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2020年

1月

20日

内田樹さんの「今年の10大ニュース」(後編) ☆ あさもりのりひこ No.793

書物は「外部」への扉である。

 

 

2019年12月31日の内田樹さんの論考「今年の10大ニュース」(後編)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

4・今年も韓国に行った。

 2012年から始まった恒例の韓国講演ツァーに今年も行った。

 去年からは伊地知先生が率いる「修学旅行部」も同行することになって、厚みのある企画となった。今年はソウルと大田で僕が講演し、済州島で修学旅行という3泊4日の日程だった。通訳はいつもの朴東燮先生。

「戦後最悪」という日韓関係のせいで、例年のように教育委員会の公式招聘ということがかなわず、市民団体の主催ということになった。それでも、たくさんの方たちが集まってくださった。

 僕の本は朴先生の獅子奮迅の活躍のおかげで、ついに26冊が韓国語訳されたそうである。日韓関係が市民同士の相互理解を通じて確かなものになることを僕は願っている。

 

5・武蔵小山にセカンドハウスを借りた

 2020年の東京五輪を前にして、東京のホテルが借りにくくなっている。僕の定宿だった学士会館も昔に比べると予約が取りにくくなったし、お盆と正月が休業というのがつらい。どうせ毎月東京に理事会で行き、その前後に東京での仕事を入れる。急な用事で東京に行かなければならないこともよくある。意を決して部屋を借りることにした。

 どこがいいか。土地勘のあるところと言うと20歳から20年間を過ごした自由が丘、尾山台、上野毛という大井町線沿線か、17歳まで育った下丸子周辺の目蒲線沿線である。

 井上英作さんに専門的な助言を頂いて、いくつか紹介してもらい武蔵小山に決めた。

 武蔵小山なら駅前に石川茂樹くんのLive Café Againがあるし、7~8分歩くと、平川君のいる荏原中延の隣町珈琲がある。両方に歩いていけるところにマンションを借りた。

 内装は東京住まいのるんちゃんにお願いした。

「昭和の大学生の下宿みたいな内装にしてあげるよ」ということで、お任せしたら、たしかにそんな感じになった。たいへん居心地がよろしい。

 東京五輪が終わるまでの期間限定のつもりだったけれど、なかなか使い勝手がいいので延長することにした。ホテルだと朝の10時にはチェックアウトだけれど、自分の部屋なので、パジャマのまま昼過ぎまでだらだらしていられる。着替えも、PCも、背広とネクタイも置いてあるので、東京旅行が鞄ひとつで済む。本もDVDもある。連泊するときはまことに楽ちんである。大学の理事はまだもう少し勤めなければいけないようなので、2022年くらいまではムサコの人である。

 

6・山學院学長となる

 青木真兵君と海青子さんご夫妻が東吉野村に開いた私設図書館「ルチャ・リブロ」を拠点として、地域文化活動が盛んになっている。その一環として、真兵くんが仲間たちと東吉野村に「山學院」という学術拠点を作ることになった。

 その学長を仰せつかった。

 若い人の創造的な活動を支援するのは年長者の義務であるから、四の五の言わずに拝命した。

 6月に山學院開校式があり、日本全国から70人の善男善女が集った。

 地方に移住して、そこから市場経済と一線を画した手作りの活動をしている人たちが多かった。

 真兵くんたちのは「ひとり図書館」だが、日本各地に「ひとり書店」や「ひとり出版社」があることをそのとき知った。別に誰かが言い出した運動ではなく、同時多発的・自然発生的にそういうことが起きているのである。

 書物は「外部」への扉である。

 そのことを直感している若い人たちがこれだけいることを知った。

 日本はまだまだ大丈夫である。

 真兵君たちの実践については『彼岸の図書館』に詳しい。僕も真兵くんといろいろお話してます。ぜひご一読ください。

 

7・もうひとつ

もう一つ、別の新しい大学の客員教授となることになった。

まだ開学前なので、詳細を申し上げることはできないけれど、面白い教育実践ができそうである。

 

8・すごい若い人たちを知る

 矢内東紀(aka えらてんさん)さんと中田考先生のご紹介で知り合い、機を見るに敏なる晶文社の安藤さんの企画で一緒に対談本を出すことになった。

 その趣旨についてはブログに「まえがき」を上げたので、それを読んで頂ければわかると思うけれど、こういうまったく僕の知らないエリアで活動してきた若い人には教えられることがほんとうに多い。

 Time has changed ということを実感した。

 もう一人それを実感したのは、永井陽右さん。

 これは朝日新聞のネットメディアの企画で対談したのだけれど、この方もえらてんさんと同じく28歳の青年。

 ソマリアで「ギャングが堅気になるための就労支援」という信じられないほど危険な活動をしている若者である。

 でも、別に肩に力が入っていない。穏やかな表情と明るい声で、淡々と困難な事業について話してくれた。たいしたものである。

 もう一人はまだお会いしたことがないけれど、齋藤幸平さん。

『未来への大分岐』という集英社新書がある日送られてきた。集英社の伊藤直樹さんが選んで送ってくれるので、彼の鑑定眼にかなった本のはずである。そのうち読もうと思って、テーブルの上に置いておいた。すると光嶋君が読んで驚いたという感想をTwitterに書いていたので、「おお、その本ならうちにもあるぞ」と思って探して開いてみたら、齋藤幸平さんの直筆サイン入りの献本だった。

 こ、これは失礼なことをした。

 さっそく読んでみて、これも仰天した。

 若い人は僕たちおじさんたちの知らないうちに、どんどん新しい知的な領域に踏み込んで行って、世界的な業績を上げているのである。

 もって瞑すべし。

 こういう若い人たちの活躍を知ると、「もう引退してもいいかな」という気になる。ありがたいことである。

 

9・今年もいろいろ本を出した

成瀬雅晴先生との対談本『善く死ぬための身体論』(集英社新書)

『生きづらさについて考える』(毎日新聞出版)

『そのうちなんとかなるだろう』(マガジンハウス)

平川克美君との対談本『沈黙する知性』(夜間飛行)

えらてんさんとの対談本『しょぼい生活革命』(晶文社)

の五冊。

 来年は『サル化する世界』(文藝春秋)が年明けに出て、晶文社のアンソロジー『日韓関係論』が出て、るんちゃんとの往復書簡本、ミシマ社の語り下ろし本『日本習合論』くらいかな。『レヴィナスの時間論』は年内完結予定だったけれど、ローゼンツヴァイクを論じ始めたので、なかなか終わらない。なんとか、来年のうちには終わらせて、完結したら新教出版社から単行本。まだ何か忘れているかも知れないけれど、それはご容赦ということで。

 

 これくらいでいいかな。10個ないけど。

 

 では、皆さん佳いお年をお迎えください。

2020年

1月

17日

内田樹さんの「今年の10大ニュース」(前編) ☆ あさもりのりひこ No.792

ついに人間的に成熟することも、十分な知識を身につけることもなく人生を終えるのである。

 

 

2019年12月31日の内田樹さんの論考「今年の10大ニュース」(前編)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

今年の十大ニュース

 

恒例により、大晦日に一年を回顧してみる。

 

1・古稀のお祝いをしてもらう

 満で69歳になったので、凱風館の門人たちが中心になって神戸シェラトンホテルで1年前倒しで古稀のお祝いをして頂いた。

「人生七十古来稀」である。古来稀なりの年齢になってしまったけれど、あまり実感がない。

 いや、身体のあちこちにガタが来ていることはわかる。以前だったら軽々とできたことが「よっこらせ」と自分を励まさないと始められない。そろそろ「お迎え」に向けて覚悟を決めなければいけないということもわかる。なにしろ、年金受給者になったのだし、先日は神戸市から「高齢者用無料パス」の申請書が送られてきたんだから。

 しかし、「人生、見るべきほどのことは見つ」というところまで達観できない。

 逆である。

 書斎の本棚を見上げても、「ああ、ここにあるこれらの本のほとんどを結局俺は読まずに終わるのか」としみじみ思う。読むべきだとわかっている本、若いときから「いつかはきっと読むだろう」と思っていた本のほとんどを読むことなしにわが人生を終えるのである。ついに人間的に成熟することも、十分な知識を身につけることもなく人生を終えるのである。

 自分の無知と未熟を嫌というほど思い知らされるのだが、さりとて「これから努力して何とかします」という言い逃れがもう効かない。Time's up である。

 なるほど、これが老いるということであるのかとしみじみ思う。

 若い時には自分が老いるということがうまく想像できなかった。

 老いたおかげで、どうして若い時に「老いた自分」を想像できなかったのか、その理由だけはわかった。

「頭の中身は若者のままなのだけれど、身体機能ばかりが衰え、周りからも老人扱される19歳」というような怪しげな生き物の心境を19歳の私に想像できたはずがない。

 いまはその「怪しげな生き物」を日々生きているわけであるから、それがどういう感じのものかはよくわかる。よくわかるけれど、その感じをタイムマシンで50年前にもどって19歳の自分にわかるように説明することはできないだろうと思う。

 19歳の自分にはどれほど情理を尽くして説明しても決して理解できない「感じ」がいまはよくわかるということが「老いの手柄」ということなのかも知れない。

 

2・「船弁慶」のシテを務める

 6月の下川正謡会で能「船弁慶」のシテを務めた。

 お能のおシテを演じるのは「土蜘蛛」「羽衣」「敦盛」に続いて4回目。

 「土蜘蛛」と「敦盛」は前シテが直面だし、出番も短い。「羽衣」は中入りなしで、最初から最後まで立ったままで、舞もなかなか楽しい。でも、「船弁慶」は前シテが静御前、後シテが平知盛の幽霊。現実の女性と怨霊の男性を演じ分けなければいけない。それだけではなく、前シテはほぼ座ったまま(これがつらいの)、後シテは長刀を振り回しての立ち回りという、心理的にも身体的にもかなり過酷な能である。

 一年間かなりハードな稽古を積んだ結果、舞台は無事に終わり、自分でも納得できたけれども、膝を傷めてしまった。なかなか治らない。

 

3・橋本治・加藤典洋のお二人を鬼籍に送る。

 1月29日に橋本治さん、5月16日に加藤典洋さんというふたりのたいせつな先輩がご逝去された。

 このお二人と養老孟司、関川夏央、堀江敏幸の五人の方々が僕が2007年に第六回小林秀雄賞を受賞したときの選考委員だった。

 選考委員を代表して、橋本治さんが授賞理由についてお話をしてくれた。舞台に並んで立って、橋本さんが僕の『私家版・ユダヤ文化論』について語ってくださるのを横で聞いた。なんだか夢のようだった。

 橋本さんは20代からの僕の久しい「アイドル」であった。『桃尻娘』からあと、ずっと読み続けた。亡くなったときに、書棚にある橋本さんの本を数えたら125冊あった。それでも橋本さんの全作品の半分に及ばない。どれほど影響を受けたかわからない。

 

 加藤さんとはじめてお会いしたのは、鎌倉の鈴木晶先生のおうちで、雨の中のBBQの席でだった。

 鈴木さんが「高橋源一郎が近所だから呼ぼうよ」ということになって、電話をかけたら、たまたまその日高橋さんに会いに来ていた加藤さんも同道された(橋本麻里さんと千宗屋さんも一緒だった。ずいぶん豪華なゲストだ)。

 それが加藤さんとお会いするはじめてだった。

 僕の批評的な作物としてのデビュー作である『ためらいの倫理学』は加藤さんの『敗戦後論』についての論考をひとつの軸にしたものである。この本をめぐる論争の中で、加藤さんの側に理ありとしてコメントした人はあまりいなかった(加藤さんによると「孤立無援」だったらしい)。僕は加藤さんの側に立って論陣を張った例外的な一人だった。

 加藤さんは当時信濃毎日新聞に連載していた時評に『ためらいの倫理学』を取り上げてくれた。加藤さんによると「日本で一番早く内田さんのことを論じたのは僕だよ」ということであった。

 その加藤さんと鈴木さんのおうちではじめてお会いしたのである。このメンバーだから、話が弾んで止まらない。夜遅くまで話し続けた。加藤さんは志木のご自宅に帰るつもりでいたのだけれど、話が止まらなくなって終電を逃し、僕が鎌倉駅前に取っていたホテルのツインの片側で寝ることになった。ホテルの部屋でも話が止まらず、翌朝の横須賀線の中でも話が止まらなかった。

 それからも養老先生が主催されている「野蛮人の会」で毎年暮れにお目にかかったし、アルテス・パブリッシングで対談本の企画があって、2009年から10年にかけて、長い時間対談をした(残念ながら本にはならなかったけれど)。

