〒634-0804

奈良県橿原市内膳町1-1-19

セレーノビル2階

なら法律事務所

 

近鉄 大和八木駅 から

徒歩

 

☎ 0744-20-2335

 

業務時間

【平日】9:00~19:00

土曜9:00~12:00

 

2019年

8月

23日

英語教育について(その5) ☆ あさもりのりひこ No.717

学ぶことは子どもたちにとって「喜び」でなければならない。学校というのは、自分の知的な限界を踏み出してゆくことは「気分のいいこと」だということを発見するための場でなければならない。

 

 

2019年5月31日の内田樹さんの論考「英語教育について」(その5)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 たしかに、子どもたちを追い込んで、不安にさせて、処罰への恐怖を動機にして何か子どもたちが「やりたくないこと」を無理強いすることは可能でしょう。軍隊における新兵の訓練というのはそういうものでしたから。処罰されることへの恐怖をばねにすれば、自分の心身の限界を超えて、爆発的な力を発動させることは可能です。スパルタ的な部活の指導者は今でもそういうやり方を好んでいます。でも、それは「やりたくないこと」を無理強いさせるために開発された政治技術です。

 ということは、この文科省の作文は子どもたちは英語を学習したがっていないという前提を採用しているということです。その上で、「いやなこと」を強制するために、「経済競争」だの「メガコンペティション」だの「適切な評価」だのという言葉で脅しをかけている。

 ここには学校教育とは、一人一人の子どもたちがもっている個性的で豊かな資質が開花するのを支援するプロセスであるという発想が決定的に欠落しています。子どもたちの知性的・感性的な成熟を支援するのが学校教育でしょう。自然に個性や才能が開花してゆくことを支援する作業に、どうして恐怖や不安や脅迫が必要なんです。勉強しないと「ひどい目に遭うぞ」というようなことを教師は決して口にしてはならないと僕は思います。学ぶことは子どもたちにとって「喜び」でなければならない。学校というのは、自分の知的な限界を踏み出してゆくことは「気分のいいこと」だということを発見するための場でなければならない。

 この文章を読んでわかるのは、今の日本の英語教育において、目標言語は英語だけれど、目標文化は日本だということです。今よりもっと日本的になり、日本的価値観にがんじがらめになるために英語を勉強しなさい、と。ここにはそう書いてある。

 目標文化が日本文化であるような学習を「外国語学習」と呼ぶことに僕は賛成できません。

 僕自身はこれまでさまざまな外国語を学んできました。最初に漢文と英語を学び、それからフランス語、ヘブライ語、韓国語といろいろな外国語に手を出しました。新しい外国語を学ぶ前の高揚感が好きだからです。日本語にはない音韻を発音すること、日本語にはない単語を知ること、日本語とは違う統辞法や論理があることを知ること、それが外国語を学ぶ「甲斐」だと僕は思っています。習った外国語を使って、「メガコンペティションに果敢に挑戦」する気なんか、さらさらありません。

 外国語を学ぶ目的は、われわれとは違うしかたで世界を分節し、われわれとは違う景色を見ている人たちに想像的に共感することです。われわれとはコスモロジーが違う、価値観、美意識が違う、死生観が違う、何もかも違うような人たちがいて、その人たちから見た世界の風景がそこにある。外国語を学ぶというのは、その世界に接近してゆくことです。 

 フランス語でしか表現できない哲学的概念とか、ヘブライ語でしか表現できない宗教的概念とか、英語でしか表現できない感情とか、そういうものがあるんです。それを学ぶことを通じて、それと日本語との隔絶やずれをどうやって調整しようか努力することを通じて、人間は「母語の檻」から抜け出すことができる。

 外国語を学ぶことの最大の目標はそれでしょう。母語的な現実、母語的な物の見方から離脱すること。母語的分節とは違う仕方で世界を見ること、母語とは違う言語で自分自身を語ること。それを経験することが外国語を学ぶことの「甲斐」だと思うのです。

 でも、今の日本の英語教育は「母語の檻」からの離脱など眼中にない。それが「目標言語は英語だが、目標文化は日本だ」ということの意味です。外国語なんか別に学ぶ必要はないのだが、英語ができないとビジネスができないから、バカにされるから、だから英語をやるんだ、と。言っている本人はそれなりにリアリズムを語っているつもりでいるんでしょう。でも、現実にその結果として、日本の子どもたちの英語力は劇的に低下してきている。そりゃそうです。「ユニクロのシンガポール支店長」が「上がり」であるような英語教育を受けていたら、そもそもそんな仕事に何の興味もない子どもたちは英語をやる理由がない。

 達成目標があらかじめ開示された場合に、子どもたちの学習努力は大きく殺がれます。教育のプロセスをまじめに観察したことがある人間なら、誰でもわかることです。「勉強するとこんないいことがある」とか「勉強しないとこんなひどい目に遭う」というようなことをあらかじめ子どもに開示すると、子どもたちの学習意欲はあきらかに減退する。というのは、努力した先に得られるものが決まっていたら、子どもたちは最少の学習努力でそれを獲得しようとするに決まっているからです。

 学習の場では決して利益誘導してはならないということを理解していない人があまりに多い。でも、長く教員をやってきてこれは経験的にはっきりと申し上げられます。賞品で子どもを釣ったり、恐怖で子どもを脅したりしても子どもたちの知的な能力は絶対に向上しません。彼らはどうやったら最少の学習努力で目的のものを手に入れるか、そこに全力を集中するようになるだけです。

 

 大学で最初の授業のときにオリエンテーションをやると、必ず「先生、単位をもらえる最低点は何点ですか」と「この授業は何回まで休めますか」という質問が出ます。単位をとるための最低点と最少出席回数をまず確認する。「ミニマム」を知ろうとするわけです。これは消費者マインドを持って教室に登場した学生にとっては当然の質問です。「これいくらですか?」と訊いているわけですから。

 彼らにとって単位や学位や免状や資格は「商品」なんです。そして、学習努力は「貨幣」です。だから、買い物客が「この商品の価格はいくらですか?」と訊くように、「この授業で求められる最少学習努力はどの程度ですか?」を訊いてくる。

 求める商品にそれなりの価値があることは彼らだってわかっているのです。でも、どんな価値のある商品であっても、一番安い価格で買うというのは消費者の権利であり義務であるわけです。特売コーナーで同じ商品が安く売っていたら、カートに入れた商品を元の棚に戻して、特売コーナーの同一商品をカートに入れる。それは買い物をする人間としては当たり前のことです。「元の棚」がかなり遠いところであっても、ごろごろカートを押して、そこまで戻しにゆく。その手間を別に惜しいとは思わない。それが消費者です。

 ですから、消費者としてふるまう学生たちの目には、出席をとらない科目、毎年同じ試験問題を出す科目、丸写しレポートでも単位をくれる科目は「特売コーナー」に置かれている商品のようなものとして映る。「特売商品」で同じ単位がもらえるなら、そういう「楽勝科目」だけを集めて卒業単位を稼ぐのが最もクレバーな学生生活であることになる。消費者マインドが骨までしみついた学生たちは、大学に来てまで「どうすれば最も少なく学べるか」をめざして努力するようになる。

 もし書店に「3ヵ月でTOEICスコアが100点上がる」という参考書があったとします。それを買おうと思って、横を見たら「1ヵ月で100点上がる」という本があった。当然、そちらを買う。でも、その隣に、「1週間で100点上がる」という本があった。これはもうこちらを買うしかない。でも、そのさらに横には「何もしなくても100点上がる」という本があった。もう迷わずこれを買う。

 そういうものですね。学習の達成目標が決まっていれば、あとはいかに少ない学習努力でそれを達成するかというところに知恵を使う。それが最も合理的であるということは子どもにだってわかります。ですから、学校で「勉強すると、こんないいことがある」という仕方で功利的に誘導するのは自分で足元を掘り崩しているようなものなのです。

 

 

2019年

8月

22日

服部緑地 10㎞走 ☆ あさもりのりひこ No.716

2019年8月18日(日)、大阪府豊中市にある服部緑地公園で「第2回大阪服部緑地ナイトハーフマラソン」が開催された。

第1回に引き続き連続出場である。

前回はハーフマラソンを走ったが、今回は10㎞にエントリーした。

一番暑い時期なので、短い距離にした。

それと、5㎞、10㎞のレースに出て、スピードを養うべきだと考えたからでもある。

 

午後4時30分、服部緑地公園の陸上競技場に着く。

受付をして、ゼッケンその他を受け取る。

ゼッケンは「1001」で赤色である。

日光が眩しかったが、スタート前には日が落ちて、風が吹いていた。

金曜日から首の右側が痛かったのだが、なんとか治まった。

前回(7月)より、参加者は少ない。

給水所が、前回は2か所だったが、今回は1か所に減った。

 

午後6時05分スタート。

3㎞までは、1㎞5分台で走る。

3~4㎞が6分40秒かかった。

4~5㎞は1㎞5分台に戻す。

6~8㎞は1㎞6分台前半になる。

8~9㎞は6分41秒かかった。

9~10㎞は1㎞5分42秒で走る。

最後の1㎞が1番速かった。

 

タイムは1時間02分01秒。

1㎞6分12秒のペースである。

1時間は切れなかったが、この気温を考えるとまずまずである。

 

つぎのレースは、9月23日、同じく服部緑地公園でハーフマラソンをふたたび走る。

 

 

 

2019年

8月

21日

英語教育について(その4) ☆ あさもりのりひこ No.715

外国語を学ぶことの本義は、一言で言えば、「日本人なら誰でもすでに知っていること」の外部について学ぶことです。母語的な価値観の「外部」が存在するということを知ることです。自分たちの母語では記述できない、母語にはその語彙さえ存在しない思念や感情や論理が存在すると知ることです。

 

 

2019年5月31日の内田樹さんの論考「英語教育について」(その4)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 何年か前に、推薦入試の入試本部で学長と並んで出願書類をチェックしていたことがありました。学長は英文科の方だったのですけれど、出願書類の束を読み終えた後に嘆息をついて、「内田さん、今日の受験者150人の中に『英文科志望理由』に『英米文学を学びたいから』と書いた人が何人いると思う?」と訊いてきました。「何人でした?」と僕が問い返すと「2人だけ」というお答えでした「後は、『英語を生かした職業に就きたいから』」だそうでした。

 僕の知る限りでも、英語を学んで、カタールの航空会社に入った、香港のスーパーマーケットに就職した、シンガポールの銀行に入ったという話はよく聞きます。別にカタール文化や香港文化やシンガポール文化をぜひ知りたい、その本質に触れたいと思ってそういう仕事を選んだわけではないでしょう。彼らにとって、英語はたしかに目標言語なのですけれど、めざす目標文化はどこかの特定の文化圏のものではなく、グローバルな「社会的な格付け」なのです。高い年収と地位が得られるなら、どの外国でも暮らすし、どの外国でも働く、だから英語を勉強するという人の場合、これまでの外国語教育における目標文化に当たるものが存在しない。

 これについては平田オリザさんが辛辣なことを言っています。彼に言わせると、日本の今の英語教育の目標は「ユニクロのシンガポール支店長を育てる教育」だそうです。「ユニクロのシンガポール支店長」はもちろん有用な仕事であり、しかるべき能力を要するし、それにふさわしい待遇を要求できるポストですけれど、それは一人いれば足りる。何百万単位で「シンガポール支店長」を「人形焼き」を叩き出すように作り出す必要はない。でも、現在の日本の英語教育がめざしているのはそういう定型です。

 

