〒634-0804

奈良県橿原市内膳町1-1-19

セレーノビル2階

なら法律事務所

 

近鉄 大和八木駅 から

徒歩

 

☎ 0744-20-2335

 

業務時間

【平日】8:50~19:00

土曜9:00~12:00

 

2025年

3月

27日

奈良マラソンへの道 その1 ☆ あさもりのりひこ No.1661

2月28日(金)早朝、ジョギング、42分04秒、6.21㎞、平均ペース6分46秒/㎞、総上昇量81m、消費カロリー434㎉。

1 6分59秒

2 7分12秒

3 6分23秒

4 7分06秒

5 6分17秒

6 6分40秒

7 6分54秒(210m

 

3月1日(土)休足。

 

3月2日(日)、五島つばきマラソン、6時間26分00秒、42.24㎞、平均ペース9分08秒/㎞、総上昇量528m、消費カロリー2816㎉。

 

3月3日(月)休足。

 

3月4日(火)休足。

 

3月5日(水)休足。

 

3月6日(木)休足。

 

3月7日(金)休足。

 

3月8日(土)休足。

 

3月9日(日)休足。

 

3月10日(月)早朝、西園美彌さんの魔女トレ。

 

3月11日(火)早朝、室内トレーニング、軽め。

 

3月12日(水)早朝、安藤大さんのアントレ、軽め、足首に重り約0.5㎏×2。

 

3月13日(木)早朝、ジョギング(甘樫丘東側)、43分12秒、6.21㎞、平均ペース6分57秒/㎞、総上昇量88m、消費カロリー442㎉。

1 7分22秒

2 7分29秒

3 6分48秒

4 7分10秒

5 6分19秒

6 6分41秒

7 6分34秒(210m

五島つばきマラソンの後、11日ぶりにロードを走った。

 

3月14日(金)早朝、ジョギング(甘樫丘西側)、54分50秒、7.7㎞、平均ペース7分07秒/㎞、総上昇量166m、消費カロリー571㎉。

1 7分02秒

2 7分17秒

3 7分26秒

4 6分46秒

5 7分41秒

6 7分49秒

7 6分24秒

8 6分15秒(700m

 

3月15日(土)早朝、インターバル走、37分45秒、6.2㎞、平均ペース6分11秒/㎞、総上昇量88m、消費カロリー441㎉。

1 6分00秒(操作ミスで計測できなかった)

2 6分08秒

3 5分58秒

4 5分37秒

5 5分43秒

 

3月16日(日)雨、休足。

 

3月17日(月)早朝、西園美彌さんの魔女トレ。

 

3月18日(火)早朝、室内トレーニング。

 

3月19日(水)早朝、安藤大さんのアントレ、足首に重り約0.5㎏×2。

アントレ、フルメニューを熟す。

遠くに見える周りの山々が雪を被って白い。

 

3月20日(木・祝)早朝、丘の階段641段、49分59秒、7.2㎞、平均ペース6分56秒/㎞、総上昇量145m、消費カロリー529㎉。

1 6分38秒

2 6分56秒

3 7分06秒

4 8分34秒

5 7分56秒

6 5分44秒

7 5分57秒

8 5分33秒(200m

普段どおりの走りができたな。

 

3月21日(金)早朝、ウインドスプリント300m×10本、51分42秒、7.69㎞、平均ペース6分43秒/㎞、総上昇量79m、消費カロリー560㎉。

6分55秒、7分12秒、6分54秒(70m

4分39秒/㎞、5分05秒/

4分53秒/㎞、5分07秒/

4分45秒/㎞、5分03秒/

4分43秒/㎞、5分01秒/

4分42秒/㎞、4分36秒/

6分50秒、6分46秒、6分12秒(100m

最後の10本目が速かったな。

 

3月22日(土)早朝、テンポ走、39分06秒、6.18㎞、平均ペース6分20秒/㎞、総上昇量91m、消費カロリー434㎉。

1 7分00秒

2 7分11秒

3 5分44秒

4 6分10秒

5 5分49秒

6 6分09秒

7 5分47秒(180m

 

3月23日(日)午前、ジョギング、1時間24分14秒、12.4㎞、平均ペース6分48秒/㎞、総上昇量206m、消費カロリー891㎉。

1 7分06秒

2 7分20秒

3 7分56秒

4 6分32秒

5 6分46秒

6 6分16秒

7 6分39秒

8 6分44秒

9 7分27秒

10 7分42秒

11 5分30秒

12 5分59秒

13 5分41秒(400m

 

3月24日(月)早朝、西園美彌さんの魔女トレ。

 

3月25日(火)早朝、坂道ダッシュ400m×3本、51分44秒、6.86㎞、平均ペース7分33秒/㎞、総上昇量138m、消費カロリー500㎉。

7分03秒、7分16秒、8分08秒(560m

2分40秒1(6分44秒/㎞)

2分40秒3(6分51秒/㎞)

2分35秒8(6分34秒/㎞)

8分21秒、7分01秒、6分43秒(170m

 

2021年12月27日以来、3年3か月ぶりにこけた。

坂道ダッシュを終えて、戻る途中の平坦な舗道で、右脚のつま先が小さな突起に引っかかってバランスを失った。

咄嗟に身体を横転させて、右から路上に落下して、転がった。

右肘(外側)、右膝(外側)、左膝(外側)の皮膚が剥けた。

右尻(外側)も赤くなっている。

とほほ・・・

 

3月26日(水)、休足。

 

 

3月27日(木)、休足。

2025年

3月

26日

内田樹さんの「ヤニス・バルファキス『テクノ封建制』書評」 ☆ あさもりのりひこ No.1660

バルファキスはこのあと領主たちはますます富裕になり、農奴たちはますます困窮する暗鬱な未来を予測している。その未来をどう変えたらいいのか。もちろん革命によるしかない。「新しいコモンズの再構築」(261頁)である。

 

 

2025年3月10日の内田樹さんの論考「ヤニス・バルファキス『テクノ封建制』書評」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 世の中にはお金の話になるといきなり頭の回転がよくなる人と、そうでない人がいる。私は足し算の時でも「円」がつくと、たちまち計数能力が低下するという「経済に弱い人」である。だから、経済の本は読んで「理解できた」と思ったことがない。『資本論』も数式が出てくる頁は全部飛ばして、「資本の原初的蓄積」から読み出したくらいである。そんな私でもこの本はすらすらと最後まで読めた。

 著者バルファキスは2015年のギリシャの経済危機の時に財務大臣を務めた財政の専門家である。貨幣や金融の本質を熟知している人が非専門家にもわかるように、ほんとうに噛んで含めるように資本主義の次のフェーズであるテクノ封建制の実相を明らかにしている。まことに親切な本である。私は親切な人の話は信用する。

 どなたも「ビッグテック」のことはご存じだろう。「資本主義から抜け出してまったくあたらしい支配階級になる力」(79頁)を手に入れた超富裕層の人々のことである。彼らの下に世界中の富が流れ込む仕組みをバルファキスは「テクノ封建制」と呼ぶ。「資本主義が変異して最終的に行き着いた姿」(80頁)である。かつては資本家がプロレタリアートの労働力から余剰価値を収奪していたが、今は違う。資本家は「クラウド領主」というものになった。

 彼らの封土は地上にはない。雲の上にある。領主たちは中世の封建制のときにそうであったように「地代(レント)」を土地を耕す農奴たちから徴収する。今でも肥沃な土壌や鉱物資源を埋蔵する土地を持つ地主の懐にはレントが流れ込む。寝ている間にも金持ちになる。その実体的な土地の代わりにクラウド領主たちは雲の上に封土を所有している。

 最初はここでもスティーブ・ジョズだった。彼はiPhoneを市場に投入した時に世界最初の「クラウド領主」になった。彼は社外の開発者たちにアップルのソフトウェアを無料で使わせて開発したアプリケーションを「アップルストア」で販売するという全く新しいアイディアを思いついた。他の携帯メーカー(ノキアやブラックベリーやソニー)は自社ストアを開発しなかった。できなかった。アップルがすでに市場を独占していたからである。同じアイディアでグーグルもグーグルプレイでアップルと封土を二分した。

 

「アップルとグーグルはタダで働いてくれるサードパーティ開発者が生み出す売り上げから一定割合をピンハネすることで富を積み上げた。これは利潤ではない。クラウド・レントであり、デジタル版の地代なのだ。」(165-6頁)

 

私たちはあらゆる日常の営みを通じて「クラウド領主」たちに「クラウド・レント」を払い続けている。

 

「アレクサやSiriは、僕たちの質問に答えても手数料はもらえない。フェイスブック、ツイッター、TikTok,インスタグラム、ユーチューブ、ワッツアップも同じで、その目的は利潤じゃない。僕たちの関心を引きつけ、それを変えることだ。」(170頁)

 

 領主たちも封土をめぐって戦っている。けれども、それはより安価で、より質の高い商品を提供して、マーケットシェアを高めるための闘いではない。「これまでとは違うオンライン経験を探していたクラウド農奴に対して、移住したくなるような新しいクラウド封土を提供」するための戦いなのだ(172頁)。自分たちが立ち上げたクラウド封土に多くのクラウド農奴を呼び込み、彼らから日々レントを徴収するビジネスモデルに成功したクラウド領主たちは、今や使用価値の高い製品を創り出している企業家たちを「クラウド封臣」として従え、彼らからもレントを徴収している。

 

「封建制から資本主義へという『大転換』が起きたのは、レントに代わって利潤が社会経済システムの原動力になったからだ。だからこそ、それを資本主義と呼ぶことは、たとえば市場封建制と呼ぶよりもはるかに有用で意義があった。ゆえに、今、社会経済システムが利潤ではなくレントで動かされる時代になったという基本的事実に基づいて、新しい名前でそれを呼ぶことが求められている。(...)レントが主役として戻ってきた現実を表すには、「テクノ封建制」という言葉以上にふさわしいものはない。」(172―173頁)

 

