)ヘ..

 

よくも両親は専門講座のお金をだまって出してくれたなぁ・・・と思います。

そこでとことん納得するまでやって、やっぱり無理やわぁ、となるのと

初めからトライせずに終わるのでは、人生の納得感も違ってきたと思います。

ありがたやありがたや。

あ、あと、出身校からの合格率、とかの現実も知りました(笑)

好きなものとか考えてみればいいんちゃう?と水をむけてみたら

 

「洋服かな~」

 

・・・。

幼稚園の卒業文集に書いた将来の夢 ↓ こちら。

 

1階がアイス屋さん(サーティーワンにどはまり)

2階が洋服屋さん(アイカツ!ってアニメでアイドルの洋服の組み合わせを考えるのにはまってた)

3階がケーキ屋さん(作るより食べたい)

そういえば「ビルを建てて、○○ちゃんと二人でするねん。

おかーさん、ビル建てるの何円くらいかかる?」と聞かれましたっけ。

 

なんも成長してへんやん!(≧▽≦)と二人で大笑いしました。

 

ま、なんでもいいけど心豊かに楽しく生きていってほしいなと思います(・∀・)

 

ちなみにいっときは救急救命医(もちろんコードブルー山Pの影響)になりたいと言っていたので、あれはどーなったか聞いてみたら。

 

「そんなん疲れるだけやん」

 

・・・。現実知るの、はやくない?

2021年

11月

29日

内田樹さんの「憲法の話(長いです)」(その5) ☆ あさもりのりひこ No.1084

国民の多くが憲法を「ろくでもないもの」だと思い、一刻も早く改定すべきだと思っていたら、制定過程についての「裏情報」はもっと流布していただろう。でも、戦中派の人たちはそう思わなかった。すばらしい憲法だと思っていた。だから、制定過程についてあれこれと語ることで、憲法のインテグリティーに傷をつけたくないと思った。

 

 

2021年11月3日の内田樹さんの論考「憲法の話(長いです)」(その5)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 そうやって何年か経った。憲法は日本の風土に根づき始めたように見えた。戦後に生まれた子どもたちは憲法を「自然物」のように素直に受け入れ、民主主義社会の空気を呼吸している。それを見て、戦中派の人たちはこう考えた。後はこの子たちに任せておけばいいじゃないか。この子たちは「生まれつきの国民主体」なのだ。この子たちに「好きに憲法を制定していいよ」と言ったら、きっとすらすらと今あるような憲法を起草するに違いない。だったら、今さら「日本国民は存在しない」「私たちは憲法制定の主体ではない」などという痛ましい事実をカミングアウトするには及ばない。黙っていても、「日本国民」は育っている。もう大丈夫だ。あと数十年も経てば、列島住民のほとんどが「憲法制定の主体」たりうる日本国民になっているはずだ、と。たぶんそういうふうに考えたのだと思う。そうでなければ、戦中派世代の制憲過程についての集団的な沈黙は説明できない。

 

 でも、まことに残念ながら、歴史は彼らが予想したようには推移しなかった。

 私たちは戦後民主主義からの気前のよい権限委譲を享受するだけ享受したあげくに、あっさりと憲法のことを忘れて、あろうことか戦後民主主義の「欺瞞性」を罵倒するようになった。その時の戦中派の落胆はいかばかりであっただろうか。

 でも、もう遅かった。私たちは「生まれついての憲法の申し子」であり、戦後民主主義が提供してくれる「果実」を食いたい放題に食うことは許されたけれども、憲法の精神を血肉化する義務があるとは教えられなかった。私たちにはもう「血肉化済み」だと思われていたのである。でも、そうではなかった。そして、何十年かして、私たちは改憲派に思い切り足をすくわれることになった。

 

 改憲派のアドバンテージはその一点に尽きる。憲法制定過程に日本国民は関与していない。これはGHQの作文だ。アメリカが日本を弱体化させるため仕掛けた戦略的なトラップだというのが改憲論を基礎づけるロジックだが、ここには一片の真実があることは認めざるを得ない。

 憲法制定過程に「超憲法的主体」であるGHQが深く関与したことが憲法の正当性を傷つけていると改憲派は言う。一方、護憲派はGHQの関与については語ろうとしない。「日本国民が制定した」という物語にしがみついた。

 繰り返し言うが、憲法を制定するのは「憲法条文内部的に主権者と認定された主体」ではない。憲法を制定するのは、歴史上ほとんどの場合、戦争や革命や反乱によって前の政治体制を覆した政治的強者だ。それは大日本帝国憲法も同じである。

 大日本帝国憲法において主権者は天皇である。「大日本帝国ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と第一条に記してある。そして、その条項を起草したのも天皇自身であるということになっている。だから、大日本帝国憲法の「上諭」には「朕」は「朕カ祖宗ニ承クルノ大権ニ依リ現在及将来ノ臣民ニ対シ此ノ不磨ノ大典を宣布ス」と明記してある。

 でも、別に憲法制定の「大権」が歴代天皇には認められていたなどということはない。勅諭や綸旨ならいくらでも出したが、「憲法」という概念自身が近代の産物なのであるから、憲法制定大権なる概念を明治天皇が「祖宗」に「承クル」はずがない。実際に明治憲法を書いたのは伊藤博文ら元勲である。明治維新で徳川幕府を倒し、維新後の権力闘争に勝ち残った政治家たちがその「超憲法的実力」を恃んでこの憲法を制定したのである。やっていることはGHQと変わらない。

 憲法というのはもともと「そういうもの」なのだ。圧倒的な政治的実力を持つ超憲法的主体がそれを制定する。それが誰であり、どういう歴史的経緯があって、そのような特権をふるうに至ったのかという「前段」については、憲法のどこにも書かれていない。でも、書かれてなくても、知っている人は知っている。

 明治時代の人たちだって、憲法を起草したのが元勲たちで、それが近代国家としての「体面」を繕い、国際社会にフルメンバーとして加わり、欧米との不平等条約を改定するために必要だからということも知っていたはずである。薩長のエリートたちによる支配を正当化し、恒久化するための政治的装置だということも知っていたはずである。

 日本国憲法だって同じである。これもまた圧倒的な政治的実力を持つ超憲法的主体によって制定された。それが誰であり、どういう歴史的経緯があって、そのような特権をふるうに至ったのかという「前段」は、憲法のどこにも書かれていない。「上諭」にも書かれていない。でも、知っている人は知っていた。問題は、日本国憲法の場合は、制憲過程について「知っている人」たちがそれについて久しく口を噤んでいたことである。

 国民の多くが憲法を「ろくでもないもの」だと思い、一刻も早く改定すべきだと思っていたら、制定過程についての「裏情報」はもっと流布していただろう。でも、戦中派の人たちはそう思わなかった。すばらしい憲法だと思っていた。だから、制定過程についてあれこれと語ることで、憲法のインテグリティーに傷をつけたくないと思った。たぶんそうなのだろうと思う。

 

 戦中派は善意でそうしたのだと思う。私はそれを疑わない。彼らは戦後の日本社会を1945年8月15日以前と完全に切り離されたものとして、戦前と繋がる回路を遮断された「無菌状態」のものとして立ち上げようとした。だから、戦争の時に何があったのか、自分たちが何をしてきたかについて口を噤み、憲法制定過程についても語らなかった。それを語るためには、日本には、主権者である「日本国民」のさらに上に日本国民に主権者の地位を「下賜」した超憲法的主体としてのアメリカがいるのだが、それは自分たちが戦争をして、負けたせいだからだという痛ましい真実を語らなければならない。子どもたちに言って聞かせるにはあまりにつらい事実だった。

2021年

11月

26日

内田樹さんの「憲法の話(長いです)」(その4) ☆ あさもりのりひこ No.1083

「日本国民は存在しない」「われわれは憲法制定の主体ではない」という事実から目を逸らした。それがいけなかったのだと思う。

 

 

2021年11月3日の内田樹さんの論考「憲法の話(長いです)」(その4)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 護憲論を批判するのは簡単である。こんなもの、ただの空語じゃないか、「絵に描いた餅」じゃないか、国民のどこに主権があるのか、「平和を愛する諸国民の公正と信義」なんか誰が信じているのか、国際社会が「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている」なんて白々しい嘘をよく言えるな。そう言われると、まさにその通りなのだ。

 憲法前文には、「主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」と書いてあるが、そもそも「日本国民」というもの自体が擬制である。憲法が公布された1946年の11月3日の段階では、事実上も権利上も、「日本国民」などというものは存在していなかったのだから。公布前日の11月2日までは、列島に存在したのは大日本帝国であり、そこに暮らしていたのは「大日本帝国臣民」であって、「日本国国民」などというものはどこにもいなかった。どこにもいなかったものが憲法制定の主語になっている。「この主語の『日本国民』というのは、誰だ?」と切り立てられたら、答えようがない。

 日本国憲法を制定した国民主体は存在しない。存在しない「日本国国民」が制定した憲法であるというのが日本国憲法の根源的な脆弱性である。

 

 と言っておいてすぐに前言撤回するのもどうかと思うが、実は世の中の宣言というのは、多かれ少なかれ「そういうもの」なのだ。宣言に込められている内容はおおかたが非現実であるし、宣言している当の主体自体だって、どれほど現実的なものであるかは疑わしい。

 例えば1776年公布のアメリカ独立宣言は「万人は平等に創造された」と謳っているが、実際にはそれから後も奴隷制度は続いた。奴隷解放宣言の発令は1862年であり、独立宣言から100年近く経っている。むろん、奴隷解放宣言で人種差別が終わったわけではない。公民権法が制定されたのは1964年。独立宣言から200年経っている。そして、もちろん今のアメリカに人種差別がなくなったわけではない。人種差別は厳然として存在している。しかし、「独立宣言に書いてあることとアメリカの現状が違うから、現実に合わせて独立宣言を書き換えよう」と主張するアメリカ人はいない。社会のあるべき姿を掲げた宣言と現実との間に乖離がある場合は、宣言を優先させる。それが世界標準なのだ。

