〒634-0804
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なら法律事務所
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業務時間
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2026年
7月
17日
金
この土地が発信するかすかな霊的な波動を感知して、坂を上って、この「岬」にたどりつく人たちを私はぼんやり待っている。私もそうやってここに導かれたのだ。
2026年7月5日の内田樹さんの論考「聖地とキャンパス」をご紹介する。
どおぞ。
学校法人の理事長になったので、ふだんの私ならまずお目にかかることのない人たちによく会う。広告代理店の人たちとコンサルの方たちである。「こうすれば大学からのメッセージがちゃんと受験生に届いて、志願者が増えます」といろいろ私の知らない言葉を使ってやり方を教えてくれる。
でも、私はあまり真面目に話を聴かない。誰がどの学校を選ぶことになるのかというのは「ご縁のもの」だと思っているからである。技巧的に受験生の眼を惹きつけるのはなんだか「あざとい」気がする。
そんなことを言うと「何を浮世離れしたことを言っているんですか」と叱られそうだけれど、ほんとうにそう思っている。
私自身は何の自発的な意図もなく、誰かに誘われたわけでもなく、ある日「ふと、引き寄せられるように」合気道自由が丘道場の門を叩き、ある日「もののはずみで」エマニュエル・レヴィナスの『困難な自由』を手に取った。そして、生涯にわたる武道の師と哲学の師に出会った。「ご縁」という他ない。
テレビの広告やネット情報で、「母校」と呼ぶに値する学びの場に導かれるということはあるのだろうか。それより「何となく」「ふと思い立って」「気がついたら」このキャンパスに足が向いて、そこで「何か」を感じて、もっとたくさん感じたいと思って、この学校に来ることにしたという方がいい。
うちの大学は縄文海進期に岬だったところに建っている。海に突き出した突端にはよく神社仏閣や墓地がある。前に中沢新一さんの『アースダイバー』でそう教わった。実際、神戸女学院のキャンパスには岡田神社という延喜式内社がある。ミッションスクールの敷地の中に神社があるので来訪者は不思議な顔をする。でも、1100年前にすでに「聖地」認定された場所なのだから、複数の宗教施設が重畳するのは当然だと思う。
この土地が発信するかすかな霊的な波動を感知して、坂を上って、この「岬」にたどりつく人たちを私はぼんやり待っている。私もそうやってここに導かれたのだ。
「待ってても誰も来ませんよ」と言う人がいるが、そうだろうか。きっといると思うけど。
(AERA6月24日)
2026年
7月
16日
木
今年の春、妻がノースフェイスのズボンを買ってくれた。
サイズはXLである。
試しに履いてみると、ウエストがキツイ。
なんとかボタンを留めたが、パンパンに張り切っていて、ボタンが千切れそうだ。
妻は、ダメだ、返品しよう、と言った。
オラは、よし、このズボンが履けるように痩せたる、と言った。
ノースフェイスのXLのズボンを履くために、断食することにした。
2013年2月7日のNo.3のブログに「断食」について書いた。
いつのまにか、断食をしないようになっていた。
マラソンのレースに出場するようになって、しっかり食べて、しっかり走ることを優先してきた。
おそらく10年以上、断食していない。
2026年4月から断食を再開した。
1か月に1回、朝・昼・晩の3食を抜く。
何も食べない。
飲むのは、お茶か白湯。
断食を始めた頃は、朝食⇒昼食⇒夕食の順番で抜いて行った。
そうすると、三食抜いて、腹ぺこの状態で夜を迎える。
これでは、腹が減って、眠れない。
そこで、夕食⇒朝食⇒昼食の順番で抜くことに変えた。
すると、夕食を抜いただけの状態で夜を迎えるので、空腹感が少なくてなんとか眠れる。
1日目の昼食を食べた後、断食に入る。
夕食を食べない。
眠りが浅い。
2日目の朝食を食べない。
頭が少し重い。
2日目の昼食を食べない。
1日目の午前12時(午後0時)くらいに昼食を食べてから、2日目の午後8時くらいに夕食を食べるので、約32時間絶食することになる。
断食明けの夕食は、胃が空っぽなので、「お粥」とか「うどん」とか胃に優しい消化の良いものを食べる。
いきなり、刺激の強い物や脂っこい物を食べると胃が受け付けなくて下痢をする。
断食すると「飢え」を実感することができる。
32時間後に食べ物を食べられることがわかっていても辛い。
もし、つぎに、いつ食べ物を食べられるのかわからないとしたら、大変酷な状況に陥る。
断食すると「食べ物の有り難さ」を実感する。
ゆっくり味わって食べるようになる。
毎日、食べるのが当たり前の生活を続けていると気づかない感覚である。
断食すると、胃の中が空っぽになる。
胃腸を32時間休めることができるので、消化機能が良くなる。
断食の後2~3日は、胃腸に空腹感(飢餓感)が残っている。
3食抜いた後、3食食べて、体調が元に戻る。
断食中の朝の運動は休む(たとえば火曜日)。
断食後、3食食べて、体調が戻るので、断食後の翌朝の運動も休む(たとえば水曜日)。
朝の運動を2日休んで、3日目に運動を再開する(たとえば木曜日)。
4月下旬から断食を始めた。
朝守の体重の変化は次のとおりである。
4月 4日 74.8㎏
4月11日 74.6㎏
4月18日 75.1㎏
4月25日 74.3㎏
5月 2日 73.55㎏
5月 9日 73.4㎏
5月16日 73.9㎏
5月23日 73.05㎏
5月30日 73.55㎏
6月 6日 73.25㎏
6月13日 73㎏
6月20日 72.25㎏
6月27日 73.25㎏
7月 4日 72.5㎏
7月11日 72.45㎏
断食すると体重が減る。
断食後はこれまで通り普通に食べるので体重が増える。
しかし、完全に元には戻らないで、以前より少し軽くなる。
これを繰り返すと、毎月、少しずつ体重が減っていく。
体重が70㎏を切れば、ノースフェイスのXLのズボンを楽に履けると思う。
2026年
7月
15日
水
何年か前、外国の雑誌が日本の大学の特集をしたことがあった。インタビューされた学生たちは自分たちのありようを三つの形容詞に託した。それは「罠にはまり(trapped)」「釘付けにされ(stuck)」「息ができない(suffocating)」だった。
2026年6月24日の内田樹さんの論考「知的節度について」をご紹介する。
どおぞ。
学校法人の理事長になってしまったので、退職以来15年ぶりにスーツを着て、ネクタイを締めて出勤している。また「看板」を背負わなければならないのが悩みの種である。
15年前まで、大学で教員をしていた頃は「大学教授ともあろうものが」というマクラを振って𠮟りつける人がたくさんいた。「大学教授ともあろうものが、こんないい加減なことを書いてよいのか」と。大学教授にはそれなりの知的節度が求められるのだそうだ。
そんなこと言われても困る。こちらは子どもの頃からいつも「内田の言うことは変だ」と言われ続けていた人間である。頭の中で変なことを考えてしまうのだから仕方がない。その変なことを書いていたら本にしてくれる編集者に出会い、変な研究をしていたらそれを面白いと思ってくれた大学に採用された。「変なこと」で飯を食ってきた人間に「変なことを言うな」と言われても困る。
もちろん私に「知的節度」が欠けていることは喜んで認める。著作が異常に多いし、主題が異常に多岐にわたっている(哲学、文学、教育、映画、武道、能楽、外交安全保障などなど)。
少し前に、年下の学者たちから「内田は身の程を知らない」と叱られたことがある。自分の専門領域を守って、よけいなこと(主に政治にかかわること)については口を噤んでいるのが「学者の節度」だとこの人たちはお考えのようである。別に「節度」についてどのような定義をお持ちになっても、それはその方の自由であるから、「身の程を知れ」と言われても、私としては「はいはい」と聞き流すことしかできない。
でも、気になるのは、彼らが「知的放縦」に対して憎しみに近い感情を持っていることである。自分は我慢しているのに、どうしてお前はそんなに好き勝手なことをするのだという苛立ちに似たものを私は感じる。
彼らは「自分の専門」という「タコツボ」に入って、そこから出ないように自制している。そうしろと子どもの頃から教えられてきたからである。「一日も早く自分の専門領域を決めて、一度そこに入ったら後は死ぬまでそこから出るな」と。