 バルファキスはこのあと領主たちはますます富裕になり、農奴たちはますます困窮する暗鬱な未来を予測している。その未来をどう変えたらいいのか。もちろん革命によるしかない。「新しいコモンズの再構築」(261頁)である。最後にバルファキスは『共産党宣言』を踏まえた堂々たるアジテーションで本書を締めている。

 

 

「テクノ封建制のもとでは、人間はもはや自己の心身さえ所有していない。資本を持たない労働者は就業時間中はクラウド・プロレタリアートになり、それ以外の時間にはクラウド農奴になっている。(...)クラウド資本は僕たちの脳内資産を奪い取る。人間が自己の頭と心を所有するためには、クラウド資本を集合的に所有しなければならない。(...)万国のクラウド農奴よ、クラウド・プロレタリアートよ、クラウド封臣よ、団結せよ!心の鎖以外に失うものはなにもない!」(263頁)

2025年

3月

25日

橿原市新賀町にジェラート店「ジェラート工房そらみる」開店@事務局より

皆さんこんにちは。今日は事務局担当です。

 

今朝のニュースで、今日は花粉も黄砂も多く飛来するので、マスクなどをつけて

注意しましょうと言っていたので、マスクをつけて家を出てきたのですが。

メガネをうっかり家に忘れてきてしまい、ホームで電車待ちしているだけで、

目の周りがしょぼしょぼする・・・😖

黄砂は明日も続くようなので、皆様もお気をつけ下さい💦

 

 

さて、以前、ブログでも紹介したことのある、橿原市新賀町のサンドイッチ店

「サンドイッチ食堂Tororii」さんのお隣に、イタリアンジェラート専門店が

先月2月9日に開店しました♪

 

「ジェラート工房そらみる」

 

住 所  奈良県橿原市新賀町273-1

     (近鉄大和八木駅から徒歩約10分です)

 

営業時間 11:00~18:00(冬季17:00まで)

 

定休日  水曜日+不定休

 

https://www.instagram.com/gelatokoubo_soramil/

 

 

早速お店にお邪魔してみると、

店内ですぐ食べられるショーケースには、日替わりで5~6種類、

テイクアウト用はなんと20種類以上ありました。

 

事前にお店のインスタも見て来たのですが、どれも美味しそうで選ぶのに困る・・・😋

ちなみに、事務所から自転車でここまで3~4分。

お店の人にお勧めを伺いながら、なんとか4つチョイスしたのですが。

どうしても気になるせとかに我慢できず、ダブルジェラートも注文。

 

溶けやすいので持ち帰りは難しいと言われたのですが、

もちろん溶けた場合は自己責任として保冷バッグに入れて事務所へ急ぎ持ち帰ったところ、なんとか溶け出さないうちに持ち帰ることが出来ました💕

 

早速持ち帰ったジェラートを頂いたのですが、

とっても口溶けがよく、いちごレアチーズのほどよい甘さと、

せとかのさっぱりした酸味が美味しくて、あっという間にお腹に消えちゃいました(笑)

 

暖かくなってきたので、桜🌸の開花が待ち遠しいところです。

お花見や外へ出かけた際に、冷たくて甘~いジェラートはいかがですか。

気になる方はぜひ一度ご賞味ください(^_^)b

 

2025年

3月

24日

内田樹さんの「『新版 映画の構造分析』の「まえがき」」 ☆ あさもりのりひこ No.1659

集団の創造という点で映画に匹敵するジャンルはありません。

 

 

2025年2月26日の内田樹さんの論考「『新版 映画の構造分析』の「まえがき」」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

みなさん、こんにちは。内田樹です。

 『新版映画の構造分析』をお手に取ってくださってありがとうございます。とりあえず「まえがき」だけでも読んでください。すぐ終わりますから。

 この本の原型になっているのは、2003年に晶文社から出版された映画論です(もう20年以上前なんですね)。それが第三章までです。第四章からあとは、それ以後に僕が書いたもののうちから編集の安藤聡さんが選び出してくれた映画論です。いくつかは映画公開のときに公式パンフレットに掲載されたもの(『ハナレイ・ベイ』、『怪物』、『演劇1』、『演劇2』)、いくつかは商業誌に掲載されたものです。僕が過去20年間に書いた映画論のめぼしいものはほぼ網羅されることになりました。安藤さんのご尽力に感謝申し上げます。

 

 今回ゲラを通読して思ったのですが、映画について書く時と、それ以外のトピックについて書く時とでは、文体がずいぶん違っていますね。映画について話す時は文体のテンションが高いんです。

 読者は全員この映画をすでに観ているか、これから観る予定だということが前提になっているから、かなり前のめりになっている読者を想定して書くことができます。

 ふだんはそうはゆきません。道行く人の袖をとらえて、「ちょっといいですか。ちょっとだけ僕の話を聴いてもらえますか」と懇願する...という書き方です。ゼロから始めて、ていねいに説明しないといけない。

 でも、映画論ならその手間が要りません。前置き抜きでいきなり話を始めることができる。映画史的蘊蓄を傾けても、わがままな好き嫌いを言い募っても、妄想的な解釈をどこまでも暴走させても、結論が出せないままいきなり話が終わっても、「そんな映画論があるものか」と怒り出す人はいません。映画論て「そういうもの」だから。誰も学術的厳密性なんか要求しません。

 そもそも本書の前半部なんかは「映画論じゃなくて、映画論のかたちをとった現代思想入門である」というような名乗りをして映画論を展開しているんです。それでも通るということはつまり映画論というのはどんな形態を取っても構わないということなんです。

 誰かが決めたわけじゃありませんけれども、ずっと前からそういうものなんです。『カイエ・ドュ・シネマ』みたいな書き方をしてもいいし、『映画秘宝』みたいな書き方をしてもいい。スラヴォイ・ジジェクみたいに書いてもいいし、みうらじゅんみたいに書いてもいい。まことに自由な領域なのであります。だから、僕のテンションもつい上がってしまっています。

 それにもう一つ。あらゆる芸術作品は、それについて語られた言葉をも含めてはじめて「作品」として成立していると僕は思っています。僕たちは作品について語ることを通じて、作品にある種の「付加価値」を付与している。作品の創造に(間接的な仕方ですけれども)参与している。だからこそ、美術批評とか文芸批評という分野が存在しているわけです。そして、さまざまな芸術活動の中でも、とりわけ映画は批評の占める割合が多いと僕は思います。

 小説を書くとか、油絵を描くというような芸術創造の場合には、単一の「オーサー」がいて、きちんと全体を統御している。他人が横から口を出して作品制作に参与するチャンスはほとんどありません。当たり前ですよね。小説を書いている横から別の人が「ここはこう書いたらいいんじゃないの」なんて誰だってうるさく言われたくないです。

 でも、映画は違います。なにしろ、とんでもない数の人が映画一本の制作にかかわっています。エンドマークの後に、実に多くの人の名が(ケイタリングの人から会計士まで)列挙されています(いささかうんざりしますけれど)。でも、この執拗なまでの「関係者名の列挙」は映画が単一の「オーサー」による作品ではないという断固とした意思表示なのです。これだけ多くの人が「フィルムメイカー」としてこの映画に参与している。集団の創造という点で映画に匹敵するジャンルはありません。

 そして、僕は映画について語る人たちもまた、映画の創造に(事後的にですけれど)参与しているのではないかと考えています。映画が生き延びるためには、そういう人たちがどうしても必要だからです。

 

 ですから、エンドクレジットの一番最後でいいですから「この映画について語ってくれるすべての人」という一行があったら素敵なのに、と僕は思います。

2025年

3月

21日

内田樹さんの「ペーパーフルな時代」 ☆ あさもりのりひこ No.1658

「これからはペーパーレスの時代だ」とさかんに言われた時期があった。でも、最近誰も言わなくなった。ペーパーレスは不可能だということに気づいたのだろうか。

 

 

2025年2月22日の内田樹さんの論考「ペーパーフルな時代」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

書斎の床を埋め尽くす書物や書類を1時間ほどかけて片づけた。処分できたのは雑誌などごく一部で、大半の書物は横移動しただけである。それでも歩くためのスペースだけは確保できた。

 これらの書物のうち自分で買ったものはたぶん3割くらい。あとは献本である。名も知らぬ人から、私にはさっぱり関心のない領域の自費出版本を送られるとほんとうに当惑する。読む時間はないし、捨てるわけにもゆかない。書棚に空きがあれば並べておいてあげたいのだけれど、それもかなわない。結局床に積み上げられることになる。何年か経って「これはたぶん一生読まないな」と確信が持てると道場の廊下に作った「ご自由にお持ちください」コーナーに配架する。

 8割方は無事に引き取られる。残った2割は申し訳ないが「古新聞・古雑誌」に認定されて廃棄される。合掌。

「これからはペーパーレスの時代だ」とさかんに言われた時期があった。でも、最近誰も言わなくなった。ペーパーレスは不可能だということに気づいたのだろうか。

 たしかにペーパーレスになれば書棚問題は解決する。その日を心待ちにしていたのだが、相変わらず書斎は紙で埋め尽くされている。本のゲラも「データでいいです」と言うのだが、律儀に紙ゲラを送って来る。ゲラが三冊分もたまると一度に持てないくらい重い。

 

 電子書籍はいろいろと難点があるけれども、とにかく所蔵するのに空間を要さない点が卓越している。探す手間も要らない。検索すれば必ずみつかる。書斎にあるはずの書物ははしごを架けても床を這いまわってもみつからない。結局ネットで買うことになる。そしてそれが届いた頃に探していた本はみつかるのである。時間と手間の節約という点では圧倒的に電子書籍がすぐれている。でも、電子書籍で献本してくれる人はいない。誰かそういうサービスを始めてくれないだろうか。

2025年

3月

19日

内田樹さんの「『武道的思考』韓国語版序文」(後編) ☆ あさもりのりひこ No.1657

一方に「真の自分」に出会うことをめざして「内へ向かう」生き方があり、他方に自分が自分でしかないことを束縛だと感じて、今の自分とは違うものになろうと「外へ出てゆく」生き方がある。

 

 

2025年2月9日の内田樹さんの論考「『武道的思考』韓国語版序文」(後編)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 僕の哲学の師匠であるエマニュエル・レヴィナスはこのヨーロッパ的な「そうあらねばならないものになるための旅」をオデュッセウスの冒険の旅になぞらえたことがありました。

 オデュッセウスはトロイ戦争の後、長い冒険の旅でさまざまな「他者」に遭遇します。でも、この「他者」たちはオデュッセウスによって経験され、征服され、所有されるためにのみ存在するのです。一つ目の巨人との戦いも、魔女キルケーとの恋も、セイレーンの歌も、どのような冒険もオデュッセウスのアイデンティティーを揺るがすことはありませんでした。すべての冒険は、彼が故郷イタケー島へ向かう旅程を挿話的に飾るだけなのです。

 この「自分自身であり続けたい」という自我への執着をレヴィナスは西洋形而上学のある種の「症状」だとみなしました。そして、レヴィナスは、それとは違う「旅」のかたちがあるのではないかという問いからその哲学を深化させてゆきました。

 レヴィナスはこう問いました。人が生きる目的は「真の自分」に出会うことだというのはほんとうだろうか? むしろ人は「自分が自分以外のものになれないこと」「自分が自分自身に釘付けにされていること」に苦しんでいるのではないか?

