〒634-0804

奈良県橿原市内膳町1-1-19

セレーノビル2階

なら法律事務所

 

近鉄 大和八木駅 から

徒歩

 

☎ 0744-20-2335

 

業務時間

【平日】9:00~19:00

土曜9:00~12:00

 

2019年

10月

16日

『女は何を欲望するか』韓国語版序文(後編) ☆ あさもりのりひこ No.744

知的生産は集団的な営みだからです。共同作業なんです。成員のひとりひとりが手持ちの知的資源を公共の場に差し出して、全員がそれぞれの知恵と工夫で、公共の場に供託された知的資源を素材に新しいものを創り出す・・・。そして、その作物がもたらす恩恵は集団成員の全員が享受できる。そういう開放的で対話的な場を立ち上げられる人を僕は「知性的な人」とみなします。

 

 

2019年8月15日の内田樹さんの論考「『女は何を欲望するか』韓国語版序文(後編)」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 知性というのは集団的に発動するものだ、というのはちょっとわかりにくいと思いますけれど、具体的な事例を思い浮かべてください。

 ときどき、個人的にはずいぶん頭が切れるんだけれど、その人がいて、うるさくあれこれ断言したり、適否の査定を下したりするせいで、周りの人間が混乱したり、自信をなくしたり、気鬱になったり、やる気が失せたり・・・するということがありますよね。みなさんの周りにもけっこうそういう人がいるんじゃないでしょうか。

 そういう人はその人を単体で取り出して見ると、ずいぶん頭が良いように見えます。でも、なぜかその人がいるせいで、集団的な知的パフォーマンスが低下する。どうしてなんでしょうね。たぶん周りの人たちを過剰に緊張させてしまうんでしょう。他人にも自分と同じレベルを求めるとか、決して誤答を許さないとかして。そういう人が入ると、チームのパフォーマンスが下がるということは実際にあります。

 AIというアイディアが最初に学術的なテーマに選択されたのは1955年のダートマスカレッジにおいてでした。ジョン・マッカーシーとマービン・ミンスキーという二人のコンピュータ・サイエンティストが立ち上げた共同研究計画のテーマが「機械には思考能力はあるか」だったのです。その当時この分野の第一人者は衆目の一致するところノーバート・ウィーナーでした。「サイバネティクス」というのはこの天才が発明した術語です。でも、マッカーシー&ミンスキーはウィーナーをこのプロジェクトには招聘しませんでした。

「ウィーナーがすぐれた頭脳の持ち主であることは疑いようがなかった。問題はけんかっ早く、知ったかぶりをする人物で、研究プログラムに彼が参加すれば、ダートマスでの夏が悲惨なものになることは眼に見えていた」からです。(ケネス・クキエル、『人工知能への備えはできているか?』、Foreign Affairs Report, 2019, No.8

 ノーバート・ウィーナーは異論のない天才でしたけれど、チーム全体の知的パフォーマンスを上げることには適していなかった。そういう人には「席をはずしてもらう」という判断は実践的には「あり」だと思います。結果的に、アメリカでの人工知能研究はウィーナー抜きで(ウィーナーがいたらたぶん「そっち」には行かない方向に)進んでしまった。

 僕はマッカーシー&ミンスキーの判断を支持する側です。

 知的生産は集団的な営みだからです。共同作業なんです。成員のひとりひとりが手持ちの知的資源を公共の場に差し出して、全員がそれぞれの知恵と工夫で、公共の場に供託された知的資源を素材に新しいものを創り出す・・・。そして、その作物がもたらす恩恵は集団成員の全員が享受できる。そういう開放的で対話的な場を立ち上げられる人を僕は「知性的な人」とみなします。

 

 本書での僕のフェミニズム批判も大筋ではこの原則に基づいています。

 言うことの切れ味はやたらにいいんだけれど、断定的過ぎるせいで、同意するか、拒絶するかの二者択一しか許されないというタイプの論者に対しては、僕はあまり好意的ではありません。逆に、言うことは独創的だけれど、自説以外の立場との対話の回路をきちんと確保してくれているオープンマインデッドな論者に対しては、僕はつねに深い敬意と信頼を寄せています。

 どんな社会理論もそれを単体で取り出して、その適否や真偽について「最終的決定」を下そうとすることにはあまり意味がないと僕は思います(手間と時間がかかり過ぎます)。そういう煩瑣な議論に入り込むよりは、その理論がどういう歴史的文脈をたどって形成されてきたのか、それによってどのような新しい問題群が前景化・可視化されたのか、それとの対話によって、どのような新しい理説が生まれ出たのか・・・というふうな広々としたスパンの中での、当該理論の豊饒性・多産性を評価した方が思想史研究的には有意義なんじゃないかなと僕は思います。

 そういう基準を当てはめてみると、フェミニズムの諸説のうち、たくさんの「子孫」を残したものもあるし、「進化の袋小路」にはまりこんで枯死したものもある、ということが言えそうです。

 

 本書では1970年代から90年代にかけてのフェミニズムの言語理論や記号論が取り上げられています。当時の欧米の過激なフェミニストたちがどんな学説を語っていたのか、その代表的なもののいくつかを本書では紹介しています。もちろん論争的な文脈での紹介ですから、中立的なプレゼンテーションとは言えませんけれど。

 それでも、本書で取り上げた中では、リュス・イリガライの「女として書く」理論やクリスチーヌ・デルフィの階級的フェミニズムやジュリア・クリステヴァの「アブジェクシオン」論などは「袋小路」に入り込んでしまって、子孫を残せなかったことくらいはわかります。一方、ショシャ―ナ・フェルマンのフェミニズム文学論はたぶんいまでもアメリカの大学で文学研究で卒論を書く学生院生たちにとって必須の参考文献として読まれているんじゃないかと思います。

 ここで扱われた諸説が世に出てから、ものによってはすでに半世紀が経ちました。どの理論が結果的に多産なものであったか、どの理論が後継者を得ることなく立ち枯れたかは歴史が教えてくれます。ですから、本書はフェミニズムについての一種の「ブックガイド」として読むことができるかと思います。訳者の朴先生がこの本を選んだ理由もそうなのかも知れません。

 というのは、本書が扱っている70~90年代のフェミニズムの文化理論が、その時期、軍事政権下の思想弾圧と、それに抗う民主化闘争の渦中にあった韓国で優先的な知的関心の対象になるとは考えにくいですから。

 きっと『寝ながら学べる構造主義』や『若者よマルクスを読もう』と同じように、「その頃に欧米で論争的なトピックであった学術的理説について、回顧的に一望俯瞰できる概説書」がいまの韓国ではそれなりのニーズがあるのかも知れません。

 

 この本の扱っている論件はもう日本では学術的情報としては、ほとんど需要がなくなりましたけれど、このたびこうやって韓国の読者のために二度目のお勤めを果たすことができるようになりました。ずいぶん昔の書き物ですけれども、それがみなさんのお役に立てたのなら、書いた甲斐があったというものです。お手に取ってくださって、ありがとうございます。

2019年

10月

15日

万が一の為に備えを!

 

本日は、事務局の担当日です。

 

先日来、台風19号の被災状況がテレビや新聞で報じられていますが、災いは、いつどの様にやってくるかわからないと痛感しますよね。

我が家でも、去年の台風21号で風による被害があったので、外周りには入念な対応を取りましたが、思っていたほどではなく、被害はありませんでした。

しかし、今回の台風19号が通過した後に、雨による河川の氾濫と堤防の決壊による水害が多くの人や物に及んでいることに驚き、被災した人々に同情し、励ましたいと思いました。

誰しもが、災い、不幸な出来事、交通事故に遭えば、平常心を失いがちで、冷静な判断ができなくなります。

そんな時には、以前から何度もお伝えしているように一人で悩まずに誰かに話すこと、相談することが必要だと思います。

一方で、被災していない人も今後の為に、被災した人の経験談から学び、備えをすることが必要だと思います。

備えの一つとして、やはり保険に加入することが良いと思います。

我が家も昨年の被災した修繕については、団地全体の保険や個人で契約した保険で殆どカバーできました。

また保険に単に加入するだけでなく、契約内容をよく考え、既に加入されている方は契約内容を見直すことが重要です。

基本契約はもちろんですが、僅かな追加掛け金で色々な特約も有ります。

当事務所に交通事故で相談に来られる方で、最近多いのが「弁護士費用特約」という補償(特約)に入っていることです。

加入している保険契約に弁護士費用特約が付加されていると、法律相談やその後の弁護士費用が保険から支払われ、弁護士費用の負担無く弁護士に相談・委任ができます。

またなんといっても交通事故で被害者の立場(相手の過失が100%)でも利用できることです。

その追加保険料は、およそ年間で2000円前後、1ヶ月で150~200円位と聞いています。

しかし、相談・依頼して得られる精神的な負担の減少は、お金に換算できないと相談者や依頼者から聞きます。

そして一度相談されると、少し冷静になり、その後はより相談しやすいとも聞きます。

何と言っても、悩みの相談は早めにされることが一番です!

2019年

10月

11日

『女は何を欲望するか』韓国語版序文(前編) ☆ あさもりのりひこ No.743

隣国の知識人が(主流であろうと傍流であろうと)何を考えているのかを理解したいという意欲を韓国人は有しており、日本人は有していない。その差がいずれ国力の差としてかたちをとるだろう

 

 

2019年8月15日の内田樹さんの論考「『女は何を欲望するか』韓国語版序文(前編)」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

日韓の政府間では緊張が続いているが、民間での連携はペースダウンすることなく深まっている。私の本も先日出た『大市民講座』に続いて、『最終講義』『街場の文体論』『女は何を欲望するか』が出版される。この文化的な開放度の差はそのまま今後の日韓の国力の差に帰結するように私には思われる。

「ウチダの本の韓国語訳が出ることが、どうして日韓の国力の差に結びつくんだ。何をうぬぼれているんだ」と憫笑する人もいるかも知れないけれど、そんな人でも、今韓国の思想家の書物が短期間に十数冊連続的に日本語訳されるということがもしも日本で起きたら、浮足立つだろう。

 私たちは「起きたこと」については「どうしてそれが起きたのか?」を問うけれども、「起きてもいいのに起きなかったこと」については「どうしてそれは起きなかったのか?」を問う習慣を持たない。

 隣国の知識人が(主流であろうと傍流であろうと)何を考えているのかを理解したいという意欲を韓国人は有しており、日本人は有していない。その差がいずれ国力の差としてかたちをとるだろうと私は言っているのである。

 

女は何を欲望するか 韓国語版序文

 

 みなさん、こんにちは。内田樹です。

 『女は何を欲望するか』は2002年に出版されたものですから、収録された論文の多くは1990年代に書かれたものです。当時、学術的にはホット・イシューであったフェミニズム記号論・言語論を扱った論集です。でも、これはもう現在はそれほど「ホット」な論件ではありません。ですから、正直に申し上げて、論集としてはあまり今日性がありません。そのことを最初にお断りしておきますね。「それでも読みたい」というオープンマインデッドな読者のための書物です。

