〒634-0804

奈良県橿原市内膳町1-1-19

セレーノビル2階

なら法律事務所

 

近鉄 大和八木駅 から

徒歩

 

☎ 0744-20-2335

 

業務時間

【平日】8:50~19:00

土曜9:00~12:00

 

2025年

6月

17日

おいしいもの記 

弁護士 橿原

みなさん、こんにちわ。本日は事務局担当日です。

今年の梅雨は

短期間でザーッと降って晴れ間がのぞくようなお天気変化の激しい「陽性梅雨」だそうです。

シトシトと降り続く梅雨は「陰性梅雨」というそうですが、近年の梅雨は陽性ばっかりな気が・・・。

 

テレビで「ようせいづゆ」と聞いたとき「妖精!なんてかわいいネーミング♪」と思いました😂

さてさて~本日は

私が遭遇したおいしいものをご紹介したいと思います。

 

part1としまして(part2はいつになるかは・・・)、奈良市秋篠町にありますスパイスカレー「ラピスカレー」さん。

 

こちらの店舗、大阪府豊中市から今年の3月に奈良へ移転されました。

「奈良グルメ図鑑」というHPで拝見して、

おおおお😲う、うまそうだ~!と夫を足を運びました。

営業時間はお昼11時半~15時なので、11時20分くらいにお店に着いたのですが、すでに何人か待たれていました。

 

お店は、マスターお一人で切り盛りされており、その日によってメニューが変わります。

私はチキンカレーとダル(レンズ豆)の相掛けを、夫は豚バラカレーを。注文時にお支払いを済ませます。

 

感想はもう。一言で。

おいしかった!!!!です(小学生か!😆)

スパイスがーとか濃厚な~とか食レポがうまくできないけど、なんしかおいしかった!!!!

ダルは甘く、チキンはスパイシーで、スパイスの複雑な香りが。

濃厚、でもしつこくなく。

4種の副菜も多彩な種類でカレーの箸休め的なアクセントに。

お米は、バスマティライスという細長いインドのお米なのですが、

さらっとした口あたりで、カレーとものすごくマッチしていました。

そして写真左上のスープ。

これが、めっっちゃおいしい😋どんぶり一杯でもいけそう笑

 カレーはかなりボリューミーなので、女性はミニサイズでもいいもしれません。

 

そして、ラピスカレーさんのお隣にはとってもいい香りのするコーヒー豆屋さんが。

フラフラ~と吸い寄せられ、食後にとってもおいしいアイスコーヒーを頂きました😄

「おいしい」の一言で片付けるのが申し訳ないんですが、語彙力がなくて・・・トホホ。

あまりにおしくて写真撮り忘れちゃいました・・・。

 

自家焙煎珈琲「福田珈琲」さん

こちらは、関東から移転されてきたそうです。

店内には世界各地から選んだ最上級の豆が販売されています。 

 

店舗外の写真を撮り忘れましたが、

こちらの2店舗は古民家を改装してできた飲食店複合施設のようです。

是非、カレーと珈琲をセットでお楽しみ下さい♪ 

カレーも珈琲もテイクアウト可能です😊

2025年

6月

16日

内田樹さんの「親切な家父長制」 ☆ あさもりのりひこ No.1706

日本人には「家父長制的マインド」が骨の髄まで浸み込んでいる。だから、家族以外の組織を作る時にも「家父長的な組織」しか思いつけないし、自分がそうしていることに気がつかない。私はその冷厳な事実を「認めよう」と申し上げているのである。そして、「みんなが楽しく暮らせる親切な家父長制」というものがあり得るかどうか、それを吟味してみてはどうかという提案しているのである。

 

 

2025年5月16日の内田樹さんの論考「親切な家父長制」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

「親切な家父長制」ということについてこのところ「伝道」をしている。

「家父長制」は今は唾棄すべき「諸悪の根源」として扱われているけれども、家族制度というのは良否善悪の判定に従うものではない。

 エマニュエル・トッドによれば、家族関係が「政治的な関係におけるモデルとして機能し、個人が権威に対してもつ関係を定義している」(『世界の多様性』)。

 世界のあらゆる家族制度は「自由/権威」と「平等/不平等」という二つの二項対立を組み合わせた四つのモデルのどれかに当てはまる。

 日本は直系家族という家族制度であり、これは個人の決断や「政治的に正しいかどうか」では変更することができない。直系家族では、長兄が家督を継ぎ、家にとどまる他の成員については権威者として臨むが、同時に扶養義務を負う。

 日本でも最近まではそうだった。でも、少子化と核家族化で、この家族制度は解体した。にもかかわらず家族制度を「政治的な関係のモデル」とみなす思考習慣だけは存続している。

 だから、家父長制解体を叫んだ人が、自分の属する組織が「トップダウン」であることに何の違和感も覚えないでいるという奇妙なことが起きる。「オレは家父長の指図は受けない。一人で生きる」と言って家族解体を支持した人が「今の政治に必要なのは独裁だ」とうそぶく政治家に喝采を送るというのは論理的にはあり得ないことだが、日本社会ではありふれた光景である。

 日本人には「家父長制的マインド」が骨の髄まで浸み込んでいる。だから、家族以外の組織を作る時にも「家父長的な組織」しか思いつけないし、自分がそうしていることに気がつかない。私はその冷厳な事実を「認めよう」と申し上げているのである。そして、「みんなが楽しく暮らせる親切な家父長制」というものがあり得るかどうか、それを吟味してみてはどうかという提案しているのである。長い話になるので続きは次週。

 

(信濃毎日新聞、5月8日)

2025年

6月

13日

内田樹さんの「オーバーアチーバーとアンサング・ヒーロー」 ☆ あさもりのりひこ No.1705

「働きの悪いやつ」を炙り出すための査定に要する「組織マネジメントコスト」はいかなる価値あるものも生み出さない。純粋な消耗である。これは長く組織の管理職を務めてきた人間として自信を以て断言できる。そんな暇があったら「人より多く働く人(over-achiever)がさらに気分よく働いてもらえるように環境を整備する方がはるかに集団のパフォーマンスを向上させる。

 

 

2025年5月16日の内田樹さんの論考「オーバーアチーバーとアンサング・ヒーロー」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

若い研究者とテクノロジーの未来について対談する機会があった。

 お相手してくださったのは法政大学准教授の李舜志さん。少数のプラットフォーマーが市場と思考を支配するディストピア「テクノ封建制」からどうやって離脱して、民主制とコモンを再生させることができるか、そのテクニカルな方法について貴重な知見を伺うことができた。若い人と話すと老狐の脳にも「キック」が入ってまことに刺激的である。

 途中から「どうやってコミューンを立ち上げるか」という実践的な話題になった。これなら私にも組織人として長く生きてきた経験知の蓄積があるので思うところを述べた。

 組織を作れば必ず「人より多く働く人」と「人より少なく働く人」が生まれる。これは避けられない。でもこの時に「フリーライダー捜し」をしてはいけない。「集団への貢献以上の分配に与っているのは誰だ?」という問いを立ててはいけない。というのは、フリーライダーを捜し出して、処罰し排除しても、集団のアウトカムは少しも向上しないからである。

「働きの悪いやつ」を炙り出すための査定に要する「組織マネジメントコスト」はいかなる価値あるものも生み出さない。純粋な消耗である。これは長く組織の管理職を務めてきた人間として自信を以て断言できる。そんな暇があったら「人より多く働く人(over-achiever)がさらに気分よく働いてもらえるように環境を整備する方がはるかに集団のパフォーマンスを向上させる。

 でも、組織を効率的に管理するための技術知についてのさまざまな言説を渉猟してみたが、これまで「オーバーアチーバー」という文字列を見た覚えがない。フリーライダーを炙り出し、叩き出す方法についてはさまざまな(底意地の悪い)アイディアが提案されているのに、オーバーアチーバーにさらに気分よく働いてもらうためにどうすればいいのかについて日本の経営者が知恵を絞った形跡がない。どうしてなのか。

 たぶんオーバーアチーバーは「自分個人の業績の向上」ではなく「集団全体のパフォーマンスの向上」をめざすからだと思う。オーバーアチーバーは自分の業績を誇示するために同僚たちを押しのけてでも目立とうとする人間のことではない。いつもその人の周りでは笑いが絶えず、さまざまな創意工夫が次々提案されるような気分のよい場を創り出せる人間のことである。

 でも、現在私たちが「評価」とか「査定」と呼んでいるものはすべて個人についての成績である。その人がいるせいで集団全体が「底上げ」されるような活動(それは実務に限定されない)についてはそもそも査定する項目さえ存在しない。

 以前、福岡伸一先生から「アンサング・ヒーロー(歌われざる英雄 unsung hero)」という言葉を教えてもらったことがある。「歌われざる英雄」とは、その人のちょっとした気づかいのおかげで集団が壊滅的な被害を回避することができたのだが、その功績を誰も知らない(本人も知らない)ような人のことである。その人が通りがかりに堤防に空いた小さな穴から水が漏れているのを見て、足元の小石をそこに突っ込んでおいた。そのせいで次の台風のときにその堤防は決壊せずに済み、村は災害を免れたのだけれど、そのことを誰も知らない(小石を拾って穴を埋めた人は自分がそんなことをしたことさえ覚えていない)。

 でも、そういう人こそが集団の存立を支えているのである。けれども、私たちの競争社会では、「歌われざる英雄」はまさに「歌われない」がゆえに存在しないものとして扱われる。それよりは自分の功績を大声で歌い上げるような人間が高いスコアを獲得する。

「オーバーアチーバー」も「アンサング・ヒーロー」も日本語に適切な訳語がない。だから、この二つのキーワードで組織を語る知的習慣が今の日本社会にはない。

 李先生とテクノロジーの未来について対話していて、それが不安になった。この二つの概念を欠いたままテクノロジーと共同体の未来を語ることは果たして可能なのだろうか。

(山形新聞「直言」、5月1日)