 僕は大学の現場を離れて7年になりますので、今の大学生の学力を知るには情報が足りないのですけれども、それでも、文科省が「英語ができる日本人」ということを言い出してから、大学に入学してくる学生たちの英語力がどんどん低下してきたことは知っています。それも当然だと思います。英語を勉強することの目標が、同学齢集団内部での格付けのためなんですから。低く査定されて資源分配において不利になることに対する恐怖をインセンティヴにして英語学習に子どもたちを向けようとしている。そんなことが成功するはずがない。恐怖や不安を動機にして、知性が活性化するなんてことはありえないからです。

 僕は中学校に入って初めて英語に触れました。それまではまったく英語を習ったことがなかった。1960年頃の小学生だと、学習塾に通っているのがクラスに二三人、あとは算盤塾くらいで、小学生から英語の勉強している子どもなんか全然いません。ですから、FENでロックンロールは聴いていましたけれど、DJのしゃべりも、曲の歌詞も、ぜんぶ「サウンド」に過ぎず、意味としては分節されていなかった。それが中学生になるといよいよ分かるようになる。入学式の前に教科書が配られます。英語の教科書を手にした時は、これからいよいよ英語を習うのだと思って本当にわくわくしました。これまで自分にとってまったく理解不能だった言語がこれから理解可能になってゆくんですから。自分が生まれてから一度も発したことのない音韻を発声し、日本語に存在しない単語を学んで、それが使えるようになる。その期待に胸が膨らんだ。

 今はどうでしょう。中学校一年生が四月に、最初の英語の授業を受ける時に、胸がわくわくどきどきして、期待で胸をはじけそうになる・・・というようなことはまずないんじゃないでしょうか。ほかの教科とも同じでしょうけれど、英語を通じて獲得するものが「文化」ではないことは中学生にもわかるからです。わかっているのは、英語の出来不出来で、自分たちは格付けされて、英語ができないと受験にも、就職にも不利である、就職しても出世できないということだけです。そういう世俗的で功利的な理由で英語学習を動機づけようとしている。でも、そんなもので子どもたちの学習意欲が高まるはずがない。

 格付けを上げるために英語を勉強しろというのは、たしかにリアルではあります。リアルだけれども、全然わくわくしない。外国語の習得というのは、本来はおのれの母語的な枠組みを抜け出して、未知のもの、新しいものを習得ゆくプロセスのはずです。だからこそ、知性の高いパフォーマンスを要求する。自分の知的な枠組みを超え出てゆくわけですから、本当なら「清水の舞台から飛び降りる」ような覚悟が要る。そのためには、外国語を学ぶことへ期待とか向上心とか、明るくて、風通しのよい、胸がわくわくするような感じが絶対に必要なんですよ。恐怖や不安で、人間はおのれの知的な限界を超えて踏み出すことなんかできません。

 でも、文科省の『「英語ができる日本人」の育成のための行動計画の策定について』にはこう書いてある。

「今日においては、経済、社会の様々な面でグローバル化が急速に進展し、人の流れ、物の流れのみならず、情報、資本などの国境を超えた移動が活発となり、国際的な相互依存関係が深まっています。それとともに、国際的な経済競争は激化し、メガコンペティションと呼ばれる状態が到来する中、これに対する果敢な挑戦が求められています。」

冒頭がこれです。まず「経済」の話から始まる。「経済競争」「メガコンペティション」というラットレース的な状況が設定されて、そこでの「果敢な挑戦」が求められている。英語教育についての基本政策が「金の話」と「競争の話」から始まる。始まるどころか全篇それしか書かれていない。

「このような状況の中、英語は、母語の異なる人々をつなぐ国際的共通語として最も中心的な役割を果たしており、子どもたちが21世紀を生き抜くためには、国際的共通語としての英語のコミュニケーション能力を身に付けることが不可欠です」と書いた後にこう続きます。

「現状では、日本人の多くが、英語力が十分でないために、外国人との交流において制限を受けたり、適切な評価が得られないといった事態も起きています。」

「金」と「競争」の話の次は「格付け」の話です。ここには異文化に対する好奇心も、自分たちの価値観とは異なる価値観を具えた文化に対する敬意も、何もありません。人間たちは金を求めて競争しており、その競争では英語ができることが死活的に重要で、英語学力が不足していると「制限を受けたり」「適切な評価が得られない」という脅しがなされているだけです。そんなのは日本人なら誰でもすでに知っていることです。でも、「英語ができる日本人」に求められているのは「日本人なら誰でもすでに知っていること」なのです。

 外国語を学ぶことの本義は、一言で言えば、「日本人なら誰でもすでに知っていること」の外部について学ぶことです。母語的な価値観の「外部」が存在するということを知ることです。自分たちの母語では記述できない、母語にはその語彙さえ存在しない思念や感情や論理が存在すると知ることです。

 でも、この文科省の作文には、外国語を学ぶのは「日本人なら誰でもすでに知っていること」の檻から逃れ出るためだという発想がみじんもない。自分たちの狭隘な、ローカルな価値観の「外側」について学ぶことは「国際的な相互依存関係」のうちで適切なふるまいをするために必須であるという見識さえ見られない。僕は外国語学習の動機づけとして、かつてこれほど貧しく、知性を欠いた文章を読んだことがありません。

 

 

2019年

8月

20日

煽り運転にご注意を@事務局より

皆さんこんにちは。今日は事務局担当日です。

 

お盆も過ぎ,夏休みもそろそろ終わりに近づいていますが,先日の台風に続き

昨日の大雨で地盤が緩んでいます。

水場での事故も多数発生していますのでお出かけの際は十分お気を付け下さい。

 

 

 

 

 

さて,先週末,煽り運転の動画で話題になっていた容疑者が逮捕されました。

 

主に関東方面でのトラブルのようだったので,申し訳なくもどこか遠い感覚でニュースを見ていましたが,容疑者の自宅はまさかの大阪。

 

しかも,容疑者が潜伏していたマンション付近を逮捕前に車で通っていたので,なんだか急に身近なニュースとなりました・・・(゚_゚;)

 

 

万が一,今回のような煽り運転の被害に遭ったときには, 

 

逃げられそうな時は安全なところまで逃げる

 

窓やドアは,開けろと言われても絶対に開けない

 

同乗者がいる場合はいち早く通報してもらう

 

 

と,元警察官の方がアドバイスされていましたが,実際この場面になると,

とりあえず110番,ではないでしょうか?

 

一部の車両には,ボタン一つでコールセンターなどに通報できるサービスが

付いているものもあるようですが,警察等への緊急通報なら全ての自動車に

付けてもらえるといいのに・・・(^^;)

 

 

また,このニュースが後押ししてか,

ドライブレコーダーの売上が伸びているようですが,前方や後方だけでなく,360度撮影できるタイプのレコーダーも最近出ています。

 

思わぬ事故に巻き込まれても,

どのような事故だったか,どちらに過失があるのかを証明するには,

ドライブレコーダーの記録が重要となります。

 

 

ただし,レコーダーを取り付けただけで安心してはいませんか? 

 

交通事故のご相談に来られる方の中には,事故当時の記録が上書きされて,

せっかくの記録が消えてしまった・・・というケースもあります。

 

記録の保存方法についても,きちんと確認しておくことをオススメします(^_^)/

 

 

2019年

8月

19日

英語教育について(その3) ☆ あさもりのりひこ No.714

外国語学習について語るときに、「目標言語」と「目標文化」という言葉があります。「目標言語」というのは、今の場合なら、例えば英語です。なぜ英語を学ぶのか。それは「目標文化」にアクセスするためです。英語の場合であれば、ふつうは英語圏の文化が「目標文化」と呼ばれます。

 

 

2019年5月31日の内田樹さんの論考「英語教育について」(その3)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 

 外国語学習について語るときに、「目標言語」と「目標文化」という言葉があります。「目標言語」というのは、今の場合なら、例えば英語です。なぜ英語を学ぶのか。それは「目標文化」にアクセスするためです。英語の場合であれば、ふつうは英語圏の文化が「目標文化」と呼ばれます。

 僕らの世代において英語の目標文化ははっきりしていました。それは端的にアメリカ文化でした。アメリカ文化にアクセスすること、それが英語学習の最も強い動機でした。われわれの世代は、子どものときからアメリカ文化の洪水の中で育っているわけですから、当然です。FENでロックンロールを聴き、ハリウッド映画を観て、アメリカのテレビドラマを観て育ったわけですから、僕らの世代においては「英語を学ぶ」というのは端的にアメリカのことをもっと知りたいということに尽くされました。

僕も中学や高校で「英語好き」の人にたくさん会いましたけれど、多くはロックの歌詞や映画の台詞を聴き取りたい、アメリカの小説を原語で読みたい、そういう動機で英語を勉強していました。

 僕もそうでした。英語の成績は中学生からずっとよかったのですが、僕の場合、一番役に立ったのはビートルズの歌詞の暗記でした。ビートルズのヒット曲の歌詞に含まれる単語とイディオムを片っ端から覚えたのですから、英語の点はいいはずです。

 つまり、英語そのものというよりも、「英語の向こう側」にあるもの、英米の文化に対する素朴な憧れがあって、それに触れるために英語を勉強した。英米のポップ・カルチャーという「目標文化」があって、それにアクセスするための回路として英語という「目標言語」を学んだわけです。

 その後、1960年代から僕はフランス語の勉強を始めるわけですけれども、この時もフランス語そのものに興味があったわけではありません。フランス語でコミュニケーションしたいフランス人が身近にいたわけではないし、フランス語ができると就職に有利というようなこともなかった。そういう功利的な動機がないところで学び始めたのです。フランス文化にアクセスしたかったから。

 僕が高校生から大学生の頃は、人文科学・社会科学分野での新しい学術的知見はほとんどすべてがフランスから発信された時代でした。40年代、50年代のサルトル、カミュ、メルロー=ポンティから始まって、レヴィ=ストロース、バルト、フーコー、アルチュセール、ラカン、デリダ、レヴィナス・・・と文系の新しい学術的知見はほとんどフランス語で発信されたのです。

 フランス語ができないとこの知的領域にはアクセスできない。当時の日本でも、『パイデイア』とか『現代思想』とか『エピステーメー』とかいう雑誌が毎月のようにフランスの最新学術についての特集を組むのですけれど、「すごいものが出て来た」と言うだけで、そこで言及されている思想家や学者たちの肝心の主著がまだ翻訳されていない。フランス語ができる学者たちだけがそれにアクセスできて、その新しい知についての「概説書」や「入門書」や「論文」を独占的に書いている。とにかくフランスではすごいことになっていて、それにキャッチアップできないともう知の世界標準に追いついてゆけないという話になっていた。でも、その「すごいこと」の中身がさっぱりわからない。フランス語が読めないと話にならない。ですから、60年代―70年代の「ウッドビー・インテリゲンチャ」の少年たちは雪崩打つようにフランス語を学んだわけです。それが目標文化だったのです。 

 のちに大学の教師になってから、フランス語の語学研修の付き添いで夏休みにフランスに行くことになった時、ある年、僕も学生にまじって、研修に参加したことがありました。振り分け試験で上級クラスに入れられたのですけれど、そのクラスで、ある日テレビの「お笑い番組」のビデオを見せて、これを聴き取れという課題が出ました。僕はその課題を拒否しました。悪いけど、僕はそういうことには全然興味がない。僕は学術的なものを読むためにフランス語を勉強してきたのであって、テレビのお笑い番組の早口のギャグを聴き取るために労力を使う気はないと申し上げた。その時の先生は真っ赤になって怒って、「庶民の使う言葉を理解する気がないというのなら、あなたは永遠にフランス語ができるようにならないだろう」という呪いのような言葉を投げかけたのでした。結局、その呪いの通りになってしまったのですけれど、僕にとっての「目標文化」は1940年から80年代にかけてのフランスの知的黄金時代のゴージャスな饗宴の末席に連なることであって、現代のフランスのテレビ・カルチャーになんか、何の興味もなかった。ただ、フランス語がぺらぺら話せるようになりたかったのなら、それも必要でしょうけれど、僕はフランスの哲学者の本を読みたくてフランス語を勉強し始めたわけですから、その目標を変えるわけにゆかない。フランス語という「目標言語」は同じでも、それを習得することを通じてどのような「目標文化」にたどりつこうとしているのかは人によって違う。そのことをその時に思い知りました。

