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2019年

11月

15日

内田樹さんの「サンデー毎日「嫌韓言説について」(後編)」 ☆ あさもりのりひこ No.761

「フランスにおける反ユダヤ主義」は私の研究テーマの一つだったが、研究を通じて骨身にしみた教訓は「発言の責任を取る人間がどこにも存在しない妄想やデマでも、強い現実変成力を持つことができる」という歴史的事実であった。だから、私は空語や妄想を軽んじない。

 

 

2019年9月24日の内田樹さんの論考「サンデー毎日「嫌韓言説について」(後編)」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

「書くなら覚悟をもって書け」という私の考えに同意してくれる人は残念ながら出版界には少ないと思う。おおかたの出版人は鼻先で笑うことだろう。

「何を青臭いことを言ってるんですか。そういう記事を読みたいという読者がいるから、記事を書いてるだけですよ。ただの需要と供給の話です。出版人の矜持だ覚悟だって、内田さん、なんか出版に幻想持ってませんか?」と、たぶんそう言われるだろう。

 数年前にある週刊誌が党派的にかなり偏った政治記事を掲げたことがあった。その週刊誌からインタビューを申し込まれたので、「あんな記事を書く週刊誌とは仕事をしない」と断ったら、苦笑いされた。「あんなこと、われわれが本気で書いてると思ってるんですか? ああいうことを書くと売れるから、『心にもないこと』を書いているんです」と「大人の事情」を説明してくれた。それを聴いて、私はさらに怒りが募った。

 これらの記事は、「これは私の言いたいことです」と固有名において誓言する書き手が存在しない文章である。誰もその「文責」を引き受ける人がいない言葉が印刷され、何十万もの読者がそれを読む。そして、「そういう考え方」が広く流通する。

「フランスにおける反ユダヤ主義」は私の研究テーマの一つだったが、研究を通じて骨身にしみた教訓は「発言の責任を取る人間がどこにも存在しない妄想やデマでも、強い現実変成力を持つことができる」という歴史的事実であった。だから、私は空語や妄想を軽んじない。

 けれども、私に「裏の事情」を話してくれたフレンドリーな編集者は自分たちが流布している「空語」の現実的な影響力については特に何も考えていないようであった。適当に書き飛ばした「空語」を読んで、それを現実だと「誤解」するのは読解力の足りない読者の責任であって、書いた側には責任がないと思っていたらしい。

 厄介な話だが、このような考え方にも実は一定の理論的根拠はある。「あらゆるテクストは多様な解釈に開かれており、テクストを一意的に解釈する権利は誰にも(書き手自身にも)ない」というのはロラン・バルト以来のテクスト理論の中核的なテーゼだったからである。

 今回の『週刊ポスト』も、謝罪していたのは、「誤解を広め」かねないことについてであり、「間違ったことを書いた」ことについてではない。「テクストの最終的な意味を確定するのは読者たちであり、筆者ではない」というポストモダンの尖ったテクスト理論はここでは書き手の責任を空洞化するために功利的に活用されていたのである。学知というのは、こういうふうに劣化するものだということを私は知った。

 

 どれほど「ジャンク」な商品でも、それを「欲しい」という消費者がいる限り、その流通を妨害してはならないというのは市場経済の基本ルールの一つである。アメリカには「学位工場(degree mill)」というものがある。貸しビルのオフィスに電話とパソコンがあるだけの、実体のない「大学」だが、金を払えば、学位記を発行してくれる。学問的には無価値な学位だが、それでも「欲しい」という人がいる。だから商売になる。アメリカにはこれを禁じる法律がない。売り手も買い手もそれが「ジャンクな商品」だということをわきまえた上で売り買いしているのである。「大人の商売」である。だから、市場原理に従えば、空語や妄想を読みたいという人がいる限り、妄想や空語を売ることも適法だということになる。

 私はこういう「原理主義的」な考え方を好まない。たとえ理屈ではそうでも、いくらなんでも非常識だと思う。もちろん、「それは非常識だ」と私が言っても、「お前の言う『常識』とはいつ公認されて、どの地域において『常識』なんだ? どれだけの一般性があるんだ?」と切り立てられると絶句する他ない。しかし、私はここで絶句するということが「常識の手柄」だと思っている。常識に基づいて革命を起こしたり、テロをしたり、人を収容所に監禁したりすることはできない。「そんなの非常識」だからである。

 常識は強制力を持たない、弱い知見である。控えめな抑止効果はあるが、それ以上の力を持たない。けれども、そういう言葉がいまのメディアには一番足りないのではないか。

 

 こういう問題が起きると「表現の自由を侵すな」という原理主義的な反論を語る人がいる(今回もぞろぞろ出て来た)。だが、「ヘイトも、差別も、犯罪教唆も、言論の自由」だというようなことを言う方々は別に「表現の自由」が譲れない基本的人権だと思ってそう言っているわけではない。そのことは肝に銘じておいた方がいい。

「表現の自由」という言葉は一つだけれど、それを「手段」として功利的に使う人たちと「目的」として掲げている人たちでは、同じ言葉でも奥行きや広がりが違う。

「表現の自由」を口にする人たちが「表現の自由があらゆる領域で保障されるような社会を構築するため」にその原理を掲げるなら、私はそれを支持する。いまここにおける「限定的な表現の自由」の行使が、未来の「より包括的な表現の自由」の実現をめざすものであるなら、私はそれを支持する。

 だが、自分たちの政治的信念を宣布する上で便宜的に「表現の自由」論を口にする人については、彼らに「表現の自由」を認めることを私は留保する。もし彼らがその言論を通じて実現をめざしているのが、異物を排除し、多様性を認めず、単一のイデオロギーで統制された「純血主義」的社会であるなら、私は彼らが「表現の自由」を口にするのはそもそも「ことの筋目が通らない」と思うからである。

 もちろん私は一介の私人であるから、法律や暴力を以て彼らを黙らせることはできない。私にできるのは「この人たちの言うことに耳を貸してはいけない」とぼそぼそ言うだけである。

 

 いま日本のメディアには非常識な言説が瀰漫している。だが、これを止めさせる合法的な根拠はいまのところない。たとえ法律を作っても、その網の目をくぐりぬけて、非常識な言説はこれからも流布し続けるだろう。私たちにできるのは「それはいくらなんでも非常識ではないか」とか「それではことの筋目が通るまい」というような生活者の常識によって空論や妄想の暴走を抑止することだけである。そのような常識が通じる範囲を少しずつ押し広げることだけである。

2019年

11月

14日

10月のデータについて ☆ あさもりのりひこ No.760

今年の10月の各種データが出た。

 

まず、奈良県橿原市の環境放射線量(ガンマ線)。

1か月間の平均値はつぎのとおり。

室内1メートル 0.042μ㏜/h

室内0メートル 0.043μ㏜/h

室外1メートル 0.058μ㏜/h

室外0メートル 0.070μ㏜/h

 

ちなみに2018年10月のデータはつぎのとおり。

室内1メートル 0.043μ㏜/h

室内0メートル 0.044μ㏜/h

室外1メートル 0.056μ㏜/h

室外0メートル 0.066μ㏜/h

 

地表の値が、また0.07μ㏜/hを超えた。

 

 

つぎに、朝守の身体について。

体組成計の10月末のデータを去年と比べてみる。

体重 72.25㎏→69.5㎏

BMI 22.8→21.

体脂肪率 16.8%→14.5%

筋肉量 57㎏→56.35㎏

  推定骨量 3.1㎏→3.1㎏

  内臓脂肪レベル 11.5→10

  基礎代謝量 1646/日→1620/

  体内年齢 43才→44才

  体水分率 57.9%→60%

 

体重と体脂肪率と内臓脂肪レベルが減って、体水分率が増えているのはいい傾向である。

筋肉量が減っているのは、ちと残念。

 

 

最後に、1か月間のランニングのデータ。

走行時間 20時間13分03秒

走行距離 183.9㎞

 

去年の10月のデータは

走行時間 14時間55分43秒

走行距離 112.7㎞

 

時間は約5時間17分、距離は約71㎞増えている。

これからは、月間走行距離200㎞を目指す。

 

 

奈良マラソン2019まで、あと3週間である。

2019年

11月

13日

内田樹さんの「サンデー毎日「嫌韓言説について」(前編)」 ☆ あさもりのりひこ No.759

なぜ彼らはこうも簡単に謝罪するのか? 理由は簡単である。別にそれらの言葉は彼らが「職を賭してでも言いたいこと」ではなかったからである。

 

 

2019年9月24日の内田樹さんの論考「サンデー毎日「嫌韓言説について」(前編)」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

嫌韓言説について『サンデー毎日』に寄稿した。言いたいことはだいたい前にブログの『週刊ポスト問題について』で書いた。紙数を多めにもらったので、そこでは書ききれなかったことを書き足した。だから、最初の方はほぼブログ記事のままである。二重投稿するなというご意見もあると思うが、ブログに書いたものは「原稿」ではないのだからその辺はご勘弁願いたい。

 

『週刊ポスト』9月13日号が「『嫌韓』ではなく『断韓』だ 厄介な隣人にサヨウナラ 韓国なんて要らない」という挑発的なタイトルの下に韓国批判記事を掲載した。新聞広告が出るとすぐに批判の声が上がった。同誌にリレーコラム連載中の作家の深沢潮さんはご両親が在日韓国人だが、執筆拒否を宣言した。続いて、韓国籍である作家の柳美里さんも「日本で暮らす韓国・朝鮮籍の子どもたち、日本国籍を有しているが朝鮮半島にルーツを持つ人たちが、この新聞広告を目にして何を感じるか、想像してみなかったのだろうか?」と批判した。私もお二人に続いて「僕は今後小学館の仕事はしないことにしました」とツイッターに投稿した。

 本音を言うと、そんなこと書いてもほとんど無意味だろうと思っていた。『週刊ポスト』編集部にしてみれば、はじめから「炎上上等」で広告を打ったはずだからである。炎上すれば、話題になって部数が伸びる。ネットでの批判も最初のうちは「広告のうちだ」と編集部では手を叩いていたことだろう。

 所詮は「蟷螂の斧」である。私ごとき三文文士が「小学館とは仕事をしない」と言っても、先方は痛くも痒くもない。もう10年以上小学館の仕事はしていないし、今もしていない。これからする予定もない。そんな物書き風情が「もう仕事をしない」と言ってみせても、小学館の売り上げには何の影響もあるまい。

 ところが、意外なことに、その後、版元の小学館から謝罪文が出された。

「多くのご意見、ご批判」を受けたことを踏まえて、一部の記事が「誤解を広めかねず、配慮に欠けて」いたことを「お詫び」し、「真摯に受け止めて参ります」とあっさり兜を脱いだのである。

 取材の電話がそれからうるさく鳴り出した。どこにもだいたい同じことを述べた。今回は多めの紙数を頂いたので、私見をもう少し詳しく語りたいと思う。

 

 私が『週刊ポスト』編集部にまず申し上げたいのは「あなたがたには出版人としての矜持はないのか?」ということである。

 以前『新潮45』の騒ぎの時にも同じことを書いた。あえて世間の良識に反するような「政治的に正しくない」発言をなす時には、それなりの覚悟を以て臨むべきと私は思う。人を怒らせ、傷つける可能性のある文章を書くときは、それを読んで怒り、傷ついた人たちからの憎しみや恨みは執筆したもの、出版したものが引き受けるしかない。それが物書きとしての「筋の通し方」だと思う。その覚悟がないのならはじめから「そういうこと」は書かない方がいい。