 

 

2025年

6月

12日

奈良マラソンへの道 その9 ☆ あさもりのりひこ No.1704

5月30日(金)早朝、丘の階段641段、56分15秒、7.33㎞、平均ペース7分41秒/㎞、総上昇量149m、消費カロリー518㎉。

1 6分59秒

2 7分15秒

3 7分56秒

4 9分11秒(階段)

5 9分54秒

6 6分26秒

7 6分33秒

8 6分12秒(330m

 

5月31日(土)早朝、ウインドスプリント300m×10本、50分26秒、7.65㎞、平均ペース6分35秒/㎞、総上昇量77m、消費カロリー545㎉。

6分45秒、6分54秒、6分50秒(70m

1分19秒3(5分01秒/㎞)、1分19秒9(5分01秒/㎞)

1分12秒0(4分42秒/㎞)、1分19秒1(4分57秒/㎞)

1分11秒8(4分35秒/㎞)、1分18秒4(4分57秒/㎞)

1分11秒2(4分40秒/㎞)、1分17秒6(4分51秒/㎞)

1分09秒2(4分21秒/㎞)、1分16秒0(4分45秒/㎞)

6分28秒、6分28秒、7分14秒(100m

スプリントは往復とも最後が一番速かった。

 

6月1日(日)、休足。

 

6月2日(月)早朝、テンポ走、38分41秒、6.19㎞、平均ペース6分15秒/㎞、総上昇量105m、消費カロリー433㎉。

1 6分41秒

2 6分44秒

3 5分40秒

4 6分24秒

5 5分53秒

6 6分11秒

7 5分44秒(190m

 

6月3日(火)早朝、室内トレーニング。

夜、トレッドミル、30分、4.15㎞、時速8.4㎞(7分00秒/㎞)、傾斜3.0%、消費カロリー396㎉、手首に重り1㎏×2。

 

6月4日(水)早朝、安藤大さんのアントレ、足首に重り約0.5㎏×2。

 

6月5日(木)早朝、坂道ダッシュ400m×3本、50分28秒、6.79㎞、平均ペース7分26秒/㎞、総上昇量137m、消費カロリー492㎉。

6分43秒、7分07秒、7分17秒(550m

2分35秒5(6分37秒/㎞)

2分40秒5(6分46秒/㎞)

2分28秒8(6分18秒/㎞)

8分04秒、6分56秒、6分10秒(150m

 

6月6日(金)早朝、階段1045段、49分18秒、6.2㎞、平均ペース7分57秒/㎞、総上昇量86m、消費カロリー471㎉。

1 7分45秒

2 8分31秒

3 7分47秒

4 7分52秒

5 8分41秒

6 7分30秒

7 5分54秒(200m)

 

6月7日(土)早朝、全力・ジョギング・全力、38分26秒、6.2㎞、平均ペース6分12秒/㎞、総上昇量92m、消費カロリー427㎉。

1 7分01秒(580m

2 5分41秒

3 5分34秒

4 7分20秒

5 7分49秒(540m

6 5分11秒

7 5分53秒

8 6分35秒(80m

 

6月8日(日)午前、ジョギング、飛鳥川上坐宇須多伎比賣命神社、1時間52分25秒、15.11㎞、平均ペース7分26秒/㎞、総上昇量378m、消費カロリー1065㎉。

1 7分01秒

2 7分04秒

3 6分26秒

4 6分59秒

5 8分44秒

6 7分47秒

7 7分35秒

8 10分40秒(階段)

9 6分38秒

10 8分22秒

11 6分57秒

12 6分22秒

13 7分52秒

14 6分41秒

15 6分36秒

16 6分09秒(110m

 

6月9日(月)早朝、西園美彌さんの魔女トレ。

 

6月10日(火)早朝、室内トレーニング。

夜、トレッドミル、30分、4.15㎞、時速8.4㎞(7分00秒/㎞)、傾斜3.0%、消費カロリー391㎉、手首に重り1㎏×2。

 

6月11日(水)早朝、安藤大さんのアントレ、足首に重り約0.5㎏×2。

奈良マラソン2025のエントリーの受付を完了した。

レースはエントリーから始まる。

 

6月12日(木)早朝、ビルドアップ走、40分00秒、6.22㎞、平均ペース6分26秒/㎞、総上昇量85m、消費カロリー440㎉。

1 6分36秒

2 6分39秒

3 6分26秒

4 6分27秒

5 6分05秒

6 6分29秒

7 6分01秒(220m

 

速度が思うように上がらなかった。

2025年

6月

11日

内田樹さんの「日本版ダーチャのすすめ」 ☆ あさもりのりひこ No.1703

ダーチャの起源はピョートル大帝が庭園付き別荘を家臣に下賜したことに由来する。スターリンの時代に自営地を奪われた農民たちが食料自給用の土地を求め、フルシチョフの時代に法制化された。ふだんは都会に居住する人たちが週末や夏休みに利用する。ダーチャには菜園があり、家畜を飼うこともできるので、食糧の供給が途絶しても、市民たちは自給できる。

 

 

2025年5月16日の内田樹さんの論考「日本版ダーチャのすすめ」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

養老孟司先生と先日お話する機会があった。

 まず南海トラフの話になった。南海トラフ地震には周期性があり、今から30年以内に巨大地震が起きる可能性は80%とされている。駿河湾から日向灘までのどこかが大きな被害を受けることになる。だから、私たちは巨大地震が来ることを前提に生活設計をしなければならないというのが養老先生のご意見であった。その通りだと思う。その対処策の一つが「二拠点生活」へのシフトである。里山に「セカンドハウス」を確保しておくのである。そこに行けば、とりあえず雨露がしのげて、水が飲めて、食べ物が手に入る「自分の家」を山間部に持つ。

 都市生活者にとって地方移住には相当の決断が要るけれども、地方に「セカンドハウス」を持つことなら経済的にも心理的にもそれほどの負担にはならないと思う。過疎化で空家が増えた集落だと不動産もずいぶん安い。私の友人が京都山中の古民家を買った時の価格は数万円だったそうである。さすがに相当の手入れをしないと居住できないほど傷んでいたけれど、それでもずいぶん安い。

 もし、週末だけ、あるいは月一でも、里山にある「セカンドハウス」を訪れ、「もしものとき」のための生活拠点として整えておくことができたら、それは単なるリスクヘッジを超える意味があると私は思う。

 ロシアが国際的な経済制裁を受けながら、市民生活がそれほど困窮していない理由の一つはかの地には「ダーチャ」という制度があるからだと識者に教えてもらった。

 ダーチャの起源はピョートル大帝が庭園付き別荘を家臣に下賜したことに由来する。スターリンの時代に自営地を奪われた農民たちが食料自給用の土地を求め、フルシチョフの時代に法制化された。ふだんは都会に居住する人たちが週末や夏休みに利用する。ダーチャには菜園があり、家畜を飼うこともできるので、食糧の供給が途絶しても、市民たちは自給できる。

 日本でも若い人たちが里山に「自分のダーチャ」を持てるようになれば、雇用条件が悪くても、心理的にはずいぶん落ち着くだろう。何よりこれは「資源の地方離散」シナリオを大きく進めることになる。

 

AERA 423日)

2025年

6月

10日

6月21日「電車de橿原産マルシェin大和八木駅」開催@事務局より

皆さんこんにちは。今日は事務局担当日です。

 

近畿地方も梅雨入り☔しましたが、

今朝は、夜中の大雨で何度か目が覚めてしまい、寝不足気味です😓

眠気が若干残りながらも電車の乗り換えを急いでいたら、

通路の床で滑り危うく転倒するところでした。

皆さんも、雨の日は足下にご注意くださいね😖

さて、来る6月21日(土)、当事務所の最寄り駅である近鉄大和八木駅内で、

橿原市との共催で「電車de橿原産マルシェin大和八木駅」が開催されます。

 

大和八木駅4番ホームに停車している列車の車内が会場となって、

地元の特産品などの販売のほか、小さいお子さん向けに輪投げやおもちゃの金魚すくい、

うまい棒つかみなどの縁日コーナーもあるようです。

今回参加される店舗には、以前ブログでも紹介した「サンドイッチ食堂Tororii」さん、「Imagami」さんのほか、橿原近鉄百貨店から300メートルほど北側にある

「喫茶カシオペア」さんも参加されています。

 

 

「喫茶カシオペア」

 

住 所  奈良県橿原市新賀町235-8

 サニービルTANAKA1F

 (近鉄大和八木駅から徒歩5分)

 

TEL   070-2318-5773

 

営業時間 7:0018:00

定休日  不定休

 

去年の6月にオープンし、まもなく開店1周年を迎えられるとか。

店内は落ち着いた雰囲気で、ゆったりと時間を過ごせます。

イートインのほか、チーズケーキや季節のタルト、クッキーなどのテイクアウトも

可能です。

今度のイベントには、人気のシナモンロールなども販売されるそうですよ。

 

 

21日のマルシェは正午から午後3時までの短時間の開催ですが、駅への入場は無料です。

もし当日大和八木付近にお越しであれば、ぜひ足を運んでみてください😄

 

2025年

6月

09日

内田樹さんの「私の護憲論」 ☆ あさもりのりひこ No.1702

武道では、与えられた状況に最適解で応じることを「後手に回る」と言う。後手に回れば必ず敗ける。だから先手を取らなければならない。「先手を取る」というのは、敵より先に攻撃するという意味ではない(愚かな政治家たちはそう解するだろうが)。そうではなくて「世界はいかにあるべきか」について指南力のあるメッセージを発信することである。そのメッセージによって現実を変えることである。

 

 