 

 レヴィナスの本をはじめて読んだ時(僕が30歳を少し過ぎた頃でした)に、「アイデンティティーの探求とは違う旅」というこの哲学的アイディアに僕は強く心を惹かれました。僕はその時にすでに多田宏先生に就いて合気道の修行を始めて数年経っていましたので「メンターに導かれて、修行する」ということがどういうことかは感覚的にはわかっていました。

 修行というのは、師の背中を追いながら、無限消失点としての目的(武道の場合なら「天下無敵」)をめざしてひたすら道を歩むことです。自我への執着を武道では「居着き」と言います。道を進もうとする人にとって、一か所に止まりたいという思いは修行の妨げになるだけです。

 レヴィナス哲学もまた「自我への執着」は「他者」との出会いを妨げると論じていました。

 レヴィナスの他者についての哲学と、多田先生の教えは僕には「同じこと」を言っているように感じられました。

「感じられた」だけで、二人の教えのどこが「同じ」であるのかを、その時は言葉にすることはできませんでした。レヴィナス哲学もほとんど理解できていなかったし、合気道もまだようやく薄目が開いたくらいのレベルでしたから、それは仕方がありません。

 今年で、合気道の稽古を始めて50年になります。レヴィナスの書物を読み始めてからも45年ほど経ちました。これくらいの時間があると、武道的思考とレヴィナス哲学のどこに通じるものがあるのかが、ようやく少しずつ言葉にできるようになりました。

 一方に「真の自分」に出会うことをめざして「内へ向かう」生き方があり、他方に自分が自分でしかないことを束縛だと感じて、今の自分とは違うものになろうと「外へ出てゆく」生き方がある。

 あまり単純な二項対立図式に還元してしまうのは、ほんとうはあまりよくないことなのですけれども、これくらいシンプルな話から始めて、だんだん複雑なニュアンスを加えてゆく方が読者のみなさんに対しては親切かも知れないと思います。

 

 この『武道的思考』という書物は、僕が合気道の修行とレヴィナス哲学の研究を通じて、「アジア的な人間観」とはいかなるものか手探りしている時期の書き物です。ですから、トピックはばらばらですし、そこで示される知見も断片的です。でも、それらの断片が集まってジグソーパズルの図ができあがるように、この本を書きながら、僕の中でしだいに「武道的思考」の輪郭ができあがって来たのは事実です。その生成的なプロセスを読者のみなさんもご一緒に経験して頂ければさいわいです。

 

 最後になりましたが、朴東燮先生をはじめ『武道的思考』の韓国語訳の翻訳出版のためにご尽力くださってみなさんに感謝申し上げます。本書が日韓の文化の近さと遠さを際立たせるものであることを願っています。

2025年2月

内田樹

 

 

2025年

3月

18日

近鉄八木駅付近の春の兆しを感じるスイーツ

本日は、事務局の担当日です。

今日は、日差しは暖かいですが、空気がまた冬に戻った様に冷たく感じられ、今晩遅くには雪の降る天気予報がでています。

 

例年なら、桜の開花の知らせが聞けそうな頃ですが、今年はもう少し先になりそうですね。

でも、せっかくの時期なので春を感じる何かを探してみたら、

 

近鉄八木駅・なら法律事務所付近で、今が旬のイチゴを使ったスイーツを見つけましたので紹介させていただきます。

春の兆しを感じるスイーツ1
春の兆しを感じるスイーツ1

まず、そのスイーツが売っているお店は八木駅ホーム下にある近鉄八木駅名店街内の北側で、近鉄百貨店へ向かう途中にある「やさい菓子工房cocoai(ココアイ)」(http://www.cocoai-nara.com/)さんです。

因みにココアイさんの西隣には、今月初めに、このブログで紹介した「FATMAN’S BURGER」さんが在ります。

近鉄八木駅名店街にも個性豊かなお店が増えてきましたよ。

春の兆しを感じるスイーツ2
春の兆しを感じるスイーツ2

ココアイさんは、「身体に優しいスイーツで人々の未来の健康に貢献すること」を掲げていることから、材料の選別にとても好感と信頼がもてるお店でもあります。

よって、スイーツに使われているイチゴも無農薬にこだわった農園で獲れたのを使っているそうです。

ココアイさんのチラシにも書いてありましたが、人は心地よさや幸福感を感じたときに「幸せホルモン」と言われる化学物質が脳で分泌され、その事で心身共に健康を維持できるそうです。

春の兆しを感じるスイーツ3
春の兆しを感じるスイーツ3

是非、少しでもご自身の好きな物を食べたり、心地よさを感じる事を心がけてください。

 

そしたら、自身の中に春がやってくると思いますよ!

2025年

3月

17日

内田樹さんの「『武道的思考』韓国語版序文」(前編) ☆ あさもりのりひこ No.1656

人間は変わり続ける。ですから、どこかで「真の自分」に出会って、そこで「自分探しの旅」が終わるということはない。旅はいつまでも続く。目的地に到達することは永遠にない。

 

 

2025年2月9日の内田樹さんの論考「『武道的思考』韓国語版序文」(前編)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

みなさん、こんにちは。内田樹です。

 これは『武道的思考』という僕の書き物の韓国語版です。原著は2010年に出たので、これは15年前の本ということになります。

 さいわい、武道についての原理的な知見を記したものですから、時事性や速報性とは無縁です。それくらいの時間のせいで「時代遅れ」になるということはありません。

 

 僕の考える「武道的思考」というのは東洋に固有の考え方です。ですから、日本だけでなく、韓国でも中国でも、たぶんベトナムやタイにも、このような人間の捉え方は(多少の地域的な違いを伴いつつ)、それぞれの文化の深層に確実に伏流していると思います。ですから、韓国の方でもお読みになれば、「なんとなく、わかる」ということがあると思います。

 ただ、韓国ではたぶんそれを「武道的思考」というようなかたちで提示する人はこれまでいなかったのだと思います(韓国の武道界のことは僕はよく知らないのですが、僕のこの本が翻訳されるということは、これまで類書がなかったからではないかと推察します)。 

 僕自身、長い間「武道的思考」は日本固有のものだと思っていました。でも、最近になって、これは「アジア的思考」の一つの相なのかも知れないと思うようになりました。序文としてその話をしようと思います。少し長くなりますけれど、ご容赦ください。

 

 アジアとヨーロッパ(アメリカもここに含めることにします)の人間観のきわだった違いは、アイデンティティーという概念にあると思います。

 アイデンティティーはヨーロッパの哲学の核心にある概念です。「真の自分」「もう変わりようのない究極的な自分」のことです。

 ヨーロッパ的な人間観によると、日常生活において、人間は「真の自分」ではありません。「偽りの自分」として生きています。家庭環境であったり、学校教育であったり、支配的な政治的イデオロギーであったり、さまざまな臆断によって、人は目を塞がれ、思考や感情を歪められ、定型化されているからです。ですから、無反省的に生きている限り、人間は「真の自分」にはなれません。自分の外殻にこびりついた自分の中に起源を持たないすべての夾雑物を洗い落として、「真の自分」を見出すように努力しなければならない。

 これがヨーロッパ的な「アイデンティティーの哲学」の基本的な考え方です。

 

 この哲学を代表するのは、ドイツの哲学者ハイデガーです。1933年のフライブルク大学総長就任演説で、ハイデガーはドイツ大学人に課せられた使命は「われわれがそうあらねばならないものに自らなるということなのである」と明言しました。

「われわれがそうあらねばならないものに自らなる」。わかりにくい表現ですが、要するに「真の自分になる」ということです。私たちは自分が「ほんとうは何ものであるのか、何ものにならねばならないのか」を先駆的・直観的にはぼんやりとは知っている。でも、さまざまな障害のせいで、まだ「真の自分」になっていない。だから、全力を尽くして、生涯をかけて「真の自分」になる。

 ヨーロッパ思想において、この発想が完全に否定されたことはこれまでなかったと思います。マルクス主義、実存主義、構造主義、ポストモダニズム、フェミニズム、加速主義・・・と思想の意匠は次々に変わりましたけれども、「臆断の檻から抜け出す」「幻想から目覚める」「眠りから起こされる」という同じメタファーがいつも繰り返されてきました。

 檻から出たり、眠りから覚めたりした人は「真の自分」として生の現実と向き合うことになります。映画『マトリックス』では、赤いピルを選んで、「マトリックス」にコントロールされた眠りから覚めたネオが、荒々しく生々しい現実世界と向き合う場面がありますけれど、これが「真の自分」の最も典型的な表象です(いささか単純過ぎますけれど)。

 

 でも、アジア的人間観はそれとはずいぶん違うもののように僕には思われます。アジアでは、人間の成長は「自分探し」ではなく「自分を捨てる」ことを通じて果たされるという考え方が久しく主流だったからです。