 加藤さんと最後にお会いしたのは、2017年の8月に長野の須坂市で行った「信州岩波講座」だった。そのときに加藤さんは「一階の批評」について話した。

「加藤典洋さんを悼む」というブログ記事にそのことは書いたけれど、加藤さんが「一階」と呼んだのは、現実を高みから一望俯瞰する「二階」でもなく、現実を無意識の欲動や衝動越しに眺めることのできる「地下」でもない、この現実のことである。

加藤さんはこう書いている。

 

「筆者は軟弱な人間である。謙遜ではなく、軟弱であることを価値であると考えている人間である。この一階だけがすばらしいといっているのではない。むろん、一階にいるだけでは問題は解決しない。ひとはいまそれですむ世界には、生きていない。時に二階に上がり、また地下に降りることも必要となるだろう。それどころか一階の床が抜け、地下に落下することすらあるかもしれない。

 しかし、たとえそうなったとしても、つねに一階の視点を失わないこと。そのことが大事ではないだろうか。(...)ふだんの人間がふだんにかんじる場所だからといって、そこに居続けることがそんなに簡単でないのは、ことばをもつことが、ふつうは、二階に上ることであり、でなければ、地下室に下ることだからである。ことばを手にしてしかも一階の感覚をもちつづけることは、そうたやすくない。」(『僕が批評家になったわけ』、246頁)

 

「ことばを手にしてしかも一階の感覚をもちつづけること」に加藤さんは全力を尽くした。みごとに一貫した仕事ぶりだったと思う。

 大瀧詠一、橋本治、加藤典洋と僕が兄事してきた先輩がたがこの数年のうちに次々と亡くなった(兄も加えると四人である)。

 

 父が80歳を超えた頃に「長生きしてつらいのは、古い友人たちがいなくなることだ」と慨嘆していた。僕はまだ「長生き」というほどではないけれど、「頼りにしていた先輩たち」が亡くなることの喪失感は身に沁みてわかる。

2020年

1月

16日

五島つばきマラソンへの道 その2 ☆ あさもりのりひこ No.791

2019年12月29日(日)、橿原運動公園でビルドアップ走15㎞、1時間38分16秒。

 

2020年1月2日(木)、高松塚~キトラ古墳~稲渕~甘樫丘を16.8㎞、2時間00分33秒。

久しぶりの「激坂」であった。

 

1月4日(土)、橿原運動公園でビルドアップ走18㎞、1時間56分43秒。

1㎞7分のペースから徐々に上げていって、最後の1㎞は5分38秒で走れた。

 

1月6日(月)早朝、起伏のある行程と階段上り508段を2周した(階段上り合計1016段)。

筋持久力を強化するために、「ビルドアップ走」と「階段上り」に集中して取り組んでいる。

この日で、1月の走行時間が10時間を超えた。

 

 

1月12日(日)午前、起伏のある行程と階段上り508段を3周した(階段上り合計1524段)。

 

1月13日(月)午前、橿原運動公園でビルドアップ走12㎞、1時間16分15秒。

1㎞7分のペースから徐々に上げていって、最後の1㎞は5分23秒で走った。

この日で、1月の走行距離が100㎞を超えた。 

 

 

第20回五島つばきマラソンまで、あと38日である。

2020年

1月

14日

今年の抱負は何でしょうか?

 

本日は、事務局担当日です。

 

さて、明日15日で「松の内」が終わり、お正月気分を吹っ切り、本格的に新年を始動となると思います。

 

ところで、みなさんは、楽しい初夢はみましたでしょうか?

 

また新年にあたり抱負は持っていますか?

 

昨晩、年始恒例のテレビ番組『さんま・玉緒のお年玉あんたの夢をかなえたろかスペシャル』を観ました。

 

観ながら思ったことは、大なり小なり夢を持つことの大切さでした。

 

夢を、希望を実現できた人が、喜ぶ姿を見て、観ているこちらも嬉しくなり元気をもらえた様に思えます。

 

高校生の頃までは、書道の先生や神主さんに書初めで新年の抱負を書くことを進められ、短い言葉で何度か書きましたが、社会に出てからは、心の中では思っても文字にすることは、少なかったように思います。

 

私も息子に、今年の抱負は?と尋ねながら、自分の抱負が漠然としていたことに気づきました。

 

社会人になって、歳を経るにつれて、何人もの目標を達成した姿を見て、目標を掲げることは、本人にとっても、周りにとっても、とても意味ある事だと思うようになりました。

 

夢を実現したり、目標を達成できたりすれば、周りにも喜びや楽しさを与えられ、そしてそれを見た周りの人も夢を実現しよう、目標を達成しようとする相乗効果が生まれるのではないかと、私は思います。

 

時間は前にしか進みませんので、過去を振り返って、後悔だけをすることはやめましょう。

 

そして、前向きに進むために夢を持ち、目標を立てて、それを周囲に語り実現させましょう!

 

今年は、子年ですので、

夢に向かって、抱負の実現にむかってコツコツと進みましょう!

2020年

1月

14日

内田樹さんの「加藤典洋さんを悼む」 ☆ あさもりのりひこ No.790

イデオロギー的に「すっきりしている」ことはその組織や運動が持ちうる現実変成力と相関しない。

 

 

2019年12月31日の内田樹さんの論考「加藤典洋さんを悼む」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 加藤典洋さんが亡くなったのは今年の5月16日である。その後に「小説トリッパー」に追悼文を寄せた。ブログに上げたつもりでいたが、上がっていなかった。大晦日に今年の10大ニュースを書いているときに橋本治・加藤典洋という二人の先輩のことを書いているうちに、上げていなかったことを知った。

 半年遅れだけれど、掲げておく。

 

 加藤さんがご病気だということは、去年の11月に高橋源一郎さんから伺った。ちょうど高橋さんが明治学院大学を退職されるに当たって連続対談を企画していて、僕の次の回に加藤さんが登壇される予定だった。僕との対談の終りに、高橋さんが「加藤さんがご病気で次回は中止になりました」とアナウンスした。少し前までは対談に出るつもりでいられたのだから、それほど深刻な病状ではないのだろうと思った。とりあえず、加藤さんにTwitterで「お大事に」とお見舞いの言葉を送ったら、すぐに「ありがとう」という短いご返事が来た。笑顔の「顔文字」が付されていた。

 加藤さんは養老孟司先生が毎年主宰される新年会(僕は勝手に「野蛮人の会」と呼んでいた)のメンバーでもあったので、次はそのときにお会いできるだろうと思っていたが、このときも欠席された。養老先生が、「加藤くん、あまりよくないみたいだ」と誰にともなくつぶやいて、少しのあいだ座がしんと静まった。

 でも、四月の末には加藤さんから『九条入門』という新刊が届いた。日本国憲法制定過程を徹底的に調べ抜いた労作である。一読して、僕は『敗戦後論』以来の衝撃を受けた。加藤さんはあれからも足を止めることなく、『戦後入門』、『九条入門』と一連の論考を通じて、憲法と天皇制についての根本的で困難な問題を深追いし続けていたのである。

 その巻末には、憲法制定以後の、安保改定と自民党単独政権の時代から現在にいたる日本戦後史について「その詳しい歴史は、おそらく次の本で書くことになるでしょう」と予告されていた。それを読んでほっとした。よかった、まだ次がある。それくらいにはお元気なんだ、と。そして、体調不良の中で、病身に鞭打って調べものを続け、病室で執筆を続けているはずの加藤さんにエールを送る意味で、自分のブログにこの新刊の重要性を論じた長文の書評を掲げた。結果的に、それが僕が生前に加藤さんについて書いた最後の文章になった。もし、加藤さんがまだネットで情報検索できるほどの体力が残されていたら、読んでいてくれていたかも知れない。そうであったらよいのだが。

 でも、不思議な因縁だ。僕の物書きとしてのデビュー作である『ためらいの倫理学』は加藤さんの『敗戦後論』についての長文の書評を核として編まれた評論集である。そこで僕は加藤さんの所論を敷衍して、「歴史主体」論争において加藤さんを支持する立場を明らかにした。『敗戦後論』は加藤さん自身によれば「悪評が大部分」の苛烈な批判にさらされたテクストだったので、僕はその時点では例外的少数に属していた。

 その『ためらいの倫理学』を加藤さんはある地方紙の書評欄で取り上げてくれた。はじめてお会いしたときにそのことを告げて、「内田君のことを日本で最初に書評で取り上げたのはたぶん俺だよ」とちょっとうれしそうな顔をしていた。それが15年前のことである。

 それからも加藤さんは僕の書き物をよく批評してくれた(僕も新刊を読むたびにブログに書評を書いた)。加藤さんの『僕が批評家になったわけ』を読んでいる途中で、いきなり「内田は」が出てきて、僕の『他者と死者』が俎上にあげられて、椅子から転げ落ちそうになったこともあった。

 二年前の夏に長野で講演と対談をしたのが、いまから思えば、ご一緒した最後になったのだが、そのときは加藤典洋さんが「どんなことが起こってもこれだけは本当だ、ということ 激動の時代と私たち」というお題で、僕が「帝国化する世界・中世化する世界」でそれぞれ1時間の講演をしてから、対談した。

 加藤さんは「どんなことが起こっても『これだけは本当だ』と言い切れる」腹の底にしっかりすわっている身体実感と、「こういうふうに考えるのが正しい」という叡智的な確信の間には必ず不整合が生じると言い、それを二階建ての建物に喩えた。身体実感が一階部分、知的確信が二階部分に当たる。その二つが一致しているように思える時もある。けれども、歴史的与件が変わると、二階部分が現実と齟齬するということが起きる。

 例えば、幕末の尊王攘夷運動における薩長と水戸藩では、水戸藩はイデオロギー的にはすっきりしていたけれど、現実と齟齬していた。薩長はイデオロギー的には支離滅裂だったけれど、現実に適応しようとはしていた。結果、現実に適応して「尊王攘夷」から「尊王開国」に「変節」し、「転向」した薩長が政治的勝利を制した。イデオロギー的に「すっきりしている」ことはその組織や運動が持ちうる現実変成力と相関しない。これは思えば『敗戦後論』以来の変わることのない加藤さんのスタンスだったと思う。

「一階の批評」というのは加藤さんの用語である。二階の叡智的な高みから見下ろすと、一階は臆断の渦巻くカオスに見え、地下室の無意識の暗闇から見上げると、一階の住人が信じている秩序や世界の適所全体性の虚妄が透けて見える。でも、加藤さんはあえて一階にとどまることを選んだ。そこがわれわれの生き死にする現場だからである。加藤さんはこう書いている。

「筆者は軟弱な人間である。謙遜ではなく、軟弱であることを価値であると考えている人間である。この一階だけがすばらしいといっているのではない。むろん、一階にいるだけでは問題は解決しない。ひとはいまそれですむ世界には、生きていない。時に二階に上がり、また地下に降りることも必要となるだろう。それどころか一階の床が抜け、地下に落下することすらあるかもしれない。

 しかし、たとえそうなったとしても、つねに一階の視点を失わないこと。そのことが大事ではないだろうか。(...)ふだんの人間がふだんにかんじる場所だからといって、そこに居続けることがそんなに簡単でないのは、ことばをもつことが、ふつうは、二階に上ることであり、でなければ、地下室に下ることだからである。ことばを手にしてしかも一階の感覚をもちつづけることは、そうたやすくない。」(『僕が批評家になったわけ』、246頁)

 「一階の感覚」を持ち続けながら地下深く、地上高く思量し、表現すること。それが加藤さんが選び取った行き方だった。自分の限界をわきまえ、自分の弱さ、脆さを引き受けて、その中に踏み止まって、できる限りのことをする。その「できる限りのこと」がどれほどのものであり得るか、加藤さんは身を以てそれを示した。

 

 大瀧詠一、橋本治に続いて、たいせつな、ほんとうにたいせつな先達を失ってしまった。

2020年

1月

10日

内田樹さんの「街場の教育論 韓国語版序文(後編)」 ☆ あさもりのりひこ No.789

船底のあちこちに穴が空いて、漏水して沈みかけている船がありました。この船に乗り合わせた人たちが「水を汲み出す力」を基準にして乗員たちを格付けすることにしました。そして、水汲みの力の低いものについては、ご飯の量を減らしたり、寝かせなかったり、鞭で叩いたりして差別しました。そんなふうにいじめられた人たちは弱り切って、使い物にならなくなりました。そして、気がつくと、水を汲み出す人手が足りずに、船はぼこぼこと沈んでしまいました。おしまい。

 

 

 2019年12月3日の内田樹さんの論考「街場の教育論 韓国語版序文(後編)」をご紹介する。

 どおぞ。

 

 