 ロシア語もそうです。今、大学でロシア語を第二外国語で履修する学生はほとんどいません。でも、若い方はもうご存じないと思いますけれど、1970年に僕が大学入学したとき、理系の学生の第二外国語で一番履修者が多かったのはロシア語でした。「スプートニク・ショック」と言われたように、60年代まではソ連が科学技術のいくつかの分野でアメリカより先を進んでいたからです。科学の最先端の情報にアクセスするためには英語よりもロシア語が必要だった。でも、ソ連が没落して、科学技術におけるアドバンテージが失われると、ロシア語を履修する理系の学生はぱたりといなくなりました。もちろんドストエフスキーを読みたい、チェーホフを読みたいというような動機でロシア語を履修する学生はいつの時代もいます。目標文化が「ロシア文学」である履修者の数はいつの時代もそれほど変化しない。けれども、目標文化が「ソ連の科学の先進性」である履修者は、その目標文化が求心力を失うと、たちまち潮が引くようにいなくなる。

 僕の学生時代はフランス語履修者がたくさんおりました。でも、その後、フランス語履修者は急減しました。ある時点で中国語に抜かれて、今はもう見る影もありません。理由の一つは、日本のフランス語教員たちが学生たちの知的好奇心を掻き立てることができなかったせいなのですけれど、それ以上に本国のフランスの文化的な発信力が低下したことがあります。フランス文化そのものに日本の若者たちを「目標」として惹きつける魅力がなくなってしまった。

フランス語やロシア語の例から知れる通り、われわれが外国語を学ぶのは目標文化に近づくためなのです。目標文化にアクセスするための手段として目標言語を学ぶ。

 

 しかし、まことに不思議なことに、今の英語教育には目標文化が存在しません。英語という目標言語だけはあるけれども、その言語を経由して、いったいどこに向かおうとしているのか。向かう先はアメリカでもイギリスでもない。カナダでもオーストラリアでもない。どこでもないのです。

2019年

8月

16日

英語教育について(その2) ☆ あさもりのりひこ No.713

僕の結論は「どんなものであれ、外国語を学ぶことは子どもたちの知的成熟にとって必要である」ということでした。これが僕の基本的な立場です。こればかりは譲れません。

 

 

2019年5月31日の内田樹さんの論考「英語教育について」(その2)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 僕は毎年野沢温泉にスキーに行くのですけれど、今年も3月に野沢に行ったら、もう外国人ばかりなのですね。僕らが泊まった旅館は七、八割が外国の方でした。食堂に案内された時に、座席表が外国名ばかりだったので、仲居さんに「大変ですね、英語で接客するんですか?」と訊いたら、「いいえ。私ら英語できませんから、全部Google翻訳です」とこともなげに答えられました。

 僕はある禊の会に入っておりまして、ときどき禊の行に行くのですけれど、四月に行った時は、ロシア人が団体で来ておりました。聞くと驚く方が多いと思いますけれど、ロシア人も神道の禊をやる人たちがいるんですよ。モスクワにも道場があるんですが、やっぱり本場の日本で本格的に修行したいという人たちが来ているのです。この時はロシアの人とベネズエラの人が来ておりました。道場は祝詞を唱えたり、座禅を組んだりという行をしているところですから、もともと外国人の参加なんか予測していないし、もちろん外国語が堪能な人が揃っているわけではない。

 来たロシア人たちは英語もあまりわからないということで、どうやって意思疎通するんだろうと心配しておりましたら、道場長が、「これがあるから大丈夫」と言って、小さな機械を見せてくれました。Pocketalk という手のひらサイズの自動翻訳機械でした。まさに『ドラえもん』の「ほんやくコンニャク」でした。そこには60ヵ国語が入っていて、ボタンを押して、日本語を言うと、外国語になって音声が出てくる。外国語音声を入力してもらうと、日本語の音声に訳される。さっそくロシア人たちとその機械で会話をしてみました。

 僕はそういうガジェットに目がないので、家に帰ってすぐにAmazonで検索して、購入しました。SIMカードを入れると世界中どこでも使える。それが3万円台。仰天しました。いつの間にこんなものが・・・と思いました。われわれの知らないうちに、テクノロジーはどんどんと進化しているわけです。AIの「シンギュラリティー」が来ると産業構造が変わり、雇用環境が激変するとさかんに報道されていますけれど、そんな先の話ではなくて、自動化・機械化はあちこちでもう起きているわけです。

 これまで英語をいやいや勉強してきた「のび太」君のような子どもたちにとって「ほんやくコンニャク」はまさに夢の機械だったわけですけれど、それが今やSIMカード付きで、3万円台で手に入る。いずれ価格競争が起きて、「ほんやくコンニャク」がコンビニで電卓程度の価格で売られる時代も来るかも知れない。電卓が普及したせいで筆算や珠算の能力に対するニーズが失われたように、機械翻訳が日常的なものになってきたら、オーラル・コミュニケーション能力を身に付ける必要もなくなります。よく「町で外国人にいきなり道を尋ねられたときに英語ができないと困る」というようなことを英語学習の動機づけとして語る人がいますけれど、これからはポケットから出せば済むわけですね。

 今の「ほんやくコンニャク」は、まだ一度に聴き取れるセンテンスが短いですけれども、技術的な改良はこれからもどんどん進み、いずれどこでどんな外国語で話しかけられても、日本語でスムーズに対話できるようになる。『スターウォーズ』にすべての宇宙の言語が話せる通訳ロボットC-3POというのが出てきますけれど、個人用のC-3POをみんなが連れて歩けるようになるようなものです。

 こういうところで僕がしゃべっている音声を、すぐに文字起こしして後ろのスクリーンに投影するというテクノロジーはすでに開発されています。もともとは聴覚障害者用に開発されたものです。手話通訳者がいなくても話を理解できるようにということで開発された。話し始めのうちは、技術者が文章に手を入れます。日本語は同音異義語が多いですし、人によってかなり特殊な言葉づかいをしますから、技術者がいったん文字起こしされたものを、意味が通るように修正する。でも、時間が経つと、機械が話し手の語彙や「話し癖」に慣れて、技術者が介入しなくても、機械が講演をタイムラグなしにスクリーンに映し出すようになる。僕がそのシステムを使って講演したのはもう1年半ぐらい前です。恐らく今はもっと技術が進化していると思います。

 

 外国語教育はどうすれば効率的であるのかという話をわれわれは教育者という立場で必死にしているわけですけれど、そういうわれわれの側の努力とはまったく無関係に、科学技術は進化して、場合によっては英語教育についての根幹部分についてのこれまでの工夫や議論を無効化してしまうような変化が起きている。そのことをまずみなさんにはご理解頂きたいと思います。

自動機械翻訳がオーラル・コミュニケーションにおける障害の多くを除去してくれるということになったら、一体何のために外国語を学ぶのか? 日本の小・中・高の英語の先生方は、「何のために英語を学ぶのか?」ということについて、今や根源的な省察を要求されています。これまではそんなことを考える必要がなかった。英語を学ぶことの必然性・有用性は自明のものだと思われていた。でも、それが揺らいできた。

 僕自身は長くフランス語を勉強してきて、大学では語学の教師をしていたわけですから、「なぜ外国語を学ぶ必要があるのか」に関してはずっと考え続けてきました。特に、フランス語やドイツ語のような第二外国語については、「そんなものを学生に履修させる必要がない、そんな時間があったらもっと英語をやらせろ」というタイプの議論に何度も巻き込まれましたから、「なぜとりあえず不要不急のものであるフランス語を学ぶ必要があるのか?」という問いについてはかなり真剣に考えて来ました。

 僕の結論は「どんなものであれ、外国語を学ぶことは子どもたちの知的成熟にとって必要である」ということでした。これが僕の基本的な立場です。こればかりは譲れません。「ほんやくコンニャク」ができようと、ポケットマネーで通訳が雇えようと、そんなことは全く別のレベルで、人は外国語を学ぶ必要がある。でもそれは、文科省が言っているような「英語ができる日本人をつくる」といった功利的な目的とは無関係な話です。

 

 今日、この中に文科省の方はいらしていますか。いらしたら、自動機械翻訳がどのように日本の外国語教育を変えていくのかについて、これまで省内ではどういう話し合いをされてきたのかお訊ねしたいです。調査はされていますか? 実際に機械をお使いになってみたことがありますか? 今、自動機械翻訳がどうなっているかを知っていれば、「英語ができる日本人」養成プログラムのような、ビジネスの場面でオーラル・コミュニケーションがうまくないと、侮られる、損をする、というようなことを英語習得の主目的に掲げているプログラムは存在そのものが無意味になるかも知れないということにもっとショックを受けていいはずなんです。でも、その気配もない。ということは、文科省の方々は自動機械翻訳については何もご存じないということだと思います。教育プログラムの根幹を揺るがすようなテクノロジーの進化について「何もご存じない」のだとしたら、それは教育行政を司る省庁として「あまりに不勉強」とのそしりを免れないのではないかと思います。

2019年

8月

15日

奈良マラソン2019への道 その4 ☆ あさもりのりひこ No.712

7月21日(日)、インターバル走1000メートルを5本。

1㎞5分20秒を目標に走る。

5本目で、1㎞6分になったので終了。

気温が上がったので、同じ時間、同じ距離を走っても、汗が出る量が増えた。

 

7月28日(日)、服部緑地でハーフマラソン。

2時間33分54秒と不振だった。

同じペースを維持することが肝である。

 

8月4日(日)、ペース走60分。

60分間走ったが、ペースは上がらなかった。

1㎞あたり20秒ほど遅い。

走っているときの暑さ(気温が高い)のせいもあるが、夜、暑くて熟睡できないせいもある。

 

8月11日(日)、インターバル走1000メートルを5本。

目標の5分20秒には、5本とも達しなかった。

ただし、6分台まで落ちることもなかった。

 

去年は、78月と走行距離が落ちた(月間80㎞台)。

今年は、筋トレよりもジョギングを優先して、早朝に走り込んでいる。

7月は月間140㎞を走り、8月は半月で70㎞に達している。

そして、月1回レースを走っている。

この調子で、暑い夏に走り込みたい。

 

 

奈良マラソンまであと16週。

2019年

8月

14日

英語教育について(その1) ☆ あさもりのりひこ No.711

教育の目標は、子どもたちの市民的成熟を支援することに尽くされる

 

 

2019年5月31日の内田樹さんの論考「英語教育について」(その1)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

昨年の6月12日に東京の私学の文系教科研究会(外国語)で行った講演録が出版された。「東京私学教育研究所所報」84号に掲載されているが、ふつうのひとはあまり手に取る機会がない媒体なので、ここに採録する。

 

○司会者  今回は、ここ最近の外国語の文系教科研究会では例をみないほど多くの先生方にお集まりいただきました。6月の今ごろは、夏休みがそろそろ見えてきて、でもまだまだ遠くて、体力的にも精神的にもだいぶ苦しいころ合いだと思います。にも関わらず、これだけ多くの先生方が今回は集まってくださり、おかげさまで満員札どめとなりました。理由はたった1つです。今回、当研究会では、内田樹先生をお招きして講演会を開催できる運びとなりました。忙しくても体力的にきつくても、この方の話ならば何としても聞きたい、それが内田樹先生ではないでしょうか。