 日本は違う。宣言と現実が乖離している場合は、現実に合わせて宣言を書き換えろということを堂々と言い立てる人たちがいる。それも政権の座にいる。

 世界中どこでも、国のあるべきかたちを定めた文章は起草された時点では「絵に描いた餅」である。宣言を起草した主体が「われわれは」と一人称複数で書いている場合も、その「われわれ」全員と合議して、承認を取り付けたわけではない。自分もまた宣言の起草主体の一人であるという自覚を持つ「われわれ」をこれから創り出すために宣言というものは発令される。それが宣言の遂行的性格である。

 それでいいのだと思う。日本国憲法制定時点では、「日本国民」なるものは現実には存在しなかった。でも、そこで掲げられた理念が善きものであるということが世の常識になり、「憲法を起草してくれ」と誰かに頼まれたら、すらすらとこれと同じ憲法を起草することができるような人々が輩出するなら、その時「日本国民」は空語ではなく、はじめて実体を持ったことになる。

 この憲法を自力で書き上げられるような国民めざして自己造型してゆくこと、それが憲法制定以後の実践的課題であるべきだったのだ。ただ、そのためには、日本国民が「われわれは『日本国民』にまだなっていない。われわれは自力でこの憲法を起草できるような主体にこれからならなければならない」と自覚することが必要だった。

 護憲論の弱さはそこにある。

 護憲派はそのようには課題を立てなかった。そうではなくて、「日本国民は存在する」「私たちは憲法制定の主体だ」というところから話を始めてしまった。それが最初のボタンの掛け違えだったと思う。

 たしかに憲法前文には、「日本国民」が集まって、熟議を凝らした末に、衆知を集めてこの憲法を制定したと書いてある。しかし、そういう歴史的事実はない。戦争に負けたのだから、そういう事実がなかったことは仕方がない。でも、いずれ衆知を集めて、このような憲法を自力で起草できるような国民主体として自己形成することを未来の目標に掲げるということはできたはずだし、しなければならなかったはずだ。しかし、戦後の日本人たちはそれをしなかった。「日本国民は存在しない」「われわれは憲法制定の主体ではない」という事実から目を逸らした。それがいけなかったのだと思う。

 日本国民が憲法を制定したわけではないという誰もが知っている事実を「なかったこと」にしたせいで、それ以後の護憲論・改憲論の「ねじれ」は生まれた。

 私たちは憲法制定の主体ではないと、素直に認めればよかったのだ。たしかに日本国憲法は日本国民が衆知を集めて起草したものではないが、仮にもう一度憲法制定のチャンスを与えられたら、自発的にこれと同じ憲法を自力で書けるような日本国民へと自己形成することはできる。それを遂行的な目標として掲げることはできたはずである。そうすべきだったと思う。

 

 もちろん、戦中派の人たちの中にも、それに似たことを考えた人はいたと思う。でも、それは多数意見にはならなかった。たぶん、そんな困難な国民的課題を引き受けるだけの気力・体力がなかったのだと思う。日本は負け過ぎた。再起できないくらいに負けた。自力で敗戦の総括ができないくらいに、戦争責任の追及ができないくらいに負けた。国土は焦土と化し、明日の食べ物さえままならなかった。その状況で、「あるべき日本国民」に向けて、自己陶冶の努力をしようということを喫緊の国民的課題に掲げることはたぶん無理だったのだ。それよりはまず雨露をしのぎ、飢えを満たし、死者たちを弔い、傷ついた人たちを癒し、子どもたちを学校にやることの方が優先する。

2021年

11月

25日

奈良マラソン2021への道 その16 ☆ あさもりのりひこ No.1082

11月12日(金)休足、ダンベル上げ下ろし10回。

 

11月13日(土)休足。

 

11月14日(日)午前、橿原運動公園でペース走、1時間30分02秒、14.63㎞。

1㎞6分15秒のペースを目標に走った。

走り終わってみると、平均ペースは6分09秒であった。

橿原運動公園では中学校の駅伝大会をやっていて、一部コースが重なっていたので、中学生(午前中は女子)と走る場面があった。

速い子はフォームが安定している。

 

11月15日(月)休足。

 

11月16日(火)夜、トレッドミル、傾斜2%、パワーウオーク30分、3.27㎞。

右腰が張っているので走らないで歩いた。

 

11月17日(水)休足。

右の腰はまだ少し張っている。

 

11月18日(木)休足。

右の腰の張りはだいぶ治まった。

 

11月19日(金)休足、ダンベル(3㎏)上げ下ろし10回。

 

11月20日(土)休足。

 

11月21日(日)午前、奈良マラソン2021試走(3回目)。

5時間08分20秒(トイレ休憩を含む)、36.85㎞。

1㎞6分台のペースで走れたのは16㎞まで。

20㎞を過ぎると1㎞8分台に落ちた。

なんとか最後まで走り終えた。

 

11月22日(月)休足。

 

11月23日(火・祝)休足。

 

11月24日(水)夜、トレッドミル、傾斜2%、パワーウォーク、30分、3.22㎞。

フォームをチェックしながら、時速6㎞、6.5㎞、7㎞で10分ずつ歩いた。

 

11月25日(木)早朝、インターバル走、37分46秒、6.505㎞。

久しぶりの朝ラン。

ヘッドライトと点滅灯を点けて走った。 

2021年

11月

24日

内田樹さんの「憲法の話(長いです)」(その3) ☆ あさもりのりひこ No.1081

でも、この舞台の書き割りを自然物のように見せていたのは、先行世代の作為だった。戦中派世代の悲願だった。「書き割り」の日本国憲法を、あたかも自然物であるかのように絶対的なリアリティーをもつものとして私らに提示したのは彼らである。その戦中派の想いを私は可憐だと思う。

 

 

2021年11月3日の内田樹さんの論考「憲法の話(長いです)」(その3)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 戦争経験についての世代的な沈黙というのと対になるかたちで憲法制定過程についての沈黙がある。これも私は子どもの頃から聞いたことがない。学校の教師も、親たちも、近所の大人たちも、憲法制定過程について、どういう制定過程でこの憲法が出来たのかという話を私たちにはしてくれたことがなかった。大人たちがそれについて話しているのをかたわらで聴いた記憶もない。憲法制定は親たち教師たちの年齢であれば、リアルタイムで目の前で起きたことだ。1945年から46年にかけて、大人たちは何が起きているか、だいたいのことは知っていたはずである。憲法制定過程に関してさまざまな「裏情報」を聴き知っていたはずである。でも、子どもたちにはそれを伝えなかった。

 改憲派が随分あとになってから「押し付け憲法」ということを言い出した時に私は実はびっくりした。子どもの時はそんなこと考えたこともなかったからだ。憲法は日本人が書いたのか、アメリカ人が書いたのかについて、あれこれの説が憲法制定時点から飛び交っていたということを知ったのは、恥ずかしながらずいぶん大人になってからである。

 最初に結婚した女性の父親は平野三郎という人で、その当時は岐阜県知事だったが、その前は自民党の衆議院議員だった。その岳父が、当時はもう70歳を過ぎていたが、酔うと私を呼んで日本国憲法制定秘話を語ってくれた。私が日本国憲法の制定にはみんなが知らない秘密があるという話を個人的に聴いたのは彼からが最初だった。25歳を過ぎてからの話である。岳父は幣原喜重郎の秘書のような仕事をしていたので、死の床で幣原喜重郎が語ったことを、後に国会の憲法調査会で証言している。九条二項を思いついてマッカーサーに進言したのは幣原さんだと岳父は主張する。憲法九条二項は日本人が自分で考えたんだ。押し付けられたものじゃないとテーブルを叩きながら語った。

 そういう話を聞いて、どうしてこういう事実がもっとオープンに議論されないのか不思議に思った。憲法制定過程については、実にいろいろな説が語られている。「藪の中」なのだ。でも、憲法というのは国のかたちの根幹を決定するものである。その制定過程に関して諸説があるというのはいくらなんでもまずい。歴史的事実として確定する必要がある。国民全体として共有できる歴史的な事実を確定して、それ以上真偽について議論する必要はないということにしないといけないと思う。しかし、現代日本では、憲法制定過程に関して、「これだけは国民が事実関係に関しては争わない」ということで共有できるベースがない。

 なぜこんなことが起きたのか。それはリアルタイムで憲法制定過程を見ていたはずの世代の人たちが、それについて集団的に証言してくれなかったからだ。知っていることを言わないまま、沈黙したまま死んでしまったからだ。

 実際に戦争で多く死んだのは明治末年から昭和初年にかけて生まれた世代だ。この戦争を現場で経験したこの人たちは復員してきたあと、結婚して、家庭を作って、市民として生活を始めた。当然、これからの日本はどうなるんだろうということに興味をもってみつめていた。日本の行く末がどうなるか心から案じていたと思う。国のかたちを決める憲法については、その制定過程についても、日々どうなっているんだろうと目を広げて、日々話し合っていたはずである。でも、その過程で、「では、憲法はこういうふうに制定されたという『話』を国民的合意として採用しよう」ということをしなかった。

 日本国憲法には前文の前に「上諭」というものが付いているが、私はそれをずっと知らなかった。上諭の主語が「朕」だということも知らなかった。でも、日本国憲法は「朕」が「公布」している。天皇陛下が「枢密顧問の諮詢」と「帝国憲法73条による帝国議会の議決を経て」日本国憲法を公布している。日本国憲法を公布した主体は天皇なのだ。ちゃんと「御名御璽」が付いている。でも、私たちが憲法について教えられた時には、その上諭が削除されたかたちで与えられた。どういう法理に基づいてこの憲法が制定されたかという「額縁」が外されて、テキストだけが与えられた。

 憲法の個々の条項については、その適否についていろいろな意見があっても構わないと思う。でも、その憲法がどういう歴史的な過程で、どういう議論を経て制定されていったのかという歴史的事実についてだけは国民的な合意があるべきだと思う。その合意がなければ、憲法の個別的条項についての議論を始めることはできない。でも、日本人にはその合意がない。憲法制定の歴史的過程は集団的な黙契によって隠蔽されている。

 憲法についての試案があったとか、マッカーサー三原則があったとか、GHQの民生局が草案を作って、11日間で草案を作ったとか、さまざまな説があり、それについていちいちそれは違うという反論がある。どれが真実なのかがわからない。「これが出発すべき歴史的事実」として国民的に共有されているものがない。