『新潮45』のときには、社長名で「あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現が見受けられ」という指摘がなされたが、これに対して編集長は一言の反論もしなかった。それはおかしいだろう。仮にも編集長が自分の責任で公にした文章である。ならば、自分自身のプロとしての誇りと彼が寄稿依頼した書き手たちの名誉を守るためにも、編集長は辞表を懐にして、記者会見を開き、「新潮社の偏見と認識不足と戦う」と宣言すべきだったと私は思う。でも、彼はそうしなかった。編集部の誰もそうしなかった。黙したまま休刊を受け入れた。

 済んだことを掘り起こして、傷口に塩を擦り込むようなことはしたくないが、それでもこれが出版人としての矜持を欠いた態度だったということは何度でも言っておかなければならない。それなりに現場の経験を積んできたはずの編集者たちが示したこのモラルハザードに私は今の日本のメディアの著しい劣化の徴候を見る。

 

 なぜ彼らはこうも簡単に謝罪するのか? 理由は簡単である。別にそれらの言葉は彼らが「職を賭してでも言いたいこと」ではなかったからである。

 たとえどれほど人を怒らせようとも、泣かせようとも、傷つけようとも、これだけは言っておかなければならない、ここで黙っていては「ことの筋目が通らない」とほんとうに思っているのなら、人は職を賭しても語る。でも、今回の記事はそういうものではなかった。炎上することを予期しておきながら、その規模が想定外に広がると、あわてて謝罪した。ということは、これらの記事は編集者たちが「職を賭しても言いたいこと」ではなかったということである。

 私が「あなたがたには出版人としての矜持はないのか?」という強い言葉を使ったのは、それゆえである。「職を賭してでも言いたいわけではないこと」を言うために、この週刊誌は多くの人を恐れさせ、不快にし、社会の分断に掉さし、隣国との外交関係を傷つけることを気にしなかった。「ぜひ言いたいというわけでもないこと」をあえて口にして、人の気持ちを踏みにじった。

 

 彼らがほんとうに韓国と断交することが国益にかなうと信じているなら、謝ることはない。これからもずっと「断交しろ」と言い続ければいい。日本国内にいる49万8千人の在日コリアンを「この国に自分たちの居場所はないのではないか」という不安に陥れることが日本社会をより良きものにするために必須の措置だと信じているなら、謝ることはない。これからも「日本から出ていけ」と言い続ければいい。でも、『週刊ポスト』は謝罪した。もちろん、本気の謝罪ではないことはわかっている。来週からもまた少し遠回しな言い方で同じような記事を書き続けるだろう。だが、それなら今回も謝るべきではない。編集長は堂々と記者会見をして、「社名に泥を塗っても、職を失っても、これだけは言っておきたいから言ったのだ」と広言すればいい。拍手喝采してくれる人もきっといただろう。だが、彼らはその支援を待つことなく、尻尾を巻いた。

2019年

11月

12日

リングフィットアドベンチャー

みなさん、こんにちわ。

本日は事務局担当日です。

 

食欲の秋(まずはこれから)

読書の秋

スポーツの秋(観るだけ観るだけ)

 

ということで。

私が最近はまっているもの

それは

 

リングフィットアドベンチャー

 

ご存じですか?

「冒険しながらフィットネス」というキャッチコピーで発売されている、

任天堂 Switchのゲームです。

新垣結衣さんのCMを観て、楽しそう~と手を出してみました。

 

はい、そこ!

どんなに頑張ってもガッキーにはなれへんで~とか言わない!

 

リングフィットアドベンチャーは、

輪っか状のリングコンというコントローラーを押したり引っ張ったりしながら、左太ももにはレッグバンドを装着し、

フィットネスをする・・・というだけのゲームです。

 

CMでは、ガッキーがゆる~い感じで

ゲームをプレイしています。

 

ゲームのメインとなるのは

「カラダで戦うアドベンチャー」モードで、悪いドラゴンをやっつけるためにステージをクリアしていくのですが、

攻撃方法がフィットネス、という・・・。

 

コースを進むためには、実際にその場でジョギングする必要があります。

落ちているアイテムを拾うためには、リングコンをグイグイひっぱる必要があります。

しまっているドアを開いたり、落ちている木箱を壊すためにはリングコンを押し込みます。

沼地を進むときには、足を大きく上げる必要があります。

逆走するベルトの上は、猛ダッシュでないと進めません。

 

そして、冒険の醍醐味、モンスターとのバトルは

もも上げ上げ、だの、英雄のポーズ(ヨガ)だの、スクワットだの、つまりが攻撃はフィットネス。

ステージをクリアすればするほど、モンスターも強力になり、

フィットネス回数は増えます。

 

 

これだけだと、もうやだ・・・となるのですが、

旅の相棒が、すっっっごくいい感じでいつも褒めてくれるのです(・∀・)

「筋肉が輝いているよ」

「キレッキレだね!」

「あと2回!」

気がついたらのせられちゃって、ステージをクリアしています。

バトルをすればプレーヤーも強くなっていって、新しいフィットネス技を覚えていくので、これがまた快感♪

ステージクリア後にはコントローラーで脈拍も測れ、

「最適」だとか「脂肪燃焼には負荷をあげましょう」だとかアドバイスがあります。

 

ステージを二つほどクリアした絶妙なタイミングで

「今日はここまでにしますか?」と聞いてくれるのも、いい感じです。

アドベンチャーを始めて10日。

1日目は、最初のストレッチですらなかなかハードでした。

CMのガッキーのようなさわやかさにはほど遠い・・・。

 

10日の間に1日だけ、バタバタしていていて

アドベンチャーできない日がありました。

 

次の日、肩こりがひどくて、体を動かすことの大切さを痛感しました。

なので、一つのステージは10分程度なので、毎日最低1ステージはプレイしています。

消費カロリーや運動時間も表示されますし、

ゲーム開始からのジョギング走行距離も出るので、モチベーションもあがります(^^)

 

 

目指せガッキー!(・・・。まぁ、頑張れ)

2019年

11月

11日

内田樹さんの「内閣についての韓国紙からのインタビュー」 ☆ あさもりのりひこ No.758

 アメリカに「属国の代官」として信認されることによって日本の為政者はその地位を保全されてきました。情けない話だけれど、それが現実です。日本国益よりもアメリカ国益を優先的に配慮する政治家がアメリカにとって「最も望ましい日本の統治者」であることは誰にでもわかります。

 

 

2019年9月17日の内田樹さんの論考「内閣についての韓国紙からのインタビュー」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

内閣改造のあと、韓国TBS放送局のキム記者から書面でのインタビューがあった。

小泉進次郎について韓国メディアも注目していることが伺える。

 

最近、日本の日経新聞の世論調査によると、11日に行われた内閣改造と党人事について、日本内では肯定的に見る世論が優勢でした。先生は新しい内閣をどのように評価しますか?

 

「滞貨一掃内閣」「お友達内閣」などと野党は評していますが、私はそれ以上に問題なのは、党内に80人いる「大臣待機組」を、首相に対する忠誠度だけによって格付けして、採否の基準にした点だと思っています。

 あきらかに能力に問題がある政治家や、スキャンダルで政治生命を失いかけた政治家をわざわざ選んで登用しているのは、そのルールを周知させるためです。政治家として「食って」ゆきたければ、ボスに対して徹底的なイエスマンであればよい。他には何も求めないという官邸のルールを誇示してみせた。

 このルールが適用されるのは政治家だけではありません。今の日本では、官僚も、ジャーナリストも、学者も、芸能人さえも、その個人的な能力ではなく、首相に対する忠誠心によって格付けされています。私は個人的にこれを「安倍マイレージシステム」と呼んでいます。

 現在の政権は「忠誠心の査定」がきわめて迅速かつ正確です。「首相に逆らったけれど出世できた」とか「首相におもねったけれど『いいこと』がなかった」というような「バグ」がほとんど起こらない。その点ではすばらしく効率的に作動しているシステムだと思います。

 

次期首相に適した人物としては小泉進次郎が挙げられています。なぜ小泉さんが人気があると思いますか? 私はまだ彼の能力が発揮された分野がないと思います。

 

 個人的にお会いした人たちは口を揃えて「たいへん感じのよい人物」だと言います。僕も二度お会いしたことがありますが、たいへん感じのよい人物でした。おそらくその場において向かい合っている人との親密性を維持することを対人関係の基本的なマナーとしているのだろうと思います。

 かたくなに自説を曲げないとか、人の話の腰を折るとか、異論を完膚なきまでに論破する・・・とかいうことを決してしないタイプの政治家です。こういう「場の親密性を優先し、もめごとを嫌い、誰の意見に対してもにこやかに応接する」というのは、実は日本の古い村落共同体における大人のふるまいに通じています。

 この一種の「先祖返り」的な美質ゆえに、小泉進次郎に対して日本の有権者たちは「若いのに、人間ができている」とか「話を聞いていると、なんだかほっとする」という漠然とした印象を抱いているのではないかと思います。

 彼には「政治生命をかけても実現したい」という政策は特にないと思います。それよりは集団内部の対立をおさめ、合意形成のためのおだやかな口調での対話の場を立ち上げるという「技術」の洗練にこれまで政治家としての自己陶冶努力を集中させてきた。

 これからの日本は先が見通せません。あらゆる指標は日本の国力の劇的な劣化を示しています。どうしたら日本は救われるのか、誰も正解を知りません。こういうときには「自分への忠誠心で他人を格付けする政治家」と「場の親密性を重視する政治家」のどちらを選ぶか訊かれたら、私は後者の方が好ましいと思います。

 

小泉進次郎は小泉元首相と比較したときにどんな人だと思いますか。

 

 父小泉純一郎元首相は周りの意見にあまり耳を貸さず、自分の政策(しばしばきわめて非現実的と思われたもの)をたからかに宣言し、そのうちのいくつかを実現してみせました。しかし、小泉進次郎はそういう「宣言型」政治家ではなさそうです。

 村落共同体の合意形成は、難問について全員が賛同してくれるような解を誰も思いつかず、時間をかけてぐずぐずしているうちに、いろいろな変数が消えて、「もう、これ以外に選択肢はない」というところに落ち着いて、全員がひとしく諦め顔で話が終わる・・・というものです。小泉進次郎はたぶんこの「もうこれしか解がない」というあきらめ顔に全員がなるまで待って、それを見切って「とまあ、そういうことでよろしいですね」とまとめる人をめざしていると思います。

 CEOがすべて決定して、下はそのアジェンダに従うしかない・・・という株式会社型の組織に慣れ切った現代日本人からすると、「従業員や取締役や株主や消費者の顔色をじっと観察することを主務として、なかなか経営方針を決めないCEO」というのはある種「新鮮」に映るのかも知れません。違うかも知れないけど。

 

福島は、小泉環境相が一番最初に訪ねた場所です。彼を環境相に任命したのは東京オリンピックを勘案した措置と見ますか。しかし彼は脱原発を示唆しました。

 

 原発問題は政権にとって「アキレス腱」です。原発問題を解決する「正解」も「秘策」も存在しないからです。この問題は誰が担当しても泥をかぶるだけです。安倍政権は、この問題を棚上げ、先送りして、五輪が終わるまでは、できるだけ話題にならないことを願っています。

 小泉進次郎の選任もその文脈の中でのことだと思います。

 彼はおそらく原発にかかわる難問に遭遇するたびに、顔を暗くして、「難しい問題です」とつぶやくだけで、特段の解は示さないでしょう。そして、時間が経って、変数が減って、「もうこれしか選択肢がない」と見切れるまで政策的なイニシアティヴは発揮しないだろうと思います。

 

安倍首相は任期内に改憲を約束しています。戦後世代が改憲問題に積極的な理由は何だと思いますか。改憲が意味するところは何だと思いますか。

 

 安倍首相の改憲へのこだわりにはいくつもの理由があります。戦後日本の憲法論争と対米関係の全体を俯瞰しないと説明は尽くせませんので、申し訳ないですけれど、私の他の書物をご参照の上、そちらでまとめてください。憲法についての講演録を添付しましたので、そちらもご参照ください。