 内田先生は、現在は神戸女学院大学名誉教授であるとともに、神戸市で武道と哲学研究のための学塾「凱風館」を主宰していらっしゃいます。もともとのご専門はフランス現代思想ですが、武道論、教育論、映画論、文学論、漫画論などなど、実に多くの専門領域をおもちで、あらゆる領域について、あらゆる人に、万人に届く言葉を発信していらっしゃいます。

 内田先生の言葉の特徴は「届く」ということだと思っております。一見複雑で込み入った情況であっても、それについて内田先生が書かれた文章を読むと、目の前の混沌にさっとマップがかかり、そこにおいて自分がどのように歩みを進めていけばいいのかがすっと理解される。内田先生のご著書を読んで、そのような経験された先生方も多いのではないでしょうか。

 内田先生の文章を読むと、そこに書かれた内田先生の言葉が、もともと自分のいいたかったことを言ってくれた、と思える経験がよくあります。実際はそんなことは考えたこともなかったことなのに。そんな風に、言葉が、読んでいる自分の内側にまで届いて、響くのです。また、言葉というもの、読書というものは、本来そのようなメカニズムやダイナミズムをもっているのだ、ということも、実は、内田先生から私は学ばせていただきました。

 フランス現代思想がご専門ということもあり、言語というものに実に造詣の深い内田先生に、本日は「英語教育の危機」という演題のもと、激動期、大変革期といってもいい現在の英語教育界について、それから、英語に限らず、言葉を学ぶ、教えるとはどういうことかについて、存分に語っていただこうと思います。

 それでは、内田先生、よろしくお願いいたします。

 

○内田  過分のご紹介にあずかりました。内田でございます。

 一日の仕事が終わった後の、お疲れのところお集まり頂きまして、まことにありがとうございます。今、私が登壇する前に(公益財団法人東京都私学財団より外部検定試験料に関する)助成金の話がありましたけれども、実は今日もこちらに来る新幹線の車内で、「検証 迷走する英語入試」という、これは岩波のブックレットですが、これを読んでおりました。帯には、「緊急出版、混乱は必至」と書いてありますけれども、多分今の日本の教員の中で本当に最も困惑しているのは中高の英語の先生だろうと思います。本当にお気の毒だと思います。

 本当にどうしてこんなことになってしまったのか、僕にはよくわからないのです。みなさんにもよくわからないのではないかと思います。これから民間試験が入試に導入され、センター試験の英語がいずれなくなるという流れになっていますけれども、どうしてこんなことが現場の英語教員たちの意向を無視して行われていくのか。誰に訊いても、よくわからないと言う。いったい、誰にとって、どんな利益があって、こんな制度改革を行うのか。

 教育の目標は、子どもたちの市民的成熟を支援することに尽くされるわけですけれど、こんな制度改革で、子どもたちがどういう利益を得ることになるのか。子どもたちの知性的な成熟にこの改革がどう資するという見通しがあって、こんな改革を進めているのか、全くわからない。

 今回のことに限らず、日本の外国語教育は迷走し続けています。そもそも何のために外国語を学ぶのかという根本のところについての熟慮が不足しているからです。もちろんここにいる先生たちこそ、まずそれについて考えなければいけない立場ですけれども、日々の業務から、このような猫の眼のようにくるくる変わる制度改革にキャッチアップすることに手いっぱいで、「子どもたちはどうして外国語を学ばなければいけないのか」という最も根源的な問いを深めていく余裕がない、そんな状況ではないかと思います。

 

 英語の先生たちは、余りそういう話は聞きたくないかも知れませんけれど、自動機械翻訳が今すごい勢いで進化しています。文科省は、オーラル・コミュニケーションが必要だ、とにかく英語で話せなければダメだとさかんに言い立てていますけれど、そんな教育政策とは無関係に翻訳テクノロジーの方はどんどん進化している。

 去年の「中央公論」で自動機械翻訳の専門家と英語の専門家の対談がありました。今の機械翻訳はこれまでとシステムが違って、ただ用例を溜め込むだけでなく、「ディープ・ラーニング」ができるようになって、これまでとはまったく別物になったらしい。

 英語だと、今の自動機械翻訳が大体TOEIC600点ぐらいまでだけれども、数年のうちに800点になるそうです。対談の中で、自動機械翻訳の専門家が、だから、もう学校で英語を教える必要はなくなると言っていました。外交官とか通訳、翻訳とか、英語のニュアンスを精密に吟味する必要のある仕事では英語についての深い理解が必要だけれど、日常的なコミュニケーションについてはそんなものはもう要らない。だって、人間より機械の方が速く、正確になるから。英語の専門家は1%くらいいれば済む。後は機械に任せておけばいい、と。エンジニアらしい、いささか乱暴な議論でしたけれど、英語の先生たちはこの挑発的な発言に異論を立てる義務があると思います。小学生から英語を教える必要なんかないし、中学でも高校でも、特殊な職業をめざすもの以外には英語を教える必要がないと言い切ってるんですから。

 

 

2019年

8月

13日

笑顔の日々を!

 

本日は、お盆真っ最中ですが、当事務所はカレンダーどおり業務を行っていて、ブログは事務局の担当日です。

先日、全英女子オープンゴルフ大会で優勝した渋野日向子選手の笑顔は良かったですね。

笑顔の良いことは、世界共通なのか地元のメディアで「スマイリング・シンデレラ」とニックネームを付けられ、試合中の映像を観ていて、観ている者の心を和ませてくれましたよね。

笑うことは、いいことのようで、昔から笑う門には福来たるとか言われますよね。

渋野選手は、そのことわざのとおり笑って、福(優勝)を得たのではないでしょうか。

近年、色々なものに書かれているのでは、笑うことで、笑う人自身にリラックス効果をもたらし、血行を改善して血圧を下げ、免疫力を高めるなど、色々な良い効果もあるようですよ。

そして、周りに笑顔の人がいれば、その場は明るくなり、渋野選手のように他の人にも良い効果をもたしますよね。

当事務所には、開所時に頂いた「笑ってごらん 幸せになれるよ」と書かれた額をかけてあります。

 

困って、悩んで相談に来られた方、依頼に来られた方に笑顔になっていただきたいとの思いがあります。

そして、お越し頂いた方に日々笑顔になっていただき、福(幸福)を得ていただきたいと願って、仕事に取り組んでいます。

2019年

8月

09日

廃仏毀釈について(後編) ☆ あさもりのりひこ No.710

だから、天皇制=国家神道という図式が成立するのは、慶應四年の神仏分離令からさきの敗戦までの77年に過ぎないということになる。日本の天皇制の全歴史のうちの77年だけである。それを126代の歴代天皇がすべて神道の祭主であったと信じている人あるいは信じているふりをしている人が天皇制の支持者・反対者のいずれにも多い。

 

 

2019年5月29日の内田樹さんの論考「廃仏毀釈について」(後編)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 もう一つあまり指摘されないことに天皇家はもともと仏教徒だという事実がある。

 京都東山の真言宗泉涌寺は13世紀に四条天皇の葬儀が行われて以来、天皇家の菩提寺に近い機能を果たしていた。江戸時代の歴代天皇皇后は後水尾天皇から孝明天皇まで全員が泉涌寺に葬られている。当然歴代天皇の位牌もここにあり、僧たちが読経してその菩提を弔っている。明治天皇の父である孝明天皇の葬儀は仏式で行われている。今でも歴代天皇の祥月命日には、皇室を代理して宮内庁京都事務所が参拝している。

 

 だから、天皇制=国家神道という図式が成立するのは、慶應四年の神仏分離令からさきの敗戦までの77年に過ぎないということになる。日本の天皇制の全歴史のうちの77年だけである。それを126代の歴代天皇がすべて神道の祭主であったと信じている人あるいは信じているふりをしている人が天皇制の支持者・反対者のいずれにも多い。

 これは天皇制という制度の複雑さを捨象して、問題をシンプルで、ハンドルしやすいものにしようとする態度の現れだと私は思う。

 つねづね申し上げている通り、複雑なものは複雑なまま扱うのが知的に誠実な態度だと私は思っている。複雑な仕組みをわかりやすい図式に縮減して、敵味方に分かれて罵り合うのは知的には不毛なことである。それよりは、素直に「なんだか一筋縄ではゆかぬものだ」と認めて、いったん理非正邪の判定を「かっこに入れて」、ほんとうのところは歴史的事件として何が起きたのか、ほんとうのところその歴史的事件の意味は何であるのかについて冷静に問うということが必要ではないのか。

 

 廃仏毀釈について腑に落ちないもう一つのことは、熱狂的な廃仏運動はかなり短期間で終息し、やがて寺院が再興され、人々が寺院に参詣するようになったということである。廃仏毀釈運動は慶應四年に始まり、明治三年にピークを迎え、明治九年にはほぼ収まった。なんで、そんなにあっさり終わってしまったのか。

 1300年続いた神仏習合という宗教的伝統をほとんど一夜にして弊履の如くに捨て去った熱狂が10年も続かなかった。この非対称性がよくわからない。それほどまでに仏教の檀家制度が憎く、僧侶の腐敗が許し難いものであったら、あるいは明治政府の宗教統制が緻密なものだったら、10年で廃仏運動が「収まる」わけがない。でも、あっさり終わってしまって、誰もその話をしなくなった。

 だから、今の日本人は「神仏習合」についても「神仏分離」についても、よく知らない。

 習合という宗教現象は他の宗教でもあることだから、理解はできる。けれども、それを一度暴力的に分離してみたら、さしたる抵抗もなく実現され、にもかかわらず数年でなんとなくそれも尻すぼみになり、それから100年経ってまたじりじりと神仏習合に戻っているという現象はうまく説明ができない。

 

私が毎年参拝している羽黒山はもともと神仏習合で、本尊は聖観音菩薩だったが、神仏分離で山上の仏像仏具は捨てられ、ご本尊はご神体に入れ替えられた。そのときに酒田の篤志家が棄てられたり、焼かれたりした仏像を拾い集めて、自宅の蔵に保存していた。それを最近になって「もともと羽黒山のものだから」というのでその子孫が返却を申し出てきた。羽黒山はそれを嘉納して、二年ほど前に「千仏堂」という建物を本堂の横に立てて、数百体の仏像を安置している。神社の中に寺院があるという神仏習合の「ふつうのかたち」に戻ってきたのである。

 

 この神仏習合の「復古」趨勢に対してはいずれファナティックな神道系の政治組織から「やめろ」という攻撃が始まる可能性があると私は予想している。そのときにわれわれは明治初年に神仏分離をドライブしたイデオロギーと心性の現代における「アヴァター」を見ることができるかも知れない。

 

 「廃仏毀釈」に付随したさまざまな事件のうち、記憶しておいてよいトリビアがあるので、それを最後に列挙して話を終えたい。

(1)廃仏毀釈にもっともはげしく抵抗したのは浄土真宗であった。県内のほぼすべての寺院が廃寺となった鹿児島でも、浄土真宗だけは廃仏の運動が下火になるやたちまち全県に布教を行い、廃寺の再建に取り組んだ。江戸時代に真宗門徒が弾圧されたときに「隠れ念仏」活動をしていた「抵抗の伝統」が生き残っていたのであろう。

 

(2)最も苛烈な廃仏運動を指揮した一人は、松本の知事であった戸田光則。戸田は将軍家の血筋を引き、松平姓と葵の家紋を許された親藩だったが、戊辰戦争が始まってから、勤王か佐幕か最後まで迷った末、新政府軍が中山道を通過する時点でようやく腹をくくって新政府についた。この日和見主義に対する新政府からの不信を解消するために戸田は廃仏毀釈に異常な熱意を示したのである。彼はまず戸田家の菩提寺を破壊するところから始めたのである。

 