90年代の終わりに「自分捜しの旅」ということを中教審が言い出した。中教審が言うことだから、「国民を支配しやすい鋳型にはめる」ことが目的であることは初めからわかっている。でも、「自分捜し」と「支配しやすい人間形成」をつなぐ理路が私には最初のうちはわからなかった。今はわかる。
「自分捜し」というのは単に「早く適職を探す」という意味だったのである。適職に就くためには一日も早くおのれの適性を知り、無駄な迂回をせず、ひたすら専門分野の勉強をして、資格や免許を取り、あとは一生その仕事を続ける。自分で選んだ「タコツボ」に嵌りこんで、そこから一生出てくるな、と。
自分で選んだ「タコツボ」に終身幽閉されてることを子どもたちは「自分らしい生き方」なんだと教えられた。気の毒な話である。
だから、高校生たちは「夏休み明けまでに、自分の夢を決めてくること」という課題を与えられると暗い顔になるという。当然だろう。だって、それは「自分を閉じ込める檻を選べ」というようなものだからだ。
何年か前、外国の雑誌が日本の大学の特集をしたことがあった。インタビューされた学生たちは自分たちのありようを三つの形容詞に託した。それは「罠にはまり(trapped)」「釘付けにされ(stuck)」「息ができない(suffocating)」だった。
そんなにつらいのなら、「檻」から出ればよいのにと思うけれど、その言葉が彼らに届かない。
(中日新聞6月15日)
2026年
7月
14日
火
本日7月14日は事務局が担当です。
今日は、「気象衛星ひまわり」の日だそうです。
1977年のこの日、日本初の静止気象衛星「ひまわり1号」が打ち上げられました。以来、ひまわりは半世紀近くにわたり、日本とアジアの空を見守り続け現在は、ひまわり8号が主で、予備的に9号が待機しているそうです。
これからの季節には、特に台風の進路予測、豪雨の監視、熱中症警戒に関して、さらに航空・海上交通の安全確保など、私たちの生活の裏側でひまわりは休むことなく働き続けています。

私たち法律事務所で働く者としては、この「ひまわり」という名前を聞くと、もうひとつ思い浮かぶものがあります。 そう、日本の弁護士バッジです。
弁護士バッジは中央に「天秤」、周囲に「ひまわり」があしらわれています。 天秤は“公平・正義”を、ひまわりは“自由と希望”を象徴するとされています。
ひまわりは太陽に向かって伸びる花。 その姿は、依頼者の未来に光を当て、より良い方向へ導こうとする弁護士の姿勢と重なります。
気象衛星ひまわりと弁護士バッジのひまわりには、意外な三つの共通点があります。
一つ目は、どちらも「見えないところで支える存在」であること。 気象衛星ひまわりは宇宙から、弁護士は社会の中で、人々の安全や権利を守っています。
二つ目は、どちらも「未来を予測し、備える」役割を持つこと。 気象衛星は災害の兆候を捉え、弁護士はトラブルの芽を見つけ、予防し、解決へ導きます。
三つ目は、どちらも「希望の象徴」であること。 気象衛星は災害から命を守り、弁護士は法的問題から人生を守る。 どちらも人々の生活に“安心”という光を届けています。
気象衛星ひまわりが空から見守るように、弁護士もまた、法律という視点から人々の暮らしを見守っています。 その働きは派手ではありませんが、確かに社会を支える力になっています。
今日という日に、空を見上げてみるのも良いかもしれません。 残念ながら、気象衛星ひまわりは、地球の赤道上空 約36,000 km に位置する静止衛星で、肉眼では観えないそうです。しかし、ひまわりの名を持つ衛星が、静かに、そして力強く私たちの生活を守っています。
当事務所も、ひまわりが象徴する“希望”と“自由”を胸に、これからも地域の皆さまの安心に寄り添える存在でありたいと思います。
2026年
7月
13日
月
「文明」とは「敵とともに生き、反対者とともに統治する」ことだ。
2026年6月24日の内田樹さんの論考「国民国家と文明」をご紹介する。
どおぞ。
英国在住のブレイディみかこさんとオンラインでおしゃべりをした。英国と日本の政治状況があまりに似ているので、話を聴いているうちに少し寒気がしてきた。
それは両国とも「ポピュリズム国家」だということである。かつて有権者たちは「一般人よりも知的・道義的にすぐれた人」を選び出して公権力と公共財の運用を託した。それが民主主義の不文律だった。今は違う。ポピュリズムとは「自分たちと同程度の知性・道義性の人物の方が自分たちの代表にふさわしい。自分たちと同じ生地でできている人間に権力を託したい」という欲望のことである。
ポピュリズムはアイデンティティ・ポリティクス(長いので以下IPと略記)とも相性がいい。IPとは「自分と同じ生地で出来ている人間たちと集団を形成し、ことの理非にかかわらず、つねに仲間に付和雷同する」という政治的態度のことである。ポピュリズムとIPに共通するのは「私たちは同じ生地でできている」というあやふやな気分である。でも、そんな気分さえ感じられるなら、どんな事案についても、つねに同質集団の利益の最大化のために戦う。民族主義も純血主義もレイシズムも、発想においてはすべて同じである。
国民国家というのは人種・言語・宗教・文化を共有する同質性の高い人々が政治単位を形成するといろいろいいことがある(特に戦争に強い)という理由で近代になって採用された政治的擬制である。初めから「同質性の高さ」が必須条件なのである。
つまり、国民国家には「異質な他者との共生」という政治的課題が公的には含まれていない。「他者との共生」は市民たちの個人的努力に委ねられており、政府の仕事ではないのである。そこが国民国家システムの致命的な弱点だと私は思う。
市民たちの一定数が政治的に成熟しているなら、その国は「他者に対して寛容で、包摂的なもの」になり得るだろう。でも、市民たちの過半が政治的に未熟で、ポピュリズムやIPが猖獗をきわめるような国家(今の日本や英国やアメリカがそうだ)は自動的に「他者に対して非寛容で、排他的なもの」になる。必ずそうなる。
かつてオルテガは『大衆の反逆』において、「文明」とはなによりもまず「共同生活への意志」だと定義した。そして、人々が「たがいに分離し、敵意をもつ小集団がはびこる」さまのことを「野蛮」と呼んだ。
「文明」とは「敵とともに生き、反対者とともに統治する」ことだ。美しい言葉だ。民主主義の理想はそうでなければならないと私も思う。
どんな国も「文明」をめざす志向と「野蛮」に退行しようとする志向を内包している。そして、わずかな入力変化で、その国は文明的になったり、野蛮になったりする。でも、「野蛮」な国に未来はない。「文明」にしか未来はない。
他者と共生する能力のない人たちは自分たちの集団が機能不全に陥ると、「これは集団に異物が入り込んだせいだ。異物を摘出すれば、集団はまた健全を回復する」と言い出す(必ず言い出す)。そして「異物」「非国民」捜しが始まる。「犯人」はいくらでもみつかる。それら排除すれば集団は純血を回復するはずである。だが、依然として集団は機能不全のままである(もっと悪くなる)。しかたなく次は「仲間のようなふりをして内部に食い込んでいる異物」捜しが始まる。以後集団成員がゼロになるまでそれが続く。
国は文明的である以外に生き延びることができない。そんな当たり前のことを21世紀になって語らなければならないとは。(信濃毎日新聞6月17日)
2026年
7月
10日
金
ひろく演劇は「今とは違う時代の、こことは違う場所の、私とは違う誰か」の身を通して世界を経験する仕掛けだ
2026年6月20日の内田樹さんの論考「演劇の効用」をご紹介する。
どおぞ。
劇作家の平田オリザさんと演劇について語る機会があった。演劇が人間の知的・感情的な成熟に必須のものだということについて二人の意見は一致した。
私は長く観世流の能楽を稽古している。先日は素謡『遊行柳(ユギョウやなぎ)』と仕舞『野宮(ののみや)』で舞台に立った。『遊行柳』では朽木の柳の精、『野宮』では六条御息所の幽霊を演じた。柳の精は老体なのでまだ本人との共通点があるが、六条御息所は嫉妬に身を焼く女性の幽霊である。共通点が何もない。
でも、共感できなくても演じることはできる。近代的な演劇には「感情移入」というメソッドがあるが、能楽は型から入る。樹木の精や胡蝶や天女や安達ケ原の鬼女などに「感情移入」するのは、端から無理である。「感情移入メソッド」は「ドラマは生きている人間の間でしか起こらない」という前提を採用しているが、私たちは実際には「見えないもの」や「存在しないはずのもの」とのかかわりの中で生き死にしている。
