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2020年

4月

03日

内田樹さんの「20世紀の倫理―ニーチェ、オルテガ、カミュ」(その8) ☆ あさもりのりひこ No.828

すぐれた人間をなみの人間から区別するのは、すぐれた人間は自分に多くを求めるのに対し、なみの人間は、自分になにも求めず、自己のあり方にうぬぼれている点だ

 

 

2020年3月2日の内田樹さんの論考「20世紀の倫理―ニーチェ、オルテガ、カミュ」(その8)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 自己充足と自己閉塞のうちにある「大衆」の対蹠点にオルテガは「エリート」を対置する。その特性は自己超越性と自己開放性である。

「すぐれた人間をなみの人間から区別するのは、すぐれた人間は自分に多くを求めるのに対し、なみの人間は、自分になにも求めず、自己のあり方にうぬぼれている点だ、(・・・)一般に信じられているのとは逆に、基本的に奉仕の生活を生きる者は選ばれた人間であって、大衆ではない。なにか卓越したものに奉仕するように生をつくりあげるのでなければ、かれにとって生は味気ないのである。(・・・)高貴さは、権利によってではなく、自己への要求と義務によって定義されるものである。高貴な身分は義務をともなう。」(32)

 なぜ「エリート」が存在しなければならないのか。オルテガはその問いに「野蛮」への退行を阻止するため、と簡単に答える。

 大衆社会とは、自己満足、自己閉塞というふるまいの結果、個人が原子化し集団が砂粒化した状態である。この「分解への傾向」をオルテガは「野蛮」と呼ぶ。

「あらゆる野蛮な時代とは、人間が分散する時代であり、たがいに分離し、敵意をもつ小集団がはびこる時代である。」(33)

 バルカン半島や中近東における民族的・宗教的な抗争や、アフリカにおける部族紛争のうちに私たちは「野蛮」の最悪のかたちを見る。これらの民族対立や宗教対立を駆動しているのは、「純粋」化、「純血」化、つまり同質な者たちだけから成る閉鎖的集団への細分化の指向である。そこで求められているのは、排除であり、差異化であり、断絶であり、内輪の言語である。そこには、自分とは異質な者と対話を試み、ある種の公共性の水準を構築し、コミュニケーションを成り立たせようとする指向が欠如している。オルテガはこれを「野蛮」と呼ぶ。

「文明」は自分とは違うものをおなじ共同体の構成員として受け容れること、そのような他者と共同生活を営めるようなコミュニケーション能力をもつものたちによってはじめて構築される。他者との共同生活を可能にするもの、それは愛とか思いやりとか想像力とか包容力とかいう個人レヴェルの資質ではない。そうではなくて、公共的な水準に擬制された制度である。

「手続き、規範、礼節、非直接的方法、正義、理性!これらはなんのために発明され、なんのためにこれほどめんどうなものが創造されたのだろうか。それらは結局《文明》というただ一語につきるのであり、《文明》はキビス(civis)つまり市民という概念のなかに、もともとの意味を明らかにしている。これらすべてによって、都市、共同体、共同生活を可能にしょうとするのである。(・・・)文明はなによりも共同生活への意志である。」(34)

「共同生活への意志」をもつもの、それが市民であり、オルテガのいう「貴族」である。オルテガによれば、「貴族」の条件は身分でも資産でも教養でも特権でもなく、この「自分と異質な他者と共同体を構成することのできる」能力、対話する力のことである。つまり、「貴族」とはその言葉のもっとも素朴な意味における「社会人」のことなのである。社会とはほんらい貴族たちだけによって構成されるべきものなのである。

「社会は貴族的である限りにおいて社会であり、それが非貴族化されるだけで社会ではなくなるといえるほど、人間社会はその本質からして、いやがおうでもつねに貴族的なのだということである。」(35)

 これで、オルテガのエリート主義がニーチェの貴族主義とまったく異質のものであることが明らかとなるだろう。ニーチェはエリートを定義するために、それが「何でないか」という否定形を重ねることしかできなかった。エリートの条件は最後には「人種」概念にまで矮小化した。いっぽう、オルテガは、はっきりと貴族がなにものであるかを語る。それは人間の特殊な形態ではなく、人間の「本来の」すがたである。だから、すべての人間が貴族になり、市民になり、公共性を配慮し、奉仕の生活を生きるすがたを「文明」の理想として語ったのである。

 ニーチェに比べるとオルテガの言葉はいかにも健全であり、凡庸であり、非浪漫的である。しかし、私たちはあえてオルテガの意見に与しようと思う。

 大衆社会は、それがどのようなテクノロジーによって満たされ、成員たちにどのような政治的特権を配分していようとも、自己開放、自己超克の契機をもたないかぎり、本質的に「野蛮」な社会である。なぜなら、大衆というのは本質的にきわだって「政治的」な存在の仕方であり、大衆社会の究極の言葉は、「私には存在する権利がある。私は正しい」に集約されるからである。それに反して、貴族社会とは「私の存在する権利」と「私の正しさ」がつねに懐疑されるような社会のことである。「私」には「私以外のもの」に優先して存在する権利があるのかどうか、「私」には「私以外のもの」を非とする権利があるのかどうかを終わりなく思い迷うような人々によって構成されている社会である。ずいぶん平凡なことのように聞こえるだろうが、「私にはひとを殺す権利がない」といかなる状況においても言い切れるということこそが、「文明人」であり、「社会人」であり、「貴族」であることの唯一の条件なのである。

オルテガによってすらりと言い出されたこのテーゼは、しかし政治的暴力が吹き荒れる現場では貫徹することのきわめて困難な「正論」である。この「正論」を机上の論としてではなく、血なまぐさい政治闘争の経験の結論として振り絞るようにして語り出した思想家について、次節以下では検討してみたい。その思想家とはアルベール・カミュである。

 

【引用出典】

(32)  オルテガ・イ・ガセット、『大衆の反逆』、寺田和夫訳、中央公論社、1971年、p.433

(33) 同書、p.442

(34) 同書、p.442

 

(35) 同書、p.395 

2020年

4月

02日

2020年3月の放射線量、体組成、ランニングについて ☆ あさもりのりひこ No.827

2020年3月の放射線量、体組成、ランニングの各種データが明らかになった。

 

まず、奈良県橿原市の環境放射線量(ガンマ線)から。

1か月間の平均値はつぎのとおり。

室内1メートル 0.042μ㏜/h

室内0メートル 0.043μ㏜/h

室外1メートル 0.059μ㏜/h

室外0メートル 0.073μ㏜/h

 

ちなみに2019年3月のデータはつぎのとおり。

室内1メートル 0.043μ㏜/h

室内0メートル 0.044μ㏜/h

室外1メートル 0.058μ㏜/h

室外0メートル 0.071μ㏜/h

 

相変わらず、地表の値が0.07μ㏜/hを超えている。

 

 

つぎに、朝守の身体について、体組成計の3月末のデータを去年と比べてみる。

体重 71.7㎏→71.4㎏

BMI 22.6→22.

体脂肪率 16%→15.6%

筋肉量 57.1㎏→57.15㎏

  推定骨量 3.1㎏→3.1㎏

  内臓脂肪レベル 11.5→11.

  基礎代謝量 1648/日→1648/

  体内年齢 44才→45才

  体水分率 58.9%→59.5%

 

数値は、ほぼ同じ。

今年の方が若干いいかな。

 

 

最後に、1か月間のランニングのデータ。

走行時間 20時間36分36秒

走行距離 180.9㎞

 

去年の3月のデータは

走行時間 13時間35分51秒

走行距離 126.4㎞

 

時間は約7時間、距離は約54㎞増えた。

今月も走行距離は200㎞に届かなかった。

 

もうちょっとやねんけどな。

2020年

4月

01日

内田樹さんの「20世紀の倫理―ニーチェ、オルテガ、カミュ」(その7) ☆ あさもりのりひこ No.826

他人と違うのは行儀が悪いのである。大衆は、すべての差異、秀抜さ、個人的なもの、資質に恵まれたこと、選ばれた者をすべて圧殺するのである。みんなと違う人、みんなと同じように考えない人は、排除される危険にさらされている。

 

 

2020年3月2日の内田樹さんの論考「20世紀の倫理―ニーチェ、オルテガ、カミュ」(その7)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

8・大衆の反逆

 ニーチェの超人道徳は現代の倫理に二つの重要なアイディアをもたらした。

 ひとつは、倫理を静態的な「善い行為と悪い行為のカタログ」としては定立せず、「いま、ここにおける倫理的なる行動とは何か?」という問いを絶えず問い続ける休息も終わりもない絶望的な「超越の緊張」として、ひたすら前のめりに走り続けるような「運動性」として構想したことである。

 いまひとつは、倫理を、万人がめざすものではなく、「選ばれたる少数」だけが引き受ける責務として、「貴族の責務」(noblesse oblige)として観念したことである。

 ニーチェはこう書いている。

「高貴であることのしるし。すなわち、われわれの義務を、すべての人間に対する義務にまで引き下げようなどとはけっして考えないこと。おのれ自身の責任を譲り渡すことを欲せず、分かち合うことをも欲しないこと。自己の特権とその行使を、自己の義務のうちに数えること。(...)こうした種類の人間は孤独というものを知っており、また孤独がいかに強烈な毒を含んでいるかを知っている。」(28)

 義務についての激しい使命感、それが「孤独な」少数者にのみ求められていることについての自覚。このような意識のあり方を仮に「選び」(élection)の意識と呼ぶことにする。「選ばれた」人間は、倫理的な責務を「すべての人間に対する義務」にまで拡大することを求めない。それは彼ら「だけ」に求められている義務である。彼らに課せられた責務は「譲渡不能」であり、「分割不能」である。そのように過大な責務を割り当てられているという事実が、倫理的主体を「高貴」なものたらしめる。このニーチェ的発想それ自体は、これから論じるオルテガにもカミュにもほとんどそのままのかたちで受け継がれている。ニーチェと彼らの分岐点は、この「選ばれてあること」とは「他の人々よりも多くの特権を享受すること」とか「他の人々よりも高い地位を得ること」、つまり「奴隷」に対する「主人」の地位を要求する、というかたちをとらない点にある。それどころか、彼らにとって「選ばれてあること」の特権とは、他の人々よりも少なく受け取ること、他の人々よりも先に傷つくこと、他の人々よりも多くを失うこと、という「犠牲となる順序の優先権」というかたちをとるのである。

 ニーチェの獅子吼から30年後の大戦間期-ダダとシュールレアリスムとジャズ・エイジと「失われた世代」とボルシェヴィズムとファシズムとナチズムと世界恐慌の時代-に大衆社会のあり方を冷徹に分析した一冊の書物が公刊された。その書物が「超人道徳」と「倫理なき時代」を結ぶ、重要な論理的架橋を提供してくれる。その書物とはホセ・オルテガ・イ・ガセット(1883-1955)の『大衆の反逆』(1930)である。

 大衆社会論の古典とされる『大衆の反逆』はニーチェが「畜群」という名で罵り続けた社会階層「大衆」(masse)が、テクノロジーの進歩と民主主義の勝利によって、社会全体を文字通り空間的に占有するにいたった状況をきわめて悲観的に論じた書物である。この中でオルテガははっきりとニーチェの影響を受けた大衆社会論を展開する。それは、社会を「大衆」と「エリート」に二分し、「大衆」を徹底的に批判し、「選ばれたる少数派」の高い倫理性に人間社会の未来を託そうとする考想である。このオルテガの論の立て方は、とりわけ左翼的な知識人から「エリート主義」あるいは「貴族主義」として強い反感を買うことになった。しかし、私たちはオルテガの「精神の貴族主義」とニーチェの超人思想はまったく別ものである思う。それに、オルテガが『大衆の反逆』の中で予言したさまざまな事態-ナチズムとファシズムの勃興、革命ロシアの全体主義国家への変質、ヨーロッパの知的・政治的没落、アメリカ的ライフスタイルの世界制覇、さらには来るべきヨーロッパ統合までが、その後ことごとく現実のものとなったことを思うと、その炯眼に十分な敬意を払って然るべきだろうと思うのである。

 オルテガは大衆社会の本質をこう言い切る。

「他人と違うのは行儀が悪いのである。大衆は、すべての差異、秀抜さ、個人的なもの、資質に恵まれたこと、選ばれた者をすべて圧殺するのである。みんなと違う人、みんなと同じように考えない人は、排除される危険にさらされている。」(29)

 たしかにこの「大衆」は相互模倣を原理としている集団であるという点で、ニーチェの「畜群」に似ている。しかし、彼らの精神構造は、強圧的な支配者(「父」)を自己の外部に想定し、それへの隷従を幸福と感じる「奴隷」のそれとはかなり様子が違う。というのは、「大衆」らは近代のテクノロジーが可能にしたさまざまな物質的利便さと、民主政治によって提供された人権のおかげで、きわめて快適に生活を過ごしているからである。彼らの欲望は着々と充足されており、この欲望充足の営みを規制しようとするものにはなんであれ(たとえ「父」からの強圧的命令であれ)まるで従う気がないからである。