(3)もう一人は京都府知事だった槇村正直。長州藩士で木戸孝允に重用された人物である。京都の文化的伝統にまったく関心がなかった槇村はきわめて熱心に廃仏運動に取り組んだ。まず神仏習合の祇園社感神院を八坂神社に改組し、本地仏の薬師如来を撤去。北野天満宮は北野神社に改名され、境内の寺院はすべて撤去解体された。彼は五山の送り火も地蔵盆も盆踊りも禁止したのである。それがどういう経緯で、どういう言い訳で復活したのか、誰か知っていたら教えて欲しい。

 

 

(4)興福寺は廃仏運動の被害がもっとも大きかった寺である。興福寺は春日大社と一体化していたが、分離され仏像仏具教典が棄てられた。五重塔も民間に売却され、金属だけを取り出すために買い主が火をかけようとしたが、延焼をおそれた近所の住人に制止されたおかげで焼けずに残った。いまは国宝である阿修羅像も運慶作とされる無著・世親像も金堂の床にうち捨てられていた。その惨状については、前に釈先生と興福寺に聖地巡礼に参ったときに詳しく伺った。

2019年

8月

08日

7月のデータについて ☆ あさもりのりひこ No.709

2019年7月の各種データの結果が出た。

 

まず、環境放射線から。

2019年7月の1か月間の平均値はつぎのとおり。

室内1メートル 0.0428μ㏜/h

室内0メートル 0.0446μ㏜/h

室外1メートル 0.0596μ㏜/h

室外0メートル 0.0717μ㏜/h

 

ちなみに2018年7月のデータはつぎのとおり。

室内1メートル 0.044μ㏜/h

室内0メートル 0.0468μ㏜/h

室外1メートル 0.0589μ㏜/h

室外0メートル 0.0677μ㏜/h

 

昨年と比べると、室内はいずれも数値が低く、室外はいずれも数値が高くなっている。

とくに、2019年2月以降、毎月、地表が0.07μ㏜/hを超え続けているのが気になる。

 

 

つぎに、体組成計の2019年7月末のデータを2018年7月末と比べてみる。

体重 69.85㎏→70.5㎏

BMI 22→22.

体脂肪率 15.2%→13.6%

筋肉量 56.15㎏→57.75㎏

  推定骨量 3.1㎏→3.2㎏

  内臓脂肪レベル 10.5→10

  基礎代謝量 1617/日→1664/

  体内年齢 43才→44才

  体水分率 59.2%→62.1%

 

筋肉量と体水分率が増えて、体脂肪率と内臓脂肪レベルが減っている。

悪くないな。

 

 

最後に、ランニングのデータ。

2019年7月の1か月間に走った時間と距離はつぎのとおり。

走行時間 17時間22分48秒

走行距離 143.1㎞

 

これも2018年7月のデータと比較してみる。

走行時間 12時間44分52秒           

走行距離 85.9㎞

 

筋トレの時間を減らして、ランニングの時間を増やしたので、時間は約4時間38分、距離は約57㎞増えている。

猛暑なので、昼間は走らない。

早朝に、短い時間走るようにしている。

8月も暑いけれど、このペースで走り込みたい。

 

奈良マラソン2019まで、あと4か月しかない。

2019年

8月

07日

廃仏毀釈について(前編) ☆ あさもりのりひこ No.708

神仏習合というのはそれ以前にすでに1300年の伝統のあるほとんど土着した日本の宗教的伝統である。それを明治政府の発令した一篇の政令によって人々が軽々と捨てられたということがまず「変」である。この人たちにとって、千年を超える宗教的伝統というのはそんなに軽いものだったのか?

 

 

2019年5月29日の内田樹さんの論考「廃仏毀釈について」(前編)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

昨日の寺子屋ゼミで「廃仏毀釈」についての発表があった。いくつかコメントをしたので、備忘のためにここに書き留めておく。

 

 神仏分離・廃仏毀釈というのは不可解な歴史的事件である。すごく変な話なのである。歴史の教科書では「合理的な説明」がよくなされているが(水戸学が流行していた。明治政府が欧米列強に伍するためにキリスト教に対抗して国家神道を体系化するために行った。江戸時代の寺檀制度に増長した僧侶の堕落のせいで民心が仏教から離反していた・・・などなど)、どうも腑に落ちない。

 神仏習合というのはそれ以前にすでに1300年の伝統のあるほとんど土着した日本の宗教的伝統である。それを明治政府の発令した一篇の政令によって人々が軽々と捨てられたということがまず「変」である。この人たちにとって、千年を超える宗教的伝統というのはそんなに軽いものだったのか?

 神仏分離令の発令は慶應四年(1868年)である。「五畿七道諸国に布告」して、「往古ニ立帰リ」「普ク天下之諸神社、神主、禰宜、祝、神部ニ至迄、向後右神祇官附属ニ被仰渡候」という祭政一致の方針が示される。

 次に神社に対して「僧形ニテ別当或ハ社僧抔ト相唱ヘ候輩ハ復飾被仰出候」という命令が発された。社僧とは神社に勤める僧侶であり、別当は寺院と神社が一体化した神宮寺の責任者である僧のことである。この人たちに「復飾」(還俗)して、神職に奉仕するように命じたのである。

 驚くべきは、この命令に対して全国の社僧・別当たちが特段の抵抗もなく従ったということである。「長いものには巻かれろ」という処世術が宗教界に徹底していたのか、それとも「神と仏といい ただ水波の隔てにて」という血肉化した神仏習合マインドのせいで寺で読経しようと神社で祝詞を上げようと、同じことだということだったのか、私にはわからない。

 そのあと仏像をご神体としていた神社に対しては仏像仏具仏典の類を「早々ニ取除」くことを命じた神仏判別令が出された。

 それまで神宮寺の多くでは仏像をご神体に祀っていたのである。

 

 この「特段の抵抗もなく」というのが不思議なのである。

 ありうる説明としては、神仏分離の当初の意図が「宗教の近代化」であり、すべての制度が「近代化されねばならぬ」ということについて明治初年の民衆たちも「まあ、公方さんもいなくなっちゃったし、なんかそういう潮目みたい」というふうに感じ取っていたからだ、ということがありうるかも知れない。歴史の滔々たる流れに逆らっても仕方がないんじゃないの、と。それくらいの歴史感覚は一般民衆にもあったのかも知れない(わからないけど)。

 

 ターゲットになったのは寺院だけではない。最初に発令されたのは六部、虚無僧、山伏、梓巫女、憑祈祷、狐下しなどの「前近代」的な遊行の宗教者の禁止だった(もちろん明治政府はそんな言葉は使わないが)。加持祈祷、オカルト、ノマド的宗教者が「まず」禁止された。そういう「前近代的迷妄」の排除が近代国家の心理的基礎づけに必要だったと明治政府が判断したのだとしたら、そこには(ひどい話だが)それなりに筋は通っている。

 

 だから、そのあと明治40年代になると、今度は神社合祀令が出て、「前近代的な神道」が排除されることになる。これについては南方熊楠がはげしい反対運動を展開したので、記憶されている人もいると思うけれど、全国20万社のうち7万社が廃されるというすさまじい「神社整理」であった。

 神道の国家統制を実施するためには、神社を公費で運営する必要がある。しかし、神社の数が多すぎて管理コストがカバーできない。だから小さい神社は(氏子たちがどれほど信仰していようと、どのような貴重な祭祀や芸能が伝えられていようと)統廃合してしまうという政府の態度のうちに「神道に対する敬意」を見ることはむずかしいだろう。

 だから、国家神道というのは別にある種の宗教性の価値が高騰したということではなく、端的に「宗教的なものを政治的利用価値だけをものさしにして格付けした」ということに過ぎないのだと思う。

 若干のタイムラグはあったけれど、廃仏毀釈と神社合祀は「宗教の近代化」という政治目標については、軌を一にした政策だったのである。たぶん。

 

 

 

2019年

8月

06日

あ~夏休み~

みなさん、こんにちわ。

本日は事務局担当日です。

 

連日猛暑が続いていますが、体調は大丈夫でしょうか。

私は、出勤のときは、ペットボトルにお茶を入れて凍らせたものを持ち歩いています。

ペットボトルは、8割お茶を入れて凍らせて、家を出る前に少し足すと、道中も冷たいお茶を飲めて、いい感じです(・∀・)

事務所に着いたら、冷凍庫へ入れておくと帰りも多少快適です。

子どもの学校が、ついに夏休みが短縮になり、

例年始業式は9月1日だったものが、8月最終週から2学期が始まることになりました。

そうなると、夏休みもあと3週間で終わり。

家にいたらいたで、常に3食のことを考え、

私の仕事のない日はどこへ連れて行ってあげようかと考え、

スケジュールが子ども中心の日々になり、

「・・・・・はよ夏休みおわって~!!」と思うのですが、

 

8月をまるまるお休みできないとなると、

それはそれでなんだかかわいそうになってきます。

始業式2日目からは給食が始まり、いきなり6時間授業です。

親にとっては大助かり。

 

でも、、、私が子どものときよりも、

イマドキの子どもの生活は格段に忙しくなっている気がします。

「ゆとり教育」がいいとは言いませんが、

もう少し、ゆとりのある生活ができたらいいのになぁと思います。

 

夏休みの宿題も例年より1週間早く仕上げないといけないのに

まだ3分の1も終わっていない様子。

後半は塾の夏期講習もあるのにどうするんやろ・・・。

(←ゆとりある生活、とか言ってるそばから講習行かすんかい!)

2019年

8月

05日

望月衣塑子『安倍晋三大研究』から(後編) ☆ あさもりのりひこ No.707

でも、問題は彼の独特のふるまいを説明することではなくて、嘘をつくことに心理的抵抗のない人物、明らかな失敗であっても決しておのれの非を認めない人物が久しく総理大臣の職位にあって、次第に独裁的な権限を有するに至っていることを座視している日本の有権者たちのふるまいを説明することの方です。いったい何を根拠に、それほど無防備で楽観的にしていられるのか。

 

 

2019年5月28日の内田樹さんの論考「望月衣塑子『安倍晋三大研究』から」(後編)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 日本の場合、明治維新以後は元老たちが総理大臣を選んできました。非民主的なやり方でしたけれど、「国民的人気はあるけれど、まったく政治的能力のない人間」が登用されるというリスクは回避された。戦後の保守党政治でも、「長老たち」の眼鏡にかなう人物でなければ首相の地位にはつけなかった。でも、そういう「スクリーニング」の仕組みはもう今の自民党では機能してないですね。(...)

 彼の生育環境がどうであったか、どのようなトラウマを抱えていたのか、そういったことを心理学的に分析することは安倍政治を理解するためには、いずれ必要になると思います。でも、問題は彼の独特のふるまいを説明することではなくて、嘘をつくことに心理的抵抗のない人物、明らかな失敗であっても決しておのれの非を認めない人物が久しく総理大臣の職位にあって、次第に独裁的な権限を有するに至っていることを座視している日本の有権者たちのふるまいを説明することの方です。いったい何を根拠に、それほど無防備で楽観的にしていられるのか。僕にはこちらの方が理解が難しい。どうして、彼のような人物が政治家になれ、政党の中で累進を遂げ、ついに独裁的な権限をふるうに至ったのか、それを可能にした日本の統治機構と有権者の意識の方に関心がある。

 これは安倍晋三という政治家個人の問題ではなくて、日本のデモクラシーの制度の問題だからです。この六年間、ずっと政権批判をしてきましたけれど、最終的に、安倍晋三という個人を分析してもあまり意味がないというのが僕の得た結論です。彼を「余人を以ては代え難い」統治者だと見なしている多くの日本人がいるわけですけれど、そのような判断がいったいどういう理路をたどって成立するのか、その方に僕は興味がある。安倍さんはいずれどこかの時点で首相の地位を去る。でも、彼を独裁的な権力者にして担ぎ上げた政治体制と国民意識がそのあとも手つかずで残るなら、いずれ第二第三の安倍晋三が出てくることを防ぐ手立てがない。(...)