 と書いて送ってから、ちょっと不親切だったなと思った。

 話が尻切れトンボになったので、一応最後まで答えてみる。

  

 韓国のメディアから何度かインタビューを受けたましたが、アメリカから押し付けられた憲法を廃棄しようとすることと、アメリカに徹底的に従属することがどうして整合するのか、なかなかわからないようです。たしかに説明が難しい。わかりやすくご説明します。

「対米従属を通じての対米自立」というのは戦後自民党政治の基本戦略でした。この場合、「手段としての対米従属」「目的としての対米自立」は経時的に配列されているので不整合は生じません(「面従腹背」という熟語で言い表すことができました)。

 しかし、今の安倍政権では、対米従属そのものが自己目的化しており、対米自立は目的から降ろされました。ですから、安倍「改憲」は「アメリカから押し付けられた憲法から自主制定憲法へ」を意味しません。安倍政権がめざしているは「さらなる対米従属を国民の反対を押し切っても滞りなく実行できるように全権を官邸に集中させる」という日本の脱民主化です。

 対米従属システムを永遠化させるための手段としての改憲です。

 アメリカに「属国の代官」として信認されることによって日本の為政者はその地位を保全されてきました。情けない話だけれど、それが現実です。日本国益よりもアメリカ国益を優先的に配慮する政治家がアメリカにとって「最も望ましい日本の統治者」であることは誰にでもわかります。

 

 問題は、日本国民自身が「アメリカに属国の代官として信認されることが、日本国の総理大臣として最も重要な条件である」と信じていることです。属国民マインドがそこまで深く内面化してしまったのです。日本の対米自立、国家主権の回復は果てしなく遠い課題となっています。私が生きている間には実現することはないでしょう。

2019年

11月

08日

内田樹さんの「「週刊ポスト」問題について(後編)」 ☆ あさもりのりひこ No.757

「今ここでは何をしても誰にも咎められることがない」とわかった時に、人がどれほど利己的になるか、どれほど残酷になれるか、どれほど卑劣になれるか、私は経験的に知っている。そして、そういう局面でどうふるまったかを忘れない。それがその人間の「正味」の人間性だからである。

 

 

2019年9月5日の内田樹さんの論考「「週刊ポスト」問題について(後編)」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 これが第一に言いたいことである。第二に言いたいことは、実はもっと深刻である。

 それは「職を辞してまで言いたいこと」ではないにもかかわらず、そういう言葉が小学館のような老舗で、良識ある出版社の出版物で「ぺろっと」口から出てしまったということである。

 世の中には「職を賭しても言いたいこと」とは別に、「職を賭してまで言いたいわけではないが、職を賭さないで済むなら言ってみたいこと」というのがある。

 うっかり人前で口にすると品性知性を疑われるリスクがあるので、ふだんは呑み込んでおくびにも出さないのだが、「言っても平気だよ」という保証が与えられたら、言ってみたい。そういう言葉である。

 私は今の嫌韓言説は「それ」だと思っている。

 韓国政府と韓国国民については、いまどれほど非常識で、下品で、攻撃的なことを言っても「処罰されない」という楽観が広く日本社会に拡がっている。現に、周りをきょろきょろ見回してみたら、「ずいぶんひどいこと」を言ったり、書いたりしている人たちがいるけれど、別に処罰もされていないし、仕事も失っていないし、社会的威信に傷がついたようにも見えない。なんだ、そうか。いまはやってもいいんだ・・・そう思った人たちが「職を賭してまで言いたいというほどのことではないが、職を賭さないで済むなら、ちょっと言ってみたいこと」をぺらぺら語り出したのである。それが現在の嫌韓言説の実相であると私は思っている。

 

 日本人がこれほど集団的に卑劣にふるまうようになった責任はもちろん一義的には政府にある。

 政権末期に政治的浮揚力を得るために隣国に喧嘩を売ってみせるというのは凡庸な為政者が歴史上繰り返しやってきたことである(李明博も政権末期に竹島に上陸するパフォーマンスで支持率を回復したことがある)。外交上の悪手でありながら、そういう挑発が繰り返されたのは、有効だということが知られていたからである。

 隣国に喧嘩を売るというのは、長いスパンで考えると有害無益のふるまいだが、短期的に見ると政権支持率が一時的に回復する。だから、たとえ国益を損なっても、政治的延命を図りたい政治家がそうするのは冷徹なマキャヴェリズムの論理的帰結である。そこには一抹の論理性がないではない。

 だが、その尻馬に乗ってぺらぺら語り出される嫌韓言説には、そのような論理性がない。

 その非論理性が私にはむしろ恐ろしいのである。

 

 メディアが嫌韓に唱和する最大の理由は「売れる」とか「数字がとれる」ということだという説明がなされる。現に、嫌韓本や嫌韓雑誌の作り手たちに個人的に訊いてみると、ほぼ例外なく「こんな本、ほんとうは作りたくないんです。でも、売れるからしかたないんです」という言い訳を聞かされる。

「金が欲しいので、ほんとうはそう思っていないことを書く。金が要るので、ほんとうは支持していない政治的主張を本にする」というのは矛盾しているようだが、実は合理的な言明である。「金がすべてに優先する」というのはひとつの原則的立場だからである。「すべては金だ」で人生を首尾一貫させているなら、それはそれで整合的な生き方だと言えるだろう。

 だから、彼らは「ほんとうはイヤなんです」と言うことを通じて、「自分のふるまいには論理的整合性がある」と主張しているのである。たしかに、そういう要素もあるのかも知れない。そういうふうに「シニカル」にふるまっていると、ちょっと賢そうに見えると思っているのかも知れない。

 けれども、嫌韓言説をドライブしているのは、それほど「シニカル」で計算高い思考ではない。

 もっと、見苦しく、薄汚い心性である。

 彼らが嫌韓という看板を借りて口にしているのは、先ほど言った通り、「職を賭してまで言いたいというほどのことではないが、職を賭さないで済むなら、ちょっと言ってみたいこと」である。ふつうなら「非常識」で「下劣」で「見苦しい」とされるふるまいが、どうも今の言論環境では政府からもメディアからも司法からも公認されているらしい。だったら、この機会に自分にもそれを許してみよう。

 周りを見回したら、どれほど下品で攻撃的になっても、それが隣国への非難であったり、それを咎める「良識ある人たち」への罵倒であったりする限り、まったく検閲スルーであるように見える。だからこそ、彼らは抑圧された攻撃性と下品さを解発することにしたのである。「処罰されない」と思ったので精一杯下品で攻撃的になってみせたのである。

 だから、「処罰」がちらついた瞬間に、蜘蛛の子を散らすように消えてゆく。「処罰されないなら公言してみたいが、処罰されるくらいなら言わないで我慢する」ということである。

 だが、彼らが忘れていることがある。それは、人間の本性は「処罰されない」ことが保証されている環境でどうふるまうかによって可視化されるということである。

「今ここでは何をしても誰にも咎められることがない」とわかった時に、人がどれほど利己的になるか、どれほど残酷になれるか、どれほど卑劣になれるか、私は経験的に知っている。そして、そういう局面でどうふるまったかを忘れない。それがその人間の「正味」の人間性だからである。

 平時では穏やかで、ほとんど卑屈なように見えていた人間が、「何をしても咎められない」状況に身を置いた瞬間に別人になって、人を怒鳴りつけたり、恥をかかせたりという仕事にいきなり熱心になるということを私は何度も見て来た。「そういう人間」の数はみなさんが思っているよりずいぶん多い。そして、彼らがどれほど「ひどい人間」に変貌するかは、平時においてはまずわからないのである。

 だから、私は人間を簡単に「咎められない」環境に置かない方がいいと思っている。できるだけ、法律や常識や「世間の目」などが働いていて、簡単にはおのれの攻撃性や卑劣さを露出させることができない環境を整備する方がいいと思っている。

 

 今の日本は倫理的な「無秩序」状態になっている。

 倫理的にふるまう人(正確には「倫理的にふるまう人が一定数いないと社会は維持できない」ということを知っている人)を「かっこつけるんじゃねえよ」と冷笑することが批評的な態度だと勘違いしている人たちがすでに言論の場では過半を占めようとしている。

 このような無秩序がこのまま続くのかどうか、私にはわからない。

 

 続くなら日本にもう未来はないということしかわからない。

2019年

11月

07日

大阪・淀川市民マラソン ☆ あさもりのりひこ No.756

2019年11月3日(日)、第23回大阪・淀川市民マラソンが開催された。

 

前日まで、のどがいがらっぽくて、鼻水が垂れる。

頭の芯がボーッとする。

腹部が張って、ガスばかり出る。

階段を上り下りすると、右の膝頭の上部が痛い。

食前に「葛根湯」、食後に「陀羅尼助丸」を飲み続けた。

 前日、明朝の体調によっては棄権(DNS)かもと思いながら眠った。

 

 翌朝、午前4時に起床すると、体調は回復していた。

 膝に違和感は残っているが、走れそうだ。

 地下鉄谷町線の守口駅で降りて、午前8時くらいに、淀川河川敷の会場に着く。

 ゼッケンは事前に郵送で受け取っているので、自宅でランニングシャツの前後に着けている。

 ゼッケンの上部には申告したニックネームが印刷してある。

 朝守は「のんのこ」である(捨て身やな)。

 参加賞のティーシャツとリュックを受け取る。

 この大会は2年ぶりだが、ティーシャツの図柄と色合いが美しい。

 アネロのリュックは使いやすそうだ。

 

 荷物を預けて、ウォーミングアップして、指定されたブロックに並んで待つ。

 空は曇っているが、寒くはない。

 走るのに、いい天候だ。

 

 午前9時スタート。

 ハーフマラソンには6000人以上が出走するので、号砲が鳴ってからスタートラインに達するのに5分くらいかかる。

 最初は団子状態で思うように走れない。

 1㎞を過ぎてから、自分のペースで走れるようになる。

 14㎞まで、1㎞6分30秒以内のペースで走る。

 14㎞を過ぎてから、1㎞6分30秒を超えるようになる。

 

17、8㎞くらいでフルマラソンのトップグループのランナーとすれ違った。

 4位だったと思うが、サングラスを掛けたて、青いシャツを着たランナーが走ってくる。

 今年バッドウォーター135を新記録で制覇した石川佳彦さんに似ている。

 すれ違うときにゼッケンを見ると「いしかわ」と書いてある。

 わお!ホンモノの石川佳彦さんである。

 

20㎞まで、1㎞6分50秒以内のペースで走る。

 20㎞付近で高橋尚子さんがハイタッチをしてランナーを励ましている。

 高橋尚子さんは「のんのこさん!がんばって!」と言ってくれた。

 

 最後の1㎞は1㎞6分07秒で、この日一番速かった。

 2時間15分04秒でゴールした。

 心拍数は140台後半で推移した。

 最後の2㎞は150台に上がった。

 

 15㎞を過ぎてペースダウンしたが、以前に比べて速度の落差が少なくなった。

 呼吸は苦しくないし、最後はペースアップできた。

 ビルドアップ走と階段・歩道橋駆け上がりの成果が出始めているように思う。

 

 

 このレースが50代最後のレースであった。

2019年

11月

06日

内田樹さんの「「週刊ポスト」問題について(前編)」 ☆ あさもりのりひこ No.755

私が『週刊ポスト』編集部に言いたいのは「あなたがたには出版人の矜持はないのか」ということに尽くされる。

 

 

2019年9月5日の内田樹さんの論考「「週刊ポスト」問題について(前編)」をご紹介する。

どおぞ。

 

