〒634-0804

奈良県橿原市内膳町1-1-19

セレーノビル2階

なら法律事務所

 

近鉄大和八木駅から

徒歩

 

☎ 0744-20-2335

 

🈺

【平日】9:00~19:00

土曜9:00~12:00

 

2018年

11月

20日

ますます利便性が良くなる近鉄八木駅前南側

 

本日、11月20日は事務局が担当です。

先々月、ミグランス(橿原市役所の分庁舎)の東側にバス停の屋根(工事ではシェルターと表示されています)が完成したことをお伝えしましたが、先日完成したシェルターの北側(近鉄八木駅よりの歩道でまた工事が始まりました。

近鉄八木駅からミグランスまでのシェルター工事①
近鉄八木駅からミグランスまでのシェルター工事①

 

何の工事かと工事看板を見てみるとシェルター設置とのこと。

それで、諸々聞き及んだのでは、近鉄八木駅からの利便性を良くするために、近鉄八木駅からミグランスまで100メートル以上に及ぶシェルター(屋根付きの歩道)を設置するそうです。

完成すると、近鉄八木駅からミグランスまで徒歩で行き来する際に強い陽射しを避けられ、雨の日には殆ど傘をささずにすむようです。

また、現在近鉄八木駅前南側に設置されている歩道上のシェルターは、風雨が強いときには濡れることが多いので、改良されることも検討されるとのことです。

今回の工区は、来年春までに完成するようです。

近鉄八木駅からミグランスまでのシェルター工事②
近鉄八木駅からミグランスまでのシェルター工事②

 

全てのシェルターが早く設置されるのが、待ち遠しいですね。

 残念ながら、なら法律事務所に近鉄八木駅からお越しいただくには、シェルターが及びませんが、傘をお持ちで無ければ、お電話いただければ、傘をお持ちしますので、その際は遠慮無くご連絡下さい。

2018年

11月

19日

大阪万博という幻想 ☆ あさもりのりひこ No.600

今回の万博に国民的関心が高まらない最大の理由は、にべもない言い方をすれば、大阪で万博を開く必然性がないからである。

 

 

2018年11月18日の内田樹さんの論考「大阪万博という幻想」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

2025年の国際博覧会の開催都市がもうすぐ決まる。

大阪の他に、アゼルバイジャンのバクー、ロシアのエカテリンブルクが立候補しており、聞くところでは、三都市の競争は「横一線」だそうである。

大阪府知事、大阪市長は世界に向けてのPR活動に熱心だが、国内では招致機運が盛り上がらない。

間近に迫った2020年の東京五輪に対してさえ市民の間に熱い待望の気持は感じられないのだから、そのさらに5年後では気合が入らないのも当然だろう。五輪にしても万博にしても、半世紀前の1964年の東京五輪、1970年の大阪万博の時の国民的な高揚感とそれにドライブされた劇的な社会改造を記憶している世代から見ると、今の日本の冷え方はまるで別の国のようである。

今回の万博に国民的関心が高まらない最大の理由は、にべもない言い方をすれば、大阪で万博を開く必然性がないからである。

公式サイトにはこんなことが書いてある。

「万博とは世界中からたくさんの人が集まるイベントで、1970年に日本で最初に開催された大阪万博(EXPO'70)は日本の高度経済成長をシンボライズする一大イベントとなりました。『万博』では新しい技術や商品が生まれ生活が便利になる『きっかけ』となります。エレベーター(1853年、ニューヨーク万博)/電話(1876年、フィラデルフィア万博)、ファミリーレストラン、ワイヤレステレフォン、電気自動車、動く歩道(1970年大阪万博)ICチップ入り入場券、AED、ドライミスト(2005年愛知万博)

2025年大阪・関西万博が実現したら...最先端技術など世界の英知が結集し新たなアイデアを創造発信 国内外から投資拡大 交流活性化によるイノベーション創出 地域経済の活性化や中小企業の活性化 豊かな日本文化の発信のチャンス。」

コピーだから仕方がないが、日本語として文の体をなしていない。単語を羅列しただけだ。万博のメインテーマは「いのち輝く未来社会のデザイン」、サブテーマは「多様で心身ともに健康な生き方持続可能な社会・経済システム」だそうであるが、これも単語の羅列であることに変わりはない。

公式サイトのこの文章を読んで「わくわくした」という人はたぶん推進派の中にもいないだろう。

「万博とは世界中からたくさんの人が集まるイベントで」という書き出しの一文だけで私は脱力して、先を読む意欲を殺がれた。中学生の作文じゃないんだから、他に書きようはないのか。大阪で昔万博がありました、これまでいろいろな新技術が紹介されてきました。今回のテーマは「いのち輝く未来社会のデザイン」です。そう聞かされても、こちらとしては「ああ、そうですか」以外に感想がない。

「ああ、そうですか」しか出てこないのは、これらの言葉の中の一つにも、この文章を書いた人間の生き生きした身体実感の裏付けがないからである。書いている人間がわくわくしていないのに、読む方がわくわくするわけがない。申し訳ないが、ここに書かれていることは「空語」である。「こんな感じのキーワードを適当に散らばしておけば、それらしい文言になるだろう」という書き手自身の病的なやる気のなさが行間からにじみ出てくるような文章である。

そもそも、過去の万博でのエポックメーキングな事例を列挙する中に、ロンドン万博の水晶宮も、パリ万博のエッフェル塔も、〈アール・ヌーヴォー〉も、リュミエール兄弟のシネマトグラフも、シカゴ万博の大観覧車も言及されないとはどういうわけだろう。「万博」と言ったら、まず「それ」だろう。たぶん、そういう華やかな先例と比べられると大阪万博の企画の貧しささが際立つから、「それ」には触れるなという指示があったのだろう(コピーライターが忖度して自粛したのかも知れないが)。どちらにしても哀しいほど安っぽいコピーである。挙げるに事欠いて、日本開催の万博で出したファミレスやドライミストを万博史上に残る新技術だと言い募るところに、計画主体の自信のなさが漏出している。

大阪万博の招致の最大にしてほぼ唯一の目的は地域への経済波及効果である。国の試算で1兆9000億円、大阪府の試算は2兆3000億円。万博に合わせたイベント開催や観光客の増大などの間接的な誘発効果は大阪府の試算で4兆1000億円。まとめて6兆4000億円の経済効果がもたらされると言われている。

しかし、こんな「取らぬ狸の皮算用」にぬか喜びしてよろしいのであろうか。思い出して欲しい。万博計画が最初に持ち上がったのは2014年のことである。言い出したのは、大阪府・市特別顧問であった堺屋太一氏である。これを受けて橋下徹大阪市長(当時)が万博の大阪招致に前向きな意向を示した。松井一郎・大阪府知事も「東京五輪も2度目。大阪万博も2度目といきたい」とこれを支持した。

堺屋・橋下・松井という面々は大型プロジェクトで経済波及効果がざくざくという話がお好きである。しかし、同じような話を何度もされて大阪の府市民は「またかよ」とは思わないのだろうか。「道頓堀プール」のことをお忘れなのだろうか。

2015年の道頓堀完成400周年に合わせて、長さ2キロのプールを整備し、「世界遠泳大会」を開催すると大阪市特別顧問の堺屋氏が言い出したのは2012年のことである。これは彼の発案になる「大阪10大名物」の一つであった。「10大名物」、他に大阪城公園と天満を結ぶ大歩道橋、御堂筋のデザインストリート化、面積1万平方メートルの「ヘクタール・ヴィジョン」、驚愕展望台、空中カフェ、空中緑地など盛りだくさんだったけれど、いくつご記憶だろうか。

その「10大名物」中の目玉だった道頓堀プールは最初から技術的な難問に悩まされ、当てにしていた地元企業からの経済的な支援もなく、当初の2キロが800メートルに、最後には80メートルにまで縮減されたが、結局2015年に計画放棄された。道頓堀プールの経済効果について、堺屋氏は2013年には「2020年までには東京オリンピックより大きな経済効果が確実に出る」と自信たっぷりに語っていたのであった。

五輪以上の経済波及効果をもたらすはずの事業が80メートルプールを作るだけの事業資金が集められずに破綻したことについては当事者たちにはいろいろと言い訳はあると思う。おそらくさまざまな想定外のファクターのせいで、計画そのものには瑕疵がなかったのだが、うまくゆかなかったのだろう。いや、そうだろうと思う。よくあることだ、私は自分にそれを責める資格があるとは思わない。けれども、このプロジェクトにかかわった人たちが「技術的な難点や管理上の難点や資金調達上の難点などをほぼ組織的に勘定に入れ忘れる人々」だったという事実だけは私は記憶にとどめておくし、みなさんもそうされた方がよいと思う。経験的に言って、そのような人々が真摯な反省や自己批判を行うことなく「次の大型プロジェクト」を提案してきた場合には、「眉に唾をつけて話を聞く」のが世の常識である。

口には出さないけれど、大阪の人たちの多くもそう考えているのだと思う。万博招致計画発表のすぐ後、2015年7月に大阪府が実施した府内企業に対するアンケートによると、「将来、大阪で国際博覧会が開催された場合、参加したいですか」との質問に対する回答は、「わからない」が46%で最も多く、「どちらかといえば関心がない」が9% 、「参加しない」は25%だった。一方、「参加したい」は12%、「どちらかといえば参加したい」は6%にとどまった。それから3年経って、NHKがこの3月に行ったアンケートでは、誘致に「賛成」が45.7%、反対が10.6%、「どちらともいえない」が39.1%だった。

アンケートの対象が一方は企業、一方は住民だから、そのまま単純に比較することはできないが、いずれにせよこの数値から「市民たちは万博招致で盛り上がっている」という解釈が成り立たないことは確かである。

NHKのアンケートによると、誘致に賛成した人の賛成理由の49.5%は「地域経済の活性化につながるから」、32.5%が「地域が盛り上がるから」である。つまり、誘致賛成者の82%はあくまで「盛り上がり」に期待しているわけであって、自分で主体的に万博を「盛り上げたい」と言っているわけではない。「自分のところに余沢が及ぶかも知れないから万博招致に賛成」なのである。3年前にも、「年間100万人の来場者があって、五輪以上の経済効果がある」というので「道頓堀プール」の計画に賛成した人はたくさんいた。でも、そのために自分の財布から事業資金を提供した人はきわめて少なかった。「トリクルダウン」を期待する人は事業のために身銭を切ってくれる人ではない。「余沢に浴したいので事業に賛成」という人がどれほどいても、それだけでは事業はスタートアップしないし、事業の成功も保証されない。

現に、2016年に松井知事と吉村洋文大阪市長が、関西経済3団体のトップとの意見交換会を実施した時にも、万博構想について、大阪商工会議所の尾崎会頭のコメントは「反対はしていない」「本当に大阪や関西の経済活性化につながるなら、経済界としては協力していきたい」というずいぶん冷ややかなものにとどまった。はっきり言えば、元が取れるなら出資してもいいが、投資効果が見込めないならできればコミットしたくないということである。当然の発言だと思う。大阪万博誘致の目標は最初から「経済効果」なのだから、ビジネスマンがわれわれは経済効果にしか興味がない、国際社会に向けて特に発信したいメッセージもないし、「いのち輝く未来社会のデザイン」についても特にご提案したいこともないと言ってきても、文句を言える筋合いではない。