ひろく演劇は「今とは違う時代の、こことは違う場所の、私とは違う誰か」の身を通して世界を経験する仕掛けだと私は理解している。よく使われる言葉で言えば「エンパシー(empathy)」である。「他人の靴を履いてみること」とブレイディみかこさんは独特の定義を下しているが、実感としてはその通りである。
演劇が学校教育に必須だというのはそれが「エンパシー」の訓練だからである。
私は武道の稽古もある種の「演劇」だと思っている。道着という衣装を身にまとい、道場という舞台に立って、決められた台詞(「顕幽一如(けんゆういちにょ)」とか「安定打坐(あんじょうだざ)」とか)を口にしているのだから「芝居がかっている」どころではない、端的に演劇である。でも、まさにその劇を通じて、修行者がおのれの心身の深層に沈み込み、その潜在可能性を開花することできるのだとしたら、演劇は現実と同じくらい「現実的」だと言えるのではあるまいか。
(信濃毎日新聞6月12日)
2026年
7月
09日
木
6月19日(金)早朝、ジョギング、55分52秒、7.68㎞、平均ペース7分16秒/㎞、総上昇量173m、消費カロリー579㎉。
1 6分48秒
2 7分06秒
3 8分24秒
4 6分42秒
5 8分05秒
6 7分36秒
7 6分43秒
8 6分32秒(680m)
6月20日(土)早朝、雨なので室内トレーニング。
6月21日(日)午前、ジョギング、1時間44分21秒、12.45㎞、平均ペース8分23秒/㎞、総上昇量226m、消費カロリー874㎉。
1 7分11秒
2 8分02秒
3 9分12秒
4 7分13秒
5 7分35秒
6 7分41秒
7 7分52秒
8 7分41秒
9 9分53秒
10 12分13秒
11 7分56秒
12 8分05秒
13 8分26秒(450m)
6月22日(月)早朝、インターバル走、41分22秒、6.21㎞、平均ペース6分40秒/㎞、総上昇量78m、消費カロリー433㎉。
1 7分05秒(220m)
2 5分46秒、11分04秒(180m)
3 6分05秒、10分28秒(240m)
4 6分15秒、11分05秒(210m)
5 5分55秒、7分51秒(330m)
6 6分11秒、6分11秒(20m)
6月23日(火)早朝、丘の階段641段、58分22秒、7.18㎞、平均ペース8分08秒/㎞、総上昇量156m、消費カロリー520㎉。
1 7分10秒
2 7分54秒
3 9分04秒
4 9分50秒
5 9分45秒
6 6分23秒
7 7分01秒
8 6分50秒(180m)
6月24日(水)早朝、室内トレーニング。
夜、トレッドミル、パワーウォーク、30分、3.37㎞、時速6.8キロ(9分30秒/㎞)、傾斜0%、消費カロリー206㎉。
6月25日(木)早朝、雨なので室内トレーニング。
6月26日(金)休足。
夜、眠っているときに左脚の脹ら脛が攣った。
少し痛かったが、症状は軽かった。
しばらくして、両脚の脹ら脛が攣った。
右脚の脹ら脛の攣りがキツかった。
左脚の脹ら脛が、一晩で2回攣ったのは初めてだった。
左右の脹ら脛が両方同時に攣ったもの初めてだった。
6月27日(土)早朝、雨なので室内トレーニング。
6月28日(日)早朝、雨なので室内トレーニング。
6月29日(月)早朝、ジョギング、59分37秒、7.74キロ、平均ペース7分42秒/㎞、総上昇量172m、消費カロリー571㎉。
1 7分16秒
2 7分32秒
3 8分52秒
4 7分13秒
5 8分35秒
6 8分19秒
7 6分53秒
8 6分40秒(740m)
夕食を抜く。
今年、3回目の断食。
6月30日(火)、休足。
朝食と昼食を抜く。
今年3回目の断食終了。
7月1日(水)、断食明けなので休足。
7月2日(木)早朝、雨なので室内トレーニング。
7月3日(金)早朝、ジョギング、58分04秒、7.75㎞、平均ペース7分29秒/㎞、総上昇量174m、消費カロリー561㎉。
1 7分10秒
2 7分36秒
3 8分47秒
4 7分04秒
5 8分15秒
6 7分55秒
7 6分23秒
8 6分32秒(750m)
7月4日(土)早朝、室内トレーニング。
夜、寝ているときに、左脚の脹ら脛が攣りかけた。
脹ら脛に張りが残っていたのでランニングは休んだ。
7月5日(日)午前、ジョギング、1時間31分03秒、12.35㎞、平均ペース7分22秒/㎞、総上昇量199m、消費カロリー950㎉。
1 6分52秒
2 7分10秒
3 7分59秒
4 6分42秒
5 6分41秒
6 6分23秒
7 6分59秒
8 7分15秒
9 8分22秒
10 10分40秒
11 6分25秒
12 7分14秒
13 6分34秒(350m)
7月6日(月)早朝、ウインドスプリント300m×10本、55分18秒、7.6㎞、平均ペース7分16秒/㎞、総上昇量75m、消費カロリー563㎉。
7分03秒、7分29秒
1分29秒5(5分30秒/㎞)、1分34秒4(5分53秒/㎞)
1分24秒5(5分21秒/㎞)、1分28秒9(5分33秒/㎞)
1分25秒3(5分18秒/㎞)
1分15秒9(4分54秒/㎞)、1分22秒4(5分10秒/㎞)
1分13秒8(4分39秒/㎞)、1分21秒5(5分02秒/㎞)
7分57秒、7分27秒
5本目のデータが採れていなかった。
7月7日(火)早朝、室内トレーニング。
夜、トレッドミルでパワーウォーク、30分、3.37㎞、時速6.8キロ(9分30秒/㎞)、傾斜0%、消費カロリー208㎉。
7月8日(水)早朝、室外トレーニング。
7月9日(木)早朝、テンポ走、41分39秒、6.21㎞、平均ペース6分43秒/㎞、総上昇量94m、消費カロリー443㎉。
1 7分03秒
2 7分28秒
3 6分09秒
4 6分53秒
5 6分12秒
6 6分30秒
7 6分44秒(210m)
2026年
7月
08日
水
計画が豊かな成果をもたらすのは、そこに強い意志がある場合だけです。
2026年6月18日の内田樹さんの論考「理事長からのご挨拶」をご紹介する。
どおぞ。
学院の中期経営計画書に理事長から「ご挨拶」を寄稿して欲しいと頼まれたので、こんなことを書いた。
ご挨拶
理事長として一言ご挨拶を申し上げます。
「計画」というと、達成目標を数値的に掲げて、それが達成できたかどうか査定するというのが近年の解釈ですが、私はそれだけではないと思っています。もしそうなら、私たちは自分たちが過去に設定した枠組みの中から出ることが許されないからです。
でも、現実は決してこちらの計画通りには推移してくれません。必ず思いがけないことが起きる。その思いがけないこと、予測もしていなかったことに適切に対処できるのが「出来のよい計画」だと私は考えています。個人的な定義なので、一般性を要求する気はありませんが、私はそう思います。
この先世界がどうなるか、日本がどうなるか、確かな見通しを語れる人はどこにもいません。
95年の震災のときに私は在職中でしたが、発災の時点で、神戸女学院をこの先どう再建するのか、計画を立てることは不可能でした。まず瓦礫を片付ける。足元の石ひとつを拾うところから始めるしかなかった。でも、その作業のために一人また一人と教職員が集まり、学生院生たちが集まり、気がついたらキャンパスはまた生き返っていた。再建計画はなかったけれど再建の意志はあった。
計画が豊かな成果をもたらすのは、そこに強い意志がある場合だけです。みなさんが強い意志を持っているものと私は信じております。
2026年
7月
07日
火
みなさん、こんにちわ。本日は事務局担当日です。
梅雨明け目前、だんだんと夏が近づいてきましたね😊
でもダブル台風もまた近づいてきているようなので
どうぞお気を付けください。
本日の事務局ブログは、おいしいもの記@大和八木です。
6月21日に橿原市新賀町にオープンしたばかりのカフェ「blanc. coffee & scone」
朝8時開店のスコーンと珈琲のカフェということで、
少し早めの電車に乗って出勤前にうかがいました。
大和八木駅から歩いて5分ほど、新賀南の交差点にあるARTHOUSEという建物の南側の角に真っ白なオシャレなお店がありました。
「日常に、余白を。」がコンセプトだそうで、店内も白を基調とした静かな落ち着いた雰囲気で、テーブル席が3つありました。
スコーンは「シカク」と「マル」の2種類。
シカクは、 発酵バターをつかったザクッとした食感
マルは、 外はさっくり、中はしっとりとした食感
それにあわせるクリームは
基本の特製クリーム 「blanc.cream」あまじょっぱくてクロテッドクリームより軽いもの
季節のジャム 今は桃ジャムにアールグレイ紅茶葉をトッピング
珈琲キャラメル コーヒーのいい香り!