 憲法とは、われわれの国の最高法規である。その最高法規の制定過程がどういうものだったのかについて国民的な合意が存在しない。マグナカルタでも、人権宣言でも、独立宣言でも、どういう歴史的状況の中で、何を実現しようとして、誰が起草したのか、どういう議論があったのか、どういう風に公布されたかということは歴史的な事実として開示されている。それが当然だ。でも、日本国憲法については、それがない。制定過程が隠蔽されたしかたで私たち戦後世代に憲法は与えられた。それをなんの疑いもなく、天から降ってきた厳然たる自然物のように受け止めてきたのが今や70にならんとしている私らの世代の人間なのだ。改憲派の人たちに、「こんなもの押し付けられた憲法だ」、「こんなものはGHQの作文だ」と言われるとびっくりしてしまう。自然物だと思っていたものがこれは「舞台の書き割り」のようなものだと言われたわけなのだから。

 

 でも、この舞台の書き割りを自然物のように見せていたのは、先行世代の作為だった。戦中派世代の悲願だった。「書き割り」の日本国憲法を、あたかも自然物であるかのように絶対的なリアリティーをもつものとして私らに提示したのは彼らである。その戦中派の想いを私は可憐だと思う。私には彼らの気持ちがわかる気がする。もうみんな死んでしまった。父も岳父も亡くなった。大事なことを言い残したまま死んでしまった。だから、私らはそれに関しては想像力で補うしかない。

2021年

11月

22日

内田樹さんの「憲法の話(長いです)」(その2) ☆ あさもりのりひこ No.1080

戦中派は二つのことがらについて沈黙していたと私は考えている。一つは戦争中における彼ら自身の加害経験について。戦時の空襲や機銃掃射の被害経験に関してはずいぶん雄弁に語ってくれたが、加害者として、中国大陸や朝鮮半島や台湾や南方において、自分たちが何をしたのかについては何も言わなかった。どういうふうに略奪したのか、強姦したのか、拷問したのか、人を殺したのか、そういうことについて子どもにも正直に語った大人に私は会ったことがない。

 

 

2021年11月3日の内田樹さんの論考「憲法の話(長いです)」(その2)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 戦中派は二つのことがらについて沈黙していたと私は考えている。一つは戦争中における彼ら自身の加害経験について。戦時の空襲や機銃掃射の被害経験に関してはずいぶん雄弁に語ってくれたが、加害者として、中国大陸や朝鮮半島や台湾や南方において、自分たちが何をしたのかについては何も言わなかった。どういうふうに略奪したのか、強姦したのか、拷問したのか、人を殺したのか、そういうことについて子どもにも正直に語った大人に私は会ったことがない。

 それは戦争経験文学の欠如というかたちでも現れていると思う。以前に高橋源一郎さんに教えてもらったのだが、敗戦直後にはほとんど見るべき文学的達成はない。戦争から帰ってきた男たちが戦争と軍隊について書き出した最も早い例が吉田満の『戦艦大和ノ最期』で、これは46年には書き上げられていた。大岡昇平の『俘虜記』が48年。50年代になってからは、野間宏の『真空地帯』、五味川純平の『人間の条件』、大西巨人の『神聖喜劇』といった「戦争文学」の代表作が次々と出てくるが、加害経験について詳細にわたって記述した作品は私の世代は少年時代についに見ることがなかった。

 ただ、私は戦中派の人たちのこの沈黙を倫理的に断罪することにはためらいがある。かれらの沈黙が善意に基づいたものであることが分かるからだ。

 ひどい時代だったのだ。ついこの間まで、ほんとうにひどいことがあった。たくさんの人が殺したり、殺されたりした。でも、それはもう終わった。今さら、戦争の時に自分たちがどんなことをしたのかを子どもたちに教えることはない。あえて、そんなことを告白して、子どもたちに憎まれたり、軽蔑されたりするのでは、戦争で苦しめられたことと引き比べて、「間尺に合わない」、彼らはたぶんそう考えたのだと思う。子どもたちには戦争の詳細を語る必要はない。子どもたちに人間性の暗部をわざわざ教えることはない。ただ「二度と戦争をしてはいけない」ということだけを繰り返し教えればいい。戦後生まれの子どもたちは戦争犯罪について何の責任もないのだから、無垢なまま育てればいい。戦争の醜い部分は自分たちだけの心の中に封印して、黙って墓場まで持って行けばいい。それが戦後生まれの子どもたちに対する先行世代からの「贈り物」だ、と。たぶんそういうふうに考えていたのではないかと思う。戦争の罪も穢れも、自分たちの世代だけで引き受けて、その有罪性を次世代に先送りするのは止めよう。1945年8月15日以降に生まれた子どもたちは、新しい憲法の下で、市民的な権利を豊かに享受して、戦争の責任から完全に免罪された存在として生きればいい。その無垢な世代に日本の希望を託そう。そういうふうに戦争を経験した世代は思っていたのではないか。そうでなければ、戦中派の戦争の加害体験についての、あの組織的な沈黙と、憲法に対する手放しの信頼は説明が難しい。

 

 例えば私の父親がどういう人間であるか、私はよく知っているつもりでいる。筋目の通った人だったし、倫理的にもきちんとした人だったから、彼が戦争中にそれほどひどいことをしたとは思わない。父は10代の終わりから30代の半ばまで大陸に十数年いたが、戦争中に中国で何をしていたのかは家族にさえ一言も言わなかった。北京の冬が寒かったとか、家のレコードコレクションが何千枚あったとかいう戦争とは無関係な個人的回想も、ある時期から後はぱたりと口にしなくなった。戦争中についての出来事は語らないというのは、あの世代の人たちの暗黙の同意事項だったのではないかという気がする。

 自分たちの戦争犯罪を隠蔽するとか、あるいは戦争責任を回避するといった利己的な動機もあったかもしれない。しかし、もっと強い動機は、戦後世代をイノセントな状態で育ててあげたいということだったと私は思う。そういう穢れから隔離された、清らかな、戦後民主主義の恩恵をゆたかに享受する資格のある市民として子どもたちを育てること、それこそが日本の再生だ。この子たちが日本の未来を担っていくのだ。そういう希望を託されてきたという感覚が私にはある。それは私と同年代の人は多分同意してくれると思うのである。

 私が小学校5年の時の担任の先生がその頃で35歳ぐらいだった。もちろん戦争経験がある。私はその先生が大好きだったので、いつもまつわりついていた。何かの時に「先生は戦争行ったことある?」と聞いたら、ちょっと緊張して、「ああ」と答えた。で、私がさらに重ねて「先生、人殺したことある?」と聞いたら、先生は顔面蒼白になった。聞いてはいけないことを聞いてしまったということは子どもにもわかった。その時の先生の青ざめた顔色を今でも覚えている。大人たちにはうかつに戦争のことを聞いてはいけないという壁のようなものを感じた。

 

 

 

2021年

11月

19日

内田樹さんの「憲法の話(長いです)」(その1) ☆ あさもりのりひこ No.1079

日本はアメリカの属国である。安全保障であれ、エネルギーであれ、食糧であれ、重要な国家戦略についてわれわれは自己決定権を有していない。

 

 

2021年11月3日の内田樹さんの論考「憲法の話(長いです)」(その1)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

もうすぐ出るSB新書の『戦後民主主義に僕から一票』には憲法について過去にブログに載せた文章がいくつか再録されている。これもその一つ。ただし、新書化に際して大幅に加筆したので、オリジナルの2倍くらいの量になっている。今日は11月3日。日本国憲法公布から75年経った。改めて憲法について考えたい。

 

 私が憲法に関して言いたいことはたいへんシンプルである。それは現代日本において日本国憲法というのは「空語」であるということだ。だから、この空語を充たさなければいけないということだ。

 日本国憲の掲げたさまざまな理想は単なる概念である。「絵に描いた餅」である。この空疎な概念を、日本国民であるわれわれが「受肉」させ、生命を吹き込んでいく、そういう働きかけをしていかなければいけない。

 憲法は書かれたらそれで完成するというものではない。憲法を完成させるのは、国民の長期にわたる集団的努力である。そして、その努力が十分でなかったために、日本国憲法はまだ「受肉」していない、というのが私の考えだ。

 

 もう一つ長期的な国民的課題がある。それは国家主権の回復ということである。

 日本はアメリカの属国であって国家主権を持っていない。その国家主権を回復するというのはわれわれの喫緊の国家目標である。これはおそらく100年がかりの事業となると思う。これもまた日本国民が引き受けなければならない重い十字架である。

 そして、国家主権の回復という国民的事業を一歩ずつでも前に進めるためには、「日本国民は今のところ完全な国家主権を持っていない」という痛ましい事実を認めるところから始めなければならない。

 日本はアメリカの属国である。安全保障であれ、エネルギーであれ、食糧であれ、重要な国家戦略についてわれわれは自己決定権を有していない。この事実をまず国民的に認識するところから始めなければいけない。

 けれども、現在の政権を含めて、日本のエスタブリッシュメントはそれを認めていない。日本はすでに完全な国家主権を有しているという「嘘」を信じているか、信じているふりをしている。すでに国家主権を有しているなら、アメリカの属国身分から脱却するための努力の必要性そのものが否定される。この重篤な病から日本人が目覚めるまで、どれくらいの時間が要るのか、私には予測できない。恐ろしく長い時間がかかることは間違いない。

 

 最初に「憲法は空語である」という考え方について、少しご説明を申し上げておきたい。

 いろいろなところから憲法についての講演に呼ばれる。もちろん、呼んでくれるのはどこも護憲派の方たちである。護憲派の集会へ行くと、客席の年齢層が高い。平均年齢はおそらく70歳くらいだと思う。若い人はまず見かけることがない。日頃から、駅頭でビラを撒いている方たちもそうだ。地域の市民たちが文字通り「老骨に鞭打つ」という感じで情宣活動をしたり、護憲派集会の会場設営の力仕事をされている。若い人が来ない。どうしてこんな老人ばっかりなんだろう。どうして日本の護憲派の運動は若い人に広がらないのか。

 それはどうやら若い人たちはむしろ改憲派の言説の方にある種のリアリティーを感じているかららしい。改憲派の言葉の方に生々しさを感じる。そして、護憲派の言説は「空疎」だという印象を持っている。たぶん、そうなのだと思う。だが、どうして護憲派の言説にはリアリティーがないのか。

 

 私は1950年生まれである。だから、私にとって日本国憲法はリアルである。それを「空疎」だと思ったことがない。憲法は私にとって山や川のような自然物と同じようなものとして、生まれた時からそこにあった。良いも悪いもない。自然物についてその良否を語らないのと同じだ。「憲法を護ろう」というのは、私たちの世代にとっては、当たり前のことであるわけだ。それは「大気を守ろう」とか「海洋を守ろう」とかいうのとほとんど変わらないくらい自然な主張に思えていた。

 だから、護憲派の人たちに60代、70代の人が多いのは当然なのである。この世代にとっては憲法には自然物としてのリアリティーがあるからだ。でも、若い世代は憲法にそのようなリアリティーを感じない。同じ文言であるにもかかわらず、育った年齢によって、その文言のリアリティーにこれほどの差が出るのだ。この差はどうして生まれたのか?