 それでも、僕の批評的な方法は、どんなトピックを扱う場合でもそれほど変わりはありません。それはある作物が「知性的かどうか」だけを問題にするということです。学術的な仕事については、僕はそれしか関心がないのです。

 ある仕事が「学術的に厳密かどうか、科学的言明として真であるかどうか」ということは僕にはわかりません。この世のほとんどすべての学術的トピックについて、僕はさまざまな仮説の真偽を判定するほどの知識を持っていないからです。

 それでも、僕たちは誰でも、手持ちの限られた時間のうちに、自分の責任において、ある理説を採り、ある理説を退けるという判断はしなければなりません。

「退ける」と言っても、論破するとか黙らせるとかいうことではなくて、「あなたの論を研究するために割く時間はないんです、ごめんね」というふうにそっと「遠ざける」だけのことなんですけど。

 その場合の採否の基準になるのが、「知性的かどうか」ということです。

 でも、勘違いして欲しくないんですけれど、それは当の言明や仮説それ自体についての評価ではないんです。学術的なエビデンスが整っているとか、論理的に整合的であるとか、最新の学説を踏まえているとか、文体がかっこいいとか、そういうことについて判断しているんではないんです。

 

 僕は知性というのは個人においてではなく集団において発動するものだと考えています。集団としての知的パフォーマンスの総量を結果的に向上させたものには知性的に価値がある。それが僕の考えです。同意してくれる人はあまりいませんけれど、個人的にはずっとその方針でやってきていて、これまで大きく誤ったことはないと思います。 

2019年

10月

10日

奈良マラソン2019への道 その5 ☆ あさもりのりひこ No.742

8月25日(日)に転倒して、顎が裂けて、整形外科で6針縫った。

その後も整形外科に毎日のように通院して、傷口を消毒してもらった。

9月6日(金)、ようやく抜糸。

受傷して13日目である。

 

整形外科と並行して、接骨院に通う。

顎を打ち付けたときの衝撃で首と肩甲骨が痛い(いわゆる「むち打ち」の症状)。

裂けた顎の傷口が閉じて(癒着して)から、首の牽引が始まった。

 

9月4日(水)から早朝のジョギングを再開する。

ランニングを9日間休んだことになる。

ウインドスプリントは控えて、毎日、走る距離を少しずつ伸ばしていく。

走っても、首と肩甲骨は痛まないようになった。

 

9月8日(日)早朝、2週間目に「こけた」ときと同じコースを走る。

「こけた」あたりでは、慎重に走った。

「こけた」ときより4分以上遅かったが、無事に完走した。

 

9月16日(月)、キトラ古墳から栢森まで24㎞を走る。

20㎞以上走るのは、7月末にハーフマラソンを走って以来になる。

ジョギングペース(1㎞7分前後)で走ったが、激坂の上り下りでスタミナを使ったので、最後はキツかった。

 

9月22日(日)、橿原市曽我町のゼビオでランニングシューズを買う。

9月30日が期限の10%割引券を持っていたのだ。

いつものASICSライトレーサー(ワイド)、サイズ28㎝。

色はオレンジ。

特にオレンジを選んだわけではない。

サイズ28㎝はそれしかなかったのだ。

 

9月23日(月)、大阪服部緑地ナイトハーフマラソンを走る。

ランニングシューズは履き慣れた方のASICSライトレーサーで走った。

タイムは2時間15分24秒。

これで、夏のナイトラン全3回が終わった。

 

9月29日(日)、奈良マラソンのコースを試走する。

晴れて暑い。

8㎞までは、1㎞6分40秒前後でジョギングする。

8㎞から16㎞まで、1㎞7分台に速度が落ちる。

16㎞から歩いて、復活を待つ。

しかし、復活しなかった。

28㎞まで歩いて、バスに乗った。

調子が良かったので、月曜日のハーフマラソンの後も頑張って走り続けて、疲れが取れていなかった。

土曜日は走らないで休んだのだが。

ロング走をするときには金曜日と土曜日の2日間休むべきだな。

 

10月6日(日)午前、橿原公苑でペース走を120分。

9時すぎに走り始めたときには、霧雨が降っていた。

そのあと雨は上がり、曇りの天候。

最後は晴れ間が見えた。

1㎞6分11秒から6分42秒の間で19㎞走った。

最後の1㎞が6分11秒で、最も速かった。

ペースの平均は1㎞6分25秒。

 

つぎは1㎞平均6分15秒で走りたい。

2019年

10月

09日

民主主義の時代(後編) ☆ あさもりのりひこ No.741

民主主義は国が好調である時にはきわめて非効率的なものに見えますが、国難的危機のときには強い復元力を持ちます。でも、いまの若い人たちは、民主主義というものを単なる多数決という手続きのことだと思っている。できるだけ多くの人、多様な立場を合意形成の当事者に組み込むことで集団の復元力を担保する仕組みだということを知らない。

 

 

2019年8月12日の内田樹さんの論考「民主主義の時代(後編)」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 僕が生まれた50年、日本の農業従事者は人口の49%でした。だから、久しく組織運営は村落共同体をモデルに行われていました。長い時間をかけてゆっくり満場一致に至るまで議論を練り、一度決めたことには全員が従い、全員が責任を負う。

 でも、戦後民主主義の進行とぴたりと並走するようにして産業構造が変わった。そして、70年代には、ほとんどの人が株式会社的な企業の一員になった。

 株式会社では、CEOに全権を委ね、その経営判断が上意下達されます。経営者のアジェンダに同意する人間が重用され、反対する人間は排除される。経営判断の適否を判断するのは従業員ではなく、マーケットです。どれほど社内で合意が得られなくても、マーケットが経営判断を支持して、商品が売れ、株価が上がるなら、経営者は正しかったことになる。

「マーケットは間違えない」という市場原理主義を信仰することで自動的に民主制は空洞化したのです。

 株式会社は徹底的に非民主的な組織です。そして、気がつけばそれが社会組織の過半を占めるようになった。産業構造や企業組織に基づいて人間は「社会はどうあるべきか」を理解します。民主主義が衰微したのは、一つには僕たち戦後民主主義の受益者たちが、そのたいせつさを全然ありがたがらなかったからであり、もう一つは農村共同体が消滅し、株式会社が社会の基本モデルに採用されたからです。

 

 いま安倍政権下では、政権与党は野党との合意形成のためにはほとんど労力を割きません。ある程度審議時間を費やしたら、多数決で強行採決して法律を通すことが当たり前になっている。そして、多くの国民はそのプロセスに心理的抵抗を感じていない。

 それはわれわれの家庭も、学校も、企業も、どこにも民主的な合意形成で運営されている組織なんか存在しないからです。民主主義を知らない人たちが国会に民主主義がないことを怪しんだり、不満に思うことはありません。

 でも、成員全員の合意をとりつける努力を怠る組織は、うまく回っているときはいいけれど、いったん失敗したときに復元力がない。

 政策決定において自分たちの意見が無視されたと感じたメンバーはトップの失敗を「ざまあみろ」と嘲笑するだけで、その失敗に自分たちも責任があるとは思わない。劣勢から挽回するために全力を尽くす義理があるとも思わない。経営者が経営判断に失敗したときに従業員は減俸とか解雇とかいうかたちで「ひどい目」に遭うわけですけれども、でも、経営の失敗について「バカな経営者だ」と冷笑することはあっても、申し訳なく思ったり、反省したりすることはありません。わが身の明日は心配だけれど、会社の明日のことなんか「知るかよ」で終わります。

 企業ではそれでいいかも知れません。でも、国の場合はそうはゆきません。

 政権が外交や内政において失敗するということは巨大な国益の喪失を意味しています。場合によっては国土を失い、国富を失う。そのような事態に接して、国民の相当数が冷笑して、「ざまあみろ」と拍手喝采するというのはあってはならない異常事態です。

 国政が誤ったときこそ全国民がその失政に責任を感じ、挙国的な協力体制を形成しなければならない。そうしないと国の衰微は止まりません。戦況がいいときは、先陣争いをして勢いに乗じてがんがんいけば無計画でもなんとかなりますけれど、後退戦は全員で計画的に戦わなければならない。

 そして、できるだけ多くの人がこの失政に責任を感じて、自分が後退戦の主体であると感じるためには、それに先立った、できるだけ多くの人が国策の形成に関与している実感を持つ必要がある。

 民主主義というのは、本来そのための制度だと僕は理解しています(今ごろ理解してももう手遅れかも知れませんが)。

 民主主義は国が好調である時にはきわめて非効率的なものに見えますが、国難的危機のときには強い復元力を持ちます。でも、いまの若い人たちは、民主主義というものを単なる多数決という手続きのことだと思っている。できるだけ多くの人、多様な立場を合意形成の当事者に組み込むことで集団の復元力を担保する仕組みだということを知らない。

 

 僕はそれを民主主義の危機だと思っているのです。

2019年

10月

08日

伝説の家政婦

離婚 八木 弁護士

みなさん、こんにちわ。

本日は事務局担当日です。

 

先日、こどもがケラケラ笑いながら言いました。

「先生に、見た目は几帳面そうなのに、実はかなりおおざっぱやねんな~って言われた。今頃きづいたんや~」

 

・・・。

脳天気なこどもで申し訳ありません、先生!!

そして、今後とも見捨てることなくよろしくお願いします(ToT)

「伝説の家政婦」と評判の志麻さんをみなさん、ご存じでしょうか。

 

私は、昨年5月に放送されたNHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」を観て

初めて知ったのですが、ものすごく感動したことを覚えています。

 

志麻さんは家事代行のハウスキーパー派遣会社に所属するお助け料理人です。

元々はフレンチの料理人としてフランスで修行後、

日本のフレンチ有名店で15年勤められました。

 

結婚を機に働き方を変え、ハウスキーパーとしてお仕事を始められましたが、

お仕事を始めた当初は「家政婦」に対する「下働き」というイメージやそれまで第一線でシェフとして働いていたギャップからとてもしんどい思いをされたそうです。

でも、いろんな家庭へ行くうちに、家族団らんの幸せな時間を目の当たりにしたり、

お客さんから「おいしかった」「ありがとう」と笑顔をみるたびに、

この仕事を始めてよかった、とやりがいを感じられるようになったそうです。

 

当初はお掃除などもされていたそうですが、料理の依頼が徐々に増え、1年もたつと

予約表に志麻さんの名前があがると30分で予約が埋まってしまうほどの

定期契約顧客数ナンバーワンに!