あんこ いつもお世話になっています!大和八木の和菓子店「美松」のあんこ
スコーン1つに特製クリームとジャムなどから一種類選べました。
今回は、追加料金をお支払いして、全種類お持ち帰り♪
原稿執筆しております現在、まだお昼の時間には早くてお預けです・・・・
早くたべたーーーーーーーい🤤🤤🤤🤤🤤
ドリンクはホットコーヒー、季節のソーダ、抹茶ラテなどなど。
コーヒーはスコーンとの相性を最優先に考えて豆を厳選されているそうです。
コーヒーをブラックでいただきましたが、優しい甘い香りでおしいかった~!
抹茶ラテは、なんと注文をうけてから一杯ずつ抹茶をたてるそうです😲
季節のソーダは、今は桃!コーヒーにするか桃ソーダか、ものすごく迷いました~
スコーン以外にもカヌレやバスクチーズケーキもあるので、
こちらはまた今度連れて帰りたいと思います😁
ギフトセットもあるそうですので、公式HP(インスタ)もあわせてご覧ください💕https://www.instagram.com/blanc.cafe__/
2026年
7月
06日
月
比較する対象は「昨日の自分」だけだから
2026年6月17日の内田樹さんの論考「競争と修行について(後編)」をご紹介する。
どおぞ。
僕が競争に対置するのは修行という生き方です。これは東アジア的な自己陶冶のメソッドということができると思います。
修行者は、無限消失点のような目標をめざして、師の背中をみながら、ただひたすら「道」を進む。目標は「大悟解脱」であったり「梵我一如」であったり「天下無敵」であったり、どれも凡人には決して到達できないものです。でも、それ以外に目標はない。
天下無敵をめざす修行者が自分の周りにいる修行者と相対的な優劣を競うということはあり得ません。月をめざしている人間が、横の人間に向かって、「オレの方がお前より月に1センチ近づいた。勝った」というようなことを言うはずがない。悟りを目指している僧侶が、横の僧侶に向かって「オレの方がお前より悟りが進んだ。だいぶ我執を去ったぞ。勝った」なんていうはずがない。「我執を去ったオレ」というのは形容矛盾ですから。
どれほど努力しても一生かかっても到達できない目標に向かって、昨日の自分よりも1ミリでも道を先に進みたいと思って、ただ淡々と稽古を重ねる。それが修行的な生き方です。
でも、それは別に出家遁世するという意味ではありません。ふつうに生業を営み、家族や友だちと楽しく暮らしながら、マインドセットを「修行者」として持てばいい。少なくとも僕はそうやって、フランス文学・哲学を研究し、大学で教え、本を書き、道場を経営してきました。そのどの活動においても、誰とも相対的な優劣を競わない。勝ち負けを争わない。
自分たちは何のために研究しているのか。研究を通じて何を実現したいのか。この仕事が「世のため人のため」にどれほどの価値をもたらすのか。それをいつも考えています。腕の良い大工さんであれば立派な家をつくろう、腕の良いアーティストであれば立派な作品をつくろう、と考えるのと同じです。
僕の専門分野のフランス文学だと、専門家がたぶん日本にはかつて2000人はいたと思います。その2000人が手分けして、それぞれの興味に従って、中世から現代まで、文学・哲学・歴史などなど、あらゆる分野のフランス文化を研究し、日本の読者に紹介するという仕事をしていたら、それによって日本の文化はより豊かで、多彩なものになっていたでしょう。それこそがフランス文学研究のプロの仕事だと僕は思っていました。狭い分野に固まって、競争するよりも、広い分野に散らばって、とりこぼしのないようにする方がいい。そうすれば、「なんだか楽しそうだな」と思って、若い世代も後からどんどん続いてくる。大事なのは、集団全体としての学術的な「公共財」を豊かにすることだ。そう思って、大学院生の頃から主に「僕以外の誰もやっていない分野」を研究テーマにしてきました。
僕が今も論文を書き続けているのは、社会的名声や大学教員ポストを求めているからではありません。だって、もう退職しているんですから、求職する必要なんかありません。ただ、自分の研究成果をできるだけ多くの人と共有して、世の中のお役に立ちたいからです。
武道にも競争的なもの、スポーツ的なものがあります。強弱勝敗を競うことを目指して稽古する人たちがいます。それが心身の能力を最大化するメソッドだと信じてそうされているわけで、それには経験的な裏付けがあってのことですから、それも武道の一つのありようだとは思いますが、それは僕の採用している「修行と競争」という二分法に従うなら、修行ではなく、競争です。
僕が主宰している道場、凱風館では、門人たちの強弱巧拙についての相対的な評価は一切しません。誰より誰の方がうまいとか強いというようなことは一切口にしない。先ほど申し上げたように、比較する対象は「昨日の自分」だけだからです。道場で稽古をする人たちは「道友」であって、「競争相手」ではありません。だから、道場の雰囲気はとても暖かく、和やかです。みんなお互いの修行が進むことを願っている。練度の高い人と稽古した方が自分の稽古も捗るのですから、周りの門人全員が上達することを願う。相対的な優劣を競う環境だと、周りの人間は全員競争相手ですから、自分より無能で無力で無知であることが「望ましい」ということになる。それを「倒錯的」と言ったのです。
修行的な生き方を始めるには、考え方を変えるだけでよい。今日から始めることができます。難しいのは「師を見つけること」です。
自分には師が必要だ、とまずしっかり気持ちを固めること。師を見つけるときは、あまり構えすぎない方がよいです。事前に「これこれこういう条件を満たす人がいたら、その人を師と仰ごう」というように条件を設定するというのは、師に就いて学ぶ人間のとるべき態度ではありません。自分にはどの人が師にふさわしく、誰が師にするに足りないのかを判定するだけの鑑定力があるとあらかじめ思っているような傲慢な人は、なかなか師に出会うことはできません。
僕は出会うどんな人でも、年下の人でも、その人から学ぶものはあると思っています。だから、「先生」と呼びかける人はたくさんいます。武道の師は合気道の多田宏先生、哲学の師はエマニュエル・レヴィナス先生ですが、そのほかに人生の師としては養老孟司先生がいますし、観世流能楽の先生、新陰流の先生、韓氏意拳の先生...たくさんの「先生」に師事しています。先達、メンターというのは道を進む時に、ある地点からある地点に案内してくださる方ですから、場合によっては「一度出会っただけ」の人でも、師たり得ると思います。その人がいなければ、あの地点からこの地点への「ジャンプ」ができなかった、という人は広く「メンター」と呼んでよいと僕は思っています。
僕の哲学の師は、エマニュエル・レヴィナスというフランスの哲学者です。レヴィナス先生の思想を僕は理解したい。理解して、できるだけ多くの読者に伝えたい。
僕は「レヴィナスの研究者」というよりは「レヴィナスの弟子」です。研究者であれば、レヴィナスを読んで「意味が分からない部分」があるとストレスを感じます。自分の無知や無学を恥ずかしく思う。でも、僕は弟子なので、自分が無知で無学であるということ自体が師に仕えている理由なので、そのことは「自分が弟子であることの正当性」を根拠づけるだけで、少しもストレスを感じない。逆に「なんと偉大な人を師としたのであろう」とわが身の幸福をうれしく思う。読んでいて、意味がわからないところに出会うとうれしくなるというのが弟子のスタンスです。
だから、「自分に理解できること」を並べ立てるよりも、「自分に理解できないこと」を深追いする方が楽しい。それが弟子、祖述者、伝道者であることの楽しさです。理解できないところを「わかったふりをする」とか「飛ばす」ということを弟子はしません。する必要がない。師を自分の器のサイズに縮減するというのは、弟子が決してしてはいけないことだからです。ですから、しばしば弟子は研究者よりも遠く、深くまで師の教えに分け入ることができる。
僕はこのあと、いくつになっても論文を書き続けると思います。ある日、机に突っ伏して死んでゆく。師の教えのほとんどは僕の理解の外で終わるのですが、弟子というのは「そういうもの」だから、それでよいのです。