国際博覧会は会場面積や会期にばらつきはあるが、ほぼ隔年で開催されている。21世紀に入ってからの開催都市は、ハールレマミーア(オランダ)、ロストック(ドイツ)、チェンマイ(タイ)、サラゴサ(スペイン)、上海、麗水(韓国)、フェンロー(オランダ)、ミラノ、アスタナ(カザフスタン)である。そのうちメディアが詳細に報道したのは、参加国が万博史上最多、敷地面積最大だった上海万博(2010年)くらいで、あとは記憶にないという方が多いだろうと思う(私もほとんど知らない)。去年の万博の開催地を訊かれて「カザフスタン」と正解できる日本人はきわめて少ないはずである。だが、カザフスタンのアスタナは「一帯一路」プロジェクトの要路にあり、今世界中の投資家が注目している都市である。今回の誘致合戦で大阪と競合しているバクーは「第二のドバイ」として世界最高のタワーや人工島の建設で賑わっている。参考までに言えば、再来年の万博開催地は中東の金融センター、ドバイである。

そのような勢いのある都市が万博に手を挙げてくる。それはそれらの都市の人々が自分たちの街から今「何か新しいもの」が生まれつつあるという手応えを感じているからである。だから、それを世界に向けてアピールしたいのである。「私たちの街を見に来てくれ。きっと肝をつぶすぞ」と思って、気分が前のめりになっているのである。たしかに1970年の大阪にはそのような勢いがあった。21世紀の上海やアスタナやドバイに匹敵するような野生的な生命力が当時の大阪には漲っていた。それはリアルタイムでその時代を生きた人間にはよくわかる。そういう街でかつて万博が開かれたことを私はなつかしく回想する。けれども、同じことが同じ場所でもう一度起こるだろうという予測には与することができない。

 

 

 

2018年

11月

15日

明日香ビオマルシェについて6 ☆ あさもりのりひこ No.599

明日香ビオマルシェの「スパイス精進 モハマヤバート」について書く。

 

「モハマヤバート」では、カレー、スパイス料理、フォー、チャイ、豆ナゲット、サモサetc.が買える。

その場で喰うもよし、持って帰るもよし。

堀内健さんが作っている。

堀内健さんは、いつもターバンを被っている。

 

初めのころに、「モハマヤ」ってなに?と堀内健さんに聞いた。

インドの女神の名前、だそうな。

「バート」はご飯だから、「モハマヤバート」は『女神のご飯』という意味になる。

 

毎回、カレーとスパイス料理を4種類用意して、ガラスの器に入れてカウンターの上に置いてある。

材料の野菜は「明日香ビオマルシェ」の面々の作物が多い。

スパイスの味が独特で、よく効いている。

スパイスが大胆にぶち込んである。

おいしい。

朝守は、買って帰って、夕飯に、白ご飯で食べる。

 

サモサも大好きである。

が、堀内健さんは「作るのが手間」と言って作ってくれないので、最近サモサはお目にかかれない。

その代わり、というのでもないんだろうが、豆でつくったナゲットが登場することが多くなった。

これも美味しい。

 

それと、アチャール(漬け物)。

メニューにはないが、料理の端っこに添えてくれる。

これが、辛い。

けど、おいしい。

 

4種類の料理を全部食べられる「フルプレート」が魅惑のメニューである。

 

しかし、いつも朝食を食べてから、オープン直後に訪れるので、食べる機会になかなか恵まれない。

2018年

11月

13日

火星ダイバクハツ

みなさん、こんにちわ。

本日は事務担当日です。

気がつけば、11月も半ば。

先日まで8月だった気がするのは私だけしょうか(..;)

 

ゆうべ、とっても奇妙な夢をみました。

あまりにも奇妙だったので鮮明に覚えています。

時間帯は夜。

火星がどんどん自宅にむかってきます。

月ではありません。火星。

なぜ火星とわかったのかはわかりませんが、とにかく火星。

 

私の自宅には高いところにとても大きな窓があって、空がはっきり見えます。

その窓に火星がぐいぐい押しつけられます。

なんというか・・・満員電車でおしくらまんじゅうするように。

 

火星が。単独で。ぐいぐい。

 

それを私と子どもがリビングで見つめています。

「えー?なんで火星?え?窓が割れるんちゃうの?」(; ゚ ロ゚)

とびっくりしている割に、ぼぉっと逃げもせずぐいぐいされる様を見上げています。

 

そして、ついに窓が割れます。

 

ばりーーーーん!!

 

私は子どもに覆い被さり、飛散する窓ガラスから守りました。

火星は、爆発しました。

でも・・・なんていうのでしょうか・・・

遠くの空で爆発するような花火くらいの衝撃で。

惑星が爆発したのに、自宅は窓が割れただけでした。

 

そのあたりで目が覚めました。

今朝、出勤のために自転車にのり、駐輪場でお金を払うとき、

財布を忘れたことに気がつきました。

夢が衝撃的すぎたんでしょうね(絶対違う)。

 

 

どなたか、夢占いして下さい(・∀・)

2018年

11月

08日

走ることについて語るときにワテが語ること ☆ あさもりのりひこ No.598

10月13日(土)、やっと風邪が通り過ぎた。

と思いきや、眠っていたら、午前4時ころ左のふくらはぎが攣った。

土曜日は、普通に歩くだけで、左ふくらはぎが痛んだ。

 

10月14日(日)、朝起きると左ふくらはぎの痛みはほぼ治まっていた。

 午前中、キトラ古墳から稲渕に抜ける14.7キロを1時間48分26秒で走る。

 病み上がりの攣り上がりなので、無理しないで走った。

 

 10月16日(火)夜、ランニングマシーンで30分間、5.1キロ走る。

 時速10キロで5分、10.5キロで5分、11キロで10分、10.5キロで5分、10キロで5分走った。

 

 10月18日(木)早朝、起伏のある周回コースを7キロ走る。

 54分03秒。

 

 10月21日(日)午前中、奈良マラソンのコース29キロを試走する。

 鴻池陸上競技場を午前8時すぎにスタートする。

 快晴。

 絶好のコンデションである。

 ランナーが多い。

 10キロ地点を1時間08分で通過する。

 白川ダムを越えて、下りきったところで折り返す。

 1時間55分。

 順調である。

 もう一度白川ダムを越えて、高樋町まで下って、かきうち菜果園に抜ける。

 脚が疲れてきて、スピードが落ちる。

 我慢して、粘って、4時間02分03秒で完走。

 歩かないで完走できたのは収穫である。

 ただし、ゴールして、余力が残っていなかったのは課題である。

 

 10月23日(火)夜、ランニングマシーンで30分、5キロ走る。

 時速10キロで10分、時速11キロで10分、時速10キロで10分。

 日曜日の疲れは残っていなかった。

 

 10月27日(土)午前中、奈良マラソンのコース35キロを試走する。

 午前8時すぎに鴻池陸上競技場を出発。

 雨はあがって走りやすい天候になった。

 10キロを1時間10分、白川を下りきったところで2時間、天理大橋北詰で折り返したのが2時間23分。

 ここまではまずまずの走りだった。

 天理市内に入ってしばらくして、調子よく走りすぎてオーバーペースになりそうだったので、少し速度を落としてスタミナを温存する。

 しかし、これで調子が悪くなったのか、折り返し後に脚が重くなる。

 白川ダムまで戻ったところで、脚が痺れて歩き出す。

 白川の頂点に達する坂を歩いて登ったあと、ゆるゆると走り出す。

 ゆるゆる走っているうちに、少しずつ走れるようになってくる。

 最後の5キロは復活してしっかりした足取りでゴールした。

 5時間18分29秒。

 やっぱり、歩くとダメだな。

 

 10月30日(火)夜、ランニングマシーンで30分間で5キロ走る。

 時速10キロで10分、時速10.5キロで5分、時速11キロで5分、時速10.5キロで5分、時速10キロで5分。

 汗だく、である。

 

10月の走行距離は112.7キロ、走行時間は14時間55分43秒であった。

 

11月3日(土)午前中、奈良マラソンのコース35キロを試走する。

 午前9時すぎに鴻池陸上競技場を出発。

 曇りがちで走りやすい。

 10キロを1時間9分、白川を下りきったところで2時間、天理大橋北詰で折り返したのが2時間24分。

 ここまでは先週とほとんど同じ。

 先週は、白川ダムで歩いたが、今回は白川の最後の上り坂もなんとか走り続け、高樋町の交差点も過ぎた。

 しかし、かきうち菜果園で走れなくなった。

 歩いて、復活を待ったが、復活せず。

 南古市町のヤマザキデイリーストアからバスに乗った。

 28キロ、4時間20分。

 

 25キロから30キロのところで走れなくなる。

 今までは、練習すれば25キロも30キロも元気よく走り抜けられると思っていた。

 どうも、それは、まちがいのようだ。

 25キロから30キロで、脚が痺れて苦しくなる状態は、必ず来る。

 めげないことだ。

 では、どうするか。

 脚が痺れて走れそうにないが、それでもゆっくり走り続ける。

 それでも走れないときは、少し歩いて、回復を待って、再び走り始める。

 とにかく、諦めないことが大切だ。

 一旦、脚が痺れて走れなくなっても、必ず回復する!

 

11月6日(火)夜、ランニングマシーンで30分間、4.9キロ走る。

 時速10キロで3分、時速11キロで7分、時速8キロで5分、時速11キロで5分、時速8キロで5分、時速11キロで3分、時速10キロで2分走る。

 

 ジェダイマスターと奈良マラソンの戦略について話した。

 試走は、11月18日に全コース42キロを走る。

 試走はこれで終わり。

 12月9日は、ゆっくり走って、歩かないで、6時間以内にゴールする。

 やはり「遅確走」だな。

 遅いけど確かな走り。

 

奈良マラソン2018まであと31日。

 

1か月後の12月8日は前日受付である。

2018年

11月

07日

外国語学習について(第3回) ☆ あさもりのりひこ No.597

逆に、植民地的言語教育では、原住民の子どもたちにはテクストを読む力はできるだけ付けさせないようにする。うっかり読む力が身に着くと、植民地の賢い子どもたちは、宗主国の植民地官僚が読まないような古典を読み、彼らが理解できないような知識や教養を身に付ける「リスク」があるからです。植民地の子どもが無教養な宗主国の大人に向かってすらすらとシェークスピアを引用したりして、宗主国民の知的優越性を脅かすということは何があっても避けなければならない。だから、読む力はつねに話す力よりも劣位に置かれる。「難しい英語の本なんか読めても仕方がない。それより日常会話だ」というようなことを平然と言い放つ人がいますけれど、これは骨の髄まで「植民地人根性」がしみこんだ人間の言い草です。

 

 

2018年10月31日の内田樹さんの論考「外国語学習について」(第3回)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

でも、この文科省の作文には、外国語を学ぶのは「日本人なら誰でもすでに知っていること」の檻から逃れ出るためだという発想がみじんもない。自分たちの狭隘な、ローカルな価値観の「外側」について学ぶことは「国際的な相互依存関係」のうちで適切なふるまいをするために必須であるという見識さえ見られない。僕は外国語学習の動機づけとして、かつてこれほど貧しく、知性を欠いた文章を読んだことがありません。