今では新規の予約はとれないそうです。

なら法律事務所

番組では、派遣先のお宅でお料理をするところも放送されていたのですが、

冷蔵庫にある普通の食材で、3時間で15品ほどあっという間に彩り鮮やかに和洋中のお料理ができあがっていきました。

こどものお誕生日のご家庭ではケーキまで。

 

・・・志麻さん、関西には来てくれないですか・・・。

 

そんな志麻さんが、今日再びNHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」に出演されるそうです。

前回の放送は、お料理だけではなく、志麻さんや家事代行を依頼する家族のストーリーも紹介され、とても心に響く感動的なものだったので、

今回の放送もとても楽しみです。

是非ご覧下さい(・∀・)

 

2019年10月8日(火) 午後10時30分~

(再放送2019年10月15日(火) 午前0時20分)

 

プロフェッショナル 仕事の流儀

「伝説の家政婦、再び~タサン志麻の新たな挑戦」

家庭に残された食材と調理器具を駆使して、およそ1週間分15品を超える「つくりおき料理」を即興で作りあげる。料理のバリエーションは600種類以上。しかも、一流レストラン顔負けの本格フレンチから和食・中華に至るまで、何でもござれ。予約が取れないことからついた異名が「伝説の家政婦」。そんなタサン志麻の新たな挑戦に密着。

(NHK ホームページより)

 

2019年

10月

07日

民主主義の時代(前編) ☆ あさもりのりひこ No.740

家庭と学校を民主化しようとした四半世紀の努力の果てに、僕たちは民主主義を徹底させてみたら、民主主義的な組織はもたないということを暴露してしまった。そうやって「戦後民主主義の申し子」であった僕たちの世代が戦後民主主義の息の根を止めてしまった。

 

 

2019年8月12日の内田樹さんの論考「民主主義の時代(前編)」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

ある「育児雑誌」でインタビューを受けた。その時に思いついて日本の民主主義はとても短命なものだった(過去形なのが悲しい)という話をした。それを再録する。

 

終戦を境に戦前の軍国教育は全否定され、日本はいきなり民主国家になりました。つい昨日までの治安維持法があり、特高や憲兵隊がいた時代に比べたら夢のように自由な社会が出現したわけです。家庭もそれに準じて、戦前までとは違う、まったく新しいものにならなければならないと人々は思っていた。ほんとうにそう思っていたのです。

 でも、彼ら自身は親たちも教師たちも「民主主義」なんて知らない。戦前の家庭も学校も職場もどこにも民主主義なんかなかったからです。自分が経験したことがない理念をいまここで実践しなければならない。そういう歴史的急務に1950年代の親たち教師たちは直面していました。そして、僕が知る限り、彼らはかなり誠実にその「責務」を果たそうとしていました。ある時期までですけれども。

 結論を先取りしてしまえば、「大人たち」が日本社会は民主主義的に組織されなければならないと本気で思っていた時代は1945年から1970年くらいまでの四半世紀のことだと僕は思っています。それ以前に日本に民主主義はまだ根づいていなかったし、それ以後はゆっくり枯死していった。

 ですから、いまの50歳以下の人たち(1970年代以後に生まれ育った人たち)は言葉の厳密な意味での「民主主義」を経験したことがないと思います。

 だから、僕の経験談を聴いたら、ずいぶん驚くんじゃないでしょうか。

 内田家はきわだって民主的な家庭でした。ですから、週一回毎週水曜の夕食後に「家族会議」が開かれていました。父が議長、母が書記で、兄と僕が二人きりの議員でした。家族会議では休みの日にどこへ行くとか、犬の散歩は誰がするとかいうことを合議で決めていました(別に会議を開いて決めなくちゃいけないような事案ではなかったのですけれど、「家族会議」をやろうと言い出した父も、それくらいしか議題を思いつかなかったのでしょう)。

 小学校六年生のとき、僕は児童会の議長をしていました。あるとき、生徒たちの意見が集約できず、顧問の先生を振り返って「先生、どうしたらいいでしょう?」と泣きついたことがあります。そしたら、「自分たちで決めろ。そのための児童会だろう」と一喝されたことを覚えています。そういう時代だったんです。子供たちが苦労して民主主義を学習しているのに教師が横から邪魔をしてはいけない、と。ほんとうにそう思っていた。

 民主主義的な合意形成のためにはそれなりの技術が必要です。僕らの世代はその技術を児童会や生徒会で教え込まれた。民主的な審議とはどういうものか? 対立する議論はどうやって集約するのか? 合意形成のためには何が必要なのか? そういうことは子供のときから経験を積まないと身につきません。

 いまの日本は法理的には民主主義社会ですけれど、実際には、それを適切に運用するノウハウをもう市民たちは有していない。だって、教わったことがないから。

 だから、いまの日本の家庭は民主的でもないし、家父長制でもない。まことに中途半端なものになっています。

 

 戦前の家父長制下では、家長は黙ってそこにいるだけで、役割を果たすことができた。たとえ中身がすかすかでも、黙ってそこにいて、定型的に家父長的なことを言っていれば、それなりの威厳があった。

 ところが、民主的な家庭ではもう家長の威信という制度的な支えがありません。父親は正味の人間的な力によって家族を取りまとめ、その敬意を集めなければならない。でも、手持ちの人間的実力だけで家族の敬意を集めることができるような父親なんか、実はほとんど存在しなかった。家父長制の「鎧」を剥ぎ取られて、剥き出しになった日本の父親はあまりに幼児的で、あまりに非力だったことがわかった。   

 同じことは学校でも起きました。上に立って威張っていた教師たちの「正味の人間的実力」を測ったら、人の上に立つほどの実力がないということがたちまち暴露されてしまった。それが60年代末からの全国学園紛争の文明史的な意味だったと僕は思います。学生たちから「あなたたちは教壇で偉そうに説教を垂れているけれど、個人としてどれほどの人間なのか? 平場で勝負しようじゃないか」と言われた大学教師のほとんどが、腰砕けになってしまった。象牙の塔の権威がそれでがらがらと崩れてしまった。

 家庭と学校を民主化しようとした四半世紀の努力の果てに、僕たちは民主主義を徹底させてみたら、民主主義的な組織はもたないということを暴露してしまった。そうやって「戦後民主主義の申し子」であった僕たちの世代が戦後民主主義の息の根を止めてしまった。もちろん、そのときはそんな重大なことをしているという自覚はありませんでした。でも、たしかに日本の戦後民主主義を扼殺したのは、僕たちです。僕たちが要求したのは、ある種の「実力主義」であり、「成果主義」であり、制度や組織の力を借りずに、独力で欲望を実現できる一種のアナーキーでした。60年代末から70年代はじめにかけて「遠くまでゆく」とか「ひとりきりで」とかいう言葉に政治少年たちは偏愛を示しましたけれど、要するに僕たちの世代は僕たちを柔らかく保護していた「民主主義という殻」を「邪魔くせえよ」と言って引き剥がし、「荒野に手に何ものも持たずに立つ」というようなタイプの生き方を「政治的に正しい(し、審美的にもかっこいい)」と思っていたのでした。

そういう「お気楽」な発想ができたことそれ自体が戦後民主主義の賜物だということを当時の僕たちは全然わかっていなかったのです。

 とにかくそういうふうにして、民主主義の絶頂期において、その恩沢を最も豊かに享受していた世代集団によって民主主義は足蹴にされた。

 ある種の「アナーキー」が登場したと上に書きましたけれど、戦後民主主義が崩れ始めて、日本社会を統合する組織原理が見失われ始めたときに、もう一度組織をバインドする新しい「統制力」が思いがけないところから登場しました。

 それが日本社会全体の「株式会社化」です。

 

 

2019年

10月

04日

天神祭 船渡御の夜 ☆ あさもりのりひこ No.739

霊的なものの臨在を感じると人々は、できるだけ俗なものをそれに対置させる。そうすることで、「人間が棲息できる程度には汚れているが、人間が敬虔な気分になる程度には浄化された、どっちつかずの空間」を創り出す。

 

 

2019年8月12日の内田樹さんの論考「天神祭 船渡御の夜」をご紹介する。

 どおぞ。

 

 

毎年夏になると、高島幸次先生が主催する天神祭の夜の船渡御にでかける。高島先生は大阪大学と大阪天満宮の文化研究所に籍を置く研究者で、ご専門は天神信仰である。仕立てる船は「天満宮文化研究所」の看板を掲げているので、ただ宴会をして花火を見ている船とはいささか趣が違って、微妙に学術的な船である。例年、乗船メンバーには学者と作家が多い(今年も60人の乗客のうち、芥川賞作家一人、直木賞作家三人、大学教員十数人というずいぶん偏った構成だった)。

 私がこの船に乗ることになったきっかけは天満宮の敷地にある繁昌亭の高座に上がったことである。繁昌亭ではときどき学者や研究者を「色物」として高座に上げて、高島先生と桂春團治師匠が「いじる」という不思議なイベントをしている。私も何年か前に、高座に上げられ、要領を得ない話を30分ほどした。それがなぜかお客に受けて、以後毎年出演することになった。そうやって天神さまとご縁ができた。

 お祭りというのは宗教行事であるから、土地の神さまにかかわりのある者が参加すべきであって、よそものが観光気分で懐手して出かけるのは「筋が違う」と思っていた。だから、これまでは自分が氏子である神社のお祭り以外にはほとんど行ったことがない。ところが、天神さまとご縁ができた。ご縁ができたら祭礼にはきちんとでかけないと信仰の「筋が通らない」。そういう点では割と頑固な男なのである。

 船に乗るようになって今年で6年目になる。この船の最大の魅力は、伝説のフレンチ「ミチ ノ・ル・トゥールビヨン」の道野正シェフがお弁当担当で乗り込んでいるということである。贅沢な話である。お酒も持ち込み自由で、飲み放題。

 今年は潮位のせいで出航が1時間近く遅れた。その間ずっとフレンチをアテにシャンペンやワインなどをぐいぐい飲んでいたので、船着き場を離れる頃には相当数がすでに「へべれけ」状態になっていた。そういう状態で行き合う船や岸の方たちと「大阪締め」をしたり、頭上から降り注ぐ花火に歓声を上げたり、文楽船や能船に見入るのである。酔客たちはMCのお伽衆をおしのけて、マイクを握り、それぞれ好き勝手な話をしている。ほとんどカオスである。

でも、これでいいのだと思う。「聖地はスラム化する」というのは大瀧詠一さんの洞察であるが、同じく「宗教儀礼は必ず宴会になる」という命題も成立するのではないかと私は思っている。

 霊的なものの臨在を感じると人々は、できるだけ俗なものをそれに対置させる。そうすることで、「人間が棲息できる程度には汚れているが、人間が敬虔な気分になる程度には浄化された、どっちつかずの空間」を創り出す。世界中の聖地はどこもそうである。それは釈徹宗先生との長きにわたる「聖地巡礼」の旅を経て、私たちが会得した経験知である。

 多くの宗教では、厳しい行の後に必ず「直会(なおらい)」というものを行う。それまで禁じられていた飲酒や肉食や放談がそこではむしろ推奨される。過剰に浄化された心身のままで日常生活に帰還すると思いがけないトラブルを引き起こすことが経験的に知られているからである。

 

 天神祭船渡御ではご神霊を載せた奉安船とまぢかに行き違う。そのときは人々もおしゃべりを止めて、きちんと拝礼をして柏手を打つ。これほどご神霊を近くに感じられる機会はふだんはない。だが、御霊の切迫によって一時的に霊的に緊張した場は再び宴会と哄笑によって緩められる。その緩急の揺らぎを味わいながら、改めて、船渡御もまた実によくできた宗教的な装置だなと思った。

2019年

10月

03日

9月のデータについて ☆ あさもりのりひこ No.738

今年の9月のデータが出た。

 

まず、奈良県橿原市の環境放射線量(ガンマ線)。

1か月間の平均値はつぎのとおり。

室内1メートル 0.042μ㏜/h

室内0メートル 0.044μ㏜/h

室外1メートル 0.055μ㏜/h

室外0メートル 0.069μ㏜/h

 

ちなみに2018年9月のデータはつぎのとおり。

室内1メートル 0.045μ㏜/h

室内0メートル 0.046μ㏜/h

室外1メートル 0.056μ㏜/h

室外0メートル 0.069μ㏜/h

 

今年の1月、地表(室外0メートル)は0.069μ㏜/hだった。

2月から8月まで7か月間、0.07μ㏜/hを超えていた。

地表の値が、8か月ぶりに0.07μ㏜/hを下回った。

 

 

つぎに、朝守の身体について。

体組成計の9月末のデータを去年と比べてみる。

体重 72.1㎏→68.45㎏

BMI 22.8→21.