2025年5月16日の内田樹さんの論考「私の護憲論」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

憲法記念日を少し過ぎたが、私の護憲論を改めて開陳しておきたい。私の護憲論はふつうの護憲論とは少し違う。本国憲法は「空語」だという立場からの護憲論である。

 憲法前文にはこうある。

「日本国民は・・・ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を制定する。」

 だが、憲法発布時点に「日本国民」というものは存在しなかった。公布前日まで存在していたのは「大日本帝国臣民」であり、彼らはもちろん主権者ではないし、憲法を起草する権限もなかった。

 現行憲法の前文の前には「上諭」というものが付いていた。

「朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が定まるに至ったことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第七十三条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる」とある。

 二つの憲法の間の法的連続性を保つためには、天皇から国民への「主権者の移動」が帝国憲法に従って行われたという「お話」が必要だったのである。

 別に私はだから日本国憲法は虚構だと言っているわけではない。憲法学者たちの理解とは少し違うと思うが、私は憲法というのは、あらゆる宣言と同じく「空語」であると思っている。

 共産党宣言も、アメリカ独立宣言も、シュールレアリスム宣言も、ダダ宣言も、未来派宣言も、あらゆる宣言は空語である。

 独立宣言には「すべての人間は創造主によって平等なものとして創造されている」と書かれているが、奴隷制が廃止されたのはその87年後であり、公民権法が制定されたのはその188年後であり、Black Lives Matter の運動が起きたのはその237年後である。今でも米国内には厳然たる人種差別が存在している。では、独立宣言は「空語」であり、無意味なものだったと言えるだろうか。私は違うと思う。この空語は「あるべき国のかたち」を示した生産的な空語であった。強い指南力を持った空語だった。国民が全力をもって達成すべき課題を示した空語だった。この宣言があったおかげで、アメリカは遅い歩みで(時に後退しながらも)「すべての人間が自由である」国をめざしてきた。宣言というのはそういうものだ。

 だから、私は日本国憲法を前文から最後までを「その空隙を満たすべきものとして与えられた空語」だと思っている。

 この世界のどこにその「公正と信義」を信頼することのできる「平和を愛する諸国民」がいるのか。どこに「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている」国際社会が存在するのか。そう冷笑する人たちは「すべての国が自国益を最大化するために喉首を掻き切りあう国際社会」で生き延びるために憲法を書き換えようと主張している。現実に合わせて理想を捨てようと主張している。でも、現実に合わせて憲法を書き換えた後、あなたたちは日本をどのような国にするつもりなのか。いかなる理想も掲げずに現実にひたすら適応し続ける国になるべきだと言うのか。

 武道では、与えられた状況に最適解で応じることを「後手に回る」と言う。後手に回れば必ず敗ける。だから先手を取らなければならない。「先手を取る」というのは、敵より先に攻撃するという意味ではない(愚かな政治家たちはそう解するだろうが)。そうではなくて「世界はいかにあるべきか」について指南力のあるメッセージを発信することである。そのメッセージによって現実を変えることである。

 

(『週刊金曜日』、5月7日)

2025年

6月

06日

内田樹さんの「月刊日本インタビュー「権藤成卿論を書いて」(その3)」 ☆ あさもりのりひこ No.1701

権藤成卿の思想にはいくつもの破綻がありますが、それにもかかわらず強い喚起力を持っています。それはこれが日本固有の土着思想に根ざし、日本の思想的土壌から生まれたものだからです。

 

 

2025年5月13日の内田樹さんの論考「月刊日本インタビュー「権藤成卿論を書いて」(その3)」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

――コミューンは世界中にありますけれども、日本型コミューンはどのようなモデルなのでしょうか。

 

内田 「家父長制」です。E・トッドは、「家族関係が政治的関係のモデルとして機能し、個人の権威に対する関係を規定する」「このメカニズムは自動的に働き、倫理以前のところで機能するのである」と述べています。家族=国家モデルのメカニズムは「倫理以前のところで機能する」ので、意識的にこれを書き換えることはできない。

 日本の場合は「直系家族」(長兄が家督を相続し、他の子どもたちは資源分配から排除される)で、そのメカニズムから家父長制が成立します。戦後日本において家父長制は「廃絶すべき陋習」と見なされてきました。でも、どれだけ家父長制を理論的に批判しても、国家モデルを書き換えることはできません。それに代わる国家モデルを日本人は一度も構想したことがないからです。

 家父長制が諸悪の根源という理説を語る人がいますけれども、そもそも「この世界にはすべてをマニピュレイトする強大な〈父〉がいて、われわれの運命はその干渉によって左右される」という発想そのもののうちに家父長制的思考は深く浸み込んでいる。〈父〉に抗うのか、〈父〉に屈するのか、という二者択一で考えるという発想そのものが家父長制を再生産しているのです。真に「脱ー家父長制」的な思考があるとすれば、それは家族の誰ひとりとして他の家族に対して家族の「あるべきかたち」を指示したり、他の家族成員の生き方についてその適否を決定したりすることのない家族でしょうけれども、そのような家族がどのようなものか僕たちは解像度の高いイメージを持つことができません。そんなの当然であって、僕たちはそんな家族のことを文学でも映画でもマンガでもテレビドラマでも、一度も見たことがないからです。そのようなものがないことを欠如として感じたことさえない。僕たちが知っているのは世の中にはさまざまな家父長がいるけれども、どの家父長も「家族成員ひとりひとりについて、その〈欲望のありか〉を熟知しているということは絶対にない」ということだけです。でも、「自分は家族の〈欲望のありか〉を知らない」ということを知っている家父長と、そのことを知らない家父長の間の「程度の差」は歴然として存在する。

 自分の無知無力を自覚し、自分の主務を「家族の扶養と保護、その市民的成熟の支援」に限定し、それ以上深く家族の内面に踏み込まない節度を持つ家父長は「わりとましな家父長」です。逆に、自分を家族に対する権力者とみなし、家族を支配し、管理し、その能力を査定し、その生き方にうるさく干渉し、期待に沿わない家族には処罰を与えるのは「ろくでもない家父長」です。同じ家父長でも、この程度の差は家族にとってかなり決定的なものです。

 日本の集団はいずれにせよ家父長制モデルにならざるを得ない。そうである以上日本型コミューンもどこかで家父長制と折り合いをつけなければならない。

 それは家父長の第一の役割を「長兄」として独占的に相続した資源を原資にして、他の家族を庇護することであると定めることです。「長兄」は他の家族について扶養義務を負っている。長兄の仕事は家族を格付けして、資源を傾斜配分することではありません。仮に一族内にまったく生産性のない「フリーライダー」がいても、当然それについても等しく扶養義務を負う。メンバー全員を「みんなまとめて面倒みよう」というのが家父長のマインドセットです。

 それゆえ、家父長制の基本構造はそのまま「師弟関係」にも転写されます。師は弟子に自分が先人から受け継いだ知識や技術を「贈与」する。代価を求めないし、弟子についてその相対的な優劣を論じることもない。学ぶものすべてに等しくリソースを分け与える。

 家父長の本分はあくまでも「贈与」です。もし家父長の本旨を、弟妹に対して屈辱感を与える権利であったり、彼らの自由を制限する権利であったり、彼らから収奪する権利であると考える人がいたら、それは直系家族の家父長ではありません。別のもっと卑しい何かです。

 だから、家父長は強い必要はありません。小津安二郎の映画『小早川家の秋』には、放蕩三昧の父親が亡くなった後、家族で経営していた造り酒屋がたちまち立ちいかなくなり、残された家族が「頼りないお父ちゃんやと思ていたけど、やっぱりお父ちゃんが小早川家を支えてくれていたんや」とつぶやく場面があります。小津は家父長の一つの理想をそこに見ていたように思います。

 家父長は弱くてもいい。親切でさえあればいい。西郷隆盛は日本型コミューン主義者の原型ですけれど、西郷の本質は「弟妹」を守るために持てる自分の命を含めてすべてを惜しみなく捧げた点にあります。家父長は他のメンバーよりも多くの倫理的責任を負っている。頭山満や権藤成卿にとって自己造形のモデルは西郷でした。頼って来る者たちを差別することなく歓待する「親切な家父長」である役割を彼らは自らに課しましたが、それは西郷がそうしていたから、それを真似たのです。そのことの政治的な深い意味については、残念ながら彼らも十分に吟味した形跡はありません。

 自由と平等は相容れない。それを折り合わせるためにフランス革命の指導者たちは「友愛」という第三の統治原理を書き加えました。でも、友愛がどうして必要なのかについてのつきつめた考察を民主政下の人々はしてこなかったと思います。たぶん自由と平等は必須だけれども、友愛は「おまけ」みたいなものだと軽んじてきたのでしょう。でも、違います。友愛なしには自由と平等の葛藤は維持できないのです。

「君民共治」の日本型コミューンにおいても課題は同じです。権力装置としての家父長制は不可避的に権力化する。これは避けられない。その「毒」を希釈するためには「友愛」という政治的価値が絶対に必要です。「君民共治」の安定的なモデルというものは存立しせん。そこに「家父長の家族へ向ける無制限な友愛」という感情的な資源が絶えず備給されなければ日本型コミューンは存立できない。「親切な家父長制」という言葉に僕が託しているのはそういう意味です。

 

――E・トッドは、日本は直系家族モデルで国際関係を見ているため、戦前はアジアの「長兄」として振る舞い、戦後はアメリカの「弟」として振る舞っているのではないかと指摘しています。

 

内田 家族=国家モデルは無意識的にそれぞれの国民国家の対外政策にも影響を与えています。先ほど述べたように、戦前の日本とアジアの関係は「連帯」から「支配」へシームレスに移行してしまいました。これはシステムの問題というよりも友愛という感情資源の重要性をアジア主義者たちが十分に理解していなかったことの帰結だと僕は考えています。