「いま分析している人間は、自分以外のいかなる権威にもみずから訴えるという習慣をもっていない。ありのままで満足しているのだ。べつにうぬぼれているわけでもなく、天真爛漫に、この世でもっとも当然のこととして、自分のうちにあるもの、つまり、意見、欲望、好み、趣味などを肯定し、よいとみなす傾向をもっている。(・・・)大衆的人間は、その性格どおりに、もはやいかなる権威にも頼ることをやめ、自分を自己の生の主人であると感じている。」(30) 

「勝ち誇った自己肯定」はニーチェにおいては「貴族」の特質とされていた。オルテガにおいて、それは「大衆」の特質とみなされる。ニーチェの「畜群」は愚鈍ではあったが、自分が自力で思考しているとか、自分の意見をみんなが拝聴すべきであるとか、自分の趣味や知見が先端的であるとか思い込むほど図々しくはなかった。ところがオルテガ的「大衆」は傲慢にも自分のことを「知的に完全である」と信じ込み、「自分の外にあるものの必要性を感じない」まま「自己閉塞の機構」のなかにのうのうと安住しているのである。ニーチェにおいては貴族だけの特権であったあの「イノセントな自己肯定」が社会全体に蔓延したのが大衆社会である。

 自己肯定と自己充足ゆえに、彼らは「外界」を必要としない。ニーチェの「貴族」は「距離のパトス」をかき立ててもらうために「劣等者」という名の「他者」を必要としたが、「大衆」はそれさえも必要としない。彼らは「外部」には関心がないのだ。

「今日の、平均人は、世界で起こること、起こるに違いないことに関して、ずっと断定的な《思想》をもっている。このことから、聞くという習慣を失ってしまった。もし必要なものをすべて自分がもっているなら、聞いてなにになるのだ?」(31)

 いまや大衆が権力者なのだ。彼らが「判断し、判決し、決定する時代」なのだ。

 

【引用出典】

 (28)『善悪の彼岸』、p.293

(29) オルテガ・イ・ガセット、『大衆の反逆』、寺田和夫訳、中央公論社、

1971年、p.394

(30) 同書、p.430

 

(31) 同書、p.438

2020年

3月

31日

「ひのとり」続報@事務局より

皆さんこんにちは。今日は事務局担当日です。

 

3月もまもなく終わりですね。

近所でも梅や桜などの花が咲き春らしくなってきました。

 

今週末あたりが花見に最適・・・なのですが,

コロナの影響で不要不急の外出は控えるようにと要請が出ていますので,

今年は散歩ついでに近所の桜を見る程度で我慢ですね(^_^;)

 

 

一日中家にいる祖母に見せようと,近所で咲いている桜などを撮影した

ものですが,皆さんにも少しでもお花見気分を味わっていただければ♪

 

さて,前回お伝えしていた「ひのとり」の続報です。

 

帰宅時に運良くチケットが取れプレミアム車両への初乗車が叶いました!

 

 

すご~く冷えて寒い日だったので、

 

冷えは腰(ヘルニア)にも良くないし。

それに毎日乗るわけでもないしね!(~o~)

 

・・・と自分に言い訳しながら,早速「ひのとり」へ。

 

 

乗ってみて感じたのは,

 

座席の前後の間隔が広く,席を後ろへ倒すのに,後ろの人を気にしなくて

いいのがまず嬉しい♪(‘-‘*)

 

さらに,座席に取り付けられているヒーターで,

座ったとたんなんとも心地よい暖かさに包まれ,いい気持ち・・・♡

 

座席やフットレストの調整は手元にあるリモコンでできるようになっており,

鶴橋まではあっという間の短い時間でしたが満足しました☺

 

機会がありましたら,皆さんも是非一度ご乗車ください。

 

2020年

3月

30日

2020年3月2日の内田樹さんの「20世紀の倫理―ニーチェ、オルテガ、カミュ」(その6) ☆ あさもりのりひこ No.825

世俗の汚泥にまみれて、なお精神の貴族性を失わない人間に私たちはいかにして出会うことが出来るか、それがニーチェ以後の倫理の問いである。

 

 

2020年3月2日の内田樹さんの論考「20世紀の倫理―ニーチェ、オルテガ、カミュ」(その6)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

では、「高貴なるもの」とは誰のことなのか?ここでニーチェの論理的迷走は深まる。なぜならニーチェが「高貴なるもの」を「当為」の語法で語ってしまうからである。

「およそ〈人間〉という型を高めることが、これまで貴族社会の仕事であった。-これからもつねにそうであるだろう。こういう社会は、人間と人間とのあいだの位階と価値差の長い階梯を信じ、何らかの意味での奴隷制度を必要とする。身分の差別がこりかたまって、支配階級が不断に隷従者や道具を眺め見下ろし、かくてまた不断に双方のあいだで服従と命令、抑圧と敬遠が行われることから生じるような〈距離の激情(pathos)〉がなかったならば、あの別のより秘密にみちた激情も決してうまれなかったであろう。それはすなわち、魂そのものの内部にたえず新たに距離を拡大しようとするあの熱望であり、いよいよ高い、いよいよ希有な、いよいよ遥遠な、いよいよ広闊な、いよいよ包括的な状態を形成しようとする熱望である。要するに、これこそは(・・・)絶えまなき、〈人間の自己超克〉の熱望である。」(21)

 ここでのニーチェのロジックは一見してそれと分かるほどに危うい。さきにニーチェは貴族の起源を「勝ち誇った自己肯定」だと断定していた。しかし「勝ち誇った自己肯定」を自己の根拠とする人間が果たして「おのれを高める」というような向上心を持つものだろうか? おのれの「低さ」「卑しさ」を自覚したものだけが「おのれを高めよう」とする自己否定・自己超克を指向するのではなのか? ニーチェの「貴族」についての最初の定義を受け容れる限り、「向上心を備えた貴族」「人間の自己超克を熱望する貴族」というのは形容矛盾である。 

 同じ背理は『ツァラトゥストラ』にも見ることができる。なるほど、ニーチェはそこでたしかに「超人」を語っている。しかし、そこでも彼は「超人が何であるか」ではなく、「超人は何ではないか」しか語らない。

「わたしはあなたがたに超人を教える。人間とは乗り超えられるべきあるものである。あなたがたは人間を乗り超えるために何をしたか。(・・・)人間にとって猿とは何か。哄笑の種、または苦痛にみちた恥辱である。超人にとって、人間とはまさにこういうものであらねばならない。」(22)

「超人」概念は「人間の超克」という「移行の当為」として語られる。あるいは「移行の当為」としてしか語られない。「超人」とは「人間を超えるなにものか」であるというよりは、「人間であることを苦痛であり恥辱であると感じる感受性、その状態から抜け出ようとする意志」のことである。超人とは「人間ではないもの」という否定形でのみ語られる記号であって、実体的な内容を持たない「超越への緊張」である。

「人間は、動物と超人のあいだに張り渡された一本の綱である-深淵の上にかかる綱である。(・・・)人間において偉大な点は、かれがひとつの橋であって、目的ではないことだ。人間において愛しうる点は、かれが過渡であり、没落である、ということである。」(23)

ツァラトゥストラは結局「超人とは何か」という問いにはついに回答しない。彼はひたすら「人間とは何か」についてだけ語る。堕落の極にある現代人について火を吐くような熱弁を揮う。しかし「超人とは何か?」という問いはそのつど「人間とは何か?」という問いにすり換えられ、「高貴とは何か?」という問いはそのつど「卑賤なものとは何か?」という問いにすり換えられる。

 このすり換えはニーチェのロジックの必然である。ニーチェは「自己超克」の動機を「より高いもの、より尊いものを指向する向上心」にではなく、「より低く、より卑しいものに対する嫌悪」のうちに求めているからである。貴族性とは高みをめざす指向ではなく、低く卑しく醜いものを激しく嫌悪し憎悪し破壊しようとする情熱、ニーチェのいう「距離のパトス」に他ならないからだ。

 ここから不思議な結論が導かれる。人間が高貴な存在へと、超人へと高まってゆく推進力を確保するためには、彼に嫌悪を催させ、彼をそこから離れることを熱望させるような、忌まわしい存在が不可欠だということになるからである。貴族社会が存立するために「奴隷制度」が不可欠であったように、超人が存立するためには、畜群が不可欠である。おのれの「高さ」を意識するためには、絶えず参照対象としての「低きもの」にそばにいてもらわなければならないのだ。人間を高めるという向上の指向は、不可避的に人間の一部を「畜群」として選別し、有徴化し、固定化することを要請する。

 超人「計画」にとってもっとも効率のよい体制は、ある人種が超歴史的、永遠的に「本来の賤民型」というものを体現している場合である。不変の参照項、「高さ」の観測定点としての「永遠に低いもの」がかたわらにいることは、おのれの「自己超克」の進み具合を計測するときにどれほど便利だろう! こうしてニーチェの超人道徳は、人類全体を「人種」に分類し、それぞれの遺伝的・生得的「本質」にしたがって、それが貴族人種か畜群人種かに分別するという暗鬱な作業に堕してゆくことになる。

「人間がその両親と祖先の固有の性質や偏愛を体内に宿していないということは金輪際ありえない。(・・・)もし両親についてそこばくのことが知られていたとすれば、その子について結論をくだすことがゆるされる。」(24)

「あらゆるヨーロッパおよび非ヨーロッパの奴隷階級の子孫たち、とりわけすべての先アーリア的住民の子孫たち。彼らこそ、人類の退歩を表しているものだ!」(25)

 遺伝的に畜群であることを宿命づけられている(ユダヤ人に代表される)「先アーリア土着民」と遺伝的に支配者であることを宿命づけられている「アーリア系征服種族」は髪の色、肌の色、頭蓋の長短といった生物学的な差異によって客観的に識別される。世界史とはこの非アーリア種族とアーリア種族の2000年来の確執の歴史のことであり、この和解なき闘争は近代にいたって前者の圧倒的な増殖の前に、後者が全戦線で後退を強いられている危機的状況として展望される。

「すべては目に見えてユダヤ化し、キリスト教化し、あるいは賤民化しつつある。この毒が人類の全身をすみずみまで侵してゆく成り行きは止めがたいものにみえる」(26)

 このニーチェの言葉はもう(ほぼ同時期に書かれた)エドゥアール・ドリュモンの『ユダヤ的フランス』の次のようなプロパガンダと選ぶところがない。

「ユダヤ人を他の人間たちとは違ったものにしている本質的特性とは何かをより注意深く、より真剣に考え、私たちの作業をセム人とアーリア人の民族的・生理学的・心理学的な比較から始めることにしよう。セム人とアーリア人は、はっきりと分かたれ、たがいに決定的に敵対し合う人種の人格化であって、この両者の対立が過去の世界を満たしており、将来においてさらに世界をかき乱すことになるであろう。」(27)

 ニーチェの超人道徳はこうしてその壮大な意図も空しく「反ユダヤ主義神話」のうちに崩落してゆく。たとえ本来の意図は人類の進歩であり、限界の超克であるとしても、その思想がある人間集団に劣等な「固有の本質」をあてがい、それを「否定する」というしかたで戦略化される限り、その思想に未来はない。そこから帰結されるものは排他的でエゴサントリックな暴力だけである。果たして、ニーチェのテクストはのちにドイツの国家社会主義者たちのうちに熱狂的な賛美者を見いだすことになる。

とはいえ、私たちがニーチェの「超人道徳」から学びうる教訓は決して少なくない。ニーチェは、大衆社会における倫理の可能性についてのつきつめた省察から、「精神の貴族がいなければならない」という結論を導いたところまでは間違っていなかったからである。私たちがニーチェと袂を分かつのは、そのあとのことである。

 私たちが希望をよせるのは、「卑俗なもの」たちへの嫌悪や排除による「斥力」をばねとして「距離」を稼ぐような相対的「貴族」ではない。さりとて、大衆から孤絶した脱俗の境地でひとりシリウスを仰ぐような絶対的「貴族」でもない。世俗の汚泥にまみれて、なお精神の貴族性を失わない人間に私たちはいかにして出会うことが出来るか、それがニーチェ以後の倫理の問いである。

 

【引用出典】

 (21) 『善悪の彼岸』書、p.269

(22) ニーチェ、『ツァラトゥストラ』、手塚富雄訳、中央公論社、1966年、 p.64

(23) 同書、p.67

(24)『善悪の彼岸』、p.284

(25)『道徳の系譜』、p.359

(26) 同書、p.351

 

(27) Edouard Drumont, La France juive, Marpon & Flammarion, 1886, tome I, p.5

2020年

3月

27日

2020年3月2日の内田樹さんの「20世紀の倫理―ニーチェ、オルテガ、カミュ」(その5) ☆ あさもりのりひこ No.824

こうして、行動に際して、局外の規範に準拠するものと、内発的な動機に身を任せるものという二分法によって、ニーチェは人間を「畜群」と「貴族」に二分し、それぞれのなすところを「悪い行為」と「善い行為」と名づける。行為の道徳性の判定は「何をなすか」ではなく、「何ものであるか」というかたちで立てられることになる。

 

 

2020年3月2日の内田樹さんの論考「20世紀の倫理―ニーチェ、オルテガ、カミュ」(その5)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