 人間は変わり続ける。ですから、どこかで「真の自分」に出会って、そこで「自分探しの旅」が終わるということはない。旅はいつまでも続く。目的地に到達することは永遠にない。

 みなさんは「呉下の阿蒙」という話をご存じですか。『三国志』に出て来る逸話です。韓国の若い人たちがどれくらい『三国志』に親しんでいるのか、僕には想像がつきませんが、日本ではよく読まれている中国の古典の一つです。

 その中に呉の勲臣である呂蒙将軍の話が出てきます。将軍はたいへん勇猛な武人でしたけれど、無学の人でした。呉王孫権が「もし将軍に学問があれば・・・」と嘆いたのに発奮して、呂蒙将軍はそれから学問に励みました。しばらく経ってから同僚の魯粛が将軍を訪れた時に、呂蒙将軍の学識の深さに驚嘆して「もはやかつての勇武だけの『呉下の阿蒙』ではない」と告げました(「阿」というのは親しみをこめた呼び方で「蒙ちゃん」というようなニュアンスです)。それに応じて呂蒙はこう答えました。

 士別れて三日ならば、即ち更に刮目して相待つべし。

 自分を高めようとする人間は、三日会わないでいるうちに別人になっている。だから、人と対面する時には目を見開いていなければならない、前に会ったときと同じ人間だと思ってはいけないという意味です。

 僕が子どもの頃までは、学校の先生の中でも時々この言葉を引く人がいました。「大器晩成」という言葉もよく大人たちが口にしました。器の大きな人間は、成長するのに時間がかかる。だから、軽々に人の評価を下してはならないという意味でした。ここに流れているのは、「人間は変わり続ける」というアジア的人間観です。

 

 

2025年

3月

14日

内田樹さんの「『沈む祖国を救うには』まえがき」 ☆ あさもりのりひこ No.1655

国運が衰えてきたときには、「どうしてこんなことになったのか?」という問いを少なくとも、その国の「大人」たちは自分に向けなければいけません。

 

 

2025年2月5日の内田樹さんの論考「『沈む祖国を救うには』まえがき」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

マガジンハウス新書から三冊目の本を出すことになった。以下はその「まえがき」

 

 みなさん、こんにちは。内田樹です。

 本書は主に2024年に書いた時評的な書きものを集めて一冊にまとめたものです。

 時事的な文章をこれまで長く書いてきましたけれど、やはりだんだん危機感が募ってきているのを感じます。2008年に出た本のタイトルは『こんな日本でよかったね』でした。2010年の高橋源一郎さんとの対談本のタイトルは『沈む日本を愛せますか』でした。『沈む祖国を救うには』という今回のタイトルと比べると、この頃はまだずいぶん余裕があるのがわかります。

 今の日本は「泥舟」状態です。一日ごとに沈んでいるし、沈む速度がしだいに加速している。

 もちろん、どんな国にも盛衰の周期はあります。勢いのよいときもあるし、あまりぱっとしないときもある。それは仕方がありません。国の勢いというのは、無数のファクターの複合的な効果として現れる集団的な現象ですから、個人の努力や工夫では簡単には方向転換することはできません。歴史的趨勢にはなかなか抗えない。

 勢いのいいときに「どうしてわが国はこんなに国力が向上しているのだろう」と沈思黙考する人はいません。そんなことを考えている暇があったら、自分のやりたいことをどんどんやればいい。でも、国運が衰えてきたときには、「どうしてこんなことになったのか?」という問いを少なくとも、その国の「大人」たちは自分に向けなければいけません。

 自分でゲラを読み返してみて思いましたけれど、本書は「快刀乱麻を断つ」というタイプの書き物ではありません。取り上げているトピックはさまざまですが、実際には同じ一つの難問の周りを、視点を変え、言葉を替えながらぐるぐると回っている。そんな感じがします。

 たしかにこの本を読むと、「どうして日本はこんなにダメになってしまったのか」については、それなりに理解が進むと思います。でも、「じゃあ、その問題をどう解決するか」「どうやってダメじゃない国にするのか」については解が示されていない。

 僕にもわからないんです。

 沈む祖国のために身銭を切ってくれる「大人」の頭数を増やすということしか思いつかないんです。

 ですから、読み終えて胸のつかえが下りて、爽快感を覚えた...というようなことはあまり期待しないでくださいね。それよりは読者の中には、読んでいるうちに「自分こそが祖国に救いの手を差し伸べる『大人』にならないといけないのかな...」と思って、唇をかみしめるというようなリアクションをする人が出て来るような気がします。そういうふうに救国の使命感をおのれの双肩に感じる読者を一人でも見出すために僕はこれらの文章を書いたのかも知れません。

「救国」ってすごい文字列ですね。自分で今書いてびっくりしました。久しぶりにこの文字を見ました。自分の文章の中でこの熟語を使った記憶が僕にはありません。そんなふうに使ったことのなかった言葉まで動員しないと、この現実に対する解を手探りすることができないくらいに現実は危機的だということなのだと思います。

 

 それから、本書に採録した文章はさまざまな媒体に寄稿したものに原形をとどめぬまでに加筆したものです。ですから、「出典」というものはありません。オリジナルの文章だと思って読んでください。記事の末尾に記した日付は「もともとの原稿を媒体に送稿した日」です。「これはいつ頃の話だろう」と思う読者のために書き添えておきました。

 では、また「あとがき」でお会いしましょう。

 

 

2025年

3月

13日

2025年2月のラディ、タニタ、ガーミン ☆ あさもりのりひこ No.1654

2025年2月の放射線量と体組成とランニングについて書く。

 

まず、奈良県橿原市の環境放射線量(ガンマ線)から。

2025年2月の平均値はつぎのとおり。

室内1メートル 0.0437μ㏜/h

室内0メートル 0.0448μ㏜/h

室外1メートル 0.0572μ㏜/h

室外0メートル 0.0718μ㏜/h

 数値は安定している。

 

つぎに、朝守の身体について。

2025年2月22日の数値はつぎのとおり。

体重 73.9㎏

BMI 23.

体脂肪率 17.5%

筋肉量 57.8㎏

推定骨量 3.2㎏

内臓脂肪 13

基礎代謝量 1669/

体内年齢 50才

体水分率 57.7%

体重が73キロを切らなくなったな。

 

最後に、2025年2月のランニングの結果。

走行時間 19時間35分46秒

走行距離 162.79㎞

累積上昇 2674m

 

 2月は、わりと走れた。

2025年

3月

12日

内田樹さんの「伝統を守る女性たち」 ☆ あさもりのりひこ No.1653

修行は相対的な優劣を競わない。ただ、師の後を追って終わりのない道を歩むだけである。

 

 

2025年1月23日の内田樹さんの論考「伝統を守る女性たち」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

年初に浪曲師の玉川奈々福さんを凱風館にお招きして、新作二番をご披露頂いた。翌週には安聖民さんと趙倫子さんのパンソリ古典を拝聴した。暮れには落語の桂二葉さんの四回目の独演会を開いた。一月余りの間に、三人の女性芸能者にお越し頂いたことになる。

 合気道の朝稽古は6時半始まりなので、門人たちはこの季節だとまだ空に月が出ている時間に家を出て道場に来る。今朝は数えてみたら6割が女性だった。凱風館の塾頭は神戸女学院大学合気道部の16代主将であり、私が引退したあとは彼女が師範を引き継ぐ。どうやらこと芸能と武道に関しては、伝統を継承してくれるのは女性たちのようである。

 これは私の身の回りだけの特殊な出来事ではない。時々お訪ねする羽黒山の星野文紘先達のところでは、修行している山伏たちも近年は過半が若い女性である。みなさんはご存じないと思うが、日本の修験道はいま女性山伏によって継承されているのである。なんと。

 伝統的な芸能、武道、宗教に女性たちが引き寄せられ、消えかけた伝統を賦活させようとしていることを一人の伝統継承者として私はとてもありがたく思っている。でも、この現象について、メディアはまず伝えることがないし、学術研究があることも知らない。この現象はまだ水面下にひそんでいて、徴候化するのはもう少し先のことになるのだろう。

 現代社会で、男たちは権力や財貨や威信を争奪し合う競争で心身をすり減らしている。一方、競争に背を向けて、修行の道を選ぶ女性が増えてきている。その理由が私にはわかる気がする。

 修行は相対的な優劣を競わない。ただ、師の後を追って終わりのない道を歩むだけである。修行には査定も評価もない。格付けに基づく権力や財貨の傾斜配分もない。

 だから、人間的成熟をめざす女性たちが競争を捨てて修行の道に入ることは現代日本社会の霊的な空虚さに対する強烈な批判を意味するように私には思えるのである。

 競争をすることを止めた女性たちがすでに非競争的な領域ではリーダーシップを執っている。「日本の再生」が始まるとしたら、それらのセクターからだろう。

 

 

2025年

3月

11日

顎関節症

みなさん、こんにちわ。本日は事務局担当日です。

 

週間天気予報を見ると今週は最高20度近くになる日もあるようで・・・

奈良は昔から「東大寺のお水取りが終わるまでは・・・」と言われますが

今年のお水取り(修二会)は3月1日から3月14日。

ほんと、そのとおりですね😲

 

春がもうすぐそこまでやってきてます😄

 

先日、食いしん坊のうちの子供が「顎が痛くて、大きな口が開けられない。ご飯が食べられへん・・・」と言い出しました。

・・・その割に結構お食事されているような・・・💦

カタイものが食べづらく、あくびするのが一番つらい、

顎を開け閉めしたらカクカク音がする・・・

そいつはいわゆる顎関節症、というやつですね、ずばり。

 

ほっておいてもいいことはないので、すぐに歯医者(口腔外科)に行こうと言ったのですが

連日部活に塾にお稽古に忙しく、帰宅は22時近く。

また、病院よりもそれらを優先したいので、なかなか行こうとしません。

スケジュールの隙間をぬって、ここなら行けるかな?と予約をしたら

「朝早いのはいや~」

 

・・・午前9時やん!!!!はやないわ!!!!