 この差は「戦中派の人たちが身近にいたか、いなかったのか」という先行世代との関わりの違いから生まれたと私は思っている。

 戦中派というと、われわれの世代では、親であったり、教師であったりした人たちだ。この人たちの憲法観が私たちの世代の憲法への考え方を決定づけた。戦中派の憲法理解が、戦後日本人の憲法への関わりを決定的に規定した。というのが、私の仮説である。

 私自身は、戦中派であるところの両親や教師たちから、「とにかく日本国憲法は素晴らしいものだ」ということを繰り返し聞かされてきた。そして、「この憲法は素晴らしいものだ」と言う時に彼らが語る言葉にはある種の重々しさがあった。「声涙ともに下る」実感があった。こんなよい憲法の下で育つことができて、お前たちはほんとうに幸せだ、と深い確信をこめて彼らは語った。その言葉に嘘はなかったと思う。

 私たちが子どもの頃、天皇制を批判する人は今よりはるかに多かった。もちろん学校の先生たちの中にもいた。天皇制について、はっきり廃絶すべきだと言い切る先生たちは小学校中学校に何人もいた。「天ちゃん」というような侮蔑的な言葉遣いで天皇を呼ぶ人もいた。それを咎める人もいなかった。でも、憲法について批判的なことを言う大人は私が子どもの頃には周りにはいなかった。

 私の世代には名前に「憲」という字が入っている男子がたくさんいる。今はもうほとんどいないと思うが、1946年の憲法公布から10年間ぐらいは、「憲男」とか「憲子」という名前はそれほど珍しくなかった。この時期だけに特徴的な命名だったと思う。それだけ親の世代が憲法に多くのものを期待していたということである。

 だから、「改憲論」というものを私はずいぶん後年になるまで目にしたことがなかった。たしかに、自民党は党是として結党時から自主憲法制定を掲げていたはずだが 、憲法を改正することが国家的急務であるというような言説がメディアを賑わせたということは、ずいぶん後になるまでなかった。特に1960年代末から70年にかけて、私が高校生大学生の頃は、世界的な若者の叛乱の時代である。そんな時期に憲法が話題になるはずがない。活動家たちはどうやってブルジョワ民主制を打倒して革命をするかという話をしていたのである。ブルジョワ憲法の良否が政治的主題になるはずがない。「憲法を護持すべきか、改正すべきか」が喫緊の政治的論件だと主張するような人間に私はその時代に一人も会ったことがない。

 つまり、私たちの世代は、子どもの頃は憲法を自然物だと思い込んでおり、学生のころは憲法のことは眼中になく、いずれにせよ、憲法が政治的主題であったことはなかったのである。

 ところが、ある時期から改憲論が政治的論件としてせりあがってきた。そう言われてみてはじめて「憲法を護持すべきか、改正すべきか」ということが一つの問題として存在するということを知ったのである。

 私は「憲法は自然物」と思い込んで育ってきた世代であるから、むろん「生まれつきの護憲派」である。しかし、改めて護憲論とされる人々の言葉を読むと、なんだかずいぶん「空疎」に思えた。それに比すと、改憲論には独特の生々しさと激しさがあった。憲法に対するただならぬ憎しみを感じた。これでは憲法に対してニュートラルな立場にある人たちは改憲論の方に引きずられるかもしれないと思った。

 そこで、「生まれつき護憲派」の立場から、どうして護憲論にはリアリティーがないのかということを考えた。

 考えたらすぐにわかった。

 日本国憲法を貫く理念は素晴らしいものであるが、これは日本人が人権を求める戦いを通じて自力で獲得したものではない。戦争に負けて、日本を占領したアメリカの軍人たちが「こういう憲法がよろしかろう」と判断して、下賜されたものである。日本人が戦い取ったものではない。負けたせいで転がり込んできたものである。人からもらったものを「護る」という仕事なのだから、あまり気合が入らないのも無理はない。

 私だってもちろん憲法が市民革命を通じて獲得されたものではないということは歴史的事実としては知っていた。にもかかわらず、それを「たいへんに困ったことだ」と実感したことはなかった。それは戦中派の人たちが憲法の制定過程に関してほぼ完全に沈黙していたからだ。こちらは子どもであるから、大人が決して話題にしないことについて、「それこそが問題なのだ」というようなことは言わないし、考えもしない。大人たちはうすうす知っていたのだろうが、日本政府とGHQとの間で、どういう駆け引きがあって、どういう文言の修正があって、現行憲法が制定されることになったのか、私たち子ども相手には何も説明がなかった。

 

 

2021年

11月

18日

ランニングのフォームについて ☆ あさもりのりひこ No.1078

走っているときは、理想のフォームを追及している。

理想のフォームで走る為に気を付けていることはいくつもある。

走りながら、下記の項目をチェックすることにしている。

個々の項目毎に注意すべき点はあるが、すべてが一つに繋がっている。

1 顎を引く

苦しくなると顎が前に出て、さらに苦しくなる。

頭部は重いので、上体の真上にしっかり維持する。

顎は引きすぎてもいけない。

顎を下に引きすぎると頭部が前に出てしまう。

2 両耳は両肩の真上

顎を引くと両耳は両肩の上に来る。

頭部が上体の真上に乗るようにする。

3 視線は前方(顔を上げる)

 苦しくなると、視線が足もとに落ちる。

 そうすると頭部が上体の真上から前にずれて、さらに苦しくなる。

 (1,2,3はセットである。)

4 肩甲骨を下に下げる

 肩甲骨にヒモをつけて真下に引っ張るイメージである。

 腕振りが滑らかになる。

 肩を張ら(上げ)ないようにする。

5 胸を張る

 肩甲骨を下げると自然に胸を張ることができる。

 猫背にならないように気をつける。

6 両腕は平行に振る

 脇を締めて、左右の腕が平行になる(真後ろに引く)イメージで振る。

 前鋸筋を使って腕を振る。

 背骨を中心にして上半身(胸部)を捻る。

7 肘を斜め上に引き上げる

  腕は「振る」というよりも、肘を斜め上に「引き上げる」。

8 掌は軽く握る

  掌を軽く握って、胸の前まで上げる。

  振り子のように腕を振る。

 (6、7、8はセットである。)

9 胸椎を使う

 胸椎を撓らせて走る。

 これはイメージするのが難しい。

10 重心は両足の踝の下

 立つときは、小指の根元、親指の付け根の膨らみのさらに下(下記19)、踵の3点で立つ。

 そうすると、足裏にアーチができる。

 このアーチからバネが生まれる。

11 適度な前傾

 反り返ったり、前に傾きすぎたりしないように気をつける。

12 腹を意識する

 鳩尾に気を集中する。

13 腰を使う

 左右の腰を動かして、脚を動かす。

14 股関節を使う

 股関節を使って脚を動かす。

 横腹のすぐ下の骨を動かして走る。

 足で走らない。

 股関節で走る。

 左右の太腿と下腹の境目に薄い板が付いていて、ペコペコ動くようなイメージである。

 腕振り(6)と連動している。

 (1314はセットである。)

15 座骨を真下に向ける

 座骨を真下に向けると肛門が閉まる。

16 内転筋を使う

 太腿の内側の筋肉を使う。

17 膝の切り替え

 左右の膝を交互に切り替える。

18 膝を真っ直ぐ前に出す

 地面を蹴った後、膝を真っ直ぐ前に出す。

 股関節を内側に巻き込むイメージで動かすと、膝が真っ直ぐ前に出る。

19 前に出した膝は最短距離で真下に下ろす。

  ストライドを広げようとして、脚を前に出しすぎて、搔くような走り方になると力をロスする。

20 足裏の親指の付け根の膨らみのさらに下で接地する。

  最初に地面に接するのはここ。

21 指先から踵までを使って地面を蹴る。

 地面の反発力を十分に得るために、踵まで使う。

22 足の指で地面を掴む

  親指が浮かないようにする。

 これはなかなかむつかしい。

23 足の内側で接地する

  朝守は、右のランニングシューズの外側がすり減って(削り取られて)しまい、酷いときには穴があいてしまう。

 左脚よりも右脚の方が力が強いことも原因かもしれない。

20と連動して、フォームを矯正している。 

24 リズムを大切にする

  安藤大(ひろし)さんにレッスンを受けたとき「抜群のリズムですね」と言われた。

 特に、階段や上りはリズムを大切にする。

25 リラックスする

 余計な力が入ってはダメだ。

 

  とは言っても、上記24個の項目をチェックしながらリラックスするというのも、ねぇ。

2021年

11月

17日

内田樹さんの「撤退のために」(後編) ☆ あさもりのりひこ No.1077

「子どもが生まれず、老人ばかりの国」において人々がそれでもそこそこ豊かで幸福に暮らせるためにどういう制度を設計すべきかについて日本は世界に対して「モデル」を提示する義務がある。

 

 

2021年10月27日の内田樹さんの論考「撤退のために」(後編)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 僕の書き方がいささか悲観的過ぎる、日本の衰え方をいささか誇大に表現しているのではないかという疑念を持つ方がおられると思います。でも、日本の未来について楽観できる余地はほんとうにないのです。

 国力衰退の第一にして最大のファクターは「人口動態」です。わが国の総人口は2004年をピークとして、今後減り続け、21世紀の終わりには、明治四十年代の日露戦争前後の水準にまで減少することが予測されています。人口推移の図表を見ると、1900年から2000年までに増えたのと同じだけが2100年までに減るので、人口推移グラフはきれいな左右対称の山形をなしています。