7・「超人」道徳

 ユダヤ=キリスト教に始まる「奴隷道徳」の根元的なメンタリティをニーチェは「遺恨(ressentiment)」と呼ぶ。「ルサンチマン」とは「遺恨・反感」を意味するフランス語であるが、語源は「反応する」(ressentir)という動詞である。「奴隷」は自己に先行し、自己よりも強大な、自己外部のなにものかによる「働きかけ」に対して「反応する」というかたちで存在する。「リアクション」というのが「奴隷」の行動元型なのである。

「奴隷道徳が成立するためには、常にまず一つの対境、一つの外界を必要とする。生理学的に言えば、それは一般に行動を起こすための外的刺激を必要とする。奴隷道徳の行動は根本的に反動である。」(15)

「奴隷」は「外界」を必要とする。「奴隷精神」とは「外界」から到来する「外的刺激」によって引き起こされた「反応」を、自分の「内面」から自然発生的に生まれ出た「本性の発露」であるというふうにシステマティックに錯認する知の構造のことである。この論断は暴力的な表現にもかかわらず、人間の存在論的構造についての深い洞見を含んでいることを私たちは認めなければならない。ここでニーチェはこんにちラカン派精神分析理論が「私」について教えていることとほとんど同じことを語っているからである。

 ラカン派の理説によれば、人間は発生的には無力で、根拠の不確かな存在として出発する。「私」は「私」の起源について厳密に自己言及することができない。(「私」は「私の誕生」に主体としては立ち会っていないからだ。)「私」は「私」がいまここに存在していることの意味や根拠を「私」自身で構築した論理や言語では語りきることができない。「私」とは、ある精神分析家の卓抜な比喩を借りて言えば、自分の髪の毛をつかんで、おのれ自身を中空に吊り上げるような仕方でしか存在できないのである。

この根源的に無力な「私」は、あまりに無力なので、「おのれが無力である」という事実を受け容れることが出来ない。それゆえ、人間はおのれの無力を、自分の「外界」にあって「自分より強大なもの」の干渉の結果として説明しようとする。「私の外部」にある「私より強大なる者」が私の十全な自己認識や自己実現を妨害しているという「物語」を作り出すのである。「私」が弱いのではなく、「強大なる者」が強すぎるのだ。そのようにして私の外部に神話的に作り出された「私の十全な自己認識と自己実現を抑止する強大なもの」のことを精神分析は「父」と呼ぶ。「父」はそのような仕方で、「私」の弱さを含めた「私」をまるごと正当化し、根拠づける神話的な機能であり、それを私たちは場合に応じて「神」と呼んだり、「絶対精神」と呼んだり、「超在」と呼んだり、「歴史を貫く鉄の法則」と呼んだりするのである。

このラカン派の説明はそのままニーチェの「奴隷」精神の構造に適用できる。「奴隷」は「おのれが無力である」という事実を隠蔽しつつ説明するために、「強大なる父」の幻影を外界に作り出す。そして、この「父」のうちにおのれを教導し、おのれを救済するものを見出そうとするのである。そのときにおのれの無力さは一気に「父」による救霊をけなげに待望する「子羊の無垢性」に読み替えられる。

 こんにち、私たちは精神分析によるこのような人間の思考定型にかかわる説明を学術的には有効なものとして受け入れている。私たちの了解するところでは、ニーチェのいう「奴隷」とは人間という種に固有の存在論的構造なのである。フロイトの言葉を借りるならば、「私たちは全員が神経症患者」なのであり、それをニーチェ的な語法で言い換えれば、「私たちは全員が奴隷なのだ」ということになる。

 だが、ニーチェはそれを認めない。彼は「おのれをおのれの力では根拠づけられない人間」の対極にあえて「おのれをおのれの力で根拠づけることのできる人間」という仮説的存在を想定するからである。この不可能な仮説的存在をニーチェはさしあたり「貴族」と名づける。ここからニーチェの思想的迷走は始まる。

「貴族」の属性はすべて「奴隷」と反転している。「貴族」とはなによりも「外界を必要としないもの」「行動を起こすために外的刺激を必要としないもの」のことである。「貴族」の行動は熟慮の末に導き出されたものではないし、外部から強要された命令や戒律への盲従でもない。「貴族」とは、なによりもまず、イノセントに、直接的に、「自然発生的」に、彼自身の真の「内部」からこみあげる衝動に身を任せて行動するもののことである。

「騎士的・貴族的な価値判断の前提をなすものは、力強い肉体、若々しい、豊かな、泡立ち溢れるばかりの健康、並びにそれを保持するために必要な種々の条件、すなわち戦争・冒険・狩猟・舞踏・闘技、そのほか一般に強い自由な快活な活動をふくむすべてのものである。(・・・)すべての貴族道徳は勝ち誇った自己肯定から生ずる。(・・・)それは自発的に行動し、成長する。」(16)

 この貴族=騎士的存在者は「われら高貴なるもの、われら善きもの、われら美しきもの、われら幸いなるもの」という根源的な自己肯定から出発する。無反省的な自己肯定に立つがゆえに、当然にもこの貴族的・騎士的存在は、無思慮で単純で残忍で野蛮である。

 「ローマの、アラビアの、ゲルマンの、日本の貴族、ホメーロスの英雄、スカンジナビアの海賊」といった歴史上の貴族的種族は「通ってきたすべての足跡に『蛮人』の概念を遺した者たち」(17)

 彼らは「危険に向かって」「敵に向かって」「無分別に突進」する。そして「憤怒・愛・畏敬・感謝・復讐の熱狂的な激発」によってこの「高貴な魂」たちはおのれの同類を認知するだろう。

 ニーチェはこの「高貴な野蛮人」こそが「人間」の本来的なあり方だと考えた。彼らの行為は、いかなる局外者の介入もなしに、自然発生的に彼らの内部からのほとばしり出るエネルギーが具現化したものである。彼らの衝動は「奴隷」のそれのように「内面化された外部」ではなく、純粋な内部を淵源としている。その純粋性、真正性は、彼らの行為のすべてを浄化し、正当化するだろう。こうして、ニーチェは行為の正邪理非は、その行為が「自発的であるか」「反応的であるか」によって決すべきであるとするきわめてユニークな倫理観にたどりつく。

「高貴な人間」が自発的に行うこと、それが「高貴な行為」なのであり、「善い人間」の内部から止めがたく奔出するもの、それが「道徳的な行為」なのである。

「『よい』のは『よい人間』自身だった。換言すれば、高貴な人々、強力な人々、高位の人々、高邁な人々が、自分たち自身および自分たちの行為を『よい』と感じ、つまり第一級のものと決めて、これをすべての低級なもの、卑賤なもの、卑俗なもの、賤民的なものに対置したのだ。(・・・)上位の支配種族が下位の種族、すなわち『下層民』に対して持つあの持続的・支配的な全体感情と根本感情、これが『よい』と『わるい』との対立の起源なのだ。」(18)

 行為に外在する汎通的な道徳は存在しない。「主人」(すなわち貴族的=騎士的存在者)がなすことはすべて「善い」ことであり、「奴隷」(すなわち畜群的存在者)がなすことはすべて「悪い」ことである。問題は「誰が」その行為をするかであって、「何をするか」ではない。同じ行為であっても「善い人間」がすれば「善い行為」であり、「悪い人間」がすれば「悪い行為」なのである。

「道徳的な価値表示はいつでもまず人間に対してつけられ、それが派生的に転用されていった末に、ようやく行為に対してつけられるようになった」のである。(19)

「問題はつねに、自分が何者であり、他の者は何者であるか、ということなのだ。(・・・)われわれは道徳を強制して、なによりもまず位階の原則の前に身を屈せしめなければならない。(・・・)かくしてついには道徳をして『ある者にとって正しいことは、他の者にとっても正しい』と言うのは不道徳であることを、はっきり分からせねばならない。」(20)

こうして、行動に際して、局外の規範に準拠するものと、内発的な動機に身を任せるものという二分法によって、ニーチェは人間を「畜群」と「貴族」に二分し、それぞれのなすところを「悪い行為」と「善い行為」と名づける。行為の道徳性の判定は「何をなすか」ではなく、「何ものであるか」というかたちで立てられることになる。

 

【引用出典】

 (15) ニーチェ、『道徳の系譜』、(ニーチェ全集、第10巻)、信夫正三訳、p.37

(16) 同書、p.31

(17) 同書、p.42

(18) ニーチェ、『道徳の系譜』、木場深定訳、岩波書店、1940年、p.22-23

(19)『善悪の彼岸』、p.273

 

(20) 同書、p.203

2020年

3月

26日

奈良マラソン2020への道 その1 ☆ あさもりのりひこ No.823

2020年2月23日(日)、第20回五島つばきマラソンは5時間20分27秒で終わった。

 4日間、完全休養して、2月28日(金)からジョギングを始めた。

 その日の夕刻、UTMFのサポート禁止が発表された。

 今年も、サポートに行く予定だったので、この発表は衝撃だった。

 肝心のUTMFの開催の有無は3月16日(月)に発表される。

 

 3月1日(日)午前、階段1072段を含む起伏のあるコースを2周する。

 タイムは45分55秒。

 初めて46分を切ることができた。

 早朝よりも朝食後に走った方が調子はいい。

 午前9時から東京マラソンを観る。

 井上大仁選手の勇気と大迫傑選手の胆力に驚いた。

 

 3月6日(金)早朝、安藤大(ひろし)さんから教えてもらった新しいトレーニングをする。

 最初の2㎞を全力疾走する。

 その後、ジョギングする。

 最後の1.7㎞を全力疾走する。

 足に負荷がかかった状態を作り出して、走り続ける練習である。

 フルマラソン後半(とくに30㎞を過ぎてから)のペースダウンを克服するための練習だ。

 

 3月8日(日)雨のためランニングは休む。

 名古屋ウィメンズマラソンを観る。

 一山麻緒選手が練習で培った力を存分に出し切ったレースであった。

 安藤友香選手の粘りも素晴らしかった。

 

 3月12日(木)午後7時30分、UTMFの開催中止が発表された。

 UTMFのサポートは来年に持ち越された。

 

 3月15日(日)午前、橿原運動公園でビルドアップ走を18キロ、1時間54分26秒。

 1㎞7分、6分45秒、6分30秒、6分15秒、6分、5分45秒を目安に、3キロずつ走った。

 最後の1㎞は5分31秒で走れた。

 

 3月22日(日)、淀川マラソンにエントリーしていたが肺炎の流行のために中止になった。

午前中、高松塚~キトラ古墳~清水谷~キトラ古墳~稲渕~栢森~稲渕~キトラ古墳~高松塚~甘樫丘とめぐる28キロを走る。

 キトラ古墳・稲渕間の激坂の下りをできるだけブレーキをかけないようにして走った。

 トイレ休憩を除いて3時間14分37秒であった。

 

2020年2月19日(水)、奈良マラソン2020が12月13日(日)に開催されると発表された。

奈良マラソン2020まで、あと8か月半である。

 

 

2020年

3月

25日

内田樹さんの「20世紀の倫理―ニーチェ、オルテガ、カミュ」(その4) ☆ あさもりのりひこ No.822

「大衆社会」とは何か?

 それは成員たちがもっぱら「群」をなし、「隣の人間と同じようであること」を指向して判断し行動するような社会のことである。そこでは、群がある方向に向かえば、全員が大勢に従って、批判も懐疑もなしに、同じ方向に雪崩打つ。そこでは、ひとびとは自立的な個としてではなく、アモルファスで均質的なmasse(塊)をなしている。

 

 

2020年3月2日の内田樹さんの論考「20世紀の倫理―ニーチェ、オルテガ、カミュ」(その4)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

6・大衆社会の道徳

 功利主義者たちとニーチェを隔てる最大の状況的な差異は、前者が「市民社会」における、ニーチェが「大衆社会」における倫理について語ったということである。ニーチェの既成道徳批判は、つきるところ、「大衆社会において倫理的であるとはどういうことか」という、それまでの思想家が誰一人自らに問いかけることのなかった問いを引き受けたことにある。当然のことだが、それまで人類は「大衆社会」というものを知らなかったからである。

「大衆社会」とは何か?