あとから泣くことになっても知らんで👿

Google先生に「顎関節症」をお尋ねしたところ、

コロナ禍以降、顎関節症が増加しているそうです。

原因

 1 上下の歯が常に接触している

 2 歯の食いしばり歯ぎしりのくせ

 3 寝転がったままテレビを見たり読書をしている

 4 デスクワークなど長時間同じ体勢でいることが多い

 5 片側の歯でばかり食事をする

 6 歯並びが悪い

 7 スポーツコンタクト(強くかみしめることがあるテニス・サッカー・ラグビーなど)

 8 ストレス

 

などがあるそうですが、コロナのストレスによる食いしばりや歯ぎしりの増加やマスクが顎に負担をかけるなどして、コロナ禍から顎関節症が増加したそうです。

 

さらに スマホの利用 

   →下を向いて猫背になることが増える

   →前かがみになって下あごが前に出やすくなる

という悪循環で顎に負担がかかり、顎関節症が増加、という構図のようです。

 

宅の子どもはスマホ・・・

極めつけは寝っ転がってからのスマホ・・・

 

Google先生によりますと傷ついた顎関節を「完全な元の状態に戻す」ということはできないそうで、あまりに痛みが強い場合は内服をしつつ日々のケアで症状をコントロールするのが主流のようです😢

 

とりあえずの対処療法として咬筋や側頭部をゆるめるために

ヘッドマッサージをしてあげたところ、見事に右と左の顎関節の緊張に差がありました。

30分ほどのマッサージでだいぶハリは収まったのですが、

たった1回30分のマッサージでは症状がマシになるまではいかなかったようで・・・。

 

これはスマホを取り上げるしかない・・・🐾

2025年

3月

10日

内田樹さんの「『知性について(仮題)あとがき』」 ☆ あさもりのりひこ No.1652

自分の所有する知的な財があったら、それは共有地に供託して、みんなに使ってもらう。自分もみんなが供託してくれたものを使わせてもらう。それが知的に豊かな社会だと僕は思います。

 

 

2025年1月20日の内田樹さんの論考「『知性について(仮題)あとがき』」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

みなさん、最後までお読みくださって、ありがとうございました。

 いかがでしたでしょうか。最初から最後まで、ほぼ全編が「知性の働き」についてのQ&Aでした。

 本書の中でも繰り返しているように、僕は知性の働きというのは集団的なものだと考えています。共有財産のようなものです。一人一人が自分で掘り出し、切り出してきた素材を一か所に集めて、「知の共有地」を作る。

 知性というのはもともと競争や査定になじまないものだと思います。他人と「どちらがより知性的であるか」について相対的な優劣を競うということには何の意味もないと僕は思います。知性はその機能の良否を他人と競うものじゃなくて、みんなで持ち寄って、みんなで使うものです。

 

 僕がそんなふうに考えるようになった一番大きな原因は11歳の時に、小学校で平川克美君と友だちになったことだと思います。僕たちはとても仲が良かったので、だんだん相手の言っていることと自分の言っていることの区別がつかなくなりました。子どもの時にはよくありますよね。友だちを殴っておいて「ぶたれた」と泣き出すとか、友だちが転ぶと、自分で膝をかかえて「痛いよ」と泣き出すとか。精神分析では「転嫁現象」と呼ぶらしいですが、自他の境界線があいまいになってしまう。

 ふつうそんな現象は子ども時代で終わってしまうんですけれども、僕たちの場合は、それが成長した後も続いたのです。その結果、僕が読んでない本でも平川君が読んでいたら「まあ、読んだようなものだ」と思うようになり、僕が観てない映画でも平川君が観ていたら「まあ、観たようなものだ」と思うようになった。音楽でも、政治活動でも、ビジネスでも、どれもそんな感じになって、お互いの持っている経験や知識が「共有財」になって、勝手に使ってよいと思うようになった。

 ある時僕がホーススタッターの『アメリカの反知性主義』を平川君に薦めて、「これ、面白いよ、読んでご覧」と言ったら、平川君に「それ、オレがこの前内田に『読め』って言った本だよ」と言われました。

 そういうことが多々あるわけです。「どっちが先に知ったか」とか「どっちがたくさん知っているか」ということを僕たちは気にしないんです。そういう友だちと60年以上仲良くしてきた結果、「知は共有財」というルールが血肉化してしまった。そういうことだと思います。

 とは言っても、すべての人に向かって、「そうしましょう」と言ってもなかなか納得してもらえないだろうとは思います。誰もがそんな都合のよい友だちに出会えるわけじゃないですからね。

でも、知的な営みというのは本質的には「競争」ではなく、「協働」なのだということは、やはり申し上げたいと思います。そういう考え方をした方が人生楽しいですし、知的生産性は高いんですから。

 21世紀に入って日本が知的生産において著しく劣化した最大の理由は、みんなが「自分はどれくらいものを知っているか」「自分はどれくらい賢いか」を誇示し、他人をおしのけて権力や財貨の「割り前」に与ろうと競争しているからです。そんなこと、すればするほど集団的な知性は衰えてゆく。どうしてそれに気がつかないんでしょう。

 自分がどれくらいものを知っているかとか、自分がどれくらい賢いかなんて、どうだっていいじゃないですか。自分の所有する知的な財があったら、それは共有地に供託して、みんなに使ってもらう。自分もみんなが供託してくれたものを使わせてもらう。それが知的に豊かな社会だと僕は思います。

 同意してくれる人はまだまだ少数ですけれども、これからも僕はそう訴え続けるつもりです。みなさんもそういうふうに考えて下さるとうれしいです。

 

2025年1月

 

内田樹

2025年

3月

07日

内田樹さんの「『知性について(仮題)まえがき』」 ☆ あさもりのりひこ No.1651

同じ母語話者で、かつ特定の趣味や政治性を共有する読者にだけ通じればいいという態度で書かれたものは、どれほど豊かな情報や深い知見を含んでいても、「ローカルな限界」がある。

 

 

2025年1月20日の内田樹さんの論考「『知性について(仮題)まえがき』」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

みなさん、こんにちは。内田樹です。

 本書はかなり変わった成り立ちの本です。何年も前から僕は韓国に講演旅行に行くようになりました。もう10年以上になると思います。最初のうちは僕の教育論の韓国語訳を読んだ教育関係者の集まりに招かれていましたが、訳書が増えるにつれて、講演依頼のトピックも多様化してきました。

 そして、数年前にソウルのYuYu出版社という小さな出版社の編集者が韓国滞在中に僕に会いに来て、「韓国語版オリジナルの本を出したい」という提案を告げてきました。そう言われても、韓国の読者がどんな関心を持って僕の本を読んでくださっているのか、僕はよくわかりません。ですから、「書き下ろしは無理です」と申し上げました。それでもずいぶん粘られましたので、「じゃあ、みなさんから質問をうかがって、それに僕が回答をするという、QA形式の本にしませんか」と逆提案しました。そういう形式なら、韓国の読者がいったい僕からどんな情報や知見を引き出したいのか、僕に何を求めているのかがわかりますから。

 そうやってメールでのやりとりが始まりました。最初の方の質問はYuYu出版社の編集者の方たちからのものです。途中からは、僕の著作のほとんどを翻訳してくれて、僕の韓国講演旅行のときの通訳である朴東燮先生が質問係りになりました。

 一年くらいやりとりがあり、2024年に韓国語版が出版されました。タイトルは『無知の楽しさ』というものでした。どうして、そんなタイトルを付けたのか、僕にはよくわかりませんでした(そんなことについては別に書いてないんですけどね)。でも、先方がそうしたいというのなら、仕方がありません。

 ところが意外なことに、この本が僕の本としては例外的に韓国ではよく売れました。ちなみに僕の韓国語訳はこれが51冊目だそうです。点数だけは出ているのですが、どれもそれほど売れません。でも、2024年に出た『図書館には人がいないほうがいい』と『無知の楽しみ』の二冊は(どちらも韓国語版がオリジナル)よく売れたそうです。これまで僕の本を手に取ったことのない新しい読者を獲得したと朴先生がうれしそうに知らせてくれました。

 その本の日本語版を出したいというオファーがあったときに、大丈夫かなとちょっと心配に思いました。というのは、想定読者が韓国の読者だったからです。日本人なら当然知っているはずだけれども、韓国の人は知らないかも知れないことっていろいろありますよね。それについては、日本人読者には不要な「説明」をいろいろしなければならない。そういう説明は果たして日本人読者にとって「リーダブル」であり得るだろうか、考え込んでしまったのです。でも、改めて読み返してみたら、そういう説明って必ずしも「不要」ではないということがわかりました。

 本書の中で「ローカルな限界から出られない書物」についての言及があります。それは「文化的バックグラウンドを異にする読者たちに対して説明することをしない書物」のことです。同じ母語話者で、かつ特定の趣味や政治性を共有する読者にだけ通じればいいという態度で書かれたものは、どれほど豊かな情報や深い知見を含んでいても、「ローカルな限界」がある。その限界を超えて海外に読者を獲得することはできない。

 僕はできることなら、海外の、母語を異にする人たちにも自分の書いたものを読んで欲しいと思って本を書いています。その態度は30代で学術論文を発表するようになってずっとから変わりません。僕はフランス文学・哲学が専門でしたから、論文を書く時は「これをフランス語に訳した場合に、フランス人読者に意味がわかるかどうか」という問いがつねに念頭にありました。そういう「縛り」はフランス語に訳す必要がないものについても、ずっと感じていました。今でもそれは変わりません。だから、僕の本を例えば英語やフランス語に訳すということがあったら(今のところ一度もオファーが来たことがありませんが)、その作業はずいぶん楽なものだと思います。

 とにかく、この本の想定読者は韓国の方たちなので、トピックによっては、かなり長い説明が必要になりました。そして、その時に、母語を異にする読者にでもわかるように「説明する」という作業がとても楽しいということに気づいたのでした。そう言えば、僕は根っから「説明好き」の人間なのでした。