 家父長システムそのものは放置しておけば、必ず家父長の権力化をもたらす。「節度のある家父長」であるよりも「ろくでもない家父長」であることの方がはるかに容易だからです。人は容易に流れる。その自然な傾斜を止めて、「まともな家父長」たらしめるためには、友愛や有責性といった家父長サイドの「義務の過剰」がどうしても必要なのです。でも、「家父長は親切な人である政治的義務がある」という命題は必ずしもきちんとアナウンスされてこなかった。西郷隆盛とか頭山満とか内田良平とか宮崎滔天とか権藤成卿とかいう個人の「独特の個性」というレベルでしか理解されてこなかった。でも、友愛と有責性という支えがなければ家父長制モデルはたちまち抑圧的な権力装置になり果てる。

 日中戦争のスローガンは「暴支膺懲」でしたが、これを当時の日本人は「聞き分けのない弟を兄が殴って善導する」という意味で理解していたと思います。たしかに明治20年代まで、日本人は主観的にはアジアに家父長的な親愛の情を持っていましたが、それが「家庭内暴力」に簡単に転化するリスクについて、ほとんど無自覚だった。友愛と有責性の義務についての突き詰めた考察の欠落が日本のアジア侵略を正当化してしまったのだと僕は思います。

 

――「八紘一宇」のスローガンも「君民共治」の理想を世界に拡大したものではないかと思います。これから日本がアジア、特に韓国と連携する場合には同じ失敗を繰り返してはなりません。

 

内田 注目すべきは韓国の家族=国家モデルも日本と同じ「直系家族」だということです。韓国映画『国際市場で会いましょう』は、朝鮮戦争で父親と生き別れる時、幼くして父から「私が死んだら、今日からお前が家長だ」と家族の運命を託された主人公が生涯をかけて家族を守ろうとする物語です。これもよく考えると『小早川家の秋』と同じく「弱い家父長」の物語なんです。年老いた主人公が自分より若い父親の写真を胸に抱きながら「アボジ、もう疲れたよ......」と語りかけるシーンには涙を禁じ得ませんが、そう感じるのはもしかすると日本人と韓国人だけなのかもしれません。欧米の観客はなぜ長兄が自分の人生を犠牲にしてまで弟妹のために尽くすのか、その動機が理解できずに「変な男だ」と思うかも知れません。

 アジアの中でも日本と韓国は同じ「直系家族」です。そうであるなら無意識レベルで家族=国家モデルを共有することができるかも知れない。そこから日韓両国が国家モデルについて「同じ夢」を見ることができるならば、日韓関係は確かなものになり得る。僕が提唱する「日韓同盟」構想は「直系家族」という文化的基盤に基づくものであります。

 ただし、課題もあります。「直系家族」は長兄が家督を相続するので、日韓関係では「どちらが兄なのか」という兄弟喧嘩に発展するリスクが潜在しています。実際、戦後の日本と韓国は「アメリカの長女」の座をめぐって競ってきたところがあります。そこをどう調整して、同等の朋友として同盟関係をむすぶか、そのためには日韓両国民に政治的成熟が必要だと思います。

 

―日本が理想や国家目標を失って漂流している今、権藤成卿が夢見た理想は示唆に富んでいます。

 

 

内田 権藤成卿の思想にはいくつもの破綻がありますが、それにもかかわらず強い喚起力を持っています。それはこれが日本固有の土着思想に根ざし、日本の思想的土壌から生まれたものだからです。土着の思想は簡単には死にません。この本を読んだ若い読者の中から次世代の思想家が生まれ、新しい日本固有の政治思想が錬成されることを僕は願っています。(『月刊日本』4月14日、聞き手・杉原悠人)

2025年

6月

05日

2025年5月のラディ、タニタ、ガーミン ☆ あさもりのりひこ No.1700

2025年5月の放射線量と体組成とランニングについて書く。

 

まず、奈良県橿原市の環境放射線量(ガンマ線)から。

2025年5月の平均値はつぎのとおり。

室内1メートル 0.0445μ㏜/h

室内0メートル 0.0468μ㏜/h

室外1メートル 0.0605μ㏜/h

室外0メートル 0.0736μ㏜/h

室外が高い。

 

 

つぎに、朝守の身体について。

2025年5月31日の数値はつぎのとおり。

体重 73.55㎏

BMI 23.

体脂肪率 17.7%

筋肉量 57.40㎏

推定骨量 3.1㎏

内臓脂肪 13.

基礎代謝量 1657/

体内年齢 50才

体水分率 57.4%

あまり変わらない。

 

最後に、2025年5月のランニングの結果。

走行時間 19時間07分25秒

走行距離 150.31㎞

累積上昇 2441m

 

 まずまずかな。

2025年

6月

04日

内田樹さんの「月刊日本インタビュー「権藤成卿論を書いて」(その2)」 ☆ あさもりのりひこ No.1699

「日本型コミューン主義」というのは、サイズの異なる「社稷=コミューン」が列島に並立し、それを天皇が象徴的にゆるやかに統合するという統治モデルのことです。

 

 

2025年5月13日の内田樹さんの論考「月刊日本インタビュー「権藤成卿論を書いて」(その2)」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

―― 「帝国の再編」において、日本はどういう立場になりますか。 

 

内田 日本の選択肢はとりあえず「アメリカの属国であることを続ける」「中国の属国になる」「独立する」という三つです。日本の支配層は第一の選択肢しか頭にありません。「日米同盟基軸」以外の国家戦略を考えたことがないのだから、仕方がない。ですから当面は「トランプ皇帝」の恣意的な命令に従って防衛費を積み上げて米国製の兵器を爆買いし、在日米軍基地のための「おもいやり予算」を増額し、憲法9条を廃止して自衛隊を米軍の「二軍」として差し出す......というふうにひたすらアメリカのご機嫌を伺って、実質的に国を切り売りするという以外に自分たちの政権を維持する道筋を思いつかないと思います。

 しかし、今の自民党なら第二の選択肢も案外あっさり受け入れるかも知れません。日本は華夷秩序の中で「高度の自治を許された東夷の属領」でした。「親魏倭王」の官命を下賜された卑弥呼から「日本国王」を名乗った足利将軍、「日本大君」を名乗った徳川将軍まで1600年間、明治維新まで日本の為政者は形式的には久しく辺境自治区の「王」でした。日本が華夷秩序から離脱してまだ150年しか経っていないのです。そもそも「日本」という国名そのものが「中国から見て東」という意味なんです。それを嬉々として国名にしている。幕末には「日本」という国名を廃するところからしか国の独立は始まらないと主張した矯激な志士もいました。論理的にはその通りなのです。でも、それに同意して「日本というような屈辱的な国名を廃せ」という志士は後に続かなかった。それほど深く華夷秩序のコスモロジーは日本人に内面化しているということです。ですから、習近平が「天皇制と民主政には手を付けない」と約束してくれたら、日本人は割とあっさりと中華人民共和国の辺境として、中国に「朝貢」して生きるという道を選ぶかも知れない。

 最も望ましくそして最も難しいのは第三の選択肢です。

 かつてサミュエル・ハンチントンは『文明の衝突』で、日本は中華文明にも西欧文明にも属さない独自の文明圏であるとみなしました。ハンチントンが本を書いた1990年代には日本にはそれくらいの潜在的な国力があると思われていたのです。でも、現在の日本はアメリカの属国であることに慣れ切って、もう単立の帝国を打ち立てるだけの気概も実力もありません。

 それでも日本がどの帝国にも帰属せず、独立を全うしようと願うなら、固有の地政学的ポジションを生かすしかありません。アメリカ帝国の「西の辺境」、中華帝国の「東の辺境」というあいまいな位置を活かして、「帝国の隙間」をニッチとして生き延びるチャンスもあります。

 この点では韓国も同じです。日韓両国は地政学的には運命を共にしています。それゆえ独立をめざすなら「日韓同盟」が ベストの選択だと僕は思います。日韓を足すと人口1億8000万人、GDP6兆ドル(世界3位)という巨大な経済圏ができ上がります。軍事力でも今は韓国が世界5位、日本が8位ですから米中二大帝国の隙間に埋没することはありません。そして、米中と等距離外交を展開して中立地帯を形作る。帝国との同盟という「連衡」策ではなく、中規模国家同士の「合従」策を採るのです。

 それに「列強の支配に抗して日韓両国が手を結ぶ」という物語に日本人なら聞き覚えがあるはずです。かつて権藤成卿、内田良平、鈴木天眼、樽井藤吉、宮崎滔天らは朝鮮の全琫準や金玉均らと共に日韓同盟を策しました。結果的に日本のアジア主義者たちは「日韓同盟」の素志を失って、列強を真似て朝鮮を「併合」するという愚策に堕してしまった。でも、初発の動機には純粋なものがあった。

 ですから、再び「日韓同盟」の可能性をめざすには、明治20年まで立ち戻り、そこからやり直す。僕が『日本型コミューン主義の擁護と顕彰』を書いたのは、権藤成卿を手がかりに「日韓同盟」構想をその原点から吟味するためです。

 

―― 帝国の再編に伴い、日本国家も解体に向かう恐れがあるのではありませんか。

 

内田 日本も経済格差が拡大し、地縁・血縁共同体が崩壊して個人が原子化し、「公共」が痩せ細り、国家的統合を失いつつあります。国民的統合を再建するためには、もう一度公共を豊かなものにすること、「コモンの再生」が不可欠です。

 権藤成卿は「聖王と良民」が中間的権力装置を排除して直接結びつく「君民共治」「社稷自治」という日本型コミューン主義のうちに日本再生の道を求めました。僕はこのアイディアは基本的には正しいと思います。もちろん、一切の中間権力装置を廃した「君民共治」という政体は過去に一度も実現したことがないし、これからも実現することはないでしょう。でも、実現不能であっても、それを理想としてめざすことはできる。というか、実現不能の理想を持つことなしに、現実を変えてゆくことはできない。

 困難な理想を掲げる人を「非現実的だ」と嗤う人がいますけれども、何の理想も持たず、ただ現実を追認するだけの人間は決して現実を変えることはできません。「後手に回る」人間は必ず敗ける。当たり前のことです。