 具体的に言うと、2100年の人口予測は高位推計で6470万人、中位推計で4771万人、低位推計では3770万人です。現在が1億2600万人ですから、中位推計でも今から80年の間に7000万人以上減る勘定です。年間90万人。毎年県が一つずつなくなるというペースです。

 その減少分は海外からの移民で補えばいいというご意見もあるかも知れません。でも、今日本在住の外国人は290万人に過ぎません。パンデミックのせいで外国からの移住者数はむしろ減っています。それに入管問題で露呈されたように、日本社会は「異邦人」の受け入れ能力が悲しいほど低い。「多様性と包摂」という看板だけは掲げていますけれども、申し訳ないけれど今の日本人は人種・国籍・言語・宗教・生活文化を異にする「他者」たちと共生できるほどの市民的成熟には達していません。そのような市民的成熟が緊急に必要であるということについての国民的合意さえない。そんな国が人口減を移民で補うことができるはずがありません。

 人口減と超高齢化が日本の国力の衰微の最大の原因です。これは小手先の政策ではどうしようもない。初期条件として受け入れるしかない。

 でも、同じ「撤退」問題はこれから後、多くの先進国で起きることです。日本に続いて2027年には中国の人口がピークアウトして、以後年間500万人ペースでの人口減になります。その規模と速度は日本の比ではありません。中国の中央年齢は今は37.4歳でアメリカと同じですが、2040年には今の日本のレベル(48歳)に達します。韓国も2019年の5165万人をピークに減少に転じました。高齢者比率も2065年には46%に達し、日本を抜いてOECD加盟国の首位の老人国になります。世界中どこでも事情はそれほど変わらないのです。

 でも、日本が世界で最も早くこのフェーズに入る。そうであれば、「子どもが生まれず、老人ばかりの国」において人々がそれでもそこそこ豊かで幸福に暮らせるためにどういう制度を設計すべきかについて日本は世界に対して「モデル」を提示する義務がある。僕はそう思います。他のことはともかく、この「撤退」戦略においてくらいは「日本はこうやって撤退局面でソフトランディングに成功して、被害を最小化した」ということを世界にお伝えしたい。でも、今のままでしたら、「日本はこうやって撤退に失敗した」という「やってはいけない見本」を提示するということでしか世界の役に立たないということになりそうです。

 

 寄稿依頼にしては長くなり過ぎましたので、もう終わりにします。以上のような現状認識を踏まえて皆さんに自由に「撤退」を論じて頂きたいと思います。

 もちろん、現状認識が僕とは違うという方もおられると思います。「撤退など必要ない」という論ももちろん歓迎です。寄稿者全員ができるだけ多様な視点から、独自の「ものさし」で、この問題を縦横に論じてくださることが読者に裨益するところが最も多いはずだからです。

 寄稿を依頼したのはお忙しい方々ばかりですから、「ちょっと時間的に無理」ということもあるでしょうし、そもそも編集の趣旨が意に添わないということもあるでしょうから「書けません」という場合はご遠慮なくお断りくださって結構です。

 長い手紙を最後までお読みくださって、ありがとうございました。みなさまのご協力を拝してお願い申し上げます。

 

2021年10月

内田樹

 

 

2021年

11月

16日

奈良の柿

本日11月16日は、事務局の担当日です。

気温が下がってきて、木々が色づいてきましたね。

紅葉より先に色づくのが、柿ですよね。

先月より、立派な柿をたくさん頂きましたので、ちょっと柿について、みなさんにお伝えしようと思います。

奈良の富有柿
奈良の富有柿

奈良県は、古くから柿の産地であるのは、みなさんご存じでしょうか?

近年では、日本の柿の生産地のトップ3に入るらしいです。

特に五條市、合併前の西吉野は有名です。

柿の生産の歴史は、古くはヤマト王権の時代から栽培されていたといわれ、万葉歌人で有名な柿本人麻呂は、屋敷に柿の木があったので柿本と名乗っていたとか。

藤原宮(694710年)遺跡から柿の種子が多量に発見されたり、平城京(710784年)遺跡から柿の値段を書いた木簡が発掘されたりしているそうです。

近年では、奈良を訪れた正岡子規が読んだ「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」にあるように奈良の柿は有名だったのですね。

正岡子規が食べたのは、奈良県御所市が発祥と言われている御所柿の様です。

柿はそもそも原産地とされる中国から伝わったようですが、昔から「柿が赤くなると、医者が青くなる」ということわざに使われるように、柿は栄養価の高い果物として扱われたようです。

私は、よく母親からお酒を飲んだ後や二日酔いに良いと聞かされていましたが、それはカリウムによる利尿作用かなと思います。

その栄養は、多くが皮と実の間にあるので、食べにくいとは思いますが、皮と一緒に食べた方が栄養価を多く取れる様です。

完熟の奈良の富有柿
完熟の奈良の富有柿

余談ですが、以前スペインに行った際に、柿の話になり、スペイン語では何と言うのかを聞いたら、「caqui」と書いて、「カキ」と発音するそうです。意外と国際的に通用するようです。

でも英語では、「persimmon」と書いて、「パースィモン」です。

柿に興味をもたれ、もう少し知りたい方は、五條市に在る「柿博物館(住所:奈良県五條市西吉野町湯塩1345/電話番号:0747-24-0061)」に行ってみて下さい。

今なら産地で、まだ獲れたての柿や柿のデザートなどを食べられると思います。

2021年

11月

15日

内田樹さんの「撤退のために」(前編) ☆ あさもりのりひこ No.1076

国力が衰微し、手持ちの国民資源が目減りしてきている現在において「撤退」は喫緊の論件のはずであるにもかかわらず、多くの人々はこれを論じることを忌避している

 

 

2021年10月27日の内田樹さんの論考「撤退のために」(前編)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

晶文社から『撤退のために』(仮題)というアンソロジーを出すことになった。編著はいつもように私。十数名の方に寄稿依頼のメールを送った。果たして何人の方が寄稿してくださるかわからないけれど、以下が私の寄稿依頼である。

 

 みなさん、こんにちは。内田樹です。

 晶文社の安藤聡さん経由で、僕からの手紙が届くということは、「ああ、また寄稿依頼なんだな」とみなさんすぐに思われたと思います。ご賢察の通りです。今回は「撤退について」という主題での寄稿依頼です。まずは編集の趣旨についてご説明致します。

 

 先日、奈良県立大学の主催で「撤退学」をめぐるシンポジウムが開催されました。主催者側を代表して、同大の堀田新五郎先生が「今、撤退的知性の必要を問う」という問題提起をされて、それを承けて僕と水野和夫先生が講演をして、それから全体討議。議論の内容について、ここでは詳細にはわたりませんが、日本のこれからの「撤退」はどういうものになるのかという問題を大学人が提起してくれたことを僕は頼もしく思いました。というのも、国力が衰微し、手持ちの国民資源が目減りしてきている現在において「撤退」は喫緊の論件のはずであるにもかかわらず、多くの人々はこれを論じることを忌避しているからです。「撤退する日本はどうあるべきか」について衆知を集めて論じるという機運が高まっていない。

 今さまざまな指標が日本の国力が低下していることを示しています。歴史的条件が変化すれば、一国の国力が向上したり低下したりするのは「よくあること」です。少しも珍しいことではない。驚くこともないし、怒ったり、悲しんだりすることでもない。事実として粛々と受け止めるしかありません。でも、「国力が低下しているので、これにどう対処したらよいのか」を議論することそのものを忌避するというのは「よくあること」ではありません。それは異常です。病気になるのは「よくあること」です。病気になったら、その原因や症状や治療法を考えればよい。でも、病気になったのに「それについては話題にしたくない」というのは異常です。そんなことをしたら重篤化するばかりです。今の日本はそれに近いように見えます。

 今の日本政府部内には「国力低下の現状をモニターし、その原因を探り、効果的な対策を起案するためのセンター」が存在しません。個別的には、少子化をどうする、どうやって経済成長させる、どうやって軍事力を高めるかといった「前向きの」政策議論はなされていますが、全体的趨勢としての国力の衰微の現状と未来を「総合的・俯瞰的」に検討する部局が存在しません。

 僕が「撤退」と言っているのは、この国力衰微の現実に適切に対応するということです。痩せて腹回りがへこんだらベルトのボタン穴を一つずらすとか、寒気がするので厚着するとか、そういう種類のことです。非情緒的で、計量的な知性を働かせるべき問題です。にもかかわらず、そのことが制度的に忌避されている。どうしてなんでしょう。

 

「撤退」を議するセンターが存在しない理由はいくつか考えられます。

 第一の理由は「日本の国力は別に衰微などしていない。日本のシステムは順調に機能しており、補正や改良の余地はない」という考え方に固執している人たちが国政を担当しているということです。

 システムを補正し改良するということはシステムに瑕疵があったということを認めることからしか始まりません。でも、現在のわが国の為政者たちは「失政を絶対に認めないという」立場をこれまでかたくなに貫いてきました。そして、「誤りを決して認めない」という態度を取り続けることで長期政権を保ってきました。ですから「決して失敗を認めないこと」が成功体験として記憶されている。

 でも、「撤退」をめぐる議論は、これまで採択されてきた政策の適否についての精密な点検なしには成り立ちません。でも、それは現在指導層を形成している人たちが「それだけは絶対にしたくない」ことなのです。

 第二の理由はもう少し複雑です。それは為政者たち自身も「日本はこれからどんどん衰微してゆく」ということは客観的事実としては認めており、その原因も理解しており、それに対する対策もすでに講じているのだけれども、そのプロセスを国民に対して開示する気がないということです。「撤退」問題はすでに政府部内では徹底的に検討されており、対策も決定されているのだけれど、その事実そのものが隠蔽されている。僕はこちらの方が可能性が高いと思っています。

 今の日本の為政者たちの知性と倫理性について、僕はあまり高い評点を与えることができませんが、いくら何でも今の日本について「国力が増強しつつある」というような致命的な勘違いをするほど知的に不調であるとは思っておりません。それくらいのことは分かっているはずです。そして、その原因の相当部分が過去30年の失政に起因することもわかっている。喫緊の政治的課題が「目減りしつつある国民的資源を誰にどう分配するか?」ということであることもわかっている。ですから、当然にも自分たちなりの「撤退戦略」をすでに構想している。それくらいの知恵がなければ、統治機構はコントロールできません。でも、それについて公的な場面で話題にする気はない。というのは、それが国民資源のかなりアンフェアな分配計画だからです。僕はそう思います。