 同学齢集団の中で相対的に優位に立つためには二つ方法があります。一つは、自分の力を高めること。一つは、競争相手の力を弱めることです。問題が「相対的な優劣」である限り、この二つは同じことです。そして、「競争相手の力を弱める」ことのほうが圧倒的に費用対効果が高い。自分の競争相手たちをできるだけ無能で無力な人間にすればいいわけですから。

 やり方は無数にあります。

 努力している人の足を引っ張る、成熟した大人になろうとしている人に「かっこつけるな」とか「えらそうにするな」といやがらせを言う、個性的な人を「変だ」と言って排除し、迫害する。もっとシンプルにただ「大声を出して教室を走り回る」でも、ことあるごとに教師に食ってかかって、教師の尊厳を掘り崩すとか・・・やることはいっぱいあります。すべて「同学齢の競争相手の生きる力を減殺する」という目的にはかなっている。そして、現に子どもたちはそうやって日々クラスメートたちの生きる力を殺ぐべく努力しています。

 愚かなふるまいだと思うかも知れませんけれど、「短期的な自己利益の増大」という点だけを見れば、これは合理的なふるまいなのです。これで正しいんです。

 でも、そうやって閉ざされた集団内部での相対的優劣を競っている限り、集団の力はしだいに弱まってゆく。当然です。集団成員の全員が、お互いに「自分以外のメンバーが自分より学力が低く、自分よりメンタルが弱く、自分より未成熟であること」を願っているんですから。そんな集団が「強いもの」になるはずがない。

 それこそまさにいまの日本で起きていることです。

 日本社会では「いじめ」とか「パワハラ」とかいうことが社会問題になっています。

 よく僕のところにも取材が来ます。「いったい、どうしてこんなことが起きるのでしょう?」と訊かれます。「社会制度に瑕疵があるのでしょうか? もっと管理を強化すべきでしょうか? 処罰を厳格化すればいいのでしょうか?」いろいろと訊かれます。

 僕の答えは、「どんな病的な行動にも主観的な合理性はある」というものです。

「いじめ」も「パワハラ」も、自分と同じ集団に属するメンバーたちの生きる力を減殺させることを目的としています。これは集団が存続してゆく上ではきわめて有害なふるまいですが、集団内部的な競争においては、「いじめるもの」「ハラスメントするもの」に利益をもたらすふるまいです。集団として、長期的に見ると、自殺的なふるまいですが、個人として、短期的に見ると、自己利益を増大させる合理的な行為です。だから、そういう行為を人々は「努力」して行っているのです。別に邪心に衝き動かされているわけではなく、競争で相対的な優位に立つためには、競争相手の生きる力を殺ぐのが効果的だという経験則に従って行動しているのです。

 船底のあちこちに穴が空いて、漏水して沈みかけている船がありました。この船に乗り合わせた人たちが「水を汲み出す力」を基準にして乗員たちを格付けすることにしました。そして、水汲みの力の低いものについては、ご飯の量を減らしたり、寝かせなかったり、鞭で叩いたりして差別しました。そんなふうにいじめられた人たちは弱り切って、使い物にならなくなりました。そして、気がつくと、水を汲み出す人手が足りずに、船はぼこぼこと沈んでしまいました。おしまい。

 今の日本で起きているのはこんな感じのことです。

 国民個人の格付けに熱中しているうちに、国の力そのものが衰微してしまった。

 そのことに気がついていない。それは集団的に、長期的にものごとの適否を考えるという思考習慣が失われつつあるからです。

 それは日本だけではなく、いま全世界に広がった病態なのかも知れません。きっと韓国でも似たような現象は観察されているのではないでしょうか。

 ですから、僕からのご提案はごくシンプルなものです。

 学校教育は専一的に「子どもたちの成熟を支援する。子どもたちの生きる知恵と力を高める」ように営まれること。それだけです。

 もちろん、言ったからといってすぐに実現できるような話ではありません。

 でも、とりあえずはそこから始める。まだ答えは出さなくていいんです。とりあえずは問うだけで十分だと思います。

 

 僕からは以上です。

 両国の成熟した市民たちの対話を通じて、日韓両国の相互理解と連携がふたたび基礎づけられることを強く願っています。僕のこの願いに共感してくださる方が韓国の読者の中にもいてくださるとうれしいです。

 

2019年12月

 

内田樹

2020年

1月

09日

2019年のデータについて ☆ あさもりのりひこ No.788

あけましておめでとうございます。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

2020年になって、2019年の各種データが出揃った。

 

まず、奈良県橿原市の環境放射線量(ガンマ線)から。

1年間の平均値はつぎのとおり。

室内1メートル 0.043μ㏜/h

室内0メートル 0.044μ㏜/h

室外1メートル 0.057μ㏜/h

室外0メートル 0.071μ㏜/h

 

ちなみに2018年の平均値はつぎのとおり。

室内1メートル 0.044μ㏜/h

室内0メートル 0.046μ㏜/h

室外1メートル 0.057μ㏜/h

室外0メートル 0.068μ㏜/h

 

室内の値は若干下がっているが、地表の値が0.07μ㏜/hを超えた。

 

 

つぎに、朝守の身体について。

体組成計の12月末のデータを2018年と比べてみる。

体重 71.75㎏→70.15㎏

BMI 22.6→22.

体脂肪率 18.4%→16.1%

筋肉量 55.5㎏→55.85㎏

  推定骨量 3㎏→3.1㎏

  内臓脂肪レベル 12→11

  基礎代謝量 1601/日→1606/

  体内年齢 44才→45才

  体水分率 55.4%→58.1%

 

体重と体脂肪率と内臓脂肪レベルが減って、体水分率が増えているのはいい。

 

 

読書について。

1年間で読んだ本の冊数はつぎのとおり。

 

2016年 27冊

2017年 27冊(うち海外3冊)

2018年 32冊(うち海外2冊)

2019年 26冊(うち海外4冊)

 

日本の作家の作品が多い。

2019年は、この4年間で読んだ冊数が一番少なかった。

2020年は30冊以上読みたい。

 

最後に、1年間のランニングのデータ。

走行時間 204時間34分39秒

走行距離 1759㎞

 

2018年1年間のデータは

走行時間 164時間29分17秒

走行距離 1240.7㎞

 

時間は約40時間、距離は約518㎞増えている。

2020年は、走行時間240時間、走行距離2000㎞を目指す。

 

2019年に走ったレースはつぎのとおり。

1 127日 畝傍山一円(11.5㎞) 1時間1836

2 224日 五島つばき(フル) 5時間55

3 310日 宇陀シティマラソン(10㎞) 5838

4 331日 なにわ淀川ハーフ 2時間1054

5 62日 大泉緑地(30㎞) 3時間3802

6 728日 服部緑地ハーフ 2時間3354

7 818日 服部緑地(10㎞) 1時間0201

8 923日 服部緑地ハーフ 2時間1524

9 1013日 リバーサイド(30㎞) 3時間3405

10 113日 大阪・淀川市民ハーフ 2時間1504

11 128日 奈良マラソン(フル) 5時間1725

 

フルマラソン、30㎞、ハーフマラソン、といずれも自己ベストを更新することができた。

 

2020年は、フルマラソンで5時間を切ることが目標である。

2020年

1月

08日

内田樹さんの「街場の教育論 韓国語版序文(前編)」 ☆ あさもりのりひこ No.787

学校の人類学的機能は要言すれば一つしかありません。

 それは「共同体の次世代の成員たちが生き延びてゆけるように、その成熟を支援すること」です。それに尽くされる。

 

 

 2019年12月3日の内田樹さんの論考「街場の教育論 韓国語版序文(前編)」をご紹介する。

 どおぞ。

 

 

みなさん、こんにちは。内田樹です。

 このたび『街場の教育論』の韓国語版が出ることになりました。

 次々と僕の本を翻訳してくださっている朴東燮先生と、出版してくださっている韓国の出版社(今回はご縁の深いEdunietyからです)の皆さんに改めて感謝申し上げます。

 日韓関係はいま戦後最悪という状態にあります。外交関係は硬直したままですし、経済関係も冷却し、日本の観光産業を支えていた韓国からのツーリストも激減しました。一刻も早い日韓関係の修復と相互理解の進展を日韓両国とも多くの国民が願っているはずです。そういう状況下で、僕の本が翻訳、出版されることが日韓関係の改善にわずかでも寄与することができることを願っています。

 

 この本は「まえがき」「あとがき」に説明がありますように、2007年度(もうずいぶん昔のことです)の神戸女学院大学の授業を録音して、それをテープ起こししたものを添削した本です。

 その頃は教務部長という役職に就いていて、毎日のように会議に出て、業務に忙殺されていたので、本を書き下ろしている余裕がありませんでした。そこで窮余の一策、講義やゼミを録音して、それを文字起こししたものに加筆して「一丁上がり」という「一石二鳥システム」を採用することにしました。

 これがなかなかうまく行きまして、『街場の中国論』『街場のアメリカ論』『街場の文体論』『私家版・ユダヤ文化論』といった著作はどれも講義録を土台にしてできた本です。

 目の前にいる学生院生たちに話を聴いて、理解してもらわないとという「待ったなし」の事情がありますので、こちらにも切迫感がある。聴いている学生たちが目をキラキラさせてくれれば「お、この話は受けているな」ということがわかるし、学生たちがばたばたと眠り出すと「このトピックは学生たちには切実なものではないんだ」ということがわかる。そういう双方向的なやりとりの中で作られた本ですから、書斎にこもって、ひとりでうんうん唸りながら書いている本よりも、だいぶ読みやすいものになっていたのではないかと思います。

 さいわい、この本は日本では好意的に迎えられ、いくつか書評にも取り上げられましたし、何より、多くの学校の先生たちに読んでもらいました。「読んで、ほっと安心しました」という感想を何人もの先生から頂きました。「学校でつらいことがあって、教師の仕事に迷いが出た時には、この本を取り出して、明日の活力を補給しました」という先生もおられました。そういう感想を頂いたことは僕にとってもたいへんうれしいことでした。

 

 いまの日本の教員たちと韓国の教員たちが置かれている環境がどれほど違うのか、僕にはよくわかりません。でも、僕の教育に関する書物が何冊も韓国語訳されていることから推して、「困っていること」については、いくつかの共通点があることは間違いないと思います。そして、おそらく両国の学校教育の最も重要な共通点は学校教育を市場原理に基づいて語る作法だと思います。

「学校教育を市場原理に基づいて語る」というのは、「マーケット」とか「ニーズ」とか「費用対効果」とか「組織マネジメント」とか「工程管理」とかいう工学的・マーケティング的な用語が教育について語るときに繰り返し口にされるということです。

 そういうのが流行りなんです。日本でも90年代からそういうふうになりました。21世紀に入って、さらにその傾向は強化されてきております。

「社会に出てすぐ役立つ知識や技術だけを教えろ」「人文科学的教養は実用的でないから教える必要がない」「学者ではなく、実務経験者を教員に登用して、社会の現実を学生たちに教えさせるべきだ」というような手荒な要求が財界や政治家たちからは次々と出されて来ますが、教育の現場はそれに対してなかなか有効な反論ができずにいます。

 でも、僕はそういう風潮を肯定的には評価できません。はっきり言って、「実用」とか「有用性」とか「生産性」というようなビジネス用語で教育を語って欲しくない。でも、まことに残念ながら、僕と意見をともにしてくれる人はいまの日本では少数派です。

「市場原理に基づいて」と上に書きましたけれど、もっと限定的に言うと、「工場での工業製品製造原理に基づいて」です。工場のラインで缶詰や自動車やコンピュータを製造することが産業の主要形態であったかなり昔のモデルに基づいて、いま学校教育は制度設計されています。

 正直言って、僕はその古さと非現実性にうんざりしているのです。

だって、もうそんな時代じゃないんですから。

 工場でものを作ることが産業の主要形態である時代はとうに過ぎてしまった。なのに、どうしていまだに「自称実務家」たちは「工場で缶詰を作る」ような気分で学校教育をしたがるのか、僕には理解できません。

 勘違いして欲しくないのですけれど、僕は「もうそんな時代じゃない」から、古典的な中枢的な工程管理を止めて、「いまふう」にしろと言っているわけじゃないんです。誤解しないで下さいね。学校教育もこれからはスタンドアロンのアクターたちが自由に離合集散してアドホックにプロジェクトを遂行するリゾーム的なネットワークにしろとか、そういう目がちかちかするような話をしているわけじゃないんです。そうじゃなくて、学校教育というのはもともと惰性の強いものなんだから、時代に合わせてころころ変えるとろくなことはないと申し上げているのです。