『寝ながら学べる構造主義』というのは僕のデビュー作ですけれども、これは全編フランス現代思想の「説明」でした。学校教育とは何かを論じた『先生はえらい』も、マルクス主義とは何かをかみ砕いて論じた『若者よ、マルクスを読もう』も中高生向けでした。

 こういう作業が僕は大好きだったのでした。それは、前提となる知識を共有しない読者に、ややこしい事象について説明するためには、ものごとを「根源的に」とらえる必要があるからです。

 昔読んだ伊丹十三のエッセイに「野球のルールをまったく知らない人に、野球の面白さを伝える」という企画を持ち込んできた編集者の話があります。「『ピッチャーとキャッチャーは味方同士です』というところから始めるんです」という編集者のアイディアは伊丹さんにはとても面白く思えたそうです。残念ながら、このエッセイは書かれませんでしたが、もし書かれていたら、とても根源的な「野球論」になったと思います。

 それと同じように、母語的な共通基盤がない話題について韓国の読者に「説明」することは、もしかするととても「根源的な話」になるかも知れない。

 実際に書き出してみたら、たしかにそうなりました。

「日本人が読者に想定されていない本」を書いたのは僕にとっては初めてのことです。同じように、韓国の方たちから僕に向けられた質問も、その多くが日本のメディアからはかつて一度も向けられたことのないものでした。結果的に、本書は「これまで一度も書かれたことのない本」になりました。

 

 最後になりましたが、韓国語版の出版にご尽力くださったYuYu出版社のみなさんと、朴東燮先生に感謝申し上げます。日本語版の出版を進めてくださった古谷俊勝さんにもお礼申し上げます。みなさん、いつもありがとうございます。

 

2015年1月

 

内田樹

2025年

3月

06日

五島つばきマラソン ☆ あさもりのりひこ No.1650

3月2日(日)、第25回五島つばきマラソンが開催された。

5年ぶり、6回目の出場である。

朝から雨模様の天候。

最高気温は20℃の予報であるが、体感気温はそれほど暑くはない。

フルマラソンにエントリーしたのは299人。

 

午前9時、スタート。

18㎞を過ぎて、失速が始まる。

中間点を過ぎてから、雨が降る。

短い時間だったが、ずぶ濡れになった。

その後は、雨はほとんど降らなかった。

 

脚が動かない。

パワーウォークで歩いているランナーの方が速い。

いつ脚が復活するかわからないので、歩かないで走り続ける。

ふと気づくと背後にパトーカーがゆっくりとついてくる。

最後尾だ!

 

28㎞を過ぎて、少しずつ、走りが戻ってくる。

歩いているランナーをひとり、またひとり、と抜いていく。

最後の2㎞は、脚が復活した。

 

1㎞ごとのペースと心拍数はつぎのとおり。

 

1 6分50秒  123bpm

2 7分00秒  137bpm

3 6分51秒  134bpm

4 6分28秒  132bpm

5 7分04秒  136bpm

6 7分23秒  136bpm

7 7分16秒  135bpm

8 7分40秒  140bpm

9 7分01秒  140bpm

10 8分20秒  134bpm

11 8分03秒  131bpm

12 8分46秒  131bpm

13 9分42秒  130bpm

14 10分20秒 127bpm

15 7分59秒  129bpm

16 7分19秒  131bpm

17 7分37秒  130bpm

18 8分02秒  136bpm

19 11分13秒 126bpm

20 10分54秒 123bpm

21 11分01秒 118bpm

22 11分04秒 120bpm

23 10分43秒 119bpm

24 11分47秒 117bpm

25 11分15秒 114bpm

26 11分41秒 112bpm

27 12分10秒 115bpm

28 10分15秒 123bpm

29 9分39秒  125bpm

30 8分05秒  137bpm

31 8分37秒  138bpm

32 8分47秒  138bpm

33 10分51秒 128bpm

34 8分27秒  131bpm

35 10分57秒 135bpm

36 9分27秒  131bpm

37 10分52秒 122bpm

38 12分36秒 122bpm

39 10分58秒 121bpm

40 9分26秒  130bpm

41 7分39秒  142bpm

42 6分30秒  156bpm

43 6分06秒  161bpm(240m

 

6時間26分00秒、42.24㎞、平均ペース9分08秒/㎞、総上昇量528m、消費カロリー2816㎉。

 

 

6回走って、4番目の記録だった。

2025年

3月

05日

内田樹さんの「追悼・デビィッド・リンチ」 ☆ あさもりのりひこ No.1649

他人の「悪夢」は自分の「悪夢」ほどには怖くない。

 

 

2025年1月17日の内田樹さんの論考「追悼・デビィッド・リンチ」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

デヴィッド・リンチ監督が亡くなった。大好きなフィルムメイカーだったので、私の大好きな二つの作品について書いたものを採録する。たぶん20年前くらいに芦屋のラポルテに暮らしていたころのことである。

 

ロスト・ハイウェイ(Lost Highway by David Lynch: Bill Pullman, Patricia Arquette, Balthazar Getty, Rbert Blake, Natasha Gregson Wagner, Gary Busey, Robert Loggia)

 最初に見たのはもう3、4年前になる。

「おおおおお」と叫んだまま、ふやけた解釈を許さないその圧倒的な映画的リアリティの前に絶句する他なかった。

 今回リンチの新作『マルホランド・ドライブ』を見て、二つ合わせると、何となく腑に落ちるところがあったので、それを書きとめておく。

 

 ある「巨大な物語」の一部分しか私たちに与えられていないとき、その断片から「見えない世界」の深みと拡がりを想像して戦慄する、というのは私たちが物語を享受するときのひとつの定型である。

 それは「神の視点」から一望俯瞰的に物語世界を一覧する場合の物語の享受のしかたとは別の意味で、やはり「ひとつの定型」と言ってよいだろう。

 一般的には、凡庸なフィルムメーカーは「一望俯瞰的」な物語に固執し、怜悧なフィルムメーカーは「断片から全体を想像する」物語にこだわりを示す。

 これは当然といえば当然で、「与えられた断片から、観客が『見えない世界』を想像する」という享受のしかたをする場合、その「見えない世界」は、観客ひとりひとりがおのれの「悪夢」のストックに手を突っ込んで、自前で創り上げるものだからだ。

 ひとは「他人から聞かされた話」はなかなか信用しないが、「自分で作った話」はどれほどでたらめでも頭から信じ込んでしまう。映画の場合でも同じだ。

 他人の「悪夢」は自分の「悪夢」ほどには怖くない。

 いちばん怖い状況は、それが「怖い」ということが他者には共感されない種類の恐怖に取り憑かれることである(人々が「ホラー映画」を「みんなで」見るのはそのせいである。「共有された恐怖」は、単独で経験される「伝達不能の恐怖」に比べたら冗談のようなものだ)。

 だからクレヴァーなフィルムメーカーは、あえて説明を省き、時間の流れを意図的に混乱させ、観客が自分で物語を作るように仕向ける(タランティーノや北野武がそうだ)。

 デヴィッド・リンチもまた観客がもっとも恐怖するのは「物語全体を整序するような情報の不足」であることを熟知している(あらゆるパニックは、「情報が不足」しているときに、人々がつねに「最悪の場合」を想像してしまうことから始まる)。

 リンチは観客をパニックに誘い入れるために、まず最初に映画の登場人物たちをパニックに誘い入れる。

 推理小説がそうであるように、観客は(同じく「情報の不足」に苦しんでいる)「探偵」役の登場人物に焦点化し、彼の「情報への渇望」を導きの糸として、物語の中を同じ足取りで進んでゆく。

『ロスト・ハイウェイ』でも、『マルホランド・ドライブ』でも、ある中心的人物の「アイデンティフィケーション」が物語の縦糸であることは変わらない。そして、その「身元調べ」のクライマックスにおいて、「探偵役」の登場人物その人が「失踪」してしまうというサスペンスの構造も酷似している。

 私はリンチのTVシリーズの『ツイン・ピークス』は未見なのだが、もしこの説話構造にリンチにかなり以前からこだわりがあるとしたら、当然『ツイン・ピークス』ではFBI捜査官のカイル・マクラクランが犯人探しの決定的瞬間に「失踪」するという話型が採用されていることだろう。(あ、ちょっと愉しみになってきた。今晩TSUTAYAに行って借りて来よう)

 観客をある人物に同調して映画的物語の中に踏み込ませたあと、その人物を「消して」、物語の中をあてどなく浮遊させること。リンチが採用しているサスペンスの法則はおそらくそういうものだ。

 このサスペンスはたぶん「小説」では不可能だ。

「語り手」が「消える」ということは小説には許されないからだ。(「語り手」が順番に別人になる、ということは『藪の中』や『ろまん灯籠』などいくらも前例があるけれど)。

 しかし、映画では物語を先に進めるために、「語り手」は必ずしも必要ではない。

「誰が見ているのか分からない視線」にたえず「ずれて」ゆきながら、映画は「語り手そのもの」、物語の秩序を支える最後のよりどころを「消す」という大業を使うことができる。

 アイディアとしてはそれほどむずかしいものではない。しかし、これを「娯楽映画」として実現するのはほとんど絶望的に困難である。デヴィッド・リンチはそれを平然とやってのけた。

すごい。

 

 

マルホランド・ドライブ(Mulholland Dr. by David Lynch : Naomi Watts, Laura Elena Harring, Justin Theroux)

『ロスト・ハイウェイ』を「いつかきっちり解釈する」と予告しておきながら便々と数年が閲し、そうこうしているうちに『マルホランド・ドライブ』である。

 この映画もまた『ロスト・ハイウェイ』とおなじく、初めから終わりまで一瞬も息が継げぬほどに緊張感があって、物語性が豊かで、娯楽作品として完成されていて、そして、いっさいの解釈をきっぱり拒絶している。

 このまま映画が終わって欲しくない、一秒でも長く映画が続いて欲しいと念じながら、「どんな映画だったの?」と問われたら、喉がひからびて、ことばが出ない。

 どのような無内容な映画からも「教訓」を引き出し、あらゆる不条理を条理のうちに回収することが私の知的「宿痾」であるが、そのウチダの病的解釈癖をもってしても、デヴィッド・リンチには歯が立たない。