 それは成員たちがもっぱら「群」をなし、「隣の人間と同じようであること」を指向して判断し行動するような社会のことである。そこでは、群がある方向に向かえば、全員が大勢に従って、批判も懐疑もなしに、同じ方向に雪崩打つ。そこでは、ひとびとは自立的な個としてではなく、アモルファスで均質的なmasse(塊)をなしている。ニーチェ以前の思想家には切実な論件ではなかったこのような人間の集合的なあり方のもたらす災厄をニーチェはきわめて悲観的に予見した。

「群」をなして行動する人々をニーチェは「畜群」(Herde)と名づける。畜群の行動基準は「隣の人と同じことをする」「大勢に従う」ということである。集団から突出すること、特異であること、卓越していること、畜群的本能はそれを嫌う。畜群の理想は、「みんな同じ」という状態である。それが彼らの行動規範、「畜群的道徳」となる。

「今日のヨーロッパにおける道徳なるものは、畜群的道徳である。」(9)

 畜群的道徳が目指すのは、なによりも社会の平準化・等質化である。

「万人が平等であること」こそ畜群の輝く理想である。だから彼らは「心をひとつにして、あらゆる特殊な要求、あらゆる特権や優先権に対して頑強に抵抗する」し、「ひとしく同苦(同情)の宗教を信奉し、およそ感じ、生き、悩むかぎりのすべてのものに同情する」。(10)

 こうしてひとびとは、互いに共感し合い、理解し合い、慰め合い、苦しみも喜びもひとしく分かち合いつつ、相互を隔て差異化する輪郭を失って、不定形的でねばねばしたマッスのうちに溶け込んで行く。もはやその成員たちが区別しがたいほどに等質的な集団を形成することを、畜群たちは「人間における極頂、人間の達し得た絶頂、未来の唯一の希望、現在のものたちにとっての慰めの具、過去のあらゆる罪過からの偉大な解放」と考えている。

 畜群的道徳もある意味では「功利的」である。けれども、それはホッブスやロックが考えていたような功利とは別種の功利である。「功利主義的」な道徳観によれば、個人は(慈善や謙譲や寛容や禁欲などの)「道徳的」行為をすることによってこうむる短期的な不利益と、結果的に獲得される長期的利益を「計量して」行為を決定する。この理論は、行為の決定者は、その行為が得か損かについて算盤をはじくことができる程度の知的能力をもっていることを前提としている。だから、仮にある一人の判断が集団成員の大多数の判断と一致したとしても、それは集団の成員全員が、彼と同程度に利己的であり、彼と同程度に計算高いというにすぎず、判断はあくまで個人の資格において、個人の責任において、主体的に下されたのである。

 しかるに、このような功利主義的判断は畜群には不可能である。なぜなら畜群とは(その定義からして)主体的には何一つ判断できないからである。畜群の関心はもっぱら「集団の保持」「集団の存続」に向けられている。つまり群をなし続けていること、いつまでも等質の集団のまま、塊として運動すること、それが最優先の目標なのである。そのためには全員がその隣人と同じ判断をし、同じ行動をすることが必要である。功利的な判断の結果がたまたま全員一致するのではなく、全員一致することそれ自体が自己目的化するのである。そのとき、ひとつの「倒錯」が発生する。畜群においては、ある行為が道徳的であるか不道徳的かについての判断は、その行為に内在する道徳的価値でもなく、その行為が行為者本人にもたらすはずの利益の多寡でもなく、「ほかの人々と同じであるか否か」によって決定されるからである。

 外部から到来する命令に集団的に屈服させられ、畜群化されるという事態は歴史的にはこれまでもいくらもあった。しかし、それと近代の畜群のあり方は似ているようで決定的に違っている。

「人間が存在するかぎり、あらゆる時代に人間畜群も存在したし(血族共同体、共同団体、部族、民族、国家、教会)、またつねに少数の命令者に対して、非常に多くの服従者が存在した。(・・・)今ではすべての人間が、一種の形式的良心として『汝すべし』と命ずるものに対する欲求を生まれながらに持っている。この欲求は満足を求めるし、その形式をある内容で満たそうとする。(・・・)それはだれかれとない命令者-両親なり教師なり法律なり階級的偏見なり世論なり-から吹き込まれるものを受け入れる。」(11)

 単に強権によって屈服させられ、同一の行動を強制されるだけではひとは「奴隷」(Sklave)にはならない。「奴隷」とは、強権に屈服するだけでなく、屈服することを幸福と感じ、そこに快楽を見出すようなもののことである。外部から強いられた思念を自分の内部からわきあがってきた自分自身の思念であるとシステマティックに取り違えるようなもののことである。

ニーチェによれば、この服従への欲求には歴史的淵源がある。ある特殊な民族集団とそれを母胎とする宗教がこのメンタリティを育み、それをヨーロッパ世界に持ち込んだのだ、とニーチェは論断する。

「ユダヤ人とともに道徳上の奴隷一揆は始まった」とニーチェは書く。

「ユダヤ人-タキトゥスや全古代世界のひとびとがいうところでは、『奴隷として生まれた民族』、また彼ら自身が言いもし信じもしたところでは『民族の中の選ばれた民族』-このユダヤ人が、価値の逆倒というあの奇跡劇をやってのけたのだ。(・・・)彼らの預言者たちは、〈富〉と〈背神〉と〈悪〉と〈暴戻〉と〈肉欲〉というものを一つに融け合わせてしまい、かくてはじめて〈この世〉(世界)という言葉を汚辱の言葉にしてしまった。価値のこの逆倒という点にユダヤ民族の意義がある。この民族とともに道徳における奴隷一揆が始まったのだ。」(12)

 ニーチェのいう「奴隷一揆」とは、奴隷たちが支配者に抵抗することを意味するのではない。そうではなくて「奴隷である」という「事実」を「奴隷であるのは幸福であり、勝利である。だから努めて奴隷にならなければならない」という「当為」に読み替える「倒錯」を指すのである。「弱者」であり、それゆえに私的な欲望の実現可能性を阻まれたものが、その不能と断念を、あたかもおのれの意思に基づく主体的な決意であるかのようにふるまい、「弱者であることが正統的な生き方である」と宣言したときに「価値の逆転」が始まる。

「惨めなるもののみが善きものである。貧しきもの、力なきもの、卑しきもののみが善きものである。悩めるもの、乏しきもの、病めるもの、醜きものこそ唯一の敬虔なるものであり、唯一の神に幸いなるものであって、彼らのためにのみ至福はある。」(13)

 だから、ニーチェによればキリストの教えとはユダヤのロジックを全面展開したものに他ならない。

「愛と福音の化身としてのこのナザレのイエス、貧しきもの、病めるもの、罪あるものに至福と勝利をもたらすこの『救世主』-彼こそは最も薄気味の悪い、最も抵抗しがたいかたちの誘惑ではなかったか。(・・・)この『救世主』、このイスラエルの疑似敵対者、似非解体者の迂路によってこそ、イスラエルはその崇高な復讐欲の最後の目標に到達したのではなかったか。」(14)

 

【引用出典】

 (9) ニーチェ、『善悪の彼岸』(ニーチェ全集、第10巻)、信夫正三訳、理想社、1967年、p 同書.164

(10) ニーチェ、『道徳の系譜』、(ニーチェ全集、第10巻)、信夫正三訳、p. 165

(11) 同書、p.158

(12) 同書、p.155

(13) 同書、p.32

 

(14) 同書、p.34

2020年

3月

24日

桜が咲いている!

 

本日、3月27日は事務局が担当です。

世間では、いや世界中で、新型コロナウィルスのニュースが多く報じられ、気分的に重苦しい雰囲気で、一週間が始まるのかと思い駅に向かっていると、桜並木の木の先に淡いピンクの花があるのが目にとまりました。

 

思わず、「桜が咲いている!」と叫んでしまいました。

足を止めて、よく見るとポツポツと何カ所かに桜の花が観られました。

春本番の到来です!

 

また、よく観ると、たくさんのつぼみが、濃いピンクに色づきふくらんでおり、今にも開きそうなつぼみもありました。

あらためて桜の開花予報を見てみると、大阪辺りでは今週末には満開の様です。

ちなみに、財団法人日本さくらの会は1992年(平成4年)に、3月27日を「さくらの日」であるとしたそうです。

 

残念ながら今年は、桜の下でにぎやかな宴会を催すことは、控えないといけないと思いますが、やはりたくさんの桜の花が咲くとウキウキとなり、世間を明るくしてくれそうですね。

そして、桜が散る頃に、花びらが散るように、新型コロナウィルスも収束してくれることを願う次第です。

2020年

3月

23日

内田樹さんの「20世紀の倫理―ニーチェ、オルテガ、カミュ」(その3) ☆ あさもりのりひこ No.821

あらゆる社会に妥当する、道徳を基礎づけているファクターとは何か?「人間を超越した」原理ではなく、また「人間に内在する」利己心でもないとしたら、それはいったい何か?超越でも内在でもなく、それとは別の水準にあって、人間を駆動しているものとは何か?

 

 

2020年3月2日の内田樹さんの論考「20世紀の倫理―ニーチェ、オルテガ、カミュ」(その3)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

4・道徳の歴史主義-ホッブス、ロック

 善悪の観念はそれぞれの社会集団の歴史的・場所的規定性によって恣意的に決定されるという「歴史主義的」道徳観はトマス・ホッブス(1588-1679)、ジョン・ロック(1632-1704)、ジェレミー・ベンサム(1748-1832) らに代表されるイギリスの功利主義哲学においてもその基幹をなしている。

 ホッブスの「万人の万人に対する戦い」(bellum omnium contra omnes) という言葉が端的に語っているように、自然状態にある人間は、それぞれの自己保存という純粋に利己的な動機によって行動しているとするのが、功利主義の考え方である。自己実現と自己保存という「汝の欲するところ」は、人為的に定められた「実定的権利」に対して、いついかなる場所においても人間がその享受を要求できる権利ということで、「自然権」(natural right)と呼ばれる。

 この自然権の行使を万人が同時に求めた場合(ラブレーの夢想とは違って)、人々は自分のほしいものは他者から奪い取り、自分の欲求を暴力的に他者に強制することになる。この絶えざる戦闘状態にある社会では、自分の生命財産を安定的に確保することがきわめて困難であり、結果的には(ひとにぎりの圧倒的な強者をのぞく)ほとんどの社会成員が所期の自己保存、自己実現の望みを十分にかなえることができずに終わる。自然権行使の全面的承認は、自然権の行使を不可能にしてしまうというアポリアがここに生じる。

 それゆえ、とりあえず直接的・自然的欲求を断念し、そして社会契約(social pact)に基づいて創設された国家に自然権の一部または全部を委ねる方が結果的には利益が大きいと功利主義者は考える。

 例えばロックは自然状態から社会契約による政治権力装置への移行を次のように説明する。

「人間たちが共同体を構成し、ひとつの政府に服従するとき、彼らがたがいに認め合った最も重要で基幹的な目的とは連帯し、自分たちの私有財産を保全することであった。というのは自然状態にあっては、私有財産の確保のためにはあまりにも多くのものが欠落していたからである。

 第一に自然状態には、共同的な同意によって定立され、認知され、受容され、承認された法律、生じうるさまざまな係争を終結させる共通の尺度として、これに基づいて正当な請求と不当な請求、正義と不正が判定されるような法律が欠けている。(・・・)第二に、自然状態には、公正な立場にあって、法律に則って係争を終結させるだけの権威を備えていると承認された裁判官がいない。(・・・)人々は自分の利害に関係することには夢中になるが、他人の利害についてはいい加減で冷淡である。これが際限のない不正と無秩序の原因となる。第三に、自然状態には、下された判決を支援し、維持し、執行する力を持った権力が通常は存在しない。罪を犯したものであっても、可能であればまず実力を行使して、おのれの不正を押し通そうとするだろう。犯罪者の抵抗はときには彼を罰しようと企てるものをかえって危険にさらし、ときにはその命を失わせることもあるだろう。

 こういうわけで、人間たちは自然状態において享受していた数々の特権にもかかわらず、彼らのおかれていたきわめて不都合な条件のうちにいつまでもとどまることを止めて、社会を構成して暮らす方向へと強く押しやられたのである。」(3)

 この考え方は私たちにはそれほど抵抗なしに理解できる。ここにはラ・ロシュフーコーと同じ発想パターンが読みとれる。すなわち、「短期的・直接的な利益を断念することによって、より大きな長期的・間接的利益を回収する」という「迂回のメカニズム」である。人々は自然権の無制約な行使を断念する代わりに、社会契約の合意に基づいて形成された国家権力装置を通じて、より効果的に自分の私有財産を保全する。一時的に特権を断念するほうが、結果的にはより有効に特権を確保することができる。だから社会契約は、あくまでも私有財産の保全、個の自己保存、自己実現つまり自然権の最大限行使を目指しているのである。

 ホッブスによれば、たとえ国家主権といえども、その本義は国民の自然権の保障にある。だから、国民は自分たちが自然権を十分に享受できていないと判断した場合、「抵抗権」あるいは「革命権」という名目のもとに、現体制を他の政体に替える権利を保留している。17-18世紀の近代市民革命(イギリスの清教徒革命、アメリカの独立戦争、フランス革命など)がこのような理論に導かれて果たされたことは改めて指摘するまでもないだろうし、この社会契約理論は現在でも(日本国憲法をはじめとして)ほとんどの先進民主国家の憲法において、国家の正統性の根拠づけのために採用されているのも周知のことである。

 

5・道徳の系譜学へ

 近代の哲学者はホッブス、ロックからモンテスキュー、ルソー、エンゲルスに至るまで、道徳的な行動準則の成立について基本的には同じ考え方をしている。自然状態においては「社会が欠如」しており、そのために道徳は存在しないか、あるいはきわめて原始的なかたちでしか存在しない。そのような原始状態から社会契約によってテイク・オフが果たされる過程で、擬制としての道徳が法律に準じる仕方で成立した、とするのが彼らの近代的な倫理観である。

さて、このようにして(歴史学的にも考古学的にも実は根拠がない)「社会契約による社会の欠如から現存の社会への移行」という進化史観に与することは、ひとつの重要な態度決定-社会秩序の起源についてのある考え方を採用すること-を意味している。 