週刊ポスト問題についていくつものメディアから電話で取材を受けた。

 どれにも同じことを言っているのだけれど、切り取り方はそれぞれである。

 同じことを繰り返すのも面倒なので、ブログに「コメント」を上げておく。

 ネット上のテクストはすべてコピーフリーなので、ご自由に切り取って使ってくださって結構である。複製許諾も不要。

 

『週刊ポスト』9月13日号が「『嫌韓』ではなく『断韓』だ 韓国なんて要らない」というタイトルで韓国批判記事を掲載した。新聞に広告が載ると、直後から厳しい批判の声が上がった。

 同誌にリレーコラム連載中の作家の深沢潮さんはご両親が在日韓国人だが、執筆拒否を宣言した。続いて、作家の柳美里さんも韓国籍で日本に暮らしているが、「日本で暮らす韓国・朝鮮籍の子どもたち、日本国籍を有しているが朝鮮半島にルーツを持つ人たちが、この新聞広告を目にして何を感じるか、想像してみなかったのだろうか?」と批判した。

 私もお二人に続いて「小学館とは二度と仕事をしない」とツイッターに投稿した。その後もかなりの数の人たちが同趣旨の発言をされたようである。

 それで終わるのかと思っていた。どうせ『週刊ポスト』も「炎上上等」というような気分で広告を打ってきたのであろう。「おお、話題になった。部数が伸びる」と編集部では高笑いしているのだろうと思っていた。腹の立つ話だが、所詮、「蟷螂之斧」である。私ごとき三文文士が「小学館とは仕事をしない」と言っても、先方は痛くも痒くもない。10年ほど前に観世のお家元と共著で能の本を出したのと、小津安二郎のDVDブックにエッセイを書いたくらいしか小学館の仕事はしたことがないし、いまもしていないし、雑誌に連載も持っていない。そんな男が「もう仕事をしない」と言ってみせても、ただの「負け犬の遠吠え」である。

 ところが、意外にも、2日午後に版元の小学館から謝罪文が出された。

「多くのご意見、ご批判」を受けたことを踏まえて、一部の記事が「誤解を広めかねず、配慮に欠けて」いたことを「お詫び」し、「真摯に受け止めて参ります」とあっさり兜を脱いだのである。

 というところで取材がばたばたと続くことになった。この件について幾つかのテレビや新聞から取材を受けたが、とりあえず私が『週刊ポスト』編集部に言いたいのは「あなたがたには出版人の矜持はないのか」ということに尽くされる。

『新潮45』の時にも同じことを書いたが、あえて世間の良識に反するような攻撃的で差別的な言葉を世間に流布させる時には、出版人はそれなりの覚悟を決めるべきだ。私なら覚悟を決めて書く。書いたことが「炎上」して火の粉が飛んで来て火傷したら、それは「身から出た錆」だと思う。それが物書きとしての「筋の通し方」である。

まさか、書いたあとに「炎上」したからと言って、「あれは書かなかったことにしてください」とは言わない。

 しかし、『新潮45』の騒ぎのときには「あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現が見受けられ」という社長名の指摘に編集部は一言の反論もしなかった。

 仮にも自分の責任で公にした文章である。ならば、自分自身と彼が寄稿依頼した書き手たちの名誉を守るために、編集長は社長に辞表を懐に呑んで、記者会見を開き、「新潮社の偏見と認識不足と戦う」と宣言すべきだったろう。でも、彼はそうしなかった。記者会見を開くことも、他誌に新潮社批判を書くこともなかった。

 これは出版人としていくらなんでも「覚悟がない」態度と言わなければならない。

 あえて好戦的で、挑発的な記事を掲載しておきながら、「炎上」範囲が想定外に広がると、たちまち泡を食って謝罪する。この「覚悟のなさ」に私は今の日本のメディア関係者たちの底知れない劣化の徴を見るのである。

 

 彼らが簡単に記事を撤回できる理由はある意味簡単である。それはそれが「職を賭しても言いたい」ことではなかったからである。

 どうしても、誰に止められても、言わずにはいられないというくらいに切羽詰まった話であれば、ネットでつぶやかれる程度の批判に耳を傾けるはずがない。むしろ、「ほう、三文文士の分際で小学館相手に喧嘩を売るとはいい度胸だ。全力で叩き潰してやるから首を洗って待ってろ」くらいの構えで応じてよかったはずである。

 でも、そうならなかった。

 ということは、『週刊ポスト』の記事は「職を賭しても言いたいこと」ではなかったということである。

 

 この事件で第一に言いたいことは、市民的常識を逆撫でして、世の良風美俗に唾を吐きかけるような言葉を発表するときには、それなりの覚悟を決めてやってくれということである。それで世間から指弾され、発言機会を失い、場合によっては職を失って路頭に迷うことを覚悟してやれということである。覚悟がないなら書くな。

2019年

11月

05日

葬儀から得られたこと

 

 

本日は、事務局の担当日です。

 

今朝は、結構冷え込みましたね。

 

私は、一昨日と昨日の連休は、久々に生まれ育った宇陀市の方へ親戚の葬儀に参列してきました。

その時に親戚の者と「近年はこの時期も気温が高いので、山の色づきはまだまだやね」と話をしましたが、今朝の冷え込みで、広葉樹の紅葉が少しは鮮やかになり、秋らしくなることを期待したいです。

 

先週土曜日に三重県に行く途中、電車の車窓から見える宇陀の山々をみて、紅葉はまだまだかなと思っていたら、電車の中で、複数の親戚から電話がありました。

何事かと思えば、親戚の叔父が亡くなり、葬儀の予定の連絡でした。

最近親戚が集まる祝い事は少なく、集まる機会は殆ど葬儀です。

集まる親戚は、故人によって少しずつ異なります。

今回の葬儀では、小学生の時には兄弟のように過ごした親戚、保育園から中学まで共に学んだ友人などに40年ぶりに会いました。

集まる場が葬儀なので、ゆっくり話せなかったが、とても懐かしさを感じた時間でした。

また、普段あまり会わない親戚、友人、知人と会い、お互いの近況や他の人の近況を知り、互いを思いやる人の温かさを感じた時間を得ることができました。

葬儀の最後に山中にある斎場から戻るとき、久々に生まれ育った山々をみて、とても癒やされた感じでした。

お世話になった親戚の叔父がなくなった寂しさはありましたが、故人の叔父のおかげで、懐かしさ、温かさ、癒しの時間を得た連休でしたので、故人の叔父に感謝した次第です。

最近は、人と交わること話すことが少なくなってきていると思いますが、やはり話すこと、コミュニケーションをとることの大切さをしみじみと感じました。

みなさんもしばらく会っていない人に連絡したり、しばらく行っていない場所に行ってみてはいかがでしょう。

何か得られるとおもいますよ!

2019年

11月

01日

内田樹さんの「道徳について(後編)」 ☆ あさもりのりひこ No.754

道徳的であるというのは、ひとことで言ってしまうと、「誰かが引き受けなければならない仕事があるとしたら、それは私の仕事だ」という考え方をすることです。

 

 

2019年9月3日の内田樹さんの論考「道徳について(後編)」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 例えば、こんな状況を考えてください(例えば、というのが何度も出てきますけれど、こういう問題は具体的な事例を想定しないと、なかなかぴんとこないんですよ)。

 ある人が村のはずれの川沿いの道を歩いていたら、堤防に小さな穴が開いていて、そこからちょろちょろと水が漏れているのを見つけました。そこで、小石を拾って、その穴に押し込んで、水を止めました。そのおかげで、しばらくして大雨が降った時に、その堤防は崩れず、村は水没をまぬかれました。

 でも、その人は自分が押し込んだ石が堤防の決壊を防いだことを知りませんし、村人たちもその人が村を救ったことを知りません。

 こういう人のことを指す英語があります。

「アンサング・ヒーロー(unsung hero)」というのです。「その功績が歌に歌われて、称えられることのない英雄」という意味です。たいへんな功績をあげたのだけれど、人々はそのことを知らない(場合によっては、その人自身も自分がたいへんな功績をあげたことを知らない)。

 実際に、歴史上そういう人はたくさんいました。その人たちの目に見えない気づかいのおかげで、多くの人が、多くの街や、多くの文明が救われた。でも、その人を「英雄」として称える歌は誰も歌わない。知らないから。

 でも、これは僕の個人的な意見ですけれど、みんながその功績を知っていて、みんなに「称えられる英雄」よりも、「誰も(本人さえ)その功績を知らない英雄」の方が、ほんとうの英雄ではないかと思います。

 というのは「アンサング・ヒーロー」たちは、たぶん自分たちの英雄的行為を、なにげなく、とくに「こういうことをすれば、これこれの結果が導かれるかもしれない」というような予測もせずに、ごく日常的なふるまいとして行ったはずだからです。

 例えば、雪の降った日に、朝早起きして、雪かきをした人がいたとします。その人は一通り雪かきを終えると、家に入ってしまいました。あとから起き出して通勤通学する人たちは、なぜか自分の歩いている道だけは雪が凍っていないことにも気づかずに、すたすた歩いてゆきました。でも、この人が早起きして、雪かきしてくれなかったら、その中の誰かが滑って、転んで、骨折したりしたかもしれません。さいわいそういうことは「起こらなかった」。起こらなかったことについては、誰もそれについて感謝したり、それを称えたりはしません。でも、たしかに雪かきした人はこの世の中から、起こったかもしれない事故のリスクをすこしだけ減らしたのです。

 この人もまた「アンサング・ヒーロー」です。

「アンサング・ヒーロー」とはどういう人か、これで少しわかったと思います。

 それは誰かがしなければいけないことがあったら、それは自分の仕事だというふうに考える人のことです。

誰かが余計な責任を引き受けたり、よけいな仕事をかたづけたりしないといけないなら、自分がやる。そういうふうにふだんから考えている人。そういう人は高い確率で「その功績を歌われることのない英雄」になります。

 

 誰かがしなければいけないことがある。それは誰がやるべきか。

 ふつうはそういうふうに問いを立てます。もちろん、その問いの立て方で正しいのです。少しも間違いではない。でも、そういう問いの立て方は道徳としては「浅い」ということです。

 繰り返しご注意申し上げますけれど、それは「間違い」ではないんですよ。ただ「浅い」「薄い」「軽い」というだけのことです。

 誰かがしなければならないことがあるなら、それは私の仕事だ。こういう考え方をする人はそれほど多くありません。そして、実際にそれほど多くの人がそういう考え方をする必要もないんです。30人に一人、いや50人に一人くらいの割合でそういうふうに考える「変な人」がいてくれたら、それだけで、もうこの世の中はじゅうぶんに住みやすいものになります。そういう人は、道に落ちている空き缶を拾ったり、席を譲ったり、雪かきをしたりというのは「誰の仕事でもないのだから自分の仕事だ」と思っている。それが当然だと思っている。

「だって、誰かがやらなくちゃいけないわけでしょう。だったら、『誰かがやらなくちゃいけない』と最初に気がついた人がやればいちばん効率がいいんじゃないですか?」

 こういう人は満員電車で席を譲るのと同じように、床に落ちているゴミを拾い、エレベーターで先を譲り、そして、たぶんふだんと同じような口調で「難破船から脱出する救命ボートの最後の席」を前にした時も「あ、お先にどうぞ」と言えるんじゃないかと僕は思います。

 というのは、「救命ボートの最後の席」を誰が譲るべきかなんてむずかしい問いは頭で考えて結論が出るものじゃないからです。いくら考えたって、納得のゆく結論なんか出るはずがない。こういうのは、「そういうときには『あ、どうぞ』と言うこと」がもうすっかり習慣になっていて、身体にしみついてしまって、自動的にそういうことを言ってしまう人にしかできません。たぶん本人も言ってしまった後になって、「あれ、今オレ、救命ボートの最後の席を譲っちゃったけど、それってオレが死ぬってことじゃん・・・」とちょっとびっくりしたんじゃないかと思います。そして、「でもまあ、言っちゃったことはいまさら取り消せないしなあ」と涼しく諦めたんじゃないかと思います(見て来たわけじゃないので、知りませんけれど)。