体脂肪率 17.3%→14.3%

筋肉量 56.55㎏→55.65㎏

  推定骨量 3.1㎏→3㎏

  内臓脂肪レベル 11.5→10

  基礎代謝量 1633/日→1597/

  体内年齢 43才→44才

  体水分率 57.3%→59.8%

 

体重と体脂肪率と内臓脂肪レベルが減って、体水分率が増えているのはいい。

筋肉量と推定骨量が減っているのは良くない。

基礎代謝量が減っているのは、どうなんだろう?

 

 

最後に、1か月間のランニングのデータ。

走行時間 23時間14分13秒

走行距離 195.5㎞

 

去年の9月のデータは

走行時間 20時間54分06秒

走行距離 157.2㎞

 

時間は約3時間40分、距離は約38㎞増えている。

よくがんばったと言えるんじゃない。

もうちょっとで月間走行距離が200㎞を超えるとこだった。

惜しかった。

 

 

放射線量はまったくコントロールできない。

体組成はある程度コントロールできる。

ランニングは100%コントロールできる。

さて、秋10月(神無月)。

 

気候も良い季節になったし、がんばろう!

2019年

10月

02日

図書館について(後編) ☆ あさもりのりひこ No.737

図書館とは、そこに入ると「敬虔な気持ちになる」場所です。世界は未知に満たされているという事実に圧倒されるための場所です。

 

 

2019年7月20日の内田樹さんの論考「図書館について(後編)」をご紹介する。

 どおぞ。

 

 

 一つは「無人の時間」が確保されていること。できたら一日の半分以上は閉館されていて欲しい。

 もし、365日、24時間開いている図書館が理想だという人がいたら、その人が求めているものは図書館ではありません。それとは別の、おそらくネット上のアーカイブで代用できるものです。いますぐ調べたいことがある、レポートを仕上げるために明日までに読まなければならない本がある・・・というような人たちは、蔵書がすべてデジタルデータ化されているので、自宅のPCのキーボードを叩くだけで必要な情報が取り出せるということになったら二度と図書館には足を向けないでしょう。僕はそういう人たちのことを話しているのではありません。

 図書館とは、そこに入ると「敬虔な気持ちになる」場所です。世界は未知に満たされているという事実に圧倒されるための場所です。その点では、キリスト教の礼拝堂やイスラムのモスクや仏教寺院や神道の神社とよく似ています。そういう「聖なる場所」にはときどき人がやってきて、祈りの時間を過ごし、また去ってゆきます。特別な宗教的祭祀がない限り、一日のうちほとんどの時間は無人です。美しく整えられた広い空間が、何にも使われずに無人のまま放置されている。そのことを「空間利用の無駄だ」と思う人がいたら、その人は宗教と無縁の人です。僕はそういう人たちのことを話しているのではありません。

 仮に教会の礼拝堂を、「誰も使わない時間があるのに、何も利用していないのはもったいない」という理由で、カラオケ教室とか、証券会社の資産運用説明会とか、スーパーの在庫商品一掃セールとかに時間貸ししたらどうなるでしょう? 利用者たちが帰った後に、祈りのために礼拝堂に来た人は「おや、なんだか空気が乱れている」と感じるはずです。絶対に感じるはずです。それくらいのことが感じられないような人が自発的に礼拝堂で神に祈る気になるということはありません。

 この空気の乱れは、端的に「たくさんの人間がそこで祈り以外のことをした」ことによって生じたものです。

 そういう空気の乱れが鎮まるまでには時間がかかります。たぶん24時間くらいかかる。それくらいその場所を無人にしておかないと、空気の乱れは治まらない。

 何を根拠にそんなことを断定できるのかと言われても、別に根拠なんかありません。何となく、そんな気がするというだけのことで。

 でも、超越的なもの、外部的なもの、未知のものをある場所に招来するためには、そこをそれだけのために空けておく必要があるということはわかりますよね。

 天井までぎっしり家具什器が詰まっていて、四六時中人が出入りしている礼拝堂は祈りに向かない。当たり前です。ある範囲の空間内に「何もない」こと、ある範囲の時間内に「何も起きていない」ことがある場所を霊的に「調える」ためには必要なんです。

 

そのことは道場を持つとよくわかります。

 僕は自宅の一階を武道の道場にしています。朝早くに道場に降りて行って、そこで短い勤行をするのが僕の日課です。神道の祝詞と般若心経を唱えるのです。そのとき、前日の稽古が終わってから、誰も入らなかった道場の扉を開けると、空気がひんやりとして、空気の粒子が細かくなっているのが感じられます。まれに二日間誰も道場に入らなかったということがあります。そういう時は扉を開く時、ちょっとどきどきします。場がしっかり調っているということがわかるからです。

 武道の道場はお寺の本堂や教会と同じで、超越的なものを招来するための場所です。一種の宗教施設です。ですから、道場空間は調えておく必要がある。

 場を調えるといっても、別に難しいことではありません。道場は畳が敷いてあるだけの「何もない空間」です。その道場の扉を開ける人間が一日いなければ、何もない空間に、何ごとも起きなかった時間がそれくらい確保されると、場が調う。

 ユダヤ教の過ぎ越しの祭の食事儀礼「セデル」では食卓に一つだけ席が空いています。皿があり、カトラリーが並べられ、パンもワインも供されています。それはメシアの先駆者である預言者エリアのための席です。彼が来ないことを人々は知っています。過去何千年の間一度も来なかったんですから、帰納法的に推理したら、今年も来ない。そのことはわかっているんです。それでもエリアのために人の来ない食卓を整える。それは「何もない空間・何も起きない時間」が「聖なるもの」を受け入れるために必須の条件だと彼らが知っているからです。

 

 僕は図書館というのも、本質的には超越的なものを招来する「聖なる場所」の一種だと思っています。だから、空間はできるだけ広々としていて、ものが置かれず、照明は明るすぎず、音は静かで、生活感のある臭気がしたりしないことが必要だと思う。低刺激環境であることが必要だと思う。

 たぶんビジネスマインデッドな人たちはそんな話を聞いたら鼻先で笑うことでしょう。必ず笑うと思う。バカじゃないの、そんな無駄なことができるか、って。彼らは、狭い空間を効率的に使って、LEDで照明して、できるだけたくさんの来館者が館内を合理的な動線で移動して、てきぱきと用事を済ませられるような施設が理想だと言うでしょう。そして、配架する書物は回転率の高いものほど好ましいので、貸し出し実績の低い書物は「市場に選好されていない」がゆえに存在理由のない書物のことなのだから、どんどんゴミとして処分した方がいい、と。

 でも、そういう人たちはたぶん書物というものの本質を何もわかっていない。人間が本を読むというのがどういう経験なのか何もわかっていない。

 

 というような話をしました。

 100人ほどの聴衆はほとんどが図書館の職員たちでしたけれど、しんと聴き入っていました。

自分でもまさか「図書館には人があまりいない方がいい」というような思いつきの一言で、ここまで話を引っ張るとは思いませんでした。

 そして、その時の話をこうやって「韓国語版のあとがき」に流用させて頂くことができました。これは僕にとっては一番最近思いついた「どこに転がるのかまだよくわからないアイディア」です。できたてのほやほやですので、これを韓国語版のための「お土産」とすることにいたしました。そんなもの貰っても、別にうれしくないよ、という方もおいででしょうけれど、まあ、そう言わずにひとつご嘉納ください。

 以上、講演というのは、何が起きるか予測できないのでなかなか止められないという話でした。

 では、また別の本でお会いしましょう。その時にはこのアイディアの「続き」がどうなったかお話しできるといいですね。

 

追伸:徒然草にこんなフレーズがあったのを思い出した。関係ないかも知れないけど。

 

「すべて何も皆、事の調(ととの)ほりたるはあしき事なり。為残(しのこ)したるをさてうち置きたるは、おもしろく、生き延ぶるわざなり。内裏造らるるもかならず作り果てぬところをのこす事なりと、ある人申し侍りしなり。」

2019年

10月

01日

今日から消費税10%です@事務局より

皆さんこんにちは。今日は事務局担当日です。

 

先週末,近隣へ買い物に出かけたところ,

いつもガラガラの駐車場は満車で空車待ちができており,

店内に入ればレジ待ちの人でぐるりと折り返しの行列が(゚Д゚)

 

今日は一体何事?何か大きなセールやってるの?

・・・と,しばらくピンと来なかった私。

 

増税前の最後の週末ということで,皆さんまとめ買いに来られていたんですね

(゚_゚;)

 

今日からいよいよ消費税が10%となりましたが,ややこしいのが,軽減税率。

 

一部対象のものはこれまでどおり8%だということです。

 

国税庁ホームページ(https://www.gov-online.go.jp/tokusyu/keigen_zeiritsu/taisyohinmoku/naniga.html)より
国税庁ホームページ(https://www.gov-online.go.jp/tokusyu/keigen_zeiritsu/taisyohinmoku/naniga.html)より

主な対象は「飲食料品」「酒類」「外食」「新聞」の4つですが,

例えば,同じ水でも,ミネラルウォーターは飲料用なので8%のままですが,

水道水は洗濯などの生活用水としても利用するので10%になります。

 

食事も,お弁当などのテイクアウトや宅配なら8%,

外食やケータリングになると10%。

イートインスペースで食べる場合も10%です。

 

 

これに加え,ポイント還元制度に登録された店舗

(左のマークが目印)で,クレジットカードやデビッドカード,

電子マネーなどキャッシュレス決済を利用すると,2%から最大5%の還元を受けることができます。

対象店舗は,パソコンやアプリなどで調べることができます。

 

 

・・・・ただ,ちらっと見ただけでも還元を受ける対象のキャッシュレス手段は店舗によって違うため,キャッシュレスを使いこなし,上手にポイント還元を受けて買い物をする!

 

なんて日は,私にはまだまだ遠そうです…💀(+_+)

 

 

また,私たちの仕事で関わるところで一番気をつけないといけない点は,

今日から郵便料金や振込手数料なども変わっているということです!