 彼らのこれまでの思考と行動のパターンを考えると、それは新自由主義的な「選択と集中」をさらに徹底したところの「強者にすべての資源を集中し、弱者は見捨てる」というものであると思います。それ以外の解のために知恵を絞るほどの倫理性を僕は日本の指導層に期待しておりません。でも、「強者が総取りする」という「撤退」戦略を今公開したら大多数の国民の怒りを買うことは間違いありません。さすがに大多数の有権者の怒りを買ったら政権の維持が難しくなる。だから、黙っている。

 

 いかなる国民的議論も経ずに、政府部内では「撤退計画」はすでに起案され、着々と実施されています。そして、ある日「ポイント・オブ・ノーリターン」を越えたところで、もう政府主導の「撤退計画」以外に選択肢がなくなった時点で、はじめて「日本は沈みつつあります。もう生き延びる手立てはこれしかありません」という手の内を明かす。そういうシナリオができているんだろうと僕は考えています。それがどういう「シナリオ」であるか、それは別稿で書きたいと思います。

2021年

11月

12日

内田樹さんの「2021年総選挙の総括」(後編) ☆ あさもりのりひこ No.1075

わが国で女性議員が少ないのは、男たちが女性の政治進出を妨害しているというよりは、「女性の政治参加を求めない政党」が久しく政権の座にあり、彼らが選挙に勝ち続けているからである。

 

 

2021年11月8日の内田樹さんの論考「2021年総選挙の総括」(後編)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

「女性議員はなぜ少ないのか?」中日新聞11月4日

 

 総選挙の総括を複数の媒体に寄稿した。違うところに同じ内容を書くのは学術の世界では「二重投稿」と言われて禁忌である。だから何とか違うことを書かねばならない。これまで「争点」「どぶ板選挙」「野党共闘」について書いた。この欄では「女性候補者の少なさ」について書く。

 今回の衆院選では45人の女性が当選した。前回から2人減。全当選者のうち女性が占める割合は9.7%。でも、これで驚いてはいけない。女性が参政権を得た戦後最初の総選挙でも、実は女性当選者は39人、議員総数の8.4%に過ぎなかったからであった。以来75年間、女性議員の割合は10%ラインを上下している。参議院では女性議員数は微増し続け現在は22.9%にまで来ているが、衆議院は2009年の11.3%が過去最高である。ずっとその程度なのである。

 有権者の50%は女性であるのに、彼女たちの集団を代表するはずの議員が10%以下しかいないというのはよく考えると不思議な話である。それどころか、市町村議会レベルだと「女性議員ゼロ」という議会が342(全議会の約20%)に及ぶ。

 どうして女性議員の比率はこれほど低いのか。いろいろな理由が考えられる。

 私は「どうしてこれほど女性議員の比率が少ないのか?」という問いの立て方そのものが問題の所在をむしろ分かりにくくしているような気がする。こう問うと、あたかも男女間に議席のゼロサム的な奪い合いがあり、男性がそれに勝利し続けているというような印象を私たちは抱いてしまうからである。だが、議席の9割を占める男性国会議員たちが「女性議員の数を増やさない」という暗黙の目的を掲げて一つの集団を形成しているようには見えない。男性議員たちは政党同士ではげしく対立し、同一政党内でもヘゲモニーをめぐって抗争を繰り広げている。そんな男たちが「女性の政治参加を阻止する」という一点についてだけは足並みを揃えているという仮説を私は採らない。

 現に、政党ごとに女性立候補者の比率は大きく違う。今回の衆院選でも、社民党は60%、共産党は35.4%、国民が29.6%、れいわが23.8%と野党は総じて高い。だが、自民は9.8%、公明は7.5%といずれもこれまでの女性国会議員の比率よりも低い候補者しか立てていない。つまり、与党の二政党ははっきりと「女性国会議員を増やす気がない」という意思表示をして選挙に臨んでいたのである。

 女性議員を増やすための「クオータ制」がときどき議論される。候補者や議席の一定数を女性に割り当て、違反した政党には政党助成金の減額などのペナルティを与えるという制度である。

 男性と女性の間で議席のゼロサム的な奪い合いがあり、その戦いに男性が勝ち続けているというのなら、そのようにして性間での資源分配に強権的に介入することには合理性がある。けれども、わが国で女性議員が少ないのは、男たちが女性の政治進出を妨害しているというよりは、「女性の政治参加を求めない政党」が久しく政権の座にあり、彼らが選挙に勝ち続けているからである。

 多数の女性有権者が「女性議員は少ない方がいい」と考えている政党に進んで投票し続けていることを「変だ」と思い始めない限り、現状は変わらない。

 

「若者はどうして投票しないのか?」信濃毎日新聞11月5日

 

 今回の衆院選も投票率が低かった。55.93%は戦後ワースト3位。特に若者の投票率が低かった。18歳が51.1%、19歳に至っては35.0%という目を覆わんばかりの数値だった。

 どうして若い人たちは投票をしないのかあちこちで訊かれた。私の仮説は「受験教育のせいかも知れない」というものである。その話をする。

 受験教育では教師が問いを出し、生徒にしばらく考えさせてから正解を示す。生徒たちは「問いと正解」をセットにして記憶する。そして、次に同じ問いを前にすると、覚えていた正解を出力する。正解を知らない場合にはうつむいて黙っている。誤答をするよりうつむいて黙っている方が「まし」だからである。少なくとも教室ではそうだ。教師は黙っている生徒にはとりあわず、次の生徒に向かう。だから、「誤答するくらいなら黙っている方がまし」ということが「成功体験」として日本の多くの子どもたちには刷り込まれている。

 

 選挙では「誰に投票すれば正しいか」という「正解」が事前には与えられていない。若者たちの多くはどの候補者が「正しい」かを判断するほどの情報を持っていない。友だちや家族とそれについて意見交換することもたぶんあまりないだろう。だから、彼らは「正解」を知らない状態で投票日を迎えることになる。そして、受験勉強で刷り込まれた「正解を知らないときは、誤答するよりは沈黙していた方がまし」という経験則を適用する。教師に「どうしてそんなバカな答えを思いついたのだ」と絡まれずに済むし、的外れな答えを口にするよりは黙っている方がまだしも賢そうに見える。中高生には熟知された事実だ。だとすれば、「正解」を知らない選挙では投票しないことが「まし」だという結論になる。いささか暴論だが、その可能性はあると思う。 

2021年

11月

11日

奈良マラソン2021への道 その15 ☆ あさもりのりひこ No.1074

10月22日(金)休足。

左上腕の痛みは8割方なくなった。

夜、接骨院で施術してもらう。

 

10月23日(土)休足。

左上腕の痛みは9割方なくなった。

明日は走れそうだ。

 

10月24日(日)午前、奈良マラソン試走。

2年ぶりに奈良マラソンのコースを試走した。

高天交差点から西の往復は省略として、それ以外はほぼ本番の行程を走った。

18㎞までは、順調だった。

22㎞を過ぎてから速度が落ちていく。

29㎞から32㎞までは「どん底」で喘いでいた。

32㎞を過ぎてやや復活した。

4時間49分19秒、36.578㎞。

トイレ休憩も含めると5時間05分36秒。

 

10月25日(月)休足。

 

10月26日(火)休足

 

10月27日(水)夜、トレッドミルでペース走、傾斜2%、30分、4.54㎞。

1㎞6分30秒のペースで走った。

 

10月28日(木)早朝、ビルドアップ走、39分27秒、6.57㎞。

6分40秒、6分23秒、6分18秒、6分11秒、5分44秒、5分21秒、最後の570mは4分57秒/㎞のペースだった。

この行程で2番目の記録だった。

自己ベストまであと3秒であった。

走る前に、室内で、3㎏のダンベルを両手に持って、上下に上げ下げする運動を10回やった。

腕を鍛えて痛めにようにする。

 

10月29日(金)休足。

朝食前に、両手に2㎏のダンベルを持って、体側から肩、頭上に上げて下ろす運動を10回やる。

ダンベルを持った両手を頭上に上げるときに、腕が真っ直ぐ伸びていること、頭部の真上に腕が上がっていることに注意する。

 

10月30日(土)休足。

朝、ダンベル上げ下ろし10回。

 

10月31日(日)朝、ダンベル上げ下ろし10回。

午前、ロング走、鷹鞭橋~栢森(山道入り口)~甘樫丘、4時間22分49秒、29.816㎞。

小雨が降っていたので、モンベル・バーサライトを着て走り始める。

1時間40分くらい走ったところで、バーサライトを脱いで腰に巻く。

これまでは、栢森のバス停で折り返していたのを、バス停を通り過ぎて、芋峠へ至る山道の入り口まで脚を伸ばす。

22㎞までは順調だった。

22㎞を過ぎてから失速した。

最後まで歩かなかったが、復調もしなかった。

22㎞を過ぎてからが課題だな。

失速しないで走ることができる距離を伸ばすことが必要だ。

 

11月1日(月)休足。

朝、ダンベル上げ下ろし10回。

 

11月2日(火)朝、ダンベル上げ下ろし10回。

夜、トレッドミルでジョギング、傾斜2%、30分、3.95㎞。

 

11月3日(水・祝)午前、芋峠への山道入口往復、2時間05分23秒、17.749㎞。

最後まで力強く走れた。

この時間と距離なら失速しない。

走り終えてから、ダンベル上げ下ろし10回。

 

11月4日(木)休足。

 

11月5日(金)休足。

朝、ダンベル上げ下ろし10回。

 

11月6日(土)休足。

朝、ダンベル上げ下ろし10回。

 