僕自身は合気道を教えていても、師である多田先生の境位にははるかに遠く及びません。しかし、僕は弟子ですので「多田先生はこう教えられたので、そのように稽古します。僕はやってみせることはできませんが、先生はできました。だから、この稽古をします」と言うことができます。「自分にできないこと」を教えることができるというのが師弟関係に身を置くことのもたらす最大のアドバンテージだと僕は思っています。
2026年
7月
03日
金
自分がほんとうにやりたいこと」よりも「厳密な査定を下されること」を優先させて、自分の専門分野を選ぶということがあらゆる場面で起きている。でも、そうやって相対的な優劣を競っているうちに、人々は目先の評点や格付けばかりを気にして、そもそも何のために自分たちは努力しているのか、その根本のことをしばしば忘れてしまう。
2026年6月17日の内田樹さんの論考「競争と修行について(前編)」をご紹介する。
どおぞ。
ある大企業の研修担当の方のインタビューを受けた。直接的には「50代の技術者たちが、向上心を失っているように見える。ちゃんと給料分の仕事はしているのだけれど、その先をめざす意欲が感じられない。その理由は何か、どうすれば再び向上心を持つようになるのか」という具体的な問いだった。答えの中から一般的な見解の部分だけ抜き出した。
人間の生き方には「競争」と「修行」の二つがあるというのが僕の考え方です。
現代日本社会では、相対的な優劣を競わせて、評価の高いものに報奨を、評価の低いものに処罰を与えるという仕組みが採用されています。それがもっとも人間の能力を向上させると信じられているからです。しかし、実際には、競争は必ずしも、それほど効果的に個人や集団の能力を向上させるものではありません。むしろ、低下させることが多い。この30年間、日本の国力が劇的に低下したのはそのせいだと僕は思っています。
フランス文学ではそうでした。20年ほど前に、過剰なほどの数の研究者が19世紀文学、とくにプルースト、フローベル、マラルメ研究に集中した時期がありました。理由は簡単で、この分野には日本人で世界的な権威者がおり、研究者の母数が多いので、研究の格付けが厳密で客観的であると信じられていたからです。
「自分が何を研究したいのか」よりも「自分の研究成果についてどれほど正確な評価が下されるか」ということの方が優先的に配慮されると、こういうことになります。その結果何が起きたか。もちろん、これらの領域での研究の質は向上しました。でも同時にそれらの研究は文字通り「重箱の隅をつつく」ような高度に専門的なものになり、日本の一般市民の関心からはかけ離れてしまいました。
権威者による適切な評価を求めて研究する人たちは、中高生に向かって「仏文研究は楽しいよ」とアナウンスするような暇がありません(実際にあまり「楽しく」はなかったでしょうし)。でも、中高生に向かって「仏文研究は楽しいぞ。みんな仏文科においで」という告知をきちんとしておかないと、仏文科に来る学生が減少します。実際に激減しました。進学者がいなければ、仏文科という学科を置く理由がなくなる。そして、気が付けば日本中の大学から仏文科が次々に姿を消してゆきました。もともと研究者たちが厳密な格付けを求めたのは、大学教員ポストを得るためだったのですが、厳密な格付けを最優先で求めていたら、教員ポストそのものが消失してしまった。笑えない話です。
でも、それと同じことがあらゆる業種で起きているように僕には見えます。「自分がほんとうにやりたいこと」よりも「厳密な査定を下されること」を優先させて、自分の専門分野を選ぶということがあらゆる場面で起きている。でも、そうやって相対的な優劣を競っているうちに、人々は目先の評点や格付けばかりを気にして、そもそも何のために自分たちは努力しているのか、その根本のことをしばしば忘れてしまう。部分最適を求めているうちに全体最適が損なわれるというのは、よくあることです。
競争はもともとひとりひとりの潜在能力を開花させることで、集団全体のパフォーマンスを向上させることが目的だったはずです。でも、現実には競争が激化することで、集団全体のパフォーマンスが低下するということが起きている。起きているどころか、日本社会の場合は、それが常態になっている。
理屈はわかるはずです。相対的な優劣を競っていると、「自分の評点を上げること」と「競争相手の評点を下げること」が同じ意味をもつということがわかります。そして、自分ひとりの能力を高めることよりも、周囲の能力をまとめて引き下げる方が圧倒的に費用対効果はよい。だから、競争的環境に長く置かれているうちに疲弊した人たちは、最終的には必ず周りの人たちのパフォーマンスを引き下げるようになります。それも無意識のうちに。仕方がありません。それしか生き残る手立てがないんですから。
今の日本の組織はどこでも「いじめ」「ハラスメント」が横行しています。別に人間の質が邪悪になったわけではありません(人間の質なんて、そんなに変わりません)。変わったのは環境です。環境が競争的になった。競争させて、高いスコアをとった者に報奨を、スコアの低い者に処罰を、というルールでやってきたら、みんなが周りの人間の生きる意欲を殺ぐ「意地悪」なやつになった。合理的な行動をしているんです。
企業でも、勤務考課を厳密にして、人々を格付けして、それに基づいて資源の傾斜配分をするようになると、雰囲気が悪くなります。能力の高い人が能力の劣る人を支援したり、教育して、「仕事ができる人」に育てるモチベーションが失われます。だって、周りの人間が全員自分より無能である方が自分の評価が上がるという倒錯的な考えをする人が増えてくるからです。そうなったら、その集団はもうおしまいです。
2026年
7月
02日
木
2026年6月の放射線量と体組成とランニングについて書く。
まず、奈良県橿原市の環境放射線量(ガンマ線)から。
2026年6月の平均値はつぎのとおり。
室内1メートル 0.0429μ㏜/h
室内0メートル 0.0450μ㏜/h
室外1メートル 0.0580μ㏜/h
室外0メートル 0.0666μ㏜/h
数値は低めだ。
つぎに、朝守の身体について。
2026年6月27日の数値はつぎのとおり。
体重 73.25㎏
BMI 23.1
体脂肪率 18.3%
筋肉量 56.75㎏
推定骨量 3.1㎏
内臓脂肪 13.5
基礎代謝量 1636㎉/日
体内年齢 51才
体水分率 56.4%
断食の効果が徐々に現れている。
最後に、2026年6月のランニングの結果。
走行時間 14時間52分05秒
走行距離 114.06㎞
累積上昇 1988m
雨で走れない日が多かった。
2026年
7月
01日
水
小さな声でとぎれとぎれに語られても、身体の奥深くにしみ込み、長くとどまる言葉がある。
2026年6月17日の内田樹さんの論考「国語教育はどうあるべきか」をご紹介する。
どおぞ。
国語の先生たちによく呼ばれる。先日も兵庫県内の高校の国語の先生たちの会で「国語教育はどうあるべきか」について講演をした。
「国語教育とは何か」という根源的な問いに先生たち自身が確信が持てなくなっているようである。私の答えはシンプルである。美しく豊かな日本語話者を育てること。国語教育の目的はこれに尽くされると私は思っている。
そのために何をすればいいのか。決して難しいことではない。「美しく豊かな日本語を浴びるように読み、聴くこと」である。母語の習得とやることは一緒である。
私たちは母語について予備知識ゼロの状態から学習を始めて、気がつくと母語を不自由なく運用できるようになっている。親が文法知識を教えてくれたわけではないし、辞書の引き方を教えてくれたわけでもない。この()の中に入る接続詞は「しかし」と「だから」のどちらが適切かと質問されたわけでもない。気がついたらいつの間にか言葉の意味がわかっていて、「なかんずく」とか「いわんや」とか使っていたのである。
国語の先生の一番たいせつな仕事は教壇に立っている限り、「自分の発し得る最も美しく豊かな日本語」を出力し続けることだと私は思う。重要なのは美しく豊かな日本語を子どもたちがひたすら浴び続けることである。深みのある、手触りのやさしい母語を浴びるように聴くことで、子どもたちはその言語資源を豊かにしてゆく。
身に浴びる言葉を子どもたちは頭で理解するわけではない。身体で受け入れるのである。胸に響いたり、肚に落ちたり、骨身に沁みたりと受容部位はさまざまだが、とにかく他者の言葉は身体の中のどこかに長い間滞留する。そして、ある日、ふとその言葉の一つが口を衝いて出る。その時に、私たちはその言葉の意味を理解する。どういう状況で、どういう表情で、どういう相手に向かって語るべき言葉なのか、その時にわかる。そして、それが「自分の言葉」になる。人はある日出力することによって、遠い昔入力した言葉の意味を理解し、それを「自家薬籠中の物」とする。それが人が言葉を会得する機序なのである。