 

うっかり,今朝82円のままで投函してしまい,慌てて郵便局へ問い合わせしたら,今日の午前中に集荷のものは旧料金で良いとのことでセーフでした・・・。

 

皆様もお気を付けください<(_ _)>

 

 

2019年

9月

30日

図書館について(前編) ☆ あさもりのりひこ No.736

たぶん人がいない、静まり返った空間でないと書物がシグナルを送ってくるという不思議な出来事が起きにくいからだと思います。

 

 

2019年7月20日の内田樹さんの論考「図書館について(前編)」をご紹介する。

 どおぞ。

 

 

「最終講義 韓国語版 あとがき」としてこんな話を書いた。

 

 みなさん、こんにちは。内田樹です。

 『最終講義』韓国語版お読み頂きまして、ありがとうございます。

 これは講演録です。講演録といっても、録音を文字起こししただけだと、話がくどすぎたり、逆に説明が足りなかったり、言いかけた固有名詞や年号や数値が思い出せなかったり、間違えたりというころがあるので、読みやすくするために少しは加筆しています。でも、だいたい話すときは「こんな感じ」です。

「あとがき」に書いてある通り、講演のときに僕はあまり準備をしません。その場に行って、看板を見上げて「あ、今日はこんな演題なんですか」と驚くことさえあります。それでも、「どういう演題でお話頂けますか?」という問い合わせに対して自分で選んだ演題ですから、その時点では「こういう話をしよう」という腹案があったはずです。自分の腹の中のどこかにあるものなら、探せば出て来ます。なんとなく適当に「まくら」で近況なんか話しているうちに、ふっと「ああ、あの話をしようと思っていたのか」と思い出します(最後まで思い出せないときもありますけど)。

 講演でパワーポイントを使う人がいますけれど、僕は一度もやったことがありません(だから、パワーポイントはもちろん僕のPCに標準装備されていますけれど、使い方を知りません)。だって、自分が何を話すのか、最初から最後までプログラムが出来上がっていたら、つまらないじゃないですか。それなら、講演をテープにでもICレコーダーにでもあらかじめ吹き込んでおいて、現場のエンジニアに「この台詞が来たら画面切り替えてください」というような指示書をわたしておけばいい。本人がわざわざ来て、そこにいるのに、「録音の再演」みたいなことをしたくないです。

 せっかくなら、講演の途中に、一つでもいいから、これまで一度も口にしたことのないアイディアを口にしてみたい。僕の場合は、たぶんそれが講演を引き受ける一番の動機なんだと思います。そして、実際に、講演で「これまで自分が話してきた、いつもの話」をちょっと退屈しながら再演しているうちに、それを「助走」として、話がいきなり「飛ぶ」ことがあります。

 つい先日もそんなことがありました。「あとがき」代わりにその話を書くことにします。

 

 それは公共図書館の司書の方たちの年次総会での講演でした。図書館の役割についてご提言頂きたいということで、お引き受けしたのです。図書館の役割についてですから別にむずかしい話じゃないです。

 そのときに、九州のある市立図書館のことに触れました。その図書館は民間業者に業務委託したのですが、その業者はまっさきに所蔵されていた貴重な郷土史史料を廃棄して、自分の会社の不良在庫だったゴミのような古書を購入するという許し難い挙に出ました。ところが、そうやって図書館の学術的な雰囲気を傷つけ、館内にカフェを開設するというような「俗化」戦略をとったら、顧客満足度が上がって、来館者数が二倍になった。

 民間委託を進めていた人たちは「ほらみたことか」と手柄顔をしました。図書館の社会的有用性は来館者数とか、貸出図書冊数とか、そういう数値によって考量されるべきだというのは、いかにも市場原理主義者が考えそうな話です。

 そのときに、ふっと「図書館というのはあまり人が来ない方がいいのだ」という言葉が口を衝いて出てしまいました(ほんとうにふとそう思ったのです)。

 そう言ってしまってから、「ほんとうにそうだな。どうして図書館は人があまりいない方が『図書館らしい』のか?」と考え出して、それから講演の残り時間はずっとその話をすることになりました。

 図書館の閲覧室にぎっしり人が詰まっていて、玄関の外では長蛇の列が順番待ちをしている・・・というのは図書館を愛用している人たちにとっても、そして、図書館の司書さんたちにとっても、想像してみて、あまりうれしい風景ではないのじゃないかと思います。連日連夜人が押し掛けて、人いきれで蒸し暑い図書館が理想だ・・・という人はとりあえず図書館関係者にはいないと思います。

 その点で、図書館はふつうの「店舗」とは異質な空間です。だから、来館者数がn倍増えたことは図書館の社会的有用性がn倍になったことであるというように推論をして怪しまないようなシンプルマインデッドな人たちには正直言って、図書館についてあれこれ言って欲しくない。

 

 僕がこれまで訪れた図書館・図書室の中で今も懐かしく思い出すのは、どれも「ほぼ無人」の風景です。僕以前には一人も手に取った人がいなさそうな古文書をノートを取りながら読んでいたときの薄暗く森閑としたパリの国立図書館の閲覧室、やはり古いドキュメントを長い時間読みふけっていたローザンヌの五輪博物館の図書室に差し込む西日、文献を探して何時間も過ごした都立大図書館のひんやりした閉架書庫、僕の研究室があった神戸女学院大学の図書館本館の閲覧室を見下ろす3階のギャラリー、僕にとって「懐かしい図書館」というのはいずれもほとんど人がいない空間です。たぶん人がいない、静まり返った空間でないと書物がシグナルを送ってくるという不思議な出来事が起きにくいからだと思います。

 ほんとうにそうなんです。

 本が僕に向かって合図を送ってくるということがある。でも、それはしんと静まった図書館で、書架の間を遊弋しているときに限られます。

 そういうとき、僕は自分がどれくらい物を知らないのかという事実に圧倒されています。どこまでも続く書棚のほとんどすべての書物を僕は読んだことがないからです。この世界に存在する書物の99.99999・・・%を僕はまだ読んだことがない。その事実の前にほとんど呆然自失してしまう。でも、それは別にだから「がっかりする」ということではないんです。僕の知らない世界が、そしてついにそれについて僕が死ぬまで知ることのない世界がそれだけ存在するということに、「世界は広い」という当たり前の事実を前にして、ある種の宗教的な感動を覚えるのです。

 そして、これらの膨大な書物のうちで、僕が生涯に手に取るものは、ほんとうに限定されたものに過ぎないのだということを同時に思い知る。

 でも、それらの書物は、それだけ「ご縁のある本」だということになります。

 そう思って、書棚の間を徘徊していると、ふとある書物に手が伸びる。かろうじて著者名には見覚えがあるけれど、どんな人で、どんなことを書いたのか、何も知らない。そういう本に手が伸びる。そして、そういう場合には、高い確率で、そこには僕がまさに知りたかったこと、そのとき僕がぜひとも読みたいと思っていた言葉が書かれている。ほんとうに例外的に高い確率で、そうなんです。

 

 僕のこの経験的確信について、人気のない図書館の中をあてもなく歩いた経験のある人の多くは同意してくれると思います。そういうものなんです。人間にはそれくらいのことは分かる能力が具わっている。でも、その能力を活性化するためには、いくつかの条件が必要です。

2019年

9月

27日

世阿弥とマーク・トウェイン(おしまい)【後編】 ☆ あさもりのりひこ No.735

能が源平合戦について扱うのは平家の人々と源義経だけである。能は敗者の物語をしか語らないのである。

 

 

2019年7月12日の内田樹さんの論考「世阿弥とマーク・トウェイン(おしまい)」【後編】をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 「異形のもの」というカテゴリーで見る時に、間違いなく「悪党」楠木正成と「芸能民」観阿弥世阿弥は同類である。

 楠木正成は後醍醐天皇の呼びかけに応じて、河内で挙兵し、赤坂城の戦い、千早城の戦いで勇名を馳せて、建武の新政では顕官に累進し、湊川の戦いで弟正季と刺し違えて自害するが、もとは「出自不明」の「悪党」である。

 元弘3年(1333年)生まれの観阿弥は三歳のとき(建武3年/1336年)の湊川での正成の死を知った。世阿弥が観阿弥に連れられて今熊野での上覧能の舞台に登場し、その美貌によって足利義満の目に留まったのは、永和元年(1375年)、世阿弥12歳のときである。湊川の戦いから40年後である。正成を滅ぼしたのは義満の祖父尊氏である。この舞台においてはいわば敵同士が向き合ったことになる。だから、このときに観阿弥は思うところあって、その出自を足利義満には明らかにしていない(「父母の家筋は鹿苑院殿(足利義満)の前に秘し」と「伊賀観世系図」にはある)。梅原猛はその理由を「一つは観阿弥が『川の民』と言われた人たちと関係ある家であったからである。もう一つは南朝と関係ある家であったからである」としている。(『うつぼ舟II 観阿弥と正成』)

 世阿弥は義満の寵愛を受け、二条良基に就いて仏典漢籍や歌道を学んだ。

 のちに世阿弥は『平家物語』に取材した作品を多く書いた。『屋島』『實盛』『忠度』『敦盛』『清経』『鵺』の六曲が世阿弥作と認定されているが、そのほかに現行200曲には『船弁慶』『橋弁慶』『安宅』『正尊』『大原御幸』『経正』『大仏供養』『景清』『俊寛』『紅葉狩』『二人静』『藤戸』『朝長』『盛久』『頼政』『千手』『七騎落』『兼平』『巴』『鞍馬天狗』『俊成忠度』『通盛』など枚挙に暇がない。

 これらが源平合戦という日本を分断した戦いの死者たちを悼む「国民的な和解の物語」である所以についてはこれまで縷々述べて来たのでもう繰り返さない。

 だが、世阿弥にとって直近の「戦い」はもちろん南北朝の戦いだった。南北朝の並立は1336年から1392年まで57年間続いた。63年生まれの世阿弥はその前半生を二人の天皇が京都と吉野に並立するという深い対立と分断を生きたのである。

 芸能は「リアルタイムでの政治的事件は取り扱わない」というのは日本の古典芸能の基本ルールである。事件を扱う場合も時代をずらしたかたちで虚構化する。だから、それが直近の国民的分断の出来事であり、そこで斃れた死者たちを弔うことが喫緊の霊的課題であったにもかかわらず、能には元弘の乱と南北朝の争乱を扱った曲がない。唯一の例外は、楠木正成・正行の桜井の別れを主題にした『楠露』という曲だが、これは後年の「新作能」である(明治31年/1898年)。それも遠い曲で今はほとんど上演されることはない。

 世阿弥の青年期に南北朝の争乱が終わり、勝敗が確定した。和解と鎮魂の物語はそれから「起きた時代をずらして」書き始められることになる。

 それ以前に、観阿弥は歴史的事件に取材した能を書いていない。現在、観阿弥作として伝わっている曲は『自然居士』『卒塔婆小町』『通小町』の三作だけである。いずれも名曲であるけれど、歴史的現実とは触れ合わない。クリエーター観阿弥にはそのような政治的関心はなかったのか、あるいは「まだ」そのような物語を書くだけ状況が熟していなかったか、いずれかであろう。楠木正成の甥が「政治的関心がない」ということは状況的にはありえない。だから、これは「敗者の物語」を書くことについて観阿弥のときにはまだ強い抑制が働いていたと推理してよいだろう。