たしかに、子どもたちを追い込んで、不安にさせて、処罰への恐怖を動機にして何か子どもたちが「やりたくないこと」を無理強いすることは可能でしょう。軍隊における新兵の訓練というのはそういうものでしたから。処罰されることへの恐怖をばねにすれば、自分の心身の限界を超えて、爆発的な力を発動させることは可能です。スパルタ的な部活の指導者は今でもそういうやり方を好んでいます。でも、それは「やりたくないこと」を無理強いさせるために開発された政治技術です。

ということは、この文科省の作文は子どもたちは英語を学習したがっていないという前提を採用しているということです。その上で、「いやなこと」を強制するために、「経済競争」だの「メガコンペティション」だの「適切な評価」だのという言葉で脅しをかけている。

ここには学校教育とは、一人一人の子どもたちがもっている個性的で豊かな資質が開花するのを支援するプロセスであるという発想が決定的に欠落しています。子どもたちの知性的・感性的な成熟を支援するのが学校教育でしょう。自然に個性や才能が開花してゆくことを支援する作業に、どうして恐怖や不安や脅迫が必要なんです。勉強しないと「ひどい目に遭うぞ」というようなことを教師は決して口にしてはならないと僕は思います。学ぶことは子どもたちにとって「喜び」でなければならない。学校というのは、自分の知的な限界を踏み出してゆくことは「気分のいいこと」だということを発見するための場でなければならない。

この文章を読んでわかるのは、今の日本の英語教育において、目標言語は英語だけれど、目標文化は日本だということです。今よりもっと日本的になり、日本的価値観にがんじがらめになるために英語を勉強しなさい、と。ここにはそう書いてある。目標文化が日本文化であるような学習を「外国語学習」と呼ぶことに僕は同意するわけにはゆきません。

僕自身はこれまでさまざまな外国語を学んできました。最初に漢文と英語を学び、それからフランス語、ヘブライ語、韓国語といろいろな外国語に手を出しました。新しい外国語を学ぶ前の高揚感が好きだからです。日本語にはない音韻を発音すること、日本語にはない単語を知ること、日本語とは違う統辞法や論理があることを知ること、それが外国語を学ぶ「甲斐」だと僕は思っています。習った外国語を使って、「メガコンペティションに果敢に挑戦」する気なんか、さらさらありません。

外国語を学ぶ目的は、われわれとは違うしかたで世界を分節し、われわれとは違う景色を見ている人たちに想像的に共感することです。われわれとはコスモロジーが違う、価値観、美意識が違う、死生観が違う、何もかも違うような人たちがいて、その人たちから見た世界の風景がそこにある。外国語を学ぶというのは、その世界に接近してゆくことです。 

フランス語でしか表現できない哲学的概念とか、ヘブライ語でしか表現できない宗教的概念とか、英語でしか表現できない感情とか、そういうものがあるんです。それを学ぶことを通じて、それと日本語との隔絶やずれをどうやって調整しようか努力することを通じて、人間は「母語の檻」から抜け出すことができる。

外国語を学ぶことの最大の目標はそれでしょう。母語的な現実、母語的な物の見方から離脱すること。母語的分節とは違う仕方で世界を見ること、母語とは違う言語で自分自身を語ること。それを経験することが外国語を学ぶことの「甲斐」だと思うのです。

でも、今の日本の英語教育は「母語の檻」からの離脱など眼中にない。それが「目標言語は英語だが、目標文化は日本だ」ということの意味です。外国語なんか別に学ぶ必要はないのだが、英語ができないとビジネスができないから、バカにされるから、だから英語をやるんだ、と。言っている本人はそれなりにリアリズムを語っているつもりでいるんでしょう。でも、現実にその結果として、日本の子どもたちの英語力は劇的に低下してきている。そりゃそうです。「ユニクロのシンガポール支店長」が「上がり」であるような英語教育を受けていたら、そもそもそんな仕事に何の興味もない子どもたちは英語をやる理由がない。

(中略)

今は英語教育にとりわけ中等教育では教育資源が偏ってきています。他の教科はいいから、とにかく英語をやれという圧力が強まっています。別にそれは英語の教員たちが望んだことではないのだけれど、教育資源が英語に偏っている。特に、オーラル・コミュニケーション能力の開発に偏っている。何でこんなに急激にオーラルに偏ってきたかというと、やはりこれは日本がアメリカの属国だということを抜きには説明がつかない。

「グローバル・コミュニケーション」と言っても、オーラルだけが重視されて、読む力、特に複雑なテクストを読む能力はないがしろにされている。これは植民地の言語教育の基本です。

植民地では、子どもたちに読む力、書く力などは要求されません。オーラルだけできればいい。読み書きはいい。文法も要らない。古典を読む必要もない。要するに、植民地宗主国民の命令を聴いて、それを理解できればそれで十分である、と。それ以上の言語運用能力は不要である。理由は簡単です。オーラル・コミュニケーションの場においては、ネイティヴ・スピーカーがつねに圧倒的なアドバンテージを有するからです。100%ネイティヴが勝つ。「勝つ」というのは変な言い方ですけれども、オーラル・コミュニケーションの場では、ネイティヴにはノン・ネイティヴの話を遮断し、その発言をリジェクトする権利が与えられています。ノン・ネイティヴがどれほど真剣に、情理を尽くして話していても、ネイティヴはその話の腰を折って「その単語はそんなふうには発音しない」「われわれはそういう言い方をしない」と言って、話し相手の知的劣位性を思い知らせることができる。

逆に、植民地的言語教育では、原住民の子どもたちにはテクストを読む力はできるだけ付けさせないようにする。うっかり読む力が身に着くと、植民地の賢い子どもたちは、宗主国の植民地官僚が読まないような古典を読み、彼らが理解できないような知識や教養を身に付ける「リスク」があるからです。植民地の子どもが無教養な宗主国の大人に向かってすらすらとシェークスピアを引用したりして、宗主国民の知的優越性を脅かすということは何があっても避けなければならない。だから、読む力はつねに話す力よりも劣位に置かれる。「難しい英語の本なんか読めても仕方がない。それより日常会話だ」というようなことを平然と言い放つ人がいますけれど、これは骨の髄まで「植民地人根性」がしみこんだ人間の言い草です。

「本を読む」というのはその国の文化的な本質を理解する上では最も効率的で確実な方法です。でも、植民地支配者たちは自分たちの文化的な本質を植民地原住民に理解されたくなんかない。だから、原住民には、法律文書や契約書を読む以上の読解力は求めない。

今の日本の英語教育がオーラルに偏って、英語の古典、哲学や文学や歴史の書物を読む力を全く求めなくなった理由の一つは「アメリカという宗主国」の知的アドバンテージを恒久化するためです。だから、アメリカ人は日本人が英語がぺらぺら話せるようになることは強く求めていますけれど、日本の子どもたちがアメリカの歴史を学んだり、アメリカの政治構造を理解したり、アメリカの文学に精通したりすること、それによってアメリカ人が何を考えているのか、何を欲望し、何を恐れているのかを知ることはまったく望んでいません。

(以下略)

 

「原住民には法律文書や契約書を読む以上の読解力は求めない」ということを英語教育について書いたら、国語教育でも同じことをしようとしているということを知らされた。

 

まことに情けない国に成り下がったものである。

2018年

11月

06日

奈良の特産品探し@事務局より

皆さんこんにちは。今日は事務局担当日です。

 

さて,前回,私が購入したマスクのブログを掲載したところ,

後日ブログを見ていただいた方とお話しする機会がありまして。

 

いつも何を書くか困っているのですが,

ちゃんと見て下さっている方がいるんだなぁと実感でき,

とても嬉しかったです(*^_^*)

 

そして,今日も話題に困った私は近くのかしはらなびプラザへ(笑)

 

大和八木駅から徒歩2分のかしはらナビプラザ1Fにある

お土産売場では,基本は奈良県内の特産品を売っているのですが,

たまに他県の特産品なども置いています。

 

ブログのネタが困った時だけでなく(笑),たまに足を運んでは

特産品を購入しています。

 

こちらで売っている,思わず顔を歪めてしまうほど酸っぱい

昔ながらの梅干は既に何度かリピート買いしています。

 

というのも,私は小さい頃祖母が作っていた酸っぱい梅干しが好きで,

最近スーパーでよく売られている蜂蜜入りの甘い梅干しはどうにも

違和感があり食べられません。

 

塩分の取り過ぎには気をつけなければいけませんが,

これから寒い時期には,梅湯(梅干しを湯飲みに入れてお湯をかけるだけ)

体も暖まりますしお勧めですよ。

 

 

 

さて,今回新たに購入したのは,最近お店でよく見かける

希釈タイプのコーヒーです(これはカフェオレ用かな?)。

 

薄めるだけで美味しく手軽に飲めるので便利ですよね。

 

これは,近くの今井町にある「珈琲の富田屋」さんが販売している

フェアトレードの商品です。

 

今井町「珈琲の富田屋」さんのカフェオレベースです

昼食後は,襲いかかる睡魔と対決していますので,

こちらのカフェオレで撃退なるか?!(笑)

 

皆さんも八木にくる用事がありましたら,

たまにはなびプラザも覗いてみて下さいね。

 

2018年

11月

05日

外国語学習について(第2回) ☆ あさもりのりひこ No.596

外国語を学ぶことの本義は、一言で言えば、「日本人なら誰でもすでに知っていること」の外部について学ぶことです。母語的な価値観の「外部」が存在するということを知ることです。自分たちの母語では記述できない、母語にはその語彙さえ存在しない思念や感情や論理が存在すると知ることです。

 

 

2018年10月31日の内田樹さんの論考「外国語学習について」(第2回)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

しかし、まことに不思議なことに、今の英語教育には目標文化が存在しません。英語という目標言語だけはあるけれども、その言語を経由して、いったいどこに向かおうとしているのか。向かう先はアメリカでもイギリスでもない。カナダでもオーストラリアでもない。どこでもないのです。

何年か前に、推薦入試の入試本部で学長と並んで出願書類をチェックしていたことがありました。学長は英文科の方だったのですけれど、出願書類の束を読み終えた後に嘆息をついて、「内田さん、今日の受験者150人の中に『英文科志望理由』に『英米文学を学びたいから』と書いた人が何人いると思う?」と訊いてきました。「何人でした?」と僕が問い返すと「2人だけ」というお答えでした「後は、『英語を生かした職業に就きたいから』」だそうでした。

僕の知る限りでも、英語を学んで、カタールの航空会社に入った、香港のスーパーマーケットに就職した、シンガポールの銀行に入ったという話はよく聞きます。別にカタール文化や香港文化やシンガポール文化をぜひ知りたい、その本質に触れたいと思ってそういう仕事を選んだわけではないでしょう。彼らにとって、英語はたしかに目標言語なのですけれど、めざす目標文化はどこかの特定の文化圏のものではなく、グローバルな「社会的な格付け」なのです。高い年収と地位が得られるなら、どの外国でも暮らすし、どの外国でも働く、だから英語を勉強するという人の場合、これまでの外国語教育における目標文化に当たるものが存在しない。