 政治において「先手を取る」というのは、実現困難であっても誰もが同意できる理想を掲げることです。それに向かう道を愚直に歩むことです。それなら道なかばで倒れても少しも悔いることはない。

 「日本型コミューン主義」というのは、サイズの異なる「社稷=コミューン」が列島に並立し、それを天皇が象徴的にゆるやかに統合するという統治モデルのことです。太古的な起源を持つ天皇制と近代的な立憲デモクラシーを両立させることです。これは困難な課題です。過去にこんな事例が存在しないからです。だから、どこかにできあいの「正解」があって、それを適用すれば成るというものではない。世界の誰も僕たちに代わって「こうすればいいよ」と教えてくれたりはしない。日本人が自分で考えるしかない。

 でも、「氷炭相容れざる」二つの統治原理を両立させるために葛藤することで政治単位として生きるというのは別に珍しいことではありません。アメリカがそうです。「自由」と「平等」は原理的に両立しない。でも、それを何とか折り合わせようとする努力を通じてアメリカはその国力を増大させてきました。今アメリカが没落しているのは「自由と平等は両立しない(だからどちらかを諦めよう)」という単純な統治原理に人々がすがり始めたせいです。

 人は葛藤を通じて成熟する。それは集団も同じです。葛藤するのは嫌だ、単一原理で統治したいと思ったら国は衰退する。ハミルトンやマディソンの『ザ・フェデラリスト・ペーパーズ』とピーター・ティールの『ゼロ・トゥ・ワン』を読み比べると、「自由と平等の葛藤」をまっすぐに受け止めた建国の父たちの政治的見識の深さと、現在アメリカを支配している単純な超自由主義(勝った者が総取りし、負けた者は路傍で野垂れ死にすることで社会は加速的に変化してゆく)の幼児性の対比に驚嘆するはずです。

 僕たちが権藤の社稷の思想を前に進めるためには、「コミューンを統合する機能は果たすけれども、決して中間権力化しない統治機構」を構想しなければなりません。この時に僕はハミルトンたちフェデラリストの政治思想は参照すべき足場になると思います。

 独立宣言の後、合衆国憲法が制定されるまで11年の歳月を要したのは、独立13州の州政府にもともと有していた政治的実力を委ねるか、それとも連邦政府に常備軍を含む巨大な権限を委託するか、それについて国民的合意が得られなかったからです。フェデラリスト(連邦派)は連邦政府に大きな権限を託すことを求めましたが、多くの国民は自分たちの身近にある州が政治的実力を維持し、連邦はあくまでその形式的な連合にとどまることを望みました。

 ハミルトンはその時に連邦派を代表して、仮にヴァージニア州に英軍が侵攻した時に、コネティカット州が「よその国(state)を守るためにわれわれが金を出し、血を流す義理はない」と言い出したらどうやって合衆国の独立は守れるのかと問いました。これは空想的な仮定ではなく、日本の幕末には実際に起きたことです。長州を四カ国の軍が攻めた時も、英国が薩摩を攻めた時も、他の藩は「対岸の火事」だと傍観した。いくつもの政治単位を統合する政府(連邦政府/明治政府)がなければ国は保てないのです。

 日本型コミューン主義でも、列島に広がるいくつものコミューンを統合する統治機構が必要です。いわば「インター・コミューン・ガバメント」(共同体をとりまとめる政府)です。「君」と「民」の間に、「決して権力化することのない官」という逆説的な政治機能を立ち上げなければならない。「君民共治」を実現するためにはそのような「官」がどうしても必要なのです。では、それはどのようなものであるべきか。

 これについてもハミルトンは深い洞察を語っています。州政府は同質性の高い州民たちによって構成されています。気質も宗教も生活文化も近い人たちが集まっている。州は共感と同質性に基づく血の通った共同体なのです。一方、連邦政府は観念的な工作物です。独立戦争という急場をしのぐために暫定的に作った仕組みです。ですから、もし、連邦政府と州政府の間で意見の対立があった場合に、ほとんどの州民は「ことの理非にかかわらず」、州政府の側に立って、銃を執って連邦政府と戦うはずです。

 だからこそ州に軍事力を与えてはいけないとハミルトンは説きます。「権力は人々が心を許せる者の掌中にあるより人々が猜疑の眼を以て見守る者の掌中にある方が無難だからである」(第二十五編)。

 これは政治的に成熟した人にしか語れない知見だと思います。コミューンの上位にあって、それを統合する権限を委ねられた政府を人々はつねに「猜疑の眼を以て見守る」必要がある。つまり、統治機構は「共感と同質性」ではなく、「社会契約」という「観念的なつくりもの」の上に置かれなければならないということです。

 この理路はそのまま「君民共治」における「官」にも当てはめることができると思います。人民にとってコミューンは「心を許せるもの」です。でも、インター・コミューン・ガバメントは「猜疑の眼を以て見守る」べきシステムです。あるいは、コミューン=社稷は自然発生的な有機的共同体だが、インター・コミューン・ガバメントは社会契約に基づく擬制であると言い換えてもよい。

 

 権藤成卿は「私はただ綺麗なものがほしいのです」という言葉を残しています。彼にとって「君」と「民」は「綺麗なもの」でしたが、「官」は「汚いもの」でした。しかし、僕たちが「君民共治」の理想を目指すならば、中間権力機構という「汚いもの」について、その「汚さ」を最少化する有効な手立てを思量し続けなければなりません。この作業に終わりはないと僕は思います。

2025年

6月

03日

6月の紫陽花(アジサイ)

本日、6月3日は事務局が担当です。

今日は、あいにくの雨模様で、終日やまない予報です。

多くの方は、この様な天気の日は、うっとうしく、好む方は少ないと思います。

私も、傘をさすことが嫌いで、多少の雨で、傘をさす距離が短ければ、ささずに小走りで、行ってしまいます。

そんな、私がこの時期の、この様な天気の日に楽しみにしていることの一つが、紫陽花(アジサイ)を観ることです。

今、私の周りの紫陽花は、殆どが開花し、これからが見頃です。

 

それに紫陽花は、なんと言っても雨に濡れている様子が輝いて美しいと思います。

我が家のマンション敷地の紫陽花
我が家のマンション敷地の紫陽花
なら法律事務所の在るセレーノビルの紫陽花
なら法律事務所の在るセレーノビルの紫陽花

そして、紫陽花の楽しみ方の一つは、花の色が、これから変化していくことです。

別名「七変化(しちへんげ)」とも言われ、古くから俳句や和菓子などでよく使われているようです。

この花の色は、土壌の酸性度によって変化するそうです。

我が家でも、頂いた紫陽花がまもなく開花します。

年に1度か度剪定するくらいで、殆ど手間無く毎年花がさきます。

また紫陽花の花は、「お花が集まっている」ことに着目して、花言葉として、日本では「家族団欒」「団結」「平和」「友情」など前向きな言葉が多いようです。

皆さんも雨の日など、憂鬱な時は、紫陽花を観て、変化を楽しみ、元気をもらって、前向きな気持ちを得てください。

2025年

6月

03日

内田樹さんの「月刊日本インタビュー「権藤成卿論を書いて」(その1)」 ☆ あさもりのりひこ No.1698

権藤成卿の政治思想はたしかに理説としての精度は高くはありませんし、現実の政策に展開するにはあまりも観念的です。でも、間違いなく日本の土から生まれた思想です。国難的危機に際会したときに、巨大な政治的エネルギーを呼び覚ますことができるのは権藤のような土着の思想だと僕は思います。

 

 

2025年5月13日の内田樹さんの論考「月刊日本インタビュー「権藤成卿論を書いて」(その1)」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

―― 内田さんは新著『日本型コミューン主義の擁護と顕彰 権藤成卿の人と思想』(弊社刊)で、戦前のアジア主義・農本主義の代表的思想家である権藤成卿の思想を再評価しています。

 

内田 権藤成卿は「聖王と良民」が中間的権力装置を排除して直接結びつく「君民共治」「社稷自治」を理想とする政治思想を唱えました。政治思想としての完成度は決して高くありませんが、これが日本人が外来の思想に頼ることなく自力で生み出したオリジナルな政治思想であることは間違いありません。

 どのような国民集団も自分たちの存在理由、存在根拠についての固有の「物語」を持っています。現実の政策がその物語に合致していれば、それは強い現実変成力を持ち、物語に合わない政策は、表面的には合理的なものに見えても、現実を変えるだけの力を持たない。

 現在、日本はシリアスな、国難的危機に直面しています。これに対処するためには、区々たる政治的立場の違いや階級の違いを超えて、国民的規模でひとつにまとまる政治思想が必要です。そして、それは日本固有の、土着のものでなければならない。どこかから「出来合いの正解」を持ち込んできても使い物になりません。僕はそう思っています。

権藤成卿の政治思想はたしかに理説としての精度は高くはありませんし、現実の政策に展開するにはあまりも観念的です。でも、間違いなく日本の土から生まれた思想です。国難的危機に際会したときに、巨大な政治的エネルギーを呼び覚ますことができるのは権藤のような土着の思想だと僕は思います。

 

―― 内田さんは現在の危機をどう見ていますか。

 

内田 世界は間違いなくカオス化しています。でも、まったくランダムに秩序が崩れているわけではない。一つの方向性はあります。

 明かなのはアメリカが超覇権国家としてのグローバル・リーダーシップを失うということです。トランプ政権は「アメリカファースト」を掲げて国連を中心とする戦後の国際秩序から撤退しようとしています。