 しかし、世阿弥のときには南北朝の争乱は終息し、すでに勝敗は決した。敗者の代表である楠木正成の血族としての自覚があれば、世阿弥がこの争乱によってもたらされた国民的分断を癒すために、敗者たちのために一掬の涙を注ぐことを芸能民の使命であると考えたのは当然のことである。

 そのときに『平家物語』が素材として選好されたことには十分な理由がある。なによりそれは『平家物語』が敗者の文学だからである。能が源平合戦について扱うのは平家の人々と源義経だけである。能は敗者の物語をしか語らないのである。

 もう一つは敗者である平家が「海民」の系譜を継ぐ一族であったことである。これまで繰り返し書いてきたように、源平合戦は「海部」と「飼部」という二つの職能民の間のイニシアティヴ争奪戦であった。そして、海民が敗れた。海民は、悪党や芸能民や遊女や巫覡や勧進聖と同類である。そして、観阿弥が最初に座を持った伊賀の浅宇田の地はまさに「川の民」の住まうところであった。そこは理性と秩序が支配する世界とそれが及ばぬ「外部」との境界である。

「川は自然の境界である。その境界で呪的な行為、即ち悪魔祓いをしたことから"芸能"は生まれたのである。」(梅原猛、『うつぼ舟II 観阿弥と正成』)

 川の民として始まった能楽の芸能民が海民である平家に自分たちの通じる運命を感知するのは、当然のことなのである。

 

 しかし、無縁者たちは独特のかたちで現世の秩序の中枢とのかかわりを持っていた。

 無縁者たちは生業を営むために広範囲で移動しなければならない。だから、関渡津泊・山野海河・市・宿の自由通行権が必須であった。そして、彼らにそれを与えていたのは天皇であった。多くの職能民が「供御人(くごにん)」として形式的には天皇直属のものとなっていたのはそのせいである。

 後醍醐天皇は元弘の乱において、呪法僧や異形異類の悪党たちを総動員したのだが、それができたのは無縁者たちに対する支配権は平安・鎌倉期には天皇に掌握されていたからである。

 後醍醐天皇の時代は「異形」の無縁者たちが歴史の表舞台に登場した例外的な一瞬であった。そして、それゆえに建武の新政が破綻するや、この「聖なる異人」たちは一転して社会的差別と迫害の対象となった。

 網野は建武新政の終わりに「王権-天皇の地位のあり方そのものの本質的変化の一端」を見る(239頁)。

「古代以来、少なくとも鎌倉期までの天皇に多少ともうかがわれた『聖なる存在』としての実質は南北朝動乱を通じてほとんど失われ、大きく変質したといってよかろう。そして後醍醐によって実現された『異形の王権』の倒壊がその決定的な契機であったことは間違いない。」(同)

 それはまた公秩序の外部にある存在一般(南都北嶺をはじめとする大寺社)の威信の低落、権威の喪失をも意味していた。それは「聖なる権威」の保護下にあった「聖なる無縁者」たちの地位の失墜をもたらすことになった。

「こうした『聖なるもの』-天皇・神仏の権威の低落は、それに結びつき、その『奴婢』となることを通して、自ら平民と区別された『聖』なる集団としての特権を保持していた供御人、神人、寄人などの立場に、甚大な影響を与えたことはいうまでもない。」(239-240頁)

 無縁者たちのうちでも、商工民たちは世俗的な権力(将軍、守護大名、戦国大名)などに新たな特権の保証人を求めて、その職能を通じて、富の力によって「有徳」になる道を切り開き、生き残ることができた(中世の自治的な都市は彼らが形成した)。

 しかし、新しい政治勢力に「実利」をもたらす手立てを持たない無縁者たちの前には「有徳者」への道は開かれなかった。

「その職能の性質から、天皇・神仏の『聖性』に依存するところより大きく、このような実利の道に進みえなかった一部の芸能民、海民、さらには非人、河原者などの場合、職能時代の『穢』との関わりなども加わって、ここに決定的な社会的賤視の下に置かれることとなった。『聖なる異人』としての平民との区別は、差別に転化し、『異類異形』は差別語として定着する。まさしくこれは聖から賤への転換にほかならない。」(240-241頁)

 芸能民たちはそれまでの保護者であった天皇やあるいは寺社から離れて、将軍や大名の庇護下に入ることになった。観阿弥・世阿弥が足利将軍の庇護下に入ったのはまさにそのような歴史的文脈のうちにおいてだったのである。

 世阿弥は後醍醐天皇とそれを支えた異形の悪党たちの政治的衰微、そして、無縁者たちの無権利状態への頽落という大きな「流れ」の中で、いわば「同族たちへの惻隠の心」に駆り立てられて能楽を完成させた。そして、能楽は以後「権力者に庇護されて生き延びる敗者の芸能」という逆説的なポジションに身を置くことになったのである。

 

 

というような話を今日はする予定。

2019年

9月

26日

服部緑地 ハーフマラソン ふたたび ☆ あさもりのりひこ No.734

2019年9月23日(月)、第3回大阪服部緑地ナイトハーフマラソンに出場した。

7月の第1回はハーフ、8月の第2回は10㎞を走った。

今回は、ふたたびハーフマラソン。

 

3回目なので、緑地公園の陸上競技場までの道のりも慣れたものである。

午後4時30分、受付を済ませて、ゼッケンと参加賞を受け取る。

ゼッケンは「2002」、なら法律事務所が誕生した年である。

参加賞は細長いタオル。

この手の細長いタオルは、トレッドミルで走るときに汗を拭くのに丁度いい。

 

陸上競技場の観覧席で、ランニングシャツにゼッケンを着けたり、文庫本を読んだり、エナジージェルを飲んだりして、スタートまでの時間を過ごす。

曇っていて、風があって、走るのにいい状況だ。

 

午後6時、スタート。

1周2.1キロの周回コースを10周する。

給水所は1か所、アクエリアスと水が置いてある。

エナジージェルと水を携帯して、4㎞ごとに補給する。

前半5周は1時間6分。

1㎞6分15秒を目安にした予定通りのタイムである。

 

途中でグレート・ピレニーズ(ピレネー犬)を2匹散歩させている女性がいた。

真っ白なピレネー犬が「でかい」!

周回コースなので、2、3回、ピレネー犬と遭遇した。

 

後半は、少しペースが落ちた。

とくに上りのペースが落ちたが、それでも、1㎞7分を超えることはなかった。

2時間15分24秒でゴール。

後半5周は1時間9分かかった。

 

最後まで脚はしっかり動いたので、重い疲れはない。

7月のタイムよりも18分速かった。

8月と9月の走り込みの成果だ。

 

 

つぎのレースは、10月13日(日)、第2回リバーサイドマラソン大阪大会30キロである。

2019年

9月

25日

世阿弥とマーク・トウェイン(おしまい)【前編】 ☆ あさもりのりひこ No.733

1962年に伊賀市の旧家から発見された上嶋家文書(江戸時代末期の写本)には、伊賀・服部氏族の上嶋元成の三男が観阿弥で、その母は楠木正成の姉妹であるという系譜が含まれていた。この記載に従えば、観阿弥は正成の甥ということになる。

 

 

2019年7月12日の内田樹さんの論考「世阿弥とマーク・トウェイン(おしまい)」【前編】をご紹介する。

どおぞ。

 

 

世阿弥とマーク・トウェインについて「明日続きを書きます」と予告してから、5カ月も経ってしまった。書くつもりはあったのだが、他のことに気を取られて世阿弥まで手が回らなかったのである。さいわい、本日、湊川神社神能殿で映画『世阿弥』の上映会があり、私は25分間の前説を担当することになっている。どうせメモを作らなければいけないのだから、それをブログ記事として公開しておけばよい。

 世阿弥はどうして「日本のマーク・トウェイン」なのか?という話をしているところだった。

 マーク・トウェインが「アメリカの国民的分断を和解に導き、死者たちを鎮魂する物語」の鼻祖であるということはもうお分かり頂けたと思う。フィッツジェラルドも、ヘミングウェイも、西部劇映画も、エルヴィスのロックンロールも、国民を分断している「壁」を打ち砕いた功績によって「オールアメリカン」なものとなった・・・というお話を先にした。

 日本でその役割を果たしたのは何か。

 古くは『古事記』がそうだ。日本列島に渡来してきた人たちと先住民たちの間の対立と和解のドラマは「天つ神・国つ神」の神統記や「国譲り」神話によって語られている。もちろん『平家物語』がそうだ。そして、世阿弥作の能がそうである。

 どうして世阿弥が国民的分断の和解の物語を書かねばならなかったのか。それについては観世家の系譜について少し触れておく必要がある。

 

『世子六十以後申楽談儀』には、観阿弥が伊賀の服部氏一族の末裔だという記述がある。

 1962年に伊賀市の旧家から発見された上嶋家文書(江戸時代末期の写本)には、伊賀・服部氏族の上嶋元成の三男が観阿弥で、その母は楠木正成の姉妹であるという系譜が含まれていた。この記載に従えば、観阿弥は正成の甥ということになる。後に発見された播州の永富家文書を傍証にこの記載を真とする意見がある。

 しかし、文書の信憑性を巡っては実は異論がある。梅原猛は『うつぼ舟II』で観阿弥と正成の関係を主張したが、能楽研究者の表章はこれを「空論」と退け、伊賀観世系譜が後代作成の「偽文書」と論じた。

 専門家ではないので、楠木正成と観阿弥が実際に伯父甥の関係であったのかどうかについて私には学術的な論拠を挙げて判定することができない。だが、いずれにせよ伊賀の服部家と観世家の間に何らかのかかわりがあったことは間違いない。

 

 伊賀の服部家と言えば、ご案内のように、服部半蔵を出した伊賀忍者の家系である。

 初代服部半蔵は伊賀忍者として室町十二代将軍足利義晴に仕えたが、のち主を替えて三河の松平清康に仕えた。清康は徳川家康の祖父である。だが、徳川家に仕えて伊賀同心を率いたのは三代服部半蔵正就までで、四代正重は桑名藩で二千石の扶持を得て、代々家老職を幕末まで務めた。

 幕末では堂々たる侍になっていたが、室町時代末期までは数十人の伊賀衆を引き連れて、主君を替えて、そのつど特殊な任務を果たした一種の「傭兵集団」だったのである。

 服部氏はいわゆる「悪党」に分類される。

 歴史的術語としての「悪党」が意味するのは、発生的には、荘園体制の崩壊期に、本所(名目上の荘園領主である京都の権門勢家)の支配権を脅かした在地領主(荘官)のことである。のちに「悪党」概念は拡大されて、海民、山賊、蝦夷、さらには遊行の芸能民や勧進聖や牛飼童たちまでも含むことになった。つまり、荘園公領制にうまく帰属できない人たちは総じて「悪党」と呼ばれることになったのである。