これについては平田オリザさんが辛辣なことを言っています。彼に言わせると、日本の今の英語教育の目標は「ユニクロのシンガポール支店長を育てる教育」だそうです。「ユニクロのシンガポール支店長」はもちろん有用な仕事であり、しかるべき能力を要するし、それにふさわしい待遇を要求できるポストですけれど、それは一人いれば足りる。何百万単位で「シンガポール支店長」を「人形焼き」を叩き出すように作り出す必要はない。でも、現在の日本の英語教育がめざしているのはそういう定型です。

 

僕は大学の現場を離れて7年になりますので、今の大学生の学力を知るには情報が足りないのですけれども、それでも、文科省が「英語ができる日本人」ということを言い出してから、大学に入学してくる学生たちの英語力がどんどん低下してきたことは知っています。それも当然だと思います。英語を勉強することの目標が、同学齢集団内部での格付けのためなんですから。低く査定されて資源分配において不利になることに対する恐怖をインセンティヴにして英語学習に子どもたちを向けようとしている。そんなことが成功するはずがない。恐怖や不安を動機にして、知性が活性化するなんてことはありえないからです。

僕は中学校に入って初めて英語に触れました。それまではまったく英語を習ったことがなかった。1960年頃の小学生だと、学習塾に通っているのがクラスに二三人、あとは算盤塾くらいで、小学生から英語の勉強している子どもなんか全然いません。ですから、FENでロックンロールは聴いていましたけれど、DJのしゃべりも、曲の歌詞も、ぜんぶ「サウンド」に過ぎず、意味としては分節されていなかった。それが中学生になるといよいよ分かるようになる。入学式の前に教科書が配られます。英語の教科書を手にした時は、これからいよいよ英語を習うのだと思って本当にわくわくしました。これまで自分にとってまったく理解不能だった言語がこれから理解可能になってゆくんですから。自分が生まれてから一度も発したことのない音韻を発声し、日本語に存在しない単語を学んで、それが使えるようになる。その期待に胸が膨らんだ。

今はどうでしょう。中学校一年生が四月に、最初の英語の授業を受ける時に、胸がわくわくどきどきして、期待で胸をはじけそうになる・・・というようなことはまずないんじゃないでしょうか。ほかの教科とも同じでしょうけれど、英語を通じて獲得するものが「文化」ではないことは中学生にもわかるからです。

わかっているのは、英語の出来不出来で、自分たちは格付けされて、英語ができないと受験にも、就職にも不利である、就職しても出世できないということだけです。そういう世俗的で功利的な理由で英語学習を動機づけようとしている。でも、そんなもので子どもたちの学習意欲が高まるはずがない。

格付けを上げるために英語を勉強しろというのは、たしかにリアルではあります。リアルだけれども、全然わくわくしない。外国語の習得というのは、本来はおのれの母語的な枠組みを抜け出して、未知のもの、新しいものを習得ゆくプロセスのはずです。だからこそ、知性の高いパフォーマンスを要求する。自分の知的な枠組みを超え出てゆくわけですから、本当なら「清水の舞台から飛び降りる」ような覚悟が要る。そのためには、外国語を学ぶことへ期待とか向上心とか、明るくて、風通しのよい、胸がわくわくするような感じが絶対に必要なんですよ。恐怖や不安で、人間はおのれの知的な限界を超えて踏み出すことなんかできません。

でも、文科省の『「英語ができる日本人」の育成のための行動計画の策定について』にはこう書いてある。

「今日においては、経済、社会の様々な面でグローバル化が急速に進展し、人の流れ、物の流れのみならず、情報、資本などの国境を超えた移動が活発となり、国際的な相互依存関係が深まっています。それとともに、国際的な経済競争は激化し、メガコンペティションと呼ばれる状態が到来する中、これに対する果敢な挑戦が求められています。」

冒頭がこれです。まず「経済」の話から始まる。「経済競争」「メガコンペティション」というラットレース的な状況が設定されて、そこでの「果敢な挑戦」が求められている。英語教育についての基本政策が「金の話」と「競争の話」から始まる。始まるどころか全篇それしか書かれていない。

「このような状況の中、英語は、母語の異なる人々をつなぐ国際的共通語として最も中心的な役割を果たしており、子どもたちが21世紀を生き抜くためには、国際的共通語としての英語のコミュニケーション能力を身に付けることが不可欠です」と書いた後にこう続きます。

「現状では、日本人の多くが、英語力が十分でないために、外国人との交流において制限を受けたり、適切な評価が得られないといった事態も起きています。」

「金」と「競争」の話の次は「格付け」の話です。ここには異文化に対する好奇心も、自分たちの価値観とは異なる価値観を具えた文化に対する敬意も、何もありません。人間たちは金を求めて競争しており、その競争では英語ができることが死活的に重要で、英語学力が不足していると「制限を受けたり」「適切な評価が得られない」という脅しがなされているだけです。そんなのは日本人なら誰でもすでに知っていることです。でも、「英語ができる日本人」に求められているのは「日本人なら誰でもすでに知っていること」なのです。

 

外国語を学ぶことの本義は、一言で言えば、「日本人なら誰でもすでに知っていること」の外部について学ぶことです。母語的な価値観の「外部」が存在するということを知ることです。自分たちの母語では記述できない、母語にはその語彙さえ存在しない思念や感情や論理が存在すると知ることです。

2018年

11月

02日

外国語学習について(第1回) ☆ あさもりのりひこ No.595

それは宗主国アメリカに仕え、アメリカに朝貢することで「代官」「買弁」としての地位を保全している日本の支配層たちが、同国人の知性の発達を阻害し、日本人を愚民化することで、属国日本をアメリカが支配しやすいようにするために作り出した仕掛けである。

 

 

2018年10月31日の内田樹さんの論考「外国語学習について」(第1回)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

2018612日に「文系教科研究会」というところで、私立の中学高校の英語の先生たちをお相手に英語教育についてお話した。その一部をここに掲載する。

ここで論じたのは英語だけれど、言語教育一般について適用できる議論だと思う。

ここ数日、「論理国語」と「文学国語」というカテゴライズをするという話がTLを飛び交っているけれど、それがほんとうだとしたら、それはたぶん言語というものについて一度も真剣に思量したことのない人間の脳裏に去来したアイディアだろうと思う。それはまさに「植民地における現地人への宗主国言語教育」とまったく同型的なものだからだ。

国語教育においても「植民地現地人」に求められる言語能力は同じである。

それは宗主国アメリカに仕え、アメリカに朝貢することで「代官」「買弁」としての地位を保全している日本の支配層たちが、同国人の知性の発達を阻害し、日本人を愚民化することで、属国日本をアメリカが支配しやすいようにするために作り出した仕掛けである。

以下がそのときの講演。途中からなので、話が見えにくいのはご容赦。

 

外国語学習について語るときに、「目標言語」と「目標文化」という言葉があります。

「目標言語」というのは、今の場合なら、例えば英語です。なぜ英語を学ぶのか。それは「目標文化」にアクセスするためです。英語の場合であれば、ふつうは英語圏の文化が「目標文化」と呼ばれます。

僕らの世代において英語の目標文化ははっきりしていました。それは端的にアメリカ文化でした。アメリカ文化にアクセスすること、それが英語学習の最も強い動機でした。僕たちの世代は、子どものときからアメリカ文化の洪水の中で育っているわけですから、当然です。FENでロックンロールを聴き、ハリウッド映画を観て、アメリカのテレビドラマを観て育ったわけですから、僕らの世代においては「英語を学ぶ」というのは端的にアメリカのことをもっと知りたいということに尽くされました。

僕も中学や高校で「英語好き」の人にたくさん会いましたけれど、多くはロックの歌詞や映画の台詞を聴き取りたい、アメリカの小説を原語で読みたい、そういう動機で英語を勉強していました。

僕もそうでした。英語の成績は中学生からずっとよかったのですが、僕の場合、一番役に立ったのはビートルズの歌詞の暗記でした。ビートルズのヒット曲の歌詞に含まれる単語とイディオムを片っ端から覚えたのですから、英語の点はいいはずです。

つまり、英語そのものというよりも、「英語の向こう側」にあるもの、英米の文化に対する素朴な憧れがあって、それに触れるために英語を勉強した。英米のポップ・カルチャーという「目標文化」があって、それにアクセスするための回路として英語という「目標言語」を学んだわけです。

 

その後、1960年代から僕はフランス語の勉強を始めるわけですけれども、この時もフランス語そのものに興味があったわけではありません。フランス語でコミュニケーションしたいフランス人が身近にいたわけではないし、フランス語ができると就職に有利というようなこともなかった。そういう功利的な動機がないところで学び始めたのです。フランス文化にアクセスしたかったから。

僕が高校生から大学生の頃は、人文科学・社会科学分野での新しい学術的知見はほとんどすべてがフランスから発信された時代でした。40年代、50年代のサルトル、カミュ、メルロー=ポンティから始まって、レヴィ=ストロース、バルト、フーコー、アルチュセール、ラカン、デリダ、レヴィナス・・・と文系の新しい学術的知見はほとんどフランス語で発信されたのです。

フランス語ができないとこの知的領域にアクセスできない。当時の日本でも、『パイデイア』とか『現代思想』とか『エピステーメー』とかいう雑誌が毎月のようにフランスの最新学術についての特集を組むのですけれど、「すごいものが出て来た」と言うだけで、そこで言及されている思想家や学者たちの肝心の主著がまだ翻訳されていない。フランス語ができる学者たちだけがそれにアクセスできて、その新しい知についての「概説書」や「入門書」や「論文」を独占的に書いている。とにかくフランスではすごいことになっていて、それにキャッチアップできないともう知の世界標準に追いついてゆけないという話になっていた。でも、その「すごいこと」の中身がさっぱりわからない。フランス語が読めないと話にならない。ですから、60年代―70年代の「ウッドビー・インテリゲンチャ」の少年たちは雪崩打つようにフランス語を学んだわけです。それが目標文化だったのです。 

のちに大学の教師になってから、フランス語の語学研修の付き添いで夏休みにフランスに行くことになった時、ある年、僕も学生にまじって、研修に参加したことがありました。振り分け試験で上級クラスに入れられたのですけれど、そのクラスで、ある日テレビの「お笑い番組」のビデオを見せて、これを聴き取れという課題が出ました。僕はその課題を拒否しました。悪いけど、僕はそういうことには全然興味がない。僕は学術的なものを読むためにフランス語を勉強してきたのであって、テレビのお笑い番組の早口のギャグを聴き取るために労力を使う気はないと申し上げた。その時の先生は真っ赤になって怒って、「庶民の使う言葉を理解する気がないというのなら、あなたは永遠にフランス語ができるようにならないだろう」という呪いのような言葉を投げかけたのでした。結局、その呪いの通りになってしまったのですけれど、僕にとっての「目標文化」は1940年から80年代にかけてのフランスの知的黄金時代のゴージャスな饗宴の末席に連なることであって、現代のフランスのテレビ・カルチャーになんか、何の興味もなかった。ただ、フランス語がぺらぺら話せるようになりたかったのなら、それも必要でしょうけれど、僕はフランスの哲学者の本を読みたくてフランス語を勉強し始めたわけですから、その目標を変えるわけにゆかない。フランス語という「目標言語」は同じでも、それを習得することを通じてどのような「目標文化」にたどりつこうとしているのかは人によって違う。そのことをその時に思い知りました。