 社会のニーズなんかいいから、基本的なことだけをきちんとやればいい、と。なにしろ、学校の本質は人類史の黎明期からたぶんほとんど変わっていないはずだからです。

 学校の人類学的機能は要言すれば一つしかありません。

 それは「共同体の次世代の成員たちが生き延びてゆけるように、その成熟を支援すること」です。それに尽くされる。

 ですから、あらゆる教育事業は「これは子どもたちの生きる力を高めるのだろうか? 子どもたちの成熟を支援する役に立つのだろうか?」という問いを通じて、その適否を吟味する。それだけで十分です。それ以外のことは学校教育にとってはすべて副次的です。

 例えば、「子どもたちの相対的な優劣を競わせ、格付けを行うこと」は教育にとってとりわけ優先的な仕事ではないと僕は思います。子どもたち同士に優劣を競わせて、格付けを行ない、高いランクの子どもを厚遇し、低いランクの子どもを処罰するということが子どもたちの市民的成熟に資すると僕は思いません。僕の知る限り、「競争と格付け」が子どもたちを成熟させる、子どもたちの生きる力を高めるということを科学的に証明したエビデンスは存在しません。

 そんなエビデンスがあるわけない。科学的に実験しようと思ったら、子どもたちを二つのグループに分けて、一方は「競争」を優先する環境に置き、一方は「成熟」を優先する環境において、20年くらい経年変化を見ないとわからないからです。でも、20年やってみて「あ、こちらのグループの教育は失敗したようです。みんな不幸になりました・・・」と言って済ませるわけにはゆかない。子どもは実験台にはできません。

 にもかかわらず、現在の学校では、限りある教育資源は「確実にリターンがあるところ」に傾斜配分すべきだという「選択と集中」理論があたかも科学的真理であるかのようにのさばっている。「すぐに金儲けにつながりそうな領域に金を投じ、なさそうなところには金を使わない。先行き役に立ちそうな子どもに手をかけて、できの悪いのは放っておく」というルールが教育現場を支配している。

 ここには「未来の共同体を担う次世代の若者たちの成熟を支援する」という配慮はかけらほどもありません。ゼロです。当然ながら、子どもたちを競争させ、厳密に格付けしても、それによって彼らが「賢い、まともな大人」になるということはありません。むしろ、競争的環境は彼らの成熟を阻むと僕は考えています。

 

 その理屈をちょっと噛み砕いてご説明します。

2020年

1月

06日

先行き不安

大和八木 弁護士

あけましておめでとうございます。

本日は事務局担当日です。

 

本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

今年は子年。

十二支のはじまりの年で、子孫繁栄・未来への可能性を秘めた年だそうです。

また、子年には株式市場も反映するそうです。

 

子年生まれの人は、危険を察知する能力に長けており、また環境適応能力がよく、真面目で実直・よく働くそうですよ(・∀・)一生食べ物に困らないとも言われています。

 

こどもに、自分の干支を聞かれたので、

亥年であることを教え、「猪突猛進そのものやん!」と言ったところ、

「なんで猪突猛進って知ってるん!?(゚ロ゚)」とそれはとてもとても驚かれました。

 

「なんで・・・?なんでってなんで?えっと。オトナだから?」

 

よくよく話を聞いてみると、今、子どもの間で大流行の

「鬼滅の刃」というアニメキャラの口癖だそうです。

 

・・・・。

虚脱感が大きく、しばらく口が聞けませんでした(;´д`)=3トホホ・・

これで4月から本当に中学生になれるんでしょうか・・・。

漫画も捨てたもんではない、ということにしておきましょうか・・・。

ちなみに、亥年の人は、「困った人や気の毒な人を見るとほっておけず、日常生活は質素で、お金があっても贅沢はしない」と聞きましたが

うちの子にはまったく該当しておりません(≧ε≦)

 

私の干支は・・・また、そのうちに。

2020年

1月

06日

内田樹さんの「えらてんさんとの対談本の「まえがき」」 ☆ あさもりのりひこ No.786

ほんとうに新しいものは「新しいけど、懐かしい」という印象をもたらします。

 

 

2019年12月1日の内田樹さんの論考「えらてんさんとの対談本の「まえがき」」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

もうすぐ晶文社からえらてんさんとの対談本(司会は中田考先生という濃い布陣)が出ます。その「まえがき」を書きました。予告編としてお読みください。

 

 みなさん、こんにちは、内田樹です。

 今回は矢内東紀(akaえらてん)さんとの対談本です。司会は中田考先生にお願いいたしました。これがどういう趣旨の本であるかについて、最初にご説明したいと思います。ちょっと遠回りしますけれど、ご容赦ください。

 

 だいぶ前のことですが、大瀧詠一さんがラジオの『新春放談』で山下達郎さんを相手に、「ほんとうに新しいものはいつも『思いがけないところ』から出て来る」と語ったことがありました。ポップミュージックについての話でしたけれども、僕はあらゆる領域にこの言明は当てはまると思いました。「ほんとうに新しいもの」はつねに「そんなところから新しいものが出て来るとは誰も予想していなかったところ」から登場してくる。

 音楽だけではなく、美術でも、文学でも、映画でも、学術でも、事情は同じです。いつだって「え、こんなところから!」と驚くようなところから新しいものは生まれて来る。

 もう一つ、これも僕の念頭を去らない言葉ですが、村上春樹さんがインタビューに答えて言った言葉です。「時代によって知性の総量は変わらない」。これもその通りだと思いました。賢者が多い時代とか、愚者ばかりの時代というようなものはありません。どんな時代だって、賢愚の比率は変わらない。変わるのは賢愚の分布だけです。

 ある時期、才能のある人たちが「ダマ」になって集まっていた領域に、なにかを境にして、才能のある人がぱたりと来なくなるということはよくあります。これまでにそういう場面を何度も目撃しました。テレビや広告業界や週刊誌は、ある時期きらめくような才能が集まっていましたが、ある時からそうではなくなった。でも、それをもって「才能のある人間が日本からいなくなった」と推論するのは間違っています。才能のある人はどこかよその、もっとスリリングな領域に立去ってしまったのです。

 そういう現象がいま日本社会のさまざまな分野で同時的に観察されています。

 少し前まで、才能のある人、創造的な人、破天荒な人がひしめいていた業界が、定型的な文句を繰り返し、前例主義にしがみつき、イノベーティヴな企画を怖がる人たちばかりで埋め尽くされるようになった。そういうケースを皆さんもいくつもご存じだと思います。

 でも、別にそれをそんなに悲観することはないんじゃないかと僕は思っています。

 才能のある人も、知的に卓越した人も、想像力に溢れる人も、人口当たりの頭数にはそれほど経年変化はありません。だから、もし、「これまでそういう人がいた場所」にそういう人が見当たらないのなら、それは「それ以外のどこか」にいるということです。

「それ以外のどこか」がどこなのか?

 それは僕にもまだよくわかりません。それでも、なんとなく「あの辺かな?」という予測はありますけれど。

 例えば、「美味しい食べものを作る仕事」、「長く師について伝統的な技芸を習得しないとできない仕事」、「身体と心の傷を癒す仕事」、「書物を商品ではなく、『人間にとってなくてはならぬもの』として扱う仕事」、「品位、親切、礼儀正しさといったことが死活的に重要な仕事」といった領域には、才能あふれる若い人たち(あまり若くない人たちも)が集まっています。

 いま僕がおこなったこの列挙の仕方のカテゴリー・ミステイク的無秩序ぶりからも、「あの辺」とは「どの辺」なのか、一意的に条件を定めるのがむずかしいということはお分かり頂けると思います。

 それでも、とにかく才能ある若い人たちが、「ある種の領域」に惹きつけられて、かたまりを作りつつある・・・という直感を僕と共有してくれる読者は決して少なくないと思います。

 そのいくつかの「かたまり」が出会って化学変化を起こしたときに、「ほんとうに新しいこと」が始まる。僕はそう思っています。そして、それを見たとき、僕たちは「なんだ、そうだったのか。ああ、思いつかなかったけれど、そうか、その手があったのか」と笑いながら膝を打つ。そういうもんなんです。

 ほんとうに新しいものは「新しいけど、懐かしい」という印象をもたらします。

 ただ「新しい」だけでは時代を刷新するような力を持ちません。「新しく」てかつ「懐かしい」という二つの条件を同時にクリアーしないと時代を変えることはできない。

 1956年にエルヴィス・プレスリーはカントリー、R&B、ポップスの3チャートで1位になるという驚くべき記録を作りました。人種や性別を超えて、宗教や生活文化の差を超えて、多くのアメリカ人がこれは「自分のための音楽」だと感じた。自分の身体の深層にエルヴィスの歌声にはげしく共鳴するものを感じた。それが「新しくて、懐かしい」という経験の一例です。

 それと同じようなことがいずれ日本でも起こると僕は感じています。何か「新しいけれど、懐かしいもの」が思いがけないところから登場してくる。それを見て、僕たちは、日本人がまったく創造性を失ったわけではないし、才能が枯渇したわけでもないと知って、ほっとする。

 きっとそういうことがこれから起きる。もうすぐ起きる。それが「どこ」から始まるのかは予想できないけれど、もうすぐ起きる。そういう予感が僕にはします。

 

 えらてんさんとの出会いは僕にとってそのような徴候の一つでした。

 えらてんさんがどういう人なのか、僕はこの対談でお会いするまでよく知りませんでした。中田考先生経由でお名前を知って、ツイッターをフォローしたり、YouTubeの動画見たりはしていましたが、どういう経歴で、どういう仕事をしていて、どういう考え方をしている人なのか、詳しいことは知りませんでした。

 ですから、この対談は、彼がどういう家庭で生まれて、育ったのかという『デヴィッド・コパフィールド』的な語りから始まっています。そして、元東大全共闘だった両親の下で、共産制のコミューンで育ったという驚嘆すべきライフ・ヒストリーをうかがい、朝起きられないので定職に就かず、「しょぼい起業」をしたり、ユーチューバーとして収入を得ているという話を聴いて、「ほんとうに新しい世代」の人なのだと思い知りました。

 一番驚いたのは、彼は僕たちの世代が口角泡を飛ばしてその理非を論じ、身銭を切って学習したり、あるいは批判してきた知見を(マルクス主義やポストモダニズムやフェミニズムや新自由主義を)、「生まれたときからそこにあったもの」としてやすやすと、手になじんだ道具のように扱うことができる、そういう世代の人だということでした。

 ピエール・ブルデューは『ディスタンクシオン』で、「後天的に努力して文化資本を学習しなければならない階層」と「生まれつき文化資本を身につけた階層」の乗り越えがたい差異のうちに階層再生産の力学が働いていることを明らかにしました。

「飲んだことのあるワイン」について、セパージュがどうたら、テロワールがどうたら、マリアージュがどうたらとあれこれ蘊蓄を傾けられるのが「後天的文化貴族」。一方で、ワインの銘柄も産地も価格も知らないけれど、それを口にしたとき鼻腔に広がった香りや、グラスの舌触りや、かかっていた音楽や、窓から見えた風景をありありと思い出して、その愉悦について語ることができるのが「先天的文化貴族」です。文化資本をどこかから集めて来た「情報」として所有しているのか、固有名での「経験」として所有しているのか、その違いと言ってもいい。

 えらてんさんは僕たちの時代の歴史的経験を、一般的な情報としてではなく、「固有名での経験」として生きている。そういう印象を受けました。説明のしかたが下手ですみません。でも、そういう印象を受けたんです。

 例えば、60年代末の「全共闘運動」がどのような思想や心情にドライブされていたものかということを、彼は史料を経由してではなく、親子関係を通じて身にしみて知っていた。そういう人と出会ったのは、僕ははじめてでした。

 僕らの世代にとって、全共闘運動は非日常的な高揚感やあるいは救いのない失意を含んだ一個の「物語」でした。だから、僕たちはそれを語るときについ「遠い目」をしてしまう。でも、えらてんさんにとって、それは「物語」でもなんでもなく、ほとんど凡庸な「日常的現実」だった。

 そういう人に僕ははじめて会いました。そして、そういう経験をした人の目から、世の中はどう見えるのだろうかということにつよく興味を惹かれました。

 ですから、この対談でも、彼の話を聴いているとき、僕はだいたい口を半開きにして「はあ~」と呆然としておりました。

 でも、読むと分かりますけれど、この対談の中では、僕の方が彼よりたくさんしゃべっています。ただし、それは僕の方に彼に「教えたいこと」があったからということではありません。そうではなくて、僕の方に「生きているうちに伝えておきたいこと」があったからです。先生が生徒に向かって教壇から教えているというのではなく、息も絶え絶えになった古老が、若者の手を取って、「これは先祖から伝えられた教えじゃ。わしはもうあといくばくもない。だから、ここでお前に伝えておくよ」というような感じです。えらてんさんは僕のそういう「感じ」をきちんと受け止めてくれたと思います。