 彼を担いでいるのは「対米従属マシーン」という政官財学術メディアを巻き込んだ巨大なシステムです。彼らは日本の国益よりアメリカの国益を優先的に配慮することによって、アメリカから「属国の代官」として認証されて、その地位を保全されている。清朝末期にいた「買弁」と機能的には同質のものです。

 ただ、清末の買弁が自分たちは「悪いこと」をしているという犯意があったのに対して、日本の対米従属マシーンのメンバーたちにはその意識がありません。彼らは「アメリカの国益を優先的に配慮することが、日本の国益を最大化することだ」ということを本気で信じているか、あるいは信じているふりをしている。だから、主観的には罪の意識はないのです。日本のために、国土と国民を守るためにアメリカに従属していることのどこが悪い、と自分を正当化することができる。

 もともとこの仕組みは「対米従属を通じての対米自立」というきわめてトリッキーな戦後日本の国家戦略の産物だったわけです。最終目的はあくまで「対米自立」だった。吉田茂の時代から田中角栄の時代まで、サンフランシスコ講和条約から、沖縄返還まで、その軸はぶれていないと思います。

 でも、安倍政権では、もう「対米自立」は国家目標としては掲げられていない。「対米従属という手段」がどこかで自己目的化した。対米従属マシーンのメンバーであることによって国内での高い地位と高額の収入を約束されている限り、彼らにしてみたら、対米従属はエンドレスで続いて欲しい「ステイタス・クオ」であるわけです。

 ふつうの国の統治者は自国益を最優先するけれど、安倍政権は自国益よりもアメリカの国益のほうを優先する。日本国民から吸い上げた税金をアメリカの軍隊や企業にどんどん注ぎ込む。日本の国内産業の保護育成を犠牲にしても、アメリカの企業のために市場を開放する。アメリカの国際政策はどんな不細工なものでももろ手を挙げて賛成する。世界を見渡してみても、これほどアメリカにとって便利な政府は存在しない。だから大事にして当然です。

(...)

 アメリカにとって、安倍晋三というのは一面ではきわめて好都合な政治家だけれども、危険な政治家でもある。集団的自衛権を発動して、アメリカの海外派兵の「二軍」として働くこと、アメリカ製の武器をどんどん買ってくれること、巨額の「ホスト・ネーション・サポート」予算で米軍基地を維持拡充してくれることなどは米軍にとっては大変好ましいことでしょうけれど、そういう日本の「軍事優先」がどこかで節度を超えて、軍事上のフリーハンドを要求するようになると、それはアメリカにとっては東アジアに新たなリスク・ファクターが出現することを意味する。

 もし、改憲が「アメリカから押し付けられた憲法」を否定するだけでなく、アメリカの統治原理そのものを否定することを意味するとしたら、ホワイトハウスもいい顔はしないでしょう。その点では、アメリカは必ずしも一枚岩ではない。日本を実質的に支配しているのは「アメリカ」というより、端的に米軍とそれにつらなる軍産複合体です。対米従属といいますけれど、実質的には日米合同委員会を通じて日本をコントロールしているのは米政府ではなく在日米軍です。そして、米軍の意向は必ずしもアメリカ人すべての意向ではない。当たり前です。現に、『ニューヨークタイムズ』のようなリベラル系のメディアは一貫して安倍内閣のナショナリズムや改憲志向や慰安婦問題への取り組みを批判してきた。

 改憲で日本が平和主義を捨てることを望んでいる隣国はアジアにはいません。改憲を強行すれば、当然中国韓国はじめてアジア諸国との外交関係は緊張する。そのようにして西太平洋の地政学的安定を損なうことをおそらく多くのアメリカ人は望んでいない。

 アメリカからすれば「いまで十分」ということだと思います。平和主義国家としては桁外れの防衛予算を組んで、アメリカ製の兵器を買ってくれている。これ以上好戦的な国になってもらうことはない。アメリカの本音は、「日本は黙ってアメリカの言うことを聞いていればよい」ということに尽くされると思います。

 

 僕たちは忘れがちですけれど、アメリカにとって日本は太平洋戦争で二九万人のアメリカ兵を殺した国です。日本では『鬼畜米英』はもう死語ですけれど、『リメンバー・パールハーバー』は今でもアメリカでは感情喚起力のあるスローガンです。日本は属国だけれど、かつての敵国なのです。属国として厳しい支配下においているのは、ほんとうのところはこの「おべっかつかい」を信用していないからです。この感情的な非対称を日本人は忘れているんじゃないですか。

2019年

8月

02日

望月衣塑子『安倍晋三大研究』から(前編) ☆ あさもりのりひこ No.706

人格的な脆弱性においてここまで未成熟な為政者をこれまで戦後日本にはいたことがない。

 

 

2019年5月28日の内田樹さんの論考「望月衣塑子『安倍晋三大研究』から」(前編)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

東京新聞の望月衣塑子さんと特別取材班による『安倍晋三大研究』(KKベストセラーズ)の中で望月さんと対談をしている。その中の私の発言の一部を「予告編」として掲載する。

今回のトランプ来日の「異例の接待」に安倍政権の従属的本質が露呈したが、その仕組みについても私見を述べている。

 

 安倍さんがつく嘘には、「シナリオがある嘘」と「シナリオのない嘘」の二つがあるみたいですね。とっさに口を衝いて出た「シナリオがない嘘」から始まって、「シナリオのある嘘」へと移ってゆく。

 もろもろの不祥事のきっかけは、首相の意図せざる失言です。「それは言ってはダメ」ということを不用意に洩らしてしまう。その場で自分を大きく見せようとしたり、相手の主張を頭ごなしに否定するために「言わなくてもいいこと」を口走ってしまう。その点については自制心のない人だと思います。「その点についてはさきほどは間違ったことを申し上げました。お詫びします」とちょっと頭を下げれば済むことなのに、頑強に誤まったことを拒否する。

 性格的に自分の非を認めることがよほど嫌なんでしょうね。だから、明らかに間違ったことを言った場合でも、「そんなことは言っていない」「それは皆さんの解釈が間違っている」と強弁する。「立法府の長です」なんていう言い間違いは、国会で平身低頭して謝らないと許されない言い間違えですけれど、これについても絶対に謝らなかったですね。間違いを認めず、勝手に議事録を改竄した。

「立法府の長」とか「私や妻が関係していれば」発言がその典型ですけれど、不用意なことをつい口走ってしまう。その失敗を糊塗するために、官僚が走り回って、つじつまを合わせて、もともと言ったことが「嘘ではないこと」にする。首相の不用意の「言い損ない」がまずあって、それをとりつくろうために官僚たちが「シナリオのある嘘」を仕込む。第二の嘘には間違いなく「シナリオライター」がいると思います。誰か「嘘の指南役」がいて、「こういうステートメントでないと、前言との整合性がとれないから、これ以外のことは言ってダメです」というシナリオを誰かが書いている。(...)

 こういう違法行為で最終的に罪に問われるのは、実行犯である官僚たちなわけですよね。政治家はあくまで「私は知らない。そんな指示を出した覚えはない」と言い張る。それに、官僚たちにしても、たしかに具体的な指示を聞いたわけではないんです。上の人間に皆まで言わせず、その意向を察知して、「万事心得ておりますから、お任せください」と胸を叩くようなタイプでないと出世できない。だから、「忖度」というのは政治家と官僚が「阿吽の呼吸」で仕事をしている限り、原理的にはなくなることはないと思います。

(...)

 首相の「とにかく非を認めるのが嫌だ」という頑なさは常軌を逸していると思います。でも、人は失敗を認めないと、誤りの修正ができない。失敗を認めない人は同じ失敗を繰り返す。過去の失敗だけでなく、これから取り組む政治課題についても、自分の能力が足りないから「できない」ということ言いたくない。だから、「できもしない空約束」をつい口走ってしまう。人格的な脆弱性においてここまで未成熟な為政者をこれまで戦後日本にはいたことがない。このような為政者の登場を日本の政治プロセスは経験したことがないし、予測してもいなかった。だから、そういう人間が万一出て来た場合に、どうやってこの為政者がもたらす災厄を最小化するかという技術の蓄積がない。

 アメリカは、その点がすぐれていると思います。デモクラシーというのは、つねに「国民的な人気があるけれど、あきらかに知性や徳性に問題がある人物」を大統領に選んでしまうリスクを抱えている。アメリカでは、建国の父たちが、憲法制定時点からそのリスクを考慮して、統治システムを設計した。「問題の多い人物がたまたま大統領になっても、統治機構が機能し続けられる」ようにシステムが作られている。

『アメリカのデモクラシー』を書いたアレクシス・ド・トクヴィルがアメリカを訪れたときの大統領はアンドリュー・ジャクソンでした。トクヴィルはジャクソンに面会して、このように凡庸で資質を欠いた人物をアメリカ人が二度も大統領に選んだことに驚いていますけれど、同時に、このような愚鈍な人物が大統領であっても統治機構が揺るがないアメリカのデモクラシーの危機耐性の強さに対して称賛の言葉を書き記していました。

 いまでもそうだと思います。ドナルド・トランプは知性においても徳性においてもアメリカの指導者として適切な人物とは思えませんけれど、とにかくそれでもアメリカのシステムは何とか崩れずに機能している。議会や裁判所やメディアが大統領の暴走を抑止しているからです。

 アメリカ人は政治に大切なものとして「レジリエンス(復元力)」ということをよく挙げますけれど、たしかに、ある方向に逸脱した政治の方向を補正する復元力の強さにおいては、世界でもアメリカは卓越していると思います。そして、いまの日本の政治過程にいま一番欠けているのは、それだと思います。復元力がない。

 

 

2019年

8月

01日

服部緑地 ハーフマラソン ☆ あさもりのりひこ No.705

7月28日(日)、大阪府豊中市にある服部緑地公園で「第1回大阪服部緑地ナイトハーフマラソン」が開催された。

ナイトランは初めての経験である。

インターネットでエントリーしたのだが、エントリー受付の郵便は来なかった。

郵便で通知が来ない大会は初めてである。

 

服部緑地公園は、安藤大さんの「カイゼン」を2回受けた場所なので馴染みがある。

午後4時30分に、緑地公園の陸上競技場に着く。

陸上競技場に来るのは初めてである。

エントリーしたランナーの一覧表が張り出されてある。

朝守は受付番号「3005」である。

受付でゼッケンその他を受け取る。

ゼッケンは「2005」である。

 

陸上競技場の観覧席で休んで、「チンパンジー」のエナジーバーを囓る。

荷物を預けて、陸上競技場の外でウォーミングアップする。

午後5時45分から開会式。

ハーフマラソンは緑、10㎞は赤、5㎞は青とゼッケンが色分けされている。

ランナーは300人くらい集まっている。

そのうちハーフマラソンに出場するのは200人くらい。

女性のランナーが多い。

 

陸上競技場をスタートして、1周2.1㎞のコースを10周する。

周回コースの2か所に給水所が設営されていて、水とスポーツドリンクを提供してくれる。

 

午後6時、ハーフマラソンがスタート。

緩やかな起伏がある。

風があるが、気温が高いので、早めに給水を心がける。

出だしは好調で、目標である1㎞6分15秒前後を維持して走る。

5㎞を過ぎると1㎞6分後半にペースが落ちる。

9㎞を過ぎると1㎞7分台になる。

後半は、日が暮れて、文字通りナイトランになった。

15㎞を過ぎると1㎞8分台まで落ちる。

 