 アメリカの戦後80年のリーダーシップはかなり欺瞞的なものでしたけれども、「民主主義の宣布、人権の擁護、科学技術の進歩」という「建て前」だけはなんとか手離さずに来た。本音は「アメリカさえよければ、それでいい」であっても、建て前では「世界、人類のためにアメリカは汗をかいています」という「痩せ我慢」をしてきた。しかし、トランプはその「偽善」を笑い飛ばしました。世界中の国が自国益の最大化をめざして好きに行動している時に、どうしてアメリカだけが「世界のために」金を出し、血を流さなくてはいけないのか。どうしてアメリカは「ならずもの国家」になってはいけないのか。きれいごとの建前を放棄すれば、アメリカは間違いなく「世界最強のならずもの国家」になれる。グローバル・リーダーよりもその方がオレはいい。トランプが言っているのは要するにそういうことです。その粗暴な本音をアメリカの有権者の過半が支持した。

 ホッブズやロックやルソーの近代市民社会論が説いたのは、「万人の万人に対する戦い」の世界では、どれほど強い個体も安定的に自己利益を確保することができない。だから、ほんとうに人間が利己的にふるまうなら、あえて私権の一部を譲渡し、私財の一部を供託することで「公共」を立ち上げるはずである、という理路でした。国連やさまざまの国際機関はこのアイディアを国際社会に適用したものです。「万国の万国に対する戦い」を停止するには、「公共」を立ち上げねばならない。そう考えて国連や国連軍は創設された。でも、ご承知のように、このアイディアは市民社会のようには現実化しませんでした。

 第一次世界大戦後の国際連盟、第二次世界大戦後の国際連合、二つの国際協調主義が試されたましたけれど、いずれも機能不全に陥った。近代市民社会モデルを国際政治に適用することはどうも難しいようだということを人類は学んだ。そこで、20世紀以前の「帝国による世界秩序」に回帰することにした。「歴史の引き出し」をどれだけかき回してみても、国際社会がそれなりに秩序を保っていたスキームとしては、それしか見つからないからです。

 帝国が瓦解して、国民国家に分割されたのは、19世紀の間に起きたことですが、帝国解体の最大の理由は「帝国モデルでは国民国家に戦争では勝てない」ということをナポレオン戦争が証明したからです。帝国モデルでは「総力戦」が戦えない。政府と軍隊だけでなく、財界も学界もジャーナリズムも銃後の市民も全員を戦争に動員できるモデルは国民国家しかなかった。だから、ヨーロッパの人々は争って帝国を解体して、国民国家に仕立て直した。

 日本で明治維新が起きたのも、それぞれの藩の利益を最優先に考える276の政治単位が並立するという「帝国モデル」の幕藩体制のままでは、戦争に負けて、列強の植民地になるというリアルな危機感に迫られたからです。それは単立の藩である長州が英仏米蘭の四カ国軍と戦争して負け、薩摩が英国と戦争して負けたことで証明されました。

 確かに国民国家になった日本は戦争には強かった。列強による植民地化に抗うことはできた。けれども、国民国家モデルでは、国同士の戦いが起きた時にそれを調停し、仲裁し、理非を決する「上位審級」を創り出すことはできません。そのことが国連の機能不全でよくわかった。そこで人々は(無意識のうちに)国民国家モデルがうまくゆかないなら、国民国家以前のスキームに戻ればいい・・・・というふうに考え始めている。というの僕の推理です。

 これから世界は旧中華帝国、旧ロシア帝国、旧神聖ローマ帝国(EU)、旧ムガール帝国(インド)、旧オスマン帝国(中近東)、新アメリカ帝国という6つの帝国圏に再編されてゆくと僕は考えています。アメリカ帝国が没落途上である今、単独で世界を支配できるだけの力を持つ帝国は存在しません。ですから、帝国は互いの国内秩序には干渉せず、それぞれの勢力圏を決めて「棲み分け」をする。それで暫定的には「今よりまし」な世界秩序がもたらされる。たぶんそういう見通しを多くの人が持つようになっているのだと思います。

 

 帝国の勢力圏が確定するまでの過渡期には小規模の戦争や紛争は続くでしょう。ウクライナ戦争はEU帝国とロシア帝国の勢力圏確定をめぐる衝突ですし、台湾有事が起きるとしたら、それはアメリカ帝国と中華帝国の勢力圏確定をめぐる衝突として起きる。

2025年

5月

30日

内田樹さんの「インセル男性と嫉妬」 ☆ あさもりのりひこ No.1697

「インセル」というのはInvoluntary Celibate 。「不本意独身者」。心ならずもパートナーを得られない人のことである。

 

 

2025年5月2日の内田樹さんの論考「インセル男性と嫉妬」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

英国政府はこれから過激なミソジニー(女性嫌悪)をイスラム原理主義や極右運動と同じ「過激主義」の一形態とみなすと発表した。その記事の中に「インセル犯罪」という文字列があった。「インセル」というのはInvoluntary Celibate 。「不本意独身者」。心ならずもパートナーを得られない人のことである。

 過激なミソジニーの担い手はこのインセル男性である。米国では女性を無差別に攻撃し、殺害する事件が繰り返し起きている。彼らはフェミニズムが自分たちから進学や就業の機会を奪ったという「物語」によっておのれの不運を説明し、罰を与えるために女性を殺し、自分も死ぬ。救いがない。

 こういう話を聞くと、「男は弱い」とつくづく思う。私には娘が一人いる。未婚である。どうして結婚しないのかと前に訊いたら「男のエゴを撫でて過ごすほど私の人生は長くないから」という答えだった。「なるほど」と言う他なかった。

 たぶん男たちは誰かからの敬意と承認を絶えず受け続けていないと「もたない」存在なのだろう。だから、男たちは権力や財貨や威信を追い求め、敬意を強要し、人に屈辱感を与える機会を逃さない。

 時々見知らぬ人から激烈な罵倒メールが送られてくる。たぶん彼らは「自分がいるべき地位を内田が不当に占めている。そこから出て行け(俺に返せ)」と言いたいのだろう。

 この世界の罪の多くは十分な敬意と承認を得ることができなかった男たちの嫉妬心が生み出している。たぶんそうだと思う。だが、嫉妬ほど不毛な感情はない。そこからは「よきもの」が何一つ生まれない。しかし、相対的な優位を目指す競争を通じて初めて男たちはその潜在能力を発揮するという有害な物語は今も宣布され続けている。インセル犯罪は、勝者がすべてを取り、敗者には何も与えないのが「社会的フェアネス」だと教えてきたことの論理的帰結である。もうそういう考えを捨てる時期だと思う。

 

(信濃毎日新聞 4月4日)

2025年

5月

29日

奈良マラソン2025への道 その8 ☆ あさもりのりひこ No.1696

5月23日(金)早朝、全力・ジョギング・全力、39分47秒、6.18㎞、平均ペース6分26秒/㎞、総上昇量76m、消費カロリー427㎉。

1 7分14秒(580m

2 5分45秒

3 5分52秒

4 7分56秒

5 7分39秒(550m

6 5分24秒

7 6分06秒

8 6分26秒(60m

 

5月24日(土)、休足。

 

5月25日(日)午前、ジョギング、1時間36分14秒、12.52㎞、平均ペース7分41秒/㎞、総上昇量199m、消費カロリー864㎉。

1 7分13秒

2 7分17秒

3 9分18秒

4 7分49秒

5 6分58秒

6 6分35秒

7 7分22秒

8 7分04秒

9 7分39秒

10 10分55秒

11 8分21秒

12 6分36秒

13 5分58秒(520m

 

5月26日(月)早朝、ビルドアップ走、37分50秒、6.19㎞、平均ペース6分07秒/㎞、総上昇量92m、消費カロリー428㎉。

1 6分42秒

2 6分22秒

3 5分52秒

4 6分06秒

5 5分53秒

6 5分51秒

7 5分40秒(190m

後半が、上がらなかった。

 

5月27日(火)早朝、インターバル走、38分29秒、6.2㎞、平均ペース6分13秒/㎞、総上昇量96m、消費カロリー431㎉。

6分45秒(210m

1 5分39秒、9分35秒(180m

2 5分42秒、8分14秒(240m

3 5分58秒、7分39秒(450m

4 5分44秒、8分15秒(90m

5 5分59秒、5分25秒(20m

 

5月28日(水)早朝、室内トレーニング。

夜、トレッドミル、30分、4.15㎞、傾斜3.0%、時速8.4㎞(7分00秒/㎞)、消費カロリー396㎉、手首に重り1㎏×2。

 

 

5月29日(木)早朝、安藤大さんのアントレ、足首に重り約0.5㎏×2。

2025年

5月

28日

内田樹さんの「身体の外部化」 ☆ あさもりのりひこ No.1695

人間は自分の身体をモデルにして機械や制度を作る。

人間のややこしいところは、こうやって創り出した機械や制度に呪縛されて、機械や制度に合わせて身体を使うようになることである。

 

 

2025年5月2日の内田樹さんの論考「身体の外部化」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

人間は自分の身体をモデルにして機械や制度を作る。たぶんそうだと思う。建物は上階に偉い人がいて命令を出す。階が下がるほど身分が下がり、地下には駐車場やボイラー室がある。どんな独創的な建築家もこの逆の構造体(地下に社長室があって、最上階に倉庫がある建物)を提案したことはないと思う(しても施主が一瞬で却下する)。それは、これが脳とそれ以外の部位の関係を外部化したものだからだ。社会制度も同じである。上に「頭」がいて、下に「手足」や「股肱」が配される。

 人間のややこしいところは、こうやって創り出した機械や制度に呪縛されて、機械や制度に合わせて身体を使うようになることである。これは稽古を見ているとわかる。社会的地位の高い中高年男性には「脳が運動を中枢的に支配する」システムに居着く人が多い。「現場に権限移譲する」ことに強い心理的抵抗が働くのだろう。

脳支配が過剰だと手の操作にリソースが優先的に分配される。手が気になるので、手が視野の中にないと落ち着かない。実際には手の可動域は視野の外にまで広がるのだが、手を視野内に収めたいので、動きが小さくなる。「ほう・れん・そう」とかうるさく部下に指示して、自分の目の届かないところで「手足」が勝手に動くことを許さない中間管理職みたいなものである。