ロシア語もそうです。今、大学でロシア語を第二外国語で履修する学生はほとんどいません。でも、若い方はもうご存じないと思いますけれど、1970年に僕が大学入学したとき、理系の学生の第二外国語で一番履修者が多かったのはロシア語だったのです。

「スプートニク・ショック」として知られるように、60年代まではソ連が科学技術のいくつかの分野でアメリカより先を進んでいたからです。科学の最先端の情報にアクセスするためには英語よりもロシア語が必要だった。でも、ソ連が没落して、科学技術におけるアドバンテージが失われると、ロシア語を履修する理系の学生はぱたりといなくなりました。もちろんドストエフスキーを読みたい、チェーホフを読みたいというような動機でロシア語を履修する学生の数はいつの時代もいます。目標文化が「ロシア文学」である履修者の数はいつの時代もそれほど変化しない。けれども、目標文化が「ソ連の科学の先進性」である履修者は、その目標文化が求心力を失うと、たちまち潮が引くようにいなくなる。

僕の学生時代はフランス語履修者がたくさんおりました。でも、その後、フランス語履修者は急減しました。ある時点で中国語に抜かれて、今はもう見る影もありません。

理由の一つは、日本のフランス語教員たちが学生たちの知的好奇心を掻き立てることができなかったせいなのですけれど、それ以上に本国のフランスの文化的な発信力が低下したことがあります。フランス文化そのものに日本の若者たちを「目標」として惹きつける魅力がなくなってしまった。

 

フランス語やロシア語の例から知れる通り、われわれが外国語を学ぶのは目標文化に近づくためなのです。目標文化にアクセスするための手段として目標言語を学ぶ。

2018年

11月

01日

明日香ビオマルシェについて5 ☆ あさもりのりひこ No.594

ホットコーヒーが美味しい季節になった。

明日香ビオマルシェの「カフェ ネッコ」について書く。

 

「カフェ ネッコ」では、マイカップでホットコーヒーを飲み、ワッフルをいただく。

真夏でもアイスコーヒーではなくホットコーヒーをいただく。

「カフェ ネッコ」の柳原武蔵さんの淹れるコーヒーはストロングである。

ワッフルは、プレーン、ショコラ、抹茶、イモなど季節に合わせて多種多彩である。

淹れたてのコーヒーをすすりながら、焼きたてのワッフルを囓る。

至福のひとときである。

 

武蔵さんがホットコーヒーを淹れるのを見て、珈琲の淹れ方を学んだ。

コーヒーポットでお湯をコーヒー粉を満遍なく湿らせてしばらく置く。

そのあとで、コーヒーポットでお湯をコーヒー粉の真ん中に注ぐ。

お湯はできるだけ細くして時間をかけて注いでいく。

するとコーヒー粉の中央がドーム状に盛り上げってくる。

武蔵さんは、お湯を注ぎ終わってもしばらくコーヒーをドリップさせる。

それからドリッパーを外す。

武蔵さんの淹れ方でコーヒーを淹れると自宅で飲むコーヒーが一段と美味しくなった。

 

武蔵さんは奥さんのうづ芽さんと「根っこ」というデュオを組んでいる。

うづ芽さんが唄い、武蔵さんがギターを弾く。

うづ芽さんの歌声は透明である。

そして、うづ芽さんは気功の「使い手」でもある。

 

武蔵さんはおしゃれだ。

いつもおしゃれな帽子を被っている。

 

明日香ビオマルシェの面々は「帽子率」が高い。

2018年

10月

31日

光嶋裕介君の建築について ☆ あさもりのりひこ No.593

「僕がいるべき場所ではないところ」に長居は無用である。そこにとどまることはダイレクトに人の生命力を減殺するからである。

 

 

2018年10月31日の内田樹さんの論考「光嶋裕介君の建築について」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

光嶋裕介君の新著『僕らの家。』(世界文化社)の即売会と短いトークセッションが凱風館で昨夜、寺子屋ゼミのあとに行われた。ミシマ社も出店して、ゼミ生を中心に20人近くの聴衆が集まってくれた。

光嶋君が著作の意図を説明してくれた後に、僕が短いコメントをした。

その時に、以前、山本浩二画伯から展覧会用の解説を頼まれたことがあったので、その話をした。

僕は美術については門外漢だから、山本君の画業について専門的な見地から批評をすることはできない。彼の美術史的な系譜も知らないし、同時代の画家たちの中のどこに位置して、美術批評家たちからどういう評価を受けているかも何も知らなかった。僕にできるのは、山本君の絵を何点か所有していて、その絵を壁にかけて暮らしている僕にとって、山本君の絵が具体的にどういうふうに身体的な影響をもたらすものであるかを報告することだけだった。それについて書いた。少し長いけれど、再録しておく。

 

タブローの力:山本浩二の芸術

絵には「物理的な力」があるということを最初に実感したのは、二十年ほど前、パリのオルセー美術館でゴッホの絵を見たときのことだ。オルセーの最上階の印象派の部屋に入ったときに、背中に何かが触れてくるような感じがして、ふりかえったら、ゴッホのタブローと目が合った。

やはり同じパリのピカソ美術館の中庭で「山羊」の塑像と対面したときは、もっと強烈な体感を覚えた。ピカソの「山羊」はふみしめた四肢からパリの大地のエネルギーを吸い上げ、天空に向けて放射していた。

なるほど、芸術作品というのは「そういうもの」かということに、そのときはじめて得心がいった。

すぐれた芸術作品にはフィジカルな力がある。

その力は造形的に美しいとか、装飾的に巧みであるとか、空間的な配列に階調があるとか、そういう評価の水準に存するのではない。力のある作品は作品の外部の「何か」と繋がっていて、その「回路」として私に向き合い、私に触れ、私を賦活する。

 

私は以後ずっと芸術作品を「外部との回路」として活発に機能しているかどうかだけを基準に見てきた。

こんな見方は邪道なのかも知れないけれど、美術批評の訓練を受けていない私はそれ以外には芸術作品を判定する基準を持っていない。

だから、山本浩二の作品が専門的な美術評論家からどんなふうに評価されているかを私はよく知らないし、正直に言ってあまり興味もない。私が彼のタブローやドローイングを愛するのは、それがダイレクトに私に触れ、私の感覚を活性化するからである。

私の家の壁には山本浩二の作品が五点かかっている。毎日、玄関から書斎まで、家の中を移動するたびに山本浩二の作品は私に触れる。それが触れてくるのは私の審美的な感受性にではなく、もっと深い、もっと根源的な、ほとんど分子レベルの感覚にである。

それは私の身体の安定性と運動性を同時に賦活する。のびやかな鉛直方向の力が私に安定を保証し、それと同時に、物体が運動を開始する直前の緊張感と、その運動によって解発される浮遊感が私を高揚させる。

そのような作品は希有である。少なくとも私にとっては希有である。(ここまで)

 

光嶋君に『僕らの家。』の感想を求められたときに13年前に書いたこの文章のことを思い出した。

僕が建築を批評するとしても、用いることができるのは知識や情報ではなくて、自分の身体実感だけである。

山本君の絵の場合と同じで、たぶん建築物でもいくつかの力がその中で活発に働いているかどうかか鍵になる。

その家の中で生活していることが僕の身体の安定性と運動性を同時に賦活するか。のびやかな安定感と浮遊感を同時に経験させてくれるか。

ただ落ち着いているだけでは足りない。ただダイナミックなだけでは足りない。

平穏と運動、安定と浮遊、静と動が同時に実感されないと、人間は「生きた心地」がしない。

でも、それは叡智的に理解したり、数値的に考量できるものではない。

皮膚で感じるほかない。

 

武道の稽古では「触覚的に空間認知をすること」を要求する。人間は空間についてのほとんどの情報を視覚から得る。現代人はとりわけその傾向が強い。でも、視覚的認知では、自分が「どこにいるのか」についての座標的な認知はできるけれど、「自分がいてよい場所にいるのか、いてはいけない場所にいるのか」はわからない。どこに、どのタイミングで移動すれば、そこが「いるべき場所」になるのかは視覚情報だけからではわからない。

いるべき場所を教えてくれるのは皮膚感覚である。

だから、建築物についても、僕が第一に思量するのはそこが「僕がいるべき場所」であるかどうかである。そこが「僕がそこにいることを想定して造型されたものかどうか」である。

ほとんどそれに尽くされる。

それを見誤らなければ、そこには僕が果たすべきミッションがあり、僕が支援すべき人や、あるいは僕を支援する人と必然的に出会うことができる。

「僕がいるべき場所ではないところ」に長居は無用である。そこにとどまることはダイレクトに人の生命力を減殺するからである。

柳生宗矩はこう書いている。

「一座の人の交りも、機を見る心、皆兵法也。機を見ざればあるまじき座に永く居て、故なきとがをかふゝり、人の機を見ずしてものを云ひ、口論をしいだして、身を果す事、皆機を見ると見ざるにかゝれり」(『兵法家伝書』)

人との交わりには「機を見る心」が必須である。機を見ずに、いるべきではない場に長居すれば、ゆえのないトラブルに巻き込まれる。機を見ずに、不用意にものを言えば、要らぬ口論に巻き込まれ、ついには命を落とすことさえある。

僕たちが遭遇するトラブルのほとんどは「機を見誤った」ことで起きる。

自分がいるべき時に、いるべき所にいて、なすべきことをなすこと。

約めて言えば、それが「兵法」である。すべての修業はこの兵法を会得するためのものである。

 

だから、どんな建物に足を踏み入れても、僕はそこが「自分のいるべき場所」であるかどうかを感じ取ろうとする。

すぐに感知できるほどはっきりとしたメッセージを発信している建物がある。

例えば、僕が21年間を過ごした神戸女学院のヴォーリズ建築はそうだった。建築家はその建物の中のいたるところにそこで学び働くことになるすべての人々に対する歓待と挑発のメッセージを用意していた。それは単に「アフォーダンス」というのでは足りない。ヴォーリズはいたるところに、いくつかの行動の選択肢を差し出していた。ドアノブを回すか回さないか。階段をのぼるか降りるか。廊下を右に行くか左に行くか。例えば、図書館横の出口から対角線上にあるソール・チャペルの入り口までの数十メートルを進むために僕たちが選べる動線はたぶん数十種類ある。池の傍を通って水草やメダカを見る道や、紅葉する楓の下を通る道や、満開の桜が頬に触れそうな道や、いくつもの道をその時の気分で選ぶことができる。

You have the choice

それは学びを求めて大学の学舎に足を踏み入れた若い人たちに差し向けられるメッセージとしては最良のものだと思う。

逆に、まったく何のメッセージも発信していない建物もある。ほとんどのオフィスビルや公共建築物はそうである。建物が何も語らないことが公共性であり、動線が単一であることが効率性だと勘違いした建築家が作る建物はそういうものになる。

 

光嶋君とはじめて会った時、彼はまだ家を設計したことがなかった。だから、彼がどんな家を作る建築家なのか、僕はほとんど何も知らないまま彼に発注した。僕が彼を選んだのは、彼が自分のそれまでの作品(リノベーションした建物の写真といくつかのスケッチだけだった)を説明しながら「家の表情」という言葉を使ったからだ。

この青年は家には「表情」があるということを知っている。家はそこに暮らす人、そこを訪れる人ひとりひとりに別の「表情」を示すということを知っている。そして、表情が多様であることが住む甲斐のある家であるためにはどうしても必要だということを知っている。

それで十分だと僕は思った。

その時には自分がどうして彼を選んだのか、よくわからなかった。

でも、それからあとの彼の仕事を見て、僕の判断は適切だったということがわかった。

 

 

2018年

10月

30日

大和八木駅付近の秋スイーツ2018

 

本日は、事務局の担当日です。

 

最近は、秋らしい天気が続き、秋真っ盛りですね。

 

秋と言えば、やはり食欲の秋!