11月7日(日)午前、奈良マラソンの試走、2回目。

車で移動しているときに、途中まで雨が降っていたが、その後、雨はやんで、曇りときどき晴れ、微風、という快適な天候だった。

9時15分くらいに鴻ノ池陸上競技場に着いて、9時34分から走り始める。

1㎞7分前後のゆっくりしたペースで走る。

29㎞までは順調だった。

29㎞を越えてからペースが落ちる。

前回は歩いているのとさほど変わらない速度まで落ちたが、今回はそこまで落ちなかった。

4時間50分01秒(トイレ休憩も含む)、36.918㎞。

飲んだ水は1リットル。

前回は22㎞でペースダウンしたが、今回は29㎞まで持ちこたえた。

減速した後のペースが、前回ほど遅くならなかった。

そのせいで、前回のタイムより15分早かった。

あと1回試走する。

次回は、走る前4日間休足して、給水を2リットルに増やそう。

 

11月8日(月)休足。

 

11月9日(火)夜、トレッドミル、傾斜2%、30分、4.15㎞。

時速8.4キロ、1㎞7分のペースでジョギングした。

 

11月10日(水)休足。

右腰が張っている。

 

11月11日(木)休足、ダンベル上げ下ろし10回。

 

右腰の張りはマシになった。

2021年

11月

10日

内田樹さんの「2021年総選挙の総括」(前編) ☆ あさもりのりひこ No.1073

素人には政策の良否が判定し難くなった時代には候補者たちが踏んだ「どぶ板」の数が当落を決する。要するに単純接触効果が投票行動を支配するということである。分かりやすいと言えば分かりやすい話だが、議員の適性をそれだけで考量してよいのだろうか。

 

 

2021年11月8日の内田樹さんの論考「2021年総選挙の総括」(前編)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

総選挙の後にいろいろなメディアに選挙の総括を書いた。

「争点は何か?」「野党共闘をどう評価するか?」「女性議員はなぜ少ないのか?」「若者はどうして投票しないのか?」という4つの視点から書いた。

 

「選挙の争点」AERA11月4日

 

 選挙前にいくつかのメディアから「総選挙の争点は何でしょう?」と訊かれた。コロナ対策が喫緊の争点になるはずだったが、8月中旬をピークに感染者は急減した。どうしてこんなに減ったのか、医師に会うたびに訊くのだが、皆「わからない」と首を振るばかりである。感染が収束した理由がわからないのだから、政府のコロナ対策の適否について科学的な判断を下すことはまだできない。だから、コロナ対策は争点にならない。

 野党は経済的な指標を取り上げて、日本の国力が急激に低下しているのは過去9年の安倍・菅政権の政策の失敗が理由だと論じたが、与党はこれに取り合わなかった。与党が「経済政策は成功だった」と言い張って初めて論争になるのだが、与党が口をつぐんで、そんな話には興味がないという顔をしていれば争点にはならない。

 財政も外交も国防も、与野党ともに言いたいことを言うだけで、素人にはどちらに理があるのか分からない。専門的知識があると称する人たちがまるで違うことを言っているのである。素人に判断できるはずがない。これも争点にはならない。

 選択的夫婦別姓が争点化しそうに見えたが、これは自民党がこの政策に否定的だったのはコアな極右の支持者を喜ばせるためのマヌーヴァーであり、内心では「どうでもいい」と思っていたはずである。だから、本格的な争点になるはずもなかった。

 開票速報の時に「争点は何か」と訊かれた自民党の高市政調会長が勝敗を決したのは公約の違いではなく「個々の選挙区の事情の違いだ」と答えていた。そうなのだろうと思う。どれくらい駅頭に立ったか、地域の集まりに顔を出したか、陳情を受け付けたか、そういう「どぶ板」の活動が決定的だったということだ。

 そう考えると、地域の手当てを疎かにしてきた大物政治家たちが苦杯を喫したことの理由も、大阪での維新の全勝の理由もわかる気がする。

 素人には政策の良否が判定し難くなった時代には候補者たちが踏んだ「どぶ板」の数が当落を決する。要するに単純接触効果が投票行動を支配するということである。分かりやすいと言えば分かりやすい話だが、議員の適性をそれだけで考量してよいのだろうか。

 

「野党共闘の個人的果実」『週刊金曜日』11月4日

 

 節操がないと非難されそうだけれども、今回の総選挙で私は3つの政党を応援することになった。

 最初に依頼があったのは兵庫七区で立った立憲民主党の安田真理さんからである。前回の参院選でも私は安田さんの推薦人になった。私は立憲民主党を枝野さんが立党した時に、その志を多としてサポーターになった。だから支持政党から出る候補者からの依頼を断ってはことの筋目が通らない。それに私に推薦人を依頼するということは「内田樹が推薦するような候補者には絶対入れない」という有権者たちを失うというリスクを取るということである。「僕なんかに推薦を頼んでいいんですか?」と一応お訊ねしたけれど、にっこり笑って「お願いします」と言われた。胆力のある方である。

 選挙期間に安田さんの応援集会で一度だけ応援演説をした。15分話してくれと頼まれたのに政権交代の喫緊である所以を論じているうちに興奮して30分しゃべってしまって安田さんを慌てさせてしまった(すみません)。残念ながら選挙区では三位、比例復活もならなかった。捲土重来を期したい。

 実を言うと、私が応援弁士として立った候補はこれまでほとんど当選したことがない。国政も、知事選も、市長選も、だいたいいつも「敗軍」の側である(唯一の例外は福島みずほさん)。でも、子どもの頃からずっと少数派で、いつでも「内田は変だ」と多数派から言われ続けてきたので、選挙でも少数派の側にいることに特段の不思議はないのである。

 その後、雨宮処凛さんから「山本太郎のために応援動画を撮らせて欲しい」という依頼があった。山本さんには前に凱風館においで頂いて、お話しを伺ったことがある。見た目は「マッチョ」だけれども、実に繊細で、気配りの行き届いた人だった。前回の参院選の時は事務所開きの日に東京にいたので、お祝いに駆けつけた。クローズドの集まりだったが、私の友人知人がたくさん来ていて、彼のネットワークの広さに驚いた。

 その後、梅田で街宣をするという知らせがあったので、話を聴きに行った。姿を探したら、山本さんは雑踏に紛れてひとりでスピーカーの音響のチェックをしていた。彼がこれまで組織と運動を自分ひとりで「手作り」してきたということがその姿から知れた。だから、応援動画もお引き受けした。

「山本太郎を応援すると、全方位から矢が飛んできますよ」と雨宮さんに脅かされたけれど、別にどこからも矢なんか飛んでこなかった。「矢」というのは「あなたのことを見損ないました」とか「もうあなたの本は買いません」とかいう言葉づかいで飛んでくるものなのだろうけれど「内田をこれまでうかつにも過大評価していた」という人は、私に文句を言う前におのれの「うかつ」さと「人を見る目のなさ」をまず反省した方がいいと思う。

 さいわい、れいわ新選組は国会に3議席を獲得した。また山本太郎の雄姿を国会で見ることができることを私はたいへんにうれしく思う。

 投票日直前に今度は日本共産党から応援動画の依頼があった。「東京ブロックでは比例に『れいわ』と書いてください」という動画を撮った直後に「比例は日本共産党」というのはいくら何でも二枚舌ではないかと思ったけれど引き受けた。正直なところ比例区には野党共闘の四つに割って0・25票ずつ入れたい気持ちだったからである。

 今回の選挙における野党共闘をどう総括すべきかの議論が今盛んだけれども、一人の有権者の中で複数の政党への支持が「同居できた」というあまり目につくことのない事実のうちにも野党共闘のささやかな「果実」を見出すことは可能だと私は思う。

 

 

2021年

11月

09日

大人になると・・・@事務局より

皆さんこんにちは。今日は事務局担当日です。

 

先日起こった京王線の事件以来、模倣事件が多発しています。

私も普段電車通勤ですし、こういったニュースが連日のように流れているのを見ると

他人事ではなくちょっと怖いですね・・・。

 

ちなみに、今朝、テレビでは、ビジネスバッグやリュックを体の前に持ったり、

着ている上着などを腕に巻いて攻撃から身を守る方法を紹介していました。

 

しばらくは、電車に乗るときには周りに注意しようと思います(^_^;)

 

 

さて、先週、コロナ禍でなかなか会えなかった姪っ子達が遊びに来たので、

延び延びになっていた誕生日プレゼント🎁を買いに出かけ、その後、近くの公園へ

遊びに行ったのですが。

 

以前は結構人見知りをしていた姪っ子が、

同じ公園に遊びに来ていた近所の子ども2人に自分から声をかけ、

 

「滑り台、後ろ押して~」「こう滑ってみたら面白いよ」「次は〇〇してみよ~」

と一緒に遊び出すように。

 

人見知りもすっかり克服したようで、姪っ子の成長ぶりを

最初微笑ましく見ていたまでは良かったのです😅

 

 

ところで・・・私は姪っ子たちには、一緒に遊ぶ要員として連れてこられた訳で。

 

子ども2人と遊ぶだけでも結構ヘトヘトだというのに、今日はなんと4人(゚Д゚)

子どもが増えると必然的に発生するのが鬼ごっこ。

 

いろおに~ こおりおに~ とたくさん鬼👹を勤めさせていただきました<(_ _)>

 

 

そして夜には・・・布団へ撃沈・・・😵

 

体が痛くて朝までぐっすり・・・できないのが大人です💧

 

2021年

11月

08日

内田樹さんの「コロナ後の世界」(その8) ☆ あさもりのりひこ No.1072

国民を敵味方に分断して、味方の利害だけを配慮するというのは「ナショナリズム(nationalism)」ではありません。それは「トライバリズム(traibalism)」、部族主義です。

 

 

2021年10月15日の内田樹さんの論考「コロナ後の世界」(その8)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

野蛮なトライバリズムから健全なナショナリズムへ

 

 パンデミックでグローバル資本主義が停滞して、国民国家の再強化が始まりました。グローバル経済から国民経済へのシフトが始まる。これまでアウトソースしていたもののうち、集団の存続に必須のものは国産化されるようになる。SDGsや気象変動に対するトランスナショナルな行動は、グローバル資本主義の暴走を止めて、政治単位としての国民国家の力を強めようとする動きですから、これも平仄が合っています。「グローバルからナショナルへ」という流れはこのあとしばらく続くでしょう。

 問題は国民国家の再強化がどのような形のナショナリズムを生み出すかということです。パンデミックで露呈したのは、どの国も、結局一番大事なのは自国民を守ることだったということです。