『タイタニック』という映画がありましたね。レオナルド・ディカプリオ君とケイト・ウィンスレットさんが主演した恋愛パニック映画です。それ以外にも、これまでもタイタニックの沈没を描いた映画はいくつもあります。生存者がずいぶんいましたから、沈没間際に何が起きたのかについては、かなり信頼性の高い証言が残されていて、それに基づいてそれらの映画は作られていたはずです。僕も何本か見ましたけれど、どれも沈没間際に、「お先にどうぞ」と救命ボートの席を譲った人たちが出てきました。そのほかにも、最後まで自分の持ち場を離れずに仕事をやりとげた人たち(『タイタニック』では管弦楽を演奏する音楽家たちが印象的でした)が描かれていました。「そういう人」が実際に少なからぬ数いたんだと思います。「お先にどうぞ」とふだんの勢いでつい言ってしまった人たちが。

 

 それでは、そろそろ「まとめ」に入りたいと思います。

 道徳的であるというのは、ひとことで言ってしまうと、「誰かが引き受けなければならない仕事があるとしたら、それは私の仕事だ」という考え方をすることです。というのが僕の意見です。

 それは別に合理的ではないし、フェアでもありません。でも、そういうふうに考える人が集団の中に何人か含まれていないと、人間は共同的に生きてゆくことはできません。これは断言します。でも、全員がそうである必要はない。何人かでいいんです。ほとんどの人は「誰かが引き受けなければならない仕事があるとして、それを誰がやるかは、みんなで相談して決めればいいんじゃないの」というふうに考えます。それでぜんぜん構わないのです。でも、そういうやりかたは、場合によっては、それほど合理的ではない。

 だって、ものすごく簡単なこと、例えば、床に落ちているゴミを拾うとかいうことについて、それを誰がやるかについて、「みんな」で集まってもらって、「このゴミは誰が拾うべきか」について相談するなんて非効率すぎるでしょう。みんなに声をかけて、時間を調整して、会議室をおさえて、「誰がゴミを拾うべきか」会議を開くくらいなら、その暇にみつけた「私」がすいと拾って、ゴミ箱にぽいと放り込めばいい。

 あるいはものすごく難しいこと、さきほどの「タイタニック号の救命ボートの最後の一席」を誰が譲るかのような問題って、「みんなで相談」なんかしている暇なんかあるわけがない。即決しないといけない。そういうときは、いつもの調子で、エレベーターの入り口で先を譲るような口調で、「お先にどうぞ」とすぱっと言う人がいてくれないとどうにもならない。助かる命も助からない。

 そういうことです。

 最後にひとつだけ。それはどうしたらすぱっと「お先にどうぞ」って言えるようになるのかということです。どうしたら、そういう習慣が身につくようになるのか。

 それは別にむずかしいことではありません。

 ハッピーな人生を送っていればいいんです。

 これまでの人生、とっても楽しかったなあ。いいこといっぱいあったなあ。他の人よりもずいぶん恵まれた人生を送ってきたんじゃないかな。そういうふうに思えたら、どんなときも、自然に「あ、どうぞお先に」って言えると思うんです。自分はもう十分に幸福だったから、これ以上幸福であろうと願うのはちょっと欲張り過ぎかな・・・というふうに思えたら、人間は「お先にどうぞ」ということばを自然に口にすることができる。僕はそんなふうに思います。

 逆に、今の自分は不幸だ。これまでも不幸つづきだった。だから、こんなところで人に先を譲るほどの余裕はないぞ。そう思う人は決してよけいな「雪かき仕事」はしてくれません。しかたがないですよね。少しでも生き延びて、幸福になるチャンスを求めたいわけですから。自然な感情ですもの、そう思って当然です。

 だから、世の中を住みやすく、気分のいい場所にしようと思ったら、「お先にどうぞ」とすらっと言える人の数を増やせばいい。そして、みなさんが「お先にどうぞ」と言える人になるためには幸福になればいい。簡単ですよね。

 道徳の本をここまでずらずらと書いてきて、最後にたどりついた結論は僕にとってはすとんと納得のゆくものでした。みなさんは「自分の人生はいいこといっぱいあったなあ。他の人たちよりもずっと恵まれ人生だったな」と思えるように生きてください。それが道徳にかんする僕からの唯一のアドバイスです。

 

 みなさんのご多幸を願っています。

2019年

10月

31日

奈良マラソン2019への道 その6 ☆ あさもりのりひこ No.753

2019年10月13日(日)、第2回リバーサイドマラソン大阪大会で30キロ走る。

3時間34分05秒。

後半に速度が落ち込むのが問題である。

筋持久力を鍛えて強化する必要がある。

 

10月19日(土)、服部緑地公園で安藤大さんの「カイゼン」を受ける。

1月、5月に続いて3回目である。

雨を予想して完全防水で臨んだが、幸いにして雨は降らなかった。

午前8時55分に、安藤さんが緑地公園の噴水前広場に現れる。

事前にメールでやり取りした情報に基づいて現状を分析する。

ジョグとペース走の動画を撮影。

個別のトレーニングは、筋持久力を鍛えるために、下半身、腰、膝を使うメニューが中心。

トレーニング後に、もう一度、ジョグとペース走の動画を撮影して「改善」されたところを確認する。

仕上げは、緑地公園内を2.5㎞、15分間走る。

筋持久力を強化するために、「ビルドアップ走」と「階段・歩道橋駆け上がり」を勧められた。

やるぞ!

 

10月22日(火)、高松塚から稲渕の激坂を約15キロ走る。

起伏のあるコースを走ること、坂道を走ることは安藤さんのアドバイスでもある。

 

10月23日(水)、トレッドミルでビルドアップ走。

傾斜2%、30分。

速度は、時速9.2キロ(6分30秒/㎞)、時速9.6キロ(6分15秒/㎞)、時速10キロ(6分00秒/㎞)で10分ずつ。

 

10月26日(土)、早朝10キロのジョギングの途中で300段の階段を上る。

久しぶりの階段だったが、意外と苦しくなかった。

 

10月27日(日)、一周800メートルのランニングコースを使ってビルドアップ走をする。

1㎞あたり7分、6分40秒、6分20秒、6分とスピードを上げて、3㎞ずつ、12㎞走った。

1時間18分07秒。

最後の1㎞が一番速かった。

 

10月30日(水)、トレッドミルでビルドアップ走を30分。

ロードを30分走るよりも、トレッドミルの方がキツいな。

 

10月31日(木)、早朝7キロのジョギングの途中で歩道橋を3回駆け上がる。

 

トレーニング・メニューに「ビルドアップ走」と「階段・歩道橋駆け上がり」を取り入れた。

 

奈良マラソン2019まで5週間である。

2019年

10月

30日

内田樹さんの「道徳について(中編)」 ☆ あさもりのりひこ No.752

道徳的なふるまいにおいてたいせつなことは、「その気づかいが人に知られないようにする」ことです。

 

 

2019年9月3日の内田樹さんの論考「道徳について(中編)」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 具体的な事例をあげたほうがわかりやすいかもしれないですね。こんな場面を想定してみましょう。

 電車が満員で、座席がありません。そこに片手に赤ちゃんを抱いて大きな荷物をもった女の人が乗ってきました。誰か席を譲ってあげればいいのにと見回してみたら、高校生たちがおしゃべりに夢中になっていて席を譲る様子がありません。

そこでひとりのおじさんがその高校生の一人に向かって、「この人に席を譲ってあげなさい。君は若いんだから」と言ったとします。

 そういうこと、ときどきありますよね。

 ところが、そしたら、席を譲りなさいと命じられた高校生が、きっと顔を上げて、「あなたはいま僕を指さして『立て』と言われたけれど、どうして僕が席を譲らないといけないんですか」と口をとがらせて反論してきました。

さあ、大変です。

「高校生だって疲れ切っていて、あるいは外からは見えにくい身体的不調のせいで席を立ちたくないということだってあるでしょう。あなたは僕の健康状態について何をご存じなんですか?この車両にいる他のすべての座っている人たちの中からとりわけ僕に座る権利を放棄するように命じたことにあなたの側に何か合理的根拠があるのですか?」と反問してきました。まあ、ふつうの高校生はこんなしゃべり方をしませんけれど、話をわかりやすくするためです。

 たしかに、おじさんとしても、そう言われると困ります。電車の中で誰が席を譲るべきかについての一般的な基準なんかないからです。外から見ただけでは、誰が「立っても平気」な健康状態にあるのかなんてわかりゃしません。

でも、言ったおじさんは、こういう場合は平均的にいちばん体力がありそうな高校生くらいが席を譲るべきだという彼なりの道徳的判断に従ってそう発言したわけです。

 それに対して高校生の方は「それは、あなたが勝手に作った、主観的なルールに過ぎない。誰でも納得できるような、一般性のあるルールによって裁定して頂きたい」という異議を申し立てた。さあ、どちらの言い分に従うべきでしょうか。

 たしかにいずれも言うことは正しいのです。おじさんも正しいし、高校生も正しい。でも、二つの「正しさ」がかみ合ってしまった。二人ともたしかに道徳的に考え、道徳的にふるまっているんです。にもかかわらず、当面の問題(「誰が子連れの女性に席を譲るか?」という問題)はまったく解決していない。むしろ、おじさんと高校生がにらみあっているせいで、車内は険悪な雰囲気になってしまった。子連れの女の人も、自分のせいでそんなことが起きたので、かえっていたたまれない気持ちになった。「もういいですから、私は立ってもぜんぜん平気ですから」とおじさんと高校生にむかって小さな声でつぶやくのですけれど、その声は頭に血がのぼったふたりには届きません。

 

 おじさんが「道徳的」にふるまい、高校生が「道徳的」に応じたことで、事態は誰も何もしなかったときより悪化してしまった。よくあるんです。こういうこと。せっかく人々がそれぞれのしかたで「道徳的」なふるまいをしたのに。

 それは先ほど書いたように、道徳の規準が「ひとりひとり」に委ねられているからです。しかたがないことなんです。

 道徳の規準を自分ひとりだけに限定的に適用している限りはこういうトラブルは起きません。道端に落ちている空き缶を拾うとか、同時にドアの前に立った時に「あ、お先にどうぞ」と道を譲るとか、雪の降った朝に早起きして家の前の道の雪かきをしておくとか、とか。

 こういうのは一人で「やろう」と決めたら、誰の許可も同意もなしに、できることです。そして、ささやかだけれど世の中の役に立ちます。

 でも、そういう「よいこと」でも、他人にも押し付けようとするとだいたいうまくゆかなくなります。見知らぬ他人から「おい、おまえ、そこのゴミ拾えよ。世の中、住みやすくなるから」と命令されると、「かちん」と来ますよね。

 「道徳的な行い」は、自分ひとりで、黙ってやっている分には「社会秩序を保つ」役に立ちますが。でも、同じ行いでも、それを人に強制しようとすると、むしろ「社会秩序が乱れる」ことがある。なかなか難しいいものです。

 

 では、どうすればいいのか。

 車内ではおじさんと高校生のにらみあいがまだ続いております。そこにもう一人の人物が登場してきました。

 これまでのやりとりをじっと聞いていたひとりの紳士が席を立って「あ、私、次で降りますから。ここ、どうぞ」と女の人に席を譲ってくれたのです。いや、よかったです。みんなほっとしました。女の人も素直に「あ、そうですか、どうもありがとうございます」と空いた席に子どもを膝にのせて座ってくれました。高校生はまた居眠りに戻り、説教したおじさんは、いささかばつが悪そうですけれど、まあ「子連れの女性に座席を提供する」という本来のミッションは果たしたわけですのでそれなりに満足しました。