 

そこで、ご紹介したいのは、近鉄八木駅・なら法律事務所付近でおすすめの秋スイーツ2018です。

 

そのスイーツが売っているお店は八木駅ホーム下にある近鉄八木駅名店街内の北側で、近鉄百貨店橿原店へ向かう途中にある「やさい菓子工房cocoai」(http://www.cocoai-nara.com/)さんです。

 

以前にも一度ご紹介しましたが、なるべく地産地消で、野菜も取り入れたスイーツを次々と創作されるお店です。

 

こぢんまりと落ち着いた、フレッシュさを感じさせる雰囲気のお店で、若いスタッフの方が、いつも笑顔で迎えてくれます。

 

そして、秋のスイーツと言えば、カボチャ、栗、柿ではないでしょうか。

その素材を使ったスイーツが、以下のスイーツです。

 

カボチャのミルフィーユ

但し、これは、本日1030()が最終日です。

 

カボチャと栗のベイクドチーズケーキ

柿のタルト

 

以上の写真のスイーツがお薦めと思いますが、私の撮影が上手にできていないので、好みも個々に違うと思いますので、ご自身で見て、口に運んで味わって下さい。

 

仕事の合間に一息入れる時に、季節を感じ、気分をリフレッシュさせてくれるスイーツです。

是非、秋を満喫するのに、一度試食してみてはいかがでしょうか?

2018年

10月

25日

走ることについて語るときにオイラが語ること ☆ あさもりのりひこ No.592

【男子マラソン】

2002年、シカゴマラソンで、高岡寿成選手が2時間6分16秒で走った。

この日本記録は、その後16年間破られることがなかった。

2018年2月、東京マラソンで、設楽悠太選手が2時間6分11秒を記録して、16年ぶりに日本記録を更新した。

その8か月後の2018年10月、シカゴマラソンで大迫傑(すぐる)選手が2時間5分50秒を記録して、日本記録をさらに21秒縮めた。

 ここに来て、日本の男子マラソン界は活気づいている。

 

 世界では、2018年9月、ベルリンマラソンで、エウリド・キプチョゲ選手(ケニア)が2時間1分39秒の世界新記録を樹立した。

 それまでの世界記録を一気に1分18秒も縮める快走であった。

 

 これまでに2時間5分を切ったランナーは40人いるが、いずれもケニアかエチオピアの選手である。

 ちなみに、大迫傑選手の2時間5分50秒は世界歴代75位、設楽悠太選手の2時間6分11秒は世界歴代94位の記録になる。

 

 設楽悠太選手が高岡寿成選手の日本記録を破る前の時点で、世界記録と日本記録の差は3分19秒であった。

 現在、世界記録と日本記録の差は4分11秒に広がっている。

 世界記録が2時間を切るまでに、日本は世界に追いつけるのだろうか。

 

【女子マラソン】

女子マラソンの世界記録は、2003年にロンドンマラソンでポーラ・ラドクリフ選手が記録した2時間15分25秒である。

 この記録は15年間破られていない。

 2時間17分を切ったランナーはラドクリフ選手しかいない。

 

 日本記録は、2005年にベルリンマラソンで野口みずき選手が記録した2時間19分12秒である。

 この記録は13年間破られていない。

 ちなみに、野口みずき選手の2時間19分12秒は、現在でも世界10位の記録である。

 世界記録と日本記録の差は3分47秒のままである。

 

 世界も日本も、男子に比べて女子の記録が低調である。

 

奈良マラソン2018まであと45日。

 

 

2018年

10月

24日

「新潮45」休刊について ☆ あさもりのりひこ No.591

「安倍晋三首相の同盟者である杉田はまだ記事について公式には謝罪を行っていない。安倍は先週、『彼女はまだ若い』のだから、辞職圧力は加えていないと述べた。杉田は51歳である。(...)彼女は第二次大戦前、戦中の日本兵による性奴隷利用を韓国の捏造だと主張してきた人物である。」

 

 

2018年10月23日の内田樹さんの論考「「新潮45」休刊について」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

毎月ある地方紙にエッセイを連載している。今月は「新潮45」休刊について。

すでに二度本欄で触れたけれど、その総括のようなもの。

 

「新潮45」が休刊になった。社告によれば、「部数低迷に直面し、試行錯誤の過程において編集上の無理が生じ、企画の厳密な吟味や十分な原稿チェックがおろそかになっていた」結果、「あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現」を掲載してしまったことについて「深い反省の思いを込めて」の休刊である。

海外メディアもこの事件を取り上げた。英紙『ガーディアン』は発端を作った杉田水脈衆院議員をこう紹介している。

「安倍晋三首相の同盟者である杉田はまだ記事について公式には謝罪を行っていない。安倍は先週、『彼女はまだ若い』のだから、辞職圧力は加えていないと述べた。杉田は51歳である。(...)彼女は第二次大戦前、戦中の日本兵による性奴隷利用を韓国の捏造だと主張してきた人物である。」

杉田議員を擁護してさらに問題を大きくした小川栄太郎氏の記事については「性的少数派の権利を保証することは、列車の中で男が痴漢行為をする権利を認めるべきだということに通じるのではないかと訝しんでいる」と要約している。

たぶんここに言及された人々は、まさか自分たちの書いたものが媒体の休刊をもたらし、その事件が国際ニュースになるとは思っていなかっただろう。

私も二人の書いたものを読んだ。それは肩の力の抜けた、どちらかと言えばリラックスした調子で書かれていた。あえて良識を逆撫でするようなことを書いて、社会問題を起こそうというような戦術的な意図は感じられなかった。おそらく「この程度のこと」はこれまでもあちこちで書いたり、話したりしてきたけれども、これまで何の「お咎め」もなかったからだと思う。むしろ、彼らの言説はしばしば拍手喝采をもって迎えられたのだろう。

『新潮45』の記事はそういう「成功体験」を踏まえて書かれた文章のように私には思われた。

彼らはそういうものを読んで溜飲を下げたいと思っている「身内」を想定読者にして書いたのであり、それを読んで傷つく人間や、憤りを感じるものは端から読者に想定されていなかった。

自分の発言に喝采を送ってくれる読者限定に書かれたものである以上、そこに事実誤認があろうと、論理の混乱があろうと、あるいは偏見が露出していようと、気にしないのは当然のことである。その後の杉田議員の沈黙や、小川氏が休刊を「社内外で連携した何らかの組織動員的な圧力」に屈服した帰結だという陰謀論を唱えていることから推して、彼らが「まさかこんな騒ぎになるとは思っていなかった」ことが知れるのである。

しかし、それはメディアにおいて論争的な発言する人間が口にしてはならないことではなかろうか。

本来、言論というのは身内限定に書かれるべきではない。

この騒動は書き手たちがこの「常識」を軽んじたことの帰結だと私は思う。

私たちがものを書く時に論理の筋目を通し、自説の根拠を挙げ、引用やデータの出どころを明らかにし、情理を尽くして説くのは読者が身内ではないからである。

自然科学の論文は精密なエビデンスと厳正な論理に基づき、主観的願望を介入させないように書かれているが、それは同じ分野の専門家たちのきびしい査定的なまなざしを想定しているからである。文系の物書きにはそれほどの学術的精密さは求められないけれども、それでも懐疑的な読者を前提にして、なお「情理を尽くして説く」というルールを忘れてはならない。

 

私自身は例えば中国やアメリカについて書くとき、それが翻訳されて、それぞれの国の人々に読まれる状態を(現実的可能性の多寡にかかわらず)つねに想像している。それは「身内」以外の読者が読んでも、共感も同意も期待できない読者が読んでも、なおリーダブルなものを書く以外に新たな読者を獲得する手立ては存在しないと信じているからである。

2018年

10月

23日

キケンがいっぱい

みなさん、こんにちわ。

本日は事務局担当日です。

 

朝晩は少し冷え込むようになりましたね。

先日のお誕生日に頂いた抱き湯たんぽが、とてもいい仕事をしてくれて、家にいるときは、ずっと抱えて一緒にいます(笑)。

長さ80センチ幅10センチくらいの細長く、ゴムの柔らかい湯たんぽなので、腰や肩に巻いたり、抱き枕ぽくしがみついてみたり。もう手放せません(^^)

食欲の秋。

キケンがいっぱい。

なんですが、今日はそんなことよりみなさんに注意して頂きたい詐欺サイトをご紹介したいと思います。

先日、インターネットを使っていると、

急にこんなサイトが開きました。

 

「おめでとうございます!

Googleをお使いのあなた!

毎週火曜日に、10名のユーザーが無作為に選ばれ、スポンサーからギフトが進呈されます」

 

いままで抽選や宝くじなどにあたったことがほぼない私は、

ハヤリのiPhoneⅩが当たると書いてあってびっくり仰天。

今まで一番いい当選は、娘があてた地元商店街の5000円券

(娘であって私ではない)。

 

「なにこれなにこれ!(゜Д゜)ほんまにあたったん?」と浮かれる私。

グーグルメンバーシップリワード?なんかよくわかんないけど

こんなキャンペーンしてたんや~!