 彼が僕の「口伝」をこれからどういうふうに生かすのか、しまい込むのか、捨てちゃうのか、それは彼が決めることです。僕としては彼もいずれまた一族の古老として死期を迎えて、若者の手をとって「これは先祖から・・・」をやるときが来た時に、そこに僕からの「口伝」の断片がいくつか含まれていたら、それだけで十分に満足です。

 

 最後になりましたが、大きな世代の隔絶をはさんだこの対談を企画し、対話をたくみに導いてくださった中田考先生と、つねに変わらぬ忍耐と雅量で仕事を進めてくださった晶文社の安藤聡さんに心から感謝申し上げます。ありがとうございました。とても面白い本ができました。

 

2019年12月 内田樹

2019年

12月

27日

内田樹さんの「沈黙する知性(後編)」 ☆ あさもりのりひこ No.785

知性とはかたちあるものではない。かたちをあらしめるもののことだ。形成された「もの」ではなく、形成する「力」である。

 

 

2019年11月1日の内田樹さんの論考「沈黙する知性(後編)」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 ニーチェの「貴族」は「おのれをおのれの力で根拠づけることのできる人間」という仮説である。「貴族」は「外界を必要とせず」、「行動を起こすために外的刺激を必要としない」。「貴族」は無思慮に、直截に、自然発生的に、彼自身の「真の内部」からこみあげる衝動に身を任せて行動する。

「騎士的・貴族的な価値判断の前提をなすものは、力強い肉体、若々しい、豊かな、泡立ち溢れるばかりの健康、並びにそれを保持するために必要な種々の条件、すなわち戦争・冒険・狩猟・舞踏・闘技、そのほか一般に強い自由な快活な活動をふくむすべてのものである。(・・・)すべての貴族道徳は勝ち誇った自己肯定から生ずる。」(ニーチェ、『道徳の系譜』、ニーチェ全集、第10巻、信夫正三訳、31頁)

 ニーチェが具体的にその実例として名を挙げたのは、「ローマの、アラビアの、ゲルマンの、日本の貴族、ホメーロスの英雄、スカンジナビアの海賊」たちである。彼らの共通性は「通ってきたすべての足跡に『蛮人』の概念を遺した」(同書、42頁)ことであった。この「蛮人」たちは「危険に向かって」「敵に向かって」「無分別に突進」し、「憤怒・愛・畏敬・感謝・復讐の熱狂的な激発」によって、おのれの同類を認知したのである。

 ニーチェ的「貴族」は間違いなくすぐれて「反知性主義」的な生き物である。

 だが、ニーチェがその修辞的力量を駆使して描いた「貴族」礼賛の言葉がその数十年後にナチスの「ゲルマン民族」礼賛プロパガンダにほとんどそのまま引用されたことを私たちは知っている。たしかに彼らは主観的には愉快な「蛮人」たちであったかも知れないが、彼らに「猿」とか「畜群」とラベルを貼られて、排除され、監禁され、殺されたものたちにとっては非道な屠殺者以外のものではなかった。

 三島はニーチェの轍を踏む気はなかった。だから、「高貴な蛮人」の「高貴」性を担保するものとして、単なる「血統についての自己申告」以上のものを求めた。そして、「天皇」という概念に出会った。

 三島の反知性主義の独創性は「天皇」を理性と非理性の交点に置いた工夫に存する。このようなアイディアは「知性の極致」を経由したのちにあえて反知性を引き受ける覚悟なしには語り得ないものである。

 三島がめざしたのは「天皇」という政治的概念の恣意的な改鋳ではないし、むろんその一意的定義などではなかった。そうではなくて、三島はこの文字列を目にし、耳にすると、人々が「それまで一度も口にしなかった言葉」を発するようになるという遂行的なはたらきに着目したのである。だから、三島はこの討論のときに、その後ひろく人口に膾炙することになった、驚愕すべき発言をなした。

「これはまじめに言うんだけれども、たとえば安田講堂で全学連の諸君がたてこもった時に、天皇という言葉を一言彼等が言えば、私は喜んで一緒にとじこもったであろうし、喜んで一緒にやったと思う。」(同書、64頁)

 東大全共闘の政治的語彙の中に「天皇」という語は含まれていなかった。それはこの討論のあった1年後に同じキャンパスの空気を吸ったものとして知っている。だが、この日の三島と全共闘の討論はひたすら天皇をめぐって展開した。だから、討論を終えて最後の一言を求められて三島は満足げにこう言ったのである。

「今、天皇ということを口にしただけで共闘すると言った。これは言霊(ことだま)というものの働きだと思うのですね。それでなければ、天皇ということを口にすることも穢(けが)らわしかったような人が、この二時間半のシンポジウムの間に、あれだけ大勢の人間がたとえ悪口にしろ、天皇なんて口から言ったはずがない。言葉は言葉を呼んで、翼をもってこの部屋を飛び廻ったんです。この言葉がどっかにどんなふうに残るか知りませんが、私がその言葉を、言霊をとにかくここに残して私は去っていきます。」(同書、119頁)

 三島は過激派学生たちに「天皇」について合意形成することを求めたのではない。「一言言えば」よいと言ったのである。これは言葉に対する構えとして、非常に大切なことだと私は思う。「一言」言えば、「言葉は言葉を呼んで、翼をもって飛び廻る」からである。

 三島は東大の学生たちに向かって、「天皇」の定義を共有することを求めたわけではないし、それに基いて政治綱領を取りまとめたり、政治組織を立ち上げることを目指したわけではさらにない。「天皇」という言葉のもたらす運動性、開放性、豊穣性に点火することを三島は何よりも重く見たのである。その言葉がトリガーになって、人々の口から「これまで一度も口にしたことのない言葉」が次々と噴き出てくるのであれば、自分はその場を共にしたいと言ったのである。新しい思念、新しい感情が生成する場を共にしたいと言ったのである

 もし知識や思想そのものよりも、それを生気づける「力」を重く見る態度のことを三島が「反知性主義」と呼んでいるのだとしたら、私はそのような反知性主義に同意の一票を投じたいと思う。私自身「反知性主義者」を名乗ってもよい。

 名称はどうでもよい。

 知性とはかたちあるものではない。かたちをあらしめるもののことだ。形成された「もの」ではなく、形成する「力」である。

 もし現代日本が多くの人にとって「知性が沈黙している時代」であるかのように感じられるのだとしたら、それは知識や情報が足りないからではない。言葉そのものはうんざりするほど大量に行き交っている。しかし、それを生気づける「力」がない。立場を異にする人々、思いを異にする人々が、にもかかわらず「一緒にいる」ことのできる場を立ち上げることが「言葉の力」だという三島の洞察が理解されていない。

 

 この序文を書いている時、「表現の自由」ということが繰り返しメディアの論点に取り上げられた。さまざまな意見が述べられたけれど、「表現の自由とはさらなる表現の豊かさ、多様性、開放性を目指す遂行的な働きのことである」という知見を語った人は私の知る限りいなかった。

 けれども、「表現の自由」というのは、静止的、固定的な原則ではあるまい。表現の自由はつねにさらなる表現の自由を志向するものでなければならない。表現の可能性を押し広げ、多種多様な作品を生み出す生成力によって生気づけられているからこそ「表現の自由」は尊重されなければならないのである。それは死文化したルールではなく、今ここで生き生きと活動しているプロセスの名なのである。

 ヘイトスピーチをする人たちもまた「表現の自由」を口にする。

 彼らが自分の思いを語ること止める権利は私にはない。だが、彼らが「表現の自由」の名において語る権利は認めない。その看板だけは外して欲しい。「人間には邪悪になる権利、愚鈍になる権利がある」という看板を掲げてそうするのなら構わない。だが、他の人に向かって「ここから出て行け」とか「お前は黙れ」という言葉を「表現の自由」の名の下で口にすることは許されない。それは「さらなる表現の自由」を志向していないからである。一人でも多くの人に「一緒にいる」場を立ち上げることを目指していないからである。

 

 長く書き過ぎたので、もう終わりにする。

 この対談を読む方、特に若い方に気づいて欲しいのは、平川君と私がほぼシステマティックに相手の言明に「まず同意する」というところから自説を語り始めている点である(時々「う〜ん、そうかな・・・」という懐疑を口にすることもあるが、それはかなり例外的なケースである)。

 そうするのは「まず異議を唱える」よりも「まず同意する」ところから話を始めた方が、たいていの場合、話が面白くなるからである。

 まず同意する。自分ではそんなこと考えたことがなかった話でも、まず同意する。そうすると「同意してしまった以上、その根拠を示さないと」ということになる。そうして自分の記憶のアーカイブの中をスキャンすると、そこに「ひっかかるもの」がみつかる。それが果たして「同意したことの根拠」になるかどうかはわからないけれど、私が「同意した」せいで記憶の奥底から浮かび上がってきたものであることは間違いない。だから、とりあえずそれを平川君相手にぼそぼそと話し始める。

 すると、たしかに自分の中に淵源を持つのだが、「おお、俺はこんなことを考えていたのか・・・」と自分でもはじめて知る「自分の考え」が口を衝いて出てくるのである。

 私はそのようにして、平川君との対話を通じて「自分の中から湧き出してきたのだが、自分でもはじめて聴く言葉」と繰り返し出会ってきた。そうやって私のアイディアの「レパートリー」を豊かなものにしてくれたことについて、平川君に心から感謝したい。

 若い人たち、これから「対話の作法」を身につけることになる人たちには、とりあえずそれだけ言っておきたいと思う。

 まず同意する

 よろしいだろうか。私のこの忠告の当否について思量するときも、「まず同意する」ところから始めて欲しいと思う。そして、「そういえばこんな話を思い出した」と続けて頂きたい。

 That reminds me of a story

 知性はこの言葉とともに起動する。

 グレゴリー・ベイトソンが『精神と自然』にそう書いている。半世紀ほど前、この言葉を読んだ時の心の震えを今も覚えている。というのは、そのフレーズを読んだとたんに「そういえば・・・」という話が堰を切ったように私の中に湧き上がってきたからである。

 だから、できるだけ多くの読者が本書を読んで「こんな話」を思い出すことを祈念したいと思う。

 最後になったけれど、つねにかわらぬ忍耐を以て編集の労をとってくださった夜間飛行の井之上達矢君の忍耐と寛容に心から感謝したい。

 相方の平川君には「なんでもいいから長生きしてね」以外の言葉はない。

 

2019年9

 

内田樹

2019年

12月

26日

五島つばきマラソンへの道 その1 ☆ あさもりのりひこ No.784

2019年12月8日(日)、奈良マラソン2019を完走して、しばらくは両脚が幸せの筋肉痛であった。

 

12月9日(月)~12日(木)ゼロデイ、4日間休んだ。

 

12月13日(金)早朝、屋外で、安藤大さん直伝のトレーニング「アントレ」、室内で柔軟運動をして、身体を動かす。

 

12月14日(土)明け方、眠っているときに左の脹ら脛が攣る。

そのせいで、14日(土)と15日(日)はゼロデイ。

 

12月16日(月)早朝、アントレ、夜、トレッドミルで30分走る。

 

12月17日(火)明け方、眠っているときに右の脹ら脛が攣る。

そのせいで、17日(火)と18日(水)はゼロデイ。

 

12月19日(木)早朝、起伏のあるコースを階段上りも取り入れて32分走って、ウインドスプリントを5本。

奈良マラソン以来のロード走である。

 

12月20日(金)早朝、起伏のあるコースを階段上りも取り入れて47分走って、ウインドスプリントを5本。

12月21日(土)早朝、起伏のあるコースを階段上りも取り入れて1時間走って、ウインドスプリントを5本。

 

12月22日(日)午前、橿原運動公園でビルドアップ走。

1㎞7分、6分45秒、6分30秒、6分15秒、6分、5分45秒を目安に2キロずつ、合計12キロ走って、1時間15分であった。

1年間の走行距離が1700キロを超えた。

 

12月23日(月)早朝、起伏のあるコースを階段上りも取り入れて47分走って、ウインドスプリントを5本。

 

12月24日(火)早朝、アントレ、夜、トレッドミルでビルドアップ走を30分。

時速8.8キロ、9.2キロ、9.6キロ、10キロ、10.4キロ、10.8キロで5分ずつ走った。

 

12月25日(水)早朝、起伏のあるコースを階段上りも取り入れて51分走った。

 

12月26日(木)早朝、雨が降っていたので、室内で筋トレと柔軟体操をした。

 

 