 すごい。

 それでも、ただひとつだけ言えることがある。(しぶとい)

 それはこれが「映画についての映画」であるということだ。

 人間の宿命についての映画とか欲望についての映画とか愛についての映画とか革命についての映画とか戦争についての映画とか・・・そういう「・・・についての映画」であれば、私は解釈できる。

 しかし、「映画についての映画」にはなかなか歯が立たない。

 映画はその起源から、「メタ映画」への回路を持っていた。

 野心的なフィルムメーカーたちはだから「映画についての映画」を撮るという誘惑に抗しきれない。

 ビリー・ワイルダーの『サンセット大通り』、フェデエリコ・フェリーニの『8 1/2』、『インテルビスタ』、ジャン=リュック・ゴダールの『気狂いピエロ』、ブライアン・デ・パルマの『ボディ・ダブル』、ポール=トーマス・アンダーソンの『ブギー・ナイツ』、クエンティン・タランティーノの『レザボア・ドッグス』、ジュゼッペ・トルナトーレの『ニュー・シネマ・パラダイス』、ジョン・ウォーターズの『セシル・B・デメンテッド』・・・いずれ北野武やマチュー・カソヴィッツやガイ・リッチーやブレット・ラトナーが「映画についての映画」を撮ることになるだろう。

 映画は19世紀の終わりという「誕生日」を持っている。

 それははじめ「現実についての映画」であった。

 リュミエール兄弟の映画はホーム・ムーヴィーから始まった。それらは「すでに確固として現実的に存在するもの」(リュミエール工場、ルイ・リュミエール一家、ラ・シオタ駅を歩むマダム・リュミエール・・・そして技師たちが撮った世界の光景)についての証言であり記録であった。

 ところが、100年経つと、映画そのものが「確固として現実に存在するもの」になってしまった。映画はもうどのような現実的レフェランスにも支えられなくても自立できる記号となったのである。

 いかなるリアリティにも支えられなくてもリアルであるようなもの。

 それが「映画についての映画」が映し出すものである。

 それにいちばん近いものは「夢」だ。

 映画は夢だ、と人々は言う。ハリウッドは「夢工場」だと人々は言う。

 けれども、「夢」というのは英語でもフランス語でも日本語でもダブル・ミーニングのことばだ。

 それは私たちが眠っているときには「現実だ」と思っているもののことであり、私たちが覚醒しているときには「非現実だ」と思っているもののことである。

 これまで映画について「夢」ということばをつかうとき、私たちはおもに第二の語義でそれを用いていた。

 しかし、「映画についての映画」を撮るフィルムメーカーたちは、その語の第一の語義を奪還しようとしているように私には思われる。

『マルホランド・ドライブ』は「悪夢のような映画」である。

 映画の中である事件が起きる。そして、それが「現実の」出来事なのかどうかが「映画の中で」疑わしくなる。

 私たちは「映画の中」が非現実であることを「知っている」。

 ところが、その「非現実であるはずの映画」の中で「現実性を否定されたもの」については、それを収納するカテゴリーを私たちは持たないのである。

 だって、そうでしょ?

「非現実である世界」において「その現実性を否定されたもの」は、私たちが「現実/非現実」という二分法になじんでいる限り、「現実」以外に存在する場所を持たない。

 デヴィッド・リンチがやろうとしていることはまさにそれである。

 デヴィッド・リンチはまず映画の中で、たっぷりと写実的に〈現実〉を描く。

 その描写があまりにリアルなので、私たちは映画鑑賞者のつねとして、「これは〈現実〉だということにしよう。そのほうが映画を楽しめるからね」という手慣れた約束ごとにすぐなじんでしまう。

 ところがリンチは、そのあとその「映画内的〈現実〉」がゆっくりと「映画内的に」条理を失い、輪郭が崩れ、しだいにその〈現実〉性を失うプロセスを私たちに経験させる。執拗に、いやになるほど執拗に。

 すると、どういうことになるだろう。

「映画内的に〈現実〉であったこと」、それが「非現実」であるということを私たちは熟知している。だが、それが「非現実」であるということになったら、「それ」はどこに行けばよいのだろう?

「映画の中で『非現実』と断罪されたもの」は私たちの〈現実〉世界に「不法存在」する他ない。

 なんという狡知。

「映画の中」はどんな荒唐無稽も許される「アナーキーな世界」であるはずだ。

 だからこそ、私たちはそのような世界を愉悦し、享受してきたのだ。

 ところが、その「アナーキーな世界」から、「何か」が「夢の世界での市民権」を剥奪されて「追放される」と、そのような「夢の難民」を受け容れることのできる「当事者」は立場上、鑑賞者である私たちしかいないのである。

 映画は唐突に終わる。

 映画の中から「何か」が追放されたのだ。

 そうやって「映画内的世界」はその固有の秩序を回復したようである。

 でも、その「何か」はどこにいったのだろう・・・。

 デヴィッド・リンチは悪夢の構造を熟知している。

 

『ロスト・ハイウェイ』と『マルホランド・ドライブ』は必見。

2025年

3月

04日

近鉄大和八木駅に新しくハンバーガー店「FATMAN’S BURGER」開店@事務局より

皆さんこんにちは。今日は事務局担当です。

週末は暖かかったのに、昨日から冬の天気に逆戻り。

朝起きるのがつらいです・・・

 

さて、先月2月14日、近鉄八木駅名店街に

新たに美味しいハンバーガー店が開店しました♪

 

「FATMAN’S BURGER」

 

住 所  奈良県橿原市内膳町5丁目1-12

     近鉄「大和八木駅」から徒歩1分

 

カラフルな看板が目立つ「アイラビュベイベー八木駅前店」と

「やさい菓子工房cocoai八木駅前店」の間です。

 

お店のInstagram

https://www.instagram.com/p/DDskgoeSA29/

 

 

 

事前にネットで見たところ、お店の店長さんはなんと16歳。

 

オリジナルパティを使用したビーフ100%の本格アメリカンBBQバーガーと、

地産地消の大和産フルーツに拘ったアサイーボールなどを販売されるということで、

 

とにかく期待しながら早速お店へ向かうことに。

お店の外のメニュー表に書かれていた種類のほかにも、店内にメニュー表には、

ピリ辛ソースのメキシカンバーガー、クリーミーマッシュルーム、

スイートベーコンバーガーなどもありました。

ピリ辛にも心惹かれながら、私は大好きなテリヤキバーガーをチョイス。

店内には3テーブルほどあり、もちろんお店での飲食も可能です。

 

出来上がるまで店内で待たせて頂いたのですが、焼いているパテの香りと音が

空腹の私にはつらい・・・でもいい匂い😋

 

ハンバーガーにはポテトもついているのですが、私が伺ったときはストレートポテトを

切らしていたようで、本来ならプラス100円となるカーリーポテトがついてきて

 

ラッキーでした♪

 

さらに、レジ横には美味しそうな揚げたてドーナツも並んでいて、

 

ついつい買ってしまいました。

 

 

それでは早速事務所へ持ち帰り、いざ実食!

 

ハンバーガーは、こだわりのパテなだけあって、肉汁がたっぷりでとっても肉肉しいのが

良き💕

ソースも溢れてくるぐらいたっぷりで、分厚めバンズなのに食べ出したら止まらな~い😋

カーリーポテトも外側カリカリ、中はホックホクでこれまた手が伸びちゃう♪

 

おやつに頂いたドーナツも生地がふわふわもちもちで、ペロリと入っちゃう

危険なスイーツでした😄

 

今日はもうカロリーなんて気にしない気にしない(笑)

 

当初はハンバーガーでこのお値段だとなかなかいいお値段かなと思っていたのですが、

この美味しさなら納得です。

八木駅前周辺でテイクアウト可能なお店が出来てとっても嬉しいです😊

これから暖かくなると、お花見のお供にもいいかも知れませんね。

気になる方はぜひ一度ご賞味ください(^_^)b

 

2025年

2月

28日

内田樹さんの「農業をもう一度基幹産業に」 ☆ あさもりのりひこ No.1648

土を耕して、天の恵みにすがって、食べ物を作るという営みが人間的諸活動の基本であり、数万年にわたるこの活動を通じて、人類はその集団的なあり方の基本を創り出したという歴史的事実を決して忘れない

 

 

2025年1月16日の内田樹さんの論考「農業をもう一度基幹産業に」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 農業についてよく講演や寄稿を依頼される。私自身は都会生活者で、農業とはほぼ無縁の生活を送っている人間である。だから、私に農業のことを訊きに来るのは「現場のことはよく知らないけれど、日本の農業のさきゆきに強い不安を抱いている人間」の意見も(参考のために)聴いておきたいということなのだと思う。だから、以下に私が書くことは、ふつうの農業関係者がまず言わないことを、まず用いない言葉づかいで語ることになる。そういう視点からも農業の重要性と危機を語ることもできるのだということを分かって頂きたい。

 

 私は1950年、戦後5年目の東京の多摩川のそばで生まれた。下丸子の駅から多摩川の河川敷まではかつて軍需工場とその下請けが立ち並んでいたところで、B29の爆撃でほとんど廃墟となった。そのあとに人々が住み着いたのである。

 私の家の前には「原っぱ」があった。春には菜の花が咲き、秋にはススキが揺れる、遠目にはきれいな場所だった。でも、子どもが足を踏み入れるのはかなり危険だった。焼けて折れ曲がった鉄骨や壊れたコンクリートの土台やガラス片が草の下にひろがっていて、うっかり転んだり、踏み抜いたりすると、ひどい怪我をするリスクがあったからである。

 軍需工場の醜い焼け跡を豊かな緑と草花が覆いつくしているというのが、私にとってのふるさとの「原風景」である。

 宮崎駿の『天空の城ラピュタ』を観たときに、科学の粋を尽くして設計された天空を飛行する巨大艦船ラピュタが、乗員を失って無人のまま何世紀も飛行しているうちに、草花と木々に覆われた「空飛ぶ庭園」のようなものに変化してゆくという物語に既視感を覚えたことがあった。あるいは宮崎駿にとっても、「兵器を覆う緑」という図像が戦後の原風景だったのかも知れない。