 外部性を記号的に表象するために彼らは「異形」をまとった。

「異形」の歴史的意味については網野善彦『異形の王権』に詳しい。あるいは「異形な棒ー鉾を担ぎ婆裟羅風の派手な衣装をつけ、高下駄をはき」(67頁)、あるいは「鹿杖(かせづえ)」をつき、あるいは笠をかぶり、あるいは成人しても童名を名乗り、童形を続けた(京童や八瀬童子や牛飼たちがそうである)。それは彼らが公秩序の外部にあり、ある種の呪術的な力を具えた「聖なる存在」だったことの徴であると網野は論じている。

 この「異形の人」たちが跳梁跋扈したのがまさに室町末期、後醍醐天皇の建武の新政の時であった。建武の新政のさなかに発令された法令のうちに内裏に「異形の輩」が出没していたことが記されている。そこには覆面をつけ、笠をかぶり、高下駄を履くなどの風体のものたちが「塵を捨て置き不浄を現すこと」を制止すべきとの条がある。天皇の居所にゴミを捨て、糞便を散らかす者たちが出没していたことが後醍醐の新政の異様な性格を表わしている。この時期政権中枢には「聖俗いずれとも判断のつかない者ども」が蝟集していた。その理由について網野はこう書いている。

 

「建武新政とともに、突如として『婆裟羅』の風が噴出する如く世の表に現れわれ、広く世間に風靡していった理由はまさにここにある。それは建武政府の本質と深く関わる現象であった。後醍醐は文観を通じて『異形異類』といわれた『悪党』『職人』的武士から非人までをその軍事力として動員し、内裏にまでこの人々が出入する事態を現出させることによって、この風潮を都にひろげ、それまでの服制の秩序を大混乱に陥れた。」(『異形の王権』、217頁)

2019年

9月

24日

近鉄大和八木駅付近おすすめスイーツ⑤

 

本日は、事務局の担当日です。

以前の紹介に引き続き、近鉄大和八木駅・なら法律事務所付近で私のおすすめのスイーツの第⑤弾です。

皆さんは、奈良県は意外とフルーツを結構生産していることをご存じでしょうか?

最近よく知られているのは、いちご(あすかルビー、古都華)、梨、柿、梅でしょうか。

しかし、以前ご紹介したことがある桜んぼや、みかん等の柑橘系、各種ぶどう、いちじく、西瓜、ブルーベリーなど生産量は多くありませんが、結構生産していて、どのフルーツも結構評判が良いのです。

奈良はかつて西瓜の大産地であり、大和西瓜は今日の国産西瓜の源流とされ、少しですが下市町で獲れる大和西瓜は、初めて食べた方は、甘い!との感想をのべられます。

また先日は、夏いちごが天川村で獲れるようになり、奈良市の「かき氷」とのコラボで話題になっていました。

そんな奈良の地で、以前紹介した「みたらし団子」、「橿の樹」、「みまつプリン」を販売している美松さんが少し前から販売をしている「ふるーつ大福」が評判です。( https://sweets-mimatsu.com/ )

私は、時折いただいたり、手土産として持って行きますが、季節によって、品揃えが変わっていき、季節を感じることができます。

年齢に関係なく「おいしい!」と評判で、御礼等で持って行った先では「何処で買えるの?」と尋ねられることが多く、手土産にお薦めです。

残念ながら、ネットでの注文はできません。

一度、お店へ行かれ、味わってみて下さい。

尚、売り切れや希望のフルーツが無くなっていることも多いので、購入の際は在庫確認の上で行かれるほうが良いと思います。

2019年

9月

20日

「そのうちなんとかなるだろう」あとがき(後編) ☆ あさもりのりひこ No.732

「どうしてやりたいのか、その理由が自分で言えないようなことはしてはならない」というルールがいつのまにかこの社会では採用されたようです。僕はこんなのは何の根拠もない妄説だと思います。

 

 

2019年7月11日の内田樹さんの論考「「そのうちなんとかなるだろう」あとがき」(後編)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 この本を読んだ皆さんは、僕がほとんど計画性のない人間であるということはよくおわかりいただけたと思います。人生を通じて絶対にこれだけは実現したいとか、これだけは達成したいとかいう目標を僕は持ったことがありません。いつも「なんとなく」です。

 僕がこれまでした仕事はほとんど誰かに「内田ちょっと、これやってくれない?」と頼まれて「うん、いいよ」と深い考えもなしに引き受けた仕事です。自分から「ぜひやらせてください」と頼み込んだ仕事によって年来の計画が実現して、人生が一変した・・・ということが僕の身には一度も起きたことがありません。いつも「頼まれ仕事」が転機になりました。「そんな仕事、僕にできるかな(したことないし)」と思いながらも、「他にやる人がいないなら、僕がやってもいいよ」と引き受けたことがきっかけになって、予測もしなかった繋がりが成立し、自分が蔵していた思いがけない潜在的な資質を発見した・・・そういうことを半世紀続けて来ました。

 でも、この「なんとなく」にはどうやら強い指南力があるらしい。磁石の針がふらふらしながらきちんと北を指すように、僕の「なんとなく」には義務感とか、恐怖心とか、功名心とかいうものが関与しません。「どうして?」と訊かれても、ただ、「なんとなく、これがやりたい」「なんとなく、それはやりたくない」としか答えようがない。でも、この「なんとなく」が指す方向には意外に「ぶれ」がない。そのことが半生を振り返って、よくわかりました。

 

 ですから、最近では若い人を相手に話すときには、「決断するときに、その理由がはっきり言えることはどちらかというと選択しない方がいい」ということをよく申し上げます。

 入学試験の面接でも、就活の面接でも、ゼミ選択の面接でも、必ず「どうしてあなたはそのことをしたいと思うのか?」と訊かれます。それにすらすらと答えきれないとよい評点がもらえない。でも、これは違うんじゃないかなと僕は思います。自分がほんとうにしたいことについては「すらすら理由が言える」はずがないからです。だって、自分のすごく深いところに根ざしている衝動とか欲望とかに淵源があるものがそうそう簡単に言語化できるはずがないじゃないですか。「グローバル人材になって活躍したい」理由が「母親の干渉が耐えられないので、早く海外に逃げ出したい」ということだってあるし、「パンクなアーティストになりたい」理由が「堅物の父親が嫌っている職業に就いて煮え湯を飲ませたい」ということだってある。そういうことって、人前ではそう簡単には口に出せないし、そもそも自分自身それに気づいていない。

 もちろん、そういう理由で職業を選択するのは「あり」なんですよ。それでいいんです。でも、「どうしてですか?」と訊かれて、すらすらと言えるような理由ではない。それが「なんとなく」です。だから、「なんとなく」に従って生きる方が「自分らしく」なれるよ。ということを最近は若い人たちにはよく言っています。

 

 スティーブ・ジョブズがスタンフォード大学の卒業式に呼ばれて祝辞を述べたことがあります。そのときにとてもよいことを言っています。

 The most important is the courage to follow your heart and intuition, they somehow know what you truly want to become.

いちばんたいせつなことは、あなたの心と直感に従う勇気をもつことです。あなたの心と直感は、あなたがほんとうはなにものになりたいのかをなぜか知っているからです。

 

 僕もジョブズに100パーセント同意します。たいせつなのは「勇気」なんです。というのは「心と直感」に従って(「なんとなく」)選択すると、「どうしてそんなことをするの?」と訊かれたときに、答えられないからです。エビデンスをあげるとか、中期計画を掲げるとか、費用対効果について述べるとか、そういうことができない。「だって、なんとなくやりたいから」としか言いようがない。だから、「なんとなく」やりたいことを実行するためには「勇気」が要ります。だって、周り中が反対するから。「やめとけよ」って。

「どうしてやりたいのか、その理由が自分で言えないようなことはしてはならない」というルールがいつのまにかこの社会では採用されたようです。僕はこんなのは何の根拠もない妄説だと思います。僕の経験が教えるのはまるで逆のことです。どうしてやりたいのか、その理由がうまく言えないけど「なんとなくやりたい」ことを選択的にやった方がいい。それが実は自分がいちばんしたかったことだということは後になるとわかる。それが長く生きてきて僕が得た経験的な教訓です。さいわいスティーブ・ジョブズもこれに同意見でした。

「あなたがほんとうになりたいもの」、それが「自分らしい自分」「本来の自分」です。心と直感はそれがなんであるかを「なぜか(somehow)」知っている。だから、それに従う。ただし、心と直感に従うには勇気が要る。

 

 僕がわが半生を振り返って言えることは、僕は他のことはともかく「心と直感に従う勇気」については不足を感じたことがなかったということです。これだけはわりと胸を張って申し上げられます。恐怖心を感じて「やりたいこと」を断念したことも、功利的な計算に基づいて「やりたくないこと」を我慢してやったこともありません。僕がやったことは全部「なんだかんだ言いながら、やりたかったこと」であり、僕がやらなかったことは「やっぱり、やりたくなかったこと」です。

 というわけですので、この本はできたら若い方に読んで頂いて、「こんなに適当に生きていてもなんとかなるんだ」と安心して欲しいと思います。僕と同年配の人が読んだら「なんだよ、ちゃらちゃら生きて楽しやがって。ふん」というような印象を抱くかも知れませんけれど。まあ、みんなに喜んでもらえる本を書くというのはそもそも無理なんですから、しかたないんですよね。

 

 最後になりましたけれど、最初にロング・インタビューを企画してくれたNewsPicksさんと、それを膨らませて単行本にするという無謀な企画を思いついたマガジンハウスの広瀬桂子さんのご尽力にお礼を申し上げます。おかげでこんな本ができました。ありがとうございます。

 

2019年6

 

内田樹

2019年

9月

19日

逃げなかった設楽悠太 ☆ あさもりのりひこ No.731

2019年9月15日(日)、マラソン・グランド・チャンピオンシップ(MGC)を観た。

うちにはテレビがないので、スマートフォンで中継を観ていた。

2020年8月の本番のレースに出場できるのは、男子、女子とも3人ずつ。

MGCで1位と2位になったランナーは、来年の本番のレースに出場できる。

 

男子は午前8時50分スタート、女子は9時10分スタート。

男子のレースを観ながら、コマーシャルの間は女子のレースを観る。

男子は、設楽悠太が37㎞地点まで独走したが、その後、第2集団に抜かれた。

40㎞地点で、集団から、中村匠吾、服部勇馬、大迫傑が抜け出して、デッドヒートを繰り広げた。

中村が力強い走りで1位。

服部が大迫を逆転して2位。

大迫は力尽きて3位だった。

この結果、中村と服部が、来年の本番のレースの出場資格を得た。

 

設楽は30㎞くらいまで、1㎞3分前後で飛ばして、途中、後続集団に2分以上の差をつけたが、最終的には14位に終わった。

この設楽の走りについて「大逃げ」と書いた記事があった(日経だが)。

設楽は、逃げ切ろうとしたのだろうか?