第20回五島つばきマラソンまで、あと2か月である。

2019年

12月

25日

内田樹さんの「沈黙する知性(前編)」 ☆ あさもりのりひこ No.783

というのは、私たちがそれなりに真剣になって議論しているとき、そこで行き交っているキーワードの理解は論者全員において一致していないのがふつうだからである。というか、その文字列を目にしたときに、それについて他の誰も言っていないことをつい言いたくなるというのがキーワードの生成的な機能なのである。

 

 

2019年11月1日の内田樹さんの論考「沈黙する知性(前編)」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

夜間飛行からもうすぐ『沈黙する知性』という本が出る。平川克美くんとの「たぶん月刊話半分」の対談を文字起こしして、大量に加筆したものである。ラジオで聴いたよ、という人もまあ悪いことは言わないから買ってみてください。「悪いようにはしません」(@村上春樹)

 

 以前に「日本の反知性主義」という本を出したときに集中砲火的な批判を浴びたことがある。とりわけ私が「反知性主義」という語を一意的に定義していないという点を咎められた。キーワードを一意的に定義しないままで恣意的なラベル貼りをするようなふるまいこそ「反知性的」ではないか、と。

 申し訳ないけれど、私は「キーワードを一意的に定義してから話を始めよ」というタイプのクレームには原則的に取り合わないことにしている。

 というのは、私たちがそれなりに真剣になって議論しているとき、そこで行き交っているキーワードの理解は論者全員において一致していないのがふつうだからである。というか、その文字列を目にしたときに、それについて他の誰も言っていないことをつい言いたくなるというのがキーワードの生成的な機能なのである。

 だとすれば、「その語について、全員が同意する一意的定義をまず示せ」と要求するのは無理筋である。これから長い時間をかけて「全員とは言わぬまでも、そこそこの数の読者たちに同意を取り付けられそうな概念規定をこれからしようと思う」と言っている人間に「まず全員の一致を取り付けろ」というのは、それは「話を始める前に、話を終えておけ」というようなものである。

 そもそも重要な論件については、私たちはだいたい自分がこれから何を話すことになるのかわからないままに話し始め、話し終わった時に自分が何を考えていたのかを回顧的に知るのである。それを「けしからん」と言われても困る。創発的なアイディアというのは、そういうふうに生まれてくるものなのだから、仕方がない。

「反知性主義」という文字列に実に多くの人が過敏に反応して、それぞれの思いを語ってくれた。これはこのキーワードの「手柄」だったと思う。私自身もこの語に個人的な定義を与えようと試みたけれども、暫定的なものしか思いつかなかったし、私自身それに納得したわけではない。そして、本を編み終わった後に、「反知性主義」という概念は一意的な定義を与えて「けりをつける」よりも「答えの出ないオープン・クエスチョン」のままにしておく方が知的に生産的だろうと思った。

 今回この対談に編集者の井之上君が「沈黙する知性」というタイトルをつけてくれたので、「知性」とは何のことなのか、それについてもう一度「オープン・クエスチョン」を開いてみることにした。

 

 批判の言葉を私に向けて投じた人たちの多くが「お前は私たちのことを『反知性主義者』だと思っていて、ラベル貼りをしているだろう」という先取りされた被害者意識を漏出させていた。ということは、「反知性主義者」というラベルは端的に「不名誉なこと」と観念されていたということである。その点については異論の余地がないという前提から人々は話を始めていた(実は私もそうだった)。でも、ほんとうにそんな前提を採用してよろしいのか。それとは違う考え方もあるのではないか。

 そう思ったのは、三島由紀夫が自らを「反知性主義者」だと名乗っていた一文を読んだからである。

 1969年5月に東大で三島由紀夫と東大全共闘との討論の場が持たれた。今から半世紀前のことである。奇しくも最近、その時の映像資料が発掘された。来年は三島由紀夫死後半世紀に当たる。おそらくいろいろなかたちで三島由紀夫論が語られることになるのだろうが、私にもその討論の歴史的意義についてコメントを求められた。改めて討論の記録を読み返して、そこに「反知性主義」の言葉を見出して一驚を喫した。私はこんな大事なことを読み落としていたのである。

 三島は討論の冒頭でこう宣言していた。

「私は今までどうしても日本の知識人というものが、思想というものに力があって、知識というものに力があって、それだけで人間の上に君臨しているという形が嫌いで嫌いでたまらなかった。(...)これは自分に知識や思想がないせいかもしれないが、とにかく東大という学校全体に私はいつもそういうにおいを嗅ぎつけていたから、全学連の諸君がやったことも、全部は肯定しないけれども、ある日本の大正教養主義からきた知識人の自惚(うぬぼ)れというものの鼻を叩き割ったという功績は絶対に認めます。(...)私はそういう反知性主義というものが実際知性の極致からくるものであるか、あるいは一番低い知性からくるものであるか、この辺がまだよくわからない。(...)もし丸山眞男先生が自ら肌ぬぎになって反知性主義を唱えれば、これは世間を納得させるんでしょうけれども、丸山先生はいつまでたっても知性主義の立場にたっていらっしゃるので、殴られちゃった。そして反知性主義というものは一体人間の精神のどういうところから出てきて、どういう人間が反知性主義というものの本当の資格者であるのか、これが私には久しい間疑問でありました。」(三島由紀夫・東大全共闘、『美と共同体と東大闘争』、角川文庫、2000年、14-15頁)

 ここで三島は東大全共闘と自分のどちらが「反知性主義の有資格者」であるかを挑発的に問いかけていた。全共闘運動参加者たちのその後の体制内部的なキャリア形成と、三島の壮絶な死に方の両方を知っている後世の人から見ると、本当の意味で「知識人の自惚れ」の鼻を叩き割ったのはどちらであるか、答えは明らかだ。

 三島の晩年における喫緊の思想的課題は「日本の歴史と伝統に根ざし日本人の深層意識に根ざした革命理念を真に把握すること」にあった。(同書、142頁)

「要約すれば、私の考へる革新とは、徹底的な論理性を政治に対して厳しく要求すると共に、民族的心性(ゲミュート)の非論理性非合理性は文化の母胎であるから、(...)この非論理性非合理性の源泉を、天皇概念に集中することであった。かくて、国家におけるロゴスとエトスははっきり両分され、後者すなはち文化的概念としての天皇が、革新の原理になるのである」(同書、142頁)

 三島が標榜した反知性主義者とは、徹底的な論理性・合理性とおなじく徹底的な非論理性・非合理性を同時に包摂することのできる、豊かな生命力の横溢した、血と肉を具えた人間存在のありようを指していた。この「反知性主義者」の相貌は私は魅力的に思えた。

気づいた人もいると思うが、このアイディアは部分的にはニーチェの「貴族」概念に由来する。

 

 

2019年

12月

24日

今年1年を振り返って@事務局より

皆さんこんにちは。今日は事務局担当日です。

 

今年も残すところあと8日です。

 

12月に入っても日中は暖かい日が多かったので

 

いまだ年末の実感が沸きませんが

 

仕事納めまでに終わらせたい仕事や,

 

家の大掃除など色々やること溜まっていて

 

何かと気忙しいです。

 

 

 

さて,皆さんは,今年一年はどんな年になりましたか。

 

元号が「平成」から「令和」に変わり,消費税も10%に上がり,

 

色々な変化があった一年ですが,

 

私は,正月早々,家族で風邪をひいて以降なかなか体調が戻らず,

 

6月にはヘルニアになり痛みで眠れない日々が続き,

 

最後はインフルエンザ予防接種で体調をまたまた崩し・・・。

 

とにかく健康面では下降線まっしぐらでした。。。

 

 

一年通してこんなに病院にお世話になったのは,

 

うまれ~ては~じめ~て~~(アナ雪風に)(~o~) 

 

 

 

このほか思い出してみても,家電製品は色々故障し,

 

10月にはスマホが突然壊れ,新しいスマホが来るまで数日落ち着かず,

 

さらに復旧できないデータがあって精神的ダメージも大きいものに・・・。

 

なんだか,私にとっては今年はどう考えても運気最悪,

 

まさにこれぞ「厄年」といっても過言ではありません(T_T)

 

 

 

悪い運気はここで振り落とし,来年は良い1年になればいいのですが(-_-;)

 

やっぱり来年は初詣に行って来よう・・・。

 

皆様にとっても,どうぞよい年となりますように!

 

2019年

12月

23日

内田樹さんの「China Scare(後編)」 ☆ あさもりのりひこ No.782

ミサイルや空母や戦闘機のような兵器の装備がいくら充実していても、それを統御するコンピュータシステムが攪乱されたら、戦争はできない。だから、ほんとうは戦闘機や空母を作る金があったら、サイバー・セキュリティの精度を高める方が優先するのである。

 

 

2019年10月28日の内田樹さんの論考「China Scare(後編)」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 私が言いたいのは、アメリカ人は意外に「怖がり」だということである。

 アメリカ人は久しくソ連を恐れていた。冷戦が終わった後はイスラムを恐れていた。そして、いまは中国を恐れている。

 もちろん中国を恐れるには十分な理由がある。

 最大の理由はAI軍拡競争において中国に後れを取っているのではないかという懸念が政府内部に広がっているからである。

 中国では、党中央がある国防戦略を採択したら、命令一下全国民資源をその一点に集中できる。軍も企業も大学も党中央には逆らえない。だが、アメリカではそうはゆかない。政府が「国家的急務」とみなすプロジェクトがあったとしても、そこに民間の人材や資源を集中するためにはしかるべき手続きが要る。民主国家だから当然である。仮にグーグルやアマゾンに個人情報にかかわる企業秘密を政府に差し出せと言っても、おいそれとは聞いてもらえない。グローバル企業である兵器産業が自社利益を優先して(F35のような)不良在庫を軍に売りつけようとするのも止められない。

 そして、本当のことを言うと、もうミサイルも空母も戦闘機も軍略的にはそれほどの緊急性がないのである。

 AIが戦争概念を一変させた

 AIは人間よりも大量の情報を瞬時に判定できるので、リアルタイムで複雑な戦況で最適解を出す仕事には人間より適している。AIシステムは戦場でも人間より迅速かつ正確かつ組織的に移動することができる。一方、システム攪乱のためのディープフェイク技術も進化している。アメリカの兵器システムにサイバーセキュリティ上の抜け穴が存在し、「比較的単純なツールと技術」で、これを利用できることを2018年にアメリカ政府監査院が指摘した。

 ミサイルや空母や戦闘機のような兵器の装備がいくら充実していても、それを統御するコンピュータシステムが攪乱されたら、戦争はできない。だから、ほんとうは戦闘機や空母を作る金があったら、サイバー・セキュリティの精度を高める方が優先するのである。ところが、アメリカではそれが遅れている。

 この点では中国に明らかにアドバンテージがある。中国は独裁国家だから、AI技術の軍事転用に抵抗する勢力は国内にはいない。顔認証システムやカメラによる国民監視システムでは中国はすでに世界一である(パッケージしてシンガポールやアフリカの独裁国家に輸出しているほどである)。

 遠からずアメリカはAI技術における相対優位を失うだろうとアメリカの軍事の専門家たちは警告している。

 むろん、フーヴァーがそうであったように、「中国恐怖」は、この恐怖心を利用しておのれの利権や予算分配を拡大しようとするアクターたちの間の主導権争いをいくぶんかは反映している。だから、この恐怖心は戦術的に誇張されていると考えた方がいい。

 だが、この恐怖心は日米同盟のチャンネルを通じて日本にはそのまま浸透してきた。

 この「中国恐怖」にまず日本の政官財のトップが感染した。なにしろこれは米軍上層部から「ここだけの話」と耳打ちされた極秘情報である。「ここだけの話」というタグをつけた話はあっという間に広まる。「中国はアメリカにAI 軍拡競争で優位に立っているらしい」という話は官邸に近い、首相と飯を食うジャーナリストたちを通じてメディアの現場に伝わり、それによってたちまち対中国の論調が一変した。

 それが「嫌中言説」の抑制の背景にあると私は見ている。

 トランプ大統領が仕掛けた米中貿易摩擦もアメリカの科学技術の移転への恐怖に駆動されている。アメリカにとって中国はすでに「嫌いな相手」ではなくて、「怖い相手」になっているのである。その恐怖心が日本のメディアに感染して、気がついたら「嫌中言説」がかき消えていた。別に日中関係が好転したわけではない。

 ここまではどなたでも納得して頂けると思う。だが、私が恐れているのはそのことではない。それよりは、中国モデルを模倣しようとしている国が世界中に生まれつつあるということの方である。中央統制を組み合わせた「チャイナ・モデル」の劇的成功を羨む人たちは民主国家よりも強権国家の方が巨視的アプローチを効果的に採択できると信じ始めている。