 よかったですね。

 でも、この席を譲ってくれた紳士は実は「次の駅で降りる」わけじゃなくて、もっと先まで行く予定だったのです。おじさんのやや高圧的な態度と高校生のきびしい反論のせいで車内がちょっと気まずくなったので、とっさに、緊張緩和のために「次で降ります」と嘘をついたのです。そして、その気づかいが他の人に知れないように、次の駅で降りて次の電車を待つことにしたのでした。

 この紳士のふるまいもやはりとても道徳的だと僕は思います。でも、この人の道徳はさっきのおじさんや高校生の道徳とはちょっとレベルが違うように思われます。良し悪しではなく、ちょっと手ざわりが違う。微妙に深くて、微妙にやさしい。

 その第一の理由は、この紳士が自分の気づかいが他の人に知れないようにしたからです。

ここが「深い」と僕は思います。

「私、次で降りますから」と言って席を譲った紳士が、すぐに降りたはずの駅のベンチに座って、次の電車を待っている姿をもし車内の人から見られてしまったら、「あら、あの人はこの場をおさめようとして、自分の席を譲り、自分の時間を少し犠牲にしたんだ」とわかってしまいます。そうなると、おじさんも高校生も気恥ずかしくなりますし、譲られたお母さんもかなり申し訳ない気分になります。みんなちょっとずつ気持ちが落ち込んでしまいます。ですから、席を譲った紳士はたぶんその気づかいが他の人に知られないようにしたんじゃないかと思います(電車が発車して、自分の姿が見えなくなるまで、ホームをゆっくり出口に向かって歩いてみせるとかして)。

 道徳的なふるまいにおいてたいせつなことは、「その気づかいが人に知られないようにする」ことです。でも、これはなかなかわかりにくい話なんですよね。

 ふつうは「いいこと」をしたら、それをできるだけみんなにアピールして、できることなら「おほめのことば」を頂きたいと思う。そうですよね。でも、「いいこと」をしても、黙って、そっと立ち去るということも時には必要なんです。「時には」どころか、できればあらゆる機会にそうである方が、世の中は暮らしやすくなるんじゃないかな・・・と僕は思います。

 

 

2019年

10月

29日

はじまりました

大和八木 弁護士

みなさん、こんにちわ。

本日は、事務局担当日です。

 

食欲の秋(まずはこれから)

読書の秋

スポーツの秋(観るだけ観るだけ)

 

何をするにもよい季節となりました(・∀・)

 

今年は、ラグビーやバレーボールのワールドカップで手に汗握る試合を立て続けに観ることができました。

 

特に男子バレーは、ここ数年あまり強くなかったので、

今年のワールドカップが始まった当初はまったく試合を観ておらず、

たまたまテレビで試合を観たときはエジプト戦。

もう半分以上日程が終わっていました。

あまり期待せず、観るともなしに観ていたのですが、

熱い試合内容にすぐに目が離せなくなりました。

 

食事の後片付けもほったらかし、

子どものおけいこお迎えも、もちろん主人に。

 

少し前なら諦めていたボールもくらいついて、拾って、あげて。

メダルに手が届くかも!と思いましたが、4位というおしい結果。

でも、負けた試合も、とてもよい内容だったと思います(← なんで上から目線笑)

石川選手など海外で活躍する選手がでてきたことも大きい要因でしょうか。

 

こんなことなら初日から観るんやった~!!

そして。そして。そして!!

 

待望のフィギュアスケートのシーズンもスタートです。:.゚ヽ(´∀`。)ノ゚.:。 ゜

月曜日まではスケートカナダのテレビ放送がありました。

 

羽生、絶叫「勝ったー!」

今季GP初戦で自己最高322・59点ぶっちぎりV(サンスポ)

羽生が自己ベストでV、GP通算11勝目 (日本経済新聞)

 

羽生選手、緒戦からやってくれました・゚・(。>д<。)感涙感涙

 

もうね、大きなケガをすることなくシーズンを全うしてもらえたらね、

私なんにも言うことありません(早っ。シーズンはこれからこれから)。

2019年

10月

28日

内田樹さんの「道徳について(前編)」 ☆ あさもりのりひこ No.751

人によって、薄っぺらな道徳と厚みのある道徳がある。底の薄い道徳と奥行きの深い道徳がある。手触りの冷たい道徳と手触りのやさしい道徳がある。軽い道徳とずしりと重たい道徳がある。でも、正しい道徳と間違った道徳があるわけではない。

 

 

2019年9月3日の内田樹さんの論考「道徳について(前編)」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

去年、ある出版社から頼まれて中高生向けの「道徳の本」というものを書きおろした。中高の図書館には入っているはずだけれど、一般読者には手に取る機会がない。

 今日これから小学校の先生と「道徳教育」について懇談する予定なので、自分の道徳教育についての考え方を思い出そうと思ってHDの筐底を探したら、出て来た。

 ご参考までに。

 

 みなさん、こんにちは。内田樹です。

 道徳の本を書くように頼まれました。

 何を書いたらよいのかわからないままに、「うん、いいよ」と引き受けてしまいました。ふつうは何を書くか決まっているから引き受けるんでしょうけれど、このときは何を書けばいいかわからないのに、引き受けてしまいました。書きながら考えてみようと思ったからです。

 この本はそういう本です。道徳について書かなければいけないのですけれど、何を書いていいかよくわからない。だから、「道徳について何を書いていいかわからないのはなぜか?」というところから書き始めることにします。

 どうして「何を書いていいかわからない」のか。それは「道徳」ということばの意味が僕にはよくわかっていないからです。いや、ある程度はわかっているのでしょうけれど、あくまで「ある程度」です。ちゃんとわかっているわけじゃない。だから、人に向かって「そもそも道徳とは・・・」というような説教ができる気がしない。

 でも、それって変ですよね。

 だって、「道徳」って、ごくごくふつうの、誰でも日常的に使うことばだからです。そういう「誰でも日常的に使うことば」の意味がよくわからないということがあるんでしょうか?

 あるんです。

 道徳ということばを僕も使います。まるで、その意味がよくわかっているかのような顔をして使います。

 でも、こうして改めて「道徳の本を書いてほしい」と言われると、自分がいったい道徳について何を知っているのか、どのようなことを言いたいのか、よくわからない。

 ふだんふつうに使っていることばなのに、改めて「それはほんとうのところ、どういう意味なんですか?」ときかれると、とっさには答えられない。

 きっとそれは、道徳というのがそれだけ手ごわいことばだからだと思います。

 簡単に扱うことを許さないこの「手ごわいことば」について、これから考えてみることにします。

 

 これからあと僕が書くのは、あらかじめ用意していた話ではありません。書きながら考えたことです。だから、あまりまとまっていないでしょうし、読み終わったあとに「なるほど、そうか」とすっきり気持ちがかたづくこともないと思います。

 でも、それでいいんじゃないですか。

 僕くらい長く生きてきた人間が、あらためて「道徳とは何か?」を考えたときに、うまく説明できないということそのものが、とてもたいせつな情報だと思うからです。

 

 世の中には、よく使われているのだけれど、実はそのことばのほんとうの意味をだれもよく知らないということばがあります。「あります」どころか、見渡すと、そんなことばばかりです。

でも、意味についてみんなが合意していないと話が先に進まないということはありません。

 たとえば「神さま」というのは、それがほんとうは何を意味することばなのか、誰も知りません。だって、誰も見たことがないんですから(「私は見た」という人がときどきいますけれど、それはちょっとわきに置いて)。そもそも「神さま」というのは「人知を超えたもの、人間の感覚や知力をもってしては感知することも理解することもできないもの」なんですから、「神さまというのは、これこれこういうものだよ」と人間に説明できるはずがない。

 でも、「神さま」ということばが何を意味するかよくわからないから、そういうことばは使ってはいけないということになるとむしろ困ったことになります(「『神さま』ということばって、何を意味するか、よくわからないですね」ということさえ言えなくなりますから)。

 だから、意味がよくわからないけれど、使う。意味がよくわからないけれど、教会に行ってお祈りしたり、お寺でお参りしたり、神社で柏手を打ったりすることが僕たちにはできます。そういうときには、自分がなにをしているのか、なんとなくわかっている。なんとなくわかっているなら、正確なことばの定義なんかできなくても、それでいいと思っている。僕もそれでいいと思います。なんとなくにしても、こどもの考える「神さま」と大人の考える「神さま」はたぶんずいぶん違うものです。いろいろなふしぎな経験をしたり、つらいことやたのしいことを経験したあとになると、大人たちは「神さま」について、ことばの意味はよくわからないままに、子どものころよりは深い考え方をするようになります。ひとによって「神さまはたしかにいる」と確信を深めたり、「神も仏もあるものか」とふてくされたり、さまざまですけれど、それらのことばには経験のうらづけがある。だから、深い実感がこめられる。

 意味は定義しがたいけれど、いろいろな経験を積んでくるうちに、「個人的にはこういうふうに理解することにした。私はこういう意味で使う」ということばがあります。ほかのひととそのまま共有することはできません。でも、ひとりひとりの個人が、自分自身の経験から引き出してきた「ことばの意味」はそれなりにずしりとした重さやたしかさがある。よく意味がわからないままに、使われることばというのは、たぶんそういうものではないかと僕は思います。

 

 道徳もそれと似ています。

 何を意味するのかよくわからないけれど、ひとりひとりなんとなく自分なりに「だいたいこういう意味かな」と思っているものがある。だから、ひとりひとりの個人的な経験によって、ことばの厚みや奥行きや手ざわりがずいぶん違ったものになる。

 もちろん、道徳にも辞書的な定義はあります。たとえば、手元の新明解国語辞典にはこうあります。

「社会生活の秩序を保つために、一人ひとりが守るべき、行為の規準」。

 なるほど、その通りですね。でも、ここにも書いてありますね、「一人ひとりが」って。一人ひとりが守ることであって、「みんないっしょに」守るべきものではない。ということは、僕たちの一人ひとりが、自分で、自分の責任で、その「行為の規準」を定めるわけで、どこかにいる誰かが僕たちに代わって定めてくれるものじゃないということになります。誰かが僕たちに代わって定めてくれる、一般的な「行為の規準」であるなら、それは「みんなで守る」べきものであって、「一人ひとりが守る」という限定は不要です。あえて「一人ひとりが」と書いてあるのは、決めるのも自分、守るのも自分、ということです。

「こういう考え方が道徳にかなっている。こういうふるまいが道徳的である」と自分で判断して、自分で行う。他人に判断してもらうことも、他人に押し付けることも、できない。もし、誰かが皆さんに「こういうふうにふるまうのが道徳的なのだから、そうしろ」と命令してきたら、(たとえ、その命令がなかなか正しそうに思えても)「そういうことは、やめてほしい。自分で決めるから」と言ってよい。そういうことです。

「道徳的であること」とはどういうことか。それは先ほどあげた「神さま」の場合と同じように、一人ひとりの経験の差によって、ずいぶん違ったものになります。

それでいい、と僕は思います。

 こう言ってよければ、人によって、薄っぺらな道徳と厚みのある道徳がある。底の薄い道徳と奥行きの深い道徳がある。手触りの冷たい道徳と手触りのやさしい道徳がある。軽い道徳とずしりと重たい道徳がある。でも、正しい道徳と間違った道徳があるわけではない。

 どれもそれぞれの仕方で「正しい道徳」なのです。ただ、そこには程度の差がある。その程度の差をもたらすのは、こう言ってよければ、一人ひとりの成熟の差です。

 