2時間33分54秒でゴール。

目標のペースを維持できなかったのが残念である。

 

 

つぎのレースは、8月18日(日)、同じ服部緑地で10㎞を走る。

2019年

7月

31日

サル化する世界 ☆ あさもりのりひこ No.704

ポピュリズムとは「今さえよければ、自分さえよければ、それでいい」という考え方をする人たちが主人公になった歴史的過程のことである。

 

 

2019年5月27日の内田樹さんの論考「サル化する世界」をご紹介する。

 どおぞ。

 

 

「ポピュリズムと民主主義について」という標題である媒体から寄稿を依頼された。字数が限られていたので、言いたいことを書ききれなかった。ロングヴァージョンをここに掲げる。

 

「ポピュリズム」というのは定義のむずかしい言葉である。政治用語として頻用されているが、それは必ずしもその語の定義についての集団的合意が成立していることを意味しない。

 術語の定義は、ふつう同一カテゴリーに属する他の語との差異に基づいて理解される。だから、「民主主義」の定義ははっきりしている。democracyは誰が主権者であるかによる分類法であるから、これの対義語は「王政(monarchy)」や「貴族政(aristocracy)」や「寡頭政(oligarchy)」や「無政府状態(anarchy)」などである。だから、誰かが「民主主義を廃絶せよ」と主張したとすれば、その人は代替するどれかの政体の支持者であることを明らかにしなければならない。

 だが、「ポピュリズム」はそうはゆかない。というのは、ポピュリズムについては、その対義語が何であるかについての合意がまだ存在しないからである。

 欧米の政治学の論文を読むと、ポピュリズムはほぼ例外なく「これまでの秩序を揺るがす不安定なファクター」という意味で使われている。だが、その時の「これまでの秩序」が何を指示するかはその語が利用される文脈によって、ひとつひとつ違っている。だから、トランプの統治についても、ドイツの移民政策についても、イギリスの貿易政策についても、ヴァチカンの宗教政策についても、「これまでの秩序」を揺るがす動きには「ポピュリズム」というタグが付けられる。それらのすべてに一貫している定義を取り出すことは難しい。

 こういう時、一意的に定義されていない語でものごと論ずる愚を冷笑する人がいるけれど、私はそれには与さない。「一意的に定義されていない語」が頻用される場合には、間違いなくそこには「これまでの言葉ではうまく説明できない新しい事態」が発生しているからである。そういう場合は、用語の厳密性よりも、「新しい事態」の前景化を優先してよいと私は考えている。

 では、ポピュリズムという一意的な定義が定まらない語によって指称されている「新しい事態」とは何なのか?

 

 私見によれば、ポピュリズムとは「今さえよければ、自分さえよければ、それでいい」という考え方をする人たちが主人公になった歴史的過程のことである。

 個人的な定義だから「それは違う」と口を尖らす人がいるかも知れないけれど、別にみなさんにこの意味で使ってくれと言っているわけではない。

「今さえよければいい」というのは時間意識の縮減のことである。平たく言えば「サル化」のことである。「朝三暮四」のあのサルである。

 春秋時代の宋に狙公という人がいて、サルを飼っていた。朝夕四粒ずつのトチの実をサルたちに給餌していたが、手元不如意になって、コストカットを迫られた。そこでサルたちに「朝は三粒、夕に四粒ではどうか」と提案した。するとサルたちは激怒した。「では、朝は四粒、夕に三粒ではどうか」と提案するとサルたちは大喜びした。

 このサルたちは、未来の自分が抱え込むことになる損失やリスクは「他人ごと」だと思っている。その点ではわが「当期利益至上主義」者に酷似している。「こんなことを続けていると、いつか大変なことになる」と分かっていながら、「大変なこと」が起きた後の未来の自分に自己同一性を感じることができない人間だけが「こんなこと」をだらだら続けることができる。その意味では、データをごまかしたり、仕様を変えたり、決算を粉飾したり、統計をごまかしたり、年金を溶かしたりしている人たちは「朝三暮四」のサルとよく似ている。

 

 「朝三暮四」は自己同一性を未来に延長することに困難を感じる時間意識の未成熟(「今さえよければ、それでいい」)のことであるが、「自分さえよければ、他人のことはどうでもいい」というのは自己同一性の空間的な縮減のことである。

 集団の成員のうちで、自分と宗教が違う、生活習慣が違う、政治的意見が違う人々を「外国人」と称して排除することに特段の心理的抵抗を感じない人がいる。「同国人」であっても、幼児や老人や病人や障害者を「生産性がない連中」と言って切り捨てることができる人がいる。彼らは、自分がかつて幼児であったことを忘れ、いずれ老人になることに気づかず、高い確率で病を得、障害を負う可能性を想定していないし、自分が何かのはずみで故郷を喪い、異邦をさすらう身になることなど想像したこともない。見知らぬ土地を、飢え、渇いて、さすらい、やむにやまれず人の家の扉を叩いたときに、顔をしかめて「外国人にやる飯はないよ」と言われたときにどんな気分になるものかを想像したことがない。

 自分と立場や生活のしかたや信教が違っていても、同じ集団を形成している以上、「なかま」として遇してくれて、飢えていればご飯を与えてくれ、渇いていれば水を飲ませてくれ、寝るところがなければ宿を提供することを「当然」だと思っている人たち「ばかり」で形成されている社会で暮らしている方が、そうでない社会に暮らすよりも、「私」が生き延びられる確率は高い。

 噛み砕いて言えば、それだけの話である。

 

「倫理」というのは別段それほどややこしいものではない。「倫」の原義は「なかま、ともがら」である。だから「倫理」とは「他者とともに生きるための理法」のことである。他者とともにあるときに、どういうルールに従えばいいのか。別に難しい話ではない。「この世の人間たちがみんな自分のような人間であると自己利益が増大するかどうか」を自らに問えばよいのである。

 例えば、渋滞している高速道路で走行禁止の路肩を走るドライバ―は他のドライバーたちが遵法的にじっと渋滞に耐えているときにのみ利益を得ることができる。全員がわれ先に路肩を走り出したら、彼の利益は失われる。だから、彼は「自分以外のすべての人間が遵法的であり、自分だけがそうでないこと」を、つまり、「自分のようにふるまう人間が他にいない世界」を願うようになる。これが「非倫理的」ということである。これはある種の「呪い」として機能する。だって「私のような人間がこの世に存在しませんように」と熱心に祈っているわけなんだから。この「呪い」は弱い酸のようにゆっくり、でも確実に彼の生命力を殺いでゆくことになる。

 もう一度言うが、倫理というのは別に難しいことではない。いまここにはいない未来の自分に、あるいは過去の自分に、あるいは「そうであったかもしれない自分」に、「そうなるかも知れない自分」を「自分の変容態」として、受け容れることである。そのようなすべての「自分たち」に向かって、「あなたがたは存在する。存在する権利がある。存在し続けることを私は願う」という祝福をおのれの固有名において贈ることである。

 

 倫理的な人というのが「サル」の対義語である。

 だから、ポピュリズムの対義語があるとすれば、それは「倫理」である。私はそう思う。たぶん、同意してくれる人はほとんどいないと思うけれど、私はそう思う。

 自己同一性が病的に萎縮して、「今さえよければ、自分さえよれけば、それでいい」と思い込む人たちが多数派を占め、政治経済や学術メディアでそういう連中が大きな顔をしている歴史的趨勢のことを私は「サル化」と呼ぶ。

 「サル化」がこの先どこまで進むのかは、私にはよくわからない。けれども、サル化がさらに亢進すると、「朝三暮四」を通り越して、ついには「朝七暮ゼロ」まで進んでしまう。論理的にはそうなる。そのときにはサルたちはみんな夕方になると飢え死にしてしまうので、そのときにポピュリズムも終わるのである。

 哀しい話だ。

 

 「サルはいやだ、人間になりたい」という人々がまた戻ってくる日が来るのだろうか。来るとよいのだが。

2019年

7月

30日

オススメ文房具@事務局より

皆さんこんにちは。今日は事務局担当日です。

梅雨も明け,一気に真夏の天気に変わりましたね。

1週間の天気予報を見ても赤いギラギラ☀ばかり・・・。

 

昨日は熱中症で救急搬送されている人も多かったようです。

外で仕事をされている方は特に気を付けてください!

 

さて,今日は私が最近見つけたオススメ文房具の紹介です。

 

①ぺんてる ノック式蛍光ペン ハンディラインS 

 

 

仕事中,蛍光マーカーをよく使用しますが,皆さんは使うたびにキャップを外したり,また付けたりという作業が地味に面倒だと思ったことありませんか?

 

この蛍光ペンは,その名のとおりノック式なので,今まで面倒だったキャップの取り外しは一切ありません。

 

 

片手で上部をノックするだけなので,作業を中断することなく続けられます。

それぐらい,と思う人もいるかもしれませんが,お仕事で頻繁に使われている方ならこの便利さに気付いて貰えるはず!

 

②コクヨ 2Wayハサミ〈ハコアケ〉


こちらは,以前テレビで紹介されていた便利グッズで,私も購入してしまいました。

 

宅配便や,今の時期だとお中元などが届いた際,開封するために外側の頑丈なテープの裁断用と,ガムテープのカット用に,はさみとカッターを両方利用している,といった方にオススメです。

 

この「ハコアケ」は,はさみを閉じた状態でスイッチをスライドさせると,はさみの刃先から1ミリ程度の刃がでてきてカッターに早変わりします。

 

これ一つで,ダンボールの箱空けも簡単にできますよ。

③ゼブラ ブレン(ボールペン)

 

最後は,文房具屋さん大賞2019のボールペン賞1位に選ばれたゼブラの「ブレン」です。

 

すごくシンプルなデザインなのと,このボールペンの商品コピー「ブレないストレスフリーな書き心地」というのが気になり,お試しに1本購入してみました。

 

 

軽い,そして書き心地は滑らかで,ノックの音も静かです。

書いている時もペン先が安定しているので,電話を取りながらメモを取ったりする時も,滑りにくく書きやすいです。

 

お値段も1本150円(税抜)なので,結構お手頃です。

 

 

また,何かオススメ文具を見つけたら紹介しますね(^_^)/

 

2019年

7月

29日

「適当」について(後編) ☆ あさもりのりひこ No.703

「正しく」かつ「それほど正しくない」ということが一語で言い表せるのは、別に背理的なことじゃなくて、時間系列に配列すれば合理的なことなんです。未来は未知だから、ある時点では「先のことなので、それが正しいかどうかわからない」。でも、少し時間が経過すると事後的には「それで正しかったことがわかる」ということはまさに僕たちにとって日常茶飯事なわけです。それが「適当」という言葉の意味です。

 

 

2019年5月19日の内田樹さんの論考「「適当」について(後編)」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 僕は杖の稽古もやっているんですけれども、つい先日も、稽古で教えながら、「その動きは違う」「必然性がない」と門人たちにさかんにうるさく注意をしていた。そのときにふと「段取り芝居をするな」という言葉が口から出て来た。言ってから、自分で「なるほど、そうか」と腑に落ちた。「段取り芝居」というのは、要するに「次のせりふが何だか知っていてなされる」芝居のことです。そうするとどんなせりふにも動きにも、必然性がなくなってしまう。リアリティーがなくなる。だって、誰が次に何を言うかを事前に知っていて何かを言うということは、現実には起こらないことだからです。台本に書いてある通りにものごとが生起すると思っていて、演技すると、薄っぺらなものになる。何の感動も与えない。それはそんなことは現実では起こらないからです。