「来ぬ人を松帆の裏の夕凪に焼くや藻塩の身もこがれつつ」という和歌を子どもはまず覚えさせられる。意味は何となくわかる。でも、実際に恋しい人を待つ時間を過ごす日が来るまで「こがれる」ことの実感はわからない。
「待つ」というのは不思議な感情だ。約束の時刻までだいぶ余裕があるときは期待に胸がふくらんでいるのだが、刻限が過ぎると不安が胸を圧し、それが苛立ちに変わり、やがて憎しみに至る。待つ自分の中で一場の劇が演じられるのを経験したときに初めて歌の意味が身にしみる。
まず言葉があり、それを覚える。そしてある日その言葉がどういう思念や感情を表しているのかがしみじみ腑に落ちる。そのとき、その言葉を自在に使える人間になる。
だから、どれほど豊かな言語資源を身のうちに「埋蔵」しているのかが重要なのだ。この「埋蔵量」は石油と違って生得的なものではない。生育環境の中で形成される。
国語教育の目的は子どもたち一人一人のうちにかたちづくられる言語資源の「埋蔵量」をできるだけ豊かにすることにある。そのためにはいろいろなやり方があってよい。詩歌を暗誦させてもいいし、すばらしく論理的な文章を音読させてもいい。教師たちにも「これで自分の言語資源が豊かになった」という経験があるはずだ。それを実践すればいい。
小さな声でとぎれとぎれに語られても、身体の奥深くにしみ込み、長くとどまる言葉がある。そういう響きのよい声を出せる人間になって欲しい。
先生たちにそんな話をした。
(山形新聞「直言」6月8日)
2026年
6月
30日
火
皆さんこんにちは。今日は事務局担当日です。
さて、今朝は私と同じく寝不足の方も多いですかね。
4年の一度のFIFAワールドカップ。
前回大会では、「三笘の一ミリ」や、強豪国のドイツ、スペインへの逆転勝利で大いに盛り上がりました。
今大会も、オランダやスウェーデンが入る「死の組」と言われましたが、
前評判をはねのけ、グループ2位で見事決勝トーナメント進出を決めてくれました。
そして今朝は、
FIFAワールドカップで史上最多5回の優勝を誇るブラジルとの熱戦!
試合開始が午前2時ということもあり、観戦すれば今日は確実に寝不足になると
分かっているので、少しだけ仮眠を取って午前2時に起床。
主力選手である南野選手、三笘選手、遠藤選手、そして久保選手までもが
怪我で欠場となり、正直もっと厳しい戦いになるのではないかと思っていました。
ところが、試合が始まると、日本はブラジルの選手をびっちりマークし、
パスやシュートコースを何度もカット。
鈴木彩艶(ザイオン)選手の神セーブも今日も連発!!
さらに、待ちに待った佐野海舟選手の先制ゴールで1-0のまま前半終了。
白熱した試合展開にすっかりアドレナリンが出てしまい、
眠気も吹き飛び、そのまま後半戦も応援することに。
しかし、やはり相手は王者ブラジル。
後半が始まると、ブラジルの攻撃に押される時間が長くなり、
後半11分に同点ゴールを決められてしまい、試合は振り出しに。
ゴールが決まった後のスタジアムの大歓声は本当に凄かったです😓
そして最後は、アディショナルタイムも残りわずかとなったところで
ブラジルに逆転ゴールを決められそのまま試合終了のホイッスル😭
正直、このまま同点で終わったら延長戦かな?なんて少し考えていた矢先の
失点だったので、見ていた私もショックでした😖
すでにネットではドーハの悲劇ならぬ「ヒューストンの悲劇」とも言われています。
試合終了後、
結果として決勝点につながるプレーとなってしまった田中碧選手が、
仲間の選手やブラジルの選手たちに健闘をたたえられ、
慰められながらピッチで号泣している姿に、こちらも思わずもらい泣き😭
怪我で欠場した選手たちがあそこにいれば、
もしかしたら結果は違っていたかもしれません。
でも、これも勝負の世界。時の運ですもんね。
とはいえ、くじ運も悪かったですよねぇ😔
今回もあと一歩及びませんでしたが、
世界トップクラスのブラジルを相手に最後までいい試合でした。
次回のワールドカップこそ、目指せベスト8突破☆
・・・とブログを書きながらも、今日はテンションが落ちていたところに、
大谷選手の3ランホームランのニュースが飛び込み、すっかり気分上々😊♪
我ながら単純だなぁ。笑
2026年
6月
29日
月
これまでは少し距離をおいて教育論を「書く」立場でしたが、これから再びそれを「実践する」立場になります。果たしてここに書かれたことが教育現場においてほんとうに有効なのか、教育現場の分析として適切なのか、それが問われる立場になった。「ここがロドスだ。ここで跳べ」です。
2026年6月11日の内田樹さんの論考「街場の教育論 文庫版まえがき」をご紹介する。
どおぞ。
みなさん、こんにちは。内田樹です。
『街場の教育論』が文庫化されました。リーズナブルな値段でお手にとってもらえることになって著者としてはたいへんうれしいです。文庫化を許可してくださったミシマ社の三島邦弘社長と、文庫化のために奔走してくださってKADOKAWAの小川和久さんにお礼を申し上げます。
『街場の教育論』は2007年度の神戸女学院大学の大学院ゼミの僕の発言部分の文字起こしに加筆したものです。この頃、ミシマ社の企画で、大学院のゼミのやりとりを録音したものを素材にして何冊か本を作りました。『街場のアメリカ論』も『街場の中国論』も『街場の文体論』も、ミシマ社の「街場シリーズ」はどれもそういう作り方です。
「ゼミで話したことをそのまま本にする」というやり方だと、書斎にこもってこりこり書いた本と、だいぶ手触りに違いが出てきます。なにしろ目の前に相手がいますから、どうしてもその反応が気になります。ですから、話がややこしくなって聴講生たちが退屈そうな顔をし始めると、あわてて話題を変える。聴講生たちが前のめりに聴いてくれると「お、受けてるな」と、つい図に乗って奇想を次々と語るようになる。そういう双方向性が「ライブ本」には感じられます。
ミュージシャンは「スタジオにこもって音作りに励む」ということと「ライブ会場でがんがん盛り上げる」ということを両方やりますよね。物書き仕事もたぶんそれと同じなんだと思います。外界との接触を遮断して、自分の内面に深く垂鉛を下ろしてゆくという作業と、発する一言一言にリアルな反応が来る場所に身をさらして、やりとりを楽しむという作業の両方がある。僕はどちらも好きなんです。だから、僕の書いた本にはこのような「ライブ本」がたいへん多いことがわかると思います。現場でのやりとりが僕は大好きなんです。この本からも、そのライブ感を味わって頂けるとうれしいです。
本書は2008年に刊行されました。その後絶版になることなく、こうしてまた18年後に文庫化されたことを書き手としてはとてもうれしく思います。そういえば、2005年刊行の教育論『下流志向』(講談社)も最近文庫化されました。20年にわたって同じような内容の教育論がずっと読み継がれてきたわけです。書き手としてはいささか誇らしく思います。でも、同時に「おい、ちょっと待ってくれよ」という気もします。だって、20年前の教育論が今もなおリーダブルであるということは、それらの本で扱われていた問題が何一つ解決されていないからではないか...と思えてくるからです。
本書で僕は現代の教育の本質的論点をいくつか取り上げて論じています。今回ゲラを読み返してみてわかりましたが、ここで僕が取り上げた問題のうち「ああ、あれはもうとっくに解決したよ。内田さん、ずいぶん警鐘を乱打していたけれど、そんなに騒ぎ立てる話じゃなかったみたいだよ(笑)」というようなものは一つもありませんでした。すべての問題は相変わらず問題のままでした。何一つ解決されていない。解決されていないどころか、むしろ深刻化している。
本書では、後に大きな問題となったコロナ禍の影響、不登校、ICT教育、AI導入の影響、大学の統廃合などについては言及されていません。ですから、今大学院のゼミで「教育論」を取り上げたら、本書の1.5倍くらいのボリュームになったでしょう。