 成熟した人の道徳は深く、厚みがあって、手触りがやさしくて、ずしりと重い。未熟な人の道徳は、そうではない。それだけのことです。そして、できることなら、成熟した人間になって、成熟した道徳にしたがって生きてゆきたい。僕はそう思います。

2019年

10月

25日

内田樹さんの「低移民率を誇る「トランピアンの極楽」日本の瀕死」 ☆ あさもりのりひこ No.750

最近、日本ではついに高齢者向けのおむつの販売数が幼児用おむつの販売数を超えた。これは人口崩壊の指標である。

 

 

2019年9月2日の内田樹さんの論考「低移民率を誇る「トランピアンの極楽」日本の瀕死」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

「ワシントンポスト」が 829 日に日本特派員からの衝撃的な記事を掲げた。原文はこちら。

https://www.washingtonpost.com/opinions/2019/08/29/japan-is-trumpian-paradise-low-immigration-rates-its-also-dying-country/

 移民流入を劇的に抑制するという極右の願望が実現した場合にアメリカがどんな国になるのか、その一端を知りたければ、日本に来て、私の義父に向いの家のことを尋ねたらよい。 

 この家の持ち主は、日本の南部の島にある北九州のこのさびれた労働者階級の住宅地で何年か前に死んだ。家は荒れ果て、朽ちるに任されている。相続した人たちの誰もこの家に関心を持っていない。税金は高いし、このような家についての市場の需要は事実上ゼロだからである。

 珍しい話ではない。日本の人口は減少しつつあり、その長期的な影響はこの国の生活の全域に広がっている。「Akiya」というのは義父の家の近くにあるような見捨てられた家のことであるが、それはこの人口減少がもたらす生活の変化の一つである。日本は高齢化しつつあり、老人たちが死んでもその住まいを受け継ぐものはいない。だから、隣人たちによって形成される地域社会はいま日本全土でゆっくりと消滅しつつある。

 日本ではいま800万戸が空き家になり、それは今も増え続けている。里山の集落は消滅しつつある。日本では都市でも郊外でもどこも子どもの姿をほとんど見ることがない。これは「死につつある共同体」である。大量の高齢者たちの介護のために必要な介護労働者を見出すための手立てさえ行政当局はほとんど持っていない。

 もちろん、日本はネイティヴの出生率よりもその死亡率が高い唯一の高齢化国ではない。しかし、他の先進国では、高齢者が手離した家屋は、家族のためにより豊かな未来を求めて開発途上国からやってきた若い労働者たちによってすぐに埋められる。日本ではそうではない。

 日本の総理大臣安倍晋三はよく知られている通りにトランプ的世界観の熱心な生徒である。それは韓国との政治的闘争において貿易を恫喝の道具に用いたことからも知られる。

 大量の移民受け入れを拒絶することについても、われわれが記憶している限り、トランプと安倍は緊密な合意を形成していた。その結果、日本は地上で最も均質的な国の一つとなった。だから、日本を「ほとんど外国人を含まない、民族的境界の明確な国民共同体」というトランピアンの極楽とみなすことは間違っていない。ただし、このような国民共同体には未来がない。

 最近、日本ではついに高齢者向けのおむつの販売数が幼児用おむつの販売数を超えた。これは人口崩壊の指標である。一時代前にはアメリカ人を恐怖させたあの経済大国に凋落の翳りが見えているのである。新たな労働者が長期にわたって不足しているせいで、日本の経済成長は一世代にわたって停滞を続けている。いま「日本化」という言葉は「人手不足のせいで経済的衰退に向かうこと」という意味に変わった。

 こういったことすべてに、1950年代からまったく進歩のないジェンダーロールの固定化が加わって、日本は女性たちが子供を産む上で最も魅力のない場所になった。低出生率は人口学的な死のスパイラルをひたすら加速する。

 問題がさすがにここまで深刻になると、安倍晋三首相の保守政権といえども移民についてのスタンスを変えざるを得なくなった。ひさしく人手不足に苦しんできた財界からの強い圧力の下に、政府は外国人労働者の受け入れのために新しい道筋を開いた。しかし、移民をめぐる政治的思考の分裂はこの部分的な開放によってむしろますます明らかになった。

 政府は外国人労働者にこれまでより多くの就労許可を出すことにしたが、彼らを社会統合するためにはほとんど何の努力もしていない。ヴィザについての諸規則は外国人労働者たちに頻繁な更新を強いながら、家族を呼び寄せることを禁じている。報告されている限りでは、外国人に入居を断る家屋は多いが、これは違法とはされていない。「来い、働け、だが、この国で歓待されているとは思うなよ」というのが日本政府の発信しているメッセージである。このメッセージの意味を読み違える人はいないだろう。

 経済的な要求と文化的な合意形成のどちらを優先するかが日本における移民政策論争の対立点である。移民受け入れなしでやっていけると主張することはもはや不可能である。しかし、彼らを受け入れることも政治的にはひとしく不可能なのだ。その結果、製造業や農業のみならず、この高齢化国が絶望的に求めている高齢者介護職に至るまで、仕事はあるけれども、働く人がいないという状況が進行している。

 その間も、義父の家の向いにある空き家の土地には竹が傍若無人に根を張り出した。空き家の増加と、需要のなさのせいで、このタイプの家屋の市場価格はしだいに各地でゼロに近づきつつある。そのせいで「日本は空き家を無料で提供している」というような噂がネット・メディアで世界に広まるに至っている。

 この話には半分の真実しか含まれていない。というのは、そういう放棄家屋でも修復し、居住可能な状態に維持するためにはしばしば数千ドルの出費を必要とするし、固定資産税はきちんと課されるからだ。しかし、だったら空き家にも多少の価値はあるのかと思ったら、それは誤解である。これは「奇妙な国」日本にまつわる笑い話ではない。これは人口学的なメルトダウンに赤信号が点灯したということであり、進歩よりも均質性を選んだ社会に下された刑の宣告なのである。

 最後に付け加えるが、トランプ大統領も選択があるという点については間違っていない。アメリカの前にはたしかに選択肢が示されている。日本は均質性を選ぶか多様性を選ぶかという選択があり得るということの生きた証拠である。そして、日本が示したのは、均質性は滅びへの道であるということであった。多様性について言えば、それが現在のアメリカが享受している活力と繁栄の機会を提供してきたことだけはわかっている。

 

 果たしてアメリカ人はどちらを選ぶことになるのだろうか?

2019年

10月

24日

明日香ビオマルシェについて14 ☆ あさもりのりひこ No.749

明日香ビオマルシェの「もりや工房」について書く。

 

「もりや工房」が明日香ビオマルシェに登場したのは2019年春からである。

ヴィーガンのお菓子が並ぶ。

 

まず、タルト。

タルトはライ麦、スペルト小麦を使っている。

イタドリのジャム

ココア生地のバナナジャム

エスプレッソと八朔マーマレード

ココアとマーマレード

キウィのジャム

トルタ・ディ・リーゾ(ボローニャ伝統お米のケーキ)

ビーツと柑橘

梅の酵素ジャム

紅茶と柑橘

ブラックベリーのジャム

 

 全部喰いました。

 おいしかった。

 

つぎに、クッキー類。

フラップ・ジャック(イギリス定番おやつ)

ざくざくクロッカン

オートミールクッキー

ココナッツボール

 

 全部喰いました。

 おいしかった。

 

さらに、トマトジャム。

甘すぎなくておいしい。

わが家の朝食の定番になっている。

 

 

10分割されたタルトが円形に並んでいるのが美しい。

2019年

10月

23日

内田樹さんの「Voiceについて(後編)」 ☆ あさもりのりひこ No.748

多くの人は成長というのをアイデンティティーの確立のことだと思っている。「自分が何ものであるかが、よくわかり、それを過不足なく表現できるようになること」が成長だと思っている。そんなわけないじゃないですか。まるで逆ですよ。成長するというのは複雑になるということです。

 

 

2019年9月2日の内田樹さんの論考「Voiceについて(後編)」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 イタリアの田舎の方に行くと、17世紀頃に作られた古いバイオリンが民家にしまってあったりするそうです。そういうオールド・バイオリンは音は小さいのです。音は小さいのだけれども、イタリアの石造りの家のいくつもの壁を通って、遠くの部屋でも聴き取ることができる。

 これも多田先生から伺った話ですけれども、「声を出すときは、オールドバイオリンのような声を出さなければいけない」と。声が低くても、音量が小さくても、遠くにいる人の身体に浸み込むような声というのがある。先生は発声器官の使い方について言っているのではないと僕は思います。そうではなくて、「自分のボイス」をみつけなさいと言っているのだと思う。「自分のボイス」を見つけた人がその「ボイス」で語られた言葉は、できあいのストックフレーズや、何度も話して手垢のついた定型句とは全然手ざわりが違うからです。それはオールド・バイオリンの音色のように、身体に浸み込んでくる。

「ボイス」というのは、自分の中に入り込んでゆく「回路」です。自分の中の、身体の深層に浸み込んでゆく。自分の身体に浸み込むことができないと「自分のボイス」は獲得できない。「身体の中に浸み込む」というのが「ボイス」の本質的な条件なんです。自分の身体の奥深くに浸み込むことで生まれた言葉は、他人の身体にも浸み込む。「ボイス」というのはそういう浸透性を持つ言葉のことなんです。

(中略)

 子供たちに必要な国語教育は、漢字を書けるとか、文法がわかるとか、古典が読めるとか、そういうこともとても大事ですけれども、一番大事なのは、自分の中に垂鉛を垂らしていけるということです。自分の中に、言葉が生まれる深層がある。そこまで降りていけるということです。とりあえず、他人のことはどうでもいいのです。コミュニケーションとか、メッセージとか、そういうことは二の次なんです。人が自分の中に深く入っていって、そこから汲み出した言葉は、必ず、他人の深いところにも浸み込んでゆく。自分がしゃべっていて、すとんと「腑に落ちた」話は、コンテンツの論理性とか整合性とかとは無関係に、他人が聴いても「腑に落ちる話」なんです。自分の頭じゃなくて、身体が納得できる説明なら、他人の身体も納得してくれる。

 国語教育の責務は、子供たちが「自分のボイス」を発見する、長く、苦しいエクササイズを支援することだと思うのです。その作業は周りにいる誰かと相対的な優劣を比較したり、出来不出来を査定したりするものではない。一人一人の問題なんですから。

 でも、「自分のボイス」を獲得した子は、すごく生きやすくなると思います。何よりも、自分が複雑な人間だと分かるから。自分の中に複数の層があって、自分のボイスというのは本質的に「多声的(polyphonic)」なものだと分かる。幼児の泣き声も老人の繰り言もおばさんのおしゃべりも少年の照れも知識人の衒いも、自分の中には全部揃っている。それらはすべて自分が使うことのできるリソースとして自分の中にある。そんな言い回し生まれてから一度も使ったことがない・・・というような言い回しでも、僕たちは滑らかに発語できる。

 子供たちも実際には「自我は首尾一貫していなければならない」という縛りで苦しんでいるんです。親からの「あなたはこういう人間だから」という決めつけや、学校で仲間の中で決められて押し付けられた「キャラ」によって、言動が首尾一貫していることを求められる。そのことに子供はうんざりしている。でも、どこかで「アイデンティティーというものは一貫していなければならない」と思い込まされている。そんなの無理なんです。少し自分の中に深く入り込んでゆくと、そんな薄っぺらなセルフイメージとはまったく相容れない感情や思念や記憶が渦巻いているわけですから。子供たちの貧しいセルフイメージにうまく収まり切らない過去の経験や感情は抑圧されて「なかったこと」にされている。それが深層の奥底に黙って沈殿している。