「人間の社会は契約から生まれると述べることは、結局あらゆる社会制度の起源がただしく人間的であり、人為的であることを宣言することである。それは社会は神の制度や自然の秩序の結果ではないと言うことである。それはなによりもまず社会秩序の基盤にかんする古い観念を拒否し、新しい観念を提出することである。」(4)

 ルイ・アルチュセールによると、社会契約説による説明は、社会は人間以外の原理(神あるいは自然)によって作られたとする「古い」仮説を退ける。この「古い」仮説はひさしく封建社会に固有の信念である「人間の本来的な不平等性」という考え方の根拠となってきたものである。人間の理解を超越し、人間の力によっては動かしようのない神や自然の摂理によって社会が成立したとする限り、ある人間が権力をもち、富を独占していたとしても、それはその人に帰された「本来的な社会性」によって説明される。(例えばボシュエの「王権神授説」)

 これに対して、社会契約説は社会的不平等を含む「自然」を欺瞞として退け、「諸制度を人間の約束の上に築き上げる。この思想は、人間に、古い制度を拒否し、新しい制度を立て、そして必要とあらばそれらの制度を新しい約束に基づいて廃しあるいは改革する機能を与えるのである。」(5)

「社会制度は人間の同意の上にはじめて成り立つ」という「新しい」考え方が「社会制度は人間を超える原理によって措定されたものである」という「古い」考え方にとって代わった。「道徳は神(あるいは自然)が制定したものである」とする「古い」考え方(哲学史的な術語で言えば「道徳の先験主義・絶対主義」)が退けられ、「道徳は人間が社会契約によって制定したものである。それゆえ「制定」することも「改正」することも、「廃絶」することも、集団の同意さえあれば可能である」とする「新しい」思想(「道徳の経験主義」)が支配的になったのである。

 しかし、私たちは「道徳についての二つの理念のあいだの覇権闘争は新しい理念の勝利のうちに推移した」という教科書的説明をそのまま鵜呑みにして済ませるわけにはゆかない。というのは、社会契約説は、それ自体が論争的、権利請求的な政治イデオロギーであり、目の前に現存する当の制度を革命するための論拠として要請されたものであり、その目的は「世界のあらゆる民族の制度を説明することではなく、既成の秩序を打破し、あるいは生まれつつあるかやがて生まれるであろう秩序を正当化することであった」からである。この説の唱道者たちは「あらゆる事実を理解することを望んだのではなく、新しい秩序を築く、つまり新しい秩序を提案し、正当化することを望んだのである。それゆえホッブスやスピノザのなかに、ローマの没落や封建諸法の出現の真の歴史をさぐることは間違いであろう。彼らは事実にはかかわりをもたなかったのだ。(・・・)彼らは自分が選んだ立場から歴史の理由そのものを作りだした、そして彼らが科学とみなしていた彼らの諸原理は、彼らの時代の闘争の中に組み込まれた-そして彼らが選んだ-諸価値にすぎなかった。」(6)

 アルチュセールの言葉をもう少し私たちの関心に即して言い換えると、「私利」をあらゆる行動の基本原理とする功利主義哲学の唯一の難点は、その哲学自体が、ひとつの党派的・階級的立場の「私利」に奉仕する哲学だったということである。

 ひとは「私利」によって動くということを論証しようとしている功利主義者自身が「私利」によって動いているとすると、これは論証すべきものを論証の前提に組み込んでいる「論点先取の虚偽」を犯していることになる。別にアリストテレスを持ち出すまでもなく、ある特定の社会集団にだけ選択的に有利な理説を、「一般的に妥当する学知」としていくら宣布してもふつうはあまり信用されない。

 いずれにせよ、19世紀の末に、近代の功利主義的な道徳観、すなわち「利己心の合理的な充足のための社会契約」としての道徳という前提をもう一度洗い直す学的な作業が思想的課題の日程にのぼることになったのである。

 その作業は一人の哲学者によって定式化された。

 あらゆる社会に妥当する、道徳を基礎づけているファクターとは何か?「人間を超越した」原理ではなく、また「人間に内在する」利己心でもないとしたら、それはいったい何か?超越でも内在でもなく、それとは別の水準にあって、人間を駆動しているものとは何か?

 この問いかけから始まる学的考究をニーチェは「道徳の系譜学」と名づけた。この学の原則は次のふたつのテーゼに集約される。

(1)「道徳の本来の問題たるものはすべて、多くの道徳を比較するところに始めて現れでるものである。」(7)つまり、道徳の系譜学は「比較道徳学」というかたちをとることになる。

(2)道徳が神の導きであるとする先験説も、道徳が合理的利己心の成果であるとする功利主義も、そのいずれをも認めない。「すべての道徳に本質的で貴重なことは、それが永年にわたる拘束だということである。」(8)

 こう宣言したニーチェによって『道徳の系譜学』(Zur Genealogie der Moral,1887)と題された書物が19世紀末に登場することになった。現代の倫理をめぐる根本的な問いはこの一冊の書物のうちに集中的に表現されているといってよい。この書物においてニーチェは彼の「人間中心主義」を極限にまで推し進めて、19世紀までのすべての道徳観を完膚なきまでに叩き潰した。

 ニーチェは、神や自然の介入を借りることも、利己心という怪しげな動機に依拠することも、ともに退け、「おのれ自身によっておのれ自身を主体的に根拠づけ、かつ、おのれの行動の理非を客観的に判定しうる方法はあるか」という19世紀までの思想家が問うことのなかった無謀な問題を設定し、その困難な問いに正面から取り組んだのである。ニーチェの回答の試みが成功したかどうかは別として、少なくともニーチェ以後、この問いを回避して倫理について語ることは誰にもできなくなった。

 

【引用出典】

 (3) ジョン・ロック、『政治論』、第9章、124節-127節

(4) ルイ・アルチュセール、『政治と歴史』、西川長夫他訳、紀伊国屋書店、

1974、p.28

(5) 同書、p.29

(6) 同書、p.30

(7) ニーチェ、『善悪の彼岸』(ニーチェ全集、第10巻)、信夫正三訳、理想 社、1967年、p.142

 

(8) 同書、p.144

2020年

3月

19日

スポーツにおける許容範囲について ☆ あさもりのりひこ No.820

スポーツにおけるマネジメント(目標設定、資源活用、リスク管理など)について考えてみる。

 

1 WBSS(ワールド・ボクシング・スーパー・シリーズ)バンタム級決勝

 2019年11月7日、WBA・IBF世界バンタム級王者井上尚弥とWBA世界バンタム級スーパー王者ノニト・ドネアが激突した。

 井上もドネアも一発で相手をKOできる強打の持ち主である。

 

2ラウンド、ドネアの得意の左フックが井上の右顔面を捉える。

 このとき、井上は、右目の眼窩底を骨折していた。

 井上は、右目の視界が二重に見えるので、これはいつもと違うと判断して、無理にKOを狙わず、ポイントを獲って判定で勝つ作戦に変更した。

 

 11ラウンド、井上の左フックがドネアのボディを捉える。

 ドネアは、フットワークでリングを半周したあと、自ら右膝を着いてダウンした。

 このとき、ドネアは、無理に立ったまま戦い続けると倒されると判断したそうだ。

 

 井上は、無類の強打を誇るが、目の状態が悪くなったので、無理にKOを狙うと危険だと冷静に判断して、作戦を変更することができた。

 一方、ボディにフックをもらったドネアは、このまま戦い続けると危険だと判断して、自ら膝をついて(ダウンして)身体を休めて回復する時間を稼いだ。

 

 ふたりとも、冷静に状況を判断して、最適の戦法を選択することができる「賢さ」を兼ね備えている。

 結局、判定で井上が勝利を得たが、見応えのある熱戦であった。

 

2 東京マラソン2020

2020年3月1日、東京マラソンで、大迫傑が2時間5分29秒の日本新記録を樹立した。

レース後のインタビューで、先頭集団との距離が開いたときの気持ちについて聞かれて、大迫は、無理に追うとキャパを超えるので、と答えた。

自分自身の能力の許容範囲(capacity)を超えるような走り方はしなかった、という意味である。

 

2019年9月のMGCでは、大迫は、先頭集団の前の方で、先頭集団の動きに合わせて走り、脚を使いすぎて、最後のスピードが鈍り、競り負けて3位に終わった。

東京マラソンでは、大迫は、2時間5分50秒という自ら保持する日本記録を切るペースを終始守って走った。

先頭集団には、井上大仁がいて、30キロまでは、2時間4分台のペースで快調に飛ばしていた。

 

大迫は、井上との差が開いたときには「もうだめかな」と思った瞬間もあったという。

それでも、何があって絶対あきらめない強靱な精神がすばらしい。

井上が30キロを過ぎてから徐々にペースダウンしたのに対して、大迫は30キロを過ぎてから徐々にペースアップした。

 

結局、大迫は、井上を抜き去り、日本新記録を樹立して見せた。

井上との差が開いても慌てないで、自分の力を信じて、自分のペースを守った大迫の胆力がすごい。

井上は、30キロを過ぎてから失速して敗れた。

しかし、1キロ3分を切るペースで記録に挑んだ井上の勇気に喝采を贈りたい。

 

3 名古屋ウィメンズマラソン

 2020年3月8日、名古屋ウィメンズマラソンで、一山麻緒が2時間20分29秒で優勝した。

 この走りで、一山は8月に札幌で行われるマラソンの出場権を得た。

 

 30キロまでペースメーカーが着いて、目標タイムである2時間21分47秒を切るペースを刻んでいた。

 先頭集団のランナーがひとり、またひとりと遅れていく中で、一山は、先頭集団の前の位置を保っていた。

 

 30キロでペースメーカーが外れると、一山はペースを上げて、集団から抜け出した。

 2時間21分47秒を切るためにもペースアップは必要だった。

 しかし、何よりも実力が備わっていないとペースは上げられない。

 一山は、30キロを過ぎてからペースを上げる練習を繰り返していたという。

 練習は裏切らない。

 

 肘を引き上げない独特のフォームで走る安藤友香は、先頭集団について行けず、ズルズルと後退していった。

 しかし、安藤は、最後まで諦めないで、盛り返して2位に食い込んだ。

 この粘りは素晴らしかった。

 

 

 井上尚弥、大迫傑、一山麻緒、いずれも自分の能力の許容範囲を冷静に判断して、最適最良の選択肢を選んで、結果を出したと言える。

2020年

3月

18日

内田樹さんの「20世紀の倫理―ニーチェ、オルテガ、カミュ」(その2) ☆ あさもりのりひこ No.819

「神は死んだ。」中世以来、ヨーロッパの文明を、ヨーロッパの人々の世界観、その日常の判断と経験のありかたを決定的な仕方で規定してきたキリスト教が、その支配的な影響力を失ったこと。これが現代世界の決定的な初期条件である。

 

 

2020年3月2日の内田樹さんの論考「20世紀の倫理―ニーチェ、オルテガ、カミュ」(その2)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

2・啓示はいつその効力を失ったのか?

 神の戒律がその効力を決定的な仕方で失ったのがいつのことか、それは思想史にはっきり刻まれている。神の死を確認したのはフリードリヒ・ニーチェであり、それは1882年のことである。

 神は自然死したわけではない。殺されたのである。人間たちが「神」という倫理の根拠を抹殺したのである。しかし、その過激な言葉ゆえに多くの人に誤解されているのとはうらはらに、その死亡宣告は、まったく無秩序な世界を作りだし、世界を混沌のうちにたたき込もうという悪意によってなされたわけではない。ニーチェは神とは別の、神よりもっと堅固な基盤の上に倫理を根付かせようとしてそうしたのである。

「神は死んだ。」中世以来、ヨーロッパの文明を、ヨーロッパの人々の世界観、その日常の判断と経験のありかたを決定的な仕方で規定してきたキリスト教が、その支配的な影響力を失ったこと。これが現代世界の決定的な初期条件である。

「おれたちが神を殺したのだ-お前とおれがだ!おれたちはみな神の殺害者なのだ!」

 ニーチェの文章はそのあとこう続く。

「世界がこれまでに所有した最も神聖にして強力なもの、それがおれたちの刃で血まみれになって死んだのだ。おれたちが浴びたこの血を誰が拭いとってくれるのだ?どんな水でおれたちは体を洗い浄めたらいいのだ?どんな贖罪の式典を、どんな聖なる奏楽を、おれたちは案出しなければならなくなるのだろうか?こうした所業の偉大さは、おれたちの手に余るものではないのか?それをやれるだけの資格があるとされるには、おれたち自身が神々とならねばならないのではないか?」(2)

 単に「神は死んだ」のではない。「私たちが神を殺した」のであり、それは単なる無神論に落ち込むためではなく、「私たち自身が神となり」、「これまでのいかなる歴史もなしとげなかったような偉大な歴史」を構築するために必要だからだとニーチェは考えた。

 ニーチェの主張はふたつの命題にまとめられる。

ひとつは、「超越者」が否定され、空席になった「神」に代わるものとして「人間」(ニーチェは「超人」と呼ぶ)が置かれなければならないということ。ひとつは、神から下された「戒律」を祖型とする古典的な「当為」はすべて否定され、「超人」が体現する「悦ばしき知識」が人間の行動を律する新しい基準とならなければならないということ、これである。

「超人」とは何か?「悦ばしき知識」とは何か? この問いについて考えるためには、少し思想史を遡ってみる必用がある。

 

3・人間中心主義の流れ-ラブレー、モリエール、ラ・ロシュフーコー公爵

 この「反キリスト教=人間主義」的な考え方はニーチェの創見ではない。中世以来、多くの思想家は、ときには暴力的な弾圧や迫害に耐えて、なお神の命じる道徳のうちよりも、それが抑圧しようとしている「人間の本能」の方に「善」を見出そうとしてきた。

 その代表的な思想家のひとり、フランソワ・ラブレー(1490?-1553) は『ガルガンチュア物語』(Gargantua, 1534)の中、彼が創造した理想の共同体である「テレームの僧院」にただ一つの戒律しか与えなかった。それは「汝自身の欲するところを為せ」(Fais ce que voudras.)である。

 ラブレーの陽気な世界観によれば、世界は善であり、人間は善であり、世界と人間はその本性の赴くままに行動するときにはじめて善き目的へと向かうことができる。自然に発生する生命の奔出こそが善であり、その生命ののびやかな流れをたわめたり、阻害したり、抑えつけるもの、それが「悪」である。ラブレーは「よきものとしての自然」(Physis)と「悪しきものとしての反自然」(Antiphysie)という単純な二項対立のうちに、世界のすべての矛盾を流し込んだ。

 ラブレーやモンテーニュ(1533-92)によって代表される人間中心主義思想は、モリエール(1622-1673)やラ・ロシュフーコー公爵(1613-1680)に受け継がれる。けれども17世紀の歴史的経験はこの自然礼賛の思想のうちに少し苦い味わいを加えた。すれっからしの近代人は人間の「本来的な善性」なる観念をラブレーのように手ばなしでは信じることができない。彼らは善なる人間本性と悪しき制約としての「道徳」という二項対立を信じるには、あまりにも人間の邪悪さを知りすぎたからだ。人間はもう少し屈折した手順を踏んで道徳とかかわっている、という新たな知見が登場する。

 彼らはこう考えた。道徳は利己的な欲望達成のために功利的に活用されている道具にすぎない。自己犠牲とか誠実とか無私とか呼ばれる「道徳的行動」は、それ自体が価値であるから実践されるべきなのではなく、実はそのような「非利己的行動」を迂回して、利己心に奉仕しているから価値があるとされるのだ。これが17世紀の人間観察者(モラリスト)たちの発見である。

 モリエールの芝居には、純粋な偽善者、どこから見ても悪人というような単純な登場人物は出てこない。単純そうな農夫は利己的で邪悪な本性を無邪気さの衣で覆っている。猫かぶりの女は純潔を装うことでうまみのある結婚相手をつかまえようとする。大酒のみで徹底的に現世主義者の従僕はミステリアスな主人を畏怖している。ドン・ジュアンは悪行を尽くしながらも、超人的な勇気と冷静さを失わない。アルセストは人間嫌いのくせに、社交的でコケッティシュなセリメーヌに夢中になる。

 モリエールの登場人物たちはいずれも「ひとすじなわではゆかない」人物たちである。別の言い方をすれば「外面から判断しては内面が推測できない」人々である。それは、彼らの外面的な行動が内面的な動機の忠実な反映ではなく、内なる動機が外なる行動に現れるまでの間に抑圧や屈折や迂回や偽装などが介在して、内面が見えにくくなっているからである。そのせいで生じた誤解や行き違いや勘違いや取り違えがモリエール流の笑劇の不可欠の要素となっている。

「人間の内面は(ある種の解読装置を使わないと)見えない」という考え方、あるいはもっと踏み込んで言えば、「人間には『内面』がある」という近代的な考想そのものが公的に承認されたことの、モリエールはひとつの指標であると言えるだろう。

 とはいえ、モリエールにはまだラブレー的な人間中心主義の流れが生きている。つまり、無垢なるものが「善」であり、人工的なもの作為的なものが「悪」であるという基本的な発想である。だから、作劇術の上では、「善」は無知で衝動的で健康な欲望に身を任せている若者たちによって、「悪」は社会の汚れにまみれ、打算でしか行動しない大人たちによって定型的に演じられることになる。しかし、無垢なるものは同時に無知であり無力であり、偶然の幸運がないかぎり、自力で運命を切り開くことも、おのれの正しさを承認させることもできないことをモリエールは熟知している。

 

 同時代のモラリスト、ラ・ロシュフーコーはモリエールよりもさらに人間について手厳しい。彼に言わせればこの世には利己心しか存在しない。もっともよく知られた彼の箴言をいくつか拾ってみよう。

「われわれの美徳は、たいていの場合、偽装された悪徳にすぎない。」

「美徳は虚栄心が同伴していなければ、それほど遠くまでは行けないだろう。」

「利己心はあらゆる言葉を操り、あらゆる人間を演じてみせる。無私の人さえも。」

「多くの人にとって、感謝とはより多くの恩恵を引き出そうとする密やかな願いに他ならない。」

 ラ・ロシュフーコーのこれらの嫌味な箴言に共通するのは「美徳の迂回構造」である。私たちが何かを譲ったり、与えてみせるのは、一度手放すことを通じて、もっと多くのものを取り戻すためであると彼は考える。これは道徳についての「近代的な」解釈といってよい。彼の考え方には、宗教的な道徳観から「離陸する」新しい知見が含まれている。

もし道徳が功利的な装置であるとしたら、道徳はそのつどの社会関係に即して、利己心の達成のためにもっとも効果的なすがたを「偽装」するはずである。(他人を密告することが有利な場では、「自分の気持に忠実であること」が道徳的とされ、面従腹背が有利な場では、「自分の気持を抑制すること」が道徳的であるとされるだろう。)道徳は終わりなきプロテウス的な変身をとげ、決して同一のものにはとどまらない。美徳と悪徳、正義と邪悪とを決定するのはそのつどの社会関係であるという「道徳の歴史主義」がここに出現する。

 

【引用出典】

 

 (2) フリードリヒ・ニーチェ、『悦ばしき知識』、(ニーチェ全集、第八巻)信 夫正三訳、理想社、1962年、pp.187-189

2020年

3月

17日

笑うこと

橿原市 弁護士

みなさん、こんにちは。

本日は事務局担当日です。

 

私がブログを担当する際には、

どうでもいいことや

楽しいこと、な~んでやねん!と笑って頂けるような

内容にするよう心がけています

 ← はい、ここでつっこまないでね。あくまで心がけ。

 

で。

連日テレビのニュースやインターネットを開くたび、耳にする話題。

今や世界中の問題となっています。

どうしてもどよ~んとした空気になってしまいますね。

 

我が家も小学6年生のこどもが休校となり、

テニススクールもお休みになり

ほぼ家でゴロゴロほぼパジャマ生活。 ← ここコロナ関係なし

 

家で過ごすアイテム購入(それをゲームソフトという)や

アイテムレンタル(それをレンタルコミックまたはDVDという)のために

じわじわと家計が圧迫されています(ToT) ← 母も楽しんでる説あり。諸説あり。

 

出勤の際は、お昼ご飯の準備もいりますし、

スーパーに一緒にいった時にはそっとカゴに入る品々。

これらもじわじわとエンゲル係数の上昇に貢献しております(-_-;)

 

卒業式は、在校生・来賓を招かない30分ぐらいの短縮版となる予定です。

最初は、保護者も出席不可だったのですが、後日保護者は列席可となりました。

 

在校生と卒業生の「呼びかけ」がない卒業式・・・

卒業証書を受け取ってはい解散というのも味気ないなぁ、

と色々複雑な感情もありますが、

東日本大震災のことを思えば

無事卒業式ができるだけでもありがたいなと思います。

で。

どよ~んとした空気を一新するには、やっぱり笑うことが大切だなぁ!と実感したのが

先日、テレビでやっていたネタ番組です。

 

漫才が好きで、普段からネタ番組はよく観るのですが、

こんなときこそ大声で笑いたいのにと思っていた矢先のネタ番組。

私の大好きな芸人さん(NON STYLE、中川家、ミキなどなど)がたくさん出ていて

3時間、時間を忘れて久々にお腹の底から大笑いしました。

大笑いして、なんだかスッキリしました。

 

病気の7〜8割は、適切な呼吸の欠如とストレスによるものだという説もあるそうです。

また、笑うことで自律神経のバランスが良くなり、睡眠の質もあがるようなので

ひいては免疫力向上に役立ちますよね♪

 

たっくさん笑って、明るい4月を迎えたいですね(・∀・)

2020年

3月

16日

内田樹さんの「20世紀の倫理―ニーチェ、オルテガ、カミュ」(その1) ☆ あさもりのりひこ No.818

説明できないことについては説明しないのが大人の態度である。

 

 

2020年3月2日の内田樹さんの論考「20世紀の倫理―ニーチェ、オルテガ、カミュ」(その1)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

『ペスト』がいきなり売れ出したということで、集英社の伊藤さんからカミュ論の旧稿をウェブに上げたいという提案を頂いたけれど、これがとてもそのままではお目にかけられるようなクオリティではない。その時にHDの筐底から「こんなもの」が出て来た。たぶん1995年くらいに大学のリレー講義の一部で、「20世紀の倫理」というのを3回くらい担当したことがあって、その時に作ったノートである。そのあと大学の紀要に載せたのだけれど、単行本には採録されていないと思う。カミュ論の部分はのちに改稿して『ためらいの倫理学』という論文になって、同名の論集に収録されている。前半の「倫理についての思想史的概説」は学生向けに書いたので、たいへんにわかりやすい。

                              

1・倫理なき時代の倫理

 神戸の小学生殺人事件のあと、あるトーク番組で「なぜ人を殺してはいけないんですか?」と発言した中学生がいて、物議をかもしたことがあった。おそらく、彼はそのときまで、その問いに対して納得のゆく答えをしてくれる大人に出会ったことがなかったのだろう。それだけ、この問いは「ラディカル」な問いかけだということである。その場に私たちが居合わせたとしても、限られた時間のうちに彼を説得できたかどうかは分からない。たぶんできなかっただろうと思う。

 しかし、この問いは立てられて当然の問いであると私たちは思う。思春期の少年がこの問いを立てることは、精神の成長にとってはしごく健全なことである。むろん、この問いに容易には答えが出せない。自分自身の責任において、暫定的な解答を絞り出してゆくほかない。自力でその答えを出すことが私たちの社会においては一種の「通過儀礼」に相当すると私は考えている。

 「なぜ人を殺してはいけないのか?」経験的に言って、この問いに対するとりあえず穏当な回答は「そういうふうに決まっているから」というものである。

 人間社会は、私たちが平和的に共存してゆけるようにさまざまな制度を整えている。言語や親族制度や貨幣はそのためにつくられた装置である。それがどういう「起源」に由来するのかは仮説でしか答えられない。なぜ人間は分節音声を言語として使うのか? なぜ人間は集団を作るのか? なぜ人間は「もの」を交換するのか? こういった問いには「そういうふうに決まっている」という以外に答えようがない。説明できないことについては説明しないのが大人の態度である。

 だからといって、この中学生の問いかけを「そんな問いを立てること自体が不道徳である」と圧殺することには私は反対である。それは「倫理とは何か?」という問いかけに対して「そのような問いかけは倫理的ではない」と答えるのに似たナンセンスである。というのも「なぜ人を殺してはいけないのか?」というのは、おそらくもっとも根源的な倫理の問いだからである。 

 議論を先に進める前に、まず「倫理」という術語の語義を確定しておきたいと思う。倫理とは「これをしなさい、あれをしてはいけない」という善悪の項目を列挙した「カタログ」のことではない。倫理とは、そのような「カタログ」を「そのつど決定するプロセスそのもの」のことである。文法用語を借りれば、成文化された道徳律が「決定されたこと」であるとすれば、倫理とは「決定する」の動詞形である。例えば、「人を殺してはいけない」という準則そのものは倫理ではない(それは倫理に媒介されて事後的に定律されたものである。)「なぜ人を殺してはいけないのか」と自らに問うこと、そのような思考の運動をこの論考では「倫理」と呼ぶことにする。

 私たちは重大な決定を前にして、たいていの場合、ためらい、迷う。なぜなら「なすべきこと、なしてはならないことの網羅的なカタログの決定版」が私たちには与えられていないからである。数学では、あることを真実であると証明するためには、それより上位の、より包括的な真実(「公理」と呼ばれる)による根拠づけが求められる。しかし、善悪、正邪、理非の判断については、万人に普遍的に妥当する「公理」のようなものはない。

 かつては「至高者」が君臨して、すべてを覆い尽くす「聖なる天蓋」を形成していた時代があった。行動の規範は「神」から私たちに絶対的命令すなわち「啓示」というかたちで与えられた。アブラハムはエホバの声を聞き、釈迦は菩提樹の下で成道を遂げ、マホメットはヒラー山の洞窟でアッラーの啓示を受けた。彼らが了解した「最初の言葉」は絶対的な真実であり、人知による懐疑の余地を残さない。この「啓示」という前提を受け容れるならば、人間の遭遇しうるすべてのケースを予測して、「なすべきこと」と「なしてはならないこと」の網羅的なカタログを作成することは、理論的には可能である。

 ユダヤ教の場合、行動規範は「・・・すべし」248条、「・・・すべからず」365条、計613条の網羅的戒律によって「カタログ化」されている。もちろんいくら古代とはいえ、613の条項で、あらゆるケースを網羅できるはずはないから、戒律だけからは判定しかねる係争が起きれば、ラビたちはどのような条文解釈によって決着をつけるか鳩首協議した。

カトリック教会には、「決疑論」の専門家がいて、複数の行動規範のあいだに矛盾がある場合の決定について議論を重ねた。(「名誉を守るために決闘に応じるべきか、殺してはならないという戒律に従うべきか」といったアポリアについては、神学者が考えてくれたのである。)しかし、そのような解釈学が可能であるのも、「啓示」という、真実性の最終的な保証があればこそである。

 時代や場所が変われば、人間は次々とあたらしい難問に遭遇する。道徳が網羅的なものであろうとすれば、「カタログ」は絶えず増補改訂されなければならない。その作業は容易ではない。しかし、「啓示」が根本にある限り、信仰が集団成員の全体に共有されている限り、「あらゆる場面を想定した行動規範についての網羅的なカタログ」を作るというアイディアは、理論的には可能だったのである。

 だから「神」が生きている時代には「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いは発せられることはなかった。十戒には、はっきりと「あなたは殺してはならない」と定めてあるし、仏教でも五戒(殺生、偸盗、邪淫、妄語、飲酒)の筆頭に殺人の禁止は挙げられている。しかし、私たちが生きている時代では、「啓示」や「戒律」をもってこの問いに答えることはほとんど説得力をもたないだろう。

 私たちの時代は「なすべきこと・なしてはならないこと」のカタログが存在しない時代である。けれども、それは倫理が不可能になったという意味ではない。神なき時代、戒律なき時代にあっても、私たちが具体的な決断の場に立ち会うたびに、そのつど善悪、正邪、理非を決せざるをえないという事実に変わりはないからだ。つまり私たちは仕事をふやしてしまったということである。

 とはいえ、網羅的なカタログがあった時代に、必ずしもすべての人間たちが道徳的ではなかったのと同じく、カタログがない時代でも、必ずしもすべての人間が野蛮であるわけではない。現代において、倫理とはかたちある規範ではなく、そのようなかたちある規範を希求する激しい欲求、あるいは「規範をつくり出さなくてはすまされない」という痛切な責務の感覚といった運動的なかたちをとって息づいている。その感覚が痛切なものであるかぎり、この「倫理なき時代」を「すぐれて倫理的な時代」へと鋳直してゆくことはつねに可能であると私たちは考える。

 私たちはさきに現代における倫理とは「決定する」の動詞形であると書いた。同じことをアルベール・カミュは次のように言い表している。

「私の興味はいかに行動すべきかを知ることにある。より厳密に言えば、神も理性も信じないときにひとはいかにして行動しうるのかを知ることにある。」(1)  

 以下の論考では、おもにヨーロッパにおける倫理の変遷をたどりながら、現代における倫理問題の緊急な主題である「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いにひとつの回答を試みたいと思う。

 

【引用出典】

(1) Albert Camus, Interview àServir,1945,in Essais, Gallimard, 1965, p.1427)

 

 

2020年

3月

13日

内田樹さんの「映画『Workers被災地に起つ』神戸・元町映画館でのアフタートーク(後編)」 ☆ あさもりのりひこ No.817

政府は東京オリンピックを「復興五輪」などと言っていますが、隠された目的は東京にすべての資源を集中させて、地方を枯渇させることです。

 

 

2020年3月2日の内田樹さんの論考「映画『Workers被災地に起つ』神戸・元町映画館でのアフタートーク(後編)」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 僕は神戸市住吉に凱風館という道場を開いています。1階が道場で、2階が自宅です。それまでは市の体育館や大学の道場を使って稽古していましたけれど、稽古しようと思えば1年36524時間いつでも利用できる場所がどうしても欲しかったので自分で作りました。主に合気道の稽古に使っていますが、その他の武道の講習会や伝統芸能の上演、映画会、シンポジウムなどにも活用しています。

 僕が凱風館を建てたのは、公共の場所として開放するためです。公共施設は使用に制約が多い。開館時間も短いし、休みも多いし、複数の団体とバッティングして取れないこともある。個人の道場であれば、僕が「いいよ」と言えば、早朝から夜遅くまで、休日でも盆や正月でも、使おうと思えばいつでも使える。私物の方が公共物よりも公共性が高いということがあり得る。だから、僕は私財を投じて公共的な空間を作ることにしたのです。

 凱風館は「貸しホール」ではありません。凱風館を使うためには条件があります。条件は一つしかありません。それは「この場に敬意を示す」ということです。

 この道場は、ここで稽古しているみんなが、それぞれ手持ちのものを差し出してできた公共の場です。ですから、利用するときはそれに対して敬意を払ってもらいたい。それはただ道場に入るときに、一礼するというだけのことです。でも、それは絶対に必要なことです。場に対する敬意、公共に対する敬意を示して欲しい。

 僕は稽古の前に門人たちと対面して「お願いします」と一礼し、稽古が終わったときには「ありがとうございました」と一礼します。これは「場」に対する礼のつもりで行っています。「これからよい稽古ができますようにお願いします」と道場にお願いし、「よい稽古ができました。ありがとうございます」と道場にお礼を申し上げている。

 野球では試合開始のときにピッチャーが帽子をとって一礼します。あれと同じです。あれはアンパイヤに「審判よろしく」と礼をしているのではなく、ボールに向かって「これからしばらくの時間、最高のボールゲームができますように」と祈願しているのです。それと同じです。

 公共を立ち上げるためには、敬意が必要です。ただ私財を投じ、私権を委譲しただけでは「コモン」はできません。プラス「場に対する敬意」がなければ公共は成立しません。

 

 21世紀の日本はこれから急激な人口減と高齢化局面を迎えます。予測では、21世紀末の日本の人口は上位推計で6450万人、中位推計で4950万人、最少では3800万人となります。今1億2700万人ですから、中位推計でも7000万人減る。

 人口減は世界中で進行しています。日本が高齢化では世界一ですが、欧米もアジアもすぐ後に続いています。韓国も少子高齢化局面に入りましたし、中国は「一人っ子政策」のせいで、このあと劇的な人口減局面に入ります。15億人でピークアウトした後に世紀末には7億人に半減すると予測されています。これほどの人口減を人類は経験したことがありません。だから、何が起こるかわからない。

 今の社会システムはすべて「右肩上がり」の経済成長を前提にしています。人口減局面を生き延びるためには選択肢は2つしかありません。

 一つは都市一極集中。今の日本の政官財が考えているのはこれです。すべての資源と人口を首都圏の狭い範囲に集める。人口が減っただけ集住する地域を狭くする。そうすれば、仮に人口が半減しても、都市の風景は今と変わりません。その代わり首都圏の外には無住の地が広がることになる。無住の地には交通や通信や上下水道のようなインフラを整備する必要がありません。行政コストは限りなく抑制できる。「人を狭いところに集める」、今政府が考えている人口減対策はそれだけです。小泉進次郎環境大臣が先日語った「もう人口減少、嘆くのやめませんか」と言うのは、具体的にはこのことです。

 シンガポールは人口560万人、面積720平方キロ。人口は日本の4%、国土は日本の0.2%しかありませんが、一人当たりGDPは世界8位で、26位の日本の1.6倍です。土地もない、自然資源もない、食糧も飲料水さえ自給できないシンガポールがこれだけ繁栄しているのは「経済成長」が国是だからです。それだけではありません。シンガポールは建国以来一党独裁で、治安維持法があって令状なしに反政府的な人物を逮捕拘禁できて、反政府メディアも労働運動も学生運動も存在しません。この国がおそらく今の政権にとっての「人口減局面でのモデル」だと思います。

 行政コスト削減のために、首都圏以外を無住の地にするというのが基本構想ですから、東日本大震災の復興が進まないのも当然です。「ねまれや」の女性に行政が告げたように、「人口が減っていく地域に、そんな施設など作ってどうするのか?」ということです。

 政府は東京オリンピックを「復興五輪」などと言っていますが、隠された目的は東京にすべての資源を集中させて、地方を枯渇させることです。政府は東北の復興に予算を使う気はないし、福島の原発の除染も本格的にやる気はありません。「どうせいずれ誰も住まなくなる土地なんだから、そんなところを『人が住めるようにする』のはまるで無駄だ」と思っているからです。

 地方の無住化・日本のシンガポール化しか政府に策はありません。たしかに人口減局面でなお経済成長しようという無理なことを実現するならシンガポールモデル以外に選択肢はないのです。でも、政府や財界は彼らが「シンガポール化」をめざしていることを決して公言しません。東北復興や福島の除染をだらだら進めているうちに、東北の人口が減ってゆく。やがて「人が減ってゆく地域に予算を投じるのは金をドブに棄てるようなにものだ」という世論が形成されるのを待っているのです。でも、今それを言ったら地方の選挙区では自民党に入れる有権者はいなくなる。あっというまに政権は倒壊する。だから、その方向に政策を着々と手を打ちながら、自分たちが何を目指しているのかについては口を噤んでいる。

 でも、もうひとつのシナリオがあります。それは「経済成長をもう目指さない」ということです。そらなら東京への資源一極集中の必要はありません。むしろ、地方に離散する。

 今、若い人たちが地方に移住して、第一次産業に就く動きが出てきました。こちらの方が生活の質を考えたら、明らかにアドバンテージがある。東京一極集中ということになると、生業の選択肢は資本を持たない若者には賃労働以外にはありません。定型的な賃労働と定型的な消費生活を強いられる。快適で文化的な生活を維持しようと思うならむしろ地方にチャンスがある。そのことを直感しているからこそ若者たちの地方移住が続いているのだと思います。

 今、僕たちは人類の文明史的転換点に来ています。僕の周りでも、若い人たちがどんどん地方移住を始めて、農業林業のような第一次産業に就いたり、本屋やカフェを営んだり、図書館を開いたり、出版社を立ち上げたり・・・いろいろな仕事を始めています。

 日本には温帯モンスーンの豊かな風土があり、植物相も動物相も多様だし、温泉やスキー場などの観光資源も豊かだし、食文化も芸能も世界的レベルですし、教育も医療も高水準です。経済成長にこだわらずに、この豊かな資源を活用する仕方に知恵を使うべきだと僕は思います。

 この映画は、林業を営む限界集落の再生という話も取り扱っています。鱒淵という中山間地に、年間2世帯ずつ人が戻ってくれば、人口は定常化するという話が出てきます。この「定常化」ということがこれから先の地方再生の基本になると思います。もう右肩上がりで人口が増えたり、右肩上がりで経済成長することはあり得ないのです。それでも定常的な経済活動を維持することはできます。

 定常経済というのは新規の需要が発生せず、買い替え需要しかない経済のことです。だから、投機的に株を買っても儲からない。それじゃ意味がないと思う人がいるかも知れませんけれども、それでも出資する人はいるはずです。その商品やサービスが安定的に供給されることそれ自体を「配当」として受け取る人たちが株を買う。自分が出資することで「必要なものが、必要な場所で、必要なときに手に入る」のならそれ以上は求めないという人たちが経済活動を動かしている限り、経済成長の必要はありません。

 

 今日本の政官財は東京一極集中プランにはっきり舵を切りました。日本の農業や林業も切捨てるつもりです。しかし、多くの国民は、故郷が無住の地になり、地方が切り捨てられるというシナリオの現実性にまだ気が付いていません。この流れに抗して、もう一度地方を住みやすい場所、住み甲斐のある場所にしてゆくことが、これからのわれわれの仕事だと思います。

2020年

3月

12日

厚底の靴 ☆ あさもりのりひこ No.816

朝守がレースに出始めた6年前は、まだ薄底の靴が主流であった。

その後、厚底の靴が主流になった。

 

エウリド・キプチョゲが厚底靴でフルマラソンの世界新記録を出した。

設楽悠太、大迫傑が厚底靴でフルマラソンの日本新記録を出した。

キプチョゲは、未公認ながら、厚底靴でフルマラソンを走って2時間を切った。

今年の箱根駅伝では、厚底靴を履いたランナーが次々と区間新記録を出していった。

 

世界陸連は、靴底の厚さを4㎝まで認めることとして、現状を容認した。

 

そのうち、靴の踵にエンジンを搭載して、靴が人間の足を運ぶようになるのではないかと妄想してしまう。

 

そういえば、こんな話しを思い出した。

ハンス・クリスチャン・アンデルセンの童話「赤い靴」である。

主人公の女の子の名前はカーレン。

カーレンは、育ててもらっている老婦人に赤い靴を買ってもらう。

カーレンは、赤い靴を大変気に入って、教会の礼拝に行くときも赤い靴を履いて行ってしまう。

あるとき、カーレンは舞踏会に赤い靴を履いて出かけるが、赤い靴は勝手に踊り出して、カーレンの意思とは関係なく、町から森へと踊り続ける。

カーレンが赤い靴を脱ごうとしても、靴は足に張り付いたように動かない。

畑を越え、野を越え、昼も夜もカーレンは踊り続ける。

カーレンは、首切り役人に頼んで、自分の足を赤い靴といっしょに切り落としてもらう。

それでも、赤い靴は、切り落とされた足をつけたまま踊りながら森の奥に消えて行ってしまう。

 

いま、流行の厚底靴は赤色ではなく桃色(最新型は緑色)である。

 

桃色(緑色)の靴を履いた足を切り落としても、桃色(緑色)の靴は切り落とされた足をつけたまま走り続けるのだろうか。

2020年

3月

11日

内田樹さんの「映画『Workers被災地に起つ』神戸・元町映画館でのアフタートーク(前編)」 ☆ あさもりのりひこ No.815 

誰かが自分の生命身体や財産や自由を公共のために差し出すことで、はじめてそこに公的秩序が生まれる

 

 

2020年3月2日の内田樹さんの論考「映画『Workers被災地に起つ』神戸・元町映画館でのアフタートーク(前編)」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

去年の10月に元町映画館で『Workers被災地に立つ』というドキュメンタリー映画のアフタートークをした。ひどい風邪をひいている時で、微熱はあるし、咳は出るし、たいへんつらいトークだった。それでも必死に話をした。

 

 古くからの友人・平川克美君に頼まれて、映画『Workers 被災地に起つ』を2回観ました。2度見ると「なるほど、こういうことだったのか」と気づくことがありました。

 平川君は、国や地方自治体に頼ったり、力ある人から支援を引き出すのではなく、「弱者を支援するのは弱者である」とよく言っています。僕も同じ意見です。「公共を支えるのは公共ではなく、私人である」。

 公共というのは、そこに自然物のようにあらかじめ存在するものではなく、私人が「身銭を切って」立ち上げる他ないものです。

 ホッブスやロックの近代市民社会論によると、未開状態においては、全員が私的利害を排他的に追求する「万人の万人に対する戦い」が展開していたということになっています。しかし、全員がわれがちに私利私欲を追求していると、私利私欲が安定的に満たされない。それよりは私権の一部、私有財産の一部を「公共」に供託して、共同管理する方が私権・私有財産の保全上はむしろ有効だということに経験的に気がついた。そうやって人々が私権・私有財産を少しずつ供託することで「公共」が立ち上がり、近代国家ができた・・・というのがホッブスやロックが考えた近代市民社会論のアイディアでした。歴史的事実として「万人の万人に対する戦い」というようなことがあったのかどうかは定かではありませんが、近代国家、近代市民社会を基礎づけるアイディアとしては、僕はこれはよくできたストーリーだと思います。

 映画『マッド・マックス』や漫画『北斗の拳』は国家や市民社会が崩壊して、法律も実効力のある司法機関もない無法の世界を描いています。そこでの主人公のミッションは、弱い人たちを守り、理非の筋目を通し、じわじわと局所的に秩序を回復させてゆくという物語です。

 ハリウッド西部劇もそうです。無法者が支配する町にヒーローがやってきて、強きを挫き弱きを助けて、その町に局所的な秩序を立ち上げる。そういう物語が繰り返し量産されたということは、人々が「そういう物語」を求めていたということだと思います。

 これらの物語が教えているのは、誰かが自分の生命身体や財産や自由を公共のために差し出すことで、はじめてそこに公的秩序が生まれるということです。私人が公共を立ち上げるのであって、どこかから出来合いの公共がやって来るわけではありません。

 でも、実際には「公共なるもの」が自分の外側に自存していると信じている人があまりに多い。そして、何か困ったことがあると「公的機関が何とかすべきだ」と口を尖らす。もちろん、公的機関はそのために存在するのですから、そう権利請求は正当なのですけれど、それと同時に自分たちが「身銭を切る」ことでまず公共は成立したという前後関係を忘れてはいけないと思います。

 よく「タックス・ペイヤーとしての自覚を持て」ということを言いますが、これを「税金を払っているんだから、払った分だけ回収する権利がある」というふうに考える人はいささか底が浅いと僕は思います。私人たちが「払った分」を全額回収したら、公共は崩壊してしまうからです。「タックスペイヤーとしての自覚」とはむしろ「公共を適切に機能させる責任は自分たちにある」という自覚を持つことだと思います。  

 私物を公共的な場に供託して、そこに「コモン(共同管理地・入会地)」を立ち上げるという場面が映画『Workers 被災地に起つ』の中にはいくつも出てきました。映画の中で被災者の一人は「生き残ったことは、天から命を与えられたこと」だと語っていました。自分の命はもう「私物」ではない、それは公共のために活用すべきものだ、と。

 わずかな手持ちの資源、命や体力、善意を公共のために差し出そうとする人たちを映画は描いています。例えば限界集落化して、存亡の瀬戸際にある山里に行って、生業を受け継ごうとしている人々。

 真面目な社会派ドキュメンタリーなのですが、実は『マッド・マックス』や『北斗の拳』と同じ物語なのだと思います。映画の冒頭に登場する「ねまれや」の女性は、多世代の居場所をつくろうとして役所に支援を頼みに行くと、「人口が減っていく地域に、そんな施設など作ってどうするのか? そんな施設に経済合理性があるのか?」と言われて、「ムカついた」と感情的になるシーンがあります。この映画の中で「怒り」を表した場面は、たぶんこれが唯一だったと思います。しかし、この「怒り」は、この映画のテーマを集約的に表現していたと思います。彼女は「何のために公共があるのか?」という根源的な問いをここで提出していたのです。

 残念ながら、多くの役人たちは「公共は初めから、盤石のものとして、そこにある」と信じています。自分たちが私権の制限や私有財産の供託によってかろうじて存立しているという自覚がない。だから、自分たちの組織や既得権益を必死になって守ろうとする。ひどい場合には、公職にある人たちが、公的権力を私的に利用し、公共の財産を私物化している。

 

 僕が問題だと思ったのは、「公」と「私」についての基本的な常識が、日本ではほとんど教えられてないことです。ごく稀に、大きな事故や天変地異に遭遇したときに、人々は「公共」とは何かについて改めて考えさせられるけれど、ふだんはまず考えません。「ねまれや」の女性は公共は誰かに頼って、作ってもらうものではなく、身銭を切って、自分で立ち上げるしかないものだと自覚して、手持ちのものを差し出して、「小さな公共」を創り出しました。この映画では、すべてのエピソードが「小さな公共」を手作りした話です。

2020年

3月

10日

コロナに振り回される毎日@事務局より

皆さんこんにちは。今日は事務局担当日です。

今日は朝からあいにくの雨模様です☂

 

連日のコロナ報道ですが,奈良や大阪府内でも感染者が増えてきましたね・・・(-_-;)

 

昨夜のニュースでは,コロナはインフルエンザのように暖かくなると消える

ウイルスではないため,収束にはまだまだ数ヶ月から半年以上かかるかも

しれないとのこと。

 

世界中でワクチンなどの開発を急いでいますが,

いつまでこの状態が続くんでしょうか・・・(+_+)

 

 

先週のトイレットペーパー騒ぎは,我が家でも大騒動でした。

 

昔オイルショックを経験した祖母が,ニュースを見るなり

トイレットペーパーとティッシュをとにかく買ってきてと大慌て。

 

家に1~2週間程度の備蓄はあったものの,近所の薬局がどこも売り切れ

状態なのを見て,母も一時は焦ったそうです(^_^;)

 

結局はデマでしたが,この機会に備蓄しておくべきものや量を,

今一度見直した方がいいかもしれませんね。

 

 

 

 

なんとなく不安で閉塞感いっぱいなこんな時だからこそ

娯楽も大事だと思うのですが,

 

LIVEなどのイベントは中止。

映画館やカラオケボックスなど閉鎖空間もダメ。

これから花見シーズンですが,なんとなく花見も自粛ムード。

 

 

・・。

 

・・・。

 

 

これでは,子どもだけでなく,ストレス溜まる~~~~!!

 

 

正月から行こう行こうとずっと思っていたスターウォーズも,

冷えなどのせいか最近また腰痛が悪化し,

映画館で長時間座っていられるか悩んでいるうちに,

公開終了しちゃいました。。。

 

4月29日の発売まで大人しく待つか,ディズニーの動画サービス

(有料)に加入して4月8日からの期間限定先行配信を見るか

・・・目下悩み中です(-_-;)

 

2020年

3月

09日

内田樹さんの「コロナウィルスと社会的共通資本」 ☆ あさもりのりひこ No.814

政治家や官僚や財界人ではなく、まず専門家がハンドルすべき重大事案がこの世には存在する。そのことについての合意が日本社会には存在しない。

 

 

2020年2月29日の内田樹さんの論考「コロナウィルスと社会的共通資本」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

先週の『信濃毎日』に寄稿したもの。それよりさらに数日前に書いたものなので、その点を勘案してお読みください。 

 

 コロナウィルスの感染はこの原稿が掲載される日(注:2月25日)にどうなっているか予測がつかない。たぶん事態は今以上に危機的になっているだろう。それにしても、今回の事件に日本社会の本質的な脆弱性が露呈されたと思っている人は少なくないだろう。

 私が日本社会の弱さと思うのは「社会的共通資本」という概念が定着していないことである。

 社会的共通資本とは人間が集団として生きるためにそれなしでは生きてゆけないもののことである。海洋・森林・河川といった自然環境、上下水道・交通網・通信網・電力などの社会的インフラ、そして行政・司法・教育・医療などの制度資本がこれに当たる。これらの制度設計・管理運営は専門家が専門的知見に基づいて、理性的かつ非情緒的に行うべきものであって、政治と市場はこれに関与してはならないとされる。

 別に政治イデオロギーはつねに有害であるとか、金儲けは悪であるとか言っているわけではない。政治と市場は複雑系だという話である。

 複雑系ではわずかな入力の変化が巨大な出力変化をもたらす。政治と市場に人々が熱狂するのは、予測もしなかった急激な変化が連続的に起こるからである。変化が好きな人間には深い愉悦をもたらす。

 だが、社会的共通資本においては、わずかな入力の変化でめまぐるしく変化することよりも、定常的であることが最優先される。政権交代したら水道が出なくなったとか、株価が下がったので学校や病院が閉じたというようなことがあっては困る。

 医療という制度資本にかかわる感染症対策では、専門家が専門的知見に基づいて管理すべき事案であって、ここに内閣支持率や株価が関与することは許されない。

 ということをどれだけの人が自覚しているだろうか。

 今回のコロナウィルスの政府の対策会議は1月30日の第一回から2月14日の第九回まで一人の感染症専門家もなしで開かれていた。会議時間は10分から15分。ここで感染症対策についてのテクニカルな議論が深められたと信じる人はいないだろう。

 

 政治家や官僚や財界人ではなく、まず専門家がハンドルすべき重大事案がこの世には存在する。そのことについての合意が日本社会には存在しない。

2020年

3月

06日

内田樹さんの「大切な作業」 ☆ あさもりのりひこ No.813 

武道というのは「超越的なもの」を受け入れて、心身を調えて、それを発動させる術であるから、道場もどこか「浮世離れ」した場でなければならない。

 

 

2020年2月27日の内田樹さんの論考「大切な作業」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

ある媒体に「たいせつな作業」というタイトルでの寄稿を頼まれたので、「朝のおつとめ」のことを書いた。

 

9年前に神戸に自宅兼道場を建てた。二階に住んでいて、階段を降りると、そこが道場である。究極の職住近接を達成したと思って喜んでいたのだが、「家の中に道場がある」というのは、ただ、道場が空間的に近いということとは別のことだということにしばらくして気がついた。

 朝起きて、道場の扉を開くと、「鎮まった場」がそこにある。「鎮まった」というのはノイズがないということである。物理的なノイズに限らず、心を乱すようなノイズがない。そこだけ他と違う。武道というのは「超越的なもの」を受け入れて、心身を調えて、それを発動させる術であるから、道場もどこか「浮世離れ」した場でなければならない。だから、道場を作るときには神棚を勧請し、合気道開祖植芝盛平先生の写真を正面に飾り、二代道主吉祥丸先生が揮毫された「合気」の扁額と、私の師匠である多田宏先生の「風雲自在」の書を道場に掲げた。すると「場が調う」というのがどういう感じなのか、身にしみて分かる。

 道場ができてしばらくは朝起きて道場に行って、神棚に一礼するだけだったが、なんとなくもっと「儀礼的なこと」がしたくなって、「お勤め」をするようになった。

 きっかけは羽黒山の山伏の宿坊に泊めてもらったときである。朝のお勤めを宿泊者みんなでする。修験道は神仏習合なので、祝詞と般若心経を唱えるのである。この「神仏共生」の儀礼がすとんと腑に落ちた。なるほど、これが日本人の宗教性なのかと思った。

 それで、家に戻ってから、祝詞と般若心経を道場で唱える「お勤め」を始めた。

 祝詞のときは拍子木を打ち、お経の時は錫杖を振る。拍子木の打ち方は禊祓いの行の時に教わった。錫杖の振り方は滝行の時に行者の方に教わった。

 

 朝稽古のある日は5時半に道場に降りる。冬だとまだ空には星が出ている。道場に端座して、一人朗々と祝詞と般若心経を唱えると、なんだか今日やらなければいけない仕事の半分くらいを終えた気になる。