 菅政権が短命に終わったのは、「国民国家の最重要の任務は自国民の健康と生命を守ることだ」という世界の常識を過少評価したことです。安倍―菅政権は、「すべての国民の利害を代表する」のではなく、身内や縁故者や支持者の利益を優先的に配慮しました。反対者を含めて全国民の利益を代表する気がありませんでした。国民を分断して、一部の身内の利益を配慮する方が、国民を統合して、全体の利益を配慮するよりも政権維持には有利だということを学習した。

 でも、その成功体験がかえって感染症対策の足をひっぱっることになりました。感染症は国民の政治的立場にもその他の属性にもかかわらず、国内の全住民に等しく良質な医療機会を提供することなしには抑制できません。でも、「その政治的立場にかかわらず、全国民の利益を配慮する」ということを政権は過去9年間本気で取り組んだことがなかった。だから、やり方がわからなかった。それが感染症対策の失敗の原因だと思います。

 国境線の外側に関しては国境線の壁を守って、かなり排他的ではあるけれども、国内については、その属性にかかわりなく、全住民の権利を等しく配慮するというタイプの為政者がこれから世界では「あるべき政治家」となることでしょう。少なくともそれが「疫学的に望ましい統治者」です。

 そのような趨勢が「健全なナショナリズム」の形成に結びつけばよいのですが、排外主義イデオロギーに転化するリスクが高い。ですから、ナショナリズムが過激化することなく、国民国家の同胞たち、「有縁の人たち」をまず配慮するけれども、過度に排外主義的にならないような「穏やかなナショナリズム」がこれからめざすべきイデオロギー的な着地点だと思います。

 しかし、いまの日本で「ナショナリズム」と呼ばれているものは、その語の本来の意味での「ナショナリズム」ではありません。国民を敵味方に分断して、味方の利害だけを配慮するというのは「ナショナリズム(nationalism)」ではありません。それは「トライバリズム(traibalism)」、部族主義です。

 ナショナリズムというのは、その属性にかかわらず、性別や信教や出自や政治的立場にかかわらず、「日本人であればみな同胞」として温かく包摂することです。国民を政治的立場で色分けして、反対者には権利を認めず、資源の分配から遠ざけるというような政治家は「ナショナリスト」とは呼ばれません。それはただの「トライバリスト」です。彼は「自分の部族」を代表しているのであって、「国民」を代表しているわけではない。

 このトライバリストたちによる政治がこの10年間日本をこれだけ衰微させてきたのです。トライバリストは国民を分断することによって長期政権を保つことには成功しましたけれど、敵や反対者の活動を封殺し、公的セクターから排除したために、国力は著しく低下しました。当然のことです。国民の一部しか国家的な事業に参加する資格を認められないのなら、国力は衰微します。多くの場合、イノベーションは学術的なものも、ビジネスモデルでも、メインストリームの外側にいる人たちが起こすものです。でも、トライバリストたちは自分たちの「部族」に属している人間にしか公的支援を行わないできた。日本学術会議の会員任命拒否が典型的ですけれども、政府は「政権に反対する学者には公的支援を行わない」という姿勢を明らかにしました。「部族」外のイノベーターには機会を与えないということを10年間続ければ、経済力も、文化的発信力も、国際社会におけるプレゼンスも劇的に低下して当然です。

 かつて帝国主義国家が植民地を支配するときに活用した「分断統治(divide and rule)」によってたしかに政権基盤は安定しましたけれど、国力は失われた。植民地の場合はそれでもよかったのです。植民地は宗主国にとっての収奪の対象であって、むさぼるだけむさぼって、収奪する資源が尽きたら棄てればいいからです。でも、独立国が自国の統治に「植民地主義」を適用するということはあり得ないことです。その「あり得ないこと」を過去10年間安倍ー菅政権は行ってきた。この致命的な失策をどこかで補正しなければなりません。どこかで、トライバリズムを棄てて「ふつうのナショナリズム」に立ち戻る必要があります。その道筋はまだ見えていませんが、それ以外に日本再生のチャンスはありません。

 

 

2021年

11月

05日

内田樹さんの「コロナ後の世界」(その7) ☆ あさもりのりひこ No.1071

中国国内では台湾を侵攻するかもしれないという世論形成がなされ、アメリカ国内では台湾がもし中国に攻められたら、見捨てようということを公然と言う人が出てきている。そういうことを日本のメディアはほとんど報道しませんし、冷静な分析記事を読むこともありません。

 

 

2021年10月15日の内田樹さんの論考「コロナ後の世界」(その7)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

中国のリスクファクター

 

一つは人口動態です。中国の国防費の総額は年々増えています。しかし、そのすべてが兵器の開発や充実に用いられているわけではありません。世界のどこの国でも国防費の相当部分は人件費です。中国の国防費に占める人件費の割合は予測ですが、おそらく30%から40%だと思われます。現役の軍人の給料であれば、それは軍事費としてカウントできますが、人件費には退役軍人の年金も含まれています。これは国防上には積極的な意味はありません。そして、この年金支出が国防費に占める割合が年々高まっている。

 中国の人口は2027年にピークアウトして、それから急激な高齢化と人口減局面を迎えて、以後一年に500万人のペースで人口が減ります。特に生産年齢人口の減少が顕著で、2040年までに30%の減少が見込まれています。一方高齢者は激増して、2040年には65歳以上が3億5000万人以上になります。それに、「一人っ子政策」が1979年から2015年まで採用されていたせいで、この世代には男性が女性よりずっと多い。ですから、男性たち、それも低学歴・低収入の男性が生涯未婚で老後を迎えます。彼らは親が死んでしまうと、兄弟姉妹も配偶者も子どももいない天涯孤独の身になります。中国では経済リスクを抱えた個人の救済のためには親族ネットワークがありましたが、親族がいない人にはこのセーフティネットがありません。中国はこの何千万もの高齢者を支える社会保障システムをいまは持っていません。これから構築しなければならない。

 ですから、中国としてはもう大型固定基地とか、巨大空母とか、巨大な軍隊を持つより、早くAI軍拡へ舵を切りたいのだと思います。初期経費はかかりますが、長期的な管理コストはAIの方が圧倒的に安いからです。ドローンやロボットには給料を払う必要もないし、年金受給も要求しませんから。ですから、中国の人口動態はAI化推進へのインセンティブになると思います。

 中国にはもう一つの懸念材料があります。それは治安維持コストの高騰です。すでにだいぶ前から治安維持コストは国防費を越えています。つまり、中国政府は予算配分上は「海外からの軍事的侵略リスク」よりも「国内における内乱リスク」の方を高く見積もっているということです。膨大な予算を投じて国民を監視している。顔認証、虹彩認証、声紋認証など、中国の国民監視テクノロジーは世界一です。この監視テクノロジーはシンガポールやアフリカの独裁国家へと輸出されています。

 香港や新疆ウイグルの統治問題もありますから、これから先、中国の国家予算に占める国民監視コストは増大することはあっても、減少することはないと思います。これも先行きは中国政府のフリーハンドをかなり制約する要因になるでしょう。

 

 うちの門人に台湾の方がいます。日本企業の社員で、いま上海に出向しています。先日彼が一時帰国した時に挨拶に来てくれたので、最近の上海の様子を伺いました。ショックだったのは、彼が会社で中国人の同僚と会話しているときに、彼が台湾出身だと知りながら、「台湾への軍事侵攻」の話題が日常会話で出てきたという話でした。「もうすぐ台湾は中国に併合されるだろう」というようなことを中国の一般市民が日常会話で平然と口にしている。

 中国政府が台湾侵攻の計画をほんとうに練っているのかどうかは分かりませんが、国民に対して、「いつでも台湾を軍事侵攻する用意がある」というアナウンスをしていて、いざそういうことが起きた時にも批判的な世論が出てこないように世論操作を始めていることはたしかです。

 中国の台湾への軍事侵攻は果たしてあるのでしょうか。『フォーリン・アフェアーズ・レポート』の6月号にショッキングな論文が出ていました。それはもし中国軍が台湾に侵攻しても、アメリカ軍は出動すべきではないと主張したものです。その場合には、気の毒だが台湾を見捨てよう。台湾を守るために出動すれば米中の全面戦争になってしまう。それは回避すべきだというのです。

 台湾への軍事侵攻を座視していた場合の最大のリスクは、韓国と日本がアメリカに対する信頼を失って、同盟関係に傷がつくことだけれど、これについては心配する必要がない。アメリカが台湾を見捨てた場合、日本と韓国はアメリカに対して不信感を抱くよりはむしろ中国に対する恐怖心をつのらせ、一層アメリカとの同盟関係を強固なものにしようとするだろうという予測でした。

 中国国内では台湾を侵攻するかもしれないという世論形成がなされ、アメリカ国内では台湾がもし中国に攻められたら、見捨てようということを公然と言う人が出てきている。そういうことを日本のメディアはほとんど報道しませんし、冷静な分析記事を読むこともありません。

でも、いまパンデミックをきっかけに世界の軍事状況が変化しつつあることは間違いありません。AI化が進行すれば、これから大型固定基地は不要になります。広いエリアに大量の武器弾薬を備蓄して、何万人も兵隊たちを住まわせておくというタイプの大型固定基地は時代遅れのものになる。

 そうなった時に米軍は日本国内の米軍基地を返還するでしょうか。僕はかりに米政府が在外基地の撤収を検討し始めても、日本の場合は米軍が強硬に反対するだろうと思います。大型固定基地と、そこに付属している諸設備を米軍は「既得権」であり、「私有財産」だと思っています。ですから、軍略上の必要性がなくなったあとも、手離さないだろうと思います。

 アメリカはキューバのグァンタナモ基地を返還していません。100年以上前の米西戦争の時に租借して、いまも年額4000ドルで借り上げています。当然、キューバ政府は以前から返還を要求し続けていますが、米軍は返す気がありません。

 

 グァンタナモ基地にはアメリカ国内法もキューバの法律も適用されません。ですから、米軍はその基地内では米軍のレギュレーションだけに従って、好きなことができる。一種の治外法権空間です。キューバは返還をつよく要求しているのにアメリカは返還しない。日本は返還要求さえしていないのですから、返還されるわけがない。地政学的環境や軍備のありようがこの先大きく変わった場合でも、おそらく日本国内の米軍基地は未来永劫「米軍の資産」として残されるでしょう。