 武道的な立ち会いの状況では、次に何が起きるか誰も知らない。でも、次に何が起きるかわからない時にでも、僕たちは何らかの選択をしなければならない。果たして、次に何が起きるかわからないときに、人間はどう動くのか。これは考えればそれほど難しい話じゃないんです。「自由度が最大になるように動く」に決まっているから。その後の可動域が最大化するように動く。その次の動作の選択肢が最大化するように動く。そうするに決まっているんです。自分が最も自由になるようなところに必ず行くはずなんです。わざわざ自分を狭いところに追い込み、動きの選択肢がより少なくなるようなところに行くわけがない。次にわが身に何が起こるかわかってないんですから。

 現実の世界ではそうしているはずなんです。危機的状況に際会した人間は、「次の選択肢」が最大化するように動く。だから、未来の未知性に直面した時には、もっとも自由度の高いところを目指す動きにのみ必然性がある。そのような動きに、僕たちはリアリティーを感じ、強さを感じ、美しさを感じる。生き延びるために適切な戦略を選択している生き物を見たときに僕たちはそう感じるんです。生物として、そういう動きに惹きつけられるように構造化されている。それは生存戦略上当たり前のことなんです。

「段取り芝居」に説得力がないのは、未来の未知性という、僕たちにとってきわめて切実な現実を切り捨てているからです。次に何が起きるかもうわかっている人間は、単一の正解を目指して動く。それが「単一の正解」である以上、それは他の選択肢を想定していない動きになる。いわば、袋小路に自分から入り込んで行くような動きになる。それが美的な感動をもたらすということはあり得ません。

 実際には、能舞台の所作でも、武道の型稽古でも、もちろん全部シナリオはできているわけです。手順、道順が決まっている。だから、次にどういうお囃子が入って、地謡が何を謡って、シテがどこでなにをするかは全部わかっている。でも、そこで先のことまで全部わかっているかのように動くと演劇的な感動がなくなってしまう。同じ能を何百回舞った場合でも、シテがある位置からある位置に行き、ある所作をするときには、生まれて初めてその道順を歩くかのように歩かなければならないし、その所作をその場で思いついてしているかのように演じなければならない。シテが演じている虚構の人物は、生まれて初めてその道を歩くわけですから。生まれて初めての経験を演じなければならない。「あ、いつものあれね」というふうな感じになってはいけない。定型をなぞりながら、決して「定型をなぞっている」ように見えないようにふるまわなければならない。その呼吸は能楽でも武道の型稽古でも変わらないんじゃないかと思います。

 僕は『申楽免廃論』を書いた人はかなり「できる人」じゃないかなと思うのですが、それは「一番大事なのは、原理じゃなく程度だ」という見識を持っているからです。ある状況において与えられた中で自分のパフォーマンスが一番上がるところはどこか。これを武道の用語では「座を見る、機を見る」と言います。これは柳生宗矩の言葉です。「座を見る」というのは、その場において自分がどこに立つべきかを知ることです。「機を見る」というのは、それがいつかを知ることです。いるべきところと、いるべき時を知る。そこでなすべきことをなす。この場合の「なすべきこと」というのは、僕の考えでは、自分が生き延びる可能性が最大化する所作ということです。それは、能舞台でも、型稽古でも変わらない。

 能舞台の上で、シテは自分の体が最も美しく、力強く見える形をするわけですけれども、その形というのは、たぶん人間の自由度が最大化するものじゃないかと思うんです。次の行動の選択肢、次に選ぶことのできる動線が最大化する。つまり、それだけ自由だということですね。自由だけれど、自由度が最大化する形であるという点では条件は厳密に決定されている。決定されていて、かつ自由である。それが武道的な達成だと思います。

『免廃論』を読んで、僕は自分のスキーの先生の言葉を思い出しました。以前その先生から「大事なことは、スキー板の上の正しい位置に立つことだ」と教わりました。僕はその時すぐに「先生、『正しい位置』ってどこですか?」と質問した。すると、先生はにっこり笑って、「『正しい位置』にすぐ戻れる位置のことです」と言われた。僕はこれは至言だと思いました。「正しい位置」というのは固定的にスキー板上にあるものじゃないんです。次の瞬間に雪面とスキー板と身体の関係がどう変わるかは誰にも予測できない。でも、どんな状況に遭遇しても、そのつどの最適解が「次の選択肢」のリストに入っていれば、それに応じることができる。次の瞬間の最適解が手持ちのリストに入っているような立ち位置のことを「正しい位置」であると先生は言われたわけです。深いなあ、これはと思いました。これは能舞台の上であっても、あるいは武道的な立ち会いの場であっても、原理的には同じことだと思います。どこに立つべきか、それはあらかじめ決まっているわけじゃない。いつでも正しい位置に立つことができるという自分自身の未来についての解放性のことを「正しい」と呼ぶ。そのような立ち位置にある人を見ると、僕たちは「リアルだ」とか「強い」とか「美しい」とか「正しい」と感じる。

『免廃論』は「程度の問題」がたいせつだということを後半の三分の一くらいは書き続けている。でも、これはなかなか理解し難い話なんです。だから、「あとがき」を書いた人は勘違いして、「武道の稽古をやると体が固くなってよろしくない」というような原理主義的なことを書いてしまっている。これは明らかに読み違いで、斉泰はそんなこと書いてないんです。武道の稽古をやってもいいけど、自分に合った程度でやりなさいと言っているんです。「適当」なところまでやって、「適当」なところで止めておきなさい、と。

「適当」という日本語は両義的で、「正しい」という意味と「あまり正しくない」という二つの意味を含んでいます。「適当な答えを選べ」という時は「正しい」という意味で、「適当にやっておいて」という時は「それほど正しくなくてもいい」という意味です。「適当にやっておいて」というのは、まさにその時点では正しいかどうか確定しないけれど、結果的にはそれで正しかったことが分かるというようなふるまいをしろということですよね。

「正しく」かつ「それほど正しくない」ということが一語で言い表せるのは、別に背理的なことじゃなくて、時間系列に配列すれば合理的なことなんです。未来は未知だから、ある時点では「先のことなので、それが正しいかどうかわからない」。でも、少し時間が経過すると事後的には「それで正しかったことがわかる」ということはまさに僕たちにとって日常茶飯事なわけです。それが「適当」という言葉の意味です。「適当」というのは、選択肢が複数あり、その中に最適解が含まれていたことが事後的にわかるような選択のことです。だから、この一語で「正しく」かつ「それほど正しくない」を同時に表現することができる。

 

 そういう人事の本質について書かれた本だなというふうに思うと、前田斉泰って、大人だなと思いました。以上です。

2019年

7月

26日

「適当」について(前編) ☆ あさもりのりひこ No.702

武道の要諦は、一言で言えば、「いるべきときに、いるべきところにいて、なすべきことをなす」ということに尽くされる。

 

 

2019年5月19日の内田樹さんの論考「「適当」について(前編)」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

去年の11月3日に金沢の能楽美術館で安田登・藪克典両氏と行った『申楽免廃論』をめぐる鼎談をまとめたリーフレットを昨日、司会をしてくれた学芸員の山内さんが持ってきてくれた(森永一衣さんのソプラノリサイタルのために凱風館にお見えになったのである)。朝起きてぱらぱら読んでいたら、ちょっと面白いことを自分が言っていたので、そこを採録。

 

 とにかく変な本なんですよ。こんな変な能楽の本、僕は読んだことがない。だって、「能楽は健康にいい」っていう本なんですよ。能楽について書かれたものって多々ありますけれども、能楽が健康にいいということを、そのことだけひたすら書いているんですよ。変わった本です。

 能は非常に厳しいもので、その厳しさは武道に通じるということは、実は誰でも言っているんですよね。能楽の喩えを用いて、武道を論じた人ってたくさんいるんです。柳生宗矩も、宮本武蔵もそうです。『兵法家伝書』にも『五輪書』にも能の喩えは頻繁に出てきます。

 たしかに能における能楽師同士のやりとりは非常に厳しいものです。わずかでも拍子を外したり、ずらしたりすると、絶句してしまう、立ち往生してしまう。だから、能舞台は真剣勝負に喩えられることがある。でも、それはいわば「クリシェ」なんです。江戸時代の始めの頃から、いろいろな人が言っていることなんですよね。だから、申し訳ないけど、さっき引用された部分も、斉泰の独自の知見というものではない。「ありもの」を引っ張ってきて、貼り付けたような感じがする。そこはぜんぜん「ふつう」なんです。

 でも、僕は読んでいて、「変な本」だなと思った。能楽が健康にいいということに力点を置いているところなんです。ふつう能について語る場合、芸術としてどう評価するかから始まりますよね。審美的な関心がまず第一に出てくる。能楽師たちはこの所作や謡を通じて、能舞台にいかなる「美しきもの」を出現せしめようとしているのか。あるいは能楽の宗教性とはどういうものなのか、なぜ能楽には死者や幽霊や天神地祇ばかりが出てくるのか。あるいは能舞台はどのような宇宙論的な構造を持っているのか、とか。そういう芸術論とか、宗教論とか、哲学的な関心がふつうは能楽を語る時に、まず出てくるはずなんです。ところが『申楽免廃論』には、驚くなかれ、「美」についての言及が一行もないんですよ。「幽玄」という文字も「花」という文字も出てこない。能楽だけを論じた、こんな分厚い中に、能楽の美的価値についての言及が一つもない。本当にプラクティカルな本なんですよ。むしろ自然科学の論文に近い。まず仮説を立てて、いろいろな証言を集め、サンプルを集めて、反証事例を点検して自分の仮説の妥当性を検証する。手続き的にはほぼ自然科学なんです。

「お能の稽古をすると脚気が治る」という仮説を証明するためだけにこんなに分厚いものを書いているとしたら、まことに変な話だと思ったんです。そんな変な話があるものかと思って、もう一度読み返してみたんですけれど、やっぱり健康論なんです。 

 でも、斉泰の健康についての考え方って、よく読むと、かなりユニークなんです。「健康原理主義」じゃないんです。こういうふうにすればみんな健康になれますという話じゃない。そうじゃなくて、健康というのは、人によって違うし、要は程度の問題だというんです。斉泰は「度」という字を使うんですけれど、「程度」のことです。一番大事なのは「何を」するかではなくて、「どのぐらい」するかだ、と。健康とは原理の問題ではなくて程度の問題なんだ、と。そのことを繰り返し語っている。

 パフォーマンスがどういう条件で最高になるかは人によって違う。だから、自分のパフォーマンスが最高になる個人的な条件というものを見極めろ、と。それを知ることが大切であると言うのです。

 例えば、歩くことは健康にいい。一般的にはそうです。でも、足の弱い人間がたくさん歩いたら体を壊す。足の強い人が少しだけ歩いたのでは効果がない。大切なのは、自分の体が「一里の体」か「十里の体」か、それを見きわめることである、と。僕はこの考え方は実は武道的ではないかと思いました。

 武道の要諦は、一言で言えば、「いるべきときに、いるべきところにいて、なすべきことをなす」ということに尽くされる。能のシテも同じです。地謡や、囃子方や、お相手をするワキ方や、作り物や、装束や面や、所作や道順や、演じている役など、様々なものによってその動きが制約されている。その所与の環境の中で、最適解を選ぶことを求められる。いつ、どの位置にいて、どういう所作をして、どういう声で、どういう言葉を発すべきか。そこには必然性がなければいけない。

 武道の型稽古の場合、打太刀・仕太刀とか、打太刀・仕杖とかいうふうに言いますけれど、ある条件の下で、打太刀に切りかけられて、最適解によって応じる人のことを「仕」と呼ぶ。能のシテも「仕手」と書くことがありますけれど、やはり「仕太刀」や「仕杖」と同じように、与えられた条件下で、最適解を出すことがその任だと思います。

 

 でも、話はそれほど簡単じゃなくて、じゃあ、最適解って何だ、その条件下でのベストの解答って何だというと、これが簡単には答えられない。