ご存じの方もいると思いますが、僕は2026年の4月から学校法人神戸女学院の理事長に選任されました。神戸女学院大学には教員として21年間奉職しました。退職後も大学合気道部の指導は続けていましたし、時々授業に呼ばれたり、評議員や理事も務めてきましたから、36年の長きにわたって途切れることなくご縁のあった学校です。その理事長として学校経営の責任を負う立場になりました。病後の身を養っている後期高齢者には過酷な仕事ですが、選ばれた以上はこれを「天命」と思って、余生を捧げる覚悟でおります。
これまでは少し距離をおいて教育論を「書く」立場でしたが、これから再びそれを「実践する」立場になります。果たしてここに書かれたことが教育現場においてほんとうに有効なのか、教育現場の分析として適切なのか、それが問われる立場になった。「ここがロドスだ。ここで跳べ」です。読者のみなさんには、これからの僕の教育実践を注視して頂きたいと思います。(6月10日)
2026年
6月
26日
金
今眼の前で起きている出来事を正確に見ようとしたら、相手の息遣いが感じられるほど近くまで対象に接近すると同時に、自分自身を含む歴史的風景を俯瞰できるほど対象から遠ざかることが必要である。
2026年6月11日の内田樹さんの論考「ブレイディさんと話したこと」をご紹介する。
どおぞ。
英国在住のブレイディみかこさんと彼女の新刊『それはどこでも起こり得る』(文藝春秋)をめぐってオンラインで対談した。ブレイディさんは雑誌AERAの巻頭コラムの「お隣さん」である。毎回彼女の英国レポートを楽しみにしている。
ブレイディさんの英国社会分析は実に明快である。それは彼女が「現場」の人だからだ。彼女は労働者街の保育園の保母という仕事を長くされてきた。だから、英国の労働者階級、アンダークラスの実情を肌感覚で知っている。貧しさや暴力や差別が人をどのように傷つけ損なうのかを間近に知っている。
かつて小田実は「虫瞰図」と「鳥瞰図」の二つを持つことが現実理解には必要だと述べたことがある。私もこれに賛成である。今眼の前で起きている出来事を正確に見ようとしたら、相手の息遣いが感じられるほど近くまで対象に接近すると同時に、自分自身を含む歴史的風景を俯瞰できるほど対象から遠ざかることが必要である。「焦点距離を自由に切り替えられる」ことが必要である。小田実が「虫瞰図」「鳥瞰図」の二つが要ると言ったのはそのことだと思う。でも、時局を論じる人でそれができる人は少ない。とくに「現場」を持つ人は少ない。ブレイディさんはその例外的な一人である。
われわれの話題は英国と米国の奇妙な政治文化(加速主義、テクノ封建制、AIによる身体経験の希薄化などなど)をめぐるものになった。ブレイディさんが英米で観察したのと同じ事象がいくつか日本でも起きていると私は感じたので、その話をした。(6月5日)
2026年
6月
25日
木
【男子】
1 1時間59分30秒
セバスチャン・キマル・サウェ(ケニア)31歳
2026年4月26日 ロンドン
2 1時間59分41秒
ヨミフ・ケジェルチャ(エチオピア)28歳
2026年4月26日 ロンドン
3 2時間00分28秒
ジャコブ・キプリモ(ウガンダ)25歳
2026年4月26日 ロンドン
4 2時間00分35秒
ケルヴィン・キプタム(ケニア)23歳
2023年10月8日 シカゴ
5 2時間01分09秒
エリウド・キプチョゲ(ケニア)37歳
2022年9月25日 ベルリン
【女子】
1 2時間09分56秒
ルース・チェプンゲティッチ(ケニア)30歳
2024年10月13日 シカゴ
2 2時間10分51秒
フォティエン・テスファイ(エチオピア)28歳
2026年3月15日 バルセロナ
3 2時間11分53秒
ティグスト・アセファ(エチオピア)29歳
2023年9月24日 ベルリン
4 2時間13分44秒
シファン・ハッサン(オランダ)30歳
2023年10月8日 シカゴ
5 2時間14分00秒
ジョイシリン・ジェプコスゲイ(ケニア)31歳
2025年12月7日 バレンシア
シファン・ハッサンはエチオピアの生まれである。
そうすると、世界最速のマラソンランナー10人は全員がアフリカ出身である。
そして、10人のうち9人は、ケニアまたはエチオピアの出身である。
ケニアの首都ナイロビの標高は1795m。
エチオピアの首都アディスアベバの標高は2355m。
マラソンランナーは、その標高で生活して、さらに高い所へ移動して練習する。
彼らは、空気が薄いところで肺活量を鍛えている。
薄い空気の中を1か月に1000~1500㎞も走るのだ。
もし、日本の10代のランナーが、ケニアかエチオピアに移り住んで、現地で指導を受けて、高地でトレーニングを積んだら、世界に近づけるかもしれない。
大迫傑さんがトレーニングの拠点のひとつとしているのが、アメリカ合衆国コロラド州ボルダー。
ボルダーの標高は1655m。
ボルダーは、ウルトラトレイルの伝説的ランナーであるスコット・ジュレクの本拠地でもある。
2026年
6月
24日
水
ということは、この法律の立法事実は「国家機密の保全」ではないということである。では何か。
国民監視である。もっと正確に言えば「国民監視システム・ビジネスの繁昌」である。
2026年6月11日の内田樹さんの論考「国家情報局のねらい」をご紹介する。
どおぞ。
国家情報局法が成立した。なぜ、こんな法律を急いで成立させなければならないのか。
スパイが活発に活動して、日本の国家機密が他国にリークされ、国難的危機が切迫しているというのが立法事実だとするなら、こんな法律は何の役にも立たないだろう。なぜなら、日本の最も核心的な機密が組織的にリークされている先はホワイトハウスであり、洩らしているのは日本政府だからである。だが、自分たちを処罰する法律を起案する人間はいない。ということは、この法律の立法事実は「国家機密の保全」ではないということである。では何か。
国民監視である。もっと正確に言えば「国民監視システム・ビジネスの繁昌」である。最も熱心にこの法律の制定を求めてきたのは財界だろう。公安がカメラでデモ隊の顔写真を写したり、望遠鏡で人家を覗き込んだりというような前近代的な国民監視ではビジネスにならない。そんな「昭和的」な仕事を公務員にさせるために、こんな法律を制定するはずがない。高市政権が国民監視に前のめりになるのは、これが末期資本主義にとってのブルーオーシャンだからである。
国民監視システムの最先端を行っているのは中国である。「天網(sky net)」プロジェクトは20年前に始まった。精度の高い顔認証システムで、指紋、声、虹彩などによって、誰がどこで何をしているかをたちまち特定できる仕組みである。もう一つは社会的信用システム。全国民の行動に「信用スコア」を付与する。法律違反や税金滞納などの他、政治的言動も評価に算入される。スコアが下がると、海外旅行ができない、クレジットカードが作れない、ホテルや飛行機の予約がとれないという「いやがらせ」が課される。でも、中国共産党を絶賛するSNS投稿を繰り返すとか、ボランティアでゴミ拾いをしたりするとスコアは回復する。中国共産党は別に全国民に心からの忠誠を求めているわけではない。「忠誠心を持っているふり」をすることを求めているのである。この辺はいかにも中国である。
2010年代は、中国では国民監視システムを含む治安維持予算が国防予算を上回っていた。外敵の軍事的侵略のリスクよりも国内における内乱リスクの方を中国共産党が高く見積もったせいだと思っていたけれど、どうも違うようだ。おそらくこの時期に国民監視テクノロジーの開発に巨額の国家予算を集中的に注いだせいで、中国は世界最先端の国民監視システムをその時点で「完成」させてしまったのである。それ以後はシステムの維持管理コストだけで、新規のテクノロジー開発の緊急性がないほどにパーフェクトな国民監視システムが出来上がったのだろうと思う。
現に、中国に暮らす人たちの多くは自分たちの全言動が政府によって監視、盗聴されていると信じている。別にほんとうに監視していなくても、監視されていると国民が信じていれば、監視システムは機能する。ベンサムが考案した「パノプティコン」と同じ原理である。囚人たちに監視塔から看守がつねに見張っていると信じさせれば、監視塔が無人でも監獄は機能する。
あまりに出来がいいので、中国の国民監視システムは輸出されている。シンガポールやサウジアラビアなどの独裁者にとってはいくら金を出しても買いたい商品だろう。
ほんとうは日本政府も中国からシステムをパッケージで買いたいのだが、面子があってそうもゆかない。果たして首尾よく国産のシステムを創り出せるのか、それともパランティアに丸投げするのか。(週刊金曜日6月1日)