 社会制度を身体に取り込み、身体を機械のように操作する人たちの思い込みを解除して、そもそも制度や機械は身体内部で起きていることを外形化したものに過ぎない、身体にはもっと豊かな可能性があると理解させることも稽古の大切な目標である。

 でも、「自分で作り出したものに呪縛されることをマルクスは『疎外』と呼びました。脳の支配から身体を解放しなければなりません」と説明しているうちに、このような言葉づかいそのものが「階級闘争」という外部の事象を身体に取り込んで説明しようとしているのだということに気がついて愕然とするのである。

 

(月刊武道 3月20日)

2025年

5月

27日

信貴山 朝護孫子寺

みなさん、こんにちわ。本日は事務局担当日です。

 

最近週末になるとお天気がぐずつくことが多いですね。

 

先々週のお天気によかった週末に、夫と信貴山の朝護孫子寺に行って参りました🐯

トシオンナの私、今年は神様パワーを頂くために巳にまつわるお参りに関心が惹かれております。

 

朝護孫子寺は、世界一大きな振り子の寅があることで有名ですが、

今から約1400年前、

物部守屋との戦いに苦戦した聖徳太子が信貴山に勝利のお祈りしたところ、

寅の年、寅の日、寅の刻」聖徳太子の前に毘沙門天が現れ、そのご加護で聖徳太子が勝利。 

聖徳太子によって「信ずべき、尊ぶべき、山」=「信貴山」と名付けられ、お寺(朝護孫子寺)を建立し、寅にゆかりのお寺になったそうです。

 

その朝護孫子寺の成福院(融通さん)。その横手にある三福神堂で12年に一度(巳年・巳の月)の財宝運と技芸運を司る信貴弁財天様が御開帳される、ということを偶然知り、これもご縁、とお参りしてきました🙂

私は、朝9時前に着いたので、まだどなたもいらっしゃいませんでしたが、

お昼頃にはたくさんの方がお参りに並ばれていました😲

↓ 左から3枚目の左下に移っているのが三福神堂です。弁財天様は撮影禁止です

 

さらに、信貴山頂のお堂「 空鉢護法堂」には

毘沙門天の眷属である八大龍王の上首・難陀竜王(なんだりゅうおう)を祀られ、(信仰篤き者には)一願成就のご利益を得られる、とのことです。

巳の石像がお祀りされているとのこと、これは是非お参りせねば!!

境内の案内には「600メートル」とあるので、まぁ、大丈夫でしょう!と登り始めましたが・・・・

 

九十九折りの山道。ゆるやかといえど、これがなかなかしんどい!あと○○メートル、とも書かれていないので、

いつまで続くのか・・・・

道すがらおびただしい数の朱塗りの千本鳥居をくぐり、ひぃひぃしながら森の澄んだ空気の中を登ること20分・・・

難陀竜王のお堂(空鉢護法堂)とそれを取り囲むようにたくさんの龍神様の祠が!

そして、山頂からは、二上山、大和葛城山、金剛山や大阪平野が一望でき、

絶景が広がっていました😄

頑張って登ってよかった~!!

 

お参りが無事終わったあとは・・・・お約束のおいしいもの巡りです😏

曽我乃家本店で寅まんじゅうをほおばりながら、

最近できた「むかでのたまご」というなんとも面白いネーミングの

ドーナツを頂き、最後は「アベノ日本一」でラーメンを頂き、

心もおなかもいっぱいになりました♪

2025年

5月

26日

内田樹さんの「『テクノ封建制』と中世への退行」 ☆ あさもりのりひこ No.1694

この流れに掉さす人たちが選好するメタファーが「レッド・ピル」である。『マトリックス』でモーフィアスがネオに選択を迫る錠剤のことだ。青い錠剤を飲めばマトリックスが紡ぐ夢の中に戻れる。赤い錠剤を飲めば冷厳な現実に目覚める。

 

 

2025年5月2日の内田樹さんの論考「『テクノ封建制』と中世への退行」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 ヤニス・バルファキスの『テクノ封建制』(集英社)の書評を頼まれた。書評と言ってもオンラインで行われた編集者、ライターとの対談を文字起こしするだけである。でも、とても興味深い本だったので、1時間ほど話した。

 バルファキスは2015年のギリシャ経済危機の時に財務大臣に招かれて経済の立て直しに尽力した経済学者である。現場を熟知している人ならではの分析には説得力があった。

 バルファキスによれば、ネット上のプラットフォームを独占的に所有している企業(アップル、グーグル、アマゾンなどなど)が今や「資本主義から抜け出してまったく新しい支配階級」を形成している。彼らはもう質が高く安価な製品を市場に提供して、競合他社を制してシェアを増やすという在来のビジネスモデルを採用しない。そうではなくて、誰も競争相手のいない「ブルーオーシャン」に乗り出して、一気に市場を独占するのである。そして、その「封土」にやってくるユーザーたちから「地代」を徴収する。

 バルファキスはこの経済システムを「テクノ封建制」と呼ぶ。「資本主義が変異して最終的に行き着いた姿」である。これまでは資本家がプロレタリアートの労働力から剰余価値を収奪していたが今は違う。支配者は「クラウド領主」というものになった。彼らの封土は地上ではなく、雲の上にある。中世の封建制のときのように領主たちはユーザーすなわち「クラウド農奴」たちから「地代(レント)」を徴収する。

 このモデルの創始者はスティーブ・ジョズ。彼はiPhoneによって世界最初の「クラウド領主」というものになった。アップルの資源を社外のエンジニアに無料で利用させて彼らが作ったアプリを「ストア」で販売したのである。グーグルはアップルを追って同じやり方で「封土」を二分することになったが、他のメーカー(ノキアやソニー)は「自社ストア」を持つというアイディアを思いつかず、「クラウド領主」たちが何億というユーザーすなわち「クラウド農奴」から「デジタル地代」を徴収しているのを横目で見ながら製品を作り続ける「クラウド封臣」という身分に甘んじることになった。以来、全世界のネットユーザーたちは携帯を見るたびに「クラウド領主」たちに「クラウド・レント」を払い続けているのである。

 利潤に代わって地代が経済活動を駆動する経済システムはもう資本主義ではない。「テクノ封建制」と呼ぶのが適切だろうとバルファキスは書く。そうかも知れない。

 このあとクラウド領主たちはますます富裕になり、クラウド封臣たちはモノづくりにいそしみ、クラウド農奴たちはひたすら収奪されるという気鬱な未来をバルファキスは予測している。

 確かに、ドナルド・トランプやイーロン・マスクの「王様気取り」を見ていると世界は近代から中世に退行しているような気がしてきた。

 この流れに掉さす人たちが選好するメタファーが「レッド・ピル」である。『マトリックス』でモーフィアスがネオに選択を迫る錠剤のことだ。青い錠剤を飲めばマトリックスが紡ぐ夢の中に戻れる。赤い錠剤を飲めば冷厳な現実に目覚める。ピル一個で適切な現実認識が得られるという比喩には「人間は経験を通じて成熟する」という発想が欠如している。錠剤の選択一つで一瞬のうちに世界の実相が開示されるというのは、キリスト教における「回心」に近い。

 東アジアにおいては、伝統的に自己陶冶というのは「修行を通じて連続的に自己刷新を遂げること」であり、「錠剤一つで別人になれる」という発想とは無縁である。

 そういえば新反動主義の「聖典」とされるピーター・ティールの『Zero to One』もタイトルから知れるように「0か1か」の二者択一であり、「その間」は存在することを許されない。

 青か赤か、0か1かを突き付けて、その「踏み絵」で人間を二種類に類別して、片方を「捨てる」という発想のうちに私は「クラウド封建制」を囃し立てる人たちの知的・倫理的退廃の徴を見るのだが、これは杞憂だろうか。

 

(山形新聞319日)

2025年

5月

23日

内田樹さんの「世界が帝国に分割される日」 ☆ あさもりのりひこ No.1693

もう一つの道は日韓同盟である。米軍が撤収した日本と韓国が同盟するのである。

 

 

2025年5月1日の内田樹さんの論考「世界が帝国に分割される日」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 政治学者の白井聡さんと久しぶりに対談した。彼も私も「大風呂敷を拡げる」のが好きでたまらないタイプなので、幕末の遊説家もかくやとばかり治国平天下を論じることになった。談論風発、まことに痛快だった。

 白井さんのような言論人は少ない。政治学者たちはすでに起きたことを解説する時には雄弁だが、未来予測については抑制的である。まして集団的な幻想や物語の現実変成力についてはほとんど言及しない。だが、人間の脳内ではしばしば幻想が現実より現実的である。私は骨の髄まで実用本位の人間なので、つねに「現実的なもの」に焦点を合わせる。幻想が現実的なら幻想をじっくり吟味する。

 今の米大統領がめざしているのは米国の「国益」を最大化することではなく、(彼がそれを「国威」だと信じている)「他国に屈辱感を与える権利」の最大化であると私は考えている。

 米国人が今国民的規模で罹患している政治的幻想があるなら、それはミサイルや艦船の数やGDPの数値やAIテクノロジーの進歩と同じくらいに「現実的なもの」として扱わなければならないと私は思う。

 白井さんとは、これから世界はいくつかの「帝国」に分割されるという未来予測で意見が一致した。近代の発明である「国民国家」を政治単位とする統治モデルでは国際社会の安定が保持できなくなったので、人々は「あの懐かしい帝国モデル」に回帰しようとしている。