 人間は直近の成功事例を模倣する

 日本でも、IT長者やネットの「インフルエンサー」たちが幼児的な言動をするのを批判すると、「そういうことはあれだけ稼いでから言えよ」と冷笑される。「成功者を批判するやつは嫉妬しているだけだ」という考え方がいつの間にか定着した。同じことが国際関係でも起きている。中国の統治を批判しても、「じゃあ、おまえは14億人を効果的に統治できるのかよ」と言われたら黙るしかない。「成功した人間を批判するのは嫉妬ゆえだ」というロジックは日本人にはもう深く内面化している。それが中国批判についての心理的抑制として働いている。

 ところが、まことに困ったことに、ここにチャイナ・モデルの劇的成功に冷水を浴びせる事例が存在する

 それが韓国である。

 韓国では、市民たちが自力で軍事独裁を倒し、民主化を達成し、あわせて経済的成功を収め、文化的発信力を高めた。

 つまり、日本の前には、強権政治による成功モデルと、民主政治による成功モデルの二つがあることになる。

 嫌韓嫌中言説はこの二つの成功モデルに対して、競争劣位を味わっている日本人の「嫉妬」から生まれたものだと私は見ている。そして、「嫌中言説」が抑止され、「嫌韓言説」だけが選択的に亢進しているのは、この二つのモデルからの二者択一を迫られた時に、日本の政官財メディアの相当部分が「どちらかを選べというなら、韓国モデルより中国モデルの方がいい。民主政体より強権政体の方が望ましい」という選択を下したということを意味している。だから、嫌中言説の抑制と嫌韓言説の亢進が同時的に起きたのである。

 安倍政権は、無意識的にではあるけれども、中国の強権政治に憧れに近い感情を持っている。彼が目指している「改憲」なるものは要するに単なる「非民主化」のことである。それと市場経済を組み合わせたら、中国やシンガポールのような劇的な成功が起きるのではないかと官邸周りの人々は本気で信じているのである。本気で。

 そして、指導層の抱いている「日本も中国化することが望ましい」というアイディアに日本国民の多くはすでに無意識のうちに同意し始めている。「現に中国はそれで成功した」と知っているからである。そして、「成功者を批判することは誰にも許されない」という奴隷根性を深く内面化しているからである。

 

 だから、「民主化と市場経済の組み合わせ」という韓国の事例をひとまず「それなりの成功事例」として認め、それがどのような歴史的文脈のうちで、どのようなファクターの働きによってもたらされたのかを分析する作業にあれほどヒステリックに抵抗するのである。

2019年

12月

20日

内田樹さんの「China Scare(前編)」 ☆ あさもりのりひこ No.781

日韓関係が「史上最悪」である一方で、かつて排外主義的なメディアの二枚看板だった「嫌中」記事が姿を消しつつあることにみなさんは気づかれだろうか。

 

 

2019年10月28日の内田樹さんの論考「China Scare(前編)」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

日韓関係が「史上最悪」である一方で、かつて排外主義的なメディアの二枚看板だった「嫌中」記事が姿を消しつつあることにみなさんは気づかれだろうか。

 なぜ嫌韓は亢進し、嫌中は抑制されたのか。私はそれについて説得力のある説明を聞いた覚えがない。誰も言ってくれないので、自分で考えた意見を述べる。たぶん読んで怒りだす人がたくさんいると思うが許して欲しい。

 

 Foreign Affairs Report はアメリカの政策決定者たちの「本音」がかなり正直に語られているので、毎月興味深く読んでいるが、ここ一年ほどはアメリカの外交専門家の中に「中国恐怖(China Scare)」が強く浸透していることが実感される。

 かつて「赤恐怖(Red Scare)」といわれる現象があった。1950年代のマッカーシズムのことはよく知られているけれど、1910年代の「赤恐怖」についてはそれほど知られていない。

 1917年にロシア革命が起きると、アメリカでもアナーキストたちによる武装闘争が始まった。1919年の同時多発爆弾テロでは、パーマー司法長官の自宅まで爆破された。政府はこれによって「武装蜂起は近い」という心証を形成した。

 いま聞くと「バカバカしい」と思えるだろうけれど、その二年前、まさかそんなところで共産主義革命が起きるはずがないと思われていたロシアでロマノフ王朝があっという間に瓦解したのである。未来は霧の中である。アメリカでだって何が起きるかわからない。

 なにしろ、1870年代の「金ぴか時代」から後、アメリカ政治はその腐敗の極にあり、資本家たちの収奪ぶりもまた非人道的なものであったからだ。レーニンは1918年8月に「アメリカの労働者たちへの手紙」の中で、「立ち上がれ、武器をとれ」と獅子吼し、1919年3月には、世界37ヵ国の労働者組織の代表者たちがモスクワに結集して、コミンテルンの指導下に世界革命に邁進することを誓言していたのである。

 十月革命時点でのロシア国内のボルシェヴィキの実数は十万人。1919年にアメリカ国内には確信的な過激派が六万人いた。そう聞けば、アメリカのブルジョワたちが「革命近し」という恐怖心に捉えられたことに不思議はない。

 19年に制定された法律では、マルクス主義者も、アナーキストも、組合活動家も、司法省が「反アメリカ的」と判定すれば、市民権をまだ取得していないものは国外追放、市民権を取得しているものはただちに収監されることになった。この仕事を遂行するために司法省内に「赤狩り(Red Hunt)」に特化したセクションが設立された。パーマーがその任を委ねたのが、若きJ・エドガー・フーヴァーである。

 そのフーヴァーは革命組織が1920年5月1日に全米で一斉蜂起するという不確実な情報をパーマーに上げた。フーヴァーは、取り調べをした活動家たちが彼らの機関紙に書き散らしていた過激な言葉(「抗議ストから始まり、それを政治スト、さらには革命的大衆行動に拡大して、最終的に国家権力を奪取する」)にいうほどの政治的実力などないことを知りながら、パーマーに武装蜂起が切迫しているという恐怖を吹き込み、それによって自分のセクションへの予算配分と政府部内でのキャリア形成をはかったのである。

 

 フーヴァーのささやきを信じたパーマーは5月1日に、ニューヨーク、ワシントンDC、フィラデルフィア、シカゴなど全米大都市の全公共施設と要人たちの私邸に警察官を総動員して厳戒態勢を命じた。だが、何も起こらなかった。全国の新聞はパーマーの「五月革命」を嘲笑し、ウッドロー・ウィルソンの次のホワイトハウス入りを有力視されていたパーマーはこの壮大な空振りで政治生命を失ったのだが、それはまた別の話。

2019年

12月

19日

明日香ビオマルシェについて15 ☆ あさもりのりひこ No.780

ほぼ毎週、1年間で50回くらい、明日香ビオマルシェで買い物をする。

 

農薬も化学肥料も使わない有機野菜を明日香ビオマルシェと「旬の里まみが丘店」で手に入れている。

 

明日香ビオマルシェでは、1週間分の野菜その他の食糧を購入する。

明日香ビオマルシェで野菜などを買うのは、趣味・趣向ではない。

わが家にとっては、生き延びるために必要な買い物なのだ。

 

2019年6月、明日香ビオマルシェは6周年を迎えた。

はじめて明日香ビオマルシェを訪れたのは2016年9月だった。

通い始めて3年が過ぎた。

 

明日香ビオマルシェで、その存在や調理方法を知って、食べたり飲んだりするようになった食材がたくさんある。

アーティーチョーク、ビーツ、フェンネル、ハイビスカス・ローゼス、柿の葉茶、カリン、マコモ竹、紅彩台、あかね蕪、あやめ雪カブ、落花生(ひと株まるごと)などなど。

 

各ブースの生産者さんと対話できるのが、明日香ビオマルシェの大きな魅力である。

野菜のこと、栽培のこと、被害のことだけでなく、食材の料理方法まで教えてもらう。

対面販売の良さである。

 

また、明日香ビオマルシェには「季節」がある。

旬の野菜が並ぶ。

そして、旬が過ぎれば、なくなる。

明日香ビオマルシェの野菜を買っていると、今、どんな野菜が収穫されるのかがわかる。

キャベツも大根も人参も白菜も1年中いつでも売っている、というのは不自然である。

 

「風の森ファーム」「わっかのパン 和(にこ)」「えびす企画」など、明日香ビオマルシェで知り合って、貴重な食材をいただいた。

それぞれの事情で、明日香ビオマルシェを「卒業」して行かれた。

 

「羽間農園」「土の香工房」「もりや工房」などなど、この3年間に、明日香ビオマルシェに参加して、新たな食材を提供してくれる生産者さんも増えた。

 

毎週木曜日になると、翌日金曜日の天気が気になる。

雨が降ると、明日香ビオマルシェを訪れるお客さんの人数が減るのだ。

 

明日香ビオマルシェがこれからも永く続いて欲しいと切に願う。

明日香ビオマルシェに感謝!!

 

ありがとうm(_ _)m

2019年

12月

18日

内田樹さんの「海民と天皇」(その6) ☆ あさもりのりひこ No.779

『四つの署名』の水上追跡場面がシャーロック・ホームズの数ある活劇シーンの中で屈指のものであるのは、テムズ川を波しぶきを上げて疾走する一隻の汽艇とその黄色い探照灯が届く範囲だけがかろうじて文明と理性の及ぶ圏域であり、その外側には暗闇と悪臭と汚泥と犯罪の「無縁の地」が広がっているという構図の鮮やかさのせいである。

 

 

2019年10月24日の内田樹さんの論考「海民と天皇」(その6)をご紹介する。

どおぞ。

 

  

■ おわりに:テムズ川についての二つのエピソード

 

『四つの署名』でシャーロック・ホームズは犯人を追ってロンドン市内を走り、最後にテムズ河岸に至る。犯人はそこから船で逃亡したのだ。だが、一艘の汽艇をテムズ流域から探し出すのは不可能に近い。船の外見もわからず、両岸のどこの桟橋に停泊したかもわからず、「橋から下は何マイルというもの、そこらじゅう桟橋だらけで、まるで手がつけられやしない」とホームズを嘆かせる。(サー・アーサー・コナン・ドイル、『四つの署名』、延原謙訳、新潮文庫、1953年)

 それに河岸で水上交通に携わる人々は部外者が入り込むことを嫌った。河岸の出来事について何か知りたがっていると気取られると「あの手合いは牡蠣のように口をつぐんでしまう」のだ。ロンドン警察も、ホームズ子飼いのベイカー街の少年探偵たちも河岸に入り込んで情報をとることができない。結局はホームズが老海員の変装で河岸を探偵して、インサイダーのふりをすることでようやく汽艇についての情報をつかむ。

 それからスコットランドヤードと盗賊たちの汽艇の競走が始まる。ロンドン塔の下から海に向かって追跡は始まり、アイル・オブ・ドッグズの鼻先を回り、ウーリッジのあたりで追いつくけれど、盗賊たちは右岸へ接岸して逃れようとする。「そのあたりの河岸は一面に荒涼たる沼地で、人気はなく、よどんだ汚水と腐れかかった汚物のうえに、こうこうたる月が照りわたっていた。」

 グーグルマップで見ると、今もそのあたりには汚れた遊水地と埋め立て地に広がる野原以外には目立った建物もない(刑務所があるくらいだ)。ホームズの時代にはどれほど荒涼とした場所だったのだろう。ロンドンを出た犯人たちが向かうのはテムズ下流のグレイブズエンドあたりだろうとホームズは推理していたが、Gravesend とはまさに「墓場の果て」の意である。

19世紀のテムズ川は生活排水、生ごみ、糞尿、工業用排水、動物の死骸まであらゆる汚物が流れ込んだ「世界一汚い川」であった。その下流の湿地帯のどこかに逃げ込んでしまえば、もう警察の捜査の及ぶところではなかったのである。

『四つの署名』の水上追跡場面がシャーロック・ホームズの数ある活劇シーンの中で屈指のものであるのは、テムズ川を波しぶきを上げて疾走する一隻の汽艇とその黄色い探照灯が届く範囲だけがかろうじて文明と理性の及ぶ圏域であり、その外側には暗闇と悪臭と汚泥と犯罪の「無縁の地」が広がっているという構図の鮮やかさのせいである。

 

 今の皇太子である徳仁親王はオックスフォードに留学したときにテムズ川の水上交通を研究テーマに選んだ。なぜそのような特殊な研究主題を選んだのかについて親王はエッセイの中でこう書かれている。

「そもそも私は、幼少の頃から交通の媒介となる『道』についてたいへん興味があった。」(徳仁親王、『テムズとともに』、学習院教養新書、1993年、149頁)