 

男子フルマラソンの世界記録は、エウリド・キプチョゲ(ケニア)が2018年9月16日に出した2時間01分39秒である。

今年4月28日には、モジネット・ゲレメウ(エチオピア)が2時間02分37秒で走っている(これが世界第2位の記録)。

ちなみに、フルマラソンを2時間5分以内で走ったランナーは49人いるが、バーレーンの選手1人を除いて、すべてケニアかエチオピアの選手である。

 

2020年8月9日の本番のレースにキプチョゲやゲレメウが出場するのかどうかわからない(出場してほしいが)。

世界の精鋭(ケニアとエチオピアの精鋭と言ってもいい)が集まるレースがどれくらいのスピードで進むのか?

今回のMGCで優勝した中村は自己ベストより3分遅れのタイムだった。

そうすると、2時間3分前後で走る世界のトップランナーが、来年の真夏の本番のレースを自己ベストより3分遅いタイムで走ったとしたら、2時間6分前後がゴールタイムとなる。

MGCで設楽が走ったペースである。

 

MGCは9月15日、本番は8月9日。

MGCは、本番より「涼しい」のだ。

本番のレースで、トップランナーたちが、1㎞3分前後で走るとすると、より「涼しい」MGCで1㎞3分前後で走れないようでは勝負にならない。

 

MGCで、スタートしてしばらくしてから、設楽が後ろを振り返って、付いてくるランナーがいないことを確認する場面があった。

設楽は「それでいいのか?それでは本番で戦えないぞ」と言いたかったのではないか。

 

残念ながら、設楽は失速してペースを保つことができなかった。

しかし、設楽は、本番を見据えて、世界のトップランナーと競うことができる走りを見せたのだ。

設楽以外のランナーは「本番のレースに出ること」を目標にして走った。

それはそれでいい。

設楽は「本番のレースで勝つこと」を目標にして走ったのだ。

 

設楽悠太は逃げたのではない。

 

設楽悠太は挑んだのだ。

2019年

9月

18日

「そのうちなんとかなるだろう」あとがき(前編) ☆ あさもりのりひこ No.730

「自分らしさ」が際立つのは、「なんとなく」選択した場合においてです。とくに計画もなく、計算もなく、意図もなくしたことにおいて「自分らしさ」は鮮やかな輪郭を刻む。

 

 

2019年7月11日の内田樹さんの論考「「そのうちなんとかなるだろう」あとがき」(前編)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

みなさん、こんにちは。内田樹です。

 今回はなんと「自叙伝」です。もうそんなものを書くような年齢になったんですね。

 前に『内田樹による内田樹』(140B、2013/文春文庫、2017)という本で自著の解説ということをしたことがあります。その時も、企画を持ち込まれて、自分の著作について通史的に解説ができるくらい本を書いたのか・・・と驚きましたが、今回はいよいよ「私の履歴書」です。そういうのはだいたい「功成り名遂げた」人が「ははは、わしも若い頃はずいぶん苦労もしたし、やんちゃもしたもんだよ」と縁側で渋茶を啜りながら語るもので、僕にはまだまだ縁遠いものだと思っていました。

 最初にこの企画を持ち込んだのはNewsPicksというウェブマガジンです。半生を回顧するロング・インタビューをしたいと言ってきました。そう聞いたときは驚きましたけれど、よく考えてみれば僕も齢古希に近く、もう父も母も兄も亡くなり、親しい友人たちも次々と鬼籍に入る年回りになったわけですから「古老から生きているうちに話を聞いておこう」という企画が出てきてもおかしくはありません。

 というわけで、このロング・インタビューでは年少の聴き手相手に「あんたら若い人は知らんじゃろうが、昔の日本ではのう・・・」と遠い目をして思い出話を語る古老のスタンスを採用してみました。1960年代の中学生高校生が何を考え、どんな暮らしをしていたのかについては、同世代の作家たち(村上春樹、橋本治、関川夏央、浅田次郎などのみなさん)が貴重な文学的証言を残しておられますけれど、それらはやはりフィクションとしての磨きがかかっていまして、実相はもっと泥臭く、カオティックで、支離滅裂です。あの時代について、これから若い人たちが何か調べようとしたときに、少しでも「時代の空気」を知る上で役に立つ証言ができればいいかなと思って、インタビューではお話をしました。

 そう言えば、僕よりちょっと年長だと、椎名誠さんの『哀愁の街に霧が降るのだ』(小学館文庫)がありますね。これは1950年代末の「時代の空気」についてのとても貴重な記録だったと思います(これに類するものを僕は他に知りません)。本書も椎名さんより少し年下の人間が書いた60年代終わり頃の『哀愁の街』のようなものと思って読んで頂けたらうれしいです。

 

 NewsPicksのロング・インタビューがネットに上げられてしばらくしてから、マガジンハウスの編集者の広瀬さんから「単行本にしたい」というオッファーがありました。インタビューだけでは分量が足りないので、かなり加筆する必要があります。そこで、家のパソコンのハードディスクをサルベージして、「昔の話」をしている原稿を探し出し、それを切り貼りして、もとの原稿を膨らませることにしました。日比谷高校の頃の友人たちについて書いた二編のエッセイもそのときに掘り起こしたものです。これは広瀬さんが一読して、これだけ独立したコラムとして本文中に配分しましょうと提案してきたので、そういうかたちになりました。

 

 編集されたものを改めて通読してみて思ったことは、最後の方にも自分で書いてましたけれど、僕って「人生の分岐点」がまるでない人間なんだということでした。

 あのとき「あっちの道」に行っていたら、ずいぶん僕の人生が変わっていただろうなあ・・・という気がさっぱりしないのです。仮想的には、いろいろな「自分」があり得るわけです。東大を落ちて早稲田に行った自分、大学院を落ちてアーバンの専従になっていた自分、就職が決まらなくて(やっぱりアーバンに戻って)編集の仕事をするようになった自分、神戸女学院大学じゃない大学に採用された自分、別の女の人と結婚していた自分・・・いろいろな岐路があり得たわけですけれど、どの道を行っても、この年になったら、やっぱりいまの自分の「瓜二つ」の人間になっていたんじゃないかという気がします(なったことがないので、あくまで「気がする」だけですけれど)。

「自分らしさ」という言葉が僕はあまり好きじゃないのですが、それでもやはり「自分らしさ」というのはあると思います。ただ、それはまなじりを決して「自分らしく生きるぞ」と力んで創り出したり、「自分探しの旅」に出かけて発見するようなものじゃない。ふつうに「なんとなくやりたいこと」をやり、「なんとなくやりたくないこと」を避けて過ごして来たら、晩年に至って、「結局、どの道を行っても、今の自分と瓜二つの人間になっていたんだろうなあ」という感懐を抱く・・・というかたちで身に浸みるものではないかと思います。

 

 前に「強い現実」と「弱い現実」ということを考えたことがありました。

 例えば、僕が公募33校目の神戸女学院大学の採用面接にも落ちたとします(これはかなり蓋然性の高い仮定です)。その場合は、40歳で助手を辞めて、平川君と始めた会社に戻るつもりでいました。そこで編集出版の仕事に就いて四半世紀ほど働いたとして、今頃僕はどうなっていたでしょう。たぶん65歳くらいまで働いて退職した後、自由が丘か奥沢あたりの3LDKのマンションで暮らして、合気道の稽古をしたり、趣味でフランス文学の翻訳をしたり、エッセイのようなものをブログに書いていたり、友だちと温泉に行って麻雀やったりしていたと思います(今とほとんど変わらないです)。

 その場合、その自由が丘あたりのマンションの書斎の本棚にある本と、凱風館のいまの僕の書斎の本棚にある本には相当数の「同じ本」がかぶっているはずです。いま僕の書斎には1万冊くらいの本がありますけれど、そのうちのたぶん1000冊くらいは仮想世界の僕が住んでいる部屋にもある。僕はどういう生き方をしても、この年になったときに手元の書架に並んでいるはずの書物を僕にとっての「強い現実」だと見なします。どんな人生を選択しても変わることのない僕の選書傾向がある。人生の岐路で僕が進んでいった先にあるすべての仮想世界において、1000冊の同じ本を僕は書架に並べている。そういう本を読んでいる僕が「自分らしい僕」です。

 逆に、大学教員になっていなければ絶対に読まなかったはずの本が自由が丘の部屋(想像しているうちにこのマンションのありさまがだんだんリアルに思えてきましたよ)の書架にはあるはずです。それらの本は僕にとって「弱い現実」です。もしそれらを面白がって読んでいる僕がいるとしたら、それは「自分らしくない僕」です。

 それくらいの「強い弱い」の区別を現実についてもできるんじゃないかと僕は思います。

「弱い現実」というのは、「入力の違いがあれば、現実化していなかったもの」のことです。「強い現実」というのは「かなり大きな入力変化があっても今と同じようなものとして現実化しているもの」のことです。それがその言葉の本来の意味での「自分らしさ」ということではないかと思います。

 

 さて、そこでぜひ強調したいのは、「自分らしさ」が際立つのは、「なんとなく」選択した場合においてです。とくに計画もなく、計算もなく、意図もなくしたことにおいて「自分らしさ」は鮮やかな輪郭を刻む。そういうことではないでしょうか。

2019年

9月

17日

夏の後遺症

みなさんこんにちわ。

本日は事務局担当日です。

 

残暑というのか猛暑というのか、先週まで日中はなかなか厳しい暑さが続きましたね。

みなさま体調など崩されていないでしょうか。

 

かくいう私は、夏の疲れなのかなんなのか、

先週から体調不良が続いています。

 

なんかおかしいぞ~と気づいたきっかけは、

天理市のうなぎの名店「みしまや」の鰻丼が食べきれなかったこと。

 

いや。

正確には食べ切れたけど、いつものように「ぺろりと」ではなく「なんとか」頂いたです。

8割頂いたあたりでもう無理かも・・・と思いつつ完食したら

胃もたれして、それからというもの

お腹はすくので、食べたい。

でも食べたら、次のお食事が食べられない、のループです。

どんなにしんどくても熱があっても、私が胃腸に支障をきたすのは

よっぽど疲れているサイン。

 

おっかしいな~と思っていると、

今度は肩甲骨と背中の間が、低周波をあてているかのようにジンジンしだしました。

ああこりゃ末期だと、15年来お世話になっている鍼灸院に行ったところ、

有無を言わさず、背中と肩周りに電気鍼を打たれました。

そして院長の一言。

 

「末期です」   (゜Д゜)ヒエー

 

夏の疲れと全身のこりで自律神経がおかしくなっていると思うよ、とのこと。

疲れがたまっているなーと思いつつ、だましだまし来ていたら、

どっと吹き出したようです。

 

電気鍼をしたあとは「もみかえし」で、翌日はどっと疲れ、

少しましになったかと思うと、またどっと疲れ、

結局1割回復したのかしていないのかといったところです。

しばらくはマメに通うよう言われたので、おとなしく通院したいと思います。

 

食欲の秋がすぐそこに!

鰻丼をおいしく頂くために頑張ろう!(そこ!?)