 

ところが、事務局長が、「サイトのアドレスがGoogleを使っていないから

おかしい」と冷静な声。

そこで、「Google iPhone 詐欺」とインターネット検索してみると、

当選したとうかれて、言われるがままに入力を進めると

クレジットカード番号を入力させられるというフィッシング詐欺でした(тωт)

 

弁護士も「それ、よく表示されるよ」と言っておりましたので、

私が知らなかっただけで、最近はやっている詐欺サイトのようです。

私のように軽率な人間は、危うくころっと騙されるところでした・・・。

いや、でも、なんか本物っぽいサイトに見えたんだもん・・・。

 

うまい話がそうそう転がっているわけないですよね・・・。

みなさんもお気をつけ下さい。

2018年

10月

18日

ショートニングとマーガリン ☆ あさもりのりひこ No.590

2015年7月30日のブログNo.135に「トランス脂肪酸」について書いた。

もう一度書く。

 

トランス脂肪酸が発生するのは、①植物性の油に水素を添加して化学反応を起こしたとき、②原料に高温高圧を加え食用油を抽出するときである。

 

マーガリンやショートニングは元々、バターやラードの代用品として開発された。

常温で液体の植物油に水素を添加すると、脂肪の分子構造に変化が起こり油が固まる。

その変化した構造はプラスチックと非常に似ており、プラスチックを食べることと大差はなく、「食べるプラスチック」と呼ばれる。

蟻やゴキブリは、マーガリンを「食べ物」と認識しないので寄りつかない。

 

マーガリンに含まれるトランス脂肪酸は約1~16%と、企業や商品によって差がある。

食パン1枚あたりに塗るマーガリンの量をおよそ10グラムとすると、トランス脂肪酸の含有率が高いマーガリンの場合、規制の厳しい国では基準値を超えてしまう。

 

ショートニングは、マーガリンから水分と添加物を取り除いたもので、より純度が高くなり、トランス脂肪酸の含有量はマーガリンよりも高くなる。

主に市販のパンやクッキー、揚げ物の油などに使われ、「サクッ」「パリッ」とした食感は、このショートニングが一役買っている。

コンビニやファストフード店で使われる揚げ油の多くはショートニングが使われている可能性が非常に高い。

 

市販の植物性油脂には、菜種油(キャノーラ油)、コーン油、べにばな油、大豆油などがある。

原料からこれらの油を搾り取るが、抽出方法によって原料を高温に加熱する場合がある。

高温に加熱すると原料から油の抽出できる量が増えるが、トランス脂肪酸が大量に発生する。

150℃超 分子構造に変化が起きる

160℃超 トランス脂肪酸へと徐々に変化していく

200℃超 トランス脂肪酸が急増する

より安価な植物性油脂ほど高温にしているのでトランス脂肪酸の含有率が高くなる。

 

原料から油を抽出する方法を見てみよう。

【溶剤抽出法】

まず、「ヘキサン」という溶剤を原料に混ぜ合わせ高温に加熱して油を抽出する。

つぎに、抽出した油を高温で加熱し、溶剤のみを蒸発(気化)させる。

さらに、リン酸を添加し加熱することで不純物(原料の栄養素やビタミン・ミネラル・食物繊維など)を取り除き、長期保存を可能にする。

加えて、長時間250℃前後を保つことで、原料のもつ臭いを取り除く。

この方法で原料に含まれる油の99%を抽出できる。

しかし、高温に長時間さらすことで、脂肪酸が「トランス脂肪酸」に大量に変化する。

【低温圧搾法(コールドプレス法)】

原料に熱を加えず、圧力のみで油を搾り取る方法である。

摩擦熱を抑えるため、長時間かけてゆっくりと搾り取るため、高温にならずトランス脂肪酸が発生しない。

また、原料に含まれる栄養成分なども壊れない。

 

世界のトランス脂肪酸の規制の例はつぎのとおり。

ニューヨーク市:トランス脂肪酸は完全禁止

オランダ:トランス脂肪酸が含まれる製品の販売禁止

デンマーク:食品へのトランス脂肪酸の含有率を2%に制限し、違反したら罰則の対象となる

韓国、中国、台湾:食品表示の義務化

中国:乳幼児への食品に対して使用禁止

日本では、トランス脂肪酸の表示義務すらない。

 

最後に、人間の身体への影響について。

トランス脂肪酸は、細胞膜の形成を阻害することで、免疫異常をきたしやすく、また活性酸素が大量に発生することがわかっており、摂り続けることにより体へ蓄積される。

がん、コレステロール異常、動脈硬化、心疾患、アトピー性皮膚炎、アレルギー、ADHD、リウマチ性関節炎、カンジタ症、うつなどの原因となる。

 

日本は「とうもろこし」「大豆」はアメリカ合衆国から、「菜種」はカナダからの輸入に頼っている。

アメリカ合衆国における「とうもろこし」「大豆」の作付面積の9割は遺伝子組み換えである。

カナダにおける「菜種」の作付面積の9割は遺伝子組み換えである。

安価な植物油脂、それを加工したマーガリン、ショートニング、マヨネーズなどは、遺伝子組み換え食品である可能性が高く、トランス脂肪酸とのダブルで体に影響を及ぼす心配がある。

 

朝守はパンが好きである。

しかし、大手パン会社のパンは買わないし、チェーン店のパンも買わない。

 個人のパン屋さんのパンを買う。

 

わが愛するパン職人のみなさんへ

ショートニングを使うのはやめよう。

マーガリンではなく、バターを使おう。

 

 

(このブログは、「避けたい危険な食品添加物一覧」のウェヴサイトを参考にして作成しました。)

2018年

10月

16日

オーガニックコットンのマスク@事務局より

皆さんこんにちは。今日は事務局担当日です。

さて,朝晩がずいぶん涼しくなり,気温差で体調を崩している人が多いですが,皆さんは大丈夫ですか?

かくいう私も,風邪で喉をやられてしまい,現在マスク装備中です(^^;)

 

ここ数年,喉が弱くなっているようで,風邪をひいても熱は下がっても咳だけが残り,なかなかすんなり完治できません。

 

電車の中でも,咳き込んでいる人に限ってマスクをしていなかったりするので,朝晩の通勤電車内は,

できるだけ離れた場所に移動してみたり,できるだけ息を止めてみたり(笑),

最終はマスク装着(えっ遅い?)で一応対策はしていたのですが,

ばっちりもらってしまいました(苦笑)

 

ただ,マスクをしていると,顔は火照るし,メガネをしているとレンズも曇ってしまい,長時間つけていると耳も痛くなるので結構辛いですよね。

できればあまり長くつけていたくない,という気持ちも分かります。

 

同じような悩みを抱えている方に是非お勧めしたいのが,オーガニックコットンのマスクです!(どこかの回し者ではありません笑)

 

先日,外回りの仕事で大淀まで出ていたのですが,帰りに立ち寄った道の駅で,オーガニックコットンのマスクを見つけたので,試しに購入してみました。

 

ちなみに,製造しているのは大和高田市にある会社のようです。

 

さっそく,装着してみると・・・

耳にかける部分がゴムではないので,耳が痛くならないし,長さも自分で調節できます。

柔らかく肌あたりがいいので,マスクがあたる部分も痒くならず,つけていても気持ちがいいんです♪

夜寝るときも,このマスクだとあまり息苦しさを感じないので,つけていても気にならず,夜中に咳き込みが止まらなかったのも少し改善されました。

欲を言えば,色のバリエーションがあればいいのですが(^^)

今度,もし行くことがあればぜひ買い足してこようと思います!

 

世間では,風疹も流行っているようですので,皆さんも体調にはお気を付けください。

 

2018年

10月

11日

走ることについて語るときにオレが語ること ☆ あさもりのりひこ No.589

9月29日(土)、朝から、奈良マラソンのコースを試走する予定だった。

台風24号が近づいて雨が降っている。

予定を変更して、午後、大和中央自転車道を30キロ走る。

走り始めたときは小雨が降っていたが、それも止んで、走るのに支障は無くなる。

1キロを7分のペースで、ゆっくり、ただし、最後まで歩かないことを目標にして走る。

便意を催したので、県営福祉パークのトイレで用を足す。

唐院の交差点で折り返す。

俯いたり、顎が出たりしないように、少し遠くに視線を向けるように心がける。

20キロを超えて1キロ8分にペースダウンするが、最後まで歩かないで元気に完走した。

タイムは3時間57分58秒。

 

9月の1か月間の走行距離は157キロだった。

月間150キロを超えたのは久しぶり。

 

10月2日(火)夜、ランニングマシーンで30分、4.9キロ走る。

時速を10キロに固定して、傾斜0.5%で5分、1.5%で5分、2.5%で10分、1.5%で5分、0.5%で5分走る。

走り終わると、汗がダラダラと流れ落ちる。

 

10月4日(木)早朝、周回コースを7キロ走る。

途中で小高い公園のつづら折りの道を上り下りする。

起伏がある、というより、起伏しかないコースである。

52分42秒。

前回よりも4分以上速かった。

 

10月7日(日)午前中、奈良マラソンのコースを試走する、予定だった。

ところが、土曜日の夜から発熱して、連休は風邪で寝ていた。

試走は、次週のお楽しみだ。

 

 

奈良マラソン2018まであと59日。

2018年

10月

10日

夏時間について ☆ あさもりのりひこ No.588

国際陸上競技連盟(IAAF)の前会長で、IOC委員のラミーヌ・ディアックとその息子は世界陸上と五輪を食い物にして私腹を肥やしてきた容疑で現在フランスとブラジルの司法当局に追われて逃亡中であるが、二人は東京五輪招致に深くかかわっている。電通の仲介で、シンガポールのダミー企業に招致委員会から払い込まれた23000万円がディアク息子の口座に転送されていたことを去年の秋に英紙『ガーディアン』が報じた。ブラジルの司法当局は、この支払いがディアク父を介して票を買収し、2020年東京五輪の招致を実現するためになされたと見ている。それが事実なら、明らかな五輪憲章違反である。今後、フランス、ブラジルの捜査が進み、招致のためにIOC委員たちの票を買収した動かぬ証拠が揃ったら、規定上は開会式の前日であっても五輪は開催中止となる。

 

 

2018年9月28日の内田樹さんの論考「夏時間について」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

8月末に「サンデー毎日」に夏時間についての原稿を寄せた。

今朝の毎日新聞によると、さいわい五輪前の夏時間導入は各界からの反対によって、見送りになったようである。

よかった。

というわけで夏時間導入反対の論は速報性を失ってしまったけれど、せっかく書いたことなので、「歴史的文献」としてご笑覧を請うのである。

ここから↓

 

東京五輪組織委員会が「酷暑」問題で追い詰められて、迷走している。

開催は2020年の724日から89日までの17日間。今年の同時期の東京の暑さは尋常なものではなかった。23区内の熱中症による死者数は120人に達した。この時期に炎天下で運動競技を行うことがアスリートの健康によいはずがないことは誰にもわかる。最も心配されるのがマラソンで、朝7時スタートを予定していたが、今年はその時間ですでに30度を超す日があった。

五輪期間中の暑さ対策としてこれまで提案されたのは「打ち水、浴衣、よしずの活用」とか「首に濡れタオル」とか、マラソンのコース沿いの店舗やビルの1階部分を開放して、中の冷気を道路に放出するという「クールシェア」とか、どう考えても本気とは思えないものばかりである。進退窮まった組織委員会が提案してきたのが2年間限定の夏時間の導入である。

一競技のために、日本中の人間を巻き込むようなシステムの変換を行うというのはいくら何でも本末転倒であると思うが、驚くべきことに、発表直後のNHKの世論調査では、夏時間の導入に「賛成」が51%、「反対」が12%と、世論は賛成が多数となった。

おそらく、賛成者のほとんどは夏時間の導入というのが、ただ時計を2時間進めるだけのことだと思い、その程度の手間でアスリートたちが気分よく競技してくれるなら、お安いものだと思ったのだろう。心根のやさしい人たちである。だが、夏時間の導入というのは、そんな気楽な話ではない。

夏時間の導入は不可能と断定している立命館大学の上原哲太郎教授によると、「政府や自治体、医療、交通運輸、金融のシステムから、家庭のテレビやエアコンまで、『時間』を基準に動作しているシステム」に私たちの生活は律されており、重要なインフラの修正だけでも45年は必要だと言う。当然、システム変換を請け負うIT企業の労働者には大量のタスクが集中的に課されることになる。人件費コストも桁外れのものになろうが、そもそもそれだけの人的リソースが調達できるかどうか。