 高校時代まで皇太子の関心は近世の街道と宿駅に向けられていたが、大学史学科に籍を置いてからは、「律令制のもとで整えられた古代の駅制と幕藩体制下で整備された近世の宿駅制との間にあって、まだ十分に研究の及んでいない中世の交通制度に関心が移ってきた」のである(同書、150頁)。

 律令期の七道と近世の五街道の間の中世の交通制度について「まだ十分に研究が及んでいない」ことを奇貨として中世の道と宿駅の歴史的意義を問い直したのは網野善彦である。そして、徳仁親王が「道」の研究のために学習院史学科に進んだ1978年は、まさに網野の『無縁・公界・楽』が刊行された年であった。徳仁親王の研究関心が網野の本と無関係であったと考えることはむずかしい。

 徳仁親王が就いたオックスフォードの指導教官マサイアス教授は、最初にこれまでの研究成果として、日本の交通史を概観するレポートの提出を言い渡した。親王が古代から江戸時代までの交通制度について書き上げた概論を一読した教授から「自分の意見をもう少し書くようにと言われ、なぜ日本では馬車が発達しなかったのかを少し考えるように指摘をされ」た親王は「早くもこれから先が大変だなと思わざるをえなかった」(同書、153頁)と慨嘆した。

 なぜ日本では馬車が発達しなかったのか、これはある意味で研究動機の核心を衝いた問いであった。答えはもちろん「水上交通が発達していたから」である。ではなぜ日本列島では水上交通が発達していたのか。それは海民と天皇の間に深い結びつきがあったからである。けれども、親王は当事者としては「自分の意見」を自制せざるを得ない。天皇と海民のかかわりには触れずに、日本の水上交通の特異性をイギリスの歴史学者に説明する作業を思いやって、親王はおそらく慨嘆したのである。

 徳仁親王の研究内容について触れる紙数はないので、親王がテムズの語源について書かれた印象的な一節を引いてこのとりとめのない論考を終わらせたいと思う。

 

 

「なお、テムズ(Thames)の語源について、マリ・プリチャード、ハンフリー・カーペンター共著'A Thames Companion'では、『暗い』を意味するTemeをあげている。ケルト人は河川に対する信仰をもとに、沼沢地も多く近づきにくい未開発のこの河川を『暗い』、『神秘的』であると受け止め、この印象がその後の諸民族にも引き継がれて、『テムズ川』と呼ばれたのであろうと推定している。まことに興味深い説である。」(同書、156-157頁)

2019年

12月

17日

師走を乗り切り、新年を迎えましょう!

 

本日、12月17日は事務局が担当です。

今年も残り2週間となりました。

ら法律事務所の年末年始の業務は、年末は28日正午まで、年始は6日午前9時からです。

年末年始のお休みは8日間となります。

そして、業務は、最終日までは、今日をいれて11日間になります。

そう考えると、例年どおり気忙しくなり、声を出して、走ってしまう日々になりそうです。

先日、我が家のマンションでは、恒例の餅つき大会を行いました。

杵をつく動きとお餅を返す動きに合わせ、「ヨイショ」、「ハイ!」と取り囲む周りの大人も子供も掛け声をかけ合い、みんな気持ちを一つにしてこね、できあがったお餅を皆でほおばり、大人は新酒を呑み、年末に向けて慌ただしい中で、楽しくホッとできる時間を得て、気分転換ができました。

気忙しいこの時期だからこそ、気分転換をして物事を見直し、冷静に考えるのに、この様な時間が必要だと思いました。

また、やる気が失せない様に、テンションを下げないためには楽しい時間も必要だと思いました。

皆さんも少しこの様な時間を見つけ、目標を立てて、年末にやるべきことをやり、スッキリと片付け、悩み事には目途をつけて新年を迎える準備をしてはいかがでしょか。

新しい良い年を迎えるために、頑張って走り抜きましょう!

2019年

12月

16日

内田樹さんの「海民と天皇」(その5) ☆ あさもりのりひこ No.778

古代道路の荒廃から、私たちは国威発揚や権力誇示といった観念的な目的のために人間という「ものさし」を無視して行われた巨大事業の末路を知ることができる。

 

 

2019年10月24日の内田樹さんの論考「海民と天皇」(その5)をご紹介する。

どおぞ。

 

  

■ 無縁の場・無縁の人

 

 日本列島住民の海民性ということについて、ここまで書いてきた。海民と天皇の結びつきについては、まだ言葉が足りない。ここで「無縁」という補助線を引くことによって海民と天皇の間の繋がりを際立たせてみたいと思う。

 古代中世以来、列島の各地に、「無縁の場」が存在した。無縁とは文字通り「縁が切れる」ことである。ここに駆け込めば、世俗の有縁(夫婦関係、主従関係、貸借関係、さまざま賦課など)を断ち切って、人は自由になることができた。それは飢える自由、行倒れになる自由と背中合わせではあったが、それでも自由であることに変わりはない。無縁の場とされたのは寺社、山林、市庭、道路、宿、とりわけ河原であった。

 

「『宿河原』とよく言われるように、『宿』はしばしば河原の近辺に所在している。これは、交通とも無関係ではなく、さきにふれた淀の河原のように、そこに市の立つ場合もあったのであるが、なにより、河原が死体・髑髏の集積地であり、葬地だったからにほかならない。(...)河原は、まさしく賽の河原であり、『墓所』、葬送の地として、無縁非人と不可分の『無縁』の地であった。それ故にここは、古くは濫僧、屠者、中世に入ってからは斃牛の処置をする『河原人』『餌取』『穢多童子』、さらには『ぼろぼろ』など、『無縁』の人々の活動する舞台となったのである。」(網野善彦、『無縁・公界・楽』、平凡社、1978年、30-31頁)同書、154-155頁)

 

 無縁の人である聖上人たち宗教者の活躍が際立ったのもそこである。「橋を架け、道路をひらき、船津をつくり、泊を修造」するという仕事は行基・空也以来、「必ずといってよいほど、聖の勧進によって行われた。」(同書、166頁)「『無縁』の勧進上人が修造する築造物は、やはり『無縁』の場でなくてはならなかった」からである(同書、168頁)。

 

「無縁」者には次のよう職種の人たちが含まれる。

 

「海民・山民、鍛冶・番匠・鋳物師等の各種手工業者、楽人・舞人から獅子舞・猿楽・遊女・白拍子にいたる狭義の芸能民、陰陽師・医師・歌人・能書・算道などの知識人、武士・随身などの武人、博奕打・囲碁打などの勝負師、巫女・勧進聖・説経師などの宗教人」(同書、187頁)。

 

彼らはそれぞれの職能を生業として広範囲を移動したわけだが、移動の自由のためには関渡津泊・山野河海・市・宿の自由通行の保証を得ていなければならないわけだが、彼らにその保証を与えていたのは天皇であった。

 

「こうした『無縁』の場に対する支配権は、平安・鎌倉期には、天皇の手中に掌握される形をとっていた。多くの『職人』が供御人となっていった理由はそこにある。」(同書、188頁)

 

海民たちには、古代から天皇・朝廷に海水産物を贄(にえ)として貢ぐ慣習があった。彼らは「無主」の地である山野河海を生業の場とする。中世にそれらの土地は天皇が直轄する「御厨」なった。その住民たちは天皇の直轄民となり、「供御人」と呼ばれるようになった。海民と天皇はここで「無縁」という空間を媒介として結びつくのである。

 

 歴代天皇のうちで無縁の者たちとの繋がりが最も際立っていたのは後醍醐天皇である。後醍醐天皇は「無縁の者」たちをそのクーデタのために動員した。その結果、建武期の内裏には、天皇の直接支配を受けるかたちで、覆面をし、笠をかぶった聖俗いずれともつかぬ「異形の輩」「悪党」たちが闊歩していた。

 だが、無縁の人とのかかわりが深かったにもかかわらず、後醍醐帝と海民の結びつきについては、熊野海賊が軍事的支援をしたという以外には特筆すべき事績が見当たらない。これは後醍醐が日本歴史上例外的な「中央集権的な天皇」であったことと無関係ではないだろう。

 すでに見たように、中央政府のハードパワーが強く、海民たちがその完全な支配下にあった時期、例えば律令期や得宗独裁期や建武の天皇親政期、そして明治以後は、海民は政府に中枢的に統御されていた。活動が「官許」されていたわけであるから、海民たちはそれなりの存在感を示していた。だが、それは社会そのものの性格が海民的であることとは違う。日本社会の海民性が際立つのは、中央政府の支配力が衰え、中枢的な統制が弱まった時である。

 

■ 道と海民

 

 政治的支配の強さと海民の活動がゼロサムの関係にあるという仮説の一つの傍証として五畿七道という古代の交通制度を見ておきたい。

 律令時代に五畿七道という行政制度が整備された。七道(山陽道・山陰道・西海道・東海道・東山道・北陸道・南海道)の「道」というのは現在の北海道と同じく行政単位の名だが、古代では、それが道路に沿って展開していた。全長6300キロに及ぶこの道路は幅が6メートルから30メートルあり、「都と地方を結ぶ全国的な道路網であり、その路線計画にあたっては、直進性が強く志向されている」と近江俊秀は書いている。(『古代道路の謎』、祥伝社新書、2013年、25頁)

 今、数字を書き連ねてみたが、6300キロというのは現在の高速道路網の総延長(北海道を除く)に匹敵する。私たちの家の前の一般道路は一車線せいぜい3メートルである。30メートル幅の道路というのがどれほどの規模のものかはそこから知れるだろう。

 江戸時代に幕府が造営した五街道(東海道・中山道・甲州道中・日光道中・奥州道中)は幅3・6メートルで、地形にあわせて屈曲する道路であった。今の生活道路と変わらない。

 しかし、古代に造営された七道は現在の高速道路と同じく、地形とも地域住民の生活ともかかわりなく、ただ都から地方の要衝までをまっすぐ定規で線を引いて作られたのである。そこが湿地であろうと掘削しないと通せないところであろうと地盤が弱く保全が困難な地形であろうと、駅路は直線的に造られた。 

 都から地方への軍略物資の輸送、地方から都への貢納品の輸送というのが、交通網としての実用目的だったと推察されるが、それでも理解しがたい点は残る。何よりもまず道路が直線であれば人は早く移動できるというものではないからだ。生身の人間にとって歩きたい道というのは直線とは限らない。川沿いや木陰や谷合や峠の、歩いて気分がよく、休憩したり、飲食したり、一夜を明かすのに適した場所を縫って生活道路は形成される。土地と人間の「対話」をベースにして作れば道路は必ず屈曲する。だが、古代道路はそうではない。ということは、古代道路は机上の計画だけに基づいて設計されたということであり、あえて言えば人間的な、生理的な基準を無視して設計されたということである。

 古代道路を最も頻繁に用いたのは納税のために都に上る庶民だったが、彼らはいつ故郷を発ち、都まで一日何キロ歩くかまでが法で定められていた。納税を終えて故郷に帰る人々が帰路、餓死する事例が多発したと『続日本紀』には記載がある。(同書、97頁)七道はそれほどに非人間的な道路だったということである。それゆえ、近江は「古代駅路には『国家権力を人々に見せつけるための象徴』という意味があったことがわかるのである」(同書、27-28頁)としている。

 ここには言及されていないが、もう一つ腑に落ちないのは、七道には水上交通が含まれていないことである。大量の物資を短時間に運ぶという点でいえば、すでに十分な発達を遂げていた河川湖沼の水上交通を無視するというのは政策として不合理である。でも、七道が国権の誇示のための装置であったとするならばそれも理解できる。律令国家の支配者たちは水上交通を司っていた海民たちに向かって「お前たち抜きでも国家のロジスティックスは成り立つ」ということを告知し、かつ軍事物資や貢納品を決して海民の手に委ねないことによって、国家は海民たちを決して信用しないという強い意志を伝えたと考えれば、それも理解できる。

 

 古代道路のもう一つの特徴は、これほど巨大なプロジェクトの成果であるにもかかわらず、短期間で廃用されたことである。国が総力をあげて造営した交通網が100年ほど後には草生し、崩れ、人気のない無住の地になった。古代道路の遺構は今でもしばしば田畑や山林から発掘されるが、それはそれ以後それを道路として使った人間がいなかったということを意味している。

 そして、「それまでの計画的な大道が荒廃しはじめる過程」が始まると同時に、大量の物資を輸送するルートとしての海、川の交通路の役割が再び表に現われ」るのである。(網野、前掲書、135頁)

 

 古代道路の荒廃から、私たちは国威発揚や権力誇示といった観念的な目的のために人間という「ものさし」を無視して行われた巨大事業の末路を知ることができる。そして、そのようなタイプの政治と海民文化がゼロサムの関係にあることも知れるのである。