 サミュエル・ハンティントンは『文明の衝突』で、世界は9の文明圏に分割可能だという仮説を提示した。文明圏はそのまま中華帝国、ロシア帝国、ムガール帝国(インド)、オスマン帝国(トルコ)、神聖ローマ帝国(EU)と新興のアメリカ帝国に分割されるだろう。アフリカ、中南米、日本がそれぞれ単立の文明圏=帝国を形成するというハンティントンの1996年時点での予測はたぶん外れる。少なくとも日本にはそれだけの国力がもうない。

 世界がいくつかの帝国に分割される流れの中で日本の生き延びる道はどこにあるのか。白井さんとはそれについても話したのだけれど、紙数が尽きたので、続きは次回。

 

 これまでの国際政治は地球を「一つの村」に見立てていた。193の国連加盟国が「村人」、国連が「村議会」、国連軍が「村の警察」というモデルである。近代市民社会を世界規模に拡大したのである。人間の想像力には限界がある。自分が知っている身近な政治のサイズを拡大することでしか国際政治を構想できなかったのである。

 1945年時点では「次の戦争」は核戦争になり、その時人類は破滅するという未来予測はリアルなものだった。国民国家同士がそれぞれの国益の最大化のために戦えばそれは「万国の万国に対する戦い」になる。力のある国は力のない国を支配し収奪し滅ぼすこともできる。「力の支配」をめざす国が核兵器を用いれば人類は滅亡する。その恐怖を今の若い人はもう想像することができないだろう。

 私たちの子どもの頃、1950年代から60年代初めにかけて「世界終末時計」はずっと11時58分(世界の終わりまで残り2分)を指していた。原水爆実験を米ソ英仏が繰り返し、子どもたちは「放射能の雨」にさらされて学校に通っていた(雨に当たると毛が抜けるという都市伝説を子どもたちは半ば信じていた)。「世界はもうすぐ終わる」ことは言挙げされないまでも自明のことと思われた。

 その時「法の支配」に基づいて世界に秩序をもたらす道筋としては「村議会」が「村人」同士のいさかいについて理非を明らかにし、非のある「村人」を「村の警察」が黙らせるというモデル以外のものを人々は思いつかなかった。日本国憲法九条二項はそのような「村」の一村人が「私は貧しいけれども道義的な生き方をめざす」と宣言したものだった。残念ながら国際政治は予想通りには推移しなかった。世界は80年後に再び「力の支配」を原理とする前近代に退行し始めたからである。

 日本はこれからどうしたらよいのか。どこかの帝国の属国として宗主国に頤使され収奪される身分に甘んじるのか、それとも単立の「国民国家」として生き延びる道を探すのか。

 今回もまた紙数が尽きたので、続きは次回。

 

 世界が帝国に分割された時、日本はどう生きるかという話をしていた。今回はその結び。

 選択肢はいくつかある。一つは米中いずれかの帝国の辺境の属国として宗主国に「朝貢」して生き延びる道である。

 日本は戦後80年米国の属国として生きてきたから属国民マインドは日本の政治家たち外交官たちに深く内面化している。だから、米帝国の西の辺境として生きるのを止めて、中華帝国の東の辺境となる道を選ぶことに日本人はそれほどシリアスな心理的抵抗を感じないだろうと私は思う。「親魏倭王」に任ぜられた卑弥呼から「日本国王」足利将軍、「日本国大君」徳川将軍に至るまで、日本の支配者たちは中華皇帝から形式的には官位を冊封されていたのである。だから、もし「中華皇帝」が属国日本に天皇制と民主主義政体の継続を許可すれば(しないと思うが)、日本人の多くは「宗主国」を米国から中国に替えることにそれほどの心理的抵抗を覚えないと私は思う。日本の支配層は「強者に従属することが自己利益を最大化する」と心の底から信じているから、これまで親米派だった人たちは今度は争って中国共産党に入党するだろう(これは自信をもって断言できる)。

 もう一つの道は日韓同盟である。米軍が撤収した日本と韓国が同盟するのである。人口1億8千万、GDP6兆ドル、ドイツを抜いて世界第三位の経済圏になる。軍事力は日韓を合わせるとインドを抜いて世界4位。

 この日韓同盟は米中二帝国と等距離外交を展開する。米軍がグアムまで引き、中国が海洋進出に抑制的になれば、西太平洋に日韓を結ぶ広大な中立地帯ができる。東アジアの地政学的安定を国際社会は歓迎するだろう。

 第三の道は九条二項を高く掲げて「東洋のスイス」のような永世中立国になることである。日本は間違いなく医療と教育と観光・エンターテインメントでは世界のトップレベルにある。そうやって全世界に「できるなら日本で暮らしたい」という人々を創り出すのである。それが日本の安全保障のための「アセット」になってくれる。スイスの銀行に個人口座を持っている人たちが(テロリストを含めて)「スイス侵攻」に反対するのと理屈は同じである。

 日本人は果たしてどの道を選ぶことになるのだろう。

AERA 318日~4月16日)

 

 

2025年

5月

22日

奈良マラソン2025への道 その7 ☆ あさもりのりひこ

5月16日(金)早朝、坂道ダッシュ400m×3本、49分15秒、6.87㎞、平均ペース7分10秒/㎞、総上昇量131m、消費カロリー489㎉。

6分52秒、6分54秒、7分20秒(570m)

2分34秒9(6分27秒/㎞)

2分33秒4(6分23秒/㎞)

2分34秒5(6分29秒/㎞)

7分59秒、6分25秒、6分14秒(150m)

 

5月17日(土)早朝、雨で西園美彌さんの魔女トレ。

 

5月18日(日)午前、ジョギング、2時間23分43秒、16.9㎞、平均ペース8分30秒/㎞、総上昇量234m、消費カロリー1156㎉。

1 7分08秒

2 7分44秒

3 8分25秒

4 7分08秒

5 6分39秒

6 6分38秒

7 6分53秒

8 7分47秒

9 8分44秒

10 7分27秒

11 7分23秒

12 8分11秒

13 10分13秒

14 10分53秒

15 11分28秒

16 10分49秒

17 11分18秒(900m

 

5月19日(月)早朝、階段1045段、51分27秒、6.19㎞、平均ペース8分19秒/㎞、総上昇量87m、消費カロリー484㎉。

7分56秒、8分52秒、8分05秒

8分29秒、9分04秒、7分52秒

 6分02秒(190m

 

5月20日(火)早朝、室内トレーニング。

夜、トレッドミル、30分、4.15㎞、傾斜3.0%、時速8.4㎞(7分00秒/㎞)、消費カロリー396㎉、手首に重り1㎏×2。

 

5月21日(水)早朝、安藤大さんのアントレ、足首に重り約0.5×2。

 

5月22日(木)、休足。

 

 

2025年

5月

21日

内田樹さんの「米国の没落」 ☆ あさもりのりひこ No.1691

米国の「州」を「都道府県」のような行政単位だと思っている人がいるけれども、それは違う。「州」はある種の「主権国家」なのである。

 

 

2025年4月29日の内田樹さんの論考「米国の没落」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

米国はこれからどうなるのか、あちこちで訊かれる。私は国際政治の専門家ではないので間違うことを気にしないで、思いついたことをそのまま口にする。私の予測は「米国は不可逆的な没落のプロセスに入った」というものである。

 20世紀に入ってから久しく米国が掲げて来た「道義的な民主主義国家」という建前をトランプは棄てた。理由は「道義的な民主主義国家であることのコスト」が過重になったからである。グローバル・リーダーシップを執るためにはある程度「きれいごと」を言い続け、そのためには「持ち出し」を覚悟しなければならないのだが、経済力も軍事力も衰えた米国にもうそんな「痩せ我慢」をする余力はない。「米国さえよければ、それでいい。世界がどうなろうと知ったことか」というのがトランプの政治姿勢であり、それを米国市民の過半が支持した。この事実は重い。このあとトランプに投票したことを悔いる人や、もう一度政治的正しさや多様性や公平性や寛容を説く人たちからの反撃があるはずだけれど、米国は道義的な国であるべきだと考える人たちと米国が「世界最強のならず者国家」であって何が悪いと思う人たちの間の和解はたぶん成立しない。そして、「ルールを守る人間」と「ルールを守らない人間」が戦った場合には短期的には必ず後者が勝つ。

 第一期トランプの時、カリフォルニア州での世論調査では「合衆国からの独立」を支持すると回答した人が32%にのぼった。今調査をしたらおそらく50%に近づいているだろう。テキサスでも「テキサスはテキサス人によって統治されるべきだ」とするテキサス・ナショナリスト運動が一定の影響力を行使している。

 カリフォルニアは人口4千万人、GDPは日本を超えて世界五位の「大国」である。テキサスは人口3千万人、GDP世界8位。カリフォルニア州は1846年建国のカリフォルニア共和国、テキサス州は1836年建国のテキサス共和国がのちに合衆国に加盟した政治単位である。厳密に言えば、いずれももとは「別の国」である。

 合衆国憲法には加盟についての規定はあるが(第4条第3節)、脱盟についての規定はない。「合衆国からの脱盟は可能か」をめぐっては南北戦争後の1869年に「テキサス対ホワイト」裁判というものがあり、連邦最高裁はいかなる州も合衆国から脱盟できないという判決を下した。合衆国は「共通の起源」から生まれた一種の有機体であり、「相互の共感と共通の原理」で分かちがたく結びつけられているから州の連邦からの脱盟は「革命によるか他州の同意よる」しかないと判決文には書かれていた。

 このあとトランプの圧政が続けば「道義的で民主的な米国」を護ろうとする人たちが政治的なカードとして「州の独立」を言い出す可能性は十分にある。映画『シビル・ウォー』が描いたような連邦軍と州軍の間で内戦が起きるとは思わないが、民主党が強い州が集まって「反トランプ州連合」を結成して、連邦内にとどまりつつも、トランプの暴走を抑止しようとすることはあっても不思議ではない。

 

 米国の「州」を「都道府県」のような行政単位だと思っている人がいるけれども、それは違う。「州」はある種の「主権国家」なのである。(中日新聞、4月27日)