「兵器を覆う緑」というのは、敗戦後、焦土となった日本に育った子どもたちにとって、もっとも身近で、そしてもっとも心休まる風景でもあった。その風景は「もう戦争はない」という現実だけでなく、「緑は人間の犯した愚行や非道のすべてを静けさと平安のうちに回収する」という植物的なものへの信頼と親しみの感情を醸成した。少なくとも私においてはそうであった。

 

 1950年の日本の農業人口は1613万人。日本の人口が8400万人だった時代に総人口の20%が農業従事者だった。2024年の農業人口は88万人。1億2500万人の0.7%に過ぎない。敗戦後の日本では「食物を作る」ことが最優先だったから、この数字は当然だと思う。そして、農業が基幹産業である社会では、あらゆる場面で農業のメタファーが用いられた。私が都会の子どもであったにもかかわらず、農業に親近感を持つのは、農業の用語で育てられたからである。

 学校教育はほとんど農業の比喩だけで語られた。子どもたちは「種子」である。教師は「農夫」である。水をやり、肥料をやり、病虫害や風水害から守り、やがて収穫期になると「実り」がもたらされる。ほとんどは自然任せであるから、人間が工程を100%管理することなど思いもよらない。そもそも秋になると何がどの程度の収量収穫できるのかさえ事前には予測できないのである。どんなものでも実ればそれは「天からの贈り物」である。

 私たちはそういう植物的な比喩の中で育てられた。だから、教師がガリ版刷りしていた学級通信の題名は多くが「めばえ」とか「わかば」とか「ふたば」とかいう植物的語彙から採られていた。誰もそれが変だとは思わなかった。

 

 基幹産業が変わると、「価値あるもの」が何かについての社会的合意も変わる。私が1960年代に経験したのは、「価値あるもの」を言い表すときに「農業の比喩」を使う習慣が失われたことである。でも、そのときには気づかなかった。

 基幹産業が重工業に移行すると、人々は「重さ」や「量」や「速さ」で価値を言い表すようになり、基幹産業がサービス業に移行すると「効率」や「生産性」や「汎用性」で価値を言い表すようになり、さらに産業が高次化すると、もう語彙がなくなってしまって、あらゆるものを「貨幣」に置き換えて言い表すようになった。だから、今は子どもたちを育てるときに、(にべもない言い方をすれば)大人たちは「この子は将来いくら稼ぐか」というものさしを使う。もう、それしか使わなくなった。子どもたちにとってはまことに不幸なことである。

 

 私はもう一度農業が基幹産業になるべきだと思っている。経済的な意味での基幹産業になることはないだろうけれども、この社会の「根源を支える活動」という意味での「基幹産業」であることは、国民が自分の意思で決定できることである。統治者たちが「農業が国の基幹産業である」という哲学を持てばよいのである。農業がGDPの何パーセントであるとかいう話をしているのではない。土を耕して、天の恵みにすがって、食べ物を作るという営みが人間的諸活動の基本であり、数万年にわたるこの活動を通じて、人類はその集団的なあり方の基本を創り出したという歴史的事実を決して忘れないということである。

 農作物は商品ではない。あたかも商品のように仮象して市場を行き交うけれども、それは農作物を「あたかも商品であるかのように」扱う方が、農作物が安定的に供給されるという経験知に基づくものである。他の商品は(自動車でも携帯電話でも)供給が途絶しても、それで人が死ぬということはない。でも、農作物は供給が途絶すると、しばらくするとそれを争奪して人々が争うようになり、やがて人が死に始める。だから、絶対に供給を中断させてはならないのである。これを市場に委ねるというのは、人間の傲慢である。コロナ禍の時に、「必要なものは、必要な時に、必要な量だけ市場で調達すればよい」と言い募っていた「クレバーな経営者」たちのせいで、たくさんの人が死んだことを忘れてはいけない。

 だから、食物、医療、そして教育は絶対にアウトソースしてはいけないのである。それだけは国民国家の枠内で自給自足できる体制を整備しなければならない。それが国家的なリスクヘッジの基本である。だから、世界の先進国のほとんどはそれをめざしている。しかし、日本は医療だけはなんとか維持できているが、食物と教育についてはもう国内で国民が求めるものを創り出す力がなくなっている。そして、そのことについて政治家たちも官僚たちも財界人たちもメディアも、危機感を持っていない。恐ろしい事態だ。こんなことを続けていたら、日本にはもう未来がない。

 戦闘機やミサイルを買う予算があるなら、農業と医療と教育に投じるのが本当の意味での「国防」である。国民が飢えて、病に苦しみ、求める教育機会が得られないのなら、それは国民を「見捨てている」ということである。国民を見捨てて作った金で兵器を買い集めて、政府はそれでいったい何を守るというのか。

 日本はもう経済大国になることはない。人口は21世紀の終わりには5000万人にまで減ると予測されている。明治40年ころと同じである。でも、そのときも日本人は全国津々浦々で生業を営み、固有の文化を享受していた。これからの時代、なおそれなりに豊かに暮らすためには、農業と医療と教育に最優先に資源を分配し、たとえ貧しくても、誇り高く、道義的な国として生きるのが適切な選択だと私は思う。同意してくれる人は少ないけれど、私はそう信じている。

「農業協同組合新聞」1月30日

 

 

2025年

2月

27日

五島つばきマラソンへの道 その7 ☆ あさもりのりひこ No.1647

2月21日(金)早朝、全力・ジョギング・全力、36分57秒、6.2㎞、平均ペース5分58秒/㎞、総上昇量92m、消費カロリー414㎉。

1 7分02秒(590m

2 5分33秒

3 5分24秒

4 6分50秒

5 6分57秒(550m

6 5分19秒

7 5分31秒

8 5分59秒(60m

走り始めて5分くらいすると雪が降り始めた。

その後は、降りしきる雪の中を走った。

 

2月22日(土)早朝、ビルドアップ走、38分02秒、6.2㎞、平均ペース6分08秒/㎞、総上昇量85m、消費カロリー417㎉。

1 6分41秒

2 6分35秒

3 6分02秒

4 6分08秒

5 5分52秒

6 5分40秒

7 5分23秒(200m

 

2月23日(日)午前、ジョギング、1時間27分33秒、12.39㎞、平均ペース7分04秒/㎞、総上昇量207m、消費カロリー871㎉。

1 6分55秒

2 7分08秒

3 7分49秒

4 6分49秒

5 6分38秒

6 6分35秒

7 7分03秒

8 6分54秒

9 7分54秒

10 9分06秒

11 6分08秒

12 6分17秒

13 5分49秒(390m

 

五島つばきマラソンの過去の記録は次のとおりである。

2016年 6時間43分37秒

2017年 6時間56分28秒

2018年 5時間30分52秒

2019年 5時間54分57秒

2020年 5時間20分27秒

今年は5年ぶりに五島つばきマラソンを走る。

目標は5時間20分をきること。

五島つばきマラソンまであと1週間。

 

2月24日(月・祝)午前、降雪と積雪のため、西園美彌さんの魔女トレ。

 

2月25日(火)早朝、ジョギング、54分09秒、7.71㎞、平均ペース7分01秒/㎞、総上昇量172m、消費カロリー563㎉。

1 6分48秒

2 6分53秒

3 7分27秒

4 6分46秒

5 7分50秒

6 7分42秒

7 6分13秒

8 6分19秒(710m

 

2月26日(水)早朝、室内トレーニング。

夜、トレッドミル、30分、4.15㎞、傾斜3.0%、時速8.4㎞(7分00秒/㎞)、消費カロリー391㎉、手首に重り1㎏×2。

 

2月27日(木)早朝、安藤大さんのアントレ、足首に重り約0.5㎏×2。

 

 

2025年

2月

26日

内田樹さんの「アメリカがもたらすカオス」 ☆ あさもりのりひこ No.1646

日本のメディアに対してはいろいろな不満があるが、最大の欠点は「不正直」であることだと私は思っている。

 

 

2025年1月15日の内田樹さんの論考「アメリカがもたらすカオス」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 年初は「今年世界はどうなるか」を予測することにしている。「これから世界はカオス化する」というのが私の予測である。異議のある人はおそらくいないだろう。カオス化を主導するのはもちろん米国である。

 ドナルド・トランプは国より憲法よりも彼個人に忠誠を誓う人々を要職に登用して、米国の新しい「国王」になる気配である。

 グリーンランドとパナマを領有し、メキシコ湾を「アメリカ湾」と改名し、カナダを併合し、同盟国にGDP5%の国防費負担を要求するなど、ほとんど日替わりで「米国の新しい要求」がニュースになる。超覇権国家がここまで節度を失う日が来るとは誰も想像していなかっただろう。

 米国にはさいわいまだ自由なメディアが残っている。だが、米国の媒体の行間に「恐怖感」がここまで露出したことは私が知る限り過去にはなかった。これから先米国はどうなるのか、米国人自身が「どうなるかわからない」のである。

「困惑する」という点については、米国のメディアは日本のメディアよりはるかに正直だと思う。わからないことは「わからない」と書くし、不安を感じているときは「不安だ」と書く。いま中国と戦争をしたら「敗ける」と米軍幹部でさえ言明する。もし日本で自衛隊幹部が似たような不安を口にしたらメディアによって袋叩きにされるだろう。

 日本のメディアに対してはいろいろな不満があるが、最大の欠点は「不正直」であることだと私は思っている。どんな問題が起きても「涼しい顔」で報道することが報道のマナーだと信じているのだろうか。

 

 だが、わからないことは正直に「わからない」と書いた方がいい。怖いことが起きたら正直に「怖い」と書いた方がいい。「わからない」「怖い」と書くことのできる人間だけが、「これだけは理解できること」や「恐怖から抜け出すための道筋」について考え始めることができるからである。(信濃毎日新聞、1月10日)