アメリカでもヨーロッパでも、夏時間は実施されているが、そのような社会的混乱については聞いたことがないと言う人もいるだろう。でも、それは当然で、欧米では早くから夏時間制が導入されている(導入はドイツが世界で一番早くて1916年)。だから、それ以後に作られたものは家電製品もIT機器も夏時間切り替えを標準仕様にして製造されている。だが、日本製の機械はそんな仕様になっていない。

だから、重要なインフラのことは脇に置いて、電波時計、テレビ、カーナビなど「時間」を基準に作動するすべてのメカニズムは夏時間への切り替え時点で不具合を生じるリスクがある。かつての「2000年問題」と同じで、蓋を開けてみたら、何も起こらないかもしれない。でも「何も起こらないかもしれない」を含めて「何が起こるかわからない」のである。

夏時間で作動に影響が出る「かもしれない」機器の製造企業のコールセンターやサービスカウンターには消費者からの「どうしたらいいんですか?」という問い合わせと、「うまく作動しません」という調整修理の依頼が殺到するだろう。夏時間さえなければ決して生じることのないこれらのコストは、結果的にそれらの機器のメーカーが製造する商品の価格に上乗せされて、消費者が負担することになる。

「夏時間、いいんじゃないの」と気楽に世論調査に回答された市民たちは、こういったリスクやコストについてはたぶん何も考えずに「賛成」に一票を投じたのだと思う。だから、今からでも遅くはない。止めた方がいい。さいわい、まだ実施が決定したわけではない。五輪の一競技のために莫大な損害を発生させるべきではない。マラソンであれ何であれ、炎熱の時間帯を避けて、できるだけ涼しい時間帯に競技ができるようにプログラムを組めば、それで済むことである。アメリカのテレビの放送時間が・・・というようなことを言う人がいるが、アメリカのテレビ視聴者ができるだけ気楽にカウチでテレビを見られるように日本社会全体は夏時間コストを負担すべきだし、五輪に参加するアスリートは身体的苦痛を甘受すべきだと本気で考えているのだとしたら、それは底の抜けた博愛主義でなければ、骨の髄まで奴隷根性がしみこんでしまった属国民マインドのなせるわざである。

メディアがさみだれ式に報道し始めたように、欧米でも夏時間(英語ではdaylight saving timeとも言う)から離脱する動きは最近急速に広がっている。きっかけは「夏時間はエネルギーの節約に資する」というこれまでの定説が科学的研究によって覆されたからである。

ベンジャミン・フランクリンが1784年にパリを訪れた時に、まだ日が高いうちからパリジャンたちが窓のカーテンを下ろして就寝しているのを見て、「ろうそく代がもったいない」と思ったのが夏時間の始まりだと言われている。冷房が存在しない時代なら、ろうそく代の節約はそのままエネルギー消費量の節約だったが、今となってはそうはゆかない。

アメリカ政府が行った研究でも、夏時間がエネルギー消費を節約したということは証明できず、逆に、いくつかの研究グループは夏時間でエネルギー消費量は増加するという調査結果を発表した。

夏時間だと仕事上のミスが減り、交通事故が減るとも言われてきたが、これも統計的に無根拠であることが分かった。夏時間開始の翌日と終了の翌日は交通事故が8%増加していたのである。職場での事故、心臓発作も開始と終了の翌週には増大した。考えれば不思議はない。生活時間がいきなり変わるのである。新しい時間に慣れるまで、心身に障害が出て当然である。

アメリカでは連邦政府が四つのタイムゾーンを管理しているが、州政府には夏時間を採用するかしないかの選択権がある。だから、アリゾナとハワイは「必要がない」という理由で、夏時間を採用していない。一方、フロリダとカリフォルニアは「一年中夏時間にする」法案を準備している。その方が経済活動が活性化するし、治安にも、メンタルヘルスにもよいということらしい。

EU28ヵ国でも夏時間については賛否が割れている。フィンランドでは夏時間廃止の署名運動が始まった。EU加盟国ではないが、通年夏時間制を採用していたロシアは高緯度地の市民たちが「朝が暗いのはつらい」と言い出して、4年前に制度を廃止した。

これまでの調査でわかった夏時間の明らかなメリットは、アメリカで、夏時間への切り替えの翌日は強盗に出会う確率が27%減ったということである。さしあたり科学的な手続きに基づいて証明された夏時間導入の利点はこれ一つだけだと「夏時間導入の根拠とされる5つの主張には科学的根拠がない」と題したアメリカのネットニュースは報じていた(Forbes, Mar.5, 2018

各国の事情を瞥見して私にわかったのは「夏時間を採用するとうまくゆくこともあり、うまくゆかないこともある。その差は主に緯度によって決まる」というなんだか拍子抜けのするような結論であった。まことにその通りだと思う。だから、夏時間を採用すると、「いいこと」がある土地の人は採用すればいいし、「あまりいいことがない」なら採用しなければいい。それだけのことである。採否を決めるのは、そこに住んでいる人であって、よその人間が口を出すことではない。

日本の場合は「あまりいいことがない」ことが知られている。戦後、夏時間はGHQの命令で1948年から導入されたが、睡眠障害や残業増加などを引き起こして、きわめて不評であった。そして、1951年にサンフランシスコ講和条約が締結されると同時に打ち切られた。主権回復と同時にまっさきに廃止された制度であるから、当時の日本人はよほどこれを嫌ったのだろう。だから、森喜朗五輪組織委員長も、一度うっかり口にはしたけれど、その後いろいろ調べてみたら、夏時間導入には無理が多すぎるということが知れて、この記事が掲載される頃には、もう提案は撤回されていて「あの話はもうなかったことに」ということになっていて、もう誰も話題にしていないかも知れない(そうなっていることを願う)。

しかし、それにしても東京五輪をめぐる無数のドタバタはどこまで続くのであろう。招致運動の中での猪瀬都知事のイスラム差別発言から始まって、安倍首相の福島原発の「アンダー・コントロール」発言、ザハ・ハディドの国立競技場設計をめぐる騒動、五輪エンブレムデザインの盗用疑惑、木造の新国立競技場には聖火台がつくれないという大ポカについての責任のなすり合い、11万ボランティアの「学徒動員」に対する世論の反発、銀メダルの材料の「金属供出」要請など、信じられないほどの手際の悪さの事例は枚挙に暇がない。だが、もっとも深刻なのは五輪招致の「買収疑惑」である。 

国際陸上競技連盟(IAAF)の前会長で、IOC委員のラミーヌ・ディアックとその息子は世界陸上と五輪を食い物にして私腹を肥やしてきた容疑で現在フランスとブラジルの司法当局に追われて逃亡中であるが、二人は東京五輪招致に深くかかわっている。電通の仲介で、シンガポールのダミー企業に招致委員会から払い込まれた23000万円がディアク息子の口座に転送されていたことを去年の秋に英紙『ガーディアン』が報じた。ブラジルの司法当局は、この支払いがディアク父を介して票を買収し、2020年東京五輪の招致を実現するためになされたと見ている。それが事実なら、明らかな五輪憲章違反である。今後、フランス、ブラジルの捜査が進み、招致のためにIOC委員たちの票を買収した動かぬ証拠が揃ったら、規定上は開会式の前日であっても五輪は開催中止となる。「そんなことは起きるはずがない」と組織委員会は思っているだろうが、それでも「もし万が一・・・」と想像すると、眠れない夜もあるだろう。気の毒だとは思うが、自業自得である。

夏時間やボランティアの「学徒動員」はこれに比べたらまったくの些事である。でも、大手メディアは些事についてはかろうじて報じるが、この「招致を金で買った」という重大な案件についてはぴたりと口を噤んでいる。大手メディアそのものが東京五輪の協賛企業なのだから、せっかくの祭典に水を差すような報道は気乗りがしないという人情は分からないでもない。だが、それなら五輪が終わった後に露呈するであろう有形無形の莫大な「負の遺産(レガシー)」について報道する時には「どうしてこんなことが起きてしまったのでしょう。責任を問う声が高まっています」というようなしらばっくれた物言いだけは自制して欲しいと思う。

20年ほど前、ローザンヌで短いバカンスを過ごしたことがあった。その時、五輪博物館を訪れた。地下の人気のない図書室の書架にフランス語で書かれた「東京五輪計画書」を見つけた。64年のものかと思って手に取ったら、1940年の「幻の東京五輪」の計画書だった。興味をひかれて、日が翳るまで頁を繰り続けた。

添付されていた写真を見ると、空襲に遭う前の帝都の空は青く、市街は端正なおもだちをしていた。競技場も体育館もプールも「ありものの使い回し」という質素な感じがして、好感を持てた。この五輪に参加するはずだった日本人アスリートのうちのいくたりかはその後戦死しただろう。

本を閉じてからしばらくこのアスリートたちが誰も死なない「1940年に(日中戦争をなんとか講和に持ち込んで)東京オリンピックが予定通り開かれた日本」についての多元宇宙的な空想にしばし耽った。1940年に五輪が開かれていたら、果たしてその後の日本はどんな国になっていただろう。

 

今から半世紀後に同じローザンヌの図書室で「東京五輪2020年」のドキュメントをみつけた日本人の旅客はそれをめくった時にどのような感懐を抱くのだろうか。私には想像ができない。まったく、想像もつかない。

2018年

10月

09日

秋の空

 

本日10月9日は事務局が担当です。

昨日、一昨日の連休は暑いくらいの良い天気でしたね。

外周りの用で自転車にのって出かけていると、ジリジリと日焼けしそうな陽射しでしたが、日陰に入ると、結構心地よい気温でした。

空も澄み切った真っ青な時もあり、最近は余り言わないようですが、日本晴れでしたね。

そんな昨日の夕方、友達と京都に出かけていた息子からメールに添付されて、色々な写真が送られてきた中に写真1の清水寺から見た西の空に陽が沈んだ後の風景があり、

写真1
写真1

 

それを見て、私もすぐにベランダに出ると写真2のような結構綺麗な夕焼けが見れました。

雲は、うろこ雲のような感じでしたね。

写真2
写真2

 

みなさんは、昨日の夕暮れ時の空を見られましたでしょうか?

以前も何度か空についてブログに書いたことがありますが、我が家は皆が綺麗な空(日の出、面白い形の雲、夕空、月等)を見たら、携帯電話で撮影して、他の家族に送り感動を共有するということを結構しているものですから、つい話したくなるのです。

因みに、我が家の現時点で今年一番の空は、写真3の7月25日大阪天神祭の夕方の空です。ピンクからパープルに染まった空は息をのむような見事な夕空でした。

写真3
写真3

 

以前大流行した坂本九さんの2曲(「上を向いて歩こう」、「見上げてごらん夜の星を」)は、共に空を見上げる歌詞です。

みなさんは、落ち込んだり、気にやんでいた時などは、下ばかり向いていませんか?

 

そんなときは、是非上を、空を見上げて、歌を口ずさんでください。

気持ちが切り替えられ、心が軽やかになり、前向きになると思いますよ!