2026年
6月
23日
火
本日、6月23日は事務局が担当です。
我が家のマンションには、各住戸のベランダに小さな“庭”のようなスペースがあります。
季節が変わるたび、そこに置いた鉢植えを植え替えるのが、わが家のささやかな楽しみです。
年に二度ほどの作業ですが、土に触れると気持ちが落ち着き、暮らしのリズムが整うように感じます。
今年の夏は何を育てようかと迷っていたところ、花の苗を育てている方に相談しました。
「暑さに強い一年草がいいですよ」
そう教えていただき、いくつかの苗を見比べた末に、ふと目に留まったのがマリーゴールドでした。
鮮やかな黄色とオレンジ。
太陽の色をそのまま閉じ込めたような花に、自然と心が惹かれました。

今日で苗を植えてから八日。
今朝ベランダに出ると、マリーゴールドはまるでこちらを励ますように、元気いっぱいに咲いていました。
朝の光を受けて輝くその色を見るだけで、胸の奥がふっと明るくなります。
花の色には心理的な効果があるといいますが、確かにマリーゴールドの色は「前向きさ」や「元気」をそっと手渡してくれるように思います。
後から知ったことですが、マリーゴールドは薬草としても利用され、肌荒れや軽い炎症を鎮める作用があるそうです。
花に含まれる成分には抗菌性もあり、傷のケアにも役立つと聞きました。
ただ眺めているだけでも十分に魅力的なのに、そんな効能まで秘めているとは、なんだか頼もしく感じます。
もし機会があれば、ぜひご自宅にも数株迎えてみてはいかがでしょうか。
花を育てるという行為は、思っている以上に日々の心を整えてくれます。
そして、咲いた花がくれる小さな元気は、忙しい毎日の中でそっと寄り添う贈り物になると思います。
2026年
6月
22日
月
学校教育は専門家である教員に委ねて、その専門的知見に基づいて、政治と市場の干渉を排し、できうるかぎり自律的に運営されるべきだ
2026年6月11日の内田樹さんの論考「教育について」をご紹介する。
どおぞ。
いま学校教育に対する強い社会的な圧力を感じる。そのせいで、現場の教員たちは息苦しさと無力感で蝕まれている。それは各地の学校や教員たちの団体からの講演依頼や、このような原稿依頼からわかる。
私がこれまで教育について語ってきたことはほぼ同じである。学校教育は集団が存続してゆくために必要不可欠の活動である。経済学者の宇沢弘文はそのようなものを「社会的共通資本」と呼んだ。広く自然資源(大気、土壌、森林、河川、海洋など)、社会的インフラ(上下水道、交通網、通信網など)に加えて、司法、医療、学校教育などの制度資本もこれに当たる。宇沢は社会的共通資本の運営についてきびしい条件を課している。それは「政治」と「市場」に関与させてはならない、ということである。
社会的共通資本は政治的・経済的与件とリンクさせてはならない。政権交代があったので司法判断が変ったとか、株価が暴落したので水道から水が出なくなったとか、津波があったので教育内容が変ったとかいうことはあってはならないという意味である。何が起きても、電車は時刻表通りに発着し、電話をすれば救急車が駆けつけ、学校では昨日と同じように授業が行われることが集団の存続のためには必要だ、ということである。
福澤諭吉は上野の彰義隊の戦いの時も経済学の原書講読を続けた。「顧みて世間を見れば、徳川の学校は勿論つぶれてしまい、維新政府は学校どころの場合ではない。日本国中いやしくも所を読んでいるところは慶應義塾ばかり」と福沢は誇った(『福翁自伝』)。「世の中如何なる騒動があっても変乱があっても」教育の命脈を断やさないこと。それが学校教育の骨法であると福澤は見切っていた。
社会的共通資本のかんどころは「専門家によって、専門的知見に基づいて、安定的・恒常的に運営されること」である。社会の変化に即応して変わるものではない。横で矢玉が飛んでいても、平然と書を読むという福澤のやり方が正しいのである。
どうしてかと言うと、政治と市場は「複雑系」だからである。「北京で蝶がはばたくとカリフォルニアで嵐が起こる」という比喩が伝えるように、政治と経済では、わずかな入力変化で劇的な出力変化がもたらされる。「そういうもの」なのである。だから政治とビジネスでは、プレイヤーたちがあんなに興奮するのである。
でも、社会的共通資本はそうであってはならない。「惰性が強い」ということが重要なのである。というのは、扱うのがイデオロギーでも資本でもなく、生身の人間だからである。
生身の人間には生理的・物理的な制約がある。手足も臓器も数が決まっている。適切な栄養補給と睡眠を採らなければ壊れる。はじめは幼く、いずれ衰え、いつかは死ぬ。そういう脆く、弱い人間の身体的限界を勘定に入れて、急激な変化から人間を護ることができるように社会的共通資本は制度設計されなければならない。
だが、この基本的常識を知らない人間たちがいまの日本では教育制度を起案し、運営している。政治と市場に教育を委ねることが正しいと心から信じている人たちである。
彼らはさまざまな政治的制約を課して、教員たちの手足を縛り上げ、思考の自由、言論の自由を封じ、その上で学校制度を「市場に丸投げ」して、「あとは野となれ山となれ」でことを済ませようとしている。それが「正しい」と信じている。善意なのである。だから、始末に負えない。
私の主張は一貫して変わらない。学校教育は専門家である教員に委ねて、その専門的知見に基づいて、政治と市場の干渉を排し、できうるかぎり自律的に運営されるべきだ、ということである。でも、私がそう語ると日本国民のほとんどは驚きあきれる。
政治的干渉はよくないということまでは同意してくれる人が多いけれども、「どの学校が生き残るべきかどの学校が淘汰されるべきかは市場が決定する」というという命題に反対できる人はほとんど存在しない。
だが、ほんとうにそうなのだろうか。その人たちはたぶん学校教育をある種の「商品」だと考えている。市場のニーズがある商品は売れる。ニーズのない商品は市場から退場する。単純な理屈だ。でも、教育を商品だと考えると、そもそも公教育というものが存立し得ないことになぜこの人たちは気づかずにいられるのだろう。
学校教育で人が得る知識や技能がある種の「商品」だとすると、受益者負担の原則により、代価を払える人間だけが教育を受ける権利があるということになる。無償で学校教育を受けるのは、高額の商品をただで配ることに等しい。それは市場経済のルールに違反する。
事実、19世紀にアメリカで政府が公教育を導入しようとした時に、富裕な納税者たちは強く反対した。「学校教育の受益者は私の知らない子どもたちである。なぜわれわれの税金を他人が受益するために投じなければならないのか? 彼らはいずれ私の子どもたちの競争相手になるかも知れない。なぜ私は私財を投じて自分の子どもの競争相手を育てなければならないのか?」
教育が商品だと言うのなら、彼らの言い分はもっともである。でも、もしその時に彼らの言い分を容れて、「学校教育は自己負担」という政策を採用していたら、アメリカはその後どうなっていただろう。国民の過半が、字も読めず、四則計算もできず、世界のことも自国のことも何も知らない国になっていた場合、そのような弱国はいずれどこか強国の植民地になる他なかっただろう。あるいはその方が世界は今よりましなものになっていたかも知れないが。
学校は「教育商品」の売り買いをしているのではない。集団が存続するために、将来集団を支えてくれる「須用の人材」を育てているのである。平たく言えば、「大人」を育てているのである。
統治者が強権をふるって単一の政治イデオロギーを学校に強要し、議論も反論も許さない集団では、似たような顔つきの「イエスマン」を量産することはできても、知性は枯渇する。そんな集団では、技術的なイノベーションも学術的なブレークスルーも起きない。いずれ衰退する。また、教育が市場に丸投げされている集団では、市場の勝利者たちは誰も集団の存続のことなど配慮しない(彼らはこの集団が「ダメになったら」、個人資産を抱えて「他の集団」に移籍することができるからだ)。
だから、管理運営は自律的主体たる教育専門家に委ねられるべきである、というのが正論なのである。正論を語るのが少数派で、多数派が血迷っているということはよくある。そして、今の日本はまさにそういう状況なのである。正気を保たなければならない。(5月27日)