「自分のボイス」を発見するというのは、これまで自分で自分について抱いてきたセルフイメージや、周りの人間に向かって宣言していた「オレはこういう人間だ」という社会構築的なアイデンティティーとはぜんぜん違う要素が自分の中に豊かに存在することを知るということです。自分は複雑な人間なのだということを知るということです。

 生物の進化というのは、複雑化ということです。単細胞生物の時代から60兆の細胞によって構成された多細胞生物にまで進化してきた。進化が複雑化であるなら、個人の成長も複雑化であるに決まっています。

 多くの人は成長というのをアイデンティティーの確立のことだと思っている。「自分が何ものであるかが、よくわかり、それを過不足なく表現できるようになること」が成長だと思っている。そんなわけないじゃないですか。まるで逆ですよ。成長するというのは複雑になるということです。

 理由は簡単で、複雑な生物の方が生存戦略上有利だからです。複雑な生き物の方が、複雑な状況に対応する能力は高い。単細胞生物は捕食者から逃れ、餌を食べる以上のことはできない。そもそもそれ以外の入力には対応できない。でも、人間たちを取り囲む環境は複雑です。その環境の中で適切にふるまうためには、自分も複雑になってみせるしかありません。

 どんな場合でも「自分らしく」生きたいというような言い方を好む人がよくいますけれど、どんな複雑な状況にも単純に対応するというのは、知的負荷は少ないですけれども、それは環境の変化に適切に対応することと逆方向に退化していることです。

 成長とは複雑化のことである。日本の学校教育はこの自明の前提を見落としているように見えます。「もっと複雑になりなさい」ということをなぜ教育目標に掲げないのか。「自分の心と直感に従う勇気を持つ」ことも、「そのうち何とかなるだろう」も、「自分のボイスを発見せよ」も、「複雑化しろ」も、日本の学校では教えられない。逆に、恐怖心を持つこと、未来の未知性に怯えること、定型的な言葉づかいを身につけること、アイデンティティーにしがみつくことを教えている。逆じゃないですか。

 

 学校教育の目標は子供たちを成長させることであり、成長とは複雑になることです。だとしたら、教師の仕事は、子供たちが複雑化することを支援することに尽くされる。子供たちが、親に見せる顔と友人に見せる顔と教師に見せる顔が全部違う。そのつど、その環境に最適化して、別の人間のような言葉づかいをして、別の人間のようにふるまうことがごく自然にできる。だって、それらは「別の人間」ではなくて、「全部自分」だから。それが成熟ということだと僕は思います。

2019年

10月

21日

盛り上がるラグビー熱@事務局より

皆さんこんにちは。今日は事務局担当日です。

 

さて,盛り上がっているラグビーW杯。

この一ヶ月ぐらいで,私もすっかり

「にわかラクビーファン」になりました(^_^)/

 

 

最初の頃はルールも全く分からず,ペナルティーの名前も長くて頭の中が?マークだらけでした。

 

それでも,予選での素晴らしい活躍ぶりを見て,

日本以外の試合も見ているうちに,

「ノックオン」「オフロードパス」「ジャッカル」「ラインアウト」など,

試合の光景と照らし合わせながら徐々に分かる単語が増えてきて,

見ていても少しずつ分かるように(^_^)

 

もちろん,昨日の南アフリカとの試合も家のテレビで観戦していました。

 

前半の早い場面からきついタックルなどでお互い負傷者が出るような

激しい試合ぶりでした。

 

また,体格のいい選手が多い中,一際小さく見える南アフリカのファフ・

デクラーク選手がタックルや,隙をついてハイパントやトライを決めたりと,

日本からすると嫌~な場面では必ず彼がいるんです!(笑)

 

彼の活躍ぶりは,もちろん敵ながらあっぱれ・・・なんですけど(-_-;)

(ちなみに,彼は,昨日の試合のプレイヤー・オブ・ザ・マッチにも選ばれて

いました)

 

 

試合の結果は残念でしたが,たくさんの感動をもらいました。

試合終了後は,普段笑った顔を見せない稲垣選手の泣き顔に私も思わず

もらい泣きしてしまいました(>_<)

 

今回のW杯で引退する選手もいますが,

今後もブレイブ・ブロッサムズの活躍に期待しています。

お疲れ様でした!

 

2019年

10月

21日

内田樹さんの「Voiceについて(前編)」 ☆ あさもりのりひこ No.747

ボイスというのは、単なる「声」ではないんです。自分の中の、深いところに入り込んで行って、そこで沸き立っているマグマのようなものにパイプを差し入れて、そこから未定型の、生の言葉を汲み出すための「回路」のことです。

 

 

2019年9月2日の内田樹さんの論考「Voiceについて(前編)」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

2019年の5月に国語科の教員たちを対象に「国語について」の講演を行った。いつもの話なのだけれど、「ボイス」に関してわりとまとまった話をしたので、その部分だけを抜き出して再録する。

 

査定をしないで、能力を開花させるためには、何をなすべきか。ここからようやく国語教育の話になります。

 子供たちが開花させることになる国語の能力とは何か。僕はそれを「自分のボイス(voice)を発見すること」だと思います。子供たち一人一人が「自分のボイス」を発見し、「自分のボイス」を獲得する。極言すれば、国語教育の目的は、その一つに尽きると思います。小学校から大学までかけて、「私は自分のボイスを発見した」と思えたら、その人については、国語教育はみごとな成功を収めたと言ってよいと思います。

 最初に、「私のボイス」という言葉を知ったのは映画からです。『クローサー』という映画がありました。映画自体はどうということのない凡作なのですが、その中にこの台詞が出て来た。一人の男(ジュード・ロウ)が町中で若い娘(ナタリー・ポートマン)を拾ってタクシーに乗るシーンがあります。タクシーの中で、ナタリー・ポートマンが「あなた仕事、何してるの?」と聞くと、「新聞記者だ」と答える。そして、「でも、僕はまだ自分のボイスを発見していないんだ」と続ける。その時に「ああ、適切な表現があるな」と思いました。記者にも「自分のボイスをみつけた者」と「自分のボイスをまだみつけていない者」がいて、自分のボイスを見つけない限り、決してほんものの記者にはなれない。

 

 みなさんも多分、「自分のボイス」に出会った経験があると思うのです。例えば、子供のときに、小学校か中学校か、すごく仲のいい友だちが出来て、親友になった。あるいは、もう少し大人になって、はじめて恋人ができた。そういう初めて親友ができたときと、初めて恋人ができたとき、時間を忘れて話しますよね。駅のベンチとか土手の上とかで、それこそエンドレスにずっと二人で話し続ける。自分の話をするし、相手も自分の話をする。そのときに話すことはしばしば「この話、生まれて初めて人にするんだけれど・・・」という前置きで始まりますよね。

 これまでに友だちや家族に向かって話したことのある「いつもの話」をまた繰り返すわけじゃないんです。親友や恋人にする話はそういう「手垢のついた話」じゃない。全く新しい、できたての、それまで、一度も脳に浮かんだことがなかったような過去の記憶がふっと生々しく蘇ってくる。あるいは、同じ出来事についてなんだけれど、まったく違う視点から、違う解釈をする。「これまでずっとあの出来事は『こういう意味』だと思っていたけれど、それとは違う、もっと深い意味があったんだ」いうような話を始める。

 そして、そういう話はだいたいオチがないんです。勢い込んで話し始めるんだけれど、途中でぷつんと途絶してしまう。でも、それでも平気なんです。そういう頭も尻尾もないし、オチもないし、教訓もないような話が次々と湧き出て来る相手のことを親友とか恋人とか呼ぶわけですから。そういう話をしているときに、人は「自分のボイス」に指先がかかってきたことを知る。

 子供たちを見て、「まだ自分のボイスを発見していないな」ということは聞いていると分かります。独特のボキャブラリーや、独特の話し方をしていても、「前にして、受けた話」を変奏して繰り返しているなら、その子はまだボイスは持っていない。オチがあったり、教訓があったり、笑いどころのツボが決まっていたりするような話をしている人間はまだ自分のボイスを持っていない。

 ボイスというのは、単なる「声」ではないんです。自分の中の、深いところに入り込んで行って、そこで沸き立っているマグマのようなものにパイプを差し入れて、そこから未定型の、生の言葉を汲み出すための「回路」のことです。

 その回路はいろいろなかたちをとります。語彙であったり、音調であったり、リズムであったり、速度であったり、文字列のグラフィックな印象であったり・・・いろいろなかたちをとりますけれども、とにかく自分の中の言語活動を烈しくドライブしてくれる「きっかけ」です。

 村上春樹さんは自分の文体のことを「好きだ」とどこかで言ってました。自分の文体は性能のよいヴィークルで、自分を遠くに運んでくれるから、というのがその理由でした。ここで村上さんが「文体」と言っているのは、僕の言う「ボイス」と同じものだと思います。

 

 

 

2019年

10月

18日

『ネット右翼とは何か』書評 ☆ あさもりのりひこ No.746

定型的な言葉づかいを繰り返しネット上にまき散らすことは「特定のトピックを際立たせるための効果的な戦略」であり、botを利用すれば、特定の政治的争点について、イデオロギー的には親和的だが、それまで組織的には無縁だった人たちを結びつけて、彼らを巨大な「世論選好のクラスター」にまとめあげることができる。

 

 

2019年8月16日の内田樹さんの論考「『ネット右翼とは何か』書評」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

『ネット右翼とは何か』(樋口直人ほか、青弓社、2019年)の書評を『赤旗』に頼まれたので執筆した。そのロング・ヴァージョンを掲げておく。

 

言葉は流布しているが、一意的な定義は確定していない。だから「ネット右翼とは何か」という本が書かれることになる。

 マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』と仕掛けは同じである。ウェーバーは「資本主義の精神」が何であるかについて定義しないまま本を書き出している。そういうものがあることだけは感知されるので、その具体的な「例示」を羅列する。そうしておけば、本を書き終わるころには概念の輪郭が刻めるだろうという見通しである。

 それでよいと私は思う。新しい事態を指示する新しい概念については、さしあたり際立った例示が示されれば十分である。

 本書では「ネット右翼」についてのいくつかの例示が示されている。「ネット右翼とは何か」について、それぞれの研究者がそれぞれの研究成果をテーブルに並べている。論者たち(8人いる)の間で概念の定義やその歴史的文脈について完全な合意があるわけではない。けれども、研究者がお互いの仕事に敬意を払っていることはよく伝わってくる。

 本書から私はネット右翼の社会的出自や属性については有用な知見をいくつも得ることができた。とりわけ私が気にかかったのはネット右翼の語り口の定型性である。

 私は語り口が定型的であることは書き手の知性の否定的指標だと思い込んでいたが、話は逆らしい。この定型性は意図的に構築されているのである。

 定型的な言葉づかいを繰り返しネット上にまき散らすことは「特定のトピックを際立たせるための効果的な戦略」であり、botを利用すれば、特定の政治的争点について、イデオロギー的には親和的だが、それまで組織的には無縁だった人たちを結びつけて、彼らを巨大な「世論選好のクラスター」にまとめあげることができる。

 安倍政権の政治的成功はこの「クラスター形成」にあるという指摘には強く胸を衝かれた。

 たしかに、自らアジテーションの現場に立つと、定型的な言葉づかいを繰り返すほど聴衆は「盛り上がる」ということは実感としてはよく分かる。ふだん私が教壇で話しているようなややこしい話を演説会場でしても、さっぱり受けない。それは、私が聴き手に自分のそれまでのものの考え方を「棚上げ」して、しばらくの間「中腰」に耐えてもらうことを求めるからである。

 しばらくの判断中止に耐えうることは知性的であるための重要な条件だと私は思うけれど、それはいまの日本の状況では政治的成功を断念することにほとんど等しいのである。

 

 ということを改